日本古代における外国使入京儀礼 : 「郊労儀」の 再検討
著者 堀井 佳代子
雑誌名 文化學年報
号 59
ページ 173‑191
発行年 2010‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027655
日 本 古 代 に お け る 外 国 使 入 京 儀 礼
│
│﹁ 郊 労儀
﹂ の 再検 討
│
│
堀 井
佳 代 子
は じ め に 日
本古 代 に おけ る 外 交儀 礼 は 唐 の﹁ 賓礼
﹂と の 関 係 が 田 島 公 氏 に よ っ て 指 摘 さ れ て 以 降!
︑研 究 が 大 き く 進 展 し た
︒田 島氏 は︑ 来朝 した 外国 使節 に対 して 行わ れる
︑外 交意 志の 伝達
・宴 会な どの 儀礼 が唐 の﹁ 賓礼
﹂に 基づ くも の で ある と指 摘し
︑主 に平 安期 の事 例か ら外 交儀 礼全 体の 構造 を明 らか にさ れた
︒本 稿で は外 国使 節に 対す る一 連の 外 交 儀礼 の中 での 一要 素で ある
︑日 本に 来朝 した 外国 使節 を入 京前 に出 迎え る儀 礼│
│先 行研 究で は﹁ 郊労 儀﹂ とさ れ る
││ の変 化に つい て取 り上 げる
︒ こ の 儀 礼 に つ い て は
︑早 く に 瀧 川 政 次 郎 氏 が 都 城 制 と の 関 わ り か ら 言 及 さ れ て い る"
︒こ の 儀 礼 は 大 別 す る と
︵A
︶推 古朝 に行 われ た海 石榴 市で の 騎馬 で の 出迎 え
︵ B︶ 藤 原京
・平 城 京 で の大 規 模 な騎 兵 で の 出迎 え
︵ C︶ 平 安 京遷 都後 の山 科・ 山崎 での 郊労
︑に 分け られ るが
︑こ れら を瀧 川氏 は入 京時 の儀 礼と いう 視点 から 一連 のも のと 見 な し︑ また
︵C
︶は 唐礼 を受 容し たも のと 指摘 され た︒ 田島 公氏
・浜 田久 美子 氏も 日本 の﹁ 賓礼
﹂に つい て述 べる 中
― 173 ―
で
︑主 に
︵C
︶の 段 階 に 言 及 し
︑こ れ を﹁ 賓 礼
﹂を 導 入 し た も の と 位 置 づ け
︑結 果 と し て 瀧 川 氏 の 見 解 を 継 承 す る!
︒ま た
︑浜 田 氏は
﹃大 唐 開 元礼
﹄﹁ 蕃 主 来 朝以 束 帛 迎労
﹂の 儀 や 遣唐 使 の 帰 朝報 告 に 見ら れ る 唐の 郊 労 儀 礼 を 受 容 した 結果
︑︵ C
︶が 成立 した と指 摘さ れて いる
︒ 本稿 では
︑先 行研 究が 明ら かに した 外交 儀礼 の構 造を 踏ま えた 上で
︑こ の儀 礼の 変化 を飛 鳥〜 平安 期と いう 広い 幅 で 追い かけ
︑外 交儀 礼の 受容 がど のよ うに 進行 した のか を検 討す る︒ 外交 儀礼 全体 の変 化も 重要 であ るが
︑こ の入 京 時 儀 礼 の変 化 の 側面 を 取 り 上げ
︑そ の 内 容を 細 か に見 る こ と で︑ なぜ 唐 礼 を受 容 し なけ れ ば な らな か っ た の か と い う
︑古 代日 本の 儀礼 受容 の意 味・ 目的 の一 端に つい て考 えた い︒ また
﹁郊 労﹂ とい う儀 礼の 名称 が使 用さ れる のは 平安 期に 入っ てか らで あり
︑こ の名 称が 固定 した こと にも 意義 を 認 める ので
︑便 宜上 本稿 では
︑こ の外 国使 節が 来朝 し入 京に 際し て出 迎え を行 う儀 礼を 入京 儀礼 と呼 んで 検討 する
︒ 一︑
唐 に おけ る 入 京儀 礼 最
初 に 日 本 の 儀 礼 受 容 の も と と な っ た
︑唐 で の 入 京 儀 礼 に つ い て 見 て お く︒ 唐 の 入 京 儀 礼 の 儀 式 文 と さ れ て い る"
︑﹃ 開 元礼
﹄﹁ 蕃主 来朝 以束 帛迎 労﹂ で儀 式次 第を 確認 する
︒ この 儀礼 の場 は︑ 儀式 文で は京 内の 客館 を想 定し てい るが
︑京 外の 駅館 で行 われ てい る実 例が いく つか ある
︒こ れ に つい ては
︑割 注に
﹁労
二
於遠 郊一
︑其 礼 同︒
﹂と あ り︑ 儀 式文 は 京 内の 客 館 を 会場 と し てい る が︑ 遠 郊
=
駅館 で の 場 合 にも 応用 され る︑ とい う見 解に 従う#
︒ま た︑ この 儀礼 の主 な目 的は
︑皇 帝 か ら の制 を 伝 え︑ 幣を 蕃 主 に渡 す こ と に ある
︒儀 式文 では
︑
日本古代における外国使入京儀礼 ― 174 ―
使 者 先 升二
立 於 西階 上一
︑ 執二
束 帛一
者︑ 従 升二
立 於 使者 之 北一
倶 東 面
︒蕃 主 升二
立 於 東 階 上一
西 面
︒使 者 執レ
幣 稱 有レ
制
︒蕃 主将
二
下拝
一
︑ 使者 曰︑ 有二
後 制一
無二
下 拝一
︒蕃 主旋 北面
︑再 拝稽 首︒ 使者 先宣
レ
制︒ 訖蕃 主進 受レ
幣︒ の 部 分 に 当 た る'
︒ こ こ で は 蕃 主 と し て 書 か れ て い る が
︑蕃 使 の 場 合 は 幣 は な く
︑皇 帝 か ら の 制 の 伝 達 の み で あ る(
︒﹃ 開 元 礼﹄ では
!
会 場 は 京内 の 客 館︑ あ るい は 駅 館で あ り︑"
蕃 使 に 対し て は
︑皇 帝 の 制 を 伝 え︑ 来 朝 を 労 う こ とを 主要 な目 的と した 儀礼 であ る︒ 次に 実例 を見 る︒
﹃ 旧唐 書﹄
・﹃ 新 唐書
﹄・
﹃ 冊府 元亀
﹄か ら唐 で行 われ た入 京儀 礼に 関わ る﹁ 迎労
﹂﹁ 郊労
﹂な どの 文 言 のあ る記 事を 取り 上げ
︑そ れに
︑﹃ 続 日本 紀﹄
・﹃ 日 本後 紀
﹄な ど に残 る 日 本の 遣 唐 使 が受 け た 入京 儀 礼 に関 わ る 記 事 を加 えて 作成 した のが
︑表 1
:
唐に おけ る入 京儀 礼の 実例 であ る︒ これ らの うち︑表 1│ 1は 都護 府へ 中央 から の 使 者が 派遣 され た事 例︑ 表1
│2 も東 北部 の柳 城へ
︑通 常︑ 外交 に関 わる 使者 とは なら ない 尚書 兵部 の職 方郎 中が 派 遣 され た事 例︑ また 表1
│9 は節 度使 が天 子の 使者 を迎 えて いる 事例 であ り︑
﹁ 迎労
﹂﹁ 郊労
﹂と いう 語句 が用 いら れ て いる が︑ 入京 儀礼 とは 言い 難い
︒し かし
︑い ずれ も外 交に 関わ る事 例で ある ので 参考 のた めに 掲げ た︒ 日本 の遣 唐 使 が受 けた 入京 儀礼 記事
︵表 1│
#
・$
・%
・&
︶ は︑ 中国 史料 のも のよ りも 具体 的に 儀礼 の様 子が 分か る︒ 日本 の 遣 唐 使 に対 し て は︑ 皇帝 の 使 い が長 楽 駅 まで 迎 え にき て
︑勅 を 宣 し︑ 良馬 を 与 える と い う儀 礼 が 行 わ れ て い る︒ ま た
︑表 1│ 7の 事例 は回
)
の 入朝 に際 し︑ 長楽 駅で 百官 が迎 えて いる︒こ れは 通常 より も丁 寧な 礼が とら れた イレ ギ ュ ラー な事 例で はあ るが
︑長 楽駅 が儀 式の 場で あっ たこ とが 分か る︒ 特に 中国 史料 では
︑イ レギ ュラ ーな 事例 が記 録さ れ残 され てい るた め︑ ここ から 入京 儀礼 の一 般的 なす がた を抽 出 す るこ とは 難し い︒ 日本 の遣 唐使 の事 例 も含 め た 上で
︑実 例 を 見る と
︑﹃ 開 元 礼﹄ には な い 要素 と し て︑ 馬を 与 え る こ と︑ 酒脯 をと もな う宴 会が 行わ れて いる
︒し かし 皇帝 の勅
︵制
︶が 存在 する こと
︑
#
以降 は長 楽駅 が使 用さ れて い― 175 ― 日本古代における外国使入京儀礼
表 1 唐 に お け る 入 京 儀 礼 の 実 例 no
年
本
文
出 典 1 不 明 聖 暦 頃 か
︵ 六 九 八
〜 九
︶
及 黙 啜 將レ
至二
單 于 都 護 府一
乃 令二
歸 道一
攝二
司 賓 卿一
迎 勞 之
︒
旧 唐 書 一 八 五 上 田 帰 道 2 貞 観 十 四 年
︵ 六 四
〇
︶ 十 二 月 乙 卯
︑( 麗 長 子 桓 權 來 朝
︒ 遣下 二
職 方 郎 中 陳 大 徳一
迎中
労 於 柳 城上
︒
冊 府 元 亀 九 七 四 外 臣 部 褒 異 3 貞 観 二 十 二 年︵ 六 四 八
︶ 十 二 月
︑ 新 羅 國 遣二
其 相 伊 贊 子 金 春 秋 及 其 子 文 王一
來 朝
︒ 帝 遣二
光 祿 卿&
亨一
持 節 郊 勞 之
︒ 既 至 以二
春 秋
一
為二
特 進一
︑ 文 王 為二
左 武 衛 將 軍
一
︒ 春 秋 仍 請レ
改二
其 章 服一
︑ 以 從二
中 國 製一
︒ 于 是 内 出二
珍 服一
︑ 賜二
春 秋 等一
︑ 令 三 府 給二
其 將 從一
︒
冊 府 元 亀 九 七 四 外 臣 部 褒 異 4 聖 歴 二 年
︵ 六 九 九
︶
※ 5 と 同 事 例
︒
發レ
使 召 欽 陵
・ 贊 婆 等
︒ 欽 陵 舉レ
兵 不レ
受レ
召
︒ 贊 婆 自 帥レ
衆 討 之
︒ 欽 陵 未レ
戰 而 潰 遂 自 殺
︒ 其 親 信 左 右 同 日 自 殺 者 百 餘 人
︒ 贊 婆 率二
所 部 千 餘 人 及 其 兄 子 莽 布 支 等
一
來 降
︒則 天 遣
二
羽 林 飛 騎一
︑郊 外 迎 之
︒授
二
贊 婆 輔 國 大 將 軍
・ 行 右 衞 大 將 軍一
︑封
二
歸 徳 郡 王一
︒ 優 賜 甚 厚
︒
旧 唐 書 一 九 六 上 吐 蕃 5
聖 歴 二 年
︵ 六 九 九
︶
※ 4 と 同 事 例
︒
則 天 聖 歴 二 年 十 月
︑ 吐 蕃 首 領 贊 婆 至
︑ 遣二
羽 林 飛 騎
一
郊 外 迎 之
︒ 庚 戌
︑ 宴二
贊 婆 於 武 威 殿一
︑ 極 歓 而 罷
︒
冊 府 元 亀 九 七 四 外 臣 部 褒 異
! 大 足 元 年
︵ 七
〇 一
︶ 往 時
︑ 遣 唐 使 粟 田 朝 臣 真 人 等
︑ 発レ
従二
楚%
一
到二
長 樂 駅
一
︑ 五 品 舎 人 宣レ
勅 労 問
︒ 此 時 未レ
見二
拝 謝 之 礼一
︒
続 紀 宝 亀 十 年 四 月 辛 卯 条 7 至 徳 二 年
︵ 七 五 七
︶ 十 一 月 回) 葉 護 自二
東 京一
至
︒ 勅二
百 官一
於二
長 樂 驛一
迎 之
︒ 帝 御二
宣 政 殿一
宴 設
︑ 葉 護 升 殿
︑ 其 餘 酋 長 列二
於 階 下一
︑ 賜 錦 綉' 綵 金 器 銀 物 甚 衆
︒ 葉 護 辭 歸
︒
冊 府 元 亀 九 七 三 外 臣 部 助 国 討 伐
"
大 暦 十 三 年
︵ 七 七 八
︶ 正 月 十 三 日
二到 長
一安
︑ 即
二遣 内 使 趙 宝
一英
︑
レ将 馬 迎 接
︑
二安 置 外
一宅
︒
続 紀 宝 亀 九 年 十 一 月 乙 卯 条 9 貞 元 四 年
︵ 七 八 八
︶ 貞 元 四 年
︑ 與レ
奚 共 寇
二
振 武一
︒ 節 度 使 唐 朝 臣 方 郊 勞
二
天 子 使 者
一
︒ 驚 而 走 軍
︑ 室 韋 執レ
詔 使 大 殺 掠 而 去
︒ 明 年 使 者 來 謝
︒
新 唐 書 二 一 九 室 韋
# 貞 元 二 十 年
︵ 八
〇 四
︶ 十 二 月 廿 一 日 到二
上 都 長 楽 駅
一
宿
︒ 廿 三 日 内 使 趙 忠
︑ 将
二
飛 龍 家 細 馬 廿 三 匹一
迎 来
︑ 兼 持二
酒 脯一
︑ 宣 慰
︒ 駕 即 入二
京 城一
︑ 於 外 宅 安 置 供 給
︒
後 紀 延 暦 二 十 四 年 六 月 乙 未 条
$ 開 成 三 年
︵ 八 三 八
︶
︵ 正 月 廿 一 日
︶⁝ 到二
長 楽 駅一
︑ 迎二
着 勅 使一
︑ 伝 陳二
詔 問一
︑ 使 到二
礼 賓 院一
︑ 兼 朝 拝 畢
︒
入 唐 求 法 巡 礼 行 記 囲 み
○ 数 字 は 日 本 の 遣 唐 使 に つ い て の 記 事 を 示 す
︒﹃ 旧 唐 書
﹄﹃ 新 唐 書
﹄ は 中 華 書 局 標 点 本 を
︑﹃ 冊 府 元 亀
﹄ は
﹃ 校 訂 本 冊 府 元 亀
﹄ 鳳 凰 出 版 社
︑ 二
〇
〇 六 年 を 用 い た
︒
日本古代における外国使入京儀礼 ― 176 ―
る こと から
︑八 世紀 には
︑基 本的 に﹃ 開元 礼﹄ 儀式 文に 沿っ た形 で入 京儀 礼が 行わ れて いる
︒ま た︑ 八世 紀以 降︑ 唐 に おい てこ の儀 礼に 大き な変 化は なか った よう であ る!
︒ 二︑
日 本 にお け る 入京 儀 礼
︵一
︶七 世紀 の事 例 次に 唐の 儀礼 との 共通 点︑ 相違 点に 留意 しつ つ︑ 日本 の入 京儀 礼の 変遷 を追 う︒ 七世 紀に おけ る入 京儀 礼の 実例 は推 古朝 の二 例の みで ある
"
︒推 古天 皇 十 六 年︵ 六〇 八
︶に 隋 使裴 世 清 を海 石 榴 市 で 迎 え たの が 初 例で あ る︵ 表2
:
日 本 に お ける 入 京 儀礼 の 実 例│ 1︶#
︒こ の 入 京 儀礼 が 行 われ た の は︑ 初 め て 外 国 使 への 儀礼 が大 王の 宮で 執り 行わ れた ため であ る︒ それ まで 外国 使は 難波 に留 まっ てい たの で入 京の ため の︵ ここ で は 飛鳥 へ入 るた めの
︶儀 礼を 行う 必要 がな かっ た︒ この とき は船 で大 和川 水系 を遡 り︑ 海石 榴市 付近 まで 到達 し︑ そ の 後︑ 陸路 をと るの で︑ ここ で馬 が必 要と なる
$
︒隋 使に 対し て中 国風 の儀 礼を 行 う と いう 側 面 はも ち ろ んあ る と 思 わ れ る が︑ 駅制 の 整 備以 前 に 当 たる の で%
︑ 移 動手 段 と して の 馬 を も た ら す と い う 物 理 的 な 必 要 も あ っ た と 思 わ れ る
︒ま た﹁ 以告
二
礼辞
一
﹂ とあ るこ とか ら︑ 天皇 から の労 いの 言葉 かは 不明 であ るが
︑な にか しら のメ ッセ ージ が伝 え ら れて いる
︒ この 二年 後の 推古 天皇 十八 年︵ 六一
〇︶ には 新羅 使・ 任那 使に 対し て隋 使と 同様 に︑ 馬で の出 迎え を行 い︑ 阿斗 河 邊 館 ま で送 っ て いる
︵表 2│ 2︶
︒ 七世 紀 に は 外国 使 の 入京 自 体 は︑ 舒明 朝 の 三 例︑ 皇 極 朝 の 二 例︑ 孝 徳 朝 の 一 例
︑ 斉 明朝 の一 例︑ 天武 朝の 三例
︑と 何例 かあ るの だが
&
︑入 京儀 礼に つい て は 不 明で あ る︒ 推 古朝 の 二 例か ら
︑こ の 時
― 177 ― 日本古代における外国使入京儀礼
期 には
!
物 理的 な馬 の必 要性 が高 い︑"
儀 礼の 場所 が海 石榴 市と いう こと が確 認さ れる
︒ 表
2 日 本 に お け る 入 京 儀 礼 の 実 例 no
年
・ 月 日
記
事
出 典 1 推 古 天 皇 十 六 年
︵ 六
〇 八
︶ 八 月 癸 卯 条
唐 客 入 京
︒是 日
︑遣
二
餝 馬 七 十 五 疋一
︑而 迎二
唐 客 於 海 石 榴 市 衢一
︑額 田 部 連 比 羅 夫
︑以 告
二
礼 辞一
焉
︒
書 紀 後 十 日 又 遣二
大 礼 哥 多 毘一
従二
二 百 余 騎一
郊 労
︑ 既 至二
彼 都一
︒
隋 書 倭 国 伝 2 推 古 天 皇 十 八 年
︵ 六 一
〇
︶ 十 月 丙 申 条
新 羅
・ 任 那 使 人 臻
二
於 京一
︒ 是 日
︑ 命二
額 田 部 連 比 羅 夫一
︑ 為下
迎
二
新 羅 客
一
荘 馬 之 長
上
︒ 以
二
膳 臣 大 伴一
為下
迎二
任 那 客一
荘 馬 之 長上
︒ 即 安二
置 阿 斗 河 邊 館一
︒
書 紀 3 慶 雲 二 年
︵ 七
〇 五
︶ 十 一 月 己 丑 条
徴二
発 諸 国 騎 兵一
為レ
迎二
新 羅 使一
也
︒ 以二
正 五 位 上 紀 朝 臣 古 麻 呂一
為二
騎 兵 大 将 軍一
︒
続 紀 慶 雲 三 年
︵ 七
〇 六
︶ 正 月 朔 条
天 皇 御二
大 極 殿一
受レ
朝
︒ 新 羅 使 金 儒 吉 等 在レ
列
︒ 朝 廷 儀 衛 有レ
異二
於 常一
︒
続 紀 4 和 銅 七 年
︵ 七 一 四
︶ 十 一 月 乙 未 条
新 羅 国 遣二
重 阿! 金 元 静 等 廿 余 人一
朝 貢
︒差
二
発 畿 内 七 道 騎 兵 合 九 百 九 十
一
為
レ
擬
二
入 朝 儀 衛
一
也
︒
続 紀 和 銅 七 年
︵ 七 一 四
︶ 十 二 月 己 卯 条
新 羅 使 入 京
︒ 遣下 二
従 六 位 下 布 勢 朝 臣 人
・ 正 七 位 上 大 野 朝 臣 東 人一
率二
騎 兵 一 百 七 十
一
迎
中
於 三 椅上
︒
続 紀 5 天 平 勝 宝 四 年︵ 七 五 二
︶ 又 新 羅 朝 貢 使 王 子 泰 廉 入 京 之 日
︑ 官 使 宣 命
︑ 賜
二以 迎
一馬
︒ 客 徒
レ歛 轡
︑ 馬 上 答 謝
︒
続 紀
・ 宝 亀 十 年 四 月 辛 卯 条 6 天 平 勝 宝 六 年
︵ 七 五 四
︶ 二 月 四 日 条
四 日 入 京
︑ 勅 遣下 二
正 四 位 下 安 宿 王一
於二
羅 城 門 外一
︑ 迎 拝 慰 労上
︒
唐 大 和 上 東 征 伝 同 右
略 歇 息 少 時 入レ
京
︑ 勅 使 遣二
晏 宿 王 正 四 品一
於 南 同 門一
︒
﹃ 東 大 寺 要 録
﹄ 所 引 大 和 尚 伝 7 宝 亀 十 年
︵ 七 七 九
︶ 以 前
但 渤 海 国 使 皆 悉 下 馬
︑ 再 拝 舞 踏
︒
続 紀
・ 宝 亀 十 年 四 月 辛 卯 条
日本古代における外国使入京儀礼 ― 178 ―
︵二
︶藤 原京 成立 以降
!
大 規 模騎 兵を 伴う 入京 儀礼 次に 入京 儀礼 が見 られ る の は︑ 慶雲 二 年︵ 七〇五
︶で あ る︵ 表2
│3
︶︒ 諸 国 の 騎兵 を 徴 発し て い るが
︑こ れ は 入 京 まで の路 次の 逓送 に関 わる もの も含 んで いる と思 われ る"
︒ この とき の儀 礼 の 場 所は 史 料 には 書 か れて い な い︒ こ の 儀礼 は平 城京 では 羅城 門外 で行 われ るが
︑地 形的 に見 て藤 原京 の朱 雀大 路南 端に 羅城 門は なか った と考 えら れる の で
︑京 外の どこ か︑ おそ らく は海 石榴 市で 行っ たと 思わ れる
︒ 和銅 七年
︵七 一四
︶に は平 城京 への 入京 に際 し︑ 騎兵 一七
〇人 を率 い京 城門 外の 三椅 で新 羅使 を迎 えて いる
︵表 2
8 宝 亀 九 年
︵ 七 七 八
︶ 十 二 月 丁 亥 条
仰二
左 右 京一
差下
発 六 位 已 下 子 孫 堪二
騎 兵一
者 八 百 人上
︑ 為二
唐 客 入 朝一
也
︒
続 紀 宝 亀 九 年
︵ 七 七 八
︶ 十 二 月 戊 戌 条
仰二
陸 奥 出 羽一
追二
蝦 夷 廿 人一
︒ 為レ
擬二
唐 客 拝 朝 儀 衛一
也
︒
続 紀 宝 亀 十 年
︵ 七 七 九
︶ 四 月 庚 子 条
唐 客 入 京
︒ 将 軍 等 率二
騎 兵 二 百
・ 蝦 夷 廿 人一
迎二
接 於 京 城 門 外 三 橋一
︒
続 紀 9 承 和 九 年
︵ 八 四 二
︶ 三 月 壬 戌 条
渤 海 客 徒 賀 福 延 等 発レ
自二
河 陽一
入二
于 京 師一
︑ 遣二
式 部 少 輔 従 五 位 下 藤 原 朝 臣 諸 成一
為二
郊 労 使一
︒ 是 夕
︑ 於二
鴻 臚 館一
安 置 供 給
︒
続 後 紀 10
嘉 祥 二 年
︵ 八 四 九
︶ 四 月 辛 亥 条
領 客 使 等 引二
渤 海 国 使 王 文 矩 等一
入 京
︑ 遣下 二
勅 使 左 近 衛 少 将 従 五 位 下 良 岑 朝 臣 宗 貞
一
慰 労
︑ 安中
置 鴻 臚 館上
︒
⁝
﹇ 後 略
﹈︒
続 後 紀 11
貞 観 十 四 年
︵ 八 七 二
︶ 五 月 十 五 日 条
甲 申
︒ 勅 遣下 二
従 五 位 上 守 右 近 衛 少 将 藤 原 朝 臣 山 陰一
︑ 到二
山 城 国 宇 治 郡 山 科 村一
郊 迎 労
中
渤 海 客上
︒ 領 客 使 大 春 日 朝 臣 安 守 等
︑ 与二
郊 労 使一
共 引二
渤 海 国 入 覲 大 使 政 堂 省 左 允 正 四 品 慰 軍 上 鎭 将 軍 賜 紫 金 魚 袋 楊 成 規
・ 副 使 右 猛 賁 衛 少 将 正 五 品 賜 紫 金 魚 袋 李 興 晟 等 廿 人
一
入 京
︑ 安二
置 鴻 臚 館一
︒
三 代 実 録 12
元 慶 七 年
︵ 八 八 三
︶ 四 月 二 十 八 日 条
甲 子
︒ 勅 遣下 二
右 近 衛 少 将 正 五 位 下 平 朝 臣 正 範一
︑ 到二
山 城 国 宇 治 郡 山 科 野 邊一
︑ 郊中
労 渤 海 客上
︒ 領 客 使 少 外 記 大 蔵 善 行 等
︑ 引二
客 徒一
入二
鴻 臚 館一
︒
三 代 実 録
― 179 ― 日本古代における外国使入京儀礼
│ 4︶"
︒ この よ う な大 規 模 な騎 兵 の 動 員は
︑宝 亀 十 年︵ 七七 九
︶に 唐 使の 来 朝 に 際 し て 行 わ れ て い る︵ 表2
│8
︶︒ 騎 兵を 伴う 入京 儀礼 につ いて は︑ 鈴木 靖民 氏が
﹁そ の意 義は
⁝大 がか りな 入朝 儀衛 をす るこ とに あり
︑朝 賀の 儀と も ど も日 本が 唐と 同様 に国 威を 誇り
︑四 方の 蕃夷 に優 越し た一 帝国 とし ての 姿を まさ に体 現す るこ とに あっ たの であ ろ う
﹂と 述べ られ てい る#
︒ 羅城 門外 で騎 兵を 率い て外 国使 を迎 える 意義 はま さに 鈴 木 氏 の述 べ る るよ う な 外国 使 に 対 す る示 威行 為に あっ たの であ ろう
︒隼 人や 蝦夷 が入 朝し
︑元 日朝 賀に 参加 する 場合 にも 騎兵 が使 用さ れて おり
︑こ こ に も鈴 木氏 の指 摘す るよ うな 朝廷 側の 意図 を窺 うこ とが でき る︒ また
︑騎 兵の 徴発 はこ のよ うな 外国 使・ 蝦夷
・隼 人 ら の入 京に 伴う もの 以外 は天 皇の 行幸 や東 北で の戦 争に 際し て行 われ おり
︑特 別な 措置 であ った と言 える
︒
!
和 銅 七年 以降 の入 京儀 礼 新羅 使の 入京 は藤 原京・平 城京 の時 期を 通じ て十 例︵ 和銅 七年 以降 は 五 例︶ 見 られ る が$
︑ 新 羅使 に 対 する 入 京 儀 礼 に関 する 記事 は二 例し かな く︑ 外国 使入 京例 に比 して かな り少 ない
︒ま た︑ 和銅 七年 から 宝亀 十年 の入 京儀 礼ま で 約 六〇 年間 も間 隔が 空い てい る︒ これ は︑ この 間 にも 騎 兵 によ る 入 京儀 礼 が 一 貫し て 行 われ て い た が︑
﹃続 紀
﹄に 記 事 とし て残 らな かっ たと も解 釈で きる が︑ 果た して そう なの だろ うか
︒こ の間 の入 京儀 礼の 様子 を窺 うこ とが でき る の が︑
﹃ 続紀
﹄宝 亀十 年四 月辛 卯条 にあ げる 先例 であ る
︒こ の 記事 は
︑大 宰 府に 到 着 し た唐 使 を 京ま で 連 れて く る 領 客 使が
︑中 央に 問い 合わ せた 内容 を載 せて いる
︒
⁝ 又新 羅王 子泰 廉入 京之 日︑ 官使 宣命
︑賜 以二
迎 馬一
︑客 徒歛
レ
轡︑ 馬上 答謝
︑但 渤海 国使
︑皆 悉下 馬︑ 再拝 舞踏
︒ 今 領二
唐 客一
︑准
二
拠何 例一
者︒ 天 平勝 宝四 年︵ 七五 二︶ に来 朝し た新 羅王 子に 対し
︑入 京の 日に
︑官 使が 宣命 を読 み︑ 迎馬 を賜 った こと が記 され て い る︒ また 同様 の儀 礼が 渤海 使に 対し て行 われ てい たが
︑そ の際 の拝 礼の 作法 は新 羅使 が行 った もの とは 異な って い
日本古代における外国使入京儀礼 ― 180 ―
た と述 べて いる
︒行 われ た場 所は 不明 だが
︑使 いが 宣命 を告 げ︑ 馬を 与え ると いう
︑唐 にお ける 実例 に近 い入 京儀 礼 が 行わ れて いる
︒ま た︑
﹃ 続紀
﹄当 該条 には 表れ なく と も︑ 実 際に は 和 銅七 年 か ら 宝亀 十 年 の間 に も 新羅 使
・渤 海 使 の 入京 に際 し︑ 入京 儀礼 が行 われ てい るこ とが 確認 され る︒ また
︑こ こか ら大 規模 な騎 兵を 伴う 儀礼 の様 子は 窺え ない
︒こ の記 事は 主に 拝礼 につ いて 問題 にし てい るた め︑ 騎 兵 の動 員は あっ たが 触れ てい ない とい う可 能性 もあ る︒ しか し﹃ 続紀
﹄当 該条 に入 京儀 礼に 関す る記 事が ない こと を 考 える と︑ おそ らく 騎兵 の動 員は なか った と思 わ れる
︒大 規 模 な騎 兵 の 動員 が あ っ たな ら
︑特 別 な措 置 で あ るの で
︑ 記 事と して 残る と思 われ る︒ また
︑動 員の ため の畿 内・ 七 道諸 国 へ の命 令 な ども 記 事 と して 残 り そう な も の であ る
︒ そ れが ない とい うこ とは
︑和 銅七 年以 降は
︑新 羅使 及び 渤海 使に 対し
︑入 京儀 礼自 体は 行わ れて いた が︑ 大規 模な 騎 兵 を伴 うも ので はな くな って おり
﹃続 紀﹄ に記 載さ れな かっ たと 考え られ る︒ また
︑外 交使 節で はな いが
︑天 平勝 宝 六年
︵七 五 四︶ の 鑑真 の 来 朝の 際 に
︑羅 城 門外 で 勅 使安 宿 王 が﹁ 迎 拝慰 労
﹂ を 行っ てお り︵ 表2
│6
︶︑ 羅 城門 付近 の地 点が 入京 に 際 して 勅 使 が儀 礼 を 行 う場 と な って い る︒ し たが っ て
︑こ の 新 羅使
・渤 海使 に対 する 入京 儀礼 が行 われ たの も︑ 羅城 門付 近と 考え られ る︒
﹁ はじ めに
﹂で 述べ た︑
︵A
︶推 古朝 に行 われ た海 石榴 市で の騎 馬で の出 迎え
↓
︵B
︶藤 原京
・平 城京 での 大規 模 な 騎兵 での 出迎 え
↓︵ C︶ 平安 京 遷都 後 に 行わ れ る 山科
・山 崎 で の 郊労
︑と い う 入京 儀 礼 に 加え て
︵B
︶と
︵C
︶ の 間に 新た に﹁ 平城 京羅 城門 外に おけ る宣 命・ 迎馬
﹂と いう 段階 があ ると 言え る︒ 唐で の実 例に 近づ き︑ 騎兵 の動 員 を 行わ なく なっ てい る︒ また
︑宝 亀十 年の 唐使 に対 する 事例 につ いて は︑ 蝦夷 まで 動員 され てお り︑ 高表 仁の 来朝 以 来 約百 五十 年ぶ りの 唐使 の来 朝に 際し た︑ かな りイ レギ ュラ ーな もの と 見 な せる と 思 う!
︒ 朝廷 は 和 銅七 年 以 降︑ 基 本 的 に 外国 使 入 京儀 礼 で の︑ 騎 兵の 動 員 を行 っ て いな い 可 能 性が 高 い︒ あ るい は こ こで 朝 廷 の 外国 使 に 対 す る 方 針
― 181 ― 日本古代における外国使入京儀礼
が
︑武 力に よる 示威 行為 を前 面に 押し 出す もの から
︑変 化し たの かも しれ ない
︒ これ と同 様の 変化 が︑ 蝦夷
・隼 人に つい ても 指摘 でき る︒ 和銅 二年
︵七
〇九
︶の 隼人 の入 朝︑ 翌年 の正 月朔 の蝦 夷
・ 隼人 の参 加し た元 日朝 賀︑ 霊亀 元年
︵七 一五
︶の 蝦夷 や南 嶋の 人々 の参 加し た元 日朝 賀に は大 規模 な騎 兵が 登場 し て いた が"
︑ 霊亀 元年 以降
︑彼 らの 入朝 に際 して の騎 兵の 動員 は見 られ な く な る︒ 霊亀 元 年 は︑ 朝賀 で 貢 物儀 礼 が 執 り 行わ れた 唯一 の例 であ ると 指摘 され てい る#
︒ この 朝賀 での 貢物 儀 礼 は︑ 唐 では 見 ら れる が
︑日 本 では 結 局
︑定 着 し なか った
︒こ のと きの 朝賀 には
︑前 年の 和銅 七年 六月 に元 服し た皇 太子 首皇 子が 参加 して おり
︑そ のた め騎 兵の 動 員
︑蝦 夷・ 隼人
・南 島人 らの 貢物 を伴 う盛 大な 儀礼 が行 われ たの かも しれ ない
︒し かし これ 以降
︑蝦 夷・ 隼人 に対 す る 儀礼 での 騎兵 の動 員は 見ら れな い︒ この 霊亀 元年 をピ ーク とし て︑ 朝廷 の彼 らへ の対 応が 騎兵 を使 用し ない 形へ 変 化 した とも 言え る︒ これ は外 国使 への 入京 儀礼 の変 化と 時期 をほ ぼ同 じく して いる
︒
︵三
︶平 安遷 都以 降
!
九 世 紀の 入京 儀礼 平安 遷都 以降 は︑ 外交 儀礼 を受 け るの は 渤 海使 の み とな る︒実 例 と して
︑承 和 九 年︵ 八四 二
︶︑ 貞 観十 四 年
︵八 七 二
︶︑ 元 慶七 年︵ 八八 三︶ のも のが 残る
︵表 2│ 9・ 11・ 12︶︒
ま た嘉 祥二 年︵ 八四 九︶ には 入京 儀礼 の内 容を 明確 に 記 して はい ない が︑ 渤海 使を 率い 入京 して いる
︵表 2│ 10︶︒
この 時期 の入 京儀 礼は
︑儀 礼の 場が 山科
・河 陽と なり
︑ 入 京儀 礼を 行う 官人 が﹁ 郊労 使﹂ と呼 ばれ
︑近 衛府
・式 部省 の官 人が 派遣 され る︒ まず 会場 とな る場 所で ある が︑ 畿 内 の入 り口 に当 たる 地点 で行 われ てい る︒ 瀧川 氏は 都の 一つ 前の 駅で 行わ れて いた 唐の 実例 との 類似 性を 強調 され る が$
︑駅 館で 行わ れた とは 考え にく い︒ 確か に河 陽に は付 近に 山崎 駅 が あ る︒ しか し
︑一 方 の山 科 に は︑ かっ て 山 科
日本古代における外国使入京儀礼 ― 182 ―
駅 があ った が︑ 平安 京遷 都に 伴い
︑延 暦二 十三 年︵ 八〇 三︶ に廃 止さ れて いる
︒し たが って
︑平 安京 の一 つ手 前の 駅 は
︑北 陸道 なら 穴多 駅︑ 東海
・東 山道 な ら勢 多 駅 とな る
︒た だ︑ 渤 海使 が 北 陸 から 入 京 する 場 合︑
﹃ 延喜 式
﹄主 税 寮 式 上諸 国運 漕功 条に ある よう に"
︑ 琵琶 湖の 水運 を利 用し
︑近 江国 の塩 津か ら 大 津 まで 船 に 乗り
︑合 坂 山 を越 え て 入 京 した と思 われ る︒ 大津 から 平安 京ま での 間に は駅 がな いの で︑ 物理 的に 駅館 で儀 式を 行う こと は不 可能 であ る︒ そ の ため
︑﹃ 延 喜式
﹄大 蔵省 式蕃 客条 に 凡 蕃客 来朝 者︑ 官人
・史 生各 一人
︑率
二
蔵部 等一
︑向
二
郊労 処一
︑供
二
設幄
・幔
一
︒ と 規定 され てい るよ うに
︑幄
・幔 を用 いて 空閑 地 で 入京 儀 礼 を行 っ た と 思わ れ る︒ 入 京儀 礼 の 記事 で も
﹁山 科 村﹂
・
﹁山 科野 邊﹂ と表 して おり
︑こ の推 測を 裏付 ける
#
︒唐 のよ うな 駅館 での 儀礼 で は な いが
︑そ れ ま での 羅 城 門 外か ら
︑ 大 きく 移動 し︑ 畿内 の堺 に当 たる 地点 で行 って いる
︒こ れが
︑こ の時 期の 入京 儀礼 の変 化の ひと つで ある
︒ ま た︑ 入京 儀 礼 を﹁ 郊労
﹂と 呼 び︑ 派 遣さ れ る 使 を﹁ 郊労 使
﹂と 呼 ぶこ と が 史 料上 に 現 れ る の も こ の 頃 か ら で あ る
︒こ れに つい ては 後で 詳し く取 り上 げる
︒
!
九 世 紀末〜十 世紀 初頭 にお ける 入京 儀礼 六 国史 以 降 は︑ この 儀 礼 の 詳 細 に つ い て は わ か ら な い が
︑関 連 す る 記 事 が い く つ か あ る の で︑ そ れ を 列 挙 す る
︒
﹃扶 桑 略記
﹄延 喜 八 年︵ 九〇 八
︶四 月 二 十 六 日 条 に﹁ 渤 海 客
︑入 京 時 可レ
騎 馬︑ 准二
寛 平 例一
︑ 仰二
公 卿 等一
︑令
レ
進二
私 馬一
﹂と あり
︑寛 平七 年︵ 八九 五︶ の渤 海使 入京 の際 にも 同 様 の措 置 が とら れ た こ とが わ か る︒ 同年 五 月 五日 条 に は
﹁御
二
南 殿一
︑ 覧二
左右 馬寮 渤海 客可
レ
騎馬 各廿 疋一
︒﹂ と あり
︑そ の二 日後 の五 月七 日に は﹁ 午一 刻︑ 御二
南殿
一
覧二
陽成 院 及 大臣 已下 参議 以上 馬一
︒﹂ と あり
︑こ れも 渤海 使の ため の馬 の弁 備に 関わ るも のと 考え られ る︒ この 次の 渤海 使来 朝 の 際に も︑
﹃ 貞信 公記
﹄延 喜二 十年
︵九 二〇
︶五 月七 日条 に﹁ 御二
覧陽 成院 及諸 家馬
一
︒﹂ とあ り︑ これ もお そら く翌 日
― 183 ― 日本古代における外国使入京儀礼
の 客徒 の入 京に 関わ るも ので あろ う#
︒ この よう な馬 の弁 備に つい ての 記事 し か 残 らな い が︑ 寛 平の 先 例 を出 し て い る こと から
︑こ のよ うな 左右 馬寮 の馬 に加 え$
︑ 院や 公卿 らの 私馬 を使 用す る こ と は︑ 寛平 七 年 から の こ とで あ る と 思 う︒ 以 上︑ 日本 に お ける 入 京 儀礼 の 展 開 につ い て 見て き た︒ 入 京 儀礼 は 唐 礼を も と にし つ つ︑ 独 自 の 展 開 を 見 せ て い る
︒︵ A
︶最 初期 の推 古朝 の海 石榴 市 で の飾 馬 に よる 儀 礼
︑︵ B︶
!
藤 原 京︵ お そら く 海 石榴 市 で︶・ 平城 京
︵羅 城 門 外 で︶ にお ける 大規 模な 騎兵 を用 い た 儀礼
︑︵ B
︶
"
騎兵 は 用 いず
︑官 使 が 羅 城門 外 で︑ 宣 命を 伝 え︑ 迎 馬を 与 え る 儀 礼︑
︵ C︶ 平安 京遷 都以 降の 畿 内 堺で の
﹁郊 労﹂ と 呼ば れ る 儀 礼︑ と変 化 し てい る
︒ま た︑ 唐 礼の 受 容 は︵ B︶
"
で 大き く進 展し てい る︒ では
︵C
︶の 変化 はど のよ うな 性格 と位 置づ けら れる だろ うか
︒こ のと き新 たに 入京 儀礼 の 名 称と され た﹁ 郊労
﹂と いう 語句 を手 がか りに
︑こ の時 期の 儀礼 整備 の背 景に つい て検 討す る︒ 三︑
﹁ 郊 労﹂ と い う語 句 に つい て 先述
した よう に︑ 外交 儀礼 を扱 った 先行 研究 上で は
︑こ の 儀 礼は
﹁郊 労
﹂及 び﹁ 郊 労儀
﹂と 呼 ば れて い る%
︒し か し
︑入 京時 の出 迎え の儀 礼を
﹁郊 労﹂ と称 する のは
︑国 史で は﹃ 続日 本後 紀﹄ 承和 九年
︵八 四二
︶三 月壬 戌条 で初 め て 見ら れる
︒入 京儀 礼自 体は 七世 紀初 頭か ら見 られ るが
︑こ の儀 礼を 明確 に﹁ 郊労
﹂と 称す るの は平 安時 代に 入っ て か らで あり
&
︑そ れ以 前は
﹁迎
﹂・
﹁ 迎接
﹂等 と国 史で は言 及し てい る︒
日本古代における外国使入京儀礼 ― 184 ―
︵一
︶日 本に おけ る﹁ 郊労
﹂
﹁ 郊労
﹂に 関わ る法 制上 の規 定に つい ては すで に田 島氏 によ って 取り 上 げ ら れて い る が"
︑﹁ 郊 労
﹂と い う語 句 の 使 わ れる 時期 を中 心に 検討 する
︒﹃ 令 義解
﹄軍 防令 節刀 条の 養老 令本 文に
﹁郊 労﹂ が見 られ る︒ 凡 大将 出征
︑皆 授二
節 刀一
︒辞 訖︑ 不レ
得三
反 宿二
於 家一
︒其 家在
レ
京者
︑毎 月一 遣二
内舎 人一
存 問︒ 若有
二
疾 病一
者
︑給
二
医 薬一
︒ 凱旋 之日 奏遣
レ
使 郊! 労!
︒ こ の﹁ 郊労
﹂は 凱旋 する 将軍 に対 して 行わ れる もの であ り︑ 外交 に関 わる もの とし ては 言及 され ては いな い︒ 外交 と 関 わる もの とし てい るの は︑ 同条 の義 解の
﹁郊 労者
︑邑 外曰
レ
郊︑ 賓 至 迎二
労 之 於郊
一
︒﹂ で ある
︒#
軍 防 令 の規 定 な の で
︑直 接外 交儀 礼に つい て言 及し ない のは 当然 だが
︑こ こか ら︑ 義解 成立 の天 長十 年︵ 八三 三︶ に﹁ 郊労
﹂は 外国 使 に 対し て行 うも のと いう 認識 があ った こと は分 かる が︑ これ 以前 には 遡る こと はで きな い︒ また
﹃延 喜式
﹄太 政官 式 蕃 客条 は﹁ 郊労
﹂を 行う
﹁郊 労使
﹂に つい て規 定す る︒ 凡 蕃客 入朝 任二
存 問使
︑掌 客使
︑領 帰郷 客使 各二 人︑ 隋使 各一 人︑ 通 事 一人
一
︒入 京 之時 令下 二
存 問使
二
兼中
領 客使
上
︒又 預定
二
郊 労使
・慰 労 使・ 労問 使・ 賜衣 服使 各一 人︑ 宣 命使
・供 食 使各 二人
︑豊 楽 院各 一人
︑ 朝集 堂各 一人
︒賜 勅 書使
︑賜 太 政官 牒使 各二 人︒
一
史 一 人 随二
官 牒 使一
到二
客 館一
︒
こ れは
︑貞 観式 段階 で式 に入 れら れた こと が指 摘さ れて おり
$
︑九 世紀 以降 に 成 立 した 式 文 であ る
︒法 制 史料 上 に お い ても
︑入 京儀 礼を
﹁郊 労﹂ と呼 ぶの は︑ 九世 紀以 降の こと であ ると 考え られ る︒
︵二
︶中 国に おけ る﹁ 郊労
﹂ では
︑日 本が 影響 を受 けた 唐で 入京 儀 礼は ど の よう に 呼 ばれ て い る ので あ ろ うか
︒表 2を 見 て み ると
︑単 に
﹁迎
﹂
︵3
・6
︶と し た り
︑﹁ 迎 労﹂
︵ 4・ 5︶ と す る も の も あ り︑ 必 ず し も
﹁郊 労﹂ と は 呼 ば れ て い な い の で あ る
︒ま た
― 185 ― 日本古代における外国使入京儀礼
﹃開 元礼
﹄で はこ の儀 礼を
﹁蕃 主来 朝 以 束帛 迎 労﹂ と して お り
﹁郊 労﹂ と はし て い ない
︒唐 に お いて は
﹁郊 労
﹂と い う 語句 は積 極的 には 使用 され てい ない よう であ る︒ 一 方︑
﹁郊 労
﹂は
﹃儀 礼﹄
・﹃ 周 礼
﹄と い った 経 書 類 で使 用 さ れて い る!
︒特 に
﹃儀 礼
﹄に は 覲 礼 と し て﹁ 王 使 人 郊 労
﹂︑ 聘 礼と して
﹁郊 労﹂ とい う儀 礼の 次第 が載 せら れ て いる
︒覲 礼 は 諸侯 が 秋 に 天子 に 謁 見す る 礼︑ 聘 礼は 諸 侯 同 士 や︑ 諸侯 から 天子 に対 して 使者 を派 遣し 贈り 物な どを する 礼で
︑と も に 五 礼の 内 の 賓礼 に 属 する
"
︒覲 礼
﹁王 使 人 郊 労﹂ は︑ 使人 を遣 わし て︑ 諸侯 を郊 で労 う儀 礼︑ 聘礼
﹁郊 労﹂ も使 者︵ 賓︶ を郊 で労 う儀 礼で あり
︑﹃ 開 元礼
﹄﹁ 蕃 主 来朝 以束 帛迎 労﹂ と比 べる と細 かい 相違 点は ある もの の︑ 諸侯
︵﹃ 開 元礼
﹄で は﹁ 蕃主
﹂︶
・ 賓︵
﹃開 元礼
﹄で は﹁ 蕃 使
﹂︶ を 労う ため に館 舎に 使者 を遣 わ し︑ 命 を伝 え
︑幣 を 授け
︑そ の 後 で︑ 諸 侯・ 賓が 使 者 に対 し 幣 を授 け る
︑と い う 儀礼 とし ての 構造 は同 じで ある
︒ま た︑ 聘礼
﹁郊 労﹂ では
︑労 う者 が東 面し て命 を伝 え︑ 賓が 北面 して それ を聴 い て いる が︑
﹃ 開元 礼﹄ でも
︑使 者が 東 面し
︑制 を 伝 える 際 に 蕃 主が 北 面 して お り︑ 聘 礼﹁ 郊労
﹂・
﹃ 開 元礼
﹄で の 人 物 の 位置 関係 は一 致し てい る︒
﹃ 儀礼
﹄の あり 方 を もと に
﹃開 元 礼﹄ が整 備 さ れ たこ と が 確認 さ れ る︒ また
﹃春 秋 左 氏 伝
﹄に も︑ 他国 の使 いを 迎え る際 に﹁ 郊労
﹂を 行っ たこ とが 見ら れる
#
︒ 先に 述べ た︑
﹁ 郊労
﹂と いう 語句 の使 用の 状況 を 踏 まえ る と︑ 平 安期 に 入 り 入京 儀 礼 の名 称 と して
﹁郊 労
﹂を 採 用 し たの は︑ 唐礼 より も︑ むし ろ﹃ 儀礼
﹄・
﹃ 周礼
﹄や
﹃春 秋左 氏伝
﹄な どの 経書 の影 響が 大き いと 言え る︒ 朝廷 は単 純 に 唐を 模倣 する に留 まら ず︑ 広く 経書 に範 を求 めた もの と思 われ る︒ また 朝廷 は渤 海を 諸侯 とし て位 置づ けて いた こと が指 摘さ れて い る が$
︑ 経 書に 見 ら れる
﹁郊 労
﹂は ま さに 諸 侯 に 対 す る 儀 礼 と し て 描 か れ て い る︒ そ れ に 対 し て
﹃開 元 礼
﹄は
﹁蕃 主
﹂・
﹁ 蕃 使﹂ に 対 す る 儀 礼 と し て 規 定 し て い る
︒
﹁郊 労﹂ とい う名 称の 採用 は︑ ある いは この よう な朝 廷の 渤海 に対 する 位置 づけ と関 係し てい るの かも しれ ない
︒
日本古代における外国使入京儀礼 ― 186 ―
お わ り に こ
こま で
︑外 交 儀礼 の 一 部分 で あ る 入京 儀 礼 につ い て 七〜 十 世紀 を 通 して 述 べ た︒ 本稿 で 指 摘 し た こ と を ま と め る
︒
︵1
︶従 来︑ 藤原 京・ 平城 京で の入 京儀 礼は 大規 模な 騎 兵 によ る も のに つ い て 言及 さ れ てき た が︑ 平 城京 で は
︑和 銅 七 年以 降大 規模 な騎 兵の 動員 は見 られ ず︑ 羅城 門外 に おい て 官 使が 宣 命 を読 み
︑馬 を 与 える と い う儀 礼 が 行 われ た
︒ 入 京 儀 礼は 平 安 時代 初 頭 に 整備 が 進 むの で は なく
︑唐 礼 や 唐 の実 例 を 踏ま え た 儀礼 の 導 入 がす で に 八世 紀 に 見 ら れ る
︒
︵2
︶入 京儀 礼は 平安 京遷 都後
︑場 所が 畿内 の堺 へ と移 動 し た点
︑﹁ 郊 労﹂ と いう 儀 礼 の 名称 を 採 用し た 点 に おい て
︑ 大 きく 変化 して いる
︒
︵3
︶﹁ 郊労
﹂と いう 語句 は唐 にお ける 実 例及 び
﹃開 元 礼﹄ では あ ま り見 ら れ ず︑
﹃ 儀礼
﹄な ど の 経書 で 使 用さ れ て い る
︒﹃ 開 元礼
﹄の よう な儀 式書
・唐 にお ける 実例 とと も に︑ こ のよ う な 経書 の 影 響 を朝 廷 は 強く 受 け てい た
︒平 安 期 の 外交 儀礼 の整 備は
︑直 接に 唐の 賓礼 を導 入す るの では なく
︑そ のさ らに もと とな った 経書 の内 容を 取り 入れ ると い う 方向 性を 示し てい る︒ 以上
︑推 測を 重ね た部 分も 多い が︑ 外交 儀礼 の導 入が ある 程度 の段 階を 踏ん で進 んだ こと は示 せた かと 思う
︒大 方 の ご叱 正を 請う
︒
― 187 ― 日本古代における外国使入京儀礼
! 註 田 島 公
﹁ 日 本 の 律 令 国 家 の
﹁ 賓 礼
﹂﹂
︵﹃ 史 林
﹄ 六 八
│ 三
︑ 一 九 八 五 年
︶︒
"
瀧 川 政 次 郎 氏
﹁ 羅 城
・ 羅 城 門 を 中 心 と し た 我 が 国 都 城 制 の 研 究
﹂︵
﹃ 京 制 並 に 都 城 制 の 研 究
﹄ 角 川 書 店
︑ 一 九 六 七 年
︶ 第 五 章 第 三 節 三 椅 に お け る 外 国 使 節 の 迎 接
︑ 第 六 章 第 六 節 長 安 の 春 明 門 と 平 城
・ 平 安 京 の 羅 城 門
︑ 同 章 第 七 節 長 楽 駅
・- 橋 と 山 科 駅
・ 山 崎 の 橋
︒
# 田 島 公 氏
︑ 前 掲 論 文
︵ 1
︶ 五 三
〜 五 頁
︑ 浜 田 久 美 子
﹁ 延 喜 式 に 見 え る 外 国 使 節 迎 接 使
│ 太 政 官 式 蕃 客 条 と 治 部 式 蕃 客 条 の 検 討
│
﹂︵
﹃ 延 喜 式 研 究
﹄ 一 八
︑ 二
〇
〇 二 年
︶ 四 二
〜 三 頁
︒
$ 石 見 清 裕
﹁ 外 国 使 節 の 宴 会 儀 礼
﹂︵
﹃ 唐 の 北 方 問 題 と 国 際 秩 序
﹄ 汲 古 書 院
︑ 一 九 九 八 年
︑ 初 出 一 九 九 五 年
︶ 四 八 七 頁
︑ 浜 田 氏 前 掲 論 文# 四 二
〜 三 頁
︒
% 石 見 清 裕
﹁ 鴻 臚 寺 と 迎 賓 館
﹂︵ 前 掲 書$
︑ 初 出 一 九 八 八 年
︶ 三 六 一 頁
︑ 同 氏 前 掲 論 文$ 四 八 七 頁
︒
&
池 田 温 解 題
・ 古 典 研 究 会
﹃ 大 唐 開 元 礼
﹄ 汲 古 書 院
︑ 一 九 七 二 年
︒ ' 石 見 氏 前 掲 論 文% 四 八 七 頁
︒ ( 表 1 に 挙 げ た 七 世 紀 の 事 例 は
︑ 記 事 が 簡 略 で 不 明 な 点 が 多 い
︒ 但 し
︑ 表 1
│ 4
・ 5 は 場 所 を
﹁ 郊 外
﹂ と し て お り
︑ 駅 館 で 行 っ て い る 可 能 性 も あ る
︒ ま た
︑ こ の と き
﹁ 羽 林 飛 騎
﹂ が 派 遣 さ れ て お り
︑ 後 述 す る 日 本 の 飛 鳥
・ 奈 良 期 の あ り 方 と 同 様 に
﹁ 武
﹂ の 側 面 が 強 く で て い る
︒ ) 外 国 使 出 迎 え の 儀 礼 と し て
︑ 七 世 紀 以 前 か ら
︑ 難 波 で 船 に よ る 出 迎 え が 行 わ れ て い る が
︑ 今 回 の 考 察 で は 扱 わ な い
︒
* 推 古 朝 に お け る こ の と き の 外 交 儀 礼 に つ い て は
︑ 瀧 川 政 次 郎
﹁ 江 都 集 礼 と 日 本 の 儀 式
﹂︵ 岩 井 博 士 古 希 記 念
﹃ 典 籍 論 集
﹄︑ 一 九 六 三 年
︶ で は
︑ 日 本 で 最 初 の 賓 礼 と し て 位 置 づ け て い る
︒ そ れ に 対 し
︑ 廣 瀬 憲 雄
﹁ 倭 国
・ 日 本 の 隋 使
・ 唐 使 に 対 す る 外 交 儀 礼
﹂︵
﹃ ヒ ス ト リ ア
﹄ 一 九 五
︑ 二
〇
〇 五 年
︶ 五
〜 六 頁 で は
︑ 遣 隋 使 の 知 見 を も と に 儀 礼 は 行 わ れ
︑ 本 格 的 な 賓 礼 の 導 入 は 考 え に く い と し て い る
︒ + 坂 本 太 郎
﹁ 大 和 の 古 駅
﹂︵
﹃ 日 本 古 代 の 駅 と 道
﹄ 坂 本 太 郎 著 作 集 第 八 巻
︑ 一 九 八 九 年
︑ 初 出 一 九 六 七 年
︶ 四 一 一 頁
︒ , 岸 俊 男
﹁ 大 和 の 古 道
﹂︵
﹃ 日 本 古 代 宮 都 の 研 究
﹄ 岩 波 書 店
︑ 一 九 八 八 年
︑ 初 出 一 九 七 七 年
︶ 八 八
〜 九
〇 頁 で は
︑ 裴 世 清 来 朝 時 に は
︑ 外 使 を 迎 え る よ う な 道 路 が 整 備 さ れ て い な か っ た と 指 摘 し て い る
︒ ま た そ れ を 踏 ま え
︑ 木 下 良
﹃ 事 典 日 本 古 代 の 道 と 駅
﹄ 吉 川 弘 文 館
︑ 二
〇
〇 九 年
︑ 五 三 頁 で
﹁ 計 画 的 道 路 の 敷 設 は
﹃ 日 本 書 紀
﹄ 推 古 天 皇 二 十 一 年
︵ 六 一 三
︶ 十 一 月 条
﹁ 自 難 波
日本古代における外国使入京儀礼 ― 188 ―
至 京 置 大 道
﹂ に 始 ま る と 思 わ れ る
︒﹂ と 述 べ て い る
"
﹃ 日 本 書 紀
﹄ 舒 明 天 皇 二 年
︵ 六 三
〇
︶ 八 月 庚 子 条
﹁ 饗二
高 麗
・ 百 済 客 於 朝一
︒﹂
︑ 同 七 年 七 月 辛 丑 条
﹁ 饗二
百 済 客 於 朝一
︒﹂
︑ 同 十 一 年 十 一 月 朔 条
﹁ 饗二
新 羅 客 於 朝
一
︑ 因 給二
冠 位 一 級一
︒﹂ の 三 例
︒ 皇 極 天 皇 元 年
︵ 六 四 二
︶ 四 月 癸 巳 条
﹁ 大 使 翹 岐 将
二
其 従 者一
拝 朝
︒﹂ 同 年 七 月 乙 亥 条
﹁ 饗
二
百 済 使 人 大 佐 平 智 積 等 於 朝一
︒﹂ の 二 例
︒ 孝 徳 天 皇 は 大 化 元 年
︵ 六 四 五
︶ 七 月 丙 子 条
﹁ 高 麗
・ 百 済
・ 新 羅 並
レ遣 使 進 調
︒
⁝ 唯 百 済 大 使 佐 平 縁 福
︑
レ遇 病
二留 津
一館
︑ 而
レ不 入
二
於
一京
︒﹂ の 一 例
︒ 斉 明 天 皇 二 年
︵ 六 五 六
︶ 是 歳 条
﹁ 是 歳 於二
飛 鳥 岡 本一
︑ 更 定二
宮 地一
︒ 時 高 麗
・ 百 済
・ 新 羅 並 遣
レ
使 進 調
︑ 張
二
紺 幕 於 此 宮 地一
︑ 而 饗 焉
︒﹂ の 一 例
︒ 天 武 天 皇 六 年
︵ 六 七 七
︶ 三 月 辛 巳 条
﹁ 召二
新 羅 使 人 清 平 及 以 下 客 十 三 人 於 京一
︒﹂ 同 七 年 己 卯 条
﹁ 耽 羅 人 向
レ
京
︒﹂
︑ 同 八 年 正 月 丙 戌 条
﹁ 新 羅 送 使 加 良 井 山
・ 金 紅 世 等 向
レ
京
︒﹂ の 三 例
︒ 合 計 十 例 が あ る
︒
#
﹃ 令 義 解
﹄ 軍 防 令 蕃 使 出 入 条 に
︑﹁ 凡 蕃 使 出 入
︑ 伝
二
送 囚 徒 及 軍 物
一
︑ 須レ
人 防 援 者
︑ 皆 量 差二
所 在 兵 士
一
逓 送
︒﹂ と あ り
︑ 外 国 使 の 送 迎 に 諸 国 の 兵 士 を 用 い る こ と が 定 め ら れ て い る
︒
$ 羅 城 門 外 三 橋 に つ い て は
︑ 瀧 川 氏 前 掲 論 文! 二
〇 九
〜 一
〇 頁 で は 羅 城 門 前 の 三 枚 橋 と し
︑ 吉 田 東 伍
﹃ 大 日 本 地 名 辞 書
﹄ は 現 大 和 郡 山 市 三 橋 町 と の 関 連 を 指 摘 し
︑ 諸 説 が あ る
︒ こ こ で は 平 野 卓 治
﹁ 山 陽 道 と 蕃 客
﹂︵
﹃ 国 史 学
﹄ 一 三 五
︑ 一 九 八 八 年
︶ の
﹁ 朱 雀 大 路 の 延 長 線 上 に あ る と い う こ と は 確 実 で あ ろ う
﹂ と い う 見 解 に 従 う
︒
% 鈴 木 靖 民
﹁ 奈 良 初 期 の 対 新 羅 関 係
﹂︵
﹃ 古 代 対 外 関 係 史 の 研 究
﹄ 吉 川 弘 文 館
︑ 一 九 八 五 年
︑ 初 出 一 九 六 七 年
︶ 一 二 五
〜 六 頁
︒ ま た
︑ 瀧 川 氏 前 掲 論 文! 二
〇 三
〜 四 頁 に は
︑ 羅 城 門 の 意 義 に つ い て で は あ る が
︑﹁ 外 国 の 使 人 及 び 蕃 夷 を し て 日 本 天 皇 の 尊 厳 を 感 ぜ し め
︑ そ の 国 力 の 負 贍 な る こ と を 印 象 せ し め ん が た め で あ る
︒﹂ と し て い る
︒
&
新 羅 使 が 入 京 し た 確 実 な 例 は
︑ 文 武 天 皇 元 年
︵ 六 九 七
︶・ 文 武 天 皇 四 年
︵ 七
〇
〇
︶・ 慶 雲 二 年
︵ 七
〇 五
︶・ 和 銅 二 年
︵ 七
〇 九
︶
・ 和 銅 七 年
︵ 七 一 四
︶・ 神 亀 三 年
︵ 七 二 六
︶・ 天 平 四 年
︵ 七 三 二
︶・ 天 平 七 年
・ 天 平 勝 宝 四 年
︵ 七 五 二
︶・ 宝 亀 十 年
︵ 七 七 九
︶ で あ る
︒ ' 平 野 氏 前 掲 論 文$ 三 六
〜 七 頁 で
︑ こ の と き の 唐 使 に 対 し 行 わ れ た 儀 礼 は 七 世 紀 の 裴 世 清
・ 高 表 仁 ら の
﹁ 古 例
﹂ に 准 拠 し た 可 能 性 が 高 い こ と を 指 摘 し て い る
︒ (
﹃ 続 紀
﹄ 和 銅 二 年
︵ 七
〇 九
︶ 十 月 戊 申 条
・ 同 三 年 正 月 朔 条
・ 霊 亀 元 年
︵ 七 一 五
︶ 正 月 朔 条
︒ ) 藤 森 健 太 郎
﹁ 日 本 古 代 元 日 朝 賀 儀 礼 の 特 質
﹂︵
﹃ 古 代 天 皇 の 即 位 儀 礼
﹄ 吉 川 弘 文 館
︑ 二
〇
〇
〇 年
︑ 初 出 一 九 九 一 年
︶ 六 五
〜 六 頁
︒
― 189 ― 日本古代における外国使入京儀礼