論 説
情 動 行 為 と 刑 事 責 任 ( 一 )
林 美 月 子
目次序章第一章責任概念の変遷
第一節従来の責任概念の意義8従来の責任概念
⇔他行為可能性と予防㊨小括第二節実質的責任概念
e実質的責任概念口実質的責任概念による解釈の例
㈱実質的責任概念に対する批判四小括第三節実質的責任概念の社会学的側面
e序口期待不充足の処理
1
日
四第四節
H
口
第五節 社会学的考察に対する批判小括実質的責任概念の限界比例性原理
比例性原理に対する批判実質的責任概念と情動行為
序 章
本稿は︑いわゆる﹁激情に駆られて﹂あるいは﹁前後のみさかいなく﹂犯行に至った場合の行為者の刑事責任につ
いて論じようとするものである︒その例としては︑些細なことで喧嘩となり殺傷に至る場舎や︑被害者による長年の
冷遇によって怒りが欝積し︑それが些細な刺激で突然に爆発する場合︑冷淡になった愛人を強い憎しみから殺傷する
場合箋考えることができ・このような激情行為は︑精神医学的心撃的には情動行為(馨パ琶と呼ばれてい
る ︒ 情 動 は 広 義 で は 感 情 や 情 緒 と 同 義 語 で あ る ︒ し か し ︑ こ こ で 問 題 と な る の は ︑ 感 情 興 奮 が 強 度 で ︑ 顔 面 の 蒼 白 や
身 体 の 震 え 等 の 身 体 的 付 随 現 象 を 伴 い ︑ 行 動 へ と 強 く 駆 り 立 て る よ う な 性 質 を も つ も の で あ る ︒ こ の よ う な 情 動 行 為
に つ い て は ﹁ 突 発 的 に 起 る 情 動 の 運 動 性 爆 発 ( ヨ ︒ 8 H 凶︒・ ︒ 冨 団 豊 巴 毒 σq ) で あ っ て ︑ 出 来 し た 行 動 に 対 し 本 人 は 心 構 え を
す る 余 裕 が な い ︒ す な わ ち 突 然 に 燃 え 上 っ た 憤 怒 と か ︑ あ る い は 漠 然 と し た 不 安 か ら ︑ 判 断 の 余 地 も な く 遂 行 さ れ る
行 為 が 情 動 行 為 で あ る ﹂ と さ れ て い (麗 ・ ま た ・ デ ソ ギ は 怒 り の 実 験 を 行 な い ︑ 情 動 爆 発 自 体 が 行 為 者 が 状 況 を 支 配
で き な く な っ て い た こ と を 示 す と 捻 ・ さ ら に ・ ノ レ ッ チ 了 は こ れ を ﹁ 原 始 反 応 (℃ ユ 旨 幽江 く 霞 ① 罫 瓜 o ロ ) ﹂ と 名 つ け ︑ そ
れは﹁発達した全人格が刺激と反応の中間に挾まって働くという中間回路がなく︑体験刺激が直接に衝動的な瞬間的
情動行為と刑事責任(一)
行為として︑或いは精神的深層機構(例えば下層意志的あるいは下層知性的なもの)として反応的に現われてくるものを
(4)云うLとしたのであった︒このように︑情動の特徴が人格内部での規範指向層の無力化にあると考えられることから︑
情動下の犯行について刑法上の責任を問いうるかが問題になるのである︒
もちろん︑立法者も︑このような情動の性質を考慮して︑特定の事情が存在する場合には︑情動は責任を軽減し又
は否定する旨の特別の規定を設けている︒わが国では︑盗犯等の防止及び処分に関する法律一条二項は︑一定の状況
の下で防衛行為に出た者が﹁恐怖︑驚愕︑興奮又は狼狽﹂によって現場で犯人を殺傷した場合には︑たとえ︑自己又
は他人の生命︑身体または貞操に対する現在の危険が存在しない場合でも︑これを不可罰としている︒また︑改正刑
法草案一四条三項は︑過剰防衛が﹁恐怖︑驚がく︑興奮又はろうばいのあまり行なわれたもので︑行為者を非難する
ことができないときは︑これを罰しない﹂としている︒西ドイッ刑法典三三条も︑後者とほぼ同様の規定を置いてい
る︒しかし︑そのような規定に該当しない場合に︑つねに当然に責任を問いうるかには疑問がある︒
ここに︑次のような西ドイッの事例がある︒被告人は︑アルコ!ル中毒の夫にしばしばピストル等で脅迫され︑子
供の多い家庭も自分一人で支えなければならなかった︒別居や離婚に夫は同意せず︑行政機関も援助しなかった︒あ
る日︑夫がアルコール中毒による嫉妬から︑被告人のスカートに精子のしみがないかどうか捜したが︑被告人はこれ
によって非常な屈辱を味わい興奮した︒被告人はたまたま側にあった斧で夫を二撃し︑その後︑ベッドで夫が元気を
取り戻したことを聞いて︑不安情動からさらに打撃を加えて殺害した︒被告人には精神病︑ノイローゼ︑精神病質︑
精神薄弱は認められず︑性格的にも勤勉・誠実・正直であった︒行為は人格疎遠であり︑意識狭窄がみられる︒しか
し病因等は存在しなかった︒本事例の鑑定人は︑まず︑行為へと至ったことについて異常な人格素質に重点がある場
合には責任能力の問題であり︑他方︑外界の異常性に重点がある場合には責任判断の問題であるとする︒そして︑本
事例は後者に該当するが︑その責任判断の際には予防の必要性が考慮されるべきであるとし︑本事例では︑長年に亘
って堪えぬかれた苦悩にみちた状況は夫の死によって終わり︑平和がおとずれ︑被告人は子供と仲良く生活し︑再び
仕事を捜し︑不安のない生活に感謝しているのであるから︑法秩序の防衛という意味での一般予防も︑特別予防も必
要ないとする︒そして︑注目すべきことは︑結論的には︑不可罰の結果を導くために︑責任無能力とすることに賛成
(5)するのである︒
右の事例にも示されているように︑情動行為者に刑事責任を問うことに疑問があるといっても︑厳密には次の二つ
の問題がある︒第一は︑正常人であっても︑情動によって規範による動機づけが害され︑責任無能力あるいは限定責
(6)任能力とされる余地があるのではないかという点である︒情動下で犯行した者は記憶の欠損を訴えることが多く︑犯
行が行為者の平素の人格からみて不釣合な場合が多いために︑犯行時に意識障害があったのではないかという疑いが
生じるのであ郁わが国では・荏無能力及び限定責任能力の生物学的要件は法文上は規定されていないが︑判例及
び学説は﹁精神の障害﹂を要求しており︑改正刑法草案一六条はこれを明文で規定した︒この﹁精神の障害﹂の中に
は意識障害も含まれる︒ドイッ刑法は明文で﹁深い意識障害﹂を規定している︒しかし︑ドイッ刑法は生物学的要件
として﹁病的精神障害﹂﹁精神薄弱﹂および﹁その他の重大な精神的変異﹂をも規定しているため︑情動行為の鑑定に
おいて︑すでに病的障害が明らかであるとされる場合︑すなわち︑端的に︑てんかんや精神分裂病︑さらに器質性脳
障害等と診断された場合︑および︑重度の精神薄弱である場合等はそれらの規定にすでに該当し︑﹁深い意識障害﹂
(8)(9)に該当するか否かは問題にならない︒このことはわが国でも同様である︒したがって︑右の意味で精神的に正常な者
が情動の下で行動したときにも意識障害を生来するか否かが問題となる︒右の鑑定人はこれを肯定的に解するようで
あるが︑さらにそれをどのような基準によって判断するかが重要になってくるのである︒ 4
情 動 行 為 と刑 事 責 任(一)
第二に︑意識障害が認められず︑従ってその意味で︑厳密には規範による動機づけが不可能とはいえない場合につ
いても︑さらに︑情動を考慮した特別の規定の趣旨を明らかにし︑それを援用して︑なお責任を問いえない場合があ
(10)るかを検討しなければならない︒この点はとくに責任の本質のとらえ方と関係する︒従来︑とくにわが国では︑責任
の本質は︑行為者は他行為が可能であるにも拘らず違法行為に出たことにつき︑行為者を非難することに求められ︑
(11)その根拠は道義的責任にあるとされてきた︒そこでは︑他行為可能性が存在する場合にはつねに道義的︑さらには応
報的に行為者に責任を問うことになりやすい︒しかし︑西ドィッの現行刑法制定過程で明らかにされたように︑刑法
(12)は責任の清算や順罪ではなく︑法益保護と行為者の再社会化のために存在するのである︒このことは我国においても
(13)次第に共通の認識となりつつあるといえよう︒そうだとすれぽ︑情動行為についても︑他行為不可能といえない場合︑
いいかえると︑情動が意識障害という生物学的要件を充足する程には強度のものでない場合でも︑なお︑法益保護及
び行為者の再社会化に必要がないときには︑そのことが責任能力の判断に影響することを認め︑責任を否定する余地
もあるのではなかろうか︒そのような場合の一例を示したのが盗犯等防止法一条二項であると考えることになる︒右
の事例の鑑定人が︑結局において︑予防上の考慮を責任能力の判断に持ち込もうとしたことは︑事実を基にして診断
(14)をなすべき鑑定自体としてみれば︑問題があるであろう︒しかし︑従来は情動行為者の責任判断に予防上の考慮を入
れる余地がなかったと指摘している点は︑我々に問題の解決を追るものとして看過できないように思われるのである︒
本稿は以上のような問題意識から︑わが国では従来︑あまり論じられなかった情動行為者の刑事責任について考察
しようとするものである︒考察の順序として︑まず︑責任非難の意味を問い直し︑そこから得られた結論を一応の前
提として︑西ドイツ及びわが国における情動行為に関する精神医学的︑心理学的アブ爲ーチを検討し︑右の第一点に
ついて考えてみたい︒次に︑やはり同様の前提から︑西ドイッ及びわが国における判例と学説︑そして︑現在わが国
で精神鑑定に携っておられる精神医学の諸先生及び東京地裁の鑑定委員会に御協力をいただいて入取した若干の鑑定
例とそれた対応する判決書を調査した結果を検討して︑右の第二点について考えることとしたい︒
なお︑本稿においては︑狭義の精神病であるてんかん︑躁欝病︑精神分裂病によるものを除き︑また︑重度の精神
薄弱によるものも除いた︒すでに述べたように︑それらの場合には︑それぞれが責任無能力.限定責任能力の生物学
的要件をみたしうるからである︒また︑現在︑とくに議論の対象となっている精神病質者による情動行為については︑
精神病質の概念︑治療及び処遇の方法︑保安処分導入の是否等諸々の問題があり︑本稿は一応︑正常人の情動行為を
(15)対象として議論を進めることとしたい︒
(1)内村祐之﹁俳優仁左衛門殺し事件﹂日本の精神鑑定(福島章・中田修・小木貞孝編・昭和四七年)一七九頁以下︒ピ8艮帥轟ζ︒触ユ︑斜︒・=螢,
臼一Φげρ嵐︒︒o貯国ユβ一8①あ・り中)
(2)精神医学(村上仁︑満田久敏監修・第二版・昭和四二年)二四頁︒
(3)O窪げPO霞亭αq葭巴︒︒を冨鼠︒・・冨︒︒零︒匡Φβ鵠鴇ぎ一︒σq凶︒︒︒冨舅︒目︒︒︒ゴ護謄切・︒民騙瑠一㊤ω一堵ψ一中
(4)西丸四方・高橋義夫訳・クレッチマー医学的心理学H(昭和三〇年)八〇頁︒
(5)U蕊言σq①ごO輿諺浮窪簿①がお§堕6串
(6)<︒・ドヨ琶り葭象菖血︒︒︒含霞践σ・甚蚕紳レ一︒・︒訂臣日Lり①ρω.・︒紫の︒﹃磐ρN毒g邸蚕け琶山N§︒ぎ覇撃算鼻寓・・騨匿目,
団o︒︒房o年一沖お①ρQり畳刈①即
(7)武村信義﹁情動行為の刑事精神鑑定﹂犯罪学雑誌二九巻(昭和三八年)三一頁以下︑同﹁情動行動と責任能力﹂刑法と科学.心理学医学編(植
松博士還暦祝賀・昭和四五年)二七三頁以下︑同﹁情動行為﹂現代精神医学大系第二四巻(昭和五一年)九一頁︒
(8)<αq一'芝葺民Φ5U一Φ切覇畿幕訂ωまN自αq冒ω霞罫①受曽乙零一㊤録砕・︒N・︒03犀㊦︒︒m①がO巴昂自一︒冨雰聴ぼ悶琶Pトぎ自・・一零ρψ・︒駅9
一八七一年の旧ドイッ刑法典は単に﹁意識障害﹂と規定していた︒現行法の﹁深い意識障害﹂への移行の過程は︑まさに︑正常人の情動行為
においてこの生物学的要件が問題となっていることを示している︒この点については第三章において検討する︒
(9)武村﹁情動行動と責任能力﹂二七三頁︑二七四頁︒もっとも︑わが国では︑病的障害が認められる場合にも﹁意識障害﹂として扱うことも
可能であろう︒
情 動 行 為 と刑 事 責 任(一)
(10)ロロ信訂︒控O§︒ぽ舞農奮黛︒q匿薯︒・評暑響乱Φ茸血℃︒・署区︒︒q霞華ロロ︒巨①剛巨αqく8仲薫︒・﹁Φ団{①巳︒昌ロu︒ヨ曼︒︒︒凶ロ器ま凄麟Φ隠(㈱蟄Q︒お団)謹
曾臼穿§び︒達匿㎝臥$O訂皆巳$,q①ユ6壽臣臥︒・遷げρ口︒噌z︒芝窪碧罫一り蕊噂ψおs︿覧ミ畿①が穿同﹀中①寄綴巳量ロ①ロσ匹①質葺ロ・q言
沼げ類o⁝需臥︒・9窪o晦霞昧話oゲ'曽げ類臥認騨NQq峠≦田・c︒ど一霧99N睦.
(11)小野清一郎・新訂刑法講義総論(二五版・昭和三一年)=二七頁︑一二三八頁︑一二頁以下︒
(12)一九六六年ドイッ刑法草案総則対安理由書(法務省刑事局・刑事基本法令改正資料一五号︒昭和四四年)一一頁以下︒
(13)平野龍一﹁草案と責任主義﹂刑法改正の研究(平場安治・平野龍一編(昭和四七年))一六頁以下︒刑法学会第五五回大会の共同研究﹁戦
後刑事費任論の軌跡﹂に関する討議においては︑道義的責任を主張される真鍋教授も︑この方向自体は認められるようであった︒討論要旨(刑
法雑誌二四巻一号︽昭和五五年)一〇五頁以下参照)︒
(14)もっとも他方では︑右の鑑定が外界的異常と人格的異常を峻別し︑本件は前者にあたるとしている点にも疑問がある︒とくに︑正常人の情
動は・外界的異常が精神的異常さらには人格的異常をもたらした結果として把握しうるのであり︑そこでは︑責任能力の判断と責任判断とは
交錯する︒この点を指摘するものとして︑団藤重光﹁責任能力の本質﹂刑法講座第三巻(昭和三八年)三五頁︑三六頁︑八木国之﹁期待不可
能性論の批判的考察‑強制を媒介としてi﹂法学新報六六巻一〇号(昭和三四年)二一頁以下︒なお︑佐伯千倣.米田泰邦.期待可能性(総
合判例研究叢書・刑法二二・昭和三九年)一八九頁以下参照︒
(15)情動行為は責任能力以外にも︑行為論及び故意論の対象となりうる︒本稿はこれらの点にも立入ることはできないが︑行為性については一
応その存在を前提とする︒この点については︑最近︑上田教授が︑情動行為においても無意識的統制が存在するとして行為性を肯定されてい
る︒上田健二﹁激情行動の行為性と故意(上)ーG・シェーヴェの所説を中心としてl﹂同志社法学三〇巻二.三号(昭和五三年)七三頁以
下︑同・﹁行為性が否定された事例﹂刑法判例百選‑総論(昭和五三年)四一頁︑同.﹁行為論の課題と展望﹂現代刑法講座第一巻(昭和五二
年)一三五頁以下︒
故意と情動の関係については︑まさに個々の情動の強さによって異なるが︑故意が否定される場合もありうると考︑κられる︒この点︑とくに
西ドイツでは謀殺のメルクマールの認識に関して問題となる︒<㎝qドbdO工ω鉾巽・Φ・φω︒︒b︒中わが国で︑殺人の故意が肯定された事例(但し︑
精神上の欠陥がなかった以上︑意識の深層における殺意が認められるとするもので︑精神上の欠陥がある場合についてはふれられていない)
として・高松高判昭和三一年一〇月一六日高刑裁判特報三巻二〇号九八四頁︒なお︑久岡康成﹁誤想防衛と過剰防衛ω﹂刑法判例百選ー総論
九三頁参照︒
第 一 章 責 任 概 念 の 変 遷
第一節従来の責任概念の意義
e従来の責任概念
刑法上の責任の根拠ないしは本質をめぐる議論は多彩を極めている︒その理由は︑一つには︑責任の根拠について
の見解は︑究極的には刑法及び刑罰の目的︑機能に関する各論者の考え方に基づくという意味で︑法哲学的色あいを
もつと同時に︑他方で︑責任は実定法規の解釈においてはもちろん︑とくに量刑においては実際的機能をもつからで
ある︒それにもかかわらず︑第二次世界大戦後は︑少なくとも︑実定法の解釈の指導原理としての責任の本質につい
ては一定の合意が得られているともいえよう︒責任とは行為者が行為に出たことに対する非難可能性であり︑行為者
は行為時に他の行為をすることが可能であったにも拘らず当該犯罪を行なったこと︑あるいは︑決定規範としての法
の命令に従って意思決定することが可能であったにも拘らず法に反する意思決定を行ない︑行為に出たことを非難す
ユ るものであるとされている︒いわゆる︑行為責任︑意思責任︑規範的責任である︒第二次世界大戦前に有力であった︑
行為者の危険性を重視する性格論的責任論︑行状貴任論︑行為者不法論等は︑ナチ体制の崩壊とともに修正を余儀な
くされたので襲・こうして・責任の本質は行為者の行為に対する非讐能性であり︑それは他行為可能性あるいは
規範による動機づけの可能性を前提とするという見地から︑故意︑過失︑責任能力︑違法性の意識の可能性等が要求
されることになり︑期待可能性もこの枠組の中で判断されることになるのである︒(3)そして︑この他行為可能性を前提とする責任非難は︑従来︑とくに道義的責任論と結びつけて考・兄られてきた︒す
なわち人問の意思自由を前提として︑他行為が可能だったにも拘らず行為したことを非難し︑それを根拠として行為
情 動 行 為 と刑 事 責 任(一)
者に応報し︑あるいは購罪を求めようとする︒たとえば︑わが国でも︑小野博士は刑事責任の本質を﹁違法な行為に
出たことにつき︑其の行為者に対する道義的非難に基づいて負わしめられる責任﹂であり﹁行為者が主観的に道義的
に道義的軌範意識に従って行動すべく又行動し得た筈であるに拘らず︑その義務に反する行為に出たことを非難する
(4)意味の消極的価値判断である﹂とされる︒このような考え方は︑責任なけれぽ刑罰なしという責任の消極的側面を越
えて責任あれば刑罰あり︑あるいは︑およそ他行為が可能であれば責任ありとする方向に陥いる危険を孕んでいる︒
ところで︑西ドイツの現行刑法総則の立案過程においては︑右のような伝統的な責任概念を強調する政府草案と刑
法学者による対案とが対立したが︑一九六六年の代案によって﹁刑罰を科するということは︑刑而上学的な出来事で
はなくて︑人間が本来そうしたものである不完全な存在の共同体におけるにがい必要性なのである﹂ということがあ
らためて意識され︑責任概念の内容にも反省が迫られるようになった︒とくに代案の第二条は︑刑罰の意味を定める
ものは責任の購罪ではなく︑法益保護と行為者の再社会化であるとし︑ただ︑法治国家的観点から責任に刑罰限定機
(5)(6)能のみを与えたのである︒わが国でも︑これらのことは共通の認識となりつつある︒こうして︑現在の我々の課題は︑
責任の法治国家的刑罰限定機能を維持しながら︑積極的責任主義に陥ることなく︑刑罰の法益保護目的︑行為者の再
社会化目的をできるだけ達成するようにすることであるといえよう︒具体的には︑規範による動機づけ可能性︑他行
為可能性の存在しないところでは︑責任非難及び処罰を断念するとともに︑他行為が不可能といえない場合であって
も︑刑罰の法益保護目的及び再社会化目的上不必要であれば︑責任非難及び処罰を断念し︑それを責任能力や責任阻
却事由の解釈論の中で展開し︑理論づけねぽならないのである︒
しかし︑ここで︑まず︑そもそも我々はなぜ他行為可能性あるいは規範による動機づけの可能性を法治国家的保障
原理として残しておかねばならないのかを考えておく必要があろう︒もし︑他行為可能性が道義的責任の前提であり︑
したがって応報や贈罪のみの前提であるならば︑そのような他行為可能性を要求することは刑罰の目的を法益保護と
(7)行為者の再社会化に求める我々の立場と矛盾し︑我々の立場からは説明がつかなくなってしまうからである︒たとえ
(8)
ば ︑ 代 案 グ ル ー プ の 一 員 で あ る ロ ク シ ソ は ︑ 責 任 原 理 の 応 報 的 側 面 を 拒 否 し ︑ そ の 刑 罰 限 定 機 能 の み を 認 め た が ︑ は
じ め ︑ 限 定 原 理 と 責 任 原 理 の 関 係 を 説 明 し な か っ た た め に ︑ 予 防 と 全 く 関 係 の な い 原 理 に よ っ て 可 罰 性 を 限 定 し よ う
と し て い る と 解 さ れ た ︒ そ し て ︑ ア ル ト ゥ ー ル ・ カ ウ フ マ ン か ら ﹁ 刑 罰 に 結 び つ け ら れ て い る 全 て の 前 提 は 同 時 に 刑
罰 を 限 定 す る ー 1 そ し て ︑ そ の 逆 も 成 り 立 つ ︒ こ の こ と は 責 任 に つ い て の み で は な く ︑ 構 成 要 件 該 当 性 ︑ 違 法 性 ︑ あ
る い は 未 遂 に お け る 実 行 の 着 手 に も 妥 当 す る ︒ す で に そ れ 故 ︑ ロ ク シ ソ が ︑ 責 任 の 要 求 は 可 罰 性 を 限 定 す る も の と し
て の み ︑ し た が っ て 国 民 の 利 益 に の み 作 用 す る か ら と い う 理 由 で ︑ お よ そ 人 間 の 責 任 お よ び 自 由 が 存 在 す る か ど う か
と い う 問 題 は 自 信 を も っ て 未 決 定 の ま ま に す る こ と が で き る と し て い る の は ︑ 必 ず し も 正 し い と は 言 え な い ︒ こ の 議
論 に 従 え ぽ ︑ 責 任 だ け で な く ︑ 結 局 ︑ 全 て の 犯 罪 メ ル ク マ ー ル を 未 決 定 の ま ま に し て お く こ と が で き る こ と に な ろ う ︒
(9)この点を別としても︑明らかに存在し︑確定でぎる責任のみが可罰性を決定できるのである﹂という批判をうけた︒
(10)
自 由 意 思 論 に こ こ で 立 ち 入 る 余 裕 は な い が ︑ そ れ を 別 と し て も ︑ ま ず ︑ な ぜ 責 任 原 理 が 必 要 な の か ︑ な ぜ 責 任 原 理 に
よ っ て 過 度 の 予 防 的 考 慮 を 制 限 で き る の か を 説 明 し な け れ ば ︑ 右 の ア ル ト ゥ ー ル ・ カ ウ フ マ ン の 疑 問 に 答 え る こ と は
で き な い で あ ろ う ︒ 次 に こ の 点 に つ い て 検 討 す る ︒
(1)﹀島自冨︒劉田︒・呂駐畠o琶ユ匹oαqヨ帥静︒ぽO﹁自亀即σq雪畠2︒・け鎚蹄①︒茸︒・︒・岩紳①ヨ山二ω野︒ロω︒げ三繕ぼ①噛お潔噂PO刈卑ω︒ま艮叩留町鑑︒帰(ピ26ざ魯)噌
ω汁茜凝︒︒︒︒酔浮唐ゴ内︒日ヨ㊥コけ餌ごb︒一・﹀島̀這︒︒b︒甲︿︒浮①ヨ伽伽﹂ω中﹀昌ヨ﹄一︒︒恥ゆO=Qor臣.b︒'ψ冨麟(b︒8)・団藤重光・刑法綱要総論(改訂・増補
版宍昭和五五年))二四五頁︑二四六頁︒
(2)この経過については︑大谷実・人格責任論の研究(昭和四七年)二三三頁以下参照︒
(3)団藤・前掲書二四六頁︒ω島α艮停留訂αユ巽(いo算冒①﹁)"p︒■麟.Ò︿oき︒ヨ紹﹂ω箪﹀弓.一一Q︒.なお︑最判昭和三三年=月四日刑集=一巻一
情 動 行 為 と刑 專責 任(一)
五号三四三九頁︒規範的責任論の成立過程については︑﹀︒・鼻魯匿︒FP︒︒・ρ噸0の・り刈中
(4)小野清一郎・新訂刑法講義総論(二五版・昭和三一年)一三七頁︑一三八頁︑=一頁以下︒
(5)一九六六年ドィッ刑法草案総則対案理由書(法務省刑事局・刑事基本法令改正資料一五号・昭和四四年)二頁以下︒︿ひqド留げ巳貫民臥且早
巴薯澤貯魯o田日臼冨暫ゆqo昌誤日国具寒葺{︒・①げ①︒︒む︒貫助蒔φ︒・鶉斗唐訂︒︒"国一霧押}N一霧少ω﹂窓.
(6)平野龍一﹁草案と責任主義﹂刑法改正の研究(平場・平野編(昭和四七年︾)一六頁以下︑沢登俊雄﹁刑の適用﹂同書二五〇頁以下︒
(7)大谷・前掲書三四六頁︑大谷・刑事責任の基礎(訂正版・昭和五二年)一一〇頁︑=二八頁︑一七四頁︑一七九買参照︒
(8)国︒甑炉腔農毒自Ω器鵠魯︒・鐙毘⁝畠舞oo紳話{P甘Q︒6Φ900・ω︒︒ω第
(9)﹀き霞欝ξ臼碧炉O︒qq臣駐︒冨身山盃鼠鵠営一窯切︒冨﹀︒・需算Φ臣窃oり︒げ目罷けq且隣時魯昼Qね欝{§ゲ紳︾剛ロ鱒Q︒畠乱音臥巳7b︒"﹀置ぬ弘ミρq巾・
さ︒①o︒.(邦訳として︑大谷実・加藤久雄・生田勝義訳・アルトゥール・カウフマソ﹁刑法における責任思想の理論的および刑事政策的側面﹂新
しい刑法典のためのプログラム宍ユルゲン・バウマソ編著・佐迫千傍編訳・昭和四七年)六九以下がある)︒レンクナ1もロクシンに対して同
様の批判をする︒ピ魯︒可①さQり茸昧pω簿ロ一α諺鎚oり穿巳黛似寓αq犀Φ貫繭簑踏き山診6げ臣雪♂H窪︒噛営ぽ旨評饗露葺同冷(躍﹁の.Qα箸跡αq①7甫霧霞)噂臣ト
6謡矯9一即︿㎝qド﹀ユ冨﹁図窪穿碧p匂Q昏鐸扁音誠鵠甘琶恥く①臣帥剛訂一ωヨ韓露σq犀①冨σqH毒傍馨国噂訂ロαq①由窃房︒穿穿り一り刈①曽9拐軸O茸P勺興8惹蕾
d目9ぎ︒・曽ω︒穿冠葺畠望㎏昧pNQり酔芝じご阜◎︒Nお胡咽卯㎝◎︒剃塗また︑この点を明らかにしなければ︑自由意思論によらずに︑しかも人間の尊厳
と自由的法治国家刑法の原則をうちたてるぺきであるというギムベルナートの批判にも答えることができないであろう︒<㈹一・O冨訂目m件・
O識鉱αq樋臨霧騒①Qり紳冨蹄①o馨毘oぴqヨ鶉聾o貯ΦN畠琶{馬Noo鮮≦切q阜Q︒N一笥ρ989略噂男̀・も︒ρ
なお︑右の論争は主として量刑論において行なわれたものである︒ロクシソは︑はじめは﹁責任は刑罰を限定するが根拠づけるものではない﹂
としていたが(菊O図㎞コ曽9畠・陣.()己m甲.ωQQω庸・)︑これは自分でも不正確であったとし︑後に﹁費任は刑事法的制裁(貯幽巳富骨互筐︒・冨留鵠峯8)を限
定する手段であるが︑根拠づける手段ではなく︑責任原理によって限定された刑事法的制裁を刑罰と呼ぶ﹂方が適切であるとした(開︒臨炉
閑蒔目鋤甘&冨oげφ¢げ①﹁ぽαq目梶魯録田o自昏乱音ユ目臥P竃︒︒昏﹁閑臥β一⑩刈ρψωNO{椰)︒しかし︑これは︑ヤコブスから︑真の問題を言葉の問題に
すりかえているとの批判を受けた(智ざ冨望匿罷雇山単餌鵠⇔ユ聲噛図Φ︒算毒瓢ω雷夢醤N\㌫ωL㊤"ρω.q.臣・Φ)︒こうして︑結局︑四クシン
は︑責任相当刑による規範的予防という一種の一般予防が責任原理︑刑罰限定原理の内容であるとした︒この予防が威嚇的予防を限定すると
いう(切o巴炉Qり茸既N爆日窃︒・旨鵬静い⁝oぽ飢雪ω辞既国署8犀o唱ω︒げ三叶甲殉霧粛牌げρ一〇刈8Q自恥⑰り韓"胤興︒︒;剛感く①隠瓢g犀民Oo#臥鎧ヨ鵠︒︒環ロσq鳩卑鐸篇南Φ︒︒‑
岳6ぼ豊一ミQ︒鴇堕一8中bO一ご山露︒・﹂N自甘旨鵯酔窪O騨ざ︒︒︒︒δ切蓉Φ﹁ω経巳9℃&︿g二露ロ巳く①轟頃ヨ〇三腕o算o津ぎω仲﹁臥﹁8算曽¢コo昆鉱渤聲辱
岡①︒・馨ぼ剛詮一零ρω﹄O幽中)︒もちろん︑このようなロクシンの説明の変化の背景には︑責任に刑罰限定機能のみを与えていた代案が採用さ
れず︑現行ドィッ刑法四六条は責任を量刑の基礎とする量刑原則を規定したという事情がある︒このような事情の下で︑ロクシソはなお現行
法の解釈にも代案の基本思想を組み入れ︑形而上学的な責任概念を排除しようとしたのである︒つまり︑ロクシソは︑代案においては︑責任
相当刑は一般予防に通常必要な限度を越えていると考えてたが︑現行法の解釈としては︑責任相当刑の内容を規範的予防に必要なものであると
定義し直すことによって︑責任相当刑を一般予防と一致するものと考えるに至ったのである︒なお︑クラオス・ロクシン(斎藤誠二訳)﹁責
任主義の二面性と一面性ー刑法解釈学と刑の量定論における責任と予防との関係をめぐってi﹂刑法雑誌二四巻学号(昭和五五年)四一頁︑
四二頁参照︒(10)平野﹁意思の自由と刑事責任﹂刑法の基礎(昭和四一年)三頁以下︑同﹁刑事責任についてー批判に答えてー﹂同書六一頁以下参照︒
口他行為可能性と予防
ここでは︑道義的責任を基礎とした責任の順罪や応報が他行為可能性を前提とするのは当然であるのに対し︑刑罰
の目的を法益保護や行為者の再社会化に求める場合には必ずしも他行為可能性を要求しなくてもよいことになるので
はないかという疑問に答えなければならない︒しかし︑この点については答えはすでに歴史的に示されているともい
えるのである︒まず︑悪に悪をもって応報することがどうして正義となり︑正当化されうるのかといった応報説に対
する基本的な批判は別としても︑重大な法益侵害の場合にのみ刑法は発動するのであり︑他行為可能性が等しいとこ
ろでつねに等しく処罰するとはしていない︒また︑過失は結果が発生しなけれぽ責任を問われないし︑さらに︑客観
的処罰条件が存在しなければ処罰されない場合もある︒すなわち︑応報と他行為可能性は直接的に結びつくものでは
ないのである︒むしろ︑刑罰の起源である復讐(寄︒ぽ)は他行為可能性のなかった場合にも行なわれえたのである︒
未組織社会では︑復讐という反動形式が予防的保護機能を営んでおり︑これが唯一の有効な保護形式であった︒し
かし︑社会が組織化されると︑法益侵害に対する反動は予防原理に従って行なわれるようになる︒こうして︑結果刑
法から責任刑法へと移って行ったのである︒つまり︑はじめはすべての結果惹起者に同じ仕打ちで応報していた︒し
かし︑徐々に︑そのような応報は意味がないことが理解されるようになった︒偶然‑他行為可能性のない行為は偶
情 動 行 為 と刑 事 責 任(一)
然であるーを予防することはできないからである︒ここから︑刑罰は行為者の認識および制御能力に結びつけられ
(11)るようになったのである︒このように︑他行為可能性はむしろ予防の見地から導入されたのである︒責任原理は︑結
果原理に対して︑刑法および刑罰をより選択的に︑より目的的に適用することを意味する︒責任原理によれば︑行為
者が避げえた行為のみを処罰すべぎである︒その理由は︑避けることができなかった場合には禁止規範は予防的に作
用しえない点に求められる︒
しかし︑右のようにして︑確かに当該行為者については︑他行為不可能な場合には禁止規範の決定規範としての機
能が作用しないために当該行為を予防できず︑行為者に責任を問いえないとしても︑一般予防上も同様のことがいえ
るのだろうか︒一般予防上は︑当該行為者に他行為が可能でない場合にも︑これに責任を問い︑一般人を威嚇しなけ
ればならないのではないかという疑問が生じよう︒規範ぽ将来において繰り返される事態にも適用され︑過去の事態
に一度限り適用されるのではないという意味で︑いわゆる鎮圧的規範は立法者の意図いかんにかかわらず予防的機能
を営むのであるから︑いよいよ右の疑問は強くなろう︒全く鎮圧的と考えられる規範も︑それが人間の将来の行動を
動機づけることによって予防的に作用するとすれば︑行為者の他行為可能性を問う必要はないように思われよう︒
しかし︑ここで一般予防の内容を威嚇ととらえてはならない︒ノルのいうように︑一般予防の最も重要な側面は威
嚇ではない︒多くの人々は刑罰威嚇によってはじめて動機づけられるのではない︒法律は市民に現行規範の内容を教
える︒多くの市民にとっては︑不可罰になることのみではなく︑およそ法秩序に衝突することなく生活することの方
(12)(13)に関心がある︒この点に作用することが一般予防の最も重要な側面である︒いいかえれば︑刑の執行等の効果から切
り離しても︑法の内容を人々に知らせることこそ一般予防の本質的内容である︒判決はこの規範の内容を確証し直す
(14)にすぎない︒そして︑法規範は決定規範としては︑行為者に他行為可能性を前提として規範の内容を命令しているの
であり︑判決も当該行為者の他行為可能性を前提として︑一般人に対し︑この行為者のような状況で行為に出ること
は法規範に反するものとして責任を問われることを宣言するのである︒
この行為者の他行為可能性の不存在と一般予防との関係については︑さらに︑社会心理学的に︑他行為可能性が一
般予防の要素に入り込み︑例えぽ責任無能力者について﹁彼はそれについては何もできない﹂という場合には︑その
行為が模倣される可能性がないという説明も可能である︒つまり︑規範による動機づけが不可能であったという場合
には︑規範の内容や効果自体は失われていないのであり︑一般人はなお行為者以外の者に対する規範の妥当性につい
て疑いをもつには至らない︒他行為不可能であった場合にはもともと行為者が規範に反したという結論は導かれず︑
規範の内容を確証し︑秩序を安定化させる必要はないのである︒たとえば︑他行為不可能の原因が精神病による責任
(15)無能力にあれば︑それは一般人からは病気と同一視され︑一般人はその者が無罪になったからといってその行為者を
(16)模倣することはないのである︒
(11)Zo戸Qり耳鑑oゲ昌oζΦ畠暮誘団r旦ζ茜瞬お什象o望窮{器︒ピ巽焦o﹁目(国﹁︒︒・切ロ距臼9目)評一り①Pω・誤津
この邦訳として︑吉川経夫﹁形而上学のない刑罰﹂法律時報一九七二年一〇月号一一七頁以下がある︒
(12)乞o戸Qoo冨罷ロa℃&︿雪島oコ仁葺輿O窃凶︒ゴ6きξ留﹁菊ロニo目p一ミΦH善αq飢霧Q◎茸鷺﹁8げ計出.ζ錯興萄o︒︒房o岸猷併Ψ一8ρω・b︒boρ
(13)いわゆる規範的予防(昌o吋ヨ餌氏く①勺冨︿9二〇昌)である︒乞︒芦Qo茸騨ヰ9ゲニ語Cげ臼αq餌謁(じゴ︒臼①蒔§σqΦロ畏紆日い卑﹁げ漏鼻窪窃Q弓汁﹁昧冨6ぎ︒︒"﹀.
↓・<8零90H・=ー寓・}窃o﹃8開)曽O︾一零ρoり・培Q︒・<σqドωoげ巳貫ρpO二〇弓﹂一り.
(14)20拝ω茸鉢oぎ①ζ①鼠嘗甥一rQoぴω・
(15)甘ざ訂矯ω9巳乱̀昌昏℃感く①巨δ算qo.嵩中
(16)閃o邑ロこ鴇ω臨巳匹..ロ註署く巽雪箸︒三8莫Φ諦︑.巴・︒︒︒9巴話9島9︒ω団︒︒什Φヨ紅言σqo冨P=Φ鼻︒一・岡婁︒・︒年肇LO謹植9一Q︒笛中くひqドOぎ冨ヨ暮O置①革
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情 動 行為 と刑 事 責 任(一)
日小括
こうして︑我々は︑他行為可能性あるいは規範による動機づけの可能性という責任の前提は︑道義的責任や応報よ
りも︑むしろ一般予防︑特別予防という予防目的から導かれることを理解したのである︒この意味での責任原理はま
さに刑法の合理化の流れから出てきた国家刑罰権の限定原理である︒刑罰及び判決には確かに行為者に対し行為に出
たことを公に非難するという側面があるが︑それも悪に悪をもって応報するのではない︒判決における非難も規範の
内容としての非難以上のものではなく︑積極的な意味をもつものではない︒刑法は責任応報ではなく︑法益保護を目
的として︑法益保護のために一般人及び行為者に規範を妥当させようとする︒その前提が他行為可能性あるいは規範
による動機づけの可能性である︒以上にみたように︑他行為可能性を責任原理として維持することは︑刑法及び刑罰
の目的を法益保護と行為者の再社会に求める我々の立場と全く矛盾しない︒
しかし︑他行為が不可能とはいえないとしても︑あるいは規範による動機づけが不可能といえないとしても︑その
場合に常に予防上の必要性が充足されると考え︑責任を肯定するのであれぽ︑刑法の合理化︑道義的非難の排除とい
う立場から責任原理の予防上の機能を強調したとしても︑それは単なる宣言にすぎないことになろう︒実際︑責任原
理の予防上の意義を説得的に説いたノルも︑責任のある行為者に対して責任非難をしない場合には責任の予防的効果
(17)を放棄することになってしまうとして︑責任を肯定する︒そして︑責任能力︑限定責任能力︑責任阻却の緊急避難︑
(18)過失犯︑禁止の錯誤についてとくに新しい解釈を示すことはなかった︒
しかし︑他行為可能性は予防上不可欠の要件として︑法治国家的刑罰限定原理として残しておかねばならないとし
ても︑問題はそれだけでは解決されない︒というのは︑現在ではすでに︑従来の他行為可能性の判断の中で予防上の
姦がなされていたことが意識されてきているからである・意思の畠についての決羅・不鑑認・擬輪が責任
の 前 提 に つ い て と く に 一 般 予 防 を 考 慮 に 入 れ て い る こ と は 明 ら か で あ る ︒ さ ら に ︑ 解 釈 論 の 範 囲 内 で も ︑ シ ュ ト ラ ー
(22)(23)(24)
責 任 無 能 力 の 前 提 を め ぐ る 議 論 一 般 が テ ン ヴ ェ ル ト の い う よ う に ︑ 期 待 可 能 性 の 基 準 の 個 人 か ら 一 般 人 へ の 移 行 や ︑
予 防 の 必 要 性 を 重 視 し て い る ︒ 特 に 問 題 と な る の は 情 動 行 為 (㌧ ノ 開 o 犀 什什 凶 枠) と 禁 止 の 錯 誤 で あ ろ う ︒ 情 動 行 為 の 場 合 ︑
持 続 的 な 葛 藤 状 態 に よ っ て ︑ 情 動 行 為 を 克 服 す る 力 は 少 し ず つ 減 少 し て い く の で あ り ︑ 情 動 爆 発 そ の も の が 行 為 時 の
(25)
支 配 力 の 喪 失 を 示 す と も い わ れ る ︒ し か し ︑ ク リ ェ ム ペ ル マ ソ に よ れ ば ︑ 西 ド ィ ッ の 殺 人 の 少 な く と も 四 分 の 一 は こ
(26)のような情動行為によるものであり︑そのすべてを責任なしとして扱うことは刑事政策上許されない︒他方︑これを
ヘへ責任ありとするためには︑行為時の他行為可能性に何らかの修正を加えて︑情動の性質︑葛藤状態の性質︑情動自体
ヘへの回避可能性︑あるいは情動行為の回避可能性等を含めて判断することになる︒そして︑現在︑実際にそのようにし
(27)(28)て責任判断がなされているのである︑禁止の錯誤についても同様であろう︒右のような問題は責任判断の基準を個人
(29)から一般人へと移し︑一般的︑社会的な責任概念によることにしても直ちには解決できないものであり︑予防の観点︑
とくに一般予防の観点が他行為可能性の判断に入り込んでいることを証左するものである︒このような状況において
は︑他行為可能性の予防上の意義を明らかにしたからといって︑それだけでは問題は解決できないことは明らかであ
ろう︒結局︑さらに一歩を進めて︑規範的予防上必要な最小限度の要求としての他行為可能性をどのようにして行為
者に実際に保証していくか︑そして︑責任判断に含まれているその他の予防上の考慮をどのようにして合理的なもの
にしていくか︑さらに︑どのようにしてその考慮を責任判断に組み込んでいくかが重要になってくると思われるので
輪・この点は本稿の中心的論点であるので・次節以下でさら緩討することになる︒
本節では︑我々は︑従来︑道義的責任や応報と結びつくと考えられる傾向にあった他行為可能性という責任の前提
も︑実は一般予防および特別予防の見地からよく説明できること︑しかし︑現在では︑それだからといって従来の責
情 動 行 為 と刑 事 責 任(一)
任判断の枠組にとどまってはいられないような種々の問題が提起されていることを確認したのである︒
(17)Zo陶一矯ω騨9︒hoゲ9ζ㊥仲巷ゲ団︒︒MぎQり幽密.
(18)窯o拝縛ゲ"匡ロ類α中野①目怠oコ噂Qq﹄N駅.
もっとも︑量刑論においては︑ノルは以上のような黄任についての考え方から︑次のような具体的結論を灌いた︒すなわち︑量刑も予防的観点
から行なわれる︒ノルによれば︑費任の程度による鞭刑とは︑まず︑行為者に費任を負わせうる限りで︑法益侵害の重大性によって貴刑する
ことである︒しかし︑主観的メルクマールも予防に関係する︒規範にかなった動機づけを困難にした事由は責任を軽くする︒しかし・貴任と
予防の関係からすれば法益保護に関係する主観的メルクマールのみが責任を重くする︒衝動からの動機はそれが価値に反したものであろうと
なかろうと︑規範に.かなった動機づけを因難にするので︑費任を軽くする︒たとえば︑淫行殺人(詔差巴ヨo巳﹀においては︑異常な性衝動は
責任を軽くする事由として︑一方︑行為者が被害者に与えた精神的︑肉体的苦痛は責任を重くする事由として考えなければならない︒これに
対して︑行為者が行為の際に主観的に性の快楽を感じたという理由で資任を重くしてはならない︒そのような道徳化した考え方は責任思想お
よび予防思想に反する︒窯︒戸︒︒畠三儀菖鎚勺﹁野窪けδPψ卜︒ω一中なお︑ノルの刑罰論については︑2︒芦O一︒簿ず剛︒︒穿①娼ロ濃同体乱菖αq号﹁Gり欝量園︒︒げ件¢コ山ω訂隣棒思♪お①い︒■なお︑ノルの責任論を︑責任の実質的内容を予防という刑罰目的から導き出そうとする最近の傾向の端緒である
と評価するのが一般である︒<αqトロご霞穿9︒﹁鼻O霧N壽穿ヨ︒日Φ讐ぎの6ゲ巳穿①σq門鼻O>お蕊矯¢ωb︒ゴ甘ざぴ︒︒唱PPρ︾9︒︒⁝Qり器9目≦︒騨﹃O剛①N億ざロ卑匹︒︒︒︒,齢﹃鋤律︒︒げ艶鼻窪oo窪凱鴇貯Nぢ甲お刈N卯N一.3駆9本書の紹介として︑真鍋毅﹁責任原則の帰趨﹂い山胡留げ09一九七九年四月号三
四頁以下︑同五月弩八六頁以下︑犬山弘﹁刑法の貴任主義の将来﹂関西大学大学院法学ジャーナルニ三号(昭和五三年)八七頁以下がある︒
(19)Zo零聾o霜︒・鉾津Φ騨Φ噺齢uQり︒ゴ巳脳"<ΦおΦ#暮鱒家a①﹁‑潮ω窪︒訂聾曽一霧メ卯㎝㎝弊山窃げΦ︒・・刈P(20)ξ①一器嗣︾O器牙黒︒・爵$ω什鵠h器oぼ唱一一.﹀醒ぬこ目8Pω.一9粘璽
(21)閑︒霞﹁師口の︒劉Qり︒一一窪ロ巳閑α諺魯巴︒︒O謹諏鮎ドαq魯﹂巽︒・器岸①︒犀罵o﹃§N弓8ザ自コ叩O理①﹁8︒干岡窃仲oqゆげPH曾ρ¢一鉾凶鵠ぽ9N9なお・大谷︑
人格責任論の研究三五七頁参照︒
(22)の癖讐Φ目類Φ躊貫PPOJω﹂bご箪
(23)<αqドき︒ぽロげp︒nダ器b二Q︒﹂お中・
(24)︿α・ドζゆ偉﹃96ぴ︒N鷲・︒︒器{§耳﹀∋↓Φ駒=・一笥メ象一悼⁝年郎居︒㎞馨β︼)闘①2①話婁︒・ゴ昌α卑量く︒§臣h奮麟邸臥⁝①曽ぼ集畳︒q瞠Φ搾胤信困6ゲN毛Φ搾①ω蹄no津①oげ件qoH①{Oコ已αqΦ9自訂<O日劇.﹄ぼ贈一り⑪PNQO紳ぐ噸¢コ恥.Co◎◎﹄O刈9ω︒ωO中
(25)閑三目需げ碧斜鑓o碧山凱︒コロ鼠諾窪臼替αqぼ﹀潮箕≦Φ同国①一萄婁︒︒︒穿警一り刈♪Qり庸ωb︒刈鉾冒げ窃.ωω↑
(26)国郡日"①ぎ身90山①20轟窃鼠一呂ロαq唱Qo.b︒9