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メキシコ壁画運動の影響について 加 藤

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日本現代美術 にお ける

メキシコ壁画運動の影響について

加 藤 莱

概要

1920年代 に勃興 したメキシコ壁画運動や メキ シコ美術ルネ ッサ ンス美術作 家の動向につ いての情報が 日本 の美術界 に リアル タイムで伝 え られた形跡はない。

当時 の 日本美術界は西欧 中心 に発信 され る前衛芸術 の受容で手一杯 だったのであ る。

この環境 にあって1920年代か ら30年代 にメキ シコに長期滞在 し、野外美 術学校 の教育活動 に専念 したのが北川民次で あった。 また 日系米国人イサム ・ノ グチが約10ケ月メキシコに滞在 し、一点 の レリー フ作品 を残 して いる。 また北 川 の帰国は1936年だ ったが、それ よ りも早 く藤 田嗣治が メキ シコ壁画運動 の 精神 に触発 された壁画制作 を始 めて いた。

第二次世界大戦 中は 日本 とメキ シコが敵 国関係 とな ったため、文化交流は途絶 えたが、1951年 に 日本一 メキ シコ問で新 たに文化交流協定が締結 され、新時 代 を迎えた。北川は美術評論雑誌 な どを通 じて メキ シコ現代美術 を紹介す る執筆 活動や壁画制作 を精力的 に始 めた。北川 と藤 田、 ノグチが メキ シコ壁画運動 に感 化 された第一世代 といえる。

1955年9月か ら東京 国立博物館で開催 された 「メキ シコ美術展」は欧米以 外 の美術情報 を求 める 日本人観客 に大 きな衝撃 をもた らした。 同展 をきっかけに

1960年代か ら< メキ シコ的>な ものを求 める若 い世代 の美術作家が急増 した。

この第二世代 としては利根 山光人、 岡本太郎、竹 田鎮三郎や北川民次 の薫陶 を受 けた二科展系の美術作家が挙げ られ るが、特筆すべ き大画面 の壁画 を残 してきた のは利根 山 と岡本で ある。 また 日系 メキ シコ人ルイス ・ニ シザ ワが 日本で壁画 を 制作す るな ど新たな美術交流 の芽が生 まれた。

「メキ シコ美術展」が開催 された1955年か ら1960年代初期 に関西か ら

「具体」 グループが国際舞台 に進 出す るまで の期 間、 日本 の美術界では 「リア リ ズム」 の可能性 につ いての議論が巻 き起 こった。そ の際 に リア リズム絵画 の指標

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として度 々参照されたのがメキシコ壁画運動であった。 しか し1972年 にシケ イ ロス展が開催 された時期は、すでに西欧のアンフォルメル運動 と対応 した 「具 体」 の国際的評価が高 まる時期 と対応 し、 もはや若い世代の美術作家の指針 とは な らなかった。その後 も1970年代後半に出現する 「もの」派 の主張 に圧倒 さ れ、 「リア リズム」論か らのメキシコ壁画運動評価の動きは下火 になる。

1980年代 にな る と日本 は高度経済成長期 のピー クを迎 え、パ ブ リック ・ アー トの興隆が顕著 となる。 しか し都市の景観 の一部 を構成す る野外大彫刻や壁 画は基本的に 日本の技術力礼賛 と現実肯定の精神 に満ちてお り、 メキシコ壁画が 参照され る場合は もっぱ ら構図や技法、素材な ど技術面 に限定 された。その結果 メキシコ壁画運動が内包 していた現代美術 の欧米 中心主義の脱構築 ‑オルターナ テイヴ ・モダニズムの提唱 という側面への理解は進 まなかった。

1980年代末 になると日本のメイ ンス トリーム現代美術か ら逸脱 した三つの 流れが顕著 になる。ひ とつはパ ソコン制御 によるデ ジタル ・イメー ジ処理が機器 のダ ウンサイ ジング、低価格化 によって個人の美術作家で も利用可能 とな り、新 しい表現領域 を切 り開いていった こと、二つ 目は戦後 日本の知的状況 を反映 した マンガ ・アニメ表現の興隆でその技法、表現テクニ ックな どが ファイ ン ・アー ト の世界を侵食 していった ことであるO三つ 目は伝校的な美術世界か らは一貫 して 無視 されてきた ことは勿論の こと、上記二つの潮流 にの らないタイプの美術表現 で、活動の場はス トリー ト、廃嘘化 した都市のビルの壁、 うちっぱな しのコンク リー ト壁面な どであった。その多 くは暴走族の縄張 りを示すよ うなたわいないタ グやサイ ンだったが、やがてよ り自由な表現の場 を求める学生や新進美術作家の 活動の場 とな り、 また都市のサバルタンが発す る政治批判や抵抗のメッセージも 顕在す るよ うにな った。そ のプ ロセスは1960年代 に始 まる米 国チカー ノ ・ アー ト壁画発展の歴史 と類似す る。表現の場 としての革新性 に注 目した ロコ ・サ

トシが多 くの作品を残 している。

1992年横浜市でサ ンディエゴ現代美術展が開催 された時、総勢10人近い チカー ノ美術作家が来 目し、3人のチカー ノ美術作家が講演 とライブ壁画ペイ ン トを実施 した。 メキシコ壁画運動の精神 を継承す るチカー ノの壁画表現は、 日本 のサブカルチ ャー ・シー ンに多大なイ ンパ ク トを与えた。

2005年公立の美術館では初 となるグ ラフティ‑展が水戸現代美術セ ンター

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で開催 された。美術館 の中だけでな く、建物周辺 の歩道脇壁 にまで進 出 した壁画 作 品は、公立美術館 の企画 ということもあ り表現 内容はかな り消毒 ・無毒化 され た ものだったが、それで もメイ ンス トリーム美術 の展示 を旨とす る美術館 ではな し得 なかった快挙 といえる。一方、反体制的なパ ブ リック ・アー トとして出発 し たグ ラフィテ ィ‑は美術 としては認 め られないとい う立場か ら企画そ の ものに対 す る反対論 も巻 き起 こった。

こういった 日本のメイ ンイ ンス トリーム美術界 の動 き とは無縁 に、 よ り若 い世 代 のアーチス トたちは トランスメデ ィア的な動 きを示 している。多摩美術大学卒 業生5人で結成 された 「輪派絵師団」は、勿論江戸 時代 の絵師尾形光琳 の名 を振 っ ているのだが、注 目すべ きはそ の表現手法で、

YouTube

を常時利用 して作 品のプ ロモー シ ョンを行 って いる。

日本 におけるメキ シコ壁画運動受容 の歴史で一貫 しているのは、現代美術 の表 現 メデ ィアとして壁画 という形式が有効か否か、 もし有効な らばそれは どのよ う な文脈 にお いてか という問題 を提起 して いる、 という評価である。 この疑 問に対 す る 日本か らの回答は まだ見 つか っていないO西欧 中心 に動 いてきた20世紀現 代美術 の呪縛 に終 め とられた 日本 の美術界 に とって、 メキ シコ壁画運動は まだ こ れか ら検討すべ き課題 とい う次元 にある。

1.メキシコ壁画運動を リアルタイムで体験 した世代 :北

民次、藤 田嗣治、イサム ・ノグチ

北川民次 (1894‑ 1989)は静 岡県榛原郡金谷町生 まれで、実家は生茶 業 を営む比較的裕福な農家だ った。早稲 田大学 に進学 し教員 をめざ したが 中退 し、

画家の道 を進むよ うになった。1914年 に渡米 し、ニ ュー ヨー クでは建設工事 のアルバイ トをしなが ら1917年か ら1921年 までアー ト スチ ュ‑デ ンツ・

リーグで学び、 ジ ョン ・ス ロー ンな ど社会派 と呼ばれた無名の民衆や都会生活 の 暗部 を描 く作風 に感化 された。1923年 にキ ューバ経 由でメキ シコに向かったO メキ シコではサ ン ・カル ロス美術学校で学び、そ の期 間の交友 関係か ら野外美術 学校 の活動 に参加 した。1931年 までディ アス ・デ ・レオ ンの元 で トラルパ ン 野外美術学校 の教師か ら副校長 まで務 め、1932年か らタス コに新設 された野 外美術学校 の校長 として赴任 した。教師は北川一人だ った。 メキ シコでの北川の

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評価は画家 としてではな く教師 としてのものだった。進行中のメキシコ壁画運動、

メキシコ美術ルネ ッサ ンスの動きの渦中にあったため、かえってメキシコ美術界 全体の動きをつかめず、物理的な交友関係 にも制約があった。それで もタスコで 妻子 と住んだ北川の住居は 「カーサ ・デ ・キタガ ワ」 と呼ばれ、メキシコのみな らず世界中か らタスコを訪れる美術作家、 コレクターたちの交流の場 となってい

。<注1>

北川は1936年にメキシコを去 るが、メキシコで描き貯めたおびただ しい数 の素描、版画、油絵 を持ち帰った一方、壁画は残 していない。 日本帰国後はてつ 子 夫 人の実家 のあ る瀬戸市 に居 を構 えた。 1955年 にメキ シコを再訪 し、

1959年 に瀬戸市市民会館で大画面のモザイク壁画制作に取 り組んだ。他 に瀬 戸市市立図書館の陶板壁画(1970年)<図版1>な ど現存する壁画作品の多 くは地 元 とその周辺に限 られ、 また恒久性 と技術伝統の確かな陶板 を使ったものが多い。

その意味ではメキシコ壁画の移植 という側面 と、 日本伝統の陶芸技術の現代建築 への適用 という二つの側面を持 っている。 またメキシコや 日本での児童画教育の 経験を反映 した、素朴ゆえに普遍性 を持つような主題、非歴史的なモチーフを採 用 しているのが 目立つ。

一方、評論活動では 日本人で唯一のメキシコ美術界 と交流のあった美術作家 と いうことか ら、かな り頻繁に壁画三巨匠や野外美術学校の教師陣、メキシコでの 教え子で成長 した若手美術作家な どについて論評 していた。戦後か ら1960年 代までのメキシコ壁画運動の動向を中心、とした美術情報のほとんどが北川によっ て 日本人に紹介 された といってよい。<注2>メキシコでの体験はまた教育面で発揮 され、1960年代の相次 ぐ日本人美術家のメキシコ訪問のきっかけを作った。

ただ作品を見ると日本美術界の事情や経済的制約、美術市場の状況などか ら、主 題やモチーフを除いてメキシコ壁画運動の影響 を反映 したものは極めて限 られる。

こういった限界はあるにせ よ、北川は 日本 にメキシコ壁画運動やメキシコ美術ル ネ ッサ ンスの情報 を正確に伝えてきた第一人者 と評価 される。

藤 田嗣治 (1886‑1968)は東京美術学校 (現東京芸術大学) を卒業後、

1912年にパ リに留学 している。パ リ到着後 まだ間もない時期 にデイエゴ ・リ ベラと会い、川島理一郎 と共に絵のモデル ともなった。 リベ ラとはその後 も第一

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次世界大戦の戦禍 を避けて避難 したマ ドリッ ドで も再開し、旧交 をあたためてい る。<注3>

藤田は1931年か ら南米 に旅だち、ブラジル、アルゼ ンチン、ボ リビア、ペ ルー、エクア ドル、キューバに滞在 した後、1932年11月にベ ラクルス港か らメキシコ市 に入 り、約7ケ月滞在 していた。北川の住むタスコを訪れた他、旧 友のリベラとも再会 し、 メキシコ壁画運動についての知識 を仕入れていた。

帰国直後か ら藤 田は リベラに対抗すべ く、 日本で大画面の壁画 を描いてみたい という願望 をもった。1934年9月か ら10月にかけて、東京、銀座の聖書会 館内にあったブラジル ・コー ヒーのカフェ兼販売所周辺に幅約18メー トル、高 さ約3.6メー トルの壁画 を完成 させ る。1935年 には大阪そ ごう百貨店特別 食堂壁画や東京銀座の洋菓子店コロンバ ンのために西洋主題 による装飾的な壁画 を描いている。 また1936年には関西 日仏学院にもフランス、 ノルマンデ ィー の春の風景を壁画 に描いた。 「大衆への奉仕」という言葉がキー ワー ドとなったが、

多 くの大衆の眼にふれる商業施設での壁画制作 となった。<注4>

また1936年秋 には北川民次か ら預かってきたメキシコ人生徒の児童画展を 日本橋 白木屋デパー ト (現在は東急 日本橋店)で開催 した。 日本における最初の メキシコ美術展がメキシコ革命後 に創設された野外美術学校の 日本人教師による 成果であった点は興味深い。

メキシコ壁画運動の精神 との影響関係が読み取れるのは1937年2月か ら3 月にかけて秋 田県秋 田市の富豪平野政吉の邸宅敷地内土蔵 (現在は美術館 に改装) に描かれた壁画である。幅約20メー トルの壁 に<秋 田の行事> という主題で秋 田の古 い町並み とそ こで繰 り広げ られ る伝統芸能の祝祭 を描 いた。<図版2>発想 と しては リベラが1922年か ら1928年までかけて完成させた公教育省

( SE

P)壁画 と同じものを感 じる。同時代のナシ ョナルなアイデ ンティティーを地方 の伝統文化の表象に見出 し、絵画 に残す というものだ。

作品<秋 田の行事>は、メキシコ壁画運動の思想のエ ッセ ンスをそのまま日本 で適用 したよ うな事例だが、残念なが ら日本ではそれ ほ ど高 い評価 はえ られな かった。 しか し1955年にフランス国籍取得後、 ランス市に建立 したノー トル ダム ・ド ・ラペ礼拝堂のフレスコ画連作 を1966年 に完成させるな ど、壁画 に 対する情熱 をうしな うことはなかった。

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イサム ・ノグチ (1904‑ 1988)は1924年か らニュー ヨークで本格 的に彫刻家 としての道 を歩む。 しか し日系人であるということか ら来 る人種差別 や1929年に始まる世界大恐慌の影響で経済的には恵まれなかった。1932 年にホセ ・クレメンテ ・オロスコがダー トマス大学のベイカー図書館 に24枚の パネル壁画 を制作中には助手を務め、メキシコ壁画運動の精神や図像表現、技法 の基本 を学んだ。そのノグチの転機 を示すのが 「リンチ」 (1934作)で、社会 の問題 を直視 した初めての作品 となった。 またメキシコに行き、 「社会性の高い」 メッセージを持つ巨大な壁面彫刻を造 りたいという願望 もうまれた。

そ して1935年秋か らアルバ ラル ・ロ ドリゲス市場2階部の レリー フ壁画制 作に着手 した。 ロ ドリゲス市場では同時期パブロ ・オイギ ンス、アン トニオ ・プ ホルな ど戦闘的な

LEAR

(革命的文芸作家 ・芸術家連盟) のメンバー も壁画プ ロジェク トに参加 してお り、様 々な機会 に彼 らの議論 をき くこととなった。約 10ケ月かけて縦3.5メー トル、横幅20メー トルの レリー フ<メキ シコの歴 史 :戦争>を完成 させた。<図版3>色彩 を極限まで押 さえ、遠近の効果 をコンクリー トの厚みで調整するな ど彫刻家 らしい発想 に満ちたものだ。反 ファシズム、反戦 争の主張がある一方、アイ ンシュタイ ンの相対性理論 の公式

E‑m

C 2も刻まれて いる。 これは このメキシコ壁画以降、大地感覚 に根ざ しなが らもよ り普遍的かつ 純粋な形態をめざす方向を暗示 している。飛躍の原点 という意味で ノグチにとっ てメキシコでの壁画体験は偉大な反面教師であった。<注5>

2.

「メキシコ美術展

に感化 された世代 :利根 山光人 と岡本太郎 第二次世界大戦中は敵国関係にあったメキシコと日本だが、1951年に日本 一メキシコ文化交流協定が結ばれ、外交関係 も復活 した。 この文化交流協定締結 の記念イベン トとして1952年か らフランスのパ リで開催 された 「大メキシコ 展」 を日本にも巡回させる構想が生まれ、1955年 に実現 した。<注6>総計一千 点に及ぶ展示物で彩 られた 「メキシコ美術展」は実に多 くの 日本人観客 を魅了し た。その中の一人に利根山光人がいた0

1921年生まれの利根 山は国語教師になるべ く1943年に早稲田大学文学 部 を卒業 したが、版画制作 に魅せ られ、画家の道 を選ぶ。メキシコ美術展では 日 本の縄文時代美術 に通底する大地 に根ざした力強い表現性や造形性、魔性の力を

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感 じ取 った。それはまた所詮西欧美術 の模倣で しかない敗戦後 の 日本現代美術世 界か らの決別 の瞬間で もあった。1959年 には利根 山はメキ シコ国立芸術 院で メキ シコ初 の個展 を開催 した。 また この時 に利根 山は 当時チ ャプル テペ ック城 (現歴史博物館) での壁画大作<ディ アス独裁制か ら革命へ> に取 り組 んでいた シケイ ロス と交流 し、終生の友 となる。

利根 山は 日本では大画面壁画 を実現す る場 を求 めて奔走 し、 メキ シコにおいて はその美術遺産 の魅 力を 日本 にいか に伝 えるか に腐心 した。そ して 日本 の伝統技 法であった墨 の拓本技術 を応用 してマヤ遺跡か ら出土す るステ ラ (石碑)や建造 物 レリー フの図像 を複製す る ことを思 いつき、独立 した美術品 としての鑑賞 を可 能 とす る道 を切 り開いた。1962年か ら開始 された現場での拓本作業 には 日系 メキ シコ人のルイス ・ニ シザ ワが参加 した。1963年 には東京 の国立近代美術 館で 「マヤ芸術 の拓本」展が開催 され、1972年 には メキ シコ政府か らアギ ラ・

アステカ文化勲章が授与 された。<注7>

壁画 の話 に戻 る と、利根 山は人類 に普遍的な民衆 の求 める表象記号 の追求、 ト ボグ ラフィカルなモニ ュメン ト性 の確立、次世代 に伝 えるべ きメ ッセージの構築、

とい うメキ シコ壁画運動作品のエ ッセ ンス を 日本で展開 した。現在、利根 山の壁 画が最 良の形で残 されて いるのが千葉県松戸市 の聖徳学 院学 園キ ャンパスであ り、

ここには30点 の壁画 のほか、利根 山の版画や タブ ロー画、記録 な どを収集 した 資料館 もある。<図版4>

年齢的 には利根 山よ りも年上だが、長 い滞欧生活 での経験 を断ち切 って メキ シ コに眼をむけたのが 岡本太郎 (1911‑1996)である。 岡本は1960年 代前半 に2回メキ シコを訪れたが、 メキ シコ美術 の印象 を次 のよ うな言葉で語 っ て いる。 日 く、 「メキ シコはけ しか らん。何百年 も前か らおれ のイ ミテー シ ョン をや っている‑‑‑」 のだそ うだ。単 にメキシコ壁画運動か らの影響 うんぬん とい うことではな く、先スペイ ン時代か ら続 くメキ シコ美術 の総体 を正 当に評価 しよ うい とい う意思表示である。く′王8>

やがて岡本 の美術作家 としての創作意欲 は、壁画運動 の中心であったメキシコ でそれ らと互角 に自分 の作 品を展示 したい とい う願望 に繋が った。1967年 の メキシコ訪 問の際 にマヌエル ・ス ア レス の依頼でホテル ・デ ・メヒコ (現世界貿

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易セ ンター) ロビー上部 に幅30メー トル、高 さ5メー トルの巨大壁画 「明 日の 神話」 を描 くこととなった。 1968年のスター トか ら1969年の完成 までに 日本 とメキシコの間の往復回数は80回を越 えた。 しか しホテル ・デ ・メヒコか ら世界貿易セ ンターへ改修 され るまでのある時期 にこの壁画は撤去 され、その後 行方不明になって いた。 2003年に発見 され、 日本での修復の後 に2006年 公開されたOく国版5><図版6>

利根 山と岡本の活動 によって 日本伝統の障塀画 とは全 く異なる別 のタイプの壁 画の存在が 日本人の間に浸透 していった。

壁画運動の興隆 したメキシコで壁画 を描いてみたいという願望は、 岡本だけで な く、多 くの 日本人美術作家 にも共通するものだった。実現 した例は少ないが、

例えば1987年 に 目墨学院の体育館外壁 を横浜在住 の美術作家西森禎子の指導 でメキ シコ人生徒20名 と日本か ら訪れた児童14名 による合作壁画な どがあ る。<注9>

3. 新 しいタイプの壁画

日本の1980年代は高度経済成長 を背景に、社会で 占める美術の領域は実 に 多様な形で広がった。 ここでは四点 に整理 してみる。

第‑点はパブ リック ・アー トの興隆だ。公私 を問わず豊富な資金 による新たな 都市空間の創出に巨大な野外彫刻や壁画が重要な役割 をはたすようになった。そ して美術 による公共空間づ くり、 また市民参加型の街づ くりといったコンセプ ト が提唱 された。パブ リック ・アー トを通 じてのアー トの大衆化 には功罪あった。

美術市場の拡大や美術作品のある風景が文化 の育成 に不可欠だ という意識が定着 していった功の部分 に対 して、世俗的感性 に迎合 した<小さな物語> しか持 ち得 ない作品、つ まり、巨大だが大衆 の消費のサイ クル に対応 しただけの非恒久的作 品の蔓延、経済発展の恩恵 を反映 した現世肯定、そ してその背景にある科学技術 発展への無盲 目な礼賛 といった負の部分があった。建造物の外壁 に巨大壁画が描 かれて も、それは都市の新陳代謝 と使 い捨てのプ ロセスで建造物 自体がいとも簡 単 に取 り壊 され、壁画 も瞬時 に消え去 るものとなった。

第二点はパソコンや他の電子機器 の技術革新 に伴 うダウンサイズ化、価格低下、

O

Sやソフ トウエアの発展 によって美術作家が個 人の表現 ツール として利用可能

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となった ことだO一般 にメデ ィア ・アー トと呼ばれ、彫刻や絵画 といった伝統の 美術概念では捉 えきれない新 ジャンルの興隆であ り、若 い世代 の美術作家 には魅 力あるものになった。理論的には解像度 と印刷 メデ ィアの問題 さえ克服できれば 数百平方 メー トル ・サイズの壁画 も一台のノー トパ ソコンか ら制作できる時代 に な り、「壁画」とは単 にサイズの大 きな平面作品 という以上の意味をもたな くなっ

。<注'0>

第三点は、それ まで美術 の世界 とは一線 を画 していたマ ンガ の世界 とのハイブ リッ ド化である。マ ンガがサブカルチ ャーの表象だ った時代の記憶が薄れ、週間 マ ンガ誌が百万部単位で流通す る新 しい文化環境 の出現 によって、 「ジャボ ップ」

と呼ばれるようなマ ンガ の表現手法 を適用 した美術表現 の潮流が出来上がった。

元来はマンガ のマニアックな愛好家 を指 していた 「オタク」 という存在が社会現 象 となると、 「パブ リック」とか 「社会」、「コミュニテ ィー」に対す る意識はます ます希薄 にな り、美術表現 もこの現象 と対応す るか のよ うに 「私化」 して いっ た。<・主1'>大画面の壁画 といえば、それは もはや大量生産 ・大量消費の社会が 自由、

平等、発展 をもた らす という幸福神話 を再生産す るグ ローバル企業の宣伝広告の 場 という認識 しか もてな くなった。

第四点は、上記三点 の流れ に十分乗 りきれない、 あるいは取 り残 されていった 人たちの美術表現 である。教育 レベルで言 えば高等教育 の機会 を持 たなか った (持てなかった)、あるいは 自ら放棄 した、中卒 あるいは高卒の人たちによる表現 で あ り、職業的 には建設業や製造業、小 自営業 な ど肉体労働 と密接だ とい うイ メー ジがある。 メキシコ壁画 を受容 してきた民衆の精神 ・感性 をかな りの程度反 映 しているので、次章 において詳細 に観察す る。

4.

パ ブ リ ッ ク化 され る グ ラ フ ィ テ ィ ‑ ・7 ‑ 卜

日本語化 した外来語で 「ヤ ンキー」 と定義 される社会層は、潜在的に社会のメ イ ンス トリームの価値観や文化 に不満 を抱き、そのために時 に 「時代錯誤」 とか

「反社会的」 というラベル を貼 られて しまうにもかかわ らず 固有 の美的感性 を発 揮 している。 また 日本のサブカルチ ャーの一つ として、 日本人な ら誰で も知 って いるが誰 も彼 らの存在や表現 について語 らないという側面 を持つ。

また彼 らは多 くの場合、 自分たちの文化 の表象や行動のアイデ ンティテ ィー と

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して 「愛国的」 とか 「国粋主義」 という言葉 を使 う。 また暴走族や〜組 といった 集団を結成す ることも多 く、各集 団の縄張 りや存在 を誇示す るためス トリー トや 高速道路 にスプ レー缶でグ ラフィテ ィを描 くことも常態化 した。

それ らグ ラフィティ‑の手法は他 の国々で社会か ら抑圧 され、差別 されてきた 人たち、政治的に疎外 されてきた人たち、例 えば アメ リカ合衆国な らアフ リカ系 アメ リカ人や ラティー ノが採用 してきたもの と類似 している。 ラップ、 ラスタ、

チカー ノ、 ロー ライダー、チ ェ ・ゲバ ラといった言葉や記号が最 も広範 に浸透 し ている社会層で もある。 メキシコ壁画運動は 日本 にとってあ くまで異文化世界で の出来事ではあったが、その勃興 当時の精神や主義 ・主張 を身体感覚か らもっと もよ く理解 したのは この社会集団である。

グ ラフィテ ィが描かれたのは都市 の廃嘘や廃棄 された トンネル、打ちっぱな し のコンク リー ト壁、高速道路や鉄道 の高架下の空間な どである。つ ま りはメイ ン ス トリーム美術か らも一般社会か らも認可 された場所ではない。 こういうところ に絵 を描 けば、多 くの場合 「落書 き」 とみなされ、場合 によっては罰金の対象 に もなる。<'2>

しか し、本来は こういった場所 に絵 を描 く教育カ リキ ュラムな ど持たなかった はず の美術 系学生や若 い美術作 家たちが、 よ り自由で コス トもかか らないオル ターナテイヴなスペース としてゲ リラ的に実験的な作品を描 くようになった。壁 画 という平面空間を通 じてサブカルチ ャー表現 とアー ト表現のコラボ レーシ ョン が繰 り広げ られた。 この文化環境 にあって壁画 を積極的な表現 の場 と捉 えてて活 動 をは じめたのが ロコ ・サ トシであった。

生年不詳のロコ ・サ トシは幼少時か ら美術、音楽な どの芸術分野で才能 を示 し たが、正規 の美術教育 は ミニマムな ものだ った。1980年代か ら工事現場 の フェンスやイベ ン ト会場の大画面装置や店舗装飾な どを手がけ、その明るいポ ッ プ風な記号 と色彩 の乱舞のスタイルは市民 レベルでの称賛 を浴びるようになった。

横浜市 を中心 に市営バスや私鉄電車のペイ ン トな どを手がけるな ど公共の場にも 進出 した。

また廃棄 された桜木町か ら高島町の間の私鉄東横線高架下 を繋 ぐ、総延長数百 メー トル に及ぶ壁面の総合プ ロデ ューサー にも任命 された。A IDS問題やアフ

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リカの貧困救済 といった社会 問題 にも積極的に取 り組み、 また児童画教育な どを 通 じて生徒 と共 に学校な ど公共施設 に壁画 を描 くような活動 も行 っている。 ロコ の国際的評価はカ リフォルニア州サ ンディエゴ市 のチカー ノ ・パークにおいてチ カー ノ美術作家 と共 に壁画 を描 いた ことで高 まった。 ロコは このチカー ノ美術作 家たち との交流か らメキシコ壁画運動 についての知識 を得ている。<迂13><図版7>

1992年 に横浜市‑サ ンディエゴ市姉妹都市三十周年 を記念 して市民ギ ャラ リーで開催 された 「サ ンディエゴ現代美術展」は、サ ンディエゴの多文化共存状 況 を反映 した国際的なものだったが、チカー ノの作品が 占める割合は多かった。

また、 この機会 に来 日した美術作家たちのうち、3人のチカー ノ美術作家が前述 の東横線高架下の壁面 に作品をの こしていった。<図版8>く国版9>

1980年代の 日本の高度経済成長期 にはまたかつて南米 に移民 した 日本人の 二世、三世 といった人たちがよ りよい収入 の道 を求めて 日本 に戻ってきた。 しか し、 日本語が上手 に使えないとか、 日本の伝統文化への無理解、地域社会へのコ ミッ トメン トの難 しさな どか ら、 メイ ンス トリーム の 日本社会か ら疎外 された マージナルな存在であった。 こういった集 団の子供たちは大 き くなるに従 って 日 本社会か ら受ける有形無形の差別 に直面 した。1990年代後半か らこういった 日本社会への不満や抵抗 のメ ッセー ジが 日系 ラテ ィー ノの多 く住む地域、た とえ ば静岡県浜松市や群馬県太 田市な どの公共空間に顕在化す るよ うになった。 日本 語、スペイ ン語、ポル トガ ル語 な どの入 り混 じった プ ラカや タ グ、グ ラフィ テ ィ‑は実 に無国籍風で異質であ り、 日本人にメッセージ内容が完全 に理解でき るわけでないにせ よ、そ ういった社会 の矛盾 に苦 しむ人々の魂 の叫びへの共感や 視覚表現 を面 白いと感 じる 日本人の感性 も育 ってお り、マス ・メディアな どで も 積極的にとりあげ られようになった。

20世紀末か ら21世紀へ という世紀 の変わ り目に向かって、ス トリー ト系の 大画面アー トのメイ ンス トリーム社会進 出 という現象が観察 される。 この時期、

またメイ ンス トリーム文化 の牙城であった公的美術館 自体 もその社会的機能の自 己変革が求め られていた。 この二つの現象 を結びつける実験的な試みが2005 年水戸芸術館現代美術セ ンターで開催 された 「Ⅹ‑COLOR グ ラフィティ ・ イ ン ・ジャパ ン」展である。ス トリー トという発想か ら美術セ ンターの中だけで な く、東側駐車場 に面 した外壁や水戸市 内数箇所 にも壁画が描かれたO<注14><図版10>

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この企画 には賛否両論 あ り、現時点でス トリー ト系の壁画グ ラフィテ ィ‑がメ イ ンス トリーム美術世界に受け入れ られた と断ず ることはまだ出来ない。 また招 待作家の言説 に90年近 い過去 に勃興 したメキ シコ壁画運動 を直接参照 している ものはない。若 い美術作家たちが リアルタイムで学んできたのは1980年代以 降の脱 メイ ンス トリーム系美術であ り、その帰結 として巨大壁面 を利用 したグ ラ フィティ‑表現が採用 されたのである。

しか しなが ら、 メキシコ壁画運動 を20世紀 の脱西欧中心主義志向の表現、美 術 のオルターナテイ ヴ ・モダニズムの追求 ととらえれば、グ ローバル化 し拡散 し た世界の社会状況下 におけるメキシコ壁画運動の継承モー ドと認識できるだろう。

21世紀型の壁画モー ドとして注 目すべきは多摩美術大学の異なる学部卒業生 で結成 された 「輪派 (リンパ)絵師団」 と名乗 るグループの活動である。グルー プの名称の由来は 日本の江戸時代 に生 まれた 「琳派」の名称 にあ り、それ をもじっ たものである。

集団で壁画の制作 を自ら実践す る一方、その制作場面 をグループメンバーが リ アル タイ ムで映像 に記録 し、編集 した映像 フイル ム を動 画投稿サ イ トで あ る YouTubeか らアクセスできるようにした。輪派絵師団のサイ トへの一般視 聴者か らのヒッ ト数は百万件 を越 えている。<這15><図版">

壁画がその存在す る場 にいかなければ見れないというサイ ト ・スペ シフィ ック なものか ら、その限界 を超 えてイ ンターネ ッ トを通 じて世界 中か らアクセスでき る形態 に変えたもので、YouTubeの特性か ら視聴者はコメン トを書き込む こともできる。壁画が物理的に残 る ・残 らないにかかわ らず、動画映像 には制作 過程か ら完成画面 までが映 り込 んでいる。そ して この動画映像 もまた壁画 とは独 立 した作品になっている。 この二重構造 によって壁画の公共性が保障されている と同時にイ ンターネ ッ トというニ ューメデ ィアを介 した普遍性 を獲得 している。

何故 「壁画」が素材でなければ いけないか という点 について考 えると、 これ まで のメキシコ壁画や壁画運動研究では見落 としていたその 「パ フォーマ ンス性」 に 着 目していることで従来のアプ ローチ とは異なる面が指摘できる。

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<注>

1.北川 とメキ シコ人美術作家、評論家、美術教育者、 生徒たち との交流 を生き生き と描 いた ものに、北川民次著、 「絵 を描 く子供 たち ‑メキ シコの思 い出‑」、岩波書店、 1952年。

1955年 のメキ シコ再訪 に合わせて出版 されたのが 同著 「メキ シコの青春 十五年 をイ ン デ ィア ンと共 に」 であ り、 2002年 に 日本 図書セ ンターか ら 「北川 民次 メキ シコの青春 十五年 をイ ンデ ィアンと共 に」 として復刻 出版 されて いる。 リベ ラとの個 人的交流 の証 と して は遺 族 所 蔵 の作 品 の 中 に、サ ン ア ンヘ ル に あ るデ イ エ ゴ と フ リー ダ の ス タ ジ オ

(1931年着工 ;現美術館) を描 いた油絵作 品な どがある。

2.ポサ」、美術手帖, 194810月、 「メキ シコの画家たち」、美術手帖、 1953 4月、 「シケイ ロス ・人 と作 品」、 みずゑ、 1954年2月、 「ルー フイノ ・タマ ヨに会 う」、

みずゑ、「話題の異色作家 リヴェラを訪 う」、みずゑ、 19555月、 19559月、「 ケイ ロス :人 と芸術」、みず ゑ、 195511月、 「シケイ ロス :戦争の犠牲者」、世界の名 画、19585月、 な どが代表的な ものだが、 このほか に対談、座談会記録な ど多数。

3.デイエゴ ・リベ ラは1914年2月頃、藤 田と友人の川 島理一郎 の二人をモデル とした 肖 像画 を描 いた。藤 田と川島をモデル とした絵画は もう1枚 あ り、 1914年4月の リベ ラ個 展で出品されて いた。スペイ ンのマ ドリッ ドで の再会 は1914年12月。

4.生誕120 藤 田嗣治展 パ リを魅 了 した異邦人」展 カタ ログ、東京 国立近代美術館他、

2006、 p.75、 p.86、 p.88、 p.98に関連記述O湯原かの子著 「藤 田嗣治 パ リか らの恋文」新潮社、 2006、第四章, pp.186‑ 188に<秋 田の行事>の詳細記述0 5.加藤薫著 『イサム ・ノグチ とメキ シコ壁画運動』、 「エクスナ レッジム ックHOME イサ

ム ・ノグチ生誕100年」、エ クスナ レッジ社、 2004年7月、 pp.140‑ 14 1.

6.メキシコ美術展」東京 国立博物館、19559月10日‑ 10月20日。 ただ しパ リ展 に出品されたデイエゴ ・リベ ラの壁画作品<戦争の悪夢、平和 の正夢>はなか った0 7.利根 山の 自著 出版物 は多 い。 ここでは 「マヤ芸術 の拓本展」 カタログ、東京 国立近代美術

館、1963、「メキ シコ」、雪華社、 1964、「メキ シコ蔓茶羅」、小沢書店、 1981、「 ヒコ ・マ ヒコ」、筑摩書房、 1989な どを参照。

8.岡本太郎の 自著 ・他著 出版物 も彪大 な ものがある。 引用は 「対話 岡本太郎 泉靖一 日本 人 は 爆 発 しな けれ ば な らな い 復 刻 増 補 日本 列 島文 化 論」、 アム ・プ ロモ ー シ ョン、

2000, p.50よ り。<明 日の神話>は2003年 に存在が確認 された後、 2005年 に 日本 に移送 された。修復 された壁画<明 日の神話>は2006年78日か ら8月31日の 期間、東京、汐留の 日本テ レビ ・ゼ ロスタ広場で無料一般公 開 された。

9.日墨協会編 「日墨交流史」、PCM出版、 1990、p.104 1.ちなみ に同出版物第Ⅳ部 文化交流編5‑ 6 (pp.10 11‑ 114 2)にメキ シコに魅せ られた多 くの 日本人美術作 家の動 向が記述 されている。

10.筆者 の頭 には 2004年 にパ リ大学壁画教授 A.タグ レが米 国チカー ノ・アー ト壁画 を写 真 に撮 り、現物 と同寸サイズ まで拡大 し布 に印刷 した作 品9点 の展示例 (フランス,バイ ヨ ンヌ市)が浮かんで いる。

ll.オタク」 という言葉の定義や社会現象 につ いては 岡田斗 司夫著 「オタク学入門」、新潮

(13)タグ

(14)

、 2000年,を参照

12.落書 き」 という日本語 を美術 の‑表現様式 として再定義 し、評価 した英文 出版物 にRyo Sanada//Suridh Hassan,HRackGakiJapaneseGrafBti",LaurenceKingPubリ2007, がある。不定期なが ら日本のグ ラフィテ ィ作品をグ ラビア写真で紹介 して きている雑誌出版 物 に 「KA ZEマガ ジン」、カゼマガ ジン社がある。筆者 も2003年以来 ロー ライダー ・ フアン向け自動車雑誌やス トリー ト系ファッシ ョン雑誌な どで執筆活動 を展開 している。

13.筆者 との交流は1980年代 に始 まるが、 ロコ ・サ トシの画業 についてのまとまった出版 物はまだあま りない。横浜 におけるサ ンデ ィエゴ現代美術展の詳細 については 「サ ンデ ィエ ゴ現代美術展」カタ ログ、横浜市民ギ ャラリー、 19929‑ 10月を参照。筆者拙文 「 民族文化のアメリカ現代美術」(和文 ・英文)も収録掲載、pp‑ 13‑ 21.関連 してカタ ロ グ中では ロコのサ ンデ ィエゴ作品 も参照 している (pp.97‑ 100)0

14.展覧会が終了 した後 も2007年現在芸術セ ンター駐車場や水戸市内にまだ数点の作品が 残 されている。

15. 2007年初頭 に初めてサイ トにア ップされてか ら12月までの ヒッ ト数。

<参考文献>

岡本太郎 ・泉靖‑対話、 「日本人は爆発 しなければな らない一日本列島文化論 ‑」、アム ・プ ロ モーシ ョン、2000

加藤薫、『イサム ・ノグチ とメキ シコ壁画運動』、「エ クスナ レッジム ックHOME」Vol.4,No.2 収録、20047月。

、『多民族文化 のアメ リカ現代美術』、「横浜 ・サ ンデ ィエゴ姉妹都市提携35周年記念 サ ンデ ィエ ゴ現 代 美術 展」 カ タ ログ収 録、横 浜 市 民ギ ャラ リー、 1992年。

English version,HAmerican ContemporaryArt‑A Ⅵew From Ethnicity 北川民次,「メキシコの青春 十五年 をイ ンデ ィアンと共 に」、日本図書セ ンター、2002

、 「絵 を描 く子供たち ‑メキシコの思 い出」、岩波書店、1952 Craven,David."DiegoRiveraasEpicModernistH,MacmillAn,New York,1997 MercerKobenaed.,Hcosmopolitan Modernisms",TheMIT Press,Cambridge,London,

2005.

Sanada, Ryo and Hassan, Suridh,"RackGaki Japanese Graffti", Laurence Ki ng Publishing,London,2007.

東京国立近代美術館編、 「生誕120年藤 田嗣治展」 カタログ、 2006 利根山光人、 「メキ シコ蔓茶羅」、小沢書店、 1981

、 「メヒコ ・マ ヒコ」、筑摩書房、 1989 日墨協会編、 「日墨交流史」、 PCM出版、 1990

水戸芸術館現代美術セ ンター編、 「Ⅹ‑ColorGrafftiin JapaLn」展カタログ、 2005 湯原かの子、 「藤 田嗣治 パ リか らの恋文」、新潮社、 2006

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(15)

図版 1 北川 民次作 モザイ ク陶板版画,1970 瀬戸市立図書館

北川民治 写真

i ̲‑5 ̲ ̲g i B j : ≡

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図版2 藤 田嗣治作 「秋 田の行事 (部分),1937 ㈲平野政吉美術館 写真は東京 国立近代美術館編、 「生誕120年藤 田嗣治展」 カタ ログ 2006,p.98よ り一部転載

図版3

イサム ・ノグチ作

「メキシコの歴史 : 戦争上 1936‑7 メキシコ市 ロドリ ゲス市場2F

(15)44

(16)

図版4 利根 山光 人作 「生命 の樹,1988 千葉県 聖徳学園小学校玄関ホール,陶板

図版6 岡本太郎作 「明 日の神話」

復原後2006 43 (16)

(17)

図版7 ロコ ・サ トシ作,1989

カ リフォルニア州サ ンデ ィエゴ市チカー ノ ・/10‑ ク

図版8 ビク トール ・オチ ョア作,1992 横浜桜木町ガー ド下壁画 (部分)

(18)

図版9 リカル ド・マルテ ィネス作 , 1992

横浜桜木町ガー ド下壁画 (部分)

4 1( 1 8 )

図版11輪派絵師団作,2007 東京Maruギ ャラリー展示 に向け て製作 中のメンバー

参照

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