戦 国 期 の 在 地 寺 院 と 地 域 社 会
窪 田 涼 子
は じ め に
おやまとじようがんじここに取り上げるのは︑伊勢国小倭郷にある︑成願寺という戦国期の地域寺院の姿である︒小倭郷は︑現在の三重県の中部︑一志郡白山町の垣内︑稲垣︑上ノ村︑南出︑佐田などの範囲にあたる・小倭郷の
なかを東西に﹁初瀬街道﹂が通り︑南北朝期には大和方面から伊勢への参宮︑伊勢方面からは大和長谷寺への参詣者で賑わった..︑の初瀬街道沿いの上ノ村に︑明応三年(西九四)に建立された慧命山悪院成願寺がある・上ノ村しんぜいの地侍である新長門守が真盛上人に帰依して出家し︑孫法師と号して成願寺を建立した・
真盛上人は︑小倭郷大仰(現︑;心町大仰)の地侍である小泉氏の出身で︑比叡山西塔で天台教学を修めたが・の
ち黒篁目聾に隠棲し念仏に救いを見出し︑文明天年(西八六)︑当時荒廃していた近江坂本の西教寺に入寺し・不断念仏の道場として再興した︒真盛上人の教えは︑のちに天台真盛宗とよばれる念仏の教えで・伊勢をはじめ近江
山城︑越前などで布教され︑公家や朝廷︑足利護︑北畠氏などの信仰も得ていた︒小倭地域は・真盛上人の出身地
で縫 翫 黙 堕 鍵 融蘇 隔 勢 騨 鴨糠 ㍑榊 麹 鑓 ∵
開する徳政や︑徳政衆とよばれる人々についてさまざまに言及してきた︒
瀬田氏は・小倭徳政衆が郷内のみに有効な徳政を実施したとし︑これを﹁在地徳政﹂と位置づけ︑小倭衆の強固な
結合と自立性を主張した︒これに対し中野氏・池上氏は︑小倭においては︑売却者が買得者に対して直接徳政を要求
し・両当事者間で売買関係を解消するとい・つ︑私徳政が行なわれており︑徳政衆は徳政を行なつ主体ではなく︑むし
ろ恣意的な徳政を防止し︑徳政が行なわれた場合であっても買得者の権利を保障する︑とい,つ立場にあったものとし
ている︒
以上のようなこれまでの研究成果は︑おもに成願寺に残されている晟願寺文圭日Lを基礎史料としている︒とくに
明応二年(丙九四)九旦吾付の﹁小倭百姓衆起請文﹂︑九月二百付示倭衆摂連判状Lの二通の文童.は︑
侍衆や夏衆が︑それぞれの紛争解決に衆中共同であた嚇内の秩羅持をはかろ.つとする︑地侍衆.百姓衆の重層
的な一揆の様相を知る好史料として古取り上げられている︒また︑七通の徳政指置状をはじめとする徳政関連の史
料も小倭郷の徳政について論じる際によく使用されている︒(6)
現在・成願寺に残された中世文書はほとんどが巻子や掛軸に仕立てられている︒その・つちもっとも数が多いのは寄
進状三七通であり・売券δ通︑指置状七通を含め︑成願寺が集積した田地に関する証文類が半数以上を占めている.
これら証姦を中心にした史料群は︑﹁塾罫鎌﹂と題する上下二巻の巻子に纏められており︑その巻頭には︑寛
政五年(一七九三)に成願寺一二世真英上人が散逸を防ぐために軸装した旨が記載されている︒
この﹁資堂田記録﹂に纏められた土地証文類は︑永正六年二五〇九)から天正一〇年(一五八二)の戦国期七三
年間(年未詳を二通含む)にわたる︑成願寺のひとつの側面を照らし出す貴重な史料であるが︑.﹂れまでの成願寺を
めぐる研究のなかでは︑あまり積極的に取り上げられてこなかった︒証文類は一般に︑土地集積など経済的な側面を語る史料として捉えられる.﹂とが多い︒もちろん成願寺の場合も例外ではなく︑証文を分析することで・寄進や売買
によって成願寺に集積された田地の有り様が︑ある程度明らかになる︒それに加え︑本稿でさらに考えていきたいのは︑小倭という地域においての成願寺の位置づけである︒﹁在地徳政﹂や﹁小倭一揆﹂などを語る史料の多くは・ど
れもが成願寺に関係するものであるから︑成願寺という寺院が小倭地域でどのように存在したか・を再検討したうえで︑これまでの成果を地域社会のなかで考え直してみる必要があるように思う︒
そこで本稿では︑﹁資堂田記録﹂の証文類を中心史料にして︑戦国期の成願寺と︑それを取り巻く状況を・改めて
考えてみたい︒なお︑以下文中では﹁資堂田記録﹂上巻嘗︑下巻を2とし︑それぞれの何番目の史料かを﹁資‑‑拓﹂のよ・つにハイフン以下の数字で表わす.また史料は﹃三勇志白山町文仏謬の翻刻を・原本の写真で校合して使用した︒
一 寄 進 と 供 養
寄進状は︑寄進者がある信心や願いごとを遂げるために︑寺に土地などを寄進した際の証文である︒成願寺の三七
通の寄進状はそのほとんどが︑一般の寄進状の形式どおり︑まず﹁永代寄進申田地事﹂といった事書があり・ついで寄進物件の内容(地字︑斗代など)︑土地の由来(相伝か︑買得か)が書かれ︑さらに﹁何のための寄進か﹂﹁寺にど
のような供養をしてほしいか﹂という寄進の目的が記されている︒表1は︑﹁資堂田記録﹂から寄進状だけを抜き出し︑年代順にならべ︑①〜⑰の通し番号をうち︑寄進者・寄進物件など項目別に分類したものである︒本章では・この表を参照しながら︑成願寺に︑どのような物件が︑誰によって寄進されたのか︑をみてみたい︒
宛 所 寄進先 寄 進 に 関 す る手 続 き等 供 養 関 係 文 言 しや う くわ
ん寺
成願寺 委 細 者 せ い きん 坊 二 申 候 け い さん せ ん ち や う 之 た め に/め い 日 四 月 十 一 日 二 て候 、御 ゑ こう候 て可給候
常願寺 成願寺 為我 等 、二 季 之彼 岸 二 、念 仏 を常 住 衆 に て御
申候 て 可給 候 、我 等 か い はひ を立 られ候
成 くわ ん寺 成願寺 為 ミや う さ いの/毎 年 七 月十 二 日、 当 寺 ノ御 せ か き 可 存 候 、 又 六 月 廿 四 日 に も、 御 ゑ か う候 て可 給 候
成願寺 為 灯 明/為 真 見 童 子 菩 提 寄 進 申候/(異 筆)命
日七 月十 八El
成願 寺 つ る若 こ しや うの 事 に て候 間 、 毎 日ふ ん くを
め され 候 て可 給 候/(異 筆)為 真 西 ノ也 成願寺 寺 相 違 之 事 候 者 、 中 山同 宗
四郎 兄 弟 可 然 様 二 は か らい 候 て
名 日 二 へ ち し御 申候 て可 給 候 、 つ れ あ ひ に て 候 為 妙 讃 之 二[地 字 ・斗代]、 わ れ らか た め 二
[地字 ・斗 代]永 々新 き しん た る へ く候
成願寺 成願寺 為 妙 順 大 姉 寄 進 申 候 、 毎 月 二 可 預 御 吊 候 、 名
日ハ 七 月廿 九 日 に て候
成願 寺 成願寺 毎 月之 月忌可預御 吊候
成願寺 成願寺 為妙 祐 禅 尼 寄 進 申候 、 名 日拾 月八 日に て候 、
然共 毎 月八 日二預 御 吊候 者 、 可 畏 入候 成願寺 成願寺 (追筆)証 文相 そ へ 進 之 候 為 茶 と う にて 候
(成願 寺) (庫裡 作 事 、本 堂 屋 根 葺 き替 の 際 用 立 て た 本 利 共12石5 斗 を寄 進)
当寺奉公 之 ために きしん申候、代々御住持 これ を 御 らんせ られ候 て御廻 向候者 、難有 うけ可 申候、と て もの御利 益二父母成仏 、六親 ともに平等利 益、奉 頼候/是 以毎 日霊供 を永代 御利 益奉頼候
浄願寺 成願寺 御 訪 二 可 預 事 奉i申 候
成願 寺 成願寺 万 一 子 々 孫 ニ ヲイ テ違 乱 之 事 候 者 森 田 方森 室 出相 、 兎 角 之儀 可 被 申 定候 、為 其証 明 に頼 入 候
成願寺 為 秀 円茶 とう
成願寺 成願寺
浄願寺 成願寺 為 真 寿禅 定 尼 永代 寄 進 申/為 菩 提/命 日八 月七
日也
成願寺 6斗 代 ハ大 村 称 名 寺 へ 寄 進 於 現 世 二逆 修 、 未 来 に てハ 善 処 為 、寄 進 申/現 在 に て ハニ きの彼 岸 霊 供 、 御 心 得被 成 候 て可 給 候 、 又死 去 至候 ハ ・、位 牌 立 毎 月 之 名 日霊 供 、井 しや う月 二霊 供 、 同風 呂 御 た か せ候 て 可 給候/(異 筆)戒 名 道 範 、 同 内永 秀 毎 月 徳 祐 禅 門 と祐 円 禅 尼 と両 人 之 霊 供 之 為/
名 日十 八 日徳 祐 禅 門 、 逆 修 祐 円禅 尼
浄願寺 成願寺
110
表1「 資 堂 田 記録 」 寄 進 状 一 覧 番号 巻別
番号 寄 進 場 所 斗 代 土地 由来 寄 進 月 臼 差 出
① z‑oz こ うた い 河 原 山 神 の 本/+せ ん寺 宮 之 西
1斗 代/1斗 代 合2斗 代
永 正6,9.11 ふ くち満 繁
② 1‑05 か うた い河 原 む か へ 茶屋 之 前
1石4斗 代
永 正 ユ0,4.24 森 田之 貞康 、 新 右 衛 門 尉 、 森 室 四 郎 二 郎
0 2‑f}2 か うの本 1石2斗 代 永 正17.7.12 新経康
④ 2‑05 室 ノ世 古 堂 ノ前 5斗 代 大 永2.7.20 森長康弘
a z‑os た しか 5斗 代 大 永3.12,ユ9 新経 康
⑥ 2‑一()9 上 原 石 神/大 ヲ キ 藤
之 木
1石4斗 の う ち 6斗 代/1石1斗
お や よ りそ う て ん の 下 地
大 永6.3.27 岡崎康則
⑦ 2‑15 上 之 大 谷/小 山 口殿 向
2斗6升 代/1斗 5升 代
売徳 享 禄2.3.12 丹後入道定俊
⑧ 2‑16 小 山[]殿 前 8斗 代 買徳 享 禄2.7.吉 日 久岡定秀
⑨ 2‑‑13 十善寺 宮之前 5斗 代 売徳
享 禄2.8.5 丹後入道定俊
⑩ 2‑14 十 せ ん しお き 2斗 代 中 森殿 よ り買 徳
享 禄2.9.12 岸 田定 口
⑪ 1‑02 (能米12石5斗 胆 利 分 者 三 把 利 に さん 用 申候 て 如此)
天 文1.9.29 施主妙心
⑫ zrs 蓮台寺之 西 1石2斗5升 代 の内1石 代
天 文2.6.14 森 長 之 内 千 代 福 女 、 森 長 康 弘
0 1・06 小 倭 八 幡 之 後 ワせ地 3斗 代 天 文5.7.
森 田 之 四 郎 二郎 、 同豊 前守
⑭ 1‑U8 4斗 代 中 森 殿 よ りは
い と く
天 文5.閏10.14 岸田定清
⑮ 1一⑪9 大村青木 3斗 代 天 文6.1.27 丹後入道 責俊
⑯ 2‑04 ハ イ カ ホ ラ/ハ サ マ 8斗 代/2斗 代 合1石 代
真 寿 存 生 の 時 瑞 聖 寺 よ り檀 方 の判 を以 て 永 代 買 徳
天 文6.8.13 森長治部少輔康
弘
⑰ 1‑10 十善 寺 コ ウ本 1石2斗 代 の 内 6斗 代
天 文7.2.22 井生岸 田八郎左
衛門尉吉定
⑱ ユ ー11 十 善 寺 宮 之 北/ふ る
市 は之 畠
3斗 代(小 升)/
1斗 代 小 升 に1 斗3升 ニ カ 所
を合4斗3升
天 文7.2.2? (井 生 竹 田)祐 円
19 2‑21 な め きの 西 1石2斗 代 の 内 納2斗 代
天 文7.8.9 中野藤 四郎
宛 所 寄進先 寄 進 に関 す る手 続 き等 供 養 関 係 文 言
成願寺 成願寺 為 等乗 大 徳 、妙 弥 禅 尼/(異 筆)銘 日二 月 八 日
成願寺 成願寺 本 証 文 ア イ ソへ 候 為菩提
成願 寺 若 就 此 田 地 、 自何 方 も違 乱 之 儀 候 者 、 成 願 寺 両 旦 方 新 殿 中 山殿 悪 入 候 而 、寄 附 之 事 候
為二親 井 自身 逆修 成願寺 江寄進 申下 地之事/
得祐禅定門霊供 田/祐円禅 定尼霊供 米/祐泉比 丘尼逆修寄進分/下地何茂末代三人霊供料候/
永代 不易可預御 廻向候 大仰 常福寺 大仰常福寺
→常願寺 但 我 等 一 期 ハ 知 行 可 申 候/
若 又 常 福 寺 退 転 候 者 、 成 願 寺 江 寄 進 申候/寄 進 檀 那 の 事 、小 泉 ・与 一 ・杉 室 以 上 三 人 ト定 也
為後世菩提
成願寺 成願 寺 (異筆)証 文 ハ 成 願 寺 二 あ り 毎 月一 度 之 霊 供 毎 日御 回 向 奉 頼 候/(異 筆)南 無 阿 弥 陀 仏 当住 持 真 快
成願寺 成願寺 毎月十 九 日可有御 回向候/宗真禅 定門為霊 供
面帰真申所実正也
成願寺 成願寺 本券相副進 申候 我等 為逆修 永代寄進 申所実正 明鏡也/拙者一 期 之後毎 月名 日可預御 回向候
しん衛 之[] 成願寺 こ と わ り は し や う 永 坊 へ こ と ね ん こ ろ に 申 候 、 こ とわ
り くわ し く は た ん か う に て 、 よ き や う に/後 き し ん 候 て 可 有 候
妙 れ ん の た め同 し くハ わ れ らた め に
成願寺 成願寺 毎 年 正 名 日二 念 仏 御 申候 て 、 御 とふ らい 頼 入
候
成願寺 成願寺 施主之儀ハ千年代一人可為候 為 真 幸/め い 日二 月 三 日二 忌 日 あ るへ く候 小倭成願寺 成願寺 宗 真 禅 定 門 追善 也 、毎 月拾 九 日必 霊 供 、 可有
御 吊 者也/彼 正 名 日ハ 四 月十 九 日 成願 寺光尊
御住持
両 人 ノ田 地 去 渡 申 候 上 者 、 不 可 有 他 煩 候 、 此 等 之 趣 、 子 に て候 宗 七 郎 に も申聞 候
西 教 寺 上 人 様 当寺 被 成 御 出 候 、 … 円頓 戒 一 座 得 御 結 縁 度 之 由 申入 候 志 趣 者 、新 九郎 不 慮 二 生 害仕 候 一 周 忌 、来 十 一 月十 五 日 ヲ引上 、預 御 廻 向 度 望候 、 失 墜 料 二在 所 大 谷 藪 が ハ ナ 八 斗 代 付 渡 進 之 候/道 春 禅 門 二為 志
常願 寺 成願 寺 妙 寿 三 月十 八 日二 死 去 仕 候 間 、 其 日其 二 お ひ
て 、風 呂一 た き、被 仰 付 候 て可 給 候
成願寺 成願寺 後世 為 菩提 之 奇進 申候 、然 者毎 年 月 々 之 月忌
二 りや う く可 有候 、 井 三 月 六 日之 正 名 日二 、 風 呂可 有 候
成願寺 西之屋方与井生之竹 内方両 施 主而先祖為祐 円
先 祖 為 祐 円/彼 正 名 日七 月十 一 日也 、槌 霊 供 可 有 念 仏 事
常福寺 常福寺 為二親
成願寺 成願寺 為 甚 蔵/(異 筆)主 蘭 甫 浄 彙 禅 定 門
常願寺 成願寺 両 人 女 子 ノ為 ニ テ候 、御 施 餓 鬼 被 成 候 而 可 給
候
112
番号 巻別
番号 寄 進 場 所 斗 代 土地 由来 寄進 月 日 差 出
⑳ 1‑Z2 大 村 ヤ ツ子 垣 内 西垣 内殿 と相 持3斗 代
天 文7.9. 安野経 定
⑳ 2‑20 三 賀 野 下 源 次 垣 内4 斗代 之 内 東 き り
2斗 代 三 賀 野 形 部 大 夫 か た よ り現 米2石1斗 に 永 代 買 取
天 文7.12.20 正珊
⑳ 2‑03 a三 賀 野 東 山/古 市 場/十 禅 寺 前b西 屋 敷 悪 子 之 米c.ハ ィカ イ ト
a.6斗/1斗/2 斗2升/合9斗2 升 代b.1石 代 c.1石 代
天 文15.7.9 祐泉比丘
⑳ 1‑Q1 大 沖 岡之 前 ヤ ツ メ カ イ ト
5斗 代(升 は 納)
盛林比 丘尼 よ り買徳 私領
天 文16.2.29 (寄進檀 那 之 事 、 小 泉 ・与 一 ・杉 室 以 上 三 人 ト定 也)
⑳ 2‑23 大 村 す ミあ な 1石4斗 成 の 内 よ り3斗5升 代
現 米3石 に て 永 代3斗5升 代 売 徳
天 文17.5.16 岸 田内井生妙盛
⑳ 1‑14 十善寺 前/同東 2斗 代/1斗 代 天 文17.5.3U 山田播磨 守満景
⑳ 1‑16 天 王 平 尾 ・山 サ イ 目 (四 至 ア リ)
鼠800文 天 文17.6.0
日
山 田野北 田修理 Q 1‑‑17 a.ゆ こ ん あ ん 東b .か 進康景
こ か い とC.と う り う の み ち よ り 東
a,5斗 代b.3斗 代c.2斗 代
a.竹 室 方 よ り 売 徳c出 口方 よ り売 徳
天 文21.5.2 h田 元 応
⑳ 1‑20 あ か さか 2斗5升 代 天 文24.4.16 茂岡
⑳ 1‑21 大村長寺之前 1石 代 弘 治3.3.2 康 久
⑳ 1̲一̀L3 成願寺前 3斗 代(納 の
升)
弘 治3,3,19 山 田野播磨守満
⑳ 1‑25 大 谷 藪 か ハ ナ 8斗 代+失 墜 景 料=2石1貫 分
永 禄2.5.13 竹 嶋 石 見 入 道盛
重 、御 千 代 女
⑫ 1‑26 延 命 寺 之 北 う ら 1石 代 之 内2斗
代 永 禄5.3.24 上 嶋八郎 左衛門
⑬ 1‑29 岡之前 4斗 代 永 禄7.3.fi 尉康氏真讃
⑳ 1‑30 6斗 代(納 の
升)
永 禄11.4.29 祐盛
⑮ 1‑32 中野之 畠 買切 天 正8.3.7
池 山藤 四郎景勝
⑯ ]‑33 松 山 殿 前(字 か う た に)
3斗 代 天 正10,9.12 池 山藤四郎景勝
⑳ 1‑,34 大 お き之 内 五 タ ン田 2斗 代 年 未 詳7.5 岡村
琳"
毅 蝶 蟻 た 物 簾 地 字 ・ 斗 代 蕪 さ 繋 れ に 作 人 名 の 巽 あ 葺 代 竺 斗 か ら 一 琿 の 間 皿
に分布していて︑とくに二斗〜八斗が多い︒
そのごく簡潔な譲形式からみて・瀬罠も指摘されているように︑これらの寄進状が在地にきわめて薯した性
格を持っていることをうかがわせている.つまり示字○・○斗代Lと記すだけで︑寄進する方もされる方もその
物件の内容を十分に把握できた︑ということがいえよう︒
寄進の物件の所在地地字(幸﹁寄進場所﹂︑図参照)は︑地名等が確認できるものから推定するとa成願寺
のある上ノ村内に比定されるもの︑b成願寺からかなり離れた場所に比定されるもの︑の両者がある.たζえばaで
は・﹁+善寺﹂が挙げら舞これは成願寺から西に一キ・ほどの李+善寺付近にあたる.史料には﹁+せん寺宮
之西﹂﹁+善書之前﹂などとあり︑一帯が集中的に寄進されている.同様に字示山・殿向L﹁小山︒殿前﹂は︑成
願寺から東に五︒︒イトルほどの︑現在の示山・L付近であろう.また字﹁ハイカイト﹂晟願蠕﹂は︑いず
罷 糧 纏 傷 務 影 躯 陛 晒 紅 楚 緊 騎常 鑓 観 %謹 麓 調 縣 処 鎖翻
進されている︒
明 応 二 隻 西 九 四 ) 九 旦 吾 付 の 示 倭 百 姓 衆 起 請 文 L に ﹁ 小 山 ・ 警 ﹂ ﹁ 大 村 衆 二 大 仰 衆 ﹂ 三 賀 野 衆 ﹂ が
署名していることを考えると・これらの地がすでに成願寺と密接な関係を持っていたことがわかる..﹂の事実は起請
文の作成意図や作成主体を考える際に︑よく考慮する必要があろう︒
また・寄進状には・寄進物件の由来が記されている場合がある(表∴土地由来L).﹁おやより相伝の下地﹂﹁中森
殿より買徳の田地﹂などがそれで︑相伝されたものは死買得されたものが一・件であり︑残りの二六件には由来
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藍 ・ 妻,
一
繰wぞ
(国土 地 理 院 発 行5万 分 の1地 形 図:津 西部 ・二本 木 に加 筆)
の記撃ない・由来を明記することは︑寄進物件が確かな手続きのもとで取得された.﹂とを示し︑特に買得された物
件の寄進状のなかには・もとの買得の際の売券が︑ともに成願寺に移されてきているものがある.いわゆる手継証文
である・﹁資藷記録﹂中には・成願寺が宛所ではない売券が六通あり︑うち五通については関係文圭日もあり︑物件
の移動のあり方を復元することができる︒
116
2︑寄進者について
寄進状はどのような人々によって出されたのか(表1﹁差出﹂参照)︒
まず・差史を姓ごとに寄進の回数の多いものからみると︑もっとも多いのが岸田姓で六回︑ついで三回の丹後入
道・森長︑二回の森田・新・山田播磨守満景・池山藤四郎景勝となっている︒
岸田姓には・岸田定口(享禄二年︑表あ⑩[以下の丸囲み数字も表あ番.募照]資2些︑岸田定清(委五
年・⑭資‑h麗)・岸田八郎左衛門尉吉定(天文七年︑⑰資ゐ)︑岸田内井生妙盛(天文毛年︑⑳資2‑23)の寄
進状がある・さらに享禄三年の岸田宛売券(資2立︑天文三年岸田八郎左衛門尉殿宛請文(資‑‑4)の存在から︑
少なくとも死年間に六回の寄進がなされている・﹂とが智れ︑岸田は一族そろって成願寺に荒している様子であ
る︒この岸田とは︑一体どのような一族なのであろうか︒
享禄二年(⑩資21皿)に﹁+せんしおき二斗岱を寄進した岸田定口は︑その手継売券(資2︑E)では﹁くら
本岸田殿﹂とされ・天文五年(⑭資ー8)に四斗代の寄進をした岸田定清も︑手継売券(資‑︑7)で﹁羅本
岸田殿﹂とされ・享禄三年四月吾付の中森某売券(資2立も﹁御蔵本岸田殿﹂に宛てられている.
また・大永七年五月の売券(資2些に﹁井生キシタ八郎左衛門殿﹂︑大永八年指置状(資2h)に﹁い,つ八郎
左衛門殿﹂・天文七年の寄進状(⑰亨些には﹁井生岸田八郎左衛門尉士︒定﹂とあり︑奎毛年五月寄進状
戦国期の在地寺院 と地域社会
(⑳資2,器)にも犀田内井生妙盛Lとある.井生とは︑成願寺から南東方向に雲出川を越えて直線で約六キ︒ほどの集落.井生(現︑;心郡;心町)であり︑岸墨族はこの地を根拠にしていた晟本Lであったと考えられる・﹃南紀徳川史﹄の﹁元禄+四年巳正月御改地士姓名﹂には犀田藤兵衛井生﹂とあり・岸田は紀州藩の時代になっ
概 鍵 悔 轡 D鍵 醍 麟 瞬雛 鶏 踵 捜韓 縫 繕 難 肋択 艇 矯 簿
綾 鱗 得 る . .︑ の .︑ と は ﹁資 堂 田 記 録 ﹂ の 時 代 の 山序 田 屡 の 成 願 寺 に 対 す る 盛 ん な 寄 進 行 奪 え る う え で 墨
(雛 罷 瀦 醗 ㍗ 館 罎 羅 魏 鷲 ボ鞭 脳 倒態 蝦 擁 舗 ︑軽 耀 験 羅 壁 ︑嬬
とされる一族である︒
衆藤 融 隷 鍍 鞭 蕪 畷薯 真隷 糎 麟 纒 ひ螢 総 黙
播磨守嚢﹂は︑成願寺から三キロほど南下した出野に関わりがある人物であろ・つと推定され・﹁森胆三池山藤四郎景墜については不明である.また︑森長・新のほかに︑﹃勢州軍記﹄三小倭七人衆﹂とされた者の名字を寄進者のなかに探すと﹁茂岡﹂﹁岡村﹂がおり︑また︑小泉(⑳資‑)は小倭衆ではないが大仰の侍衆であるとみられ︑真盛はこの大仰小泉氏の出身とされる︒
.﹂のよ.つに︑寄進者のなかには︑藝州軍記﹄などに小倭衆として名が見出されるものがあり・また多くが名字と実名を名乗り︑なかには豊前L﹁播辱﹂﹁丹後入道﹂﹁治部少魎﹁修理進﹂のように官途名や受領名を名乗るものがいる..﹂れらの.﹂とを考えムロわせると︑成願寺に対する寄進者は︑在地の有徳人や侍衆とその屡を中心としてい
⁝
た︑と考えられる︒
118
3︑寄進状にみる供養
隷 籍 鰻 鰐 響 鐵 欝 臨麹鰐 綴 談 鍵畿 離 曝 霧 鞘
だけにみられるものではな麺ここではそのこと自体が︑成願寺の特徴をよ‑物語っているよ,つに思われる.
まず表︑の﹁供養関係文言﹂をみると︑それぞれの寄進者の個々の事情によって︑寺に依頼する供養の内容︑実施
月日・被供馨の名や命日などが・細を童日き分けられている.こρ︑とは逆に成願寺の側が︑個々の寄薯の希望
にきめ細かい対応をしていた︑ということがいえる︒例を挙げよう︒
○史料1(⑰資1‑10)
(前略)
於現世二逆修・未来にてハ善処為︑寄進申処実正明白也︑就其候てハ︑現在にてハニきの彼岸霊供︑御心得被成
候て可給候・又死奎候ハ・︑位牌立毎月蓉﹃霊供︑井しやう月二霊供︑同風呂御たかせ候て可給候︑
(後略)
ここで・寄薯は・自分が死去する前の供養(逆修)として︑二季(春秋)の彼岸に霊供(死者の霊に供.える物)
をあげること・死去の後は位牌を立て・毎月のA叩日と︑祥月命日に霊供をあげ︑風呂をを.﹂とを︑袋として希望
している︒ほかに﹁為我等︑二季之彼岸二︑念仏を常住衆こて御申候て可給候︑我等かいはひを立られ候て給候﹂(②資1,5)のように︑二季の彼岸には位牌を立て︑常住衆に念仏をあげてもらうことを希望している例もある︒このさつに︑人々は寺に対し︑行なってほしい供養の儀礼を細かく列挙しているワ﹂とが︑成願寺の寄進状の大きな特徴
である︒
(ママ港ほとんどの寄進状に記されているのが︑供養してほしい人物の命日である︒たとえば・﹁為妙祐禅尼寄進申候名日拾月八日にて候︑然共毎月八日二預御吊候﹂(⑨資ーB)︑毒月奇預御吊候︑(斧ハ七月廿九日にて候L(⑦資
2些などのよ,つに︑供養は特定の個人のために行なわれ︑亡‑なったその月日である﹁正名日(いわゆる祥月ム叩
日)﹂や︑毎月の命日が強く意識されている︒
また︑(鰭秋三月︑八月)の彼岸も︑と乏逆修供養には轟な日であ匙.さきに調査を行なった成願寺境内の看五輪塔のなかに︑三月時正中日L﹁天正±些百旦﹁永禄+年二月+三という銘のものがあり・五讐をたてる際にも彼岸会とい・つものが意識されていたことがうかがえる︒ここから︑造塔と︑寄進状にみられる多様な
供養儀礼との関わりもうかがわれ︑五輪塔に刻まれた年月日の意味を考えるうえでも興味深い︒
さらに︑"風呂をたく〃とい・つ供養儀礼がある.前掲の史料‑のほか︑﹁妙寿三月+八日二死去仕候間・其日其こお
ひて︑風呂一たき︑被仰付候て可給候﹂(⑫資ー%)︑三月六日之正名日二︑風呂可有候L(⑳資‑‑四)のように・祥月A叩日に風呂をたく.︑とが求められている.葉聖氏の研究によ麓︑中世の東寺の﹁大湯屋﹂では・追善仏事
に風呂がたかれたと?つ︒また︑武田勝蔵氏によれば︑施浴の場合︑浴室には回向される故人の位牌が安置してあり・
羅 好繁 輪 論 耀 雛 肌籍 鴇 難 蕎 錐 鷹 蒔墜 ・も ︑同 じー な
以上のよ,つな多様な供養は︑自分自身の逆修供養の場合をのぞき︑ほとんどの場合︑故人となった寄進者のつれあ
い尋子などの親族のために行なわれている.とくに︑子が親のために供養を依頼するヲ﹂とは︑その供黍親.m
子・その子⁝⁝と繰り返されることを予想させる︒
実際祐円という人物は・天文七年二五一天)に﹁+善寺宮之北三斗代小舛同ふる市は之白田壱斗代︑小舛二
斗三舛・ニケ所ヲ合四斗三舛﹂を﹁徳祐禅門と祐円禅尼と両人之霊供﹂のために寄進している(⑱資‑‑n)︒その文
書奥には茗早合徳祐禅門逆修祐円禅尼﹂と記されており︑このことから︑祐円はおそ含徳祐の妻であり︑
先に死んだ夫徳祐と・祐胃身の逆修の供養のために寄進を行なっている.﹂とがわかる.その八年後の天文蓋年
(一五三八)には・祐泉という人物が︑三親井自身逆修﹂のためとして︑﹁得祐禅定門霊供田﹂﹁祐円禅定尼霊供米﹂
﹁祐泉皆尼逆修寄進分﹂をそれぞれ寄進している(⑳資2‑3)..﹂れは︑漢字表記と出家位が多少異なるものの︑
読みは﹁とくゆう﹂﹁ゆうえん﹂であり︑寄進地も﹁古市場﹂﹁+善寺﹂と近い場所であを﹂とから︑祐泉はおそらく
前出の天文七年寄進状(⑱資‑h)の徳祐・祐円の子供で︑祐泉自身と両親の追善のために︑寄進を行なったもの
と考えられる︒
このように・妻は夫のため・夫は妻のため︑また子は親のため︑追善供養を︑また親も自分のため逆修の供養を行
ない・それが親から子・孫と繰り返され︑親は子に自分の死後︑きちんと追善供養をしてくれるフ﹂とを望み︑その子
もまた自身の子にそれを望み⁝というように︑供養されるこ許極楽往生する.﹂とへの強い希求が︑自らの蒙L
という概念→先程々︑子々孫々)を蕪させたとも考えられる.この.﹂とは同時娠願寺側にとっても︑供養が
その家の代々に意識されている限り︑寄進物件は安定していることを意味するわけである︒
以上のように・寄進状をみていくと︑寄進者は︑亡き親族や自分の死後が幸福なものであ登﹂とを強く願っており︑
そのためにさまざまな供毒礼を寺に依頼していることがわかる︒このフ﹂とは同時に︑寄進者の多彩な願望に応えよ
うとして供養儀礼を設定していく︑成願寺側の︑いわば営業努力があっな︑とをも推定させる︒そして︑人々は希望
の実現を確実なものにするため︑成願寺に寄進をする︒その寄進者と成願寺との関係が反映されているのが︑三七通
の寄進状であるといえる︒
この時期の成願寺とそれを取り巻く人々の間には︑これらの寄進状に象徴されるような関係が基本的に存在してい
た︒小倭郷のさまざまな問題を考えるときに︑この点を捨象してはならない︒
二 寄 進 の 構 造 i 手 継 文 書 の 分 析 を 中 心 に
前述したように︑﹁資堂田記録﹂全五九通のなかには︑三七通の寄進状がある︒そのうち==通は寄進状だけが残
されているものであるが︑六通については寄進に至るまでの関係文書(売券等)とともに残されている(表2・A
〜E参照)︒A〜Eは寄進状と売券がセットになった・いわゆる手継証文で墾・
これらの手継証文から︑①ある物件を︑その持ち主が売却︑②その際︑売券は物件とともに買い主に移動︑③買い
主は︑買った物件を成願寺に寄進︑④その際︑寄進した物件を買得した際の売券も︑寄進状とともに成願寺に移動︑
という{連の流れを想定することができる︒﹁資堂田記録﹂のなかに多くみられるバラの寄進状や売券は︑本来は手
継証文として各々セットで存在し︑物件が成願寺に寄進されたときに︑一括して寺に渡されたが︑紛失などにより一
枚だけ残されたものと推定される︒
ここでは︑とくに寄進の背景を知ることができる手継証文に注目し︑それを分析することにより︑寄進に至る物件
や文書︑関係者の動きを復元し︑成願寺への寄進行為の構造を明らかにしたい︒
売買内容 → 売 買 先 指置状 寄進状 寄進者 寄 進 年 月 日 寄 進 内 容* → 寄 進 先 指置状 現 米2石4斗 → くら本岸
田殿
⑩ 岸田定口 享 禄2.9.12
(1529)
→ 成 願 寺
現 米3石5斗 → 御 蔵 本 岸 田 殿
⑭ 岸 田定清 天 文5.閏10.14 (1536}
→ 成 願 寺
→ 岸 田吉 定 2‑11 ⑰ 岸 田吉定 天 文7.1222
(1538)
1石2斗 代 の う ち6斗 代
→ 成願 寺
現 米2石1斗 → 珊 書 記 ⑳ 正珊 天 文7.12.20
{1538)
→ 成 願 寺 1‑13
1石4斗 代 を 現 米11石2 斗 に て
→ 成 願 寺 1‑i5 ⑳ 岸 田妙盛 天 文X7.5.16
(1548)
1石4斗 代 の うち3斗5升 代
→ 成 願 寺
⑳ 竹 嶋 石 見 入 道 盛 重 ・御 千 代 女
永 禄2.5.13 (1559)
→ 成 願 寺 1‑33
7石 → 成 願 寺 1‑22
*「 寄 進 内 容 」 は 「移 動物 件 」 と異 な る内 容 の 場 合 の み 記 した
1︑買得から寄進へ
まず表2のAの場合は︑中森某がある物件を現米二石四
斗で﹁くら本岸田殿﹂に売却し︑岸田はこれをその三カ月
後に成願寺に寄進している︒この場合は︑一般的なかたち
で売券と寄進状がセットで成願寺に残されたものであるが︑
三カ月という短い期間で買得←寄進が行なわれているとい
う点︑および寄進者としてあらわれる﹁くら本11蔵本﹂岸
田という存在に注目できよう︒また︑Cの場合は︑瑞聖寺
が久岡から借金をしたカタとして︑久岡に物件を手放し︑
その一カ月後に久岡が︑岸田吉定に売却している︒その一
年後に指置状(徳政衆が徳政を免除することを保証した文
書)が︑﹁いう(井生)八郎左衛門﹂11岸田吉定と﹁口入
久岡殿﹂宛に出されており︑最終的にこの物件はその一〇
年後に岸田吉定から成願寺へ寄進されている(半分は大村
称名寺宛)︒この手継証文では︑物件が瑞聖寺←久岡︑久
岡←岸田というかたちで二度の売却を経ている︒最終的に
岸田が成願寺に差し出した寄進状には︑幾重にも重ねて供
養することを成願寺に依頼していることから︑岸田が成願
寺に対する信仰が篤く︑買得した物件を多く成願寺に寄進
122
表2「 資 堂 田記 録 」 手 継 証 文 か らみ た 物件 の 移 動
移動物件 売券 売 り主 売 買 年 月 日 売買 内容 → 売 買 先 売券 売 り主 売 買 年 月 日 A 十 せ ん しお き
2斗 代
2‑12 中森某 享 禄2.6.22
0529) B 字 道 立 ノ 西4
斗代
1‑7 中森 某 天 文5.閏10.14
{153fi)
C 十 善 神 コ ウ ノ 本1石2斗 代
zzo 瑞 聖寺 納所
大 永7.5.5 借 物 過 分 の た め
→ 久 岡 2‑7 久 岡定秀 大 永7,6.7 (1527) D 三 賀 野 源 氏 垣
内2斗 代
2‑18 刑部大夫 大 永8.2.21
(1528) E 大村 す み あな
1石4斗 代
1‑3 豊 前 ・森 室 天 文16.3.1 (1547}
F 大 谷 やぶ が は な8斗代+失 墜 料=2石1貫 文 G 大 村 堂 谷1石2 斗 代(字 う し か い つ か)
2‑22 山田野北 田 弥九郎
天 文24.10.15 (1555)
している姿をうかがうことができる︒
また︑多少複雑な寄進の背景がうかがわれる次のような
事例がある︒妙心という女性が能米(玄米)を成願寺に寄
進した︒ところがそれは単なる寄進ではなく︑寺の庫裡を
造る際に貸した費用や︑本堂の屋根を葺くのに際して用立
てた分を︑寄進米というかたちにして︑﹁本利共二(元本
と利子を合わせた分として)十二石五斗﹂を寄進したもの
である(⑪資1‑2)︒ここで︑寺への貸付が︑最終的に寄
進というかたちになる事例を知ることができる︒
このような事例として︑もう一つの場合をみたい(表2
のE)︒この事例は︑天文一六年三月一日に豊前と森室が︑
﹁大村すみあな壱石四斗代﹂を﹁現米十壱石二斗﹂で成願
寺に売却していることが︑その前提となる(資1‑3)︒そ
してその一年後の日付で︑この物件のうちの一部とみられ
るものについての寄進状が存在する︒
○史料2(⑳資2‑23)
ハ ヨ ﹁寄進状成願寺妙盛﹂ マこ
永 代 売 得 至 寄 進 申 霊 供 田 之 事
合参斗五升代者有坪大村すミあな也/一石四斗成之内より所出候(異筆①﹁謹文ハ成願寺二あり﹂
ママ 右件下地者︑依有要用︑現米三石以永代三斗五升代売徳仕候上ハ︑子々孫々二置違乱煩背有間敷候︑若天下一同
之 徳 政 行 候 ㌔ 成 願 寺 よ り 所 望 申 候 間 無 別 義 候 毎 月 度 之 霊 供 毎 日 御 回 向 奉 頼 候 黒 後 日 状 如 住
124
岸田内井生天文十七年戦五月十六日妙盛
当住持
カ
﹁南無阿弥陀仏真快(花押)﹂
成願寺参
この史料によれば︑天文一七年五月一六日に︑岸田内井生妙盛が﹁参斗五升代﹂の物件を︑米三石で買得したうえ
で︑すぐに成願寺に寄進している︒この物件は︑﹁大村すみあな壱石四斗代﹂のうちの﹁参斗五升代﹂とある︒とこ
ろが︑﹁大村すみあな壱石四斗代﹂については︑先述のように一年前の天文一六年に成願寺に売却されている︒﹁護文
ハ成願寺二あり﹂(傍線部①)という注記があることから︑この物件はすでに成願寺の所有となっているものと︑同
一物件であることが確認できる︒つまり妙盛は︑成願寺が一年前から所有していた﹁大村すみあな壱石四斗代﹂のう
ちの一部分11﹁参斗五升代﹂の物件を成願寺から買い︑即時に成願寺に寄進した︑という動きがみられる︒
このような複雑な事態を解く鍵は︑﹁成願寺より所望申候﹂(傍線部②)にある︒ここから︑この買得は成願寺が望
ママ んだ事態であることがわかる︒そして事書には︑﹁永代売得至寄進申霊供田之事﹂とあることから︑妙盛は︑成願寺
が望んだとおりに︑成願寺所有の物件を買い︑それを成願寺に寄進した︑ということになる︒
これはおそらく︑何らかの事情で成願寺に米が必要となり︑その捻出のために手持ちの物件のうちの一部を妙盛に
買い取ってもらうことにし︑最終的には妙盛がその分を寄進するというかたちで落着した︑ということになったもの
と思われる︒妙盛としては︑下地の寄進と引き換えに︑﹁毎月一度之霊供毎日御回向﹂を半水久的に成願寺に依頼し・
これは成願寺︑妙盛どちらにとってもメリットのある方法であったといえる︒
このような複雑な寄進行為の背景には︑寄進者側の願いとともに︑寺側の経済事情も存在し︑両者のすり合わせの
結果が︑このような寄進状のかたちになったもの︑と考えられる︒
2︑売寄進
○史料3(資1‑7)
永代売渡申下地之事
ミ合四斗Bハ字道立ノ西
右件田地者︑依要用有︑
子々孫々御知行可有候︑ 四至南ハ道/東ハ茶エン限/北バク子ヲ限/西モク子ヲカキリ
現米三石五斗二売渡申処実正也︑天下一同之大法行候共︑
傍為後日謹文如件︑
売主小倭荘
ロ天文五靹丙潤拾月十四日中森(花押)
御 蔵 本 岸 田 殿
違乱煩之儀一言申間敷候︑於○史料4(⑭資1‑8)
中森殿よりはいとく申候四斗代︑為秀円茶とう︑永代しやうくわん寺へきしん申候︑行末まてとかく申物有間敷
候︑伍きしん状如件
岸田
天文五年輌潤十月十四日定清(花押)
126
この二つの史料(表2のB)は︑﹁資堂田記録﹂上巻に︑並べて貼り継がれている︒史料3から︑天文五年閏一〇
月一四日に・中森某が﹁御蔵本岸田殿﹂に対し︑四斗代の物件を三石五斗で売却したことが知られ︑そして史料4か
らは︑岸田定清が﹁中森殿よりはいとく(買得)申候四斗代﹂を︑﹁秀円茶とう(湯)﹂のために︑成願寺へ寄進して
いることがわかる︒史料3には︑傍線部のように物件の四至(土地の東西南北の境界のしるし11物件所在地の指定)
が記載され・史料4には︑その記載はないが︑物件がともに四斗代である.﹂と︑史料4に中森殿より買得した巳日が書
かれていること・なによりも二つの史料が︑同一年月日に作成されていることから︑この二通の史料は関連したもの
であるといえる︒この二通の文書は︑一見ふつうの手継証文のようにみえるが︑注立凹心したいのは売券と寄進状が同一
日付であることである・もちろんこの場合も︑手継証文であることには変わりはないが︑寄進者が︑買得した物件を︑
即日に寄進するということは︑寄進者が買得する際に︑すでに寄進の止臼心志を持っていたとい・つことである︒つま2﹂
の買得は・寄進を前提にしていた︑ということができる︒このような売却と寄進のあり方は︑どのさつな事態が北目景
にあったのだろうか︒
この場合︑二つのケースが想定できる︒ひとつには︑岸田に寄進の立凹心志があったものの︑適当な物件を持ち合わせ
ていなかったので︑中森から物件を買い︑即刻成願寺に寄進した︑という考え方である︒
またもうひとつ考えられるのは︑中森には成願寺に寄進する意志があったが︑その経済的な余裕がなく︑手持ちの
物件を岸田に売却し︑岸田は即日成願寺に寄進した︒中森は岸田が成願寺に寄進することを知ったうえで︑岸田に売
り︑岸田がその物件を寄進することで︑中森自らの寄進の気持ちもかなえようとした︑という場合である︒
前者とした場合︑岸田に成願寺に対する信仰があったことが前提となるが︑そうすると史料3の宛所﹁御蔵本岸田
殿﹂の捉え方が問題となる︒蔵本目金融業者としての岸田と︑信仰心をもった寄進者岸田を︑どのように考え合わせ
るか︑という点がポイントとなろう︒
また後者と考えた場合︑中森の希望はかなえられるが︑岸田がなぜ中森の意志を成就するために︑わざわざ買得し
てまで寄進をしたのか︑ということの説明がつかない︒ここでも前者の場合と同様に︑蔵本岸田と寄進者岸田をどう
考えるか︑問題となる︒
そこでこの二通を再度検討したい︒先述のように︑対象となっている物件はともに四斗代で︑売券には四至がある
が︑寄進状には四至がない︒このことから中森が売却したのは下地(土地そのもの)と上分(下地から生みだされる
加地子得分)で︑それを買得した岸田は︑下地と自らの得分を留保しつつ︑上分の﹁部を成願寺に寄進した・とみる
ことができよう︒事態の背景については︑想定した二つのケースいずれとも判断できないが︑移動した物件をこのよ
うに考えれば︑蔵本岸田と︑寄進者岸田は両立することが可能となる︒下地と得分の一部を保有することで自ら経済的に利潤をあげることができ︑同時に得分の一部を茶湯料として成願寺に寄進することができるのである︒
このような場合を︑村石正行氏は費得即時寄進型売藩﹂とし・寄進の意志があるものの経済的男がないので・
仕方なく物件を第三者(仲介者)に買い取ってもらい︑寄進の合力をしてもらう行為をさす・としている︒
この場合︑経済的に力のないものでも寄進が可能となり︑それは寺にとっては寄進者層の拡大を可能とする︒村石
氏のいう第三者は︑史料3・4の︑蔵本であり︑寄進者でもある岸田ということになる︒
成願寺への寄進行為には︑単純な買得←寄進だけではなく︑岸田のような存在を前提とした
テムも行なわれていた︒
ここで・売寄進の例をもうひとつみたい︒ただしこれは手継証文が残っていない︒ ﹁売寄進﹂というシス
史料5(⑳資1‑1)
ハ カ ﹁段銭八文下リ︑是ハ三賀野中嶋方へ出ル也﹂
レ永代寄口口田地之事
合五斗代舛ハ納︑在所ハ小倭荘大沖岡之前/ヤツメカイト也︑作人ハ岡兵衛大夫是也︑
口之物壱舛是有也︑
① 執 .誹 比 丘 尼 買 籟 噸 為 後 世 韮 .据 大 仰 常 福 寺 泉 代 寄 進 申 処 襲 正 明 自 若 於 此 遍
申者在ハ︑盗人之罪科可被行候︑ー但我等一期ハ︑知行可申候︑為後日︑証文□□︑
天 文 + 六 年 愁 ノ ニ 月 廿 九 日 ③ 蜀 眉
若又常福寺退転候者︑成願寺江寄進申候︑不可有違乱候也︑
︑繋
小泉(花押)
倒 劉
以上三人ト定也大仰常福寺参
違 乱 煩
128
この文書はもともと大仰の常福寺宛の寄進状であり︑﹁若又常福寺退転候者︑成願寺江寄進申候﹂とあることから・常福寺退転のため︑寄進状が物件とともに成願寺に移動したものと思われる︒この文書は日下の・本来ならば差出者
が記載される場所に﹁盛林比丘尼﹂(傍線部③)とあるから︑一見すると盛林比丘尼の寄進状のようにみえるのであ るが︑傍線部①に﹁彼下地口曝林比丘尼買徳私領﹂とあり︑寄進物件がもともと盛林比丘尼所有のもので︑それが買得され寄進されな︑とがわかる︒そして︑文末には﹁寄進旦那之事小泉(花押)呈杉室以上三人上疋
也﹂(傍線部④)とあることから︑この寄進をしたのは文末に記載された﹁小泉﹂﹁与一﹂﹁杉室﹂の三人の﹁寄進旦
那﹂であると考えられよう︒ただそうなると︑日下に署名した﹁盛林比丘尼﹂の位置づけが問題となる︒
この文書の場合にも︑売寄進という状況を想定したい︒﹁大沖岡之前ヤッメカイト五斗代﹂の物件はさきにみ
たように︑元来︑盛林比丘尼が所有していたが︑それを﹁寄進旦那﹂である三人が買得した︒そして大仰の常福寺へ
寄進するのであるが︑すぐに寄進するのではなく︑﹁但我等一期ハ︑知行可申候﹂(傍線部②)とあるように︑三人の
死後に寄進する︑という条件つきの寄進であった︒
おそらく盛林は︑売却した物件が︑﹁寄進旦那﹂を通じて常福寺に寄進されることを︑はじめから知ったうえで売却したのであろ・つ︒.﹂れは︑ただの売却ではなく︑いわば半分売却半分寄進ということであり盛林は・寄進の気持
ちはあったものの︑全面的に寄進してしまう財力がなかったのであるが︑寄進旦那に売却することで︑一定の対価を
獲得し︑さらに半分とはいえ寄進の意志を遂げることができたといえる︒日下の署名はそのことをあらわしていると
考えられる︒
芳︑﹁寄進旦那﹂の方でも︑本来寄進の気持ちがある盛林の土地を買得したのは︑そもそも蓉進旦那Lの側に
常福寺あるいは成願寺に対する檀那として奉加の気持ちのあったことが前提であり︑そのことは︑﹁但我等一期ハ︑
知行可申候†生きている間は知行するが死後には寄進をする︑とい・つ茎コロにもあらわれている︒さらに︑彼らが支
払った分については︑﹁一期﹂知行することで回収できるわけである︒
以上・手継証文を中心にみていくと︑一見同じようにみえる寄進行為にも︑さまざまなパターンのあったことがわ
かる・まず・相伝の物件の寄進のほか︑買得した物件の寄進がある︒また︑買得蓉進と?つ場ムロのなかにも︑寺の
所 鞭 舘 轟 欝 震 "鰭 嫡 御 が に 売 碧 そ の 人 慰 進 し て も う つ場 合 ⊥ 冗寄 書 葛 合
がある・これも・(‑)売却即日寄進というかたちで︑下地と上分を売却し︑その・つちの上分の一部を寄進する場△口︑
(2)売却された物件を仲介者が一期の間知行し︑その後寄進する場合︑がある︒(2)の場合︑知行している問にあ
がった上分で買得した値は取り戻すことができることから︑寄進希望者に経済的な余裕がないなどの理由が考.をれ
る︒
とくに売寄進は︑経済的余裕のない人もある程度の寄進を行なうことができるシステムとして︑寄進者層の拡大を
可能にする・成願寺は︑笙章でみたように︑多様な供養儀礼を里日心して信者を募るだけでなく︑おそらく岸田や
﹁寄進旦那﹂のような仲介者の存在豊剛提として︑寄進方法の多様化を行ない︑成願寺に対する寄進者の増加を立.薗
したものと考えられよう︒
130
三 成 願 寺 と 地 域 社 会
成願寺に対する寄進は︑一通りの単純なかたちではなく︑一種の仲介者の存在が前提となったシろアムもあった.
そこで︑この章ではこのようなシステムのなかで︑成願寺を取り巻き︑一定の機能を担っていた人々の存在に注目し
てみたい︒
1︑成願寺を支える人々H檀方
(1)寄進の代理・仲介
成願寺に対する寄進を売寄進というかたちで行なう場合︑寺と寄進希望者の間に介在し︑さまざまな条件を調整す
る役割を担う人物がいた︒これは史料5でみたように︑﹁寄進旦那﹂というかたちで︑寄進希望者の意志を尊重しつ
つ買得し︑自らが死ぬまではその物件を知行して︑死後に寺へ寄進をする︑という例で知ることができる︒また・史
料3.4の蔵本岸田の存在も︑本来の寄進者の意をうけて︑いわば代理で寄進を行なっているともみられる︒
このように︑さまざまな事情をもつ寄進者の仲介者となり︑売寄進というかたちを用いて︑本来の寄進者の代理として成願寺に寄進を行なう者たちの存在を︑寺をめぐる地域社会に確認することができる︒
(2)寺の財産管理
寺には寄進などで集まってくる財産の管理を行なう人々も存在した︒
○史料6(資2‑10)
へ ﹁判代之状岸田八郎左衛門尉﹂
永代売渡申候下地之事
在 所 囎 纐 橋 韓 壱 石 二 斗 代
右件下地者︑借物過分候へ共︑御佗事申候て︑永代進之候処︑実正明白也︑為其タン方之はんをと﹀のへ進之候︑
天下大法徳政行候共︑於後日︑不可有相違候︑
大永七年釘五月五日宮崎(花押)
臼木(花押)
森地(花押)
瑞聖寺納所正迎(花押) 傍証文如件︑
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久岡殿参
この史料6は手継証文(表2のC)の一部で︑瑞聖寺納所が︑借物が増えたために久岡に下地を売却した際の売券
であるが・傍線部に﹁タン方之はんをと﹀のへ﹂とある︒またこの物件は一カ月後に久岡から岸田に転売されてい
翫縄︑この際の売券でも﹁檀方と調候て﹂と明記されており︑瑞聖寺の財産を処分する際には﹁檀方﹂の判が必要で
あったことが知られる︒実際︑史料6の︑宮崎・臼木・森地の三人の署判は︑この﹁タン方之はん﹂であると考えら
れる︒また︑天文六年の森長康弘寄進状(⑯資2‑4)にも︑寄進する物件について﹁此田地者︑真寿存生之時︑瑞
聖寺ヨリ︑樋か瑛料︑永代買徳仕田地二て候﹂(傍点筆者)とあり︑寺所有の財産の処理に﹁檀方﹂が深く関与してい
たことがうかがえる︒以上は瑞聖寺の例であるが︑おそらく成願寺の場合も︑同様の状況であったものと想定してよ
いであろう︒また・﹁檀方﹂と明記されてはいないが︑さきにみたように︑成願寺が普請などを行なう際の費用や入
用を用立てて・寺の財政をさまざまなかたちで支える人々の存在も見逃せない︒財産の処分だけでなく︑寺が必要と
する費用の工面なども行なったとみられる︒
(3)寄進物件の保証
次の史料7は︑祐泉が︑自分の両親と︑自らの逆修のために寄進をしている寄進状である︒
○史料7(⑳資2‑3)
為二親井自身逆修成願寺江寄進申下地之事(中略)
右件下地︑何茂末代此三人霊供料候︑若就此田地︑自何方も違乱之儀候者︑
而︑寄附之事候間︑永代不易︑可預御廻向候︑伍為後日寄進状如件︑
懸 入 候
西屋正忠(花押)
天 文 十 五 年 柄 七 月 九 日 祐 泉 比 丘
中康久(花押)まず︑右の傍線部に注意したい︒ここではもし寄進物件に何らかの違乱が生じた場合︑それを処理する人物として︑晟願寺旦方Lの薪殿﹂と﹁中山殿﹂が登場する︒ここで︑新殿・中山殿は︑寄進者である祐泉比丘(尼)の成願
寺への寄進行為を︑いわば保証する立場とみることができる︒文末の﹁西屋正忠﹂﹁中康久﹂も︑おそらくこの寄進行為を保証する意味で︑署判している貌とみられる.他の史料にも泉々新きしんたるへ篠寺相違之事讐
中山同宗四郎兄弟可然様縁らい候てL﹁万一子々孫ニヲゴァ︑違乱之事候煮森田方・森室出担兎角之儀可被申定候為某証耀頼入候﹂﹁此ことわりハ︑しやつ永之坊へ︑.﹂とねんごろに申候ことわり︑‑わし‑ハたんかうにて︑よきやうに﹂などのように︑寺に寄進された物件を﹁出相﹂い﹁談合﹂するなどして︑保証する立場の
存在があった︒
つまり成願寺はその地域と隔絶して存在していたのではなく︑寺の運営を遂行するに当たって︑寺を取り巻く地域
の人々が︑さまざまな役割を果たしていたことがわかる︒
これらの人々をとりあえず﹁檀方﹂とよび︑次に﹁檀方﹂が具体的に︑どのような人々であったのかをみていきた
い︒
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2︑檀方・徳政衆・老分衆
檀方は︑成願寺への運営に一定の役割を果たしている以上︑成願寺に帰依し︑奉加している人々であることはまず
間違いない︒そして次の史料に︑檀方のまた一方の側面をもみることができる︒
○史料8(老分衆盛純起請文)
﹁番外老分衆盛純起請文/就檀方中弓矢云々壱通﹂
議 膿 書 ) ① 老 分 衆
成願寺御同宿中盛.純﹂②就檀方中弓矢︑成願寺江御取替之儀申入候之処︑御腹立之由及承候︑尤之儀候間︑御無心之儀不申入候︑然者於
末代対成願寺二錐有何之公事出来︑一向造作之儀申儀不可有之候︑為其各々以清言申候条︑御迎之衆与被成御同
道︑早速御帰寺奉待候︑猶御使衆可被申候︑恐々謹言(以絃礎廿七日盛純(花押)
添も天照太神︑熊野三所権現︑白山権現︑其外日本大小神祇︑此儀不可有偽之者也︑価如件︑
福岡(花押)