イズマイロフ使節団と儀礼問題
一康煕帝直筆の一件の理藩院書簡をめぐって一 澁谷浩一
はじめに
17世紀から18世紀初めにかけての初期の清朝とロシアの交渉史において,交渉の際の儀礼 をめぐる紛糾は常に大きな問題となっていた。1656(順治十三)年に北京を訪れたバイコフ使 節は,ロシアが清朝へ向けて派遣した最初の正式な使節とされるが,この使節は儀礼問題の 紛糾によって本格的交渉の開始以前に北京を追放されてしまった。その後,ロシア側・清側 の双方とも交渉開始のために,儀礼上の問題には一定の譲歩を見せるようになる。1676(康 煕十五)年に北京に来たスパファリ使節の場合は,到着後20日間に亘って儀礼問題で紛糾し たが,結局妥協が図られ,交渉が開始された。1)
ロシア使節が北京入りした際,儀礼の上でまず問題となったのは,ロシア皇帝の国書(信 任状)をどのような形で清側に提出するかという点であった。ロシア側は,清の皇帝に謁見 して直接捧呈することを要求したが,清側は大臣への提出を求めたのである。また,皇帝へ の謁見の際中国式の三脆九叩頭の礼を行なうかどうかも常に問題となった。このような問 題が生じた背景として通常指摘されるのは,国際関係に対する両者の認識の違いである。す なわち,清側は中国の伝統的な中華思想に基づく朝貢の枠内でロシアとの関係を捉え,ロシ アからの使節もすべて朝貢使として扱おうとした。一方,ロシア側は当時のヨーロッパで慣 例となっていた,対等関係を原則とする外交儀礼を清側に要求した。この場合,大使・公使
といった身分の高い外交使節は君主の代理であり,尊敬をもって扱われるべきであった。2)
ところで,初期の清朝とロシアの関係においては,ネルチンスク条約やブーラ条約のよう な国境画定条約を除くと,重要な交渉はロシア使節が北京に赴き,そこで行なわれることが 多かった。その交渉の過程は,主としてロシア使節が残した報告書によって明らかにされ,
それに対応する清側の史料は少ない。3)儀礼問題にしても,ロシア使節の報告書には,ロシア 側から見ると理不尽な清側の態度・要求がかなり詳細に記録されており,これは清側の動向 を探る上で貴重な史料と言えるが,それを裏付ける清側の史料が極めて乏しいことも確かで
ある。
筆者は,1999年9月,北京の中国第一歴史棺案館で満文史料を調査中に,従来知られてい ない,イズマイロフ使節団の北京滞在時のものと考えられる清側の満文文書を発見した。こ の文書には,ロシア使節を迎えた清側の,儀礼問題に関する本音とも言える内容が含まれて おり,大変興味深い。そこで本稿では,この新出史料の紹介を中心とし,これにロシア側の
『人文学科論集』34,pp.27−37. ⑥2000茨城大学人文学部(人文学部紀要)
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記録を対比させることによって,外交上の儀礼をめぐる清側とロシア側の認識の差を浮き彫 りにしてみたい。なお,筆者はかつて,清側官僚であるトゥリシェン(図理深)に注目し,彼 の対ロシア政策との関りを通観しながら,清の対露関係認識の問題を論じたことがある。4)そ の際は,トゥリシェンの事績に焦点を当てたため,イズマイロフ使節団を迎えた際の清側の 姿勢についてはほとんど触れられなかった。本稿では,この清の対ロシア認識という問題も 関連して論じて行きたい。
なお,本文中の漢数字は陰暦を,アラビア数字は当時ロシアで使用されていたユリウス暦 を示す。また,満文史料の引用は,固有名詞をローマ字表記する以外は和訳のみを掲げるも のとする。引用文中の[]内は筆者が補った部分である。
1.イズマイロフ使節団派遣の背景
最初に,本稿で主として取り上げるイズマイロフ使節団について,その派遣の背景,交渉 の経過等を簡単に述べておきたい。5)
ネルチンスク条約締結(1689年)後,本格的に開始されたロシア官営隊商の北京への派遣に よる貿易(いわゆる北京貿易)は,やがて外モンゴルにおける個人商人の取引,それに起因す るロシア側主力商品である毛皮の供給過剰などによって行詰まりを見せはじめていた。ロシ ア側は,清側が新たに打ち出したロシア隊商受入れ拒否という動きに対応して,行き詰まっ た通商関係の打開,さらには新たな通商条約の締結を狙ってイズマイロフ使節団を派遣した。
一方,清側は,当時モンゴル北方で顕在化した遊牧民のロシア側への逃亡者問題を重視し,
通商の再開には,逃亡者問題を含む国境問題の解決が前提となることをイズマイロフに提示 したのである。イズマイロフは所期の目的を達成できずに帰国したが,この使節団の派遣を 通じてロシア側は清側の主張を明確に認識し,やがて後にキャフタ条約締結(1727年)として 結実する両者の交渉が始まることになる。
イズマイロフは,3ヶ月余りの滞在中に十数回に亘って康煕帝へ謁見し,康煕帝は終始イ ズマイロフに対して友好的な態度をとっている。6)しかし,イズマイロフの時も,本格的交渉 が開始される以前,最初の謁見が実現するまでの間に,これ以前の使節と同様に儀礼問題を めぐって清側との間にかなり激しいやり取りがあったのである。
2.イズマイロフ使節団の入京と儀礼問題をめぐる紛糾
以下,主としてイズマイロフの公式報告書7)により,儀礼問題をめぐる動きを追ってみる ことにする。
「イズマイロフ使節団と儀礼問題」 2g
イズマイロフ使節団の北京入りは,1720年11月18日(康煕五十九年十月三十日)であった が,当日さっそく3人の大臣がイズマイロフのもとを訪れ,国書の内容について尋ねた上で,
その提出を求めた。イズマイロフは,ボグドゥィ・ハン(康煕帝)以外には渡せない,として 国書の提出を拒んでいる。8)
翌19日には,清側大臣とともに5人のイエズス会士達がイズマイロフのもとを訪れた。清 側大臣の説明では,イエズス会士達は,国書の写しからの翻訳をするためにボグドゥィ・ハン によって派遣された,とのことであった。イズマイロフは副本の提出に同意したが,翻訳が 完成した時,清側大臣は,この副本が正本と同一・のものかどうか改めて確認している。また,
この時の会談で,イズマイロフは,見返りとしてのシベリア通行許可を示唆しながら,イエ ズス会士達にロシア側への援助を求めた。
同日,今度は理藩院侍郎が単独で来て,ボグドゥィ・ハンへの謁見の際の儀礼に関する議論 が本格化した。侍郎は,三脆九叩頭の礼を行なうべきこと,国書の提出は大臣の手を経由す べきことを要求した。これに対してイズマイロフは,このような慣習には従えない,通常ど こにおいても相手国の習慣を尊重すべきであり,国書は自らボグドゥィ・ハンに手渡すと主張 して譲らなかった。9)
翌20日,イズマイロフ使節を北京まで迎える役目を担ったトゥリシェンがイズマイロフを 訪問した。彼は1712年から1715年にかけてヴォルガ河下流のトルグートに派遣された使節団 に参加し,帰国後はロシア領シベリアを通過したその経験を買われてロシア使節送迎等の任 に当たっていたのである。1°)トゥリシェンは,自らの使節行の際に,康煕帝から,ロシア皇帝 の命令には従うようにとの指示を受けた経験11)を引合いに出し,イズマイロフにも同様に康 煕帝の命令に従うよう説得を試みた。イズマイロフはもちろん拒否した。12)トゥリシェンはイ ズマイロフを北京に迎え入れた責任者であり,後に述べるように,北京到着後のイズマイロ フの態度が清側の意にそぐわぬものであることが明らかになった段階で,トゥリシェンの責 任を問う声が上がり始めていたようである。トゥリシェンとしては,自らへの批判を回避す
るためにも,なんとかイズマイロフを説得しようと試みたのであろう。
21日には,ポルトガルのイエズス会士がイズマイロフのもとを訪れ,清側大臣から聞いた 話として次のような情報を伝えた。すなわち,康煕帝が十一月五日(11月23日)13)にロシアの
ッァーリへの友情を示すための公式の式典を行ない,そこにイズマイロフを出席させるつも りである,というのである。イズマイロフが国書提出のことを持ち出すと,このイエズス会 士は,式典の後に暢春園で謁見が行なわれ,その時に国書の受取りが行われる旨を告げた。
イズマイロフは拒否の意向を示したが,その後さらに2人のイエズス会士,理藩院侍郎も加 わってイズマイロフに対する説得が続けられた。イズマイロフは最後まで従わず,イエズス 会士に対しては,ヨーロッパの慣習にしたがって判断してほしい,と訴えている。イエズス 会士達は,結局国書の提出を抜きにしては式典への参加はできないというイズマイロフの主 張を康煕帝に伝えることに同意した。14)
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22日に,マチ(馬斉)と見られる大学士が来た。イズマイロフは,マチを清朝宮廷内での有 力人物と見なしており,前日には,イズマイロフの方から接触を試み,マチの家人と見られ る二人の人物がこの日のマチの来訪を予告していた。15)マチは,自らの訪問を非公式なもので あるとしながらも,清側の慣習に従わないのであれば,康煕帝はイズマイロフに会わず,ロ シア側の用件も聞くことはない,としてイズマイロフに譲歩を迫った。イズマイロフは度重 なる清側の強硬な説得と,マチとの関係を考慮した上で,一定程度の譲歩を決断する。彼は,
康煕帝が「皇帝陛下の国書を持って来るよう命じるなら」,その慣習と意向に従う,とマチに 伝えたのである♂6)表現がやや曖昧であるが,イズマイロフとしては,国書の直接捧呈さえ実 現すれば,叩頭等の儀礼には従う,という形で譲歩を示したものと考えられる。ところが,
マチが帰った後に現れた理藩院侍郎との会談において,イズマイロフはさらなる譲歩を示さ ざるを得なくなった。
侍郎は,これまでの主張を強硬に繰り返した。すなわち,式典は,ロシア皇帝の好意,公 使の名誉のために特別に行われるのであり,イズマイロフは国書の捧呈抜きで出席し康煕帝 に叩拝すべきこと。皇帝は多くの人の前ではいかなる用件も聞かないし,誰からも国書を受 け取らないこと。もし,式典に出なけれぼ,式典をやめさせるように命じ,イズマイロフか ら国書も受け取らず,用件も聞かないこと。以上のような清側の主張に対し,イズマイロフ は遂に,式典の後で謁見が行なわれ,国書を直接受け取ってくれるなら,ロシア皇帝からの 勅令はないが,式典に出席し,慣習に従うことを侍郎に告げた。侍郎は,このイズマイロフ の回答をハンに伝えるべく,イズマイロフのもとを去った。17)
当初の予定では,翌日の23日に式典が行なわれるはずであった。しかし,22日の夜になっ て再び現れた理藩院侍郎は,イズマイロフがすぐに清側の意向に従わなかったことにより,
康煕帝が式典の延期を命じたことを告げた。ぎりぎりまで自分の主張を曲げなかったイズマ イロフの態度に,土壇場になって清側が反発したのであろうか。ただ,清側も全く態度を硬 化させた訳ではなく,謁見の日取りは後日知らせる,としている。18)
この結果,儀礼をめぐる論争はほとんど振り出しに戻る形になった。一度は不本意ながら 国書の直接捧呈前の式典出席に同意したイズマイロフであったが,翌23日の清側大臣との会 談では,再び国書の直接捧呈が前提であるという主張が見られるようになる。また,この時 の清側大臣とイズマイロフの会談では,先にも触れたトゥリシェン等のトルグートへの派遣 が話題に登っている。前回は当事者であるトゥリシェンが,個人的に語ったものであった。
この時の清側の主張はトゥリシェンが述べたそれと全く同一であるが,今回の清側大臣達の 発言は,康煕帝の勅諭に基づくものであった。イズマイロフは,トゥリシェンはロシア皇帝 ではなく,その臣下であるアユキのもとへ派遣されたのであり,公使である自分とは同列に は論じられないとして,清側の主張に反論した。19)確かにイズマイロフの言うとおり,トゥリ シェン等はトルグート部へ派遣されたのであって,ロシアへ派遣された訳ではない。しかし,
ここでの清側の発言からは,かつての清のトルグートへの使節派遣が,ロシアを極めて強く
「イズマイロフ使節団と儀礼問題」 31
意識したものであったことが改めて確認できよう。2°)
24日以降も,数度に亘って清側とイズマイロフの会談が行なわれたが,イズマイロフは今 度は最後まで,国書の直接捧呈にこだわり続けた。そして11月28日になって,遂にイズマイ ロブは康煕帝への謁見を許可されたのである。康煕帝は,直接イズマイロフの手からロシア 皇帝の勅書を受け取り,イズマイロフはその後三脆九叩頭の礼を行なった。21)イズマイロフ は,今後清側が使節をロシアに派遣する場合には,ロシア側の儀礼に従う,という清側との 合意の上で叩頭の礼に従ったとされる。22)こうして,具体的な交渉に入る以前の儀礼問題は解 決を見た。最後まで自らの主張を貫いたイズマイロフに対して,清側が遂に譲歩したので
あった。
以上のように,イズマイロフの報告書には,清側が自らの慣習にロシア使節を強引に従わ せようとしたこと,イズマイロフがそれに対していかに粘り強く抵抗したかが詳細に記され ている。それでは,一方の清側は,イズマイロフの主張をどのように受け止めていたのであ ろうか。それを窺わせるのが次に紹介する満文文書である。
3.康煕帝の反論一皇帝直筆の理藩院書簡
問題の満文文書は,中国第一歴史棺案館に所蔵される宮中全宗の満文棺案の中で,「満文雑 件」案巻号55,珠諭(康煕朝)として分類された291件(目録の記載による)の中の1件であ
る。23)文書全体は殊筆で記され,筆跡からみて康煕帝の直筆である。ただ,冒頭部分は
理藩院の書,ロシアの使臣・・・… に送った。事を明らかにして上奏するため。
となっており,形式上は上諭・旨の類ではなく,理藩院がロシア使節に対して送った書簡と なっている。すなわち,康煕帝は,ロシア使節へ送る理藩院名義の文書を自ら起草したと考 えられる。本来イズマイロフの名が記されるべき部分は点線状になっており,これは後に理 藩院によって清書されることを前提に使節の名が省略されたものであろう。このように,こ の文書にはイズマイロフの名前が明記されている訳ではなく,さらには日付の記載すらない。
しかし,後に述べるように,内容から判断してこの文書は北京に滞在するイズマイロフにあ てて書かれたものであり,文書が書かれた時期は,清側が当初予定していた式典の中止が決 定された康煕五十九年十一月四日(1720年11月22日)より後,最初の謁見が行なわれた十一 月十日(ll月28日)より前であることは確かである。
この文書が,康煕帝によって書かれた起草文であるとするなら,その後理藩院によって清 書された書簡がロシア使節に送られたということになる。しかしながら,清書されたはずの 理藩院書簡の存在は現在まで確認できておらず,その確実な証拠はない。それどころか,前
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章で取り上げたイズマイロフの公式報告書には,これから述べる内容の清側の文書を受け 取ったという記述はないのである。後述のごとく,清側はイズマイロフに書面での回答を求 めているのであるが,そもそも受け取った記録がないのであるから,当然イズマイロフ報告 書には回答についても何の記載もない。イズマイロフの報告書が必ずしもすべての事実を正 確に記録しているとは限らない24)ことも確かであるが,文書の内容を検討する上で,文書が ロシア側へ送付されなかった可能性がある点には留意しておく必要があろう。25)以下に文書の 具体的内容を紹介しながら検討して行きたい。
冒頭の一文の後には次のような文面が続く。
聖主は凡そあらゆるところから来た使臣・賓客等を心を尽くして慈しみ,体面を守らな いことはない。この秋,cuku baising[一セレンギンスク]から汝らが至った。「来た様子 は大変よい」と,tuli蓉enが報告して上奏したので,「両国は友好を結んでから年が経過し た」と,聖主はすぐに官を派遣して駅工,入用な品を用意させ,非常に体面を高く見て,
到着の際すぐに主の側の人を遣わし,恩を賞し,食物を与え,「初五日の殿に出る日に儀 式を行なえ」と言った。このあらゆる国にない恩[にもかかわらず],思いもかけず汝等 が求めたので[我らは]儀式を行なうことをやめた。[汝らは]必ず汝らの書を主の手に 呈すると言っている。また,汝自身をすなわちロシアのチャガン[=ロシア皇帝]自身と 言っている。だから,我らの国の王から下,民の人に至るまで,大いに疑いはじめた。
イズマイロフ使節を北京に迎える役目を担ったのがトゥリシェンであったことは先に述べ た。そして,文中の「初五日」の「儀式」が,まさにイズマイロフ報告書にいう十一月五日 の式典であることは明らかである。この文面からも,康煕帝が,イズマイロフへの歓待を示 すためのものとして式典を設定したことが見て取れ,この点はイズマイロフの報告書の記述 と一致する。ところが,イズマイロフは「思いもかけず」この清側の好意を拒否し,勅書の 直接捧呈を求めたうえ,自分自身をロシア皇帝になぞらえたというのである。イズマイロフ の報告書には,自らをロシア皇帝と同じである,とするような直接的な表現は見られないが,
自らの名誉を守ることが君主の名誉を守ることにつながるというイズマイロフの主張は,康 煕帝にとっては,自分はロシア皇帝と同等であると主張しているように聞こえたのであろう。
康煕帝はこれに対して,次のように反論する。
果たして,チャガン・ハン[=ロシア皇帝]が自ら来るなら,この形によって迎えさせ ず,必ず王大臣達を迎えに行かせ,到着した日に即座に手を取って会う儀式を行なう。
汝はチャガン・ハンの使臣であるのに汝自身をチャガン・ハンと言うなら,天下のあら ゆる国は聞いた時に,「聖主はどうしてこの一人の使臣の言葉を信じて,このようにやや 高き[身分]によって欺かれたのか」と言うそ。
「イズマイロフ使節団と儀礼問題」 33
ここでは,ロシア皇帝が自ら来た場合には「手を取って会う」ことが明言されている。すな わち,清側がイズマイロフの態度に不満を抱いたのは,彼が清側の考える「使臣」としては あるまじき態度を取ったからに他ならないのである。ここで想起されるのは,前章で触れた トゥリシェンのトルグート使節行をめぐる議論である。康煕帝はトゥリシェンに対して,ロ シア皇帝から招きがあればロシア側の慣習に従って会うように命じていた。これは実際には 実現しなかったが,清側の立場から言えば,これと同様にイズマイロフも当然清側の慣習に 従うべきであった。清側の目には,清の慣習に従わず国書の直接捧呈を要求するイズマイロ
フは,自らを国主と同じであると主張しているように映っていたのである。
このようなイズマイロフの態度は,清側に様々な疑念を呼び起こした。満文書簡には続い て次のようにある。
また疑うこと。汝自身がチャガン・ハンの側近の首班大臣であるということを,我らの ここで認める証拠はない。或いは小さな商人が商売のために偽って大臣として商売した いと来たのをまた予測できないのである。
イズマイロフは,国書を手渡すことによって自らの身分を清側に認めさせようとした訳で あるが,その提出方法をめぐる紛糾は,却って清側にイズマイロフの身分に関する疑惑を生 じさせたことがわかる。隊商入京が拒否される以前,康煕四十年代から五十年代にかけて,
北京には正規の官営隊商以外にも,文書伝達使の形をとって毎年のように商人が訪れており,
これらの隊商・使節への食糧等の供給に伴う負担増が清側が隊商入京を拒否する一つの要因 となっていた。26)このような背景を考えると,清側が,イズマイロフを「小さな商人」が
「大臣」と偽って商売に来たものかもしれないと疑う理由は確かに存在したと言える。
さて,この後,論点は再び国書の直接捧呈に関連する問題に移って行く。
また疑うこと。ロシアというのはやや大きな国で必ず道理がある。そうは言っても,あ らゆる国から遣わした使臣を,その考えによってほしいままに止まると言えば止め,受 け入れよと言えば受け入れ,遣わした人をすなわち国の主の来た[礼]にしたがって行な えば甚だ軽々しい。そればかりでなく,国の主の関係するところは極めて大きい。外か ら来た衣服・冠の違う国をすぐに信じて近くに来させることは,或いはロシア以外,多 くの国にこの例はないだろう。また疑うこと。この使節の言葉に,彼自身がチャガン・
ハンと同じであるという。誠にチャガン・ハンが汝にこのところを交付したことが本当 だとしても,汝はなぜ敢えて受け入れて来るのか。讐えれば,二人のよき友が手を取っ て一つのところに笑い遊び宴を設け,一人の友が,「我は明日暇を得ない。わが家の人を 我の欠けたところに送る。汝は我と同じく恭しくせよ」と席にっかせたとして友はどう
してできよう。従僕もまた受入れることはできないそ。このことを来た使臣はどうして
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わからないか。
ロシアを,「やや大きい」「道理がある」国として認めながら,イズマイロフはその使臣に 過ぎず,国主としての待遇はできない,という論理は先の議論の繰り返しである。注目すべ
きは,イズマイロフの主張に讐え話を用いて反論している末尾の部分である。康煕帝にとっ て,イズマイロフの態度がいかに驚くべきものであったかが如実に伝わる表現と言えよう。
「どうしてわからないか」という最後の一句は,やや感情的にさえ思える。理藩院の書簡とい う形式上の枠を越えて,ほとんど康煕帝の本音が表現されていると言ってよいであろう。ま た,この讐え話の中の「わが家の人」がイズマイロフを指すとするなら,「手を取って一つの ところに笑い遊」ぶ「二人のよき友」とは清とロシアの皇帝を指すことになろう。先の,ロ シア皇帝自身が来るなら「手を取って会う」という表現にも見られたように,当時の康煕帝 のロシアに対する見方が窺われて興味深い。
これに続く部分では,イズマイロフの態度をはっきりと確かめず北京まで護送してきた トゥリシェンに対する非難が高まっていることが述べられ,最後に,イズマイロフに対して 書面による回答が求められている。この際清側はイズマイロフに印を押して書面を提出す
ように求め,その文書を後日ロシア皇帝に送付する,としている。責任ある回答を求める清 側の姿勢の現れであろう。
文書全体を通じて,清側の主張は明快である。新出の文書はわずかな分量であるが,ロシ ア側の記録と照らし合わせてみると,清側がロシア側の発言をどのように受け止めていたか がよく理解できる。儀礼問題の紛糾は,使節を君主の使いとしか見ない清側と,使節に対し て君主の代理としての待遇を要求するロシア側の認識の差に起因していたのである。27L般的 に,清朝とヨーロッパ諸国との問に発生した外交儀礼をめぐる問題には,自らを世界の中心
と位置づける清側の伝統的な中華思想がその背景にあると理解されている。しかし,文書中 のいくつかの表現から窺えるように,少なくともイズマイロフ使節団を迎えた当時において,
康煕帝はロシアが大国であることを認め,ロシア皇帝を自己と対等の存在として意識してい たと思われるのである。イズマイロフの報告書には,11月28日に行なわれた最初の謁見にお いて国書の直接捧呈がなされた際康煕帝が,
今,ロシア皇帝を自らの対等の友人かつ隣人として敬い,陛下の友情のために,以前の 法を捨て,国書を公使の手から自ら受け取る。
と述べたことが記されている。28)ロシア側史料のみを見ていると,それ以前の儀礼問題をめぐ る紛糾の経過からしてこの康煕帝の言葉はやや唐突の感を免れない。しかし,他ならぬ康煕 帝直筆の文書によれば,帝が当初からロシア皇帝を対等の存在として認識していたことは明 らかである。このような認識を有していたからこそ,最終的に国書の直接捧呈に応じるとい
「イズマイロフ使節団と儀礼問題」 35
う譲歩も可能だったのである。新出の満文文書は,これまでロシア側史料からしか窺えな かったこの康煕帝の言動に確かな裏付けを与えたと言えるであろう。
4.むすびにかえて 清側の譲歩の原因と理藩院書簡の行方
以上,清がイズマイロフ使節団を迎えた際に生じた国書の直接捧呈をめぐる問題を,新出 の満文文書の紹介を中心にして検討してきた。その結果,清側が最終的にイズマイロフの要 求を受け入れて国書の直接捧呈に応じた背景として,当時の康煕帝がロシア皇帝を自らと対 等な存在として認識していた事実があったことが明確となった。それでは,清側が最終段階 でロシア側に譲歩した具体的な要因は何であったのか。このことは,本稿で取り上げた満文 文書が正式な理藩院書簡として実際にロシア側に送付されたのかどうか,という点にも関係
してくるので,最後にこの点に言及してむすびにかえたい。
清側の譲歩の理由は詳らかではないが,清側が儀礼問題よりも交渉の開始を優先させた結 果であることは確かであろう。29)イズマイロフとの交渉の中で清側は外モンゴルの国境問題の 全面的解決をロシア側に要求して行くのであるが,この問題の解決によるロシアとの安定し
た関係の構築に康煕帝は強い意欲を持っていたと考えられる。トゥリシェン等のトルグート への派遣を通じて,ロシアという国家の巨大さを認識した康煕帝にとって,ジューンガル問 題という不安定要素を抱える北方情勢への対応のためにそれは是非とも必要なことであった。
そして,イズマイロフに対する儀礼上の譲歩を決断した時点で,この理藩院書簡は不要に なったのであろう。すなわち,おそらくは十一月五日に予定していた式典を中止した直後に 起草されたこの文書は,その後の方針転換の中でイズマイロフに渡されることなく終わった のではないだろうか。
本稿で取り上げたのは,わずか一件の文書であり,その上公式に使用されなかった可能性 の高いいわぼ「下書き」的な性格の文書であった。しかしながらそうであるが故に,そこに は康煕帝の肉声とも言えるような内容が含まれることになり,文書の史料的価値を高めてい る。近年,中国第一歴史棺案館を中心にして,満文棺案の整理・漢訳事業が急速に進められ ているが,本稿で紹介したような未整理の文書もなお相当な量が存在すると考えてよい。今 後さらなる調査が望まれよう。
注
1)初期の清朝のロシアとの関係史の詳細は,吉田金一『ロシアの東方進出とネルチンスク条約』(近代 中国研究センター,1984)を参照。
2)当時のロシアと中国の国際関係についての認識の差については,Sebes, J.,窃6∫65纏Mπ4 加5 ηo一
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翫∬∫伽7r8αり・(ザ1>8rc乃 η3奴1689λ ん8 D αぴげ跣o脚5 P6z6楓&みRome,1961, pp.113−ll4を参 照。吉田金一,前掲書を始め,当該時期の清朝とロシアの関係史を扱う研究においては,おおむね
これらの儀礼問題についても取り上げられている。また,17・18世紀の清露間の儀礼問題を概観し たものとして,蘇全有「十七,十八世紀中俄外交儀礼之争」(『清史研究』1999−4)があり,儀礼問題 紛糾の原因として,清側の華夷思想以外に,ロシア側の侵略性,礼を失した態度があったことを強 調する。いわゆる朝貢システム,及びその中における朝貢儀礼に関しては,Mancall, M., Ch∫ηαα∫
漉Cεη 8κ300}セαr3げ∫b頗8ηPo1∫cy, New York,1984を参照。なお,柳澤明氏は,1996年12月14 日に日本大学において開催されたシンポジウム「清朝史料の世界」において,「清朝外交史をめぐる ロシア語史料の価値」と題する口頭発表を行なっている。その中で氏は清朝外交史研究における外 交儀礼問題の重要性を指摘し,後述するように,本稿で述べようとするイズマイロフ使節団の国書 直接捧呈問題にも言及している。
3)中国第一歴史棺案館には,「満文俄羅斯棺」と題する清の対露関係に関するまとまった棺案があり,
このうち,順治・康煕・雍正年間のものは大部分が漢訳されて『清代中俄関係棺案史料選編』第1 編(中華書局,1981)に収録されている。ただし,この「満文俄羅斯棺」に含まれる文書は,主とし て清とロシアの間でやり取りされた往復文書の写しである。その後筆者自身の同館における調査
(拙稿「中国第一歴史棺案館所蔵『康煕朝満文殊批奏摺』中の露清関係史史料について」『北大史学』
33,1993を参照)や中国での棺案の整理・出版の進展により,対ロシア関係にかかわる清側の新たな 満文史料の存在が明らかとなりつつあるが,本稿で述べるイズマイロフ使節団との交渉や,ヴラ ディスラヴィチ使節団とのキャフタ条約締結交渉などに関しては,空白とも呼べるほど清側の史料 は乏しい。
4)拙稿「康煕雍正年間における清露関係とトゥリシェンー清の対露関係認識をめぐって一」(『史
朋』30,1998)。
5)イズマイロフ使節団に関しては,柳澤明「キャフタ条約への道程一清の通商停止政策とイズマイ ロブ使節団一」(『東洋学報』69−3・4)を参照。
6)謁見の日にちについては,BaHTblln−KaMeHc皿h. H.H.,乃枷α照〃2配りθcκoεco⑰研麗∂㎝濯」κのρ06c瞬cκ研 μ測〃磁cκ研30(ツ∂αP6〃26α罵c1619η01792−〃80a Ka3aHL,1882, c.92及びCahen, G・, H 5∫ofrθ4ε3 r8Zα加η54θZα翫∬ 6αv8c 1αCh∫η850配5 P θrr8 Z6 Gアαη4 1689−1730♪, Paris,1911(邦訳:東亜外交史 研究会訳r露支交渉史序説』,生活社,1941),PP.163−164を参照。
7)イズマイロフの公式報告書(CTaTe孟HLI首c皿coK)は,みccκひ襯〃磁cκ配o〃〜μo砺θ槻∬8罪πノ8εκa 蜘〃砂μα伽μ∂o棚脚胴b ,ToM I,1700−172ユMocKBa,1978(以下Pκ0と略称)の195−276頁に収録さ れている。原典は,Pocc曲cm姐ocy耳apcTBeHHbI加pxm即eBHHx aKroB(ロシア国立古法文書館),Φo田 62(CHoHleH圏PoccHH c KHTaeM), onHcb l, peecTp 3,耳oKyMeHT」喚3,」皿・1−18506・にある。また・イ ズマイロフ使節団に同行したスコットランド人医師ベルは日記を残しており(Bell, J.,AJ側rη8yかo〃τ 翫Pε 6r伽ア8 o P6ん砿1719−22, Edingburgh,1965),一部イズマイロフの記述と食い違う点も見られ るが,本章に関係する部分においては,イズマイロフの公式報告書に比較すると概してその記述は 簡略である。
8)Pκ0,c.212.
9) 7㎞曜ε,c.213−214.
10)トゥリシェン及び彼が帰国後著した『異域録』については,今西春秋『校注異域録』(天理1964)
を参照。
11)トゥリシェンは,トルグートへ派遣される際に,ロシア皇帝の招きががあればロシア側の儀礼に 従って会うように命じられていた。同上,60頁。
12)Pκ0,c.215.
13)イズマイロフの報告書では,「十月初五日」となっているが,ロシア暦11月23日は,十一月五日に 当たり,これはイエズス会士かイズマイロフかのいずれかが誤ったものであろう。血M」鵬c.216.
14) 7伽」κθ,c.216−217,
「イズマイロフ使節団と儀礼問題」 37
15)イズマイロフの報告書にa兀ero照として現れる人物がマチであること,また当時の清側におけるマ チの立場については,拙稿「露清関係とローレンッ・ランゲーキャフタ条約締結に向けて一」
(『東洋学報』72−3・4,1991)を参照。なお,ベルの日記では,マチは19日に初めてイズマイロフを訪 れ,21日には2度目の訪問をしたことになっている。Bell, op. c∫ちpp。129,132.
16)Pκ0,c.217−218.
17)7伽3κθ,c.218.
18) 7加4πθ,c.218−219,
19)7伽ρκθ,c.219.
20)トゥリシェン等のトルグート派遣の目的については,拙稿「康煕年間の清のトルグート遣使 所 謂密命説の再検討を中心にして一」(茨城大学人文学部紀要『人文学科論集』29,1996)を参照。
21)1り(0,c.224−225.柳澤明氏によれば,この時のイズマイロフの例が先例となって,その後ヨーロッパ からの使節の国書直接捧呈が慣例化したという。柳澤明,前掲口頭発表。
22)Bell, oP.d孟, P.132.
23)目録(目録号324,4−49)によれば,「満文雑件」は,「殊批奏摺」(案巻号1〜32),「殊批欠単」(同 33−36),「請安摺」(同37〜53),「殊諭」(同54,55),「諭旨彙奏」(同56〜120),「殊批票籏」(同121 一129)という6種に分類されており,年代的には順治から光緒年間に及ぶ。
24)例えば,ネルチンスク条約締結の際,全権大使として清側と交渉したゴロヴィーンの公式報告書に は,自らの交渉がいかに粘り強いものであったかを強調するための作為が施されていることが明ら かにされている(吉田金一「ネルチンスクにおける露清講和会議の経過について ゴロヴィーン 報告書の問題点 」『論集近代中国研究』,山川出版社,1981,及び吉田金一,前掲書,pp.250−272)。
吉田氏は,清側使節団に参加した二人のイエズス会士の報告書との比較を通じて論証している。イ ズマイロフの報告書にも作為がないとは言い切れない。
25)中国第一歴史棺案館所蔵の「満文俄羅斯榿」の中にもこの文書は見いだせない。ただし,イズマイ ロブの報告書には,その後開始された清側との交渉の際に,文書の授受が行なわれたことが記録さ れているが,この種の文書の写しは「満文俄羅斯棺」には全く収録されていない。したがって,
「満文俄羅斯棺」にその写しが収録されていないことは,この文書が実際に送付されなかったことの 証拠とはならないであろう。
26)拙稿「キャフタ条約以前のロシアの北京貿易一清側の受入れ体制を中心にして一」(『東洋学報』
75−3・4,1994)を参照。
27)この点に関連して,マンコールは,東アジアにおける漢字を介した意思疎通の伝統により,西洋と は異なり,外交使臣本人よりもその携行する文書がより重要視されるようになったということを指
摘している。Mancall, op.d乙, p.23.
28)Pκ0,c.224.
29)カーアンはまた,清側の譲歩の一因として,イズマイロフの意を受けたイエズス会士の働きを指摘 している。Cahen, op.dちp.164.
[付記]本稿は,1999年度文部省科学研究費補助金・奨励研究(A)による研究成果の一部である。