ダニエル・ベルと消費社会をめぐる論考
著者 小林 大祐
雑誌名 同志社社会学研究
号 1
ページ 141‑147
発行年 1997‑03‑31
権利 同志社社会学研究学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011927
同志社社会学研究 NO.I,1997
雷評論文 <ダニエル ・ベル 「 資本主義の文化的矛盾」 を読 む>
ダニエル ・ベル と消費社会をめ ぐる論考
小林 大祐
KOBAYASHID由suke
1
.分裂 した社会 とは何のことか ?
ダニエル ・ベルが 「資本主義の文化的矛盾」の序 章において展開する、議論の前提 と言って良い もの、
それは 「わた しは、現代社会 を解明する一番 よい方 法は、社会を三つの独立 した領域が不安定 な融合体 をなしているもの とみることだと信 じている
。 」
(上巻 :
18)とい うような考 え方であろう。彼 は自身の この考 え方 を分析学 的 な もの と述べ てはい るが、「その各 々が異 なった中軸的な法則 に従 っていると 考 えた方が、はるか に有益 だ とわた しは考 える。」
(上巻 : 37) とす ることで、 この三つの領域、す な わち技術 一経済構造、政治形態、文化の領域が、そ れぞれ別の原理 によって説明 されるものであること を表明 している。
第-の領域 「技術 -経済体系」 とは生産の組織 と 財お よびサービスの配分 とに関わっていて、それは 職業 と社会の成層 をかたちづ くる。現代社会 におい てこの体系 における 「中軸的な法則は機能合理主義 であ り、それの支配す る様式は、経済化」であ り、
この分野 における 「中軸的な構造 は、官僚政治 と、
企業 における階級制」である。そ して、この体系 を 貫 いてい る基本 的な原理、す なわち価値尺度 とは
「効用」である。構造の変化 も、効率性 によって方 向づけられ、その中での役割 も 「有機的連帯」 とい う形での分業、すなわち効率性の原理の中で与えら れるというわけだ。
第二の領域 「政治形態」 とは 「社会正義 と権力 と の戦いが行われる場所」である。そこにおける 「中
軸的な原則は合法性」、す なわち民主的政治形態 に おいてなら、統治 される側の合意に基づいているこ とによって権力が認め られ、支配が行われ得るとい うことである。「政治形態」 における 「中軸的な構 造は代議制 と参加」であ り、これは政党や政治団体 の形 をとって、それを手段 としてお こなわれる。そ して 「政治形態」における決定原理は、政治活動 と い うものがそもそも根本的に、相反 し、 しば しば相 容れない諸利益の間を、調停 -判断するものである が故 に、判断基盤 としての権威 を備 えている法規で あった り、取引 によって行 われた りするのである、
とする。
第三の領域 「文化」 とは 「象徴的な諸形態の領域」
更に言えば 「表現的象徴主義の場
」
であるといえる。つ まり、表現活動の諸形態 において、「人間存在の 意味 を探 り、何 らかの想像力豊かな形式の もとに表 現 しようとする努力」なのである。その決定原理は、
「意識の本質の うちで、すべての人間が直面する実 存の実体」 とい うことになろうか。文化の型の数が 少ないのは 「実存の実体」その ものの数が無数にあ るわけではないからなのだ。
そ して、このような考え方によってこそ、それ ら の間に生ずる矛盾について語 ることがで きるように なる。 いや、逆にこのように言 うべ きなのだ。彼 に とって資本主義の文化的矛盾 というテーマについて 語るためには、社会はあるひとつの説明原理 に基づ くような統 一的な ものであってはな らないのであ る。 これ らの領域が、それぞれの リズムの中で、そ れぞれの行動様式を合法化することによって、これ
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らの領域間の不調和 として発生する矛盾。これが彼 の基本的な図式であるわけだ。
そ して、これ ら三つの領域の間には、必然的に緊 張関係が生ずることとなる。すなわち、形式上の平 等 と参加の原理 によってたつ政治形態 と、能率上の 効用か ら形成 される、階級制度-官僚制的組織から 成る技術 一経済的社会構造 との間に、また、 自由な 主体 による自己実現 と自己完成 とを達成す るため に、「自己」 を表現 し作 りなおす ことが中軸的な法 則たる文化 と、やは り能率性 によって分業化-役割 化の中で主体 を切 り刻むこともいとわない技術 一経 済的社会構造 との間にも矛盾は避けられない。
我 々の社会の持つ潜在的な葛藤の根本原因は、こ れらの相互矛盾によるものなのだ、 と彼は断言する のである。
繰 り返 しになるが、彼のこのような見方を支えて いるものは、経済 と文化 とい う二つの領域が分離 し て相矛盾するものとなっているという認識その もの である。「歴史的には、経済 と文化 とい う二つの領 域 は、結合 して単 一の性格構造 を構成 していた。
(中略)これが、いまやまった く分離 して しまった。」 (上巻 :
47)
とあるように、元は単一の次元の信 念に基づいていた ものが時を経 るうちに分裂 し別 々 の原理によって動 くようになって しまったことが彼 にとって、そ もそ も問題のあることなのである。彼 はこのような流れを 「文化の優位」 として捉 える。つまり今や 「文化が社会を動かす
」
のだとい うわけ だ。しか し、このあた りの議論 には正直疑問を覚えざ るを得ない。そ もそ も彼は文化の領域 を大 きく評価 し過 ぎなのではないであろうか。この本の後の部分 において、彼は狭い意味での文化に宗教的な しぼ り を与えることで社会全般 にたいするヘゲモニーを与 えようとするのだが、それは彼が文化 と社会 との分 離を前提 としているか らに他 ならない。 しか しその 前提 自体が疑わ しくはないであろうか。
ベルは 「皮肉なことは、この文化その ものが、資
本主義の経済によって生み出 された ものであること である
。 」
(上巻:85)と述べているように、元 々は 資本主義的経済一社会構造 とパラレルだった、勤勉 さ ・禁欲的 とい う気風のプロテスタンテ ィズム文化 が、自己を唯一の判断基準 として、自分の感覚が合 理性や知性 に優越するような現代文化にとって変わ られ、追い落 とされつつあることが結局、経済的合 理性 と矛盾 をきた していることの皮肉を嘆 くわけで あるが、ここに欠落 しているのは、そのような文化 の変化がいかに して、何のために起 こったのか、 と いう幾分素朴 ともいえることへの視点である。つ ま り、ベルは現代 における文化が、大幅な自律性 を獲 得 しているとい う認識 に信 を置 きす ぎているがあまり、その文化の領域 における変動が何 に影響 を受け ているのかへの疑問を持つ ことを しないのである。
また、彼はこうも述べている。
-・・・現代的な意識においては、共通 した存在なる ものはなくなっている。 あるのは自己のみである。
この自己の関心事は、自己の個人的真正性である。
すなわち、社会的仕組みや慣習か ら解放 され、偽 善や仮面をつけることがなく、社会によって自己 が歪め られることを否定する、変えることので き ない独 自な性格である。 (上巻 : 53・-54)
もちろん、このような意識、または価値観が現代 文化の諸傾向の基底 に一貫 して流れているものであ ることは疑いようもないだろう。 だが、そのような 価値観を志向する諸個人のなかで、その判断基準 と なる 「自分 らしさ」、 もしくは 「内面」 といって も 良いか もしれない何か、それ自体が問われなければ ならないのではないだろうか。ベルは自分の論 を進 めるにあたって、この部分の間を確信犯的に回避 し ているのである。
2.
資本主義についてのふたつの見解既 に書 いた ように、私 はベ ルの、「文化 の優位」
- 「文化が社会 を動かす」の論理 にはやや違和感 を 感 じている。確かに文化 とい う領域がかつてない影 響力 を保持 し、固有の論理 によってある程度の自律 性 を持 って動いているとい う現状 は疑いない事実で あろう。 しか し、その ような趨勢 をその まま力関係 の変容 として捉 えて しまうのは、余 りに皮相的では ないであろうか。
た とえそれが純粋 に分析手法上の視点であったと して も、その手法 はその視点 を採 ることによって明 らかになることと、それによって取 り逃が されて し まうもの との、比較 によって成否が決 まるものであ り、 もし彼の議論 による領域の分解 とい う主張 によ ってシステムの巧妙化 としての現実が見逃 されて し まうのならば、その議論 は最終的には乗 り越 えられ ねばならない もの とい うことになろ う。 まず消費社 会 を位置づける資本主義 とい う議論 を通 じて、領域 の分解 とい う彼の主張 を考 えてみ よう。
資本主義 とい うものは、 どう定義 されるかによっ て様 々な意味合いを持つわけで、それだけこの言葉 に対する理解が一筋縄ではいかない とい うことを示 して もいるわけだが、 と りあえず ここでは、資本主 義 に対す る定義 としてふたつばか り挙 げることにし
よう。
まず、差異 を利潤 に結 びつけてゆ くメカニズムと しての資本主義 とい う考え方があるであろ う。つ ま り、岩井克人が rヴェニスの商人の資本論」のなか で述べているような大航海時代、否それ以前 よ り変 わることな く続いて きた、一般的なメカニズムのこ とである。彼はこのように述べている。
商業利潤創出の秘密 は、理論的には二つの価値 体系間の 「差異」 にあ り、具体的には商業資本 に よって仲介 される二つの地域間の 「距離」である。
いわゆる 「遠隔地交易」 によるヴェニス、ボル ト
小林 :ダニエ ル ・ベ ル と消費社 会 をめ ぐる論考
ガル、オランダ、あるいは古代のカルタゴやロー マ といった商人都市や交易国家の繁栄が、その歴 史的な典型を与えて くれる。
しか しなが ら、遠隔地交易が連続的にな り、そ の規模が拡大すればするほど、それによって仲介 された地域の間の経済的な 「距離」 は縮 まる。そ れ とともに、両地域で成立 している価値体系 もそ の 「差異」 を失 ってい く 結局、商業資本 とは、。
二つの地域 を一つの価値体系が支配する一つの市 場経 済の中 に統合 してい く媒介運動 にはか な ら ず、それは自らの存立基盤 を切 り崩 してい く仕組 みを内に備 えていることとなる。差異 を仲介する とは、す なわち差異 を解消す ることなのである。
(岩井 1985:97)
つ まり、ある体系のなかであるモ ノが担 うことに なる価値、それは希少性 によって決定 されると言っ てよいのだが、それが同 じものであるのに別の体系 において担 われている価値 と比較 して相対的に高け れば、その品物 を移転 させることによって利潤が得 られるのである。 だか ら、 この ような意味での資本 主義の歴史は、差異 を食いつぶ してゆ く歴史である と言 って よいであろ う。 そ して、このような資本主 義の定義のなかでは、消費社会の位置づ けは、全て の差異 を食いつぶ して進 んでゆ く資本主義 的運動 が、決 して食いつぶ されることのない差異、すなわ ち言語 -記号 -イメージの レヴェルにおいて安住の 地 をみつけた段階であるとい うことになろう (当然、
本当の安住の地ではないのであるが) 0
もうひとつの資本主義の対する定義は、資本主義 を史的 システム としてみることである。 いわば前 に 挙げた定義が一般性 をもって資本主義 を語 ろうとす るものであるのなら、これは、その特殊性 ・歴史性 において資本主義 を語 ろ うとするものであると言え るであろ う。 勿論、この ような考え方の先駆者 に して最大の功労者は、カール ・マルクスなのだろう が、 ここでは、資本主義 を資本蓄積 を支配 目標 とす
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るとい う明確な方向性 によって律せ られる具体的存 在 として定義するⅠ・ウオーラーステインの r史的 システムとしての資本主義」より引用をしてみよう。
ここで史的システムとしての資本主義 と呼んで いる歴史社会的システムの特徴は、この史的シス テムにおいては、資本が きわめて特異な方法で用 いられる-つまり、投資 される-という点にある。
すなわち、そこでは資本は自己増殖 を第一の目的 ない し意図として使用 される。このシステムにあ っては、過去の蓄積は、それがその もの自体のい っそ うの蓄積のため に用い られる限 りにおいて、
「資本」 となったのである。(中略)それにしても、
本書で資本主義的とよぶのは、資本保有者たちの こうした仮借のない、 しか も奇妙 に自己中心的な 目標、つまりよりいっそうの資本蓄積 と、この目 標 を達成するために、資本保有者が他の人びとと のあいだに取 り結ばざるをえな くなった諸関係の ことである。(Wdertisen,18- 95:-)93 18 45
それまでの資本主義 とい うシステムに先行 した諸 システムにおいて も、少数者による消費 されない資 材の占有 といった資本主義の初期条件が整ったこと はあろう。 しか し、長 くて複雑 な資本蓄積の過程 に おいて、たいていはあちこちで阻止 されて しまうの である。では、なぜ近代以降、資本主義がそのよう な妨害を突 き抜けて資本の循環が完結することにな ったのであろうか。彼はこれを 「商品化」 とい う言 葉で説明 しようとする。
したがって、史的システムとしての資本主義は、
それまでは 「市場」 を経由せずに展開 されていた 各過程- 交換過程のみならず、生産過程、投資 過程 をも含めて - の広範な商品化 を意味 してい たのである。(中略)資本主義は自己中心的なも のだから、いかなる社会的取引 も商品化 とい うこ の傾向を免れることはできなかった。資本主義の
発達史には、万物の商品化へ とむか う抗Lがたい 圧力が内包 されていた、 といわれるのはこのため である。 (WaIlertsei,18-18 7n 93 95:)
つ まり、資本主義が軌道に乗 るようになるとい う ことは、資本が循環するシステムが 恒常的なもの と して完成することによって、資本家 ・企業家の利潤 の再生産への見込みが立つ ようになることなのであ るが、それが可能になったのはあらゆるものを商品 化-市場経 由化 しようとする動 きと、そのような運 動が勢いを失 うことの無いように支えてやることの できる権力の媒介によってであった。だか ら 「市場
」
とい うものを公正 ・不変な もの として信奉するのは いささか楽天的に過 ぎるのであって、勿論市場が競 争原理 を成 り立たせていることは確かなことである が、その市場 自体がある種の制度の産物 として捉 え られなければならない。市場 は水平的独 占に対する 競争 とい う意味では幾 らか公平であるにして も、そ の背後 に 「商品連鎖」 における垂直的統合、 もしく はそれによる 「辺境」か ら 「中核
」
への資本集中と い う 「不等価交換」のメカニズムを見えにくくして いる隠れ蓑 として、近代主義的合理性 とい う考え方 とともに一定の機能を果た して きたのだ、 とい う訳 である。だか ら、彼は 「資本主義 とい うものは、その擁護 者が ときとして主張 して きたような 「自然な」 シス テムな どで は まった くない (Wallerstein,1983- 1985:48)
」
と結論づ けている。歴史的である以上、いつかは内部での矛盾の激化か ら構造的危機 を惹 き 起 こし、他のシステムにとって代わ られる。マルク スのように社会主義が次 に来るものだなどと単純 に 言 うことはで きない とはいえ、「史的 システム とは 文字通 り歴史的なものである。それ らはいずれ も、
生 まれ出で、やがてその内部で矛盾が激化 して構造 的危機を惹 き起 こし、結局は内部か ら崩れて消滅す るものである。(Wallrteseれ 18-1893 95:103)
」
と 彼は主張するのである。3.
資本主義における消茸社会の位置上述 して きたような、ふたつの資本主義 とい うも のの捉 え方。 これ らはそのそれぞれの特殊性 と一般 性 ゆえに互いに排除 しあ うもの として考えられるべ きであろうか。おそ らくそ うではあるまい。 ウオー ラーステインが言ったように 「この史的システムは 15世紀末 の ヨー ロ ッパ に誕生 した (wallerstein, 1983-1985:13)
」
もので、現在の世界はそのシステ ムが空間的に拡大 し続け、全世界 をカヴァ - したも のであるとして も、その拡大が純粋 に特殊な具体的 事例であったのだとするのは不 自然であろう。彼は「あ くなき資本蓄積 こそが重要な経済活動 のすべて を支配する目標 ない し 「法則
」
となっている」 と述 べて、そ うした価値法則が 「貫徹する範囲が どんど ん拡大 してゆき、それを強制する立場のひとび とが ます ます威丈高 になってゆ くような社会 システム (Waellrsten i,
18 -1893 95:1)2」
こそ史的システムと しての資本主義 であ る と主張す るわ けであ るが、「あ くなき資本蓄積
」
を支 えるのが先 に挙 げた よう な、差異 を利潤 に結びつける、 とい うよ り利潤 とな るあ くなき差異追求をするメカニズムの反映である 以上、資本主義が 「自然 な」 システムなどでは全 く ない とするのは、やは り極端ではないだろうか。資 本主義は、人間の無限の欲望 による 「自然な」社会 か、 どこまで も 「歴史的な」 ものに過 ぎない社会か、という二者択一では割 り切れない といえよう。
以上資本主義 について長 々 と述べ て きたわけだ が、ここで再びベルの文化の自律 と領域の分裂 とい うテーマに戻 ってみ よう。果た して、文化が 自律 し ている とい う彼 の考 えは本 当 に正 しいのであろ う か。差異 を利潤 に結びつける、あ くなき運動 として の資本主義 とい う観点か らは、この考え方は大いに 疑問である。 とい うの も、このような動 きは差異 を 求め、それをひたす ら食いつぶす ものであるため、
その差異の単位 となるものは、常 に小 さくなってゆ く傾向が見 られるか らである。つ まり、 ウェブ レン
小林 :ダニエ ル ・ベ ル と消費社 会 をめ ぐる論考
が r有閑階級の理論」で明 らかに したような階級単 位の差異 による 「誇示的消費」への指向性か ら、そ の差異の単位は当然小 さくな り個人単位へ となるわ けである。だか ら、個人単位での差異創出による、
「自分 らしさ」 をバ ックに した消費への圧力は、こ のような流れか ら見る分 には至極当然であ り、それ を個人の快楽追求への指向性 として、単 なる文化の 自律的変動 として片づけて しまうのは、い くらなん で も素朴す ぎると言わざるを得ない。
実際、消費の圧力はいまや、経済一技術構造的に 規定 された役割からの解放 としての個人を差異の単 位 として働 くよ りも、む しろ個人の もつ幾つかの役 割 を T・P・0として使 い分けることを、個人がい く つ もの人格 を自由自在に使い分けることを積極的に 後押 しすることで、更なる細分化 された差異 を消費 させ ようとしているよう見える。それは、例えば会 社では組織のまとめ役 をきっち りこな し、家庭では 家族想いの父であ り、たまの休 日には仕事 を忘れ趣 味 にふける、 とい うようなシステムのそれぞれにお いて与えられた役割 を葛藤 を感 じることもな くこな す ことので きる人物が、それぞれの状況 に応 じて消 費を行 うというところである。
ここに見 られるのは、紛れ もな く単位 を細分化 し て差異 を生か し続け、それを消費に結びつけようと す る資本主義の論理 であって、ベ ルの言 うような
「自己の個 人的真正性」 で はないのであ る。 彼 は
「社会は、変革 を単 に受 け入れるばか りか、新 しさ の追求のための市場 をも提供 している
」
(上巻 : 78) としているが、このような主張 も全 く順序が違って いる。 よ り正確 には、社会はその変革が市場 におい て価値 を持つか らそれを受け入れるのであるし、 よ って、文化の領域 において新 しい感受性 として認め られるのは、たいがいの場合その差異が 「新 しさ」とい うイメージをまとうことによって、価値 を持つ か らに他 ならない。差異 にとっては、「新 しい」 と みなされようが 「古い」 とみなされようが、それ 自 体は大 したことではない。要はその差異が利潤 に結
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びつ く、すなわち消費意欲 を呼び起 こしさえすれば よいのである。
また、自己増殖のために投資 された資本が、ある 程度安定的に循環するシステムの完成形態 として資 本主義を捉 えるウオーラーステインにとって も、ベ ルの主張は表面的に過 ぎるであろう。 かれはこう述 べる。
た とえば、「資本家」 に相当する人物 にとって は、つねに労働力が得 られるのでなければならな かったわけだが、ということは、アメでつ られて であれ、鞭で強制 されてであれ、 しかるべ き労働 をな しうるものがつねに存在 しなければならなか った、 とい うことである。労働力が得 られて、商 品が生産 されたとして も、こんどはそれを何 とか して売 り捌かなければならない。 とい うことは、
流通機構 と購買力をもった買い手の集団が不可欠 だ とい うことである。 しか も、商品は、 (中略) 近代的なタームでいえば、利潤 にあたる部分 もな ければならない。その うえ、この利潤 を得た者が、
それを保持 していて しかるべ きときに投資で きる 条件が整っていてこそ、は じめて最初の生産点に 戻 って全過程が更新 されるのである。 (WaJrtlesei,n 1983-1985:5-6)
つ まり資本主義社会 とは、資本主義の論理にヘゲ モニーを与 えている社会であ り、その論理にそって 整備 されている社会、すなわち自己増殖 -投資 を目 的 として資本が使用 されてゆ くことを前提 とし、そ の循環の円滑化、恒常化 を旨とするような諸環境、
上 に挙げられたような、常 に得 られる労働力、流通 機構、そ して購買力を持った買い手集団、を整備 し てゆ く社会である以上、たとえ相対的に、それまで の どの時代 よりも文化 とい う領域が力 を持 っている のが事実であるにしろ、依然 としてそれは、資本主 義の論理の下 にあ り続 けるのではないか、 と疑って かかるべ きであろう。そ して、ウオーラーステイン
は危機は別の所にあると言 う。
この危機の第一の、そ しておそ らくもっとも根 本的な局面は、いまや万物の商品化が完結の域 に 近づいているとい うことである。 (中略)「ひとつ の ものを別の ものに交換 し、交易 し、取 り換 えた いと思 う性向」が、従来は触れられることのなか った分野や地域にも浸みわた り、商品化の過程 を 促進する圧力には、ほとんどブ レーキが効かな く
sn,1
なっているのである。 (Wauertei 983-1985:
130-131)
このように、文化の領域の自律化、優位はベルの 主張するような他領域 との矛盾 による危機 として捉 えられるよ り、決 して単 なる従属関係 に置かれてい るのではない文化の領域が、資本主義の論理 とある 種の共犯関係 となることによって可能 となった、資 本主義の論理の際限なき暴走による危機 として捉 え られなければなるまい。文化は変動 している。それ 自体は間違いあるまい。 しか し、それは新 しさとい う方向性 を持 った走方向的運動では決 してない。文 化は自律性 を持 っている。それ も間違ってはいるま い。 しか し、その自律性 は資本主義の論理 を超越す るところにまで達するものではないのである。
4.
まとめ 文化の相対的自律性の相対性以上のように考えてきてみて、文化の領域が社会 に対 してどのような位置を占めているのかは、資本 主義の論理 と切 って も切 り放せないのだとい うこと がわかったわけであるが、そのような文化の位置は、
ひとことで言い表す とすれば、「相対的 自律性」 と い うところになるであろう。 勿論 この言葉が強調す るところは、その相対的な点である。 文化が 自律性 を持 っているということがで きるゆえんは、それが 外部か らの拘束 を受けなが らも、それに対 し自らの 継承する論理 に従って再解釈 してゆ く力にもとづい
l 小林 :ダニエ ル ・ベ ル と消費社会 をめ ぐる論考
ている。そ して、それが相対的で しかないのは、そ <参照文献>
の ような 自律性 に与 えられる承認が結局の ところ、
l 1 6T m=1
いて、拘束 を受けているか らである。だか ら、この 矛盾
』
(上) (中) (下)、講談社 779 7 9
B lel,D iane h C le uturalConrtaditcionsof 市場価値 として どれだけ機能するか とい う基準 にお capitalis 林雄二郎訳 『資本主義 の文化的
d aue - J eron e,anCl Pass
i汀 te ee i Peu,
Bourd 1 0L97 a ような相対的 自律性 は、その相対性 を絶対性 と誤認 Reproud tcion=1991宮 島喬訳 『再生産』、藤原書店
岩井克人 1985『ヴェニスの商 人の資本論』、筑摩書房 させることによって正統性 を得て、 うまく機能する
8 9 nue l
Wa ,mma l 1 3Hi 書店
社会が、社会的有利 さを、それ自体社会的有利 さに 逆変換 しうる学校的有利 さへ と変換する力 を行使す るさまざまな機会を、教育 システムに提供すること
llersenti
ようになる。 川北稔訳 『史的 システム と しての資本主義』、岩波 つ まりブルデューが教育 システムについて 「近代
5 8 9 1
= itsam l C iap i l t sorca
B
と言 うつ もりはない。だか らといって、人間があ ら I 9
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さに逆変換 しうる文化的有利 さへ と変換する力 を行
解できる、 と言えよう。
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使するさまざまな機会 を、文化に提供することも理 1
と述べるの と同 じや りかたで、資本主義消費社会が、
市場 における有利 さを、それ 自体市場 における有利
か といって、何 も私 は人間 とは何か ら何 まで決定 された、あ らゆる変数の解 -集積結果である、など
) も理解で きる (N dieu
&
Pa 肌,17仕=卵l:191」
ゆる偏見 を逃れた 自律 的判断 を もとに行動 してい る、 とは全 く思 えない し、そ もそ もそんなことがで きるとも思わない。あ りきた りだが、我 々は決定論 に対 して働 きか ける 自由 を備 えてい るのであ り、
「自由」 とはそのような意味で使 われねばならない。
ブルデューの例で言えば、われわれは重力の法則が あるか らこそ飛べ る、のであ り、この意味でわれわ れは資本主義の論理への 自覚があるか らこそ文化の 領域 をしっか りと捉えられるのである。
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