ソ
ビエト政権の宗教政策
i国教分離布告をめぐって一
霜 田
美 樹 雄
む四三ご一・ま
、 す び 布告徹底実施のための訓令示達 宗教界の反撃、 国教分離布告の発布、 革命直後のソビエト政権と教会、 え が き 目 次
ま え が き
ソビエト政権の宗教政策
七月事件で敗退したボリシェヴィキはコルニロフの生後︑一挙に勢力を挽回した︒それは国民の経済破綻を無視し
勝目のない戦争を継続していたずらにヨーロッパ列強の走狗と化している臨時政府に対比し︑停戦と働く者の真の自
主独立を標傍するボリシェヴィキへの国民の支持を示したものとも言えよう︒両派の決戦は一〇月二四日早朝政府側
のボリシェヴィキ機関紙編集︑印刷所に対する攻撃によって開始された︒同夜レーニンはスモリヌイに到着して軍事
革命委員会の指揮をとり本格的蜂起がはじまった︒
1
翌二五日から二六日にかけ︑ペトログラードの停車場︑郵便局︑電信局︑冬宮が赤衛兵と革命的軍隊により占拠さ
れ臨時政府は降伏した︒一〇月二五日夜スモリヌイで開かれた第二回船・シア・ソビエト大会において﹃ロシアの市 ︵1︶民へ﹄というボリシェヴィキのメヅセージが発表され︑一切の国家権力がソビエトの掌中に移ったことが述べられた︒
翌二六日同大会は﹃平和について○≧巷Φ﹄の布告と﹃土地について○ωの§Φ﹄の布告を採択し︑ここにソビエ ︵2︶ト政権はいままで呼号しつづけた政策の実現に着手することとなったのである︒
しかし︑すべての地域においてボリシェヴィキが権力を掌握した訳ではなかった︒いな︑ペトログラードにおいて
さえ反革命派の企図が平安を乱していた︒そればかりかそれは継続的にますます振幅の度を拡大して全地域国内戦︑
外国干渉戦へ点火するのであった︒一方︑﹃平和について﹄の布告が⁝⁝すべての参戦国の政府と国民にこの平和提案
をなすに当り︑ロシア労農臨時政府は人類のもっとも先進的な民族国家であり︑現に参戦している最大の国家である ︵3︶イギリス︑フランス︑ドイツの階級意識的労働者によびかけ⁝⁝ることに示されるように国外に対してこの帝国主義
戦争を各国の国内戦に転化して世界革命の導火線にしょうと企図していたし︑それはまたきわめて実現性のあるもの
と思われていたのであった︒それゆえそれを実現するため樹立直後のソビエト政権は逆説的であるが国内的にはまず
旧権力構造を早急に覆滅して︑社会主義政権の安定化をはかり︑もって世界革命のリーダーシップを取る必要があっ
た︒そこで新権力への支持と民心の統一をはかるためには新たな価値体系の造出と宣伝︑指導が旧価値体系の破壊と
ならんで不可欠である︒ソビエト政権はこの課題に対しどのような具体的施策をもって答えたかを特に宗教と宗教組
織への対処の方法つまりどのような宗教政策をとったかを一九一八年一月︑国教分離布告発布の前後を中心として検
討して見たい︒
これは臨時政府を含めて帝政時代ギリシャ正教を中心とする宗教組織が帝政維持の大きな支柱となっていたことか
2
ら政治権力構造の変動交替期にイデオロギーの一つとしての宗教の取り扱いが注目されるからである︒
︵注︶
︵1︶ロコ・エ・コ︒︻δ竃︒︒﹄δロコ・ズつ錠訳帥国踏︒↓o℃国識スロ∩ρ寓oo臣鴨導お㎝㊤ポノマリョフ監﹃ソ連邦共産党史﹄昭和三四年︑現代社
刊︑第二巻一四二頁︑甲=詣①=出軍OOタ炉b︒96月掛.b︒O①﹃レーニン全集﹄第二六巻二四三頁
︵2︶ポノマリヨフ・同前・一四四頁︒
︵3︶﹀匡∩O∩コ竈自竃三国︒8℃§℃員①巷︒琶∩︒︒コΦ↓6囲8陣︒口耳︒罠︵8る・・日①霞Ω自Φ巷①↓掌︶8ζ﹂・ぎ突罫巳盟3℃・這℃
冒ヨΦωじdg昌巨峯画甲=.霞ω冨♪↓冨bd9ω早く目口①<o一書圃︒ジお嵩1お同︒︒℃Oo8ヨ①艮ω鋤巳8讐Φユ巴ω噂ω8艮oa・
︵○脱蒔Φα●一㊤認y幻①●Hり①伊O.目b⊃¶・
一、
v命直後のソビエト政権と教会
ソビエト政権の宗教政策
1.ロシア社会民主労働党の宗教政策
a 第二回党大会のレ!ニソ
まず︑一〇月革命で政権掌握したボリシェヴィキが宗教および宗教組織に対していままでどのような見解と態度を
とってきたかを概観しなければならない︒
周知のように一八九八年三月ミンスクにおけるロシア社会民主労働党℃∩員マコ第一回大会は政党綱領採択の余裕
︵1︶すらなく官憲の手によって潰されたのである︒一九〇三年七月から八月ブラッセル︑ロンドンにおける同党第二回大
会においてレーニンが準備した﹁社会民主党綱領導﹂と﹁ロシア社会民主党の課題﹂の←.憾かに宗教についての党の基 ︵2︶本的立場が既に示されていた︒すなわち︑そこにおいて︑信仰の自由とすべての民族の平等の権利を︑そして官憲か ︵3︶ら︑独立した自主的な市民機構の手中に戸籍事務を移管することなどを要求していた︒
3
その当時の帝政ロシアは無神論者は言う迄もなく︑非ギリシャ正教徒︑自由思想の持主などを根絶しようとしてい
た︒それらの証左の一つとして市民生活上の諸書見たとえば通行査証︑戸籍簿︑その謄本︑戦時認識票じコoo剛竈孟剛 ︵4︶αヨΦ↓などはロシア帝国臣民の宗教信仰所属を記載することが強制的に義務づけられていた︒かくてギリシャ正教会
は独裁政治の私的国家機関であり︑警察的機能を遂行する有給職務として存在した︒このような宗教的迫害はいずれ ︵5︶は民主的諸勢力の抗議をよびおこさずにはおかなかった︒つまりギリシや正教会の冷酷無残な活動に敵対する民主々
義者の登場はそれを専制機構に敵対する闘いに変化させた︒それゆえ政策綱領の作成に当り︑ロシアにおけるすべて
の民主的勢力強化のための政党の主要な課題の一つが︑専制政治に敵対して闘うことであり︑ レーニンはこれにつ
き︑社会民主々義者は現体制に敵対するすべての革命活動︑抑圧され︑宗教に迫害され︑軽蔑された人民︑権利平等 ︵6︶のために闘う人民を皮持するとする︒そのようなことから一九〇三年七月から八月の℃∩員℃口第二回大会ではレーニ
ンの立場を麦持して宗教問題およびそれに関連した問題について次のような決定を採択した︒すなわち︑ツアー独裁
政治を打倒して次のことを保障する憲法をもつ民主共和国にすること︒その憲法とは社会階級の対立を根絶し︑真の
権利の平等︑すべての市民の地域︑宗教︑種族︑民族の差異不平等からの自主独立⁝⁝国家から教会︑教会から学校 ︵7︶の分離⁝⁝の保障であった︒
b ポンチブルェヴィチの主張
これに関連して同大会はツアー・ロシアにおいてとくに迫害をうけているギリシャ正教以外の宗教宗派信者に対す
る政党の態度についても考えた︒この問題は大会に列席しなかったがポンチ日ブルェヴィチ Qd●員.ゆ9護−団℃気Φ︒コ鼠.目 ︵8︶が上程したものであった︒
農村の分化と崩壊過程の中で農民大衆は正教徒から分派への脱落も見られたのだ︒この新しい状況への適応の渇望
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ソビエト政権の宗教政策
ぽ専制政治とその官僚機構への衝突を招来した︒分派は新しい農民勢力︑小商業︑手工業の代表であり︑とくに貧困
な農民大衆にあらわれている︒かれらにつき社会民主々義者は特に重視し︑これらのうちに反対闘争をプロパンガン ︵9︶ ︵10︶タすることは少なからぬ成功を収めるであろうとした︒
このようなことから前記℃∩ン℃戒心二回大会における分離派への働きかけについての次の特別決議がなされたの
である︒すなわち︑﹁ロシアにおける宗教分離派の活動は︑広く言って現存の社会様式に敵対する多くの民主的風潮︑
方向の一つのあらわれであるとの判断から第二回大会は︑すべての党人は宗教分離派への働きかけに配慮して︑社会
民主々義者にひきよせ変更させることとした﹂のである︒
かくて︑国教分離の宗教政策は第二回党大会に樹立されていらい︑変らずにボリシェヴィキの基本方針となってい
︵11︶た︒
2.国教分離布告前の宗教施策
a教会領没収︵土地布告︶
前述のごとく政権掌握したボリシェヴィキの宗教政策は既に明白であったが︑ただこれをどのように具体化するか
はその後の状況とにらみ合せて行なわるべきであった︒
国教分離に非常に影響を与え︑かつその第一歩をふみ出した施策は言うまでもなく﹃土地について○ω窪膏﹄の布
告発布である︒これは前述のごとく第二回全国大会で満場一致で可決され︑農民大衆の永年の渇望を実現したもので
あった︒この布告の大要は︑土地についての私的所有権は永久に廃止され︑したがって土地は将来にわたって売買︑
譲渡︑賃貸借︑抵当その他物権の対象とすることが許されないということである︒これは唯単に大地主︑皇室領︑国
有地に限らず︑教会領︑修道院領などに及び︑これらはすべて無償で収用されて全人民のものとなり︑そこではじめ
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︵12︶てすべての勤労者のためにその利用に供されるのである︒帝政末期のギリシャ正教会宗教組織は巨大な教会領︑修道
院領をかかえ︑それを農奴制的農業経営維持をしている大土地所有主でもあったので︑この布告の実施には宗教組織 ︵13︶の経済的破たんを意味するものでもあった︒臨時政府がかつて行なわんとした土地改革制度は実施され得ぬ絵そら事
として終始したものであったが︑ソビエト新政権は勇断をもってこの改革を実施し︑それにより旧体制の↓掃を企図 ︵14︶したものであった︒
b 民族的制約の廃止
帝政ロシアは前述のごとくいままで宗教的に一つの民族を政治的に保護︑煽動し︑その宗教的狂信主義を政治に利
用してきたのである︒すなわち︑ギリシャ正教会はそのための恰好の材料として存在し︑後者はその利権をまた悪用
していたと言える︒ ︵15︶ 二月革命後︑臨時政府の信仰自由布令はこの制約を排除する目的をもった立法であったが︑事実は︑権力が実質的
に保守的支配層の掌中に帰していたので︑真実の民族的差別︑制約の撤廃はかけ声だけに終ってしまったのであっ
︵16︶た︒
立法が実効化されないという臨時政府の政治の結果は帝政版図内のロシア諸民族間にかえって民族的反目と相互信 ︵17︶用剥離の状況が強化されたと言えよう︒
一〇月革命後ソビエト新政権はこのような状況をふまえて︑まず︑一九一七年一一月二日ロシア諸民族権利の宣言
員①§£︒℃賀§弓窃雷℃obo︒口℃oR§を発布七てすべての︑あらゆる民族的および宗教的特権と制約の破棄について ︵18︶断乎たる措置をとらざるを得なかった︒
このような方針の具体的施策の一つとしては共和国内にある回教徒に対する措置にみられた︒すなわち︑一二月九
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ソビHト政権の宗教政策
日︑ソビエト人民委員会は聖なるオスマン・コーラン ∩ロコめ日Φ臣O門O訳O℃=︒塁Oo碁器 の回教徒地方集会を国立公共 ︵19︶図書館で即時行なうことを許可する旨決定した︒帝政ロシアはギリシャ正教を保護し︑反面その他宗教を邪教として
陰に陽に圧迫してきたし︑臨時政府もその施策は実質的にそれを踏襲したものであった︒それゆえ回教徒に対しては
コーランをとり上げ︑ないし︑それに圧迫を加えることが多かったが︑その回教徒はいまやその信ずるところに従っ
て礼拝勤行が可能になったのである︒ペトログラード民族管区は聖なるオスマン・コーランをという全ロシア回
教徒の期待と渇望が実現されんとしているのである︒前記決定の写しはかくて教育人民委員ルナチャルスキー﹀じ﹂. ︵20︶詣葦盤も突蚤の手により︑かれらの歓喜のなかに伝えられたのである︒この決定の中にはっきりと民族的制限の排
除と信仰の自由の理念が確立され︑ソビエト政権の前記問題への真意が浸透していることが知られる︒そしてこの民
族的制限の排除は︑言うまでもなく革命以前に厳として存在していた貴族hじコ︒℃客臣商人鳶口曹ス町人冨Φ員9︒︸ヨ=
百姓民℃①o目げ差掛など市民的身分にもとずく身分的特権︑称号と差別が一九一七年一一月一一日全ロシア中央執行
委員会しσ二=スと人民委員会議∩エスにより﹃身分と市民的区分の廃止についてOq冤養轟︒渓①=塁∩020じ︒=詠類 ︵21︶69︒巽富再ス員爵ぎ旦の布告の発布によって廃止されたとき以来︑当然予期された措置であり︑むしろ少し遅すぎ
たきらいもあったことである︒
c 宗教々育の分離
レーニンが︑知識と科学が金持と搾取階級の地位を強化するような優先的物質的任務を持つことをやめそれを勤労 ︵22︶者︑被搾取階級解放の道具に変化させることが必要であると言ったごとくするために正に教会より学校を分離するこ
とが必要であった︒しかし学校への教会の圧力︑財力はこの課題の解決にとって重要な障害となっていた︒この施策
の体系的な研究と実施はルナチルスキー>・しロ.﹄遠自転突愚を教育人民委員とする教育人民委員部=巷oo邑℃ooに
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まかされていた︒ルナチャルスキーは一九一七年一〇月二八日次のようなメッセージを教師に向けて発していた︒す
なわち︑それは入学教育について︑ソビエト体制最大の課題たる現代教育学の要求にふさわしい︑すべての人間が読
み書きできること︑すなわち義務教育︑無料教育の導入およびいくつかの段階をもったすべての市民のためのただ一 ︵23︶つの完全な学校への闘いを宣言したのであった︒これに関連して︑ 一二月一一日決定を発して︑いままで宗教省の所
管事務となっていたところのすべての教会立初等・中等学校二Φ℃︷︿霧川δ占℃畏︒員∩一良Φ昼ス9ざ剛師範学校釜弓9亭Ω︵鞘町︒
8蚤髭℃§女子師範学校渓窪霞莞︒岩鵠胴慈夢甲自︒賓.霞団員鋤教会立一般人学校ン葺oo=o=Φ℃6§○日内︒㍉乾聖職者神
学大学貧貴e・葦自その他各種名称の中︑高等学校や聖職者教育機関を以後教育人民委員部の管轄下に所属させるこ ︵24︶とを義務づけた措置がきめられた︒
これは学校教育が教会の︑したがって宗教からの不当な干渉を排除するための当然の措置であり︑もっとも新政権
は宗教事務を管轄する目的で宗教人民委員部︵?︶を設置しなかったし︑また設置する意志もなかったのであるから︑
この管轄移転は新政権樹立時の構想からすれぽ︑当然残務整理的な色彩をもつものであった︒
それはその直後に打たれた教育人民委員部の決定に明瞭に現われている︒すなわちそれはすべての教育機関におけ ︵25︶る神学教師の職務は廃止をされたのである︒これは国家的︑公共的諸機関で宗教信仰を研究し教授することに禁止的
制約を加えただけでなく︑同様に私立教育機関に対してもこの効力が及ぶことを意味している︒これは教育機関が宗
教および宗教組織に対する実質的従属関係を排除することを意図したものである︒宗教を抹殺するためには宗教の弊
害を研究.教育機関において研究し教授することがヨリ有効であるということは﹁般的な考え方であるが︑革命前から
の神学教師にその任務を負課させることは不可能であり︑ナンセンスであるから︑けっきょく当面の政策としてこれ
は妥当であろう︒もちろんこれは宗教の研究︑教育の全面的禁止を必ずしも指向するものではなく︑のちの布告にも
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ソビエト政権の宗教政策
示されるごとく︑思想の自由はすべての市民に保証されるものであって︑父親が家庭で子供に自己の宗教.信条を私
的に教育することを妨げるものでない︒
d 教会より戸籍事務の分離
国家から教会を分離する準備のための次の施策は一九一七年=一月一八日ソビエト人民委員会採択﹃市民的婚姻︑ ︵26︶子供および戸籍簿管轄について○﹁℃自︒三軍罠Ω6冨O聴月雪鴇○員︒↓美=o器ho⁝=臣胃艮↓oロ︒8︒目︒差§﹄の布告 ︵27︶と︑おなじく同日付﹃婚姻の破棄について○讐含︒℃︶灘巽一︻9艶︵9・﹄の布告が挙げられよう︒これは永年の宿弊であ
った国家と教会の癒着︑つまりギリシャ正教会組織が市民の婚姻︑出生︑死亡など身分行為の処理につき国家代行機
関化したことから発する諸種の弊害を排除し︑かたわら教会をして真に信仰するものの団体として留保しておこうと ρ28︶する意図に出でたものである︒
それゆえ右の布告は教会結婚を禁止しているものでなく︑それは各自にまかされた私事と認めているのである︒た
だそれはあくまでも私事の契約であり︑セレモニーであって︑法律上の効果を発生ずる必要条件としては認めないと
いうのである︒つまり夫婦︑父子聞の相互身分関係はそのよう叛教会儀式を行なったか行なわなかったかに依存する ︵29︶ものでなく︑もっぱらこの布告に定めた一定の民事手続を行なったか行なわなかったかにかかっている︒
これを婚姻について言えば︑婚姻をせんとする者はその居住地の地方町村︑ゼムストポの戸籍係に口頭または文書
で申出で︑布告第二条に列挙する婚姻不適格条件︵略︶に該当せず︑かつ相互の自由なる意志により婚姻を締結した
旨の文書に署名をする︒上記の文書に暑乾したとき︑戸籍係は戸籍簿に婚姻を記録し︑かつ婚姻が法律上の効果を発
生したことを宣す麹⁝など婚姻の成立およびその要件をはじめ・婚姻の無効・取消現星婚姻の効力など現代法諸 ︵31︶規定を具備したものである︒
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このことは子の出生にさいして︵第七条−第一〇条︶︑また人が死亡したとき︵第一一条一夏一四条︶もそれぞれ
詳細な民事的登録手続を規定しているがいずれの場合も教会で葬式を挙行したか︑生れた子に洗礼訳℃oβo葭①を施
したかどうかは法律上の身分効力発生要件とはしていない︒それは定められた官署に所定の手続で登録したか否かに ︵33︶かかっている︒
古い体制の下での婚姻ないし子の出生︑人の死亡などにさいして実質的に強制された教会儀式が教会をして家庭生
活の中に強大な勢力を占めることを可能にさせたが︑これら布告はそのような教会の支配からすべての身分行為に関
する市民生活を例外なく除去し︑これらについていままで持っていた不当な教会勢力の弱化を招来したことはあきら
かである︒かくて特権的専門職業者としての国家機関化した聖職者の事務機関︵?︶は廃止されたのである︒
e 従軍聖職者制の廃止
次に一九︼八年一月工ハ日軍事人民委員ケドロフ≧●穴①油℃oロコスクレヤンキーω・6塁望突﹇島パドボイスキー等 ︵34︶コ︒富︒号︻︵=P メホノーシン 穴●竃の×o=o日歩 の指令で軍隊における従軍司祭職の勤務が解消された︒それによると
以降すべての従軍聖職者8訟月①臣︒自豪強冨﹄巴は軍隊勤務に在籍することができないし︑聖職者の軍事的な面への ︵35︶介入支配は廃止されるとなすものである︒
これは過去においてかれらが軍国主義的プロパガンダを事実上使唆したという政治的機能を果したことから︑これ
を新政権の機構から排除せんとする意図をもったものである︒もちろん信仰の自由を方針とする軍事人民委員部はこ
の指令のなかで︑個人的希望のチャンスは残していた︒すなおちもしそれを残したい場合はその部局︑機関自体でそ ︵36︶れを維持する経費を支弁せねぽならぬと︒信仰の自由は個人の私事であり︑それは受益老負担が原則であるとした︒ ︵37︶かくて以降︑すべての軍事部局︑機関︑施設における従軍聖職者の公費扶持の希望も示されなかったと言われる︒
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ソビエト政権の宗教政策
さらに同一月二〇日発布された社会保障人民委員=巷︒程08蓉葦08鵠80図譜O自︒︒窪ぎ﹁o弓器℃Φ==凶コロンタ
イ﹀●図︒自︒焉思 の指令で国家と社会の経済的連関が解消された︒それによると礼拝勤行とかその他宗教的儀式を
実施する教会人への手当の支給︑および下級聖職老︵司祭職︶神学教師ω輿︒ξ養毛﹄び への給与︵国庫補助︶の支
給は労働人民委員部の決定により︑支給停止にさいし︑四週間分の給与手当前払いをもってこの年三月一日から廃止
︵38︶されるとするものである︒もちろんそのときの指令は次のことも明確にしている︒すなわち聖職者の職務たる礼拝勤 ︵39︶行は礼拝場︑祭具一式の維持︑保全を引受けるという信者集団の請願提訴により継続することができるとしている︒
つまり︑ここでも個人の信仰の自由を認めるが国家はそのような私事に対してどのような経済的連関を持つことを廃
絶するというものである︒
だから新政権は決してどのような方法でも宗教︑教会︑聖職者などに迫害を加えるようなことはなく︑宗教的礼拝
の可能性を十分に信者に与え︑また聖職者体制の働きにも配慮をしたのであるとする︒かくて真に信仰の自由を保障
するために︑帝政ロシアも︑臨時政府もそれを根絶しようとは本質的に望まなかったところのいままでの宗教のあり
方から働く者を解放するため新政権はいろいろの施策を講じたのである︒
3.革命に対する教会の態度
a 革命直後の宗務会議
言うまでもなくソビエト政権に敵対する聖職者の登場は布告後にはじまったことではなく︑一〇月革命の準備期間
に指導的教会グループはすべての反動勢力を統一して革命プロレタリアートとその前衛に敵対する闘いを指令してい
た︒一九一七年八月宗務会議の成立はそれを教会反革命の本拠と化せしめ︑一〇月革命後︑ソビエト政権に対し王政
復古℃o自£︒︒コ窓長国寓︒=竜×蓄の闘いを挑んだのである︒
ユ1
その第一の手段は宗務会議による総主教制樹立であった︒ヴニベデンスキーじご一wo融雪9愚 のように宗務会議を必
ずしも王政復古の政治的闘いの連合中央勢力として見ることなく︑従って総主教制復活がイコール君主政復帰を意味
︵40︶しないとの説もあるが大勢としては前者説が妥当であろう︒総主教選挙つまり教会最高支配者選挙の必要性は決一−・て ︵41︶教権的︑宗教的必要性でなく︑それはソビエト政権に敵対する戦闘に政治的配慮をおいたものであった︒
一〇月革命のときまだ作成中であり︑一九一七年一二月二日宗務会議で採択された〃ロシア教会の正当性について
の決議=○亀器︒しコ陶︒田お譜℃⊆こ認oc︒oζ口︒隷○渓Ω岡==月︒℃釜鵠寓℃ooQ弓国 の中でよく示されている︒それは国家と教会の ︵42︶相互関係について教会の要求を表現したものである︒
すなわち︑ギリシャ正教ロシア教会は他の合法適法な信仰のうちpシア国家内でもっとも重要な地位を占めるもの
であり︑また他の信仰との対比において特権的地位が保持さるべきものとし︵第一条︶︑次で教会の教会法︑教会管
理︑教会裁判に関して国家からの教会自主独立を要求︵第二条︶している︒つまり宗務会議の見地では国家は教会の ︵磐︶法典︑決定︑指令を容れるべきであり︑それに法的効力を与えるべきであり︑守らぬものを迫害すべきであるとし ︵44︶た︒またロシア国元首︑宗教大臣︑文部大臣はギリシャ正教信仰に入信することを義務化︵第一一条︶している︒ソ
ビエト政権にこのような官制はなく︑この要求は新政権の状況を無視し︑それを暫定的臨時的性格のものと見た↓つ
の証佐であった︒また太陽暦でなく︑ギリシャ正教の旧露暦日が国家的にみとめらるべきこ・二︵第九条︶︑ゴ︐日シ冴︑
正教の一二祭日と他の正教祭日は国家の休日とすべきこと︵第一〇条︶ギリシ冴︑正教信仰への公然たる批判ないし侮
辱は禁止すること︵第=条︶教会婚姻の法的効力付与︵第一三−一六条︶︑市民的身分行為についての教会簿の保
持存続︵第一七条︶神学校の不可侵︵第一入条︶︑す.べての学校の神学教育の義務制︵第一九条︶︑従軍僧の保持︵第
二〇条︶聖職者の兵役および納税免除︵第一二条︶教会に属するすべての財産の保全と商業活動の自由︵第二ニー二
12
ソビエト政権の宗教政策
︵妬︶ ︵妬︶五条︶に及んでいる︒
ギリシャ正教会の宗務会議のこの決定は何百年ものあいだ親方日の臓器惹ωH自で生活することに慣れた教会関係
者をして過去の特権に執着させた︒とくにその第二四条に︑ギリシャ正教会は特別の予算にもとずき国庫から資金を ︵47︶うるものとする︒予算は教会最高首脳が作成し︑国会が承認するもので︑毎年その必要の範囲内の支出とす.・・⁝と︒
この点につき聖職者が他のだれよりも大きく古い秩序保持を渇望することを示すだろう︒この古風な教権主義プログ
ラムは布告前およびその後においても主張しつづけたのである︒
b ソビエト政権の破門宣告
一九一七年=一月一〇日宗務会議はクリスマス休暇に入って自らの活動を中止した︒しかし労働老︑兵士︑農民の
地方ソビエトと聖職者側との闘いはこの間にもつづけられた︒各管区主教たちはそれに従う聖職老たちと信徒団を従 ︵弼︶え︑宗務会議のスローガンの下に団結を強化するため強力に立ち働いた︒これはペトログラード︑モスクワに限らず
ロシアの全都市におよんだ︒
それは聖職者の敵対積極分子と反ソビエト的信者が連係を持ったのである︒たとえば一九一八年一月ノヴォ.コロド
市のアントニー修道院は反革命軍︑白量的聖職者の暴動を指揮した︒聖職者の同意で多くの修道院の僧房では臨時政
府時代組織された生命知らずの突撃隊鴇巷=o﹁oα£︒目雪ぴ9茜︒冨Φ℃養が配置された︒そして教会反革命活動の拠点 ︵49︶︒8℃︸自Φ・図巽塗とされた︒
一九一八年一月一九日クリスマス休暇あけの宗務会議開催第一日目において総主教は次のようなソビエト破門のメ
︵50︶ッセージを提起した︒
﹁天祐によりモスクワおよび単票総主教たる神の子ティフォンはロシア正教会聖職者および誠実なる御子たちに捧
13
ぐ
14
聖なるキリストの正教会はいまやロシアにおいて困難に際会す キリストの真理に対する明暗の敵は それを迫害
しはじめ⁝⁝もっとも苛酷な迫害がキリストの神の恵みあふれる聖ギリシャ教会に対して加えられた キリストの家
の子として 子の出生を祝し 人のちぎりに神の祝福を与えることをあからさまに無用なりとした⁝⁝聖堂は破壊と
略奪と冒漬的凌辱にさらされ 人々のあがめる神聖の坐はこの世の無法な 神を恐れぬ輩に掠めとられた⁝⁝神によ
りわれらに与えられた権威にもとずきわれらは汝︵ソビエト政権︶がキリストの恵みにあっかることを厳に禁止し ︵51︶かつ出生とともにギリシャ正教会に属し かつそこにとどまらんとする汝を破門するものなり⁝⁝﹂
この文体はずいぶん時代がかって大袈裟な言い方であるが︑総主教ぱこれでソビエト政権の破門壁9︵冨ン座を宣言 ︵52︶しそれに宣戦布告したのである︒
ティフォン総主教は信徒団に︑もし必要ならぼ教会財産の防衛のために起つこと︑さもなければ復活祭の祈りの行
事さえも難渋するだろうと︒また汝ら主教たちよ!一刻の猶予もなく︑汝聖職者の任務は正教会の権利をふみにじる ︵53︶者から防御するため烈々たる態度で聖職者の団結を行ない︑隊列を立て直す必要ありとしソビエト政権の政策に反抗
し︑レジスタンスを組織化するため大衆動員をかけることを力説した︒
だが一二〇日宗務会議がこのメッセージを審議したときその審議に僅か一一〇人が列席しただけであった︒ティフ
ォンの提案によって会議は秘密会に付せられたが︑もはや宗務会議としてこのメッセージを足場として何らかの態度 ︵54︶を表明することを積極的に期待できるどのような能力も意志もそして議決効力さえも持ち合せていなかった︒
︵注︶
︵1︶大会参加者は顕名であった︒ポノマリヨフ・同前第一巻五七頁︑ =自︒渇=コしσo①ooδω一さ陣ズ︒葺︷協厳∩ヨoo客︒降口平目§
ソビエト政権の宗教政策
︵qoき三①臭8ソ︸︵℃醇年囲欝天︸・℃0日り︒︒Q︒﹃全市邦共産党小史﹄昭和一二年︑大雅堂刊︑二七頁
︵2︶ポノマリヨフ・同前︑四八頁︑﹃全連邦﹄・同前︑五一頁
︵3︶し口・S・ωぴa幽805①ε口℃o召恥寓罵鵠匡①コ︒﹄o羨Φ=国国ズ=∩Oじσ切︒℃ぴα①口℃o目鵠ロコで①謡弓=国1じ口さゴ﹀匡∩∩∩アじoo自℃oo匡
鵠︒目︒℃鵠国℃①白三民二頴﹀↓①剛窃陶工讐︒α・Hポζoo宍口﹂斜HΦ①らQo↓℃●bD刈なおレーニンの起草した綱領案の詳細についてはΩ≦●じU.
国.﹄Φ=国罫oO.目bO噂︒↓℃.﹃㊤ ﹃レーニン全集﹄第二巻七七頁以降参照
︵4︶ωぴ円鍵︒︒・Φ學↓磐爵①.自℃.N﹃
︵5︶↓碧羨Φ●
︵6︶じご.写浄=臣ご呂蓉み目マ︒︒o
︵7︶ωぴ蚤^︒︒・葺目婁器●自マb︒︒︒
︵8︶﹃鋤寓舅①.
︵9︶ご7・;︵①・臼℃.b︒O
︵10︶かれの宗教的セクトに関する業績は大きい︒詳細は次の諸論文参照﹀工∩∩Oτ籠︻o↓寓蔓↓=o弓︒℃景層05き員¥藏℃員7引目℃・
目ψロσ︸匿切︒︸躍︐切℃賓Φロコ国〜ーロロ宍=二切︒口℃oo甑=∩目︒℃強国℃①詣属南国醤=﹀↓①=ω竃£︒噂︒α・目=oΩ︵ロコ㌍司り㎝Oo↓℃●ω1置山口剛○●酔
︼︿09︒慶︒評︒コ・員・団︒=躍・切℃kの合評幽瓦=鋤k=o−﹀弓①瓦︒↓隅Φo内自︒識℃p︒αo目鋤﹀工∩∩∩℃噂1じコ訳=こ︒コ︒口℃oo¢=o↓o℃鵠鵠℃①導同コ筥鵠
﹀︑円①=ω冨㌍∩俄・×目噂鍔ooス切︒︒wH㊤①♪o目7一Hlb◎一・
︵11︶しかし問題は簡単ではなかった︒ 一九〇五年革命後ストルイピン識Φ弓℃﹀職6誉おむロ闘∩↓o﹄ぴ︻埴田︵蕊①㊤IH㊤回同︶の自作農
創設の農業資本主義化が進行し︑ 一九一三年の農業諸記録はその後幾十年も破られずにとどまった︒︵閃●Ooρ自ぎ℃ピp菊①く︒−
ξ二〇づヵ¢ωωρ℃①甑ρ目㊤①S㊤二︶ほどだったから当然革命的気運は退潮し︑この時期において宗教と社会主義は↓致できる
というルナチャルスキー︸即﹄k=盤m℃Ω§罫らによる建神主義ゆ︒門oo↓℃o図↓o﹄ぴ06ロロ︒と闘わねばならなかった︒︵錘・悶︷爵︒
じコ①ぎ↓碧簑Po↓℃ωO︶ レーニンはその苦衷をゴーリキー宛の手紙に記したロコ・=.﹄①冒剛F∩c〜↓・Q︒㎝o呵℃・㊤ω﹃レーニ
ン全集﹄第三五巻一二四頁︵なお︑ルナチルスキーはその後ボリシェヴィキ派に復帰した︶
︵12︶ただし布告末文第五項目に水呑百姓℃並舜︒じ口匡×ズ℃①自ぴ国訓と遺旨農奴℃笛泪︒︒ロ諮×器ω鎚の︵零細な︶土地は没収されない
と付加された︒油Φ穴℃①日︑ぴ国二↓四竃葵Φ・自℃◎boOしかし切ロロ嘱鋤コ9昌α勾δげ0500.9ρ℃・巳Oには前記第五項目は省略され
ている︒
15
︵13︶ヨ・ヨ・口89亭○円円2Φ=国①月⑦℃臣口︒↓﹁oo団員巷自じ口帥麟日閑︒き﹁o弓員①℃剛︵霞じコ∩O∩ア竃︒Ω︵じコΩ︒一名Q︒噛︒も●8
↓£Ω竃芙90↓や HOO
︵14︶拙稿﹁ロシア臨時政府の宗教政策﹂﹃早稲田社会科学討究﹄第一六巻第一号︑︵昭和四五年︶特に七五頁−八五頁参照
︵16︶帝政末期の状況については︑拙稿﹁帝政ロシア末期の宗教政策﹂﹃早稲田社会科学研究﹄第六・七合併号︵昭和四四年︶参
照︵71︶コΦ℃O鵠肝↓鋤竃叉①︒
︵18︶ポノマリヨフ・同前・第二巻一六四頁︒員①訳℃①↓ぴ﹁二↓m寓美Φ.∩目亨ω㊤
︵19︶員①天で①↓びぎ↓恥竃受O●O↓℃●H㊤㎝
︵20︶口O℃O臨ξ↓酋竃美Φ●
︵21︶員Φ訳℃Φ目匿こ↓鋤竃羨Φ・臼℃・刈Hl﹃bσ脚﹀工O∩∩y二自︒℃国国ロdΦ﹄国スO詠○ス目笛α唱び︒閑︒邸Oo月鵠五戸馨目箪おe︿o邸刀︒じむ︒﹄δ損ヨ.
竃O突︒コ欝日り①b︒﹃ロシア革命史﹄恒文社刊︑昭和四二年︑四五一頁
︵22︶bσ●=﹄の鵠国属幽oO4・↓●bコQouo目勺●ωQocg﹃レーニン全集﹄第二八巻四二五頁
︵23︶﹁︻Φ℃O醤ξ↓山竃巣Φ・O↓℃・回卜⊃①
︵24︶調Φ℃§︻炉↓鋤言受①・oも・HOPぎ﹀匡∩OO℃=聖目潤目k↓=自︒℃=口℃㊦泪こ図=臼︒℃霞幽○目員Φ詣Φ剛§凶=Φ臓︿ロロ国O弓﹁oQ員㌣
℃O田鈎国﹇﹇貯O﹄甑O日月Φ℃因ロu凝ロロOOO二hO穴k冨①謡弓¢鵠竃帥↓Φ℃嵩一白ぼ ︵OO穴℃茅葺①胴富お員O図kζΦ=↓匡︶℃1国訳鑑二︾臨∩∩∩℃噂
bコO胃℃OO露鵠O目O℃嵩国で①旨=り国潤=﹀↓①コωζ欝Oα・〜︑二7δO訳じコ監︒りHOαQQ℃O↓℃・Q9
︵25︶口Φ℃O属亭↓帥ζ萸ρO↓マ一〇H
︵26︶員O只図ζ①=↓霞二弓帥竃美ρO目や釦
︵72︶↓鶉Ω竃葵O︒6月℃・膳
︵28︶口Φ℃O国与目勉護㌶①■OOマ一〇bつ
︵29︶↓2二竃葵①●
︵30︶OJ・QQNONoω巳帥ぎ日げO三二ωω一餌昌菊①<Oピニ︒昌9﹂昌幽二色二一〇炉900=①Oぼ︒口oh自oO窪β①馨ωOO昌Oo同日昌ゆqけげ①ωロ℃b器6︒ω凶︒昌
Oh門Φ一一αq一〇昌び団けずΦOO日ヨβコδ宏℃一㊤一刈一Hりbユα℃ZO貫①−U僧ヨρ吃り㎝PPQQ一
︵31︶ヨ三・婚姻︑出生︑死亡など戸籍上の諸規定は他の先進諸国と同じだが︑ロシア的特色として︑婚姻成立時︑以後両者は夫
16
ソビエト政権の宗教政策
姓または︑婦姓かあるいは結合器を名乗ることを許されていた︒この結合姓は現在では﹁九六八年六月﹁ソ連邦および連邦共
和国︑婚姻︑家族についての立法の基礎﹂でその丞諾を各共和国の法典に委ねる規定がつくられ︑ロシア共和国では結合姓規
定がもうけられていない︒︵参照︑﹁法律時報﹂第四一巻一号︑昭和四四年一月号︶
︵32︶一ぴ己■戸ωbolωgQ
︵33︶胃⑦㍗o鑓亭↓恥ミ曳①.o同℃・一〇悼
︵34︶↓駐蔦渓①・
︵35︶員①スkζo雷目匡こ↓︹;凶美①・o↓マ㎝
︵36︶層.一①℃o=ξ↓帥7︷庚φ●
︵37︶Oo℃鷲ヨ①kω9訳︒国︒=踏軸岬昌℃9︒6口︒℃国築Φ=鼠片℃鋤αo.圃の門︒属ズ℃①o↓ぴ識=o訳︒噂︒口℃pし口置胃①詣﹃o﹇︑ロロ斜向︒H8H㊤H◎Q℃o↓℃●bの膳Oによ
るとする︑口①で︒醤ξ↓m謹渓①●︵遷で・一〇もQ
︵38︶員︒スkヨΦ=↓甑嚇↓鋤寓萸Φ●o目℃●①
︵釣︶口Φ℃o置亭↓題ζ渓①●o舅ワHOもQ
︵40︶国・O・Oo国目︒じロp︒・Ooαo鳴=℃帥切oo﹄騨じ口嗣δ二二〇℃スしロぎ一㊤嵩−日㊤蕊Plじ口笛雷こ﹀○=目℃笛﹇戸ススロOΩbゆ︒調℃oo露=鋤k=o弓︒
>目①鼠ω竃笛噂切ぴ日ω噛竃OΩ畠£⇔H㊤①80↓マトoHO
︵41︶口Φ℃o国連↓餌竃艮9∩目℃・HQ︒海なお総主教職選挙に関連する事項については下記参照︑拙稿﹁ロシア臨時政府の宗教政策﹂
﹃社会科学討究﹄第一六巻一号︵昭和四五年︶一〇九頁以降
︵42︶09田︒しロロ℃↓⇔竃契Φ●O↓ワNbQ困
︵43︶口①唱︒臨ξ↓薗竃渓①・o↓ワHω㎝
︵44︶↓鋤竃萸①.o↓やHω①
︵45︶↓曽竃渓①﹁o月勺・5①寧○曾自︒ロσに︒↓仁︒蜜美①.o↓℃・b⊃悼O
︵46︶なおこれについては前述の拙稿﹁ロシア臨時政府の宗教政策﹂同前・九四頁にもふれている︒
︵47︶口︒℃o国月℃↓笛護葵①●o↓ワHωQo
︵48︶Oo踏頃︒切£Ωり↓国護属①・R∩目℃●鱒bのH
.︵49︶↓p竃渓Φ∴o↓ワNbのN
17
︵50︶↓讐渓Φ.自℃.・︒b︒︒︒=9自娼↓讐㌶①.︒↓℃・一ω︒︒
︵51︶oQNoN①ω巳鋤ぎ8・o一け二や︒︒O一し︒¶噛じUロ昌囲昌①話法菩︒さ8・o陣ρ戸α︒︒8冒び口ωゲ色8昌Oロ答δ︒︒℃↓げ①幻ロω巴繕Oけ霞︸
鋤昌α臣Φωo乱醇Qo8什ρ一㊤H刈IH㊤㎝9ヨ四ω︒・℃冒お
︵52︶oコ・国・膏宕℃Φ罠9民︒︒︒弓︒︒¢a寓議員①=§口︒自宅Φ︒登紳○℃甲塁蜀長富36突︒障尋爵︒9帥︒・=9幕℃︸ハし・瓢﹁じ・
ズ章o08℃8露=亀○℃臣τΦ﹄胃霞鼠︾目Φ蕊塁℃a・×同H℃セδ突・コ斜H㊤①企︒ぢ.一8
︵53︶口9︒昼↓睾v器幽︒も・Hω︒︒
︵54︶06自8斜目碧罠ρ∩も・b︒b︒N
18
二︑国教分離布告の発布
1.布告発布の必要性
a 布告の審議
臨時政府を打倒して権力を掌握したまだ若いソビエト政権は反革命的社会層のまっただなかに社会主義の勝利に向
けて闘わねばならなかった︒ロシア・ロマノブ帝政三〇〇年および臨時政府のあいだに強固に癒着した国家と教会の
病理匹婦関係を断ち切り︑新たなそれに代替するには不擁の決意と努力が必要であった︒政権樹立後の諸施策はこの
ような見地から前述のごとく制定され施行されたとは言え︑関係各人民委員部から為せられそれらの問に多少の重複
冗長もまた不可避であった︒そこで︑これらを整理統一する意味と宗教政策についての基本線を簡明に示すため布告
の制定にふみきった︒
国教分離布告発布成立前後の事情について言えば︑まず第一に一九一七年一二月一一日ソビエト人民委員会におい ︵1︶てこの布告の審議が提案されたのである︒原案作成のための委員会が組成され︑その委員はルナチャルスキー﹄k〒
ソビエト政権の宗教政策
︵2︶釜巷Ω︷愚ステウチカ﹁︻●=・∩弓着塁クラシコフロ・﹀﹂台碧員︒し︒レイスネル≧●﹀・℃魯Ωお℃であった︒委員会
のメンバーには参加していなかったとは言えこれに対するレーニンの関心と貢献は多大であった︒すなわち彼は委員
会で組成した原案の初案を検討しながらそれに原理的基本的補足と修正を加える作業を行なった︒これは信仰の自由
というソビエト共和国市民の権利の諸問題について布告原案がもしそのまま発布されたら生ずるであろう大きな困難 ︵3︶をとり除いたのである︒
委員会のデザインにより︑布告の名称は﹃信仰の自由︑教会および宗教団体について09︵︶α○員の8器兵甲♂月℃区−
o窪寓×国℃①自コ⁝・×︺︸藪×oα良の自じσ二︒×﹄となるはずであったが最終的には﹃国家より教会を︑教会より学校を分離する ︵4︶ことについてC魚︒鎚窪︒剛導︷月℃臣一剛︒門門03.暴℃∩話9国白く○﹄配︒↓幕℃︸§一﹄の布告として一九一八年一月二三日
発布された︒そして一九一八年一月一=日付﹃イズベスチア台命Φ3一ヨ﹄紙上および同月二三日付﹃労農政府紙﹁器Φ月 ︵5︶で餌α9肖Φ8=X℃①o誤塗︒剛ハ︒﹁o口℃鵠竃雪げ︒罷︒﹄第一五号に右の名称で発表された︒
成立と発表の時日に前後のズレがあるので︑この間の事情について検討しよう︒いま布告原案文の写真版コピーを ︵6︶見ると︑布告の名称は依然として﹃信仰の自由︑教会および宗教団体について﹄となっている︒ところで名称が訂正
されていないから布告がその通り発布されたと見るのはやや早計である︒周知のように当時のソビエト政権は樹立直
後で︑しかも内外に困難な諸問題をかかえて︑その応接に寧日なかった︒政権当局者の東奔西走の間の多忙な執務に
多少の見落し︑書き忘れ︑連絡ミスがあったとしてもやむを得ないことである︒そこで名称改訂の審議決定があった ︵7︶ものの書き改めは何らかの手違いでなされないままに終ったのではないかと推定できる︒逆に前記審議がなかったと
すれぽこの国内問題についての重要な布告が前記諸新聞に公表された時点でレーニンはじめ政権首脳部の疑義の目に
当然さらされたはずである︒このトラブルがなかったということは審議存在を裏付けると言えよう︒
19
b 布告の発布
次に布告発布の日付であるが︑これも原案文コピーによると︑さいしょ文書の冒頭に一月一九日司法人民委員部決 ︵8︶定とタイプ印書されていたのが抹殺され︑原文末尾に走り書きで一月二〇日ペトログラードと書き直されている︒だ
からと言って︑二〇日に発布されたとは断定できない︒布告を掲載した前記諸新聞も日付通りに発行されたと言う保
証はどこにもない︒
この布告発布によって甚大な影響をうけたギリシャ正教会はじめその他多くの宗教組織が布告発布という急変事態 ︵9︶に驚骸的に対応した諸文書︑諸活動の歴史的事実に合致させた方が妥当であろう︒そして前述のごとく︑最終原案で
一月二〇日発布と決定されたにも拘らず︑正式に発布された布告正文には︑このような重大な国内間題の布告として ︵10︶は︑まことに不思議なことに日付の記載されていない稀有の布告の一つとなっているのである︒
思うに︑さいしょ委員会段階で一九日発布予定のところ翌二〇日に延期したおもなる理由としてはレーニンの加筆
がふつう考えられる︒そして実際に発布されるまで︑意識的にか︑手違いか時日が経過して二三日になったというこ ︵11︶とが推定される︒この間︑一九日目は総主教ティフォンのソビエト政権破門の爆弾宣言があったことも忘れてはなら
ない︒これにどのように対処するかということもソビエト政権が無思慮であったとは考えられない︒否︑この緊急対 ︵12︶応策として布告案文がもう一度検討されたはずである︒遅れたのはそれが大きなウエートを占めていたのではないだ
ろうか︒ 2.布告の審議経過
a 審議経過とレーニン
レーニンは﹁宗教に対する労働者党の態度について○αo↓︸δ日戸§信αo︑固¢邸犀鷲最ス℃雪署譲︻﹂︵一九〇九︶
20
ソビエト政権の宗教政策
という論文の中で 宗教は国家に対する関係において正に私事でなければならないというエンゲルスの論説を引用し
て︑彼はそのような文化的先進国における宗教問題の対決の仕方は後進国ロシアでそのまま適用できないことを示し
施︒シアにおいては宗教を個人の私事とするためには・国家と惜した宗教および宗教組織を打倒したのちでなけ
れば達成できないし︑そのためには勤労大衆の前衛たるボリシェヴィキにとってその問題は私事であり得ないという ︵14︶のである︒
このような闘い方は︑国家を教会から分離する一般公式論として以前に定立した彼の論文﹁社会主義と宗教︵∩o午 ︵15︶暴自ωζ=で窪再蓋﹂︵一九〇五︶に発するものであり︑それはまた第二回党大会︵一九〇三︶の政党プログラムにも ︵16︶現われていたものであった︒
さて布告原案審議の過程において︑さいしょ第一条の表現は次の通りであった︒﹁宗教はρシア共和国市民各自の ︵17︶私事慈︒罠︒①営Φ○である﹂と︒しかしこの原案のかわりにレーニンは次のように簡単明瞭に﹁教会は国家から分
離される﹂と書き改めた︒
彼がどうしてこのように書き改めたかは言う迄もなく彼自身のイニシアティブによるロシア共産党プログラムの簡 ︵18︶明な表示であり︑また前述の論旨により彼の﹃社会主義と宗教﹄を貫ぬく主旨でもあったことである︒それはまた
一九〇五年末フランスにおける国教分離法の趣旨に少なからざる刺激をうけたものであることも充分考えられる︒だ
が彼のこの表現にもっと大きなウエートを占めていると思われるものは疑いもなくパリ・コンミューンの諸事件であ
︵19︶る︒
いまパリ・コンミューンにおける宗教関係の布告を見ると︑﹁⁝⁝フランス共和国の第一の原理は自由であり︑そ
のうちで信仰の自由はすばらしいものであり︑国家の宗教支出予算はほんらい市民の所信に反する経済的負担を課す
21
るという意味でこの原理に反する︒これを配慮してコンミューンは次のごとく決定す︒教会は国家から分離される︒
宗教支出予算は廃止される︒カトリヅク修道会とはなし難く属すると見倣れる財産はその動産︑不動産を問わず民族 ︵20︶的財産と宣言される︒その財産はわが民族目的の受託をうくべくすみやかに調査が実施される⁝⁝となっている︒
これを見てもコンミューンに新しい統治形態の原型を見つけたとするレーニンの脳裡にこのパリ.コン︑︑︑ユーンの
布告が焼付いていなかったとは思えない︒それはまた国教分離布告全体を見わたしたときそれがあまりにもパリ.コ
ンミューン布告に近似しているのに驚くのである︒
b 信仰自由の確保
プロレタリア独裁の条件下での国家から教会の分離は国教癒着を解決するために宗教を愛する人々の信仰の自由と
同時にいかなる宗教も認めない自由を確保する必要があった︒だから布告第三条は次のように規定された︒すなわ
ち︑各市民は宗教を信ずることも出来るし︑何も信じないことも自由である︒ある信仰を持つことないし何も信仰し ︵21︶ないことと結びついた権利の剥奪は廃止されるとした︒
これはレーニンの﹃社会主義と宗教﹄という論文の相当部分の正に再現であると言える︒レーニンはフ・⁝・どのよ
うに好ましい宗教を信ずることも宗教を認めないこと︑つまり無神論老︑あらゆる社会主義者の活動も許すことであ
︵22︶る⁝⁝﹂とし︑またさらにつづけて︑宗教的信仰︑非信仰による権利上の差別から市民を除去すべきだとしており︑ ︵23︶これは布告同条の注にすべての公式文書から市民の宗教的信仰ないし非信仰の指示証明は除去されると生かされたの
である︒ 次にレーニンが第六条で提起した修正は重要な実際的意義をもった︒委員会の原案では﹁何人も自己の宗教的信念
を口実として自己の市民的義務の遂行を回避することはできない︒この規定からの例外は︑ある市民的義務は人民裁
22
ソビエト政権の宗教政策
︵24︶判所の判決により︑それぞれ個人的ケースとしてその代用が認められる﹂としてあった︒このような表現形式だと︑
自己の宗教的信念を主張するある者はそのゆえにある市民的義務を忌避し︑ないし拒絶することが可能となり︑この
規定からの例外として裁判所でたとえば金銭による義務弁済の判決を求め︑けっきょく実質的にすべての市民的義務
を怠業するばかりでなく新政獲呈す・に為・・の可能性を根絶す・ため・!・ソは﹁あ・いは代用き・琴
雲鋤﹂の言葉を﹁条件付代用﹂口︒員k20里①竃ω睾Φ苧こをもって代えた︒けっきょく該当条項は﹁⁝⁝この規定の例
外として︑ある市民的義務を他の市民的義務で代用するという条件で︑人民裁判所の判決により︑それぞれ個人的ケ ︵26︶ースとして認められる﹂と︒
次に第一三条の委員会案は﹁ロシアの教会および宗教団体のすべての現有財産は人民の財産として宣言される︒礼
拝の目的のため特に予定された建造物および物件の保存および運営管理についての手続は地方および中央国家官庁の
決定によ・てきめられ璽であ・た・これでは信仰の畠の破壊と濫用という箪をみちびく可能性があるとし︑・ へーニンは該当条項を次のように訂正した︒﹁⁝⁝すなわち礼拝目的のため特に予定された建造物および物件は地方あ
かいは中央官庁の特別の決定によって当該宗教団体ooo畠Φ↓o畠Φ臣匡×℃①自﹁醤︒ω=Z×&月Φ臼じコ︒ の無償利用に供さ
れる﹂とした︒
これで市民の信仰の自由に実質的制約を加えることがなくなったとする︒つまり第二条の信仰の自由の確保するた
めに︑第一三条ではことなった宗教的特質をよりょく見出せる機会のある地方官庁がその問題について決定を発する
ことを大目に見たのである︒宗教関係の建造物および物件は当該宗教団体の利用に供することが信仰の自由を増大す
ることであるとす鱒つまり正教会の建造物および物件は回教団体が利用するよりも正教団体が利用する方が言効
果的である︒同様のことは他の場合についても言えるのでレーニンの修正はその欠点を充分に補足したものと言えよ
23
う︒
24
革命初期の宣言︑布告などトロツキー℃●員.目℃o長長の起草になるものが必ずしも少くはないのだが︑この布告
はレーニンのイニシアチブと生地がにじみ出たものと言えよう︒
3.布告実施の指導
a 実施指導専任部局の新設
さて︑この布告の具体的実施をいかにすべきかにつき一九一八年四月九日ソビエト人民委員会議ω鷲︒麸≡三合︒謹弓
=︒コ℃o崔ぴ臭ズ○琴︻︒8℃が招集された︒その席上︑この布告実施の指導方につきこれを司法人民委員部=巷︒レ=○罫
訳︒萎︒∩巷塁↓6︒霞ξヨにまかすこととし︑あわせてその指導メソパーを編成するに必要な措置をとることを委任し
︵29︶た︒委員会はまたそのメンバーが労働者の代表だけでなく︑職務上権限ある人々と︑関連ある部局の代表者によって
構成されるべきであるとした︒
既に革命直後の諸施策があったとは言え︑その集大成とも言うべき国教分離布告の実際的適用に当って数多くの障
害とか問題が発生し︑それらの指導にあたるスタッフが司法人民委員部内で不可避的に形成︑成熟したのである︒そ
こで一九一八年五月八日の人民委員会議で司法人民委員部匹︿圃○内にそのような問題処理を管掌する部局を組織化 ︵30︶する決定がおくればせながらなされるに至った︒翌九日部局は組織され︑その指導者の一人であるクラシコフ=・﹀.
ス℃じσ§︿○じじの提案により﹁国家より教会を分離する布告実施局○逗雪コ︒目℃○︒﹂o結甲議︒切幕篇ま髭篭①話︒αo昌・ ︵31︶雪①霞=濠妻窪06り︒身hも︒屋二︒﹂ないし︑同豊前八番目に設置された局であるので第八局と命名された︒当該局は へ32︶それに熟達した人物で構成され︑活動の根本原則が詳細に検討され︑布告実施にさいしての具体的指令爵∩志気昼蓄
の指導的立場が措定された︒
ソビエト政権の宗教政策
b 実施指導方針の画定
当該局の第一回会議は五月一〇日に行なわれ︑それはこの組織の根本的課題と機能を明確にする目的で持たれた︒
この会議の議長であるボンチーーブルエヴィチゆ﹄.切9竃−切℃k窃玉は前記の課題と任務につき次のように示した︒
布告の適用にさいして︑ソビエト政権の各地方組織の活動においてできるだけ︑もっと十分な︑正しい︑時宜に適 ︵33︶した情報を必要とする︒第二には︑実施にあたり︑まず布告の補足と解説︑つまり政府が大略どんな活動をするかと
いうことを印刷して公刊する︒と言うのは布告実施には一定様式の指導指令がなされねばならぬ︒たとえば布告の解
釈がそれぞれの地方によって別々になされるようなことがあっては法適用の公平さを蚊除することになるので公布さ ︵34︶れた布告の実施にさいし広い一貫性を持つ必要があるからである︒
第三に宗教諸団体の反革命活動阻止のためソビエト政権の他の機関の援助︑協力が必要である︒そのためにはこの ︵35︶問題について当局と共通の考えにもとずいて活動するよう連絡をとる必要があるということであった︒
c 布告趣旨周知方について
当該局と地方官庁ないし個人との間に布告の具体的実施につきこれらについての多数の文通が往復されたが︑それ
は信仰自由の実現について十分の配慮が行なわれたのであった︒しかしこれらの文通はこの時期におけるわれわれの
願いが︑またわれわれの疑問がどのようなものであったかを示している︒たとえばある市民が︸つの宗教から他のそ
れへ転移しうるかどうか︑聖職者の許可なく婚姻︑離婚をすることができるかどうか︑婚姻および離婚の登録℃Φ℃〒 ︵36︶oぢ鋤ξ強が教会の結婚式よりも先行できるかどうかなどであった︒
これはいままでいかにわれわれ日常生活の上に教会が強大な支配権をもっていたかの反証にもなるし︑このような
古い伝統︑生活習慣がまだ強固に根を下している事態を破砕した国教分離布告以前の宗教諸政策が徹底していなかっ
25
たことを意味することにもなり当局の指導が要請される訳であった︒
・︑﹂同時に︑これら初歩的疑問の発生は布告公布以前の諸施策が必ずしも地方官庁に徹底していなかったということも
意味していた︒国内政治における中央政府の指揮統卒の未確立︑地方官庁の掌握不徹底ということはその時点ではま ︵37︶だやむを得ない面もあったQ ︐
このような状況から司法人民委員部当該局はこれら質問にすべて回答を与えるかどうかは別として︑ 一般に布告の
趣旨を周知徹底せしめる目的をもってその所信を筆者宛の公開回答として公表することとし︑前記諸質問について懇 ︵38︶切な解説的回答を与えたのである︒
そして司法人民委員部当該局はただ単に質問に対する手紙の回答だけに限らず︑各ソビエト宛の手紙のほとんどに
は解説活動のため講師派遣の用意あることを通知したのである︒
さらに当該局は宗教と教会への態度についてのソビエト政権の政策を徹底させるため一九一九年同部同局編集にか
かる雑誌﹃革命と教会℃鴇︒臼︒ξ旨心月①℃ス畠剛・﹄の出版に着手した︒これは一回限りしか出版されなかったが︑科学
的無神論に関する公式資料と論文を掲載したものでソビエト政権の宗教政策の周知にあつかって力あった︒
もちろん司法当局はこれに随伴した複雑な問題についてはつねにヨリ上級の機関と協議することを怠たらなかっ
︵39︶
た︒ たとえば一九一八年末︑中央執行委員会二粗目ズ℃①o亭馨繋愚︒担Φ亀農政局は農民のための新歴日採用にともな
い宗教祝日塁話窓8旨ぴ環に歴日をどうするかにつき︑当該局と連絡し︑次のようにすることにした︒すなわち︑
ソビエト版暦日について︑神聖とか受難者とか言う名称で︑いろいろ教会的休祭日を持つような知識を普及させるこ
とは国家から教会を+分に分離する建前からはまったく容認しがたいことである・論.
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ソビエト政権は古い道理︑手段で進行するものでない︒それはなんらかの目的で故意に人々の善良な生活環境を剥
奪せんとする教会の残りかすである︒われわれが祝わんとする祝日は不合理なロジックに身をまかすことは不可能で
ある︒聖職者︑搾取者たちが宗教的偏見で︑その搾取環境を祝うのはごめんだ︑とした︒
ソビエト政権の宗教政策
︵注︶︵1︶ヨ嚇≧噛口¢院曲舞ω麟訳︒一δ油韓︒﹄ぴ身︒コoO訳↓凶O℃げ︒穴︒詐で窃︒陶δ月寓=o∩切︒αo知①oo弓5Φ3鼠︵8ズ℃節三Φ=国①ω鋤スoh舘①詣げ︑
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︵7︶それゆえ形式的に︑布告の正式名称は依然として改訂前のそれである︒員①閏も︒丙露二↓μ↓︒︒7︻㌶ρo↓℃・ω刈し︒
︵8︶ω霞9.δ岩話き︒話︒こ弓婁幕・3ワ切①〜習
︵9︶ソ連邦の学者邦の学者はこの問題に関しては慎重で︑口をつぐんでいるが︑他の論述の場所では一様に布告名称を﹁国家か
ら教会︑教会から学校と分離する﹂布告とし︑また発布された日付を一九一八年一月二三日としている︒たとへば≧.≧.
一ヒ虫ヨζ二二ぎ調℃o口︒﹁巴一白三目﹀弓①謡ω竃斜 国.三●訟℃oo旨笛ロコ︒訳鵠評一じコ器︷■りじuo口℃o∩匡=30℃田︷国︾↓Φ=ω箪︒α・≦7言oo訳ロコ曽・
お㎝Po↓℃・Q︒μぎ国.OO∩国目︒切斜↓師竃策①.o↓で.bob◎Q︒国ヨ.セ♂=①℃o国ξ↓臣︒言謡︵①・o弓℃.H卜O なお亡命ロシア人の研究機
関の一つであるミュンヘン・ロシア研究所=寓︒自肩緒弓口︒=﹂ゆk躍の=藁OO∩Oでの研究員ボゴレポフも同様の記述をしている︒
﹀・︾切︒門︒識①員︒じコ讐員Φ勺訳︒じロげ目︒拙︒ご謡①自ぴδ天︒ζζk=器竃内奏δ=×Φ︸ぴ一㊤㎝Q︒り曾三一ω
︵10︶h①天での目び同二日恥言渓Φ●o目℃.◎Q﹃QQ
︵11︶ooNoNΦω巳帥ぎ︒娼・9尊燭.Qo①一刈Qσ
︵12︶ ﹃信仰の自由︑教会および宗教団体について Oo切︒軌︒油①oo60①自ぎ員①℃ス︒じ︒一一露×国℃Φ芸当り二〇ωm玄×09員①o↓器図︵国家から
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教会︑教会から学校の分離について
員会布告
第一条
第二条第三条
第四条
第五条
第六条
第七条
第入条第九条
第一〇条第一一条 ○α︒・箆ゆ蚤窪・審・ε・§葦§重・隻︒蟄霧算︒審・︶﹄のソビエト人民委28
教会は国家から分離される
共和国の版図内で信仰の自由を拘束したり制限したり︑あるいは市民が宗教をもっていることに基礎づけられた特
典︑特権を与へるようないかなる地方的法規︑決定も公布することが禁ぜられる
各市民は宗教を信ずることもできるし︑何も信じないことも自由である︒ある信仰をもつことないしなにも信仰しな
いことと結びついた権利の剥奪は廃止される
︹注︺iすべての公式文書から市民の宗教的信仰ないし非信仰の指示証明は除かれる
国家およびそれに属する公的機関の活動は決してどのような宗教的手続ないし僚⁝典を伴うものでない
宗教的儀典実施の自由は次の条件で保証される
それはそれが社会の秩序を乱さず︑またソビエト共和国の市民権の侵害を伴わないものであろことである
地方官庁はこの場合︑社会の秩序と安寧を確保するためすべての必要手段をとる権利を留保す
何入も自己の宗教的信念を口実として自己の市民的義務の遂行を回避することはできない
この規定からの例外は︑ある市民的義務を他の市民的義務で代用するという条件で︑人民裁判所の判決により︑それ
ぞれ個人的ケースとして認められる
宗教的儀典ないし宗教的宣誓は廃止される必要な場合︵非宗教的︶儀典的誓約が与へられる
婚姻︑出生の登録など市民的な身分行為はもっぱら市民的事務を取り扱う官庁が行う
学校は教会から分離される
普通教育科目を教えるすべての国立︑公立︑私立の学校︑教育施設における宗教教義の教育は許されない
市民は個人的方法で宗教を教えること︑また教えられることができる
すべての教会宗教団体は一般に︵それが属する︶私的団体︑私的連合体の規定に従い︑また国家および地方宮庁や地
方自治体の諸法規により︑どのような特権ないし補助金を亨織するものでない
教会および宗教団体に効用をもつ強制的徴集募金や強制割当︑おなじくその団体が団体員に対する強制手段や強制刑
罰は許されない