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斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論

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(1)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論

著者 出原 政雄

雑誌名 同志社法學

巻 63

号 1

ページ 153‑180

発行年 2011‑06‑30

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013787

(2)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一五三同志社法学六三巻

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論

出 原 政 雄

︵一五三︶ はじめに一 軍部批判の論理

1軍部の政治干与批判

﹁粛軍演説﹂を中心に

2日中戦争の処理をめぐって

﹁反軍演説﹂を中心に

二 戦争と平和の見方の特質

1戦争肯定論

社会ダーウィニズムと無差別戦争観

2第一次大戦以後の国際動向の見方

3日中戦争観と﹁大東亜戦争﹂観

4戦後の平和構想と戦争責任論

三 戦争と平和のディレンマ

むすびにかえて

(3)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一五四同志社法学六三巻一号︵一五四︶

はじめに

  大正・昭和期の立憲政治家として活躍した斎藤隆夫

は︑帝国議会の壇上からいわゆる﹁粛軍演説﹂︵一九三六年︶お 1︶

よび﹁反軍演説﹂︵一九四〇年︶と呼ばれる質問演説を行い︑当時の軍部や政府を厳しく問い質したことで有名である︒

とりわけ﹁反軍演説﹂は国民の反響も大きく︑斎藤の自宅には多くの支持や感謝の手紙が殺到したといわれている

︒し 2︶

かし﹁反軍演説﹂と呼称されるほど︑その質問内容は反軍思想や戦争批判が明確に語られているわけではない︒それど

ころか斎藤自身の戦争や平和の考え方は︑後述のように基本的には戦争肯定論にたち平和主義には悲観的であった︒そ

うすると問題となるのは︑いわゆる戦争肯定論者である斎藤がなぜ日中戦争を取り上げた質問演説において当時の政府

や軍部を追い詰め︑国民の喝采を得ることが可能であったかということであり︑この点を解明することが本論文の目的

の一つである︒

  ところで斎藤隆夫に関する最近の研究について少し振り返ってみると︑一方で立憲政治家たる斎藤の立憲政治論につ

いての検討

や︑他方でこの﹁反軍演説﹂の政治史的位置づけを試みた論文 3︶

などが散見されるが︑斎藤における戦争と平 4︶

和の見方について本格的に分析したものはほとんど見当たらない︒この点をとりわけ政治思想史の視角から明らかにす

ることが本論文の第二の目的である︒

  そこでまず有名な﹁粛軍演説﹂と﹁反軍演説﹂を中心に︑斎藤の軍部批判の論理について検討を加え︹一︺︑それか

ら斎藤の戦争と平和の見方の特質を抽出した︹二︺あとで︑軍部批判の論理と戦争肯定論が斎藤の中でどのように関連

しあっているかを探求したい︹三︺︒

(4)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一五五同志社法学六三巻︵一五五︶ 一 軍部批判の論理  

1

軍部の政治干与批判

﹁粛軍演説﹂を中心に

  斎藤は︑一九一二年に立憲国民党から立候補し衆議院議員に初当選して以来︑議会政治家として活動することになっ

た︒この時点ではすでにアメリカ留学の成果を披瀝した﹃比較国会論﹄︵︵一九〇六年︶を刊行し︑斎藤は独自の立憲政

治論を明らかにしている︒斎藤の場合﹁立憲政治の究極の目的は国民の共同意識を以て政治の元 ママ動力と為すに在り

﹂と 5

いう考えのもとに︑﹁立憲政治の理想﹂を実現する中心的な政治機関が議会であることから︑当然立憲政治は議会政治

を意味するが︑しかし議会は﹁輿論の代表機関﹂とはみなされない︒つまり議会政治は多数国民の輿論によって運営さ

れるのではなく︑議会政治を善導する議会の健全なる意思や気力は国会議員の高い見識と道徳力によって担保されると

いうのが斎藤の基本的な考え方であった︒斎藤によれば︑帝国議会は﹁天皇の立法権を翼賛する憲法上の機関﹂である

だけでなく︑立憲政治を推進するための憲法の運用原則として政府の行政を監督する権能が与えられているのであっ

て︑そのために﹁第一には国民より請願を受くるの件︑第二には上奏及び建議をなすの件︑第三には政府に質問して説

明を求むるの件︑第四には財政を監督するの件

などが保障されているとされる︒なかでも斎藤が一番重要視したのは︑﹂ 6︶

政府に質問し説明を求める権能であったことはいうまでもない︒この目的を達成するために何よりもまず﹁国会議員の

言論の自由﹂の保障が重視され︑他方で国会議員には﹁輿論の趨勢﹂を見抜く能力が求められた︒要するに斎藤の場合︑

立憲政治の確立は人民の総意を汲み取り議会に届けることを使命とする国会議員の裁量に委ねられているのであるか

ら︑国会議員としての自己の使命意識と責任感は自ずと高まらざるをえない︒しかも帝国議会は本会議審議を中心に運

営されていたことから︑壇上での質問演説が脚光を浴びることが多く︑斎藤のように日本のマーク・アントニー︵古代

(5)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一五六同志社法学六三巻一号

ローマ時代の雄弁家︶といわれた雄弁政治家は花形の議会政治家として注目されることになる︒斎藤が雄弁の議会政治

家としてその本領を発揮したのが︑一九三六年に勃発した二・二六事件の直後に行なった﹁粛軍に関する質問演説﹂︵同

年五月七日︶であろう︒斎藤はこのいわゆる﹁粛軍演説﹂において︑後半部分で満を持して厳しい軍部批判を展開した

のである︒

  まず最初に斎藤は軍人の政治干与という問題を取り上げ︑軍人の政治活動は軍人勅諭や帝国憲法の趣旨に反し︑陸軍 刑法や海軍刑法などで禁止されている

として︑弁護士出身の政治家にふさわしく法律論を駆使して問い質した︒軍人の 7︶

政治運動を認めることになれば︑結局のところ武力で自己の主張を貫徹することを招き︑﹁立憲政治の破滅﹂をもたらし︑

﹁国家動乱︑武人専制の端﹂を開くことになると認識され︑斎藤の場合軍人の政治干与の問題は一貫して批判の対象で

あり続けた

8

  第二に︑青年軍人による﹁叛乱事件﹂は︑一九三一年の三月事件や十月事件のように青年将校と民間右翼によって計

画されたクーデター未遂事件に対する軍部当局による処置があいまいであったが故に︑その後五・一五事件︵一九三二

年︶や二・二六事件として相ついで引き起こされることになったと指弾し︑これまでの軍部当局の対処姿勢を問題にし

た︒そのことは斎藤によれば五・一五事件に関する軍事裁判に端的に現われているとされる︒つまり斎藤は裁判を傍聴

した体験に基づき︑叛乱罪の首魁は死刑に処す︵海軍刑法︶と決っているにもかかわらず︑検察官の死刑要求に対して

何かの圧力が加えられたのか有期刑に減刑されたことと︑他方で民間人裁判では発電所爆破未遂の罪で無期懲役にされ

たことを比べれば明らかに公平性を欠くとして批判した︒﹁天皇の御名に依つて行はれる裁判は徹頭徹尾独立であり︑

神聖であり︑至公至平でなければならないのであります︒/然るに人と場所に依つて裁判宣告に斯の如き差等を生ずる︑

是で国家裁判権が遺憾なく発揮せられたりと言ふことが出来るか

﹂と︒ 9︶ ︵一五六︶

(6)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一五七同志社法学六三巻   第三に今回の﹁叛乱事件﹂に関与した軍首脳部は本当に存在しなったのか︑﹁俗に謂ふ所の裏面に於て糸を引いて居

る﹂人物は一人もいなかったのか︑思い切って問い質している︒このように事件の真相に切り込み軍部の政治干与を厳

しく問い質すのは︑斎藤の場合むろん﹁反軍思想を鼓吹する﹂ことを意図したわけでなく︑﹁軍を論じ軍政を論ずるの

は即ち国政を論ずるのであります

﹂という思いが強かったからであり︑政治家の当然の責務と感じていたとみなし得る︒ 10

それ故斎藤にとって政治家と軍部の結託の動きは許せないことであったに違いない︒﹁政治圏外にある所の軍部の一角

と通謀して自己の野心を遂げんとするに至つては

︑是は政治家の恥辱であり又堕落であり又実に卑怯千万の振舞で

ある

﹂と︒ 11

  こうした﹁粛軍演説﹂は各新聞において︑たとえば﹁斎藤氏熱火の大論陣〝国民の総意を代表し〟今事件の心臓を衝 く﹂︵﹃東京日日新聞﹄一九三六年五月八日︶に代表されるように︑こぞって好意的に評価せられ

︑少なくない人々から 12

喝采を博した︒たとえば反戦の軍事評論家として名高い水野広徳は﹁昨日の衆議院に於ける貴下の演説は︑我が議会史

上空前の名演説にして︑我等国民は溜飲の下がる事啻に二三斗のみにあらず︑議会存在の意義を今日始めて教へられ候﹂

と絶賛の書簡を書き送っている

︒もう一つ付け加えると︑同時期に軍部批判を展開していた反骨のジャーナリストとし 13

て著名な桐生悠々もまた︑この斎藤の粛軍演説に感銘を受けた一人であった︒桐生は個人雑誌として発行していた﹃他

山の石﹄のなかで︑貧窮に耐え権力からの弾圧にも抵抗しあえて反軍思想に生きようとする自己のジャーナリズム魂に

ついて︑﹁私は言いたいことを言っているのではない︒⁝⁝言わねばならないことを︑国民として︑特に︑この非常に

際して︑しかも国家の将来に対して︑真正なる愛国者の一人として︑同時に人類として言わねばならないことを言って

いるのだ

﹂と率直に語り︑﹁斎藤隆夫氏の質問演説はその言わねばならないことを言った好適例である 14

﹂と共感の意思 15

を示していた︒こうした数多くの賛同と共鳴の声に接した斎藤は﹁私は死すとも︑この演説は永くわが国の憲政史上に

︵一五七︶

(7)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一五八同志社法学六三巻一号

残ると思えば︑私は実に政治家としての一大責任を果したる心地がした

﹂と語っている︒ 16

2

日中戦争の処理をめぐって

﹁反軍演説﹂を中心に

  斎藤隆夫は︑一九四〇年初頭に発足したばかりの米内光政内閣にたいして︑民政党を代表して同年二月二日第七五議

会の衆議院本会議の壇上から支那事変処理に関して厳しく問い質したことはよく知られている︒この質問演説はこれま

で﹁反軍演説﹂と呼称されることが多いが︑その呼称にふさわしいほど︑反軍思想や戦争批判が明示的に語られている

わけではない︒それでもこの演説がとくに陸軍内部に大きな衝撃を与えのは何故なのか︑また国民のなかには斎藤宛の

私信において支持と共感をあえて伝えようとした人々が少なからず存在したことはいかなる意味を示しているのであろ

うか︒こうした疑問を念頭に抱きながら︑斎藤はなぜこの時期にこうした質問に及んだのか︑その内容はいかなる特質

を示しているかなどについて検討してみることにしよう︒

  まずこの質問演説の内容について取り上げてみると︑斎藤は冒頭で﹁一体支那事変ハドウナルモノデアルカ︑何時済

ムノデアルカ︑何時マデ続クモノデアルカ政府ハ支那事変ヲ処理スルト声明シテ居ルガ如何ニ之ヲ処理セントスルノデ

アルカ

﹂とたたみかけ︑支那事変の勃発から二年以上たっているにもかかわらず︑まったく終戦の兆しを見せようとし 17

ない状況を前にして︑苛立ちを隠さず先行きの見通しをストレートに問い質したのである︒この点はおそらく膨大な犠

牲を強いられ将来の不安を抱く国民の誰しもが聞きたがっている質問であったことは容易に想像し得る︒

  斎藤によれば︑支那事変の勃発は日中双方の見込み違いが偶発事件を無用に拡大したものであるが︑﹁成ベク速ニコ

ノ事変ヲ収拾スル︑サウシテ出来ルナラバ再ビ斯ノ如キ事変ガ起ラナイヤウニ︑日支両国ノ間ニ横ハル一切ノ禍根ヲ芟

除シテ︑以テ和平克服ヲ促進スルコト

﹂は当然日本の政治家も担うべき責務であることは多言するまでもない︒しかし 18 ︵一五八︶

(8)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一五九同志社法学六三巻 その際︑米内内閣が確固不動の方針として依拠しようとする近衛声明で以て果して支那事変を処理することは果たして妥当なのか︑と問い直した︒とくに第三次近衛声明︵一九三八年一二月二二日︶は日満支三国による東亜新秩序建設に向けての共同目標として善隣友好・共同防衛・経済提携の三原則を提言したことでよく知られているが︑斎藤はさらに詳しく提案内容を紹介し︑第一に﹁支那ノ独立主権ヲ尊重スルト云フコト﹂︑第二に﹁領土ヲ要求シナイ︑償金ヲ要求

シナイト云フコト﹂︑第三に﹁日本ハ経済上ノ独占ヲヤラナイト云フコト﹂︑第四に﹁第三国ノ権益ニ付テハ︑之ヲ制限

セヨト云フ如キコトヲ支那政府ニ要求シナイ﹂︑第五に﹁防共地域デアル所ノ内蒙附近ヲ取除ク其ノ他ノ地域ヨリ︑日

本軍ヲ撤兵スルト云フコト﹂︑以上の五項目に要約した

︒その上で斎藤は政府に対して︑﹁支那ノ独立主権﹂を完全に尊 19

重するということは将来﹁支那ノ内外政治﹂への干渉を放棄したということになるがそれでいいのか︑さらに償金を要

求しないということになれば︑膨大な軍事費を国民に負担させることになりはしないか︑そして特定地域を除いて日本

軍を撤兵させるということは﹁我ガ皇軍ガ悪戦苦闘シテ進軍シマシタ所ノ此ノ占領地域ヨリ日本軍全部ヲ撤退スルト云

フコト

﹂を意味するが︑そのまま実行するつもりかと問い質したのである︒要するに近衛声明に依拠した上記のような 20

事変処理の内容は果して﹁過去二年有半ノ長キニ亘ツテ我ガ国家国民ガ払ヒタル所ノ絶大ナル犠牲﹂をつぐない得るも

のと言えるのかという点に質問の一つの核心的部分があり︑この点に限定すれば斎藤の質問を﹁近衛声明の無賠償及び

領土非併合主義に反対し

﹂たとみなす見解は全くの的外れとはいえないであろう︒ 21

  第二に︑第二次近衛声明︵一九三八年一一月三日︶で提唱されたように﹁東亜ニ於ケル新秩序ノ建設﹂を﹁今次征戦

究極の目的﹂にかかげ︑また﹁所謂八紘一宇ノ精神ヲ以テ東洋永遠ノ平和﹂を確立するために戦っているという﹁聖戦﹂

の吹聴などは︑次章で詳しく分析するように社会ダーウィニズムに基づく戦争肯定論者として﹁一タビ戦争ガ起リマシ

タナラバ︑最早問題ハ正邪曲直ノ争デハナイ︑是非善悪ノ争デハナイ︑徹頭徹尾力ノ争デアリマス

﹂と認識する斎藤か 22

︵一五九︶

(9)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一六〇同志社法学六三巻一号

ら見れば︑明らかに欺瞞的な呼びかけでしかすぎなかった︒かくして﹁唯徒ニ聖戦ノ美名ニ隠レテ

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

︑国民的犠牲ヲ閑却 0

シ︑曰ク国際正義︑曰ク道義外交︑曰ク共存共栄︑曰ク世界ノ平和︑斯ノ如キ雲ヲ掴ムヤウナ文字ヲ列ベ立テテ︑サウ

シテ千載一遇ノ機会ヲ逸シ︑国家百年ノ大計ヲ誤ルヤウナコトガアリマシタナラバ︑現在ノ政治家ハ死シテ其ノ罪ヲ滅

ボスコトハ出来ナイ

﹂︵傍点は筆者︑以下断りなき限り同じ︶という多分に物議をかもした著名な一節が発せられるこ 23

とになったのである︒こうした﹁聖戦﹂の呼びかけやそのための戦争目的の設定などに対する斎藤の厳しい批判は︑政

府および軍部に強い衝撃を与えたようで︑そのことは翌日になって米内首相と畑俊六陸軍大臣が改めて演壇に立ち﹁聖

戦﹂の弁明を試みたことに端的に示されている

︒斎藤にとってあくまでも事変処理の内容は︑日清・日露戦争以来の成 24

果を発展させ︑国民や兵士の膨大な犠牲を償いうるものであって︑ひいては﹁東亜ニ於ケル日本帝国ノ大基礎ヲ確立シ︑

日支両国ノ間ノ禍根ヲ一掃シ︑以テ将来ノ安全ヲ保持スル

﹂に適当なものでなければならないということであった︒ 25

  第三に︑和平工作の対象として画策されていた汪兆銘の新政府樹立について︑斎藤は﹁一体此ノ新政府ハドレタケノ

力ヲ持ツテ現ハレルノデアルカ﹂を問い質した︒斎藤によれば﹁内ニ向ツテハ国内ヲ統治スル所ノ実力ヲ備ヘ︑外ニ向

ツテハ国際義務ヲ履行スル所ノ能力ヲ有スル

﹂ものでなければ政府として承認できないし︑その決め手は上記の任務を 26

達成できるだけの軍事力の有無に置かれていた︒つまりこの新政府は︑容共抗日に徹する蒋介石の重慶政府を撲滅し広

大な中国を統一するだけの実力を保持しているのか︑また日本としてはどこまで信用できるのか︑これが斎藤の率直な

疑問であった︒この質問もまた政府にとっては苦々しいものであって︑米内首相は予想通り確たる見通しを述べること

ができず︑﹁重慶政府ガ翻意解体致シマシテ新政府ノ傘下ニ入ルコトヲ期待スルモノデアリマス﹂と全く現実離れした

答弁に終始した︒

  以上のように︑斎藤の﹁反軍演説﹂が確かに日中戦争の終結見通しに関して国民の疑問を代弁したものであることは ︵一六〇︶

(10)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一六一同志社法学六三巻 明らかであるが︑その中に反軍思想や戦争否認の主張が強調されたわけではなかった︒しかしこの質問演説が政府と軍部に衝撃を与え︑かなり追い詰めたことも事実であり︑その理由は一言で言えば政府と軍部がもっぱら﹁聖戦﹂の呼びかけに終始し︑国民や兵士の膨大な犠牲を償いうる成果を確保して終結させる何の見通しも持っていないことを暴露した点にあったと考えられる︒このような質問演説を斎藤はなぜこの時期にあえて決行したのであろうか︑この点について以下で検討してみたい︒  有馬学によれば︑この﹁反軍演説﹂は︑﹃斎藤隆夫日記﹄において前年暮れの阿部信行内閣の時に質問原稿の執筆が

始められたことに明らかなように︑その倒閣運動の中心で活動していた斎藤がそのために準備したものであると推測さ

れている

︒ところがその直後に阿部内閣が倒れ︑年明け早々に成立した米内光政内閣には民政党が準与党としてかかわ 27

っており︑したがって総裁の町田忠治も斎藤の質問演説には難色を示していたにもかかわらず︑それはあえて強行され

るにいたったのである︒この点について斎藤自身は︑﹁憲法上の独立機関として国民を代表し政府を監督し鞭撻する議

会の機能を行使する﹂ことが絶えず求められているにもかかわらず︑議員の誰もが軍部に﹁迎合媚態を呈して﹂︑その

責務を果そうとしない現状に不満を感じ

︑国民の声を代弁すべき使命意識に押されあえて強行に及んだと説明して

いる

︒しかも斎藤は︑議場から支那事変処理の方針を国内外に表明する機会を政府側に提供することを意図していたの 28

であり︑したがってこの演説が一大波紋を巻き起こしこれほど大騒ぎになるとは想像しなかったと告白している

︒それ 29

はさておき︑斎藤があえて強行しようとした理由を考えてみると︑次のような点が注目されるのではないだろうか︒

  第一は﹁天下広しと雖も言論の自由ある所は独り議会のみであるとともに︑国民の期待する所も亦議会のみである

30

というように︑もはや議会にしか言論の自由が残されていないという自覚とそれに応えなければならいとする使命感が

斎藤の判断の基底に色濃く流れていたのではないかと想像される点である︒第二は︑﹁二年有半ノ間ニ於テ三タビ内閣

︵一六一︶

(11)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一六二同志社法学六三巻一号

ガ辞職ヲスル︑政局ノ安定スラ得ラレナイ︑斯ウ云フコトデドウシテ此ノ国難ニ当ルコトガ出来ルノデアルカ︑畢竟ス

ルニ政府ノ首脳部ニ責任観念ガ欠ケテ居ル

﹂と陳述したように︑支那事変が勃発した時の近衛内閣が事変処理の決着を 31

つけることもなく総辞職したが︑それ以後も平沼騏一郎内閣︵一九三九年一月五日同年八月二八日︶から阿部内閣︵同

年八月三〇日翌年一月一四日︶を経て米内内閣に至るまでに︑官僚ないし軍人首班内閣がわずか半年ほどの短命内閣

で次々に交代している状況に対して議会政治家としての斎藤が強い憤りと焦燥感を感じたからにほかならないと推測し

ても的外れではないだろう

32

  さてこの演説によって国民の声を代弁しようとする斎藤の姿勢に関連して︑次のような考えや認識もまた大いに参照

すべきであろう︒

  第一は︑政府側が示す支那事変の目的や時局の認識に対して﹁国民の肚の底には何となく結んで解けざる疑惑が残つ

て居る﹂のは﹁支那事変と日本帝国の存立及国民の実生活

0 0 0 0 0

とを直接に結び付けるに足るべき徹底した理由﹂が明らかに 0

されないからであると語っている点である

︒第二は︑戦争によってもたらされる国民の間における利害得失の格差と不 33

公平に関して︑一方で﹁此ノ戦時経済ノ波ニ乗ツテ⁝⁝実ニ莫大ナル暴利ヲ獲得シテ︑目ニ余ル所ノ生活状態ヲ曝ケ出

ス者﹂があるかと思えば︑他方で﹁戦場ニ於テ生命ヲ犠牲ニ供スル︑或ハ戦傷ヲ負フ︑⁝⁝戦場ノ外ニ居リマシテモ︑

戦時経済ノ打撃ヲ受ケテ︑是マデノ職業ヲ失ツテ社会ノ裏面ニ蹴落サレル者﹂が存在する現実を厳しく告発しているこ

とである

︒こうした不平等を是正することもなくただただ﹁聖戦﹂に邁進するための精神総動員を呼びかけるだけでは 34

国民は納得するはずがないというのが斎藤の偽らざる心情であったといえよう︒

  周知のように︑これ以後斎藤は質問演説の部分的削除には同意し︵しかし実際は速記録の三分の二の削除を議長権限

で強行︶︑民政党からの離党勧告にも応じたが︑議員辞職は拒否し懲罰委員会に付されることになった︒しかし斎藤自 ︵一六二︶

(12)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一六三同志社法学六三巻 身﹁委員会は全く余の勝利に帰して閉会した﹂という感想を抱き︑新聞も﹁斎藤君は凱旋将軍の態度を以て引揚げた﹂

と報道したように︑懲罰に付する根拠があまりにも薄弱であったにもかかわらず︑各政党内外での大きな混乱のなかで

議員除名が強行されたのである︒このいわゆる﹁斎藤除名問題﹂への対応をめぐって各政党が分裂と動揺をきたし︑ひ

いては各政党の自主解党によって政党制そのものが自己崩壊し︑﹁大政翼賛会﹂︵一九四〇年一〇月︶の創設に象徴され

る近衛新体制運動に包摂されてしまった︒そして粟屋憲太郎によれば︑斎藤の除名処分の決定は第一に﹁議場における

議員の言論の自由を抹殺した﹂こと︑第二に﹁議会みずからが︑政府や軍部の唱える戦争目的に異議をさしはさまない

という原則を承認した﹂ことを意味したと総括される

︒その意味で斎藤の﹁反軍演説﹂こそ議会政治を彩る最後の打ち 35

上げ花火になってしまい︑みずからがこの時作った著名な漢詩において﹁吾言即是万民声  褒貶毀誉委世評  請看百年 青史上  正邪曲直自分明

﹂と語った感慨は改めて歴史的な重みをもって甦ってくるようである︒ 36

二 戦争と平和の見方の特質

1

戦争肯定論

社会ダーウィニズムと無差別戦争観

  斎藤における戦争と平和に関する基本的な考え方は︑﹁反軍演説﹂を行なう少し前に公表された﹁国家競争と平和論

の価値﹂︵﹃改造﹄一九三九年一〇月︶において表明されている︒斎藤によれば︑人間は最下等の動物より﹁進化せる生

物の一種﹂であることを前提にして︑人間の本能である﹁生存慾﹂を満たすために︑﹁個人は個人と争ひ︑民族は民族

と争ひ︑国家は国家と争はざるを得ない﹂のであって︑国家間の争いの最後の形態が戦争として現出するのである︒さ

らに﹁国家競争の真髄﹂は﹁生存競争と優勝劣敗と適者生存﹂にある以上︑戦争となれば﹁徹頭徹尾力の争ひ即ち強弱

︵一六三︶

(13)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一六四同志社法学六三巻一号

の争ひ﹂となり︑﹁強者が弱者を征服する﹂︑これこそが戦争にほかならないとされる︒ここに明らかのように︑第一に

斎藤の戦争観の基本は生物進化論を国際社会に応用した社会ダーウィニズムにもとづく戦争肯定論であることは言うま

でもない︒これに反して︑斎藤の場合﹁古来︑何れの時代に於ても平和論と平和運動の絶えたことはない﹂が︑﹁一体

世界の平和などが得られるものであるかといふに断じて得らるべきものではない﹂と言明されるように︑世界平和の樹

立に関して一貫して悲観的な見方が彼の心底に流れていた︒第二に斎藤の思考方法の特質は︑﹁国家構成は人類生存の

絶対必要の条件である﹂とする国家本位主義の観点から︑﹁其の所属国家の利益となるべき行動は︑悉く善であり︑正

義である﹂と述べ︑徹底した国益論の立場に立っているということである︒第三に斎藤は当時の国際状況を︑﹁輓近︑

世界の風潮は国際協調主義が衰へて︑之に代りて国家主義が勃興しつゝある﹂とみなし︑国家競争が激しくなれば当然

戦争は絶えないと判断していた︒

  公表された以上のような斎藤における戦争と平和の見方について︑主に﹁反軍演説﹂以降に執筆された多数の未刊行

原稿を収集した﹃斎藤隆夫政治論集﹄︵斎藤隆夫先生顕彰会︑一九六一年︶に即してさらに詳しく検討してみたい︒

  戦争と平和の見方の根底に位置する社会ダーウィニズムの思考は︑斎藤自身が告白しているように︑同郷︵兵庫県出 石︶の大先輩である加藤弘之の影響を受けていることは明らかである

が︑両者とも社会ダーウィニズムを基礎にしてい 37

るとはいえ︑加藤の場合はどちらかといえば優勝劣敗の﹁天則﹂を応用して支配権力を擁護しようとしたのに対して︑

斎藤の場合は主にこの﹁天則﹂が国家間関係に適用され︑﹁国家競争実は弱肉強食の別名である

﹂というように﹁食ふ 38

か食はれるか︑征服するか征服せられるか﹂というイメージがより強く現われることになった

39

  つぎに﹁国家競争は道理の競争でもなければ正邪曲直の競争でもなく徹頭徹尾力の競争である

﹂と改めて強調してい 40

る見解に焦点をあわせてみると︑斎藤はさらに論を進めて優勝劣敗や弱肉強食が世界の﹁天則﹂である以上﹁世界は強 ︵一六四︶

(14)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一六五同志社法学六三巻 者の舞台である﹂から︑﹁強者が弱者を征服するのが何で悪いか︒征服する者が悪いのではなくて征服せらるゝ者が悪 いのである

﹂とまで主張している︒したがって﹁侵略せらるゝのを厭ふならば︑何故に強くならないか 41

﹂と逆に問い返 42

したくなるのが︑力の信奉者たる斎藤の偽らざる心情であった︒そして斎藤によれば﹁国家競争には戦争が伴ひ︑戦争

には侵略が伴うが︑侵略は決して罪悪にあらざるのみならず人類進歩の必要条件である

﹂とみなされ︑﹁如何なる場合 43

に於ても戦争は他国を侵略するか其の侵略を防禦するか︒是が戦争の本質であつて︑これ以外に戦争の本質は絶対にあ

るべき訳はない

﹂と認識された︒ 44

  以上の検討から明らかのように︑斎藤の戦争論は社会ダーウィニズムに基づく戦争肯定論を基礎にしながら︑国際社

会をもっぱら弱肉強食の状態とみなす権力政治的国際認識と国家本位主義的な国益論の観点から展開され︑しかも﹁国

際間の争ひを解決する途は唯一つ︑それは⁝⁝戦争である

﹂と述べるように︑戦争を国際紛争の解決手段として容認す 45

る点で第一次大戦以前に一般的に普及していた無差別戦争観に立っていたといえる︒

2

第一次大戦以後の国際動向の見方   斎藤は第一次大戦のもたらした新しい動向として何よりも注目すべきは﹁矢張りデモクラシーの思想である﹂と言っ

ており︑一方で﹁欧羅巴の君主政体の大部分が滅びたこと﹂がその一つの例証であるとすれば︑他方でそれは日本の政

界にも大きな影響を与え︑一九一八年成立の原敬内閣から始まる政党内閣の成立と男子普通選挙の実施となって現れた

と認識している

︒しかし国際的な動向の中でも︑斎藤は第一次大戦を契機に成立し国際協調主義を象徴する国際連盟に 46

ついては︑﹁国際連盟は世界の舞台から戦争を絶滅することを目的として作られたもの

﹂であるが︑連盟によって戦争 47

防止や世界平和は果して実現できたといえるかと疑問を呈し︑その現実的有効性にほとんど信頼をおいていない︒また

︵一六五︶

(15)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一六六同志社法学六三巻一号

国際法にしてもこれを執行できる権力がないことから︑有って無きに等しいとみなされた︒それ故斎藤にとって国家競

争を拘束しうる﹁最高の権力﹂など存在しないと受け取られたのである︒つまり斎藤によれば︑﹁世界各国に共通して

何人と雖も異議を挟むことの出来ない﹂ような﹁絶対的の正義

﹂など存在しないのであって︑国家本位主義に立つ斎藤 48

にとって国益の維持・拡大こそ正義であり善であるということになる︒たとえば一九一五年に刊行された﹃憲法及政治

論集﹄において︑満州は放棄して朝鮮国境に要塞を築けば小軍でも防衛が可能だとするある有力政治家の意見を聞いた

斎藤は︑このような満州放棄論に激しく反発して次のように批判した︒

﹁日露戦争に方り︑国を賭して戦ひ︑絶大の犠牲を払ふて漸く獲得したる満州の利権をば︑一朝事起らば直ちに棄

てゝ敵に与へよと云ふが如きは︑非国民の言論であつて︑国を愛する政治家の夢にも想像すべき事ではない

49

︒ ﹂   こうした徹底した国益論の立場に立つ斉藤の場合︑﹁長く平和を保たんとするならば或る一国が最強の権勢を掌握し︑

他の列国をしてその後に閉息せしむるの一事あるのみ

﹂と述べるように︑逆説的にいえば強大国による一極覇権主義の 50

確立こそが永遠の平和

たぶんに大国支配の下での奴隷の平和を意味する

を確保しうるとみなされ︑アジアの領

域では﹁わが国が中心勢力になつて東亜の覇権を確立する

﹂ことになれば︑東亜の安定も可能になると展望された︒こ 51

うした斎藤の当初抱いていた見通しや願望は次節で述べるように実際の日中戦争の経過や大東亜共栄圏構想の欺瞞性に

直面して次々に修正を余儀なくされることになったのである︒

  ところで浜口雄幸民政党内閣のとき︵斎藤自身も内務省政務次官の要職に就任していた︶︑周知のように一九三〇年

のロンドン海軍軍縮条約の締結をめぐって統帥権干犯問題が持ち上ったが︑斎藤は独自の論理で以て対処したことが注

目される︒斎藤の場合﹁兵力量の決定は︵海軍︶軍令部長や政府が有するものではなく天皇御自身に於て掌握せられ﹂

ているものである以上︑﹁帝国全権が倫敦会議に臨みて軍縮条約を締結し︑内に在りては憲法上の機関たる枢密院の諮 ︵一六六︶

(16)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一六七同志社法学六三巻 詢を経て天皇が絶対自由の聖意に依り批准せられたる条約の何れの所に統帥権干犯の事実あるか

﹂と明確に反論した︒ 52

一般的には美濃部達吉に代表されるように天皇大権として規定されている統帥権と軍事編制権を区別し後者を国政の管

轄事項とすることで政府の立場を擁護する論調が見出されるのにたいして︑斎藤はもっぱら天皇の条約締結権に依拠す

ることで政府と海軍の対立を止揚しようとしたといえる︒しかし国内外の軍縮の動きにたいして斎藤は必ずしも肯定的

であったのではなく︑﹁余は決して軍備拡張論者に非ざれば軍備縮小論者でもない

﹂と自己規定していた︒斎藤は幣原 53

外交に象徴されるような対英米協調路線に同調しているようには見えないし︑逆にアメリカでの排日移民法の成立︵一

九二四年︶に象徴されるように国際協調主義が衰え国家主義が台頭する時代の到来を予感し︑国家競争が一層激しくな

る中で︑当然戦争は避けられないと確信するようになったのである︒

3

日中戦争観と﹁大東亜戦争

﹂観 54

  斎藤は︑満州事変以降満州を中国から引き離し︑さらに支那事変によって戦線を中国全土に拡大していった日本の軍 事行動について︑﹁支那の立場より見れば何と弁解せられた所で基の実は侵略である

﹂と述べるように︑基本的に侵略 55

戦争とみなしていた

︒斎藤は満州事変の真相について中国軍による鉄道爆破という公式の発表に疑惑を向け︑﹁何づれ 56

裏面に隠された何 にものかあるだろう

﹂と記し︑その背後に出先軍隊の陰謀を感じ取っていたようだ︒斎藤は︑北京郊 57

外の盧溝橋で勃発した支那事変の真相も門外漢にはよくわかないが︑いずれにしても満州事変とともに﹁例に依つて日

本側から仕掛けたものに相違ない

﹂と推測している︒﹁支那事変は最も露骨なる侵略戦争である 58

﹂と断言されるが︑上 59

述したように戦争は侵略と防禦によって成り立っていると理解する斎藤の戦争観からすれば︑侵略戦争が罪悪であると

みなされはしない︒斎藤にとって国益論が正義の基準となるから︑侵略戦争が日本の国家や国民に繁栄をもたらすかど

︵一六七︶

(17)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一六八同志社法学六三巻一号

うかによって判定されることになる︒しかし現実には政府の側からその点が明確に説明されず︑逆に戦争目的として暴

支膺懲とか東亜新秩序の建設などといった斎藤にとっては雲をつかむようなスローガンが掲げられたことに大いに不満

を感じたのである︒他方で斎藤の場合︑日清戦争以来侵略を受け領土や利権をもぎ取られてきた中国の歴史と現状にお

いて︑﹁蒋介石及び支那側から見れば抗日政策は当然のことである

﹂とみなされた︒中国側の抗日戦争は侵略を受けれ 60

ば反撃することを当然と考える斎藤の戦争観から容認されるだけでなく︑国家本位主義の立場に立つ斎藤から見れば︑

﹁自国の独立と名誉﹂を守り通そうとする蒋介石の抗日政策は納得できる当然の行動であった︒それに比べれば︑まさ

に蒋介石が戦っている敵国と通謀してその援助によって別に新政府を樹立しようとしている汪兆銘の行動は︑その親日

政権が弱体で前途の見通しが立たないという現実的な判断以上に︑斎藤にとっては国家本位主義の観点からみても是認

しがたい行為であり︑倫理的にも非難されるべきものと映ったに違いない︒﹁汪兆銘の取りたる行動は日本人の思想よ

り見て洵に立派なるものとして賞賛すべき値打ちのあるものであろうか

﹂と疑問を抱いていた︒いずれにしても抗日政 61

策を進める蒋介石政権はおそらく没落することはないだろうし︑英米諸国からの援蒋政策もなくなる見込みがない以

上︑日中戦争は長期化することが予想されるが︑汪兆銘政権に依拠した和平工作にも期待できず︑まさに手詰まり状態

に陥ったときに︑斎藤はいわゆる﹁反軍演説﹂を政府と軍部にぶつけ︑日中戦争の深刻な実態をどのように処理するの

かを問い質すことになったのである︒

  周知のように︑日本帝国は日中戦争の長期化に耐えうる広域自給圏の確保のために東南アジアにまで侵略を拡大し︑

大東亜共栄圏構想を推進した︒この構想を政府側は東亜諸民族の共存共栄をめざした政策と吹聴するが︑斎藤にすれば

その構想はあくまでも﹁日本を本位とする共栄圏であつて︑他民族との平等的共栄圏ではない

﹂と認識された︒具体的 62

には﹁日本の資源は貧弱であるから︑之を資源豊富なる占領地に求め︑其の資源を開発して日本独自の繁栄を図る︒是 ︵一六八︶

(18)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一六九同志社法学六三巻 が真の目的である

﹂と分析され︑結局のところ以下のような結論が導かれた︒ 61

﹁東亜共栄圏は東亜諸民族共通の繁栄にはあらずして日本単独の繁栄を図る為に日本が東亜に覇権を確立して︑東

亜民族を日本の配下に置かんとする行動であるといふのが偽りなき事実の真相であつて︑是が為に従来米英が強奪

せる占領地を今度は日本が米英より強奪して占領した︒事実は正に斯くの如しである

64

︒ ﹂   こうした認識は︑国家本位主義に基づく斎藤の国益論の観点からすれば当然の見方であり︑しかもそうした行為が罪

悪として断罪されているわけでもない︒繰り返しになるが︑権力政治的な国際認識や無差別戦争観を有する斎藤の場合︑

日本の国益を求めて侵略戦争を始めても容認されるのであって︑その実態を隠して戦争目的に﹁八紘為宇の理想﹂の実

現とか﹁東亜民族の解放﹂などを掲げることこそが偽善ないし欺瞞として受け取られ︑こうしたいわゆる戦争美化論が

徹底的に批判されたのである︒斎藤にとって重要なことは戦争を始めた以上勝利できるかどうかであり︑失敗すれば大

東亜共同宣言など絵空事となるほかないということである︒敗戦が近くなると︑斎藤は﹁今回の侵略戦は失敗である

65

と書くようになり︑戦争を遂行するだけの実力も計画性もなく始められた大東亜戦争を﹁実に馬鹿げた戦争をやつたも

のである

﹂という感慨を抱くようになったといえる︒この草稿︵一九四三年九月︶の時点ですでに斉藤は﹁戦争には勝 66

てない︒断じて勝てない︒結局に於て日本は負ける

﹂と密かに敗戦必至の思いを強め︑戦後にはおそらく英米諸国から 67

無条件降伏と軍備撤廃を強要されると予想していた︒

4

戦後の平和構想と戦争責任論   戦後の世界平和構築の展望として︑世界国家の建設も考えられなくもないが︑斎藤の場合これはやはり﹁夢想﹂にす ぎないとされる︒それよりも現実的な構想として︑斎藤は﹁世界各国を網羅する国家聯合

﹂を提唱した︒それが提唱さ 68

︵一六九︶

(19)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一七〇同志社法学六三巻一号

れた時点︵一九四四年三月︶は戦後の国際連合が創設に向けてまだ始動していない時期︵同年八月ころから本格化する︶

であり︑斎藤の構想は国際連盟の欠点を修正する方向で議論されている︒その最大の欠点とみなされたのが﹁聯盟を統

率する中心勢力﹂と﹁其の勢力に伴ふ武力﹂の確立とに失敗したことであった︒前者の中心勢力としては︑斎藤によれ

ば﹁世界最強の極めて少数の国家﹂に制限され︑反枢軸国が勝利すれば米英ソ三国がそれに該当すると想定されていた︒

後者の武力の充実については︑少数の最強国が軍備強化に努めるとともに︑その武力制裁が実際に効力を発揮するため

に他の諸国は治安維持に必要な武力以外の軍備を撤廃することが求められたのである︒世界を動かすものはもっぱら武

力であると考える斎藤の力への信奉の論理からすれば︑上記のような要求は当然の帰結であるが︑それは偶然にも国際

連合の武力制裁論の強化を先取りしていたといえるかもしれない︒しかしこうした斎藤の﹁国家聯合﹂構想は︑上述し

たように以前にも彼の頭をよぎった強大国家による世界支配=奴隷の平和を再び生み出しはしないかという懸念が生じ

る︒  戦後に成立した幣原喜重郎内閣に対して︑斎藤は一九四五年一一月二九日に衆議院本会議の壇上から最後の質問演説

を行なった

が︑そのとき戦争責任の問題も取り上げた︒おそらく前内閣の東久邇宮稔彦首相がかの有名な﹁一億総懺悔﹂ 69

論を国民に向って唱えたのを受けて︑幣原首相もまた﹁全国民モ戦争ノ責任ヲ負ハネバナラヌ﹂という立場を踏襲して

いることを前提にして︵首相答弁で幣原自身は明確に否認している︶︑この立場をあっさりと切捨てた斎藤は﹁戦争ノ

根本責任ヲ負フ者ハ東條大将ト近衛公爵︑此ノ二人デアルト私ハ思フ﹂と明言した︒とりわけ支那事変を重視する斎藤

にすれば︑当時首相の座についていた近衛文麿の戦争責任が重く受け止められ︑具体的には近衛が事変の不拡大方針を

貫徹できなかったこと︑汪兆銘新政府に和平工作を委ねようとしたこと︑そして日独伊三国同盟を締結してことなどを

取り上げ︑﹁自分デ火ヲ点ケテ大火事ヲ起シテ置キナガラ︑其ノ火事ヲ消スコトガ出来ナカツタカラ︑火事ノ責任ハ自 ︵一七〇︶

(20)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一七一同志社法学六三巻 分ニハナイ︑斯ウ云フ理屈ガ今日ノ世ノ中ニ於テ通ルト思フノハ︑是全ク世間知ラズノ分ラズ屋デアル﹂と厳しく詰問した︒さらに注目すべきは︑敗戦時の草稿の中で﹁戦争の責任は軍部︑政府︑議員︑此の三者が之を負はねばならぬ

70

と述べ︑軍部や政府に抵抗して戦争防止の役割を果せなかった国会議員もまた批判の対象にされたことは注目に値す

る︒ところが斎藤のこうした議論は︑いかなる戦争責任を問題にしたものなのか︑あまり判然としないところがある︒

それは一方で戦争に勝てなかった敗戦責任を問おうとしているようにも感じられるが︑他方で到底アジア諸国民への加

害責任を意味するとはみなしえないとはいえ︑少なくとも国民を無謀な戦争に引きずり込んだ国家指導者の責任を糾弾

しようとしていることだけは確かであろう︒

三 戦争と平和のディレンマ

むすびにかえて

  斎藤の場合﹁戦争あるが為に人間も国も世界も進歩したのである

﹂と述べるように︑戦争を人類進歩の必要条件とみ 71

なし︑肯定的に捉える見方が基本的な戦争観であり︑その戦争肯定論が加藤弘之から継承した社会ダーウィニズムの考

えから導き出され︑しかも弱肉強食的国際認識や国家本位主義によってさらに促進されたことはこれまでの検討から明

らかであろう︒それ故国家競争に勝利するには︑徹頭徹尾自国の利益を考え︑それを可能とする国力︵=軍事力と国民

の精神力︶の充実が求められ︑こうした現実主義的思考がもっぱら重視されるから︑﹁八紘為宇の理念﹂や﹁東亜の解放﹂

など斎藤にすれば雲をつかむような戦争目的を吹聴する軍部や政府による戦争美化論は到底受け入れがたいということ

になる︒斎藤にとって戦争とは国家の維持や発展をめぐって展開される侵略と反撃を意味するから︑国益を求めて侵略

することは罪悪だとはみなされないし︑逆に日中戦争にみられるように中国側からの反撃も当然視される︒かかる戦争

︵一七一︶

(21)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一七二同志社法学六三巻一号

肯定論の立場に立ちながらも︑斎藤が﹁反軍演説﹂によって具体的に日中戦争を取り上げ軍部や政府を厳しく問い質し

たのは︑一つには力もないのに侵略にあけくれたことに対する反発と憤りがあったからである︒斎藤は敗戦時に﹁我に

実力の備へあれば世界を征服するも亦可なりであるが︑世界の形勢を知らず彼等の力を弁へずして濫りに侵略戦争に没

頭せんとするは所謂誇大妄想狂であつて国を誤るのは此等の徒である

﹂と率直に批判している︒ 72

  しかしより根本的な理由としては︑斎藤の場合戦争は論理的には肯定されながらも︑その心底には戦争を嫌悪し平和

を希求する心情が沈殿していたことに留意すべきであろう︒﹁何人も平和を好まざるものはない︒何人も戦争を好むも

のはない︒凡そ︑此の世の中に於て戦争ほど残虐なものはないから︑能ふべくんば︑戦争を避けて平和の内に生存を全

うしたいと思ふのは︑人間の通有性である

﹂と︒しかし実際には﹁凡そ此の世の中に於て戦争程残酷なものはない︒併 73

し残酷であるからとて戦争を止めることが出来るかと言へばそれは出来ない

﹂という主張からもわかるように︑戦争の 74

残酷性と不可避性を同時に認めるディレンマが斎藤の思考と心情に絶えずまとわり︑そのことが彼の戦争観にゆれを生

み出すとともに︑少なくとも好戦的な方向に突き進むのを躊躇させる要因となったように思われる︒しかも戦争が人々

に与える利害得失における格差について︑斎藤によれば﹁戦争に依りて利益を得る者は職業軍人であり戦争成金である︒

損害を受ける者は戦死者であり戦死者の遺族であり大多数の国民である

﹂という不公平感が強かったこともたぶんに作 75

用したと考えられうる︒

  以上のような戦争観のディレンマから案出される結論を探ってみると︑斎藤の場合戦争が国家競争に勝ち抜くための

必要条件だとしてもそれはあくまでも最後の手段として考えられているのであって︑できれば避けるべきというのが彼

の基本姿勢であったといえる︒たとえば近衛声明で戦争目的に掲げられた東亜新秩序構想の内容が共同防共︑善隣友好︑

経済提携にすぎないのであれば︑斎藤は﹁何も戦争をやらなくとも戦争以外の方法に依りて彼我共に此の目的を達する ︵一七二︶

(22)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一七三同志社法学六三巻 手段が有るではないか

﹂と大いに疑問を抱いていた︒あるいは﹁国家発展の為ならば斯かる危道を踏まずとも他に安全 76

な道があるにも拘らず︑其の道を発見せずして今回の戦争を惹起したるは全く軍部の専横と認識不足の致す所と非難さ

れても弁解の辞はないであろう

﹂とも語っている︒ここでいう﹁安全の道﹂とはいうまでもなく支那事変を起すべきで 77

はなかったということであり︑したがって大東亜戦争になるとまさしく﹁やるべからざる戦争をやって大敗を招いた

78

という評価が斎藤の最終的に行き着いた結論であった︒

  大東亜戦争の見方に関して注目すべきは︑﹁一体大東亜戦争は何から起つたのであるか︒言ふまでもなく支那事変の

継続である

﹂というように︑斎藤が大東亜戦争を支那事変の継続・拡大とみる視点の重要性を強調していることである︒ 79

後の日米戦争を生み出した日米間の対立もまた支那事変にまでさかのぼって考えなければならないと提唱されるが︑日

米戦争を含んだ大東亜戦争の核心が支那事変より始まる日中戦争にあるという指摘は注目に価する︒つまり十五年戦争

を日中戦争を基軸において捉えようとする見方は︑現在においても日米戦争を中心に見がちな戦争観に対する一つの問

題提起として大いに評価することができるであろう︒

  斎藤はやはり軍人の政治干与が日本の議会政治を破壊し亡国に導いたとする思いが強く︑戦後に行なった最後の質問

演説において︑﹁彼ノ満州事変当時ヨリ軍人ガ政治ニ干渉シ︑軍国主義者ガ漸次ニ勢力ヲ得テ︑実際ニ於キマシテハ国

家ノ政治ニ至ルマデ彼等ニ依ツテ左右セラルヽニ至ツタコトハ︑是ハ争フコトノ出来ナイ事実デアル﹂との認識を前提

にして︑﹁我ガ国ニ於キマシテドウシテ斯ウ云フ軍国主義ガ生レ出タノデアルカ︑又ドウシテ之ヲ未然ニ防グコトガ出

来ナカツタノデアルカ﹂と問い質し︑陸軍大臣から反省の弁を引き出したのである

︒軍人の政治干与を一貫して糾弾し 80

た議会政治家斎藤隆夫の最後の英姿をそこに見出すことができるであろう

81

︵一七三︶

(23)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一七四同志社法学六三巻一号

1︶ 斎藤隆夫はよく知られた議会政治家ではあるが︑念のため簡単な略歴を記しておきたい︒

斎藤は一八七〇年に兵庫県出石郡室埴村字中村に農家の次男として生まれる︒九一年に東京専門学校︵現在の早稲田大学︶行政科に入学し︑

九四年の卒業後弁護士となる︒一九〇一年にアメリカのイェール大学法科大学院に留学するが︑肋膜炎を患い〇四年に帰国︒一二年に立憲

国民党から衆議院議員に初当選を果す︵以後一三回当選︶︒三六年には﹁粛軍演説﹂︑四〇年には﹁反軍演説﹂を行ない気骨ある立憲政治家

として勇名を馳せるが︑軍部からの圧力の下で﹁反軍演説﹂の直後に議員を除名された︒戦後直後に日本進歩党に参加した斎藤は︑四六年

に吉田茂内閣に初入閣し︑日本国憲法公布のとき閣僚の一員として署名する︒四九年死去︒

斎藤隆夫に関しては︑評伝がいくつか刊行されている︒松本健一﹃評伝斎藤隆夫孤高のパトリオット﹄︵東洋経済新報社︑〇〇二年︑

波現代文庫︿二〇〇七年﹀として再刊︶︑大橋昭夫﹃斎藤隆夫立憲政治家の誕生と軌跡﹄︵明石書店︑二〇〇四年︶︑草柳大蔵﹃斎藤隆夫

く戦えり﹄︵グラフ社︑二〇〇六年︑初版は一九八一年に文藝春秋社から刊行︶など︒

2︶ 河原宏﹁斎藤隆夫の反軍演説とその影響﹂﹃社会科学討究﹄二七巻一号︵一九八一年一二月︶参照︒

3︶ 田頭慎一郎﹁議会政治家からみた主権と天皇斎藤隆夫の憲法論﹂﹃日本政治研究﹄三巻二号︵二〇〇六年七月︶参照︒

4︶ 有馬学﹁戦争のパラダイム斎藤隆夫のいわゆる﹁反軍﹂演説の意味﹂﹃比較社会文化﹄第一巻︵一九九五年︶など参照︒

5︶ 斎藤﹃比較国会論﹄渓南書院︑一九〇六︶一頁︒この著作において斎藤は天皇機関説︵﹁天皇は統治権の総攬者とあるがそれは国家のた

めに主権を執行する最高機関を意味する﹂七〇頁︶と折衷的な議会主権論︵﹁我国の主権は⁝君主と議会との共同団体に属す﹂七七頁︶を

主張しているが︑とくに天皇機関説の提唱などはかなり早い事例を示していることが注目される︒

6︶ 斎藤﹁帝国議会の威信﹂︵一九四一年四月︶﹃斎藤隆夫政治論集﹄︵新人物往来社︿復刻版﹀一九九四年︶一〇二頁︒以下では﹃政治論集﹄と

略記す︒

7︶ ちなみに﹁軍人勅諭﹂︵一八八二年︶には﹁世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り︵云々︶とあり︑さらに憲法義解﹄

︵一八八九年︶には﹁現役軍人は集会社して軍制又は政事を論ずることを得ず﹂︵岩波文庫︑六四頁︶とあり︑そして陸軍刑法︵一九〇八年︶

には﹁政事ニ関シ上書︑建白其ノ他請願ヲ為シ又ハ演説若ハ文書ヲ以テ意見ヲ公ニシタル者ハ三年以下ノ禁錮ニ処ス﹂︵一〇三条︑海軍刑法

一〇四条に同文︶とある︒

8︶ たとえば陸軍省報道班から発行し広く配布された﹁国防の本義と其強化の提唱﹂︵一九三四年一〇月︶と題するいわゆる陸軍パンフレット

を取り上げて︑斎藤は﹁浅薄なる軍国主義の鼓吹に外ならぬ﹂と切って捨て︑﹁国防のみを以て国家発展の基本的作用なりと妄断し︑国家の ︵一七四︶

(24)

斎藤隆夫の軍部批判の論理と戦争肯定論 一七五同志社法学六三巻 全活力を挙げて之れに集中せしむべく国家及社会の組織を変革すべしと論じ︑甚しきに至りては武力を以て皇道を世界に宣布せんと揚言す

るに至りては知慮浅薄︑軽卒至極である﹂︵﹁陸軍パンフレット問題に就て﹂﹃民政﹄一九三四年一一月︶と厳しく批評しているが︑翌年一月二

四日に衆議院本会議における質問演説の中でこの問題を改めて取り上げて問い質している︒

9︶ ﹁粛軍に関する質問演説﹂政治論集﹄二八八頁︒/の印は行替えを意味する︒

10︶ 同右書︑二九三頁︒

11︶ 同右書︑二九一頁︒

12︶ 斎藤は各新聞の好評がよほどうれしかったのか︑﹃回顧七十年﹄︵中公文庫︑一九八七年︑初版は一九四八年︶において関連記事を丹念に紹

介している︵同右書︑一二二ページ以下参照︶

13︶ 粟屋憲太郎﹃昭和の歴史

6昭和の政党﹄︵小学館︑一九八三年︑二八四頁︶から引用︒

14︶ 桐生悠々﹁言いたい事と言わねばならない事と﹂﹃他山の石﹄一九三六年六月五日︑﹃日本平和論大系

9桐生悠々﹄︵日本図書センター︑一

九九三年︶一二九頁︒

15︶ 同上書︑一三〇頁︒

16︶ 斎藤︑前掲﹃回顧七十年﹄一二九︱一三〇頁︒

17︶ 斎藤﹁支那事変処理を中心とした質問演説﹂政治論集﹄二〇頁︒

18︶ 同右書︑二一頁︒

19︶ 同右書︑二五頁︒第三次近衛声明の提案内容を斎藤のようにまとめることは大筋では間違いではないが︑ただし第五項目のような日本軍

撤退の説明は近衛声明の該当箇所︵﹁特定地点ニ日本軍ノ防共駐屯ヲ認ムルコト及ヒ内蒙地方ヲ特殊防共地域トスヘキコトヲ要求スル﹂

ついての斎藤のかなり独断的な解釈となっている︒これ以前に確定された﹁日支新関係調整方針﹂︵御前会議決定︑同年一一月三〇日︶にも

そのような主張は見出されないし︑汪兆銘派の幹部との事前交渉でも激しく対立し明確な同意が得られなかった項目でもある︵﹁日華協議記

録及同諒解事項竝日華秘密協議記録﹂同年一一月二一日︶︒斎藤の解釈は︑近衛声明を受けて和平工作に乗り出そうとしている汪兆銘の声明

︵同年一二月二九日︶の中に見出される見解であり︑斎藤はこの見解を近衛声明の妥当な解釈とみなすことによって︑汪兆銘の要求通りに日

本軍の撤兵に応じるつもりかと問い詰めたのである︒

20︶ 同右書︑二六頁︒

︵一七五︶

参照

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