ジ ( 柿)を移す ずっt声 現方 で夢 ら LTいた 農か 唐土 歯で人々が どt i, どレ l , 磨
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(2) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). 住す るのも豊かな暮 らしを求めて とされ る。つま り移動は生計の一部に組み込まれている。 なぜ な らカ レン族 はかつて ロングハ ウスに居住 し、毎年 ロングハ ウスを新 しく建て替 える ことで移動を繰 り返 してきたか らであるO. St ud. 上述の伝承 を読み替えれば、同 じロングハ ウスに居住 していた兄 と弟が ( たぶん父の死. ie s). そ して彼 らにとって小集団で移 り住む とい うことはジ ( 秤) を移す ことと同義であった。. によって)新たなロングハ ウスを建てることにな り、新天地へ と川 を越 えて渡ったが、結 局、別れてそれぞれが別の地に自分の ロングハ ウスを建てた とい うことになるだろ う。移. ign. 動 を核 とす る文化 ゆえに、移動 を続 ける方、すなわち弟に利 があるのは理解できる。そ し. re. てそれが兄でなく弟であるとい うのもまた彼 らに とって必然である。兄には父か ら継承す 弟のロング‑ クス‑入居することはできないか らである。. Fo. べき諸事があ り、それゆえに遠 くへはいけない。また兄がた とえ弟 に追いっいた として も、 調査当時にログハ ウスはもはや どこにも存在 しなかった。 しか しその痕跡は調査地にも. of. 残 されていた。 ロングハ ウスにはプロ ( bl aw) と呼ばれ る若い男性用の部屋があ り、来客. rs ity. はその部屋に宿泊 した とされるが ( Mar s hal1 922: 62)、葬式の 「 死者の唄」 で 「 プロはい つ もな ら死者の髪一本 も置 く空間はない. しか し、葬式な ら死者のための空間は十分ある」 と唄っている。村人は誰 もプロを見たことがない とい うが、かつて集落にプロと呼ばれ る. ive. 家があった とい う話は聞いたことがあると語 った。 12. Un. カ レン族のロングハ ウスについては 1 8世紀に来訪 したカ トリックの宣教師が ( タウング. 28・ 29)、さらにマーシャルが 20世紀初頭 ー山地部での存在 を)言及 してお り ( 伊藤 2006b:. ok yo. にバ ゴー ( ペグ‑)山地のロングハ ウスについて詳 しく記述 している ( Mar s hal1 922: 56・ 60) 0 ロングハ ウスはプロを含む 1 0‑20の部屋か らなっていた。そ して、ロングハ ウスの長 ( お さ)は毎年暑季 ( 3‑4月)に入 ると、新たな候補地を選択 して移動 し、そこに新 しいロン. (T. グハ ウスを建てたoハ ウスは 「 Hi(ヒ)」 と呼ばれ ( Mar s hal l1 922: 31 5)、13 ハ ウスを構 成 している部屋は 「ドゥ( deu)」 と呼ばれた。また同 じ頃にタイ側でもアンダー ソンが二村. is. のロング‑ ウスの存在 を確認 している ( n de A r B On1 923: 54・ 55) .それ以降、カ レン族のロ. es. ングハ ウスについての報告はなく、飯島が 1 960年代にメサ リアンにおいてその記憶がわず. Th. かなが ら残 されていた と記 しているだけである ( 飯島 1 971: 91 ) 0 ロングハ ウスがな くなっても 「ヒ」 と 「ドゥ」 とい う言葉がな くなったわけではない。. al. カ レン族の集落は 1 0‑20戸ほどの家か ら構成 されているが、その集落がジ (ヒ)と呼ばれ、. or. 家が ドゥと称 された。家は一間か らなる簡素な造 りで、家 (ドゥ) を寄せ集 めて建てれば. Do. ct. ロングハ ウス ( ジ)になる。カ レン族の集落 ( ジ)はまさにロングハ ウスの各部屋が独立. 同時期 に速水はワッジャン周辺の調査地でプロの存在が記憶 されていた と記 している ( Hayam土1992: 221)。. 12. 13. マーシャルは 「 Hi」 ( ヒ) と表記 しているが、/ ji: /( イ) と発音 された可能性が高いO調査地では / j/ が/ Z/‑変化 しているので / ji: /は/ z i: /( ジ) となるO. 98.
(3) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). した形態 を してい る。 カ レン族 の住居 の形態 は危険回避 を最優先 としていた。容易 に接近 できない よ うな森深. die. どである。 ロング‑ ウス もその一つであった と考 えられ る。それ は野獣 に対す る防御 だけ. s). い崖な どの立地だけでな く、竹や りの塀や、 ときに階段が 4メー トル もある高床式住居 な. St u. Re nar d2003: 2・ 3) 。飯 島はロングハ ウス でな く、外部 の侵入者 に対す る備 えで もあった ( の崩壊 を焼畑農業の停滞 による移動性 の低下ゆえ と推測 してい るが ( 飯島 1 971: 97)、ルイ スは ミャンマーで ロングハ ウスが崩壊 の一途 を辿 ったのは外敵の脅威 がな くなったゆえで. gn. Le wi s1 924: 401 45) Oロングハ ウスが 20世紀初頭 に姿を消 した とい う ある と指摘 している (. Fo re i. ことは、すでに外部者 か らの脅威 がな くなった とい うことであろ う。 カ レン居住地域 で ビ. 8世紀末に終蔦 してお り、英 国は 1 852年 に下 ミャ ルマ族、モ ン族、タイ諸族間の戦争 は 1 ンマーで植 民地統治を確立 してい る。 14 平和時に入 って、危険回避 の集合体 としての ロン グ‑ ウスが必要な くな り、 ドゥ ( 慕)が独立 して集落のジになったのであろ う。. of. ジは 「 ロングハ ウス」か ら 「 集落」‑ と形態 を変化 させた ことにな るが、それだけに留. ity. ま らなかった。 ジは さらに 「 集落」か ら 「 村落」‑ と変化 していった。移動 を前提 とす る 村落」‑の変化 である。 ロングハ ウスの長 が 小規模 の 「 集落 」か ら、定住 に軸足 を置 く 「. rs. ハ ウスの移動 を決定す るとマーシャル は記 しているが、 「 集落」‑ と変わったジにも同 じよ. ive. うにジコと呼ばれ る長 がい た。彼 は移動だけでな く、集落 にお けるさまざまな儀礼や行事. Un. を司っていた。 「 移動す る集落」か ら 「 定住す る村落」‑の変化 は ロングハ ウスの解体 ほ ど 一 目瞭然ではなかったが、ジの長 であるジコの権威低下や不在 とい う形で発現す ることに. yo. なる。. 共同体の長 であるヒコ ( ジコ)はカ レン族 の社会秩序 を維持す る要 の一つ として言及 さ. ok. Mar s ha l11 922: 1 43‑ 1 44)、 ミャンマーではデル タ地域‑の進出 も れ る存在 ではあったが (. (T. あって定住化がタイ よ り早 く始 まった。 また山地において も、英国植 民地政府 のもとで行. Mar 政単位 が整備 され、村 を新設す るにあたって政府 の許可が求 め られ るよ うになると (. is. s l l al1 945: 29)、集落の移動 もしだいに制限 され るよ うになった。そ して定住化が始 まる と、. es. ヒ ( ジ) も行政 区分 にお ける 「 村落」‑ と性質 を変 えていったのである。それ ゆえに ミャ. Th. ンマーにおいては、 との移動や ヒコについて詳 しい研究がな され なかったのであろ う。 一方、前進す るフロンテ ィアであったタイ側 では、ジは依然 と して移動 し続 けていた。. al. 945年頃には非常に広い範 囲で集落の移動が観察 されてい る。第二次大戦直後 に流 とくに 1. or. 行 した天然痘 がその原因であるが、 その後 も 1 960年代 まで頻繁 な移動が確認 されている( 岩. Do. ct. 田1 971 : 203、Ra j a1 986: 72‑ 74、Bo o nt o1 991 : 47) 。 タンスタ ッタ‑はメサ リアン郡の移動. は1 950年代 には終わっているとしているが、カ レン族の 「 丘隆地帯の村 にお ける不安定 さ と頻 繁 な分 裂 は、高地 カ レン族 人 口の広 範 囲 な分 散 を もた ら した 」 と し ( Kuns t adt e r. 1 979: 1 30)、それ を生 じさせ るメカニズムの一つ として 「 弟 あるいは分類的に弟 となる者の メサ リア ン ( Main工 一 〇〇ng ・ yee)の町 も 1829年 には荒れ果てて人が居住 していなかったが、1836年か ら 1876年の間 に家 の戸数 が 20戸 か ら 200戸 に増加 した と記 され てい る ( coloquhoun 1885:39)0. 14. 99.
(4) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). 宗教的権威 を受 け入れ られ ない」 こ とをあげている。 だが、 どこまでの範囲が受 け入れ ら. 1 97 0年代以降は、政府 の山地部族開発政策の施行 もあって、山地において集落 を自由に. ud ie. 9 80年代 に入 ると移動 を選択 しない集落 移動 させ ることが困難 とな り、それ に ともなって 1. の事例報告が急速 に増 えてい く ( Chumpo l1 933: 4 9) だがそれで も移動がまった くな くな 。. St. った とい うわけではなかった。 15. 速水 はあるジコが語 った話 として、 1 98 0年頃、ジコである 自分 の父親 が亡 くな り、集落. ign. のすべての家が数 メー トル だけ移動 して、息子 の彼 が ジコを引き継 ぎ、何 とか ジを継続 し. re. た事例 を挙 げている ( Ha ya mi2004: 1 5 4) 。 しか し、数 メー トルの移動 で各家の間で どの よ うな関係 の変化 が生 じたか、また、彼 がジコとして正 当性 を い かに維持 できたかについて. Fo. は論 じられ ていない。 そ して彼 が 自らの後継者 、すなわ ち次世代のジコの継 承 を期待 して. 0年代後半に入 る とカ レンの村落においてジ コの存在 いなかった ことに示 され るよ うに、8. of. 99 8年 にメチャム郡で調査 を したクワンチ‑ ワンは調査村周 その ものが激減 して行 った。 1. ity. 辺の 2 0村 において、ジコの存在 が確認 できたのは教材 だけで、それ も 2 0年前までの話だ. Kwa nc he wan2 003: 3 6) った と記 してい る ( .. rs. この よ うに集 落が移動 しな くな ると、長 であるジコの死亡時に、ジコ不在 の集落 が生 ま. ive. れ た り、あるいは村 区の村 区長 16 がその代替 となった りして、 ジや ジコが変質 してい くこ. Un. とになる。 ジコを失 ったジは もはや移動す る伝統的共同体ではな くなったのである。 カ レン族社会 の要 とされ るジ コの役割や儀礼 については、 「 オ リジナル を求 めて」 ( 第1. yo. 章 2節 3項)の時期 ( 1 97 0年代 〜80年代)に詳細な報告がな され た。だがジの移動 に関 し ては、それがす でに終息 しつつ あったゆえに、また研 究課題 が宗教や民族意識 にあったゆ. ok. えに、調査地概要 にお ける小史 として紹介 され てい るに過 ぎない。 またジコ とジの移動 に. (T. ついて も関連性 を言及す る程度 に留まっている。 筆者 が調査 を行 った時期 ( 1 98 6年 か ら 1 9 9 4年) もまた北 タイにおいてジコの激減 の時. sis. 期 にあたっている。だが、調査地 のメカプ村 区内の 1 0のジでは、まだ 9にジコがお り、 1 つだけが、前年 の 1 985年 にジコがな くな り、後継者 を決 め られぬままに存続 していた. he. 。. だか ら集落 はまだジコを長 とす る共同体 としてま とまってお り、また移動 を繰 り返 して. lT. いた頃の記憶 も鮮 明に残 されていた。それ で もその うち二つのジはジを移す ことがで きな. ra. くなったゆえの問題 を抱 えていた し、また、ほ とん どのジコが後継者 についての確 かな答. Do c. to. えがないままの状態であった。そ して、そのよ うな中で、 1 9 89年 に一つのジが移動 して消. 滅 した。 そ こで本章では、移動 を前提 とす るジの特徴 を明 らか に し、 どのよ うにカ レン族 の漸進 を促 したかを論 じる。そ して、その中でジコの役割がいかなるものであったかを検討す る。. 15 1 985年 と 86年 に筆者が行なった予備調査でメチャム郡 16 北タイ語の役職名 はポルアンである。. 1 0 0. s). れないのか、そ して、それが どの よ うに行われていたのかを具体的に記 していない。. とサムアン郡 で村移動 を確認 している。.
(5) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). ジが 「ロングハ ウス」、「 集落」、 「 村落」‑ と形態 を変 えてきた ことはすでに述べた。本章 では 「 移動す る集落」としてのジを調査対象 とす るが、以下においてジを 「 村」、ジコを 「 村. die. ジの構成. St u. 第 2節. s). 長」 と表記す る。. gn. 1.分布. Fo re i. 調査地のメカプ村 区は標高 1500メー トル前後の山々に周囲 を囲まれた東方向‑開いた標 高1 000か ら 11 00メー トルの盆地か らなる ( 図 4・ 1 ) .南 に位置す る標高 1 550メー トル の 山か ら流れ る出るカブ川‑すべての支流が注ぎ込むゆえにメカプ ( カ ブ川 ) 村 区 と呼ばれ ていた。. of. だがカ レン語 の呼称 は多少違 っていた。村 区名 の由来 となるカブ川 はタイ語 の呼称であ. ity. る。 なぜ な ら、それまでカブ川 の源流域 に集落が形成 された ことがなかったために、村人 たちは この川 の呼称 をもっていなかった。彼 らはタイ語 のカブを借用 し、タブ川 ( タブ ー. rs. タロ /k ' pd・ k1 6 /) と呼んだO. ive. クプ川 は南にある標高 1 550メー トルのジャコ ( 神子)山か ら流れ出て、マ コ ( 李)川 ‑. Un. と合流す る。続いてグネ タル ( 蜂蜜の木)川 とクエスモクラ ( ガ ヴァの実)川が流れ込み、 そ して、その下流 にお いてテ ィブラ ( 薄水)川 ‑ と合流す る。テ ィブラ川 は大 き く右‑迂 1 7. とラクル ( 井草)川 を集 めて、. yo. 回 して南に下 り、 さらにその先で トノウ ( 腐 った豆) 川. 盆地 を東‑ と抜 けてメ ト川へ と合流す る。南 にはメ ト川‑流れ込む別の支流があ り、テ ィ. ok. ト( 高水)川 と呼ばれていた。. (T. 調査 を始 めた 1 987年の時点で、メカプ村 区内に 1 0のジ ( 秤)があった。マ コ川沿いに 1村 ( 17軒)、グネタル川沿いに 1村 ( 21軒)、クエスモ クラ川 沿いに 1村 ( 6軒)、ラク. is. ル川沿いに 1村 ( 7軒)、 トノウ川沿いに 1村 ( 4軒) あった。川 をカ レン語でタロ、源流. es. ‑ khl a・ k1 6/)、 をキ とい う。それぞれ の村 はマ コー クロ ( / m畠・ k〇、 : ・ k1 6/)、グネ タル ー クロ ( k' ng:. Th. 、 : 一 品: ‑ khi : ) クエスモ クラ( k wE、 : ・ S ' m6 ‑ kl a)、ラクルー クロ ( /1 a: ‑ k hl o、 = ‑ k1 6/)、 トノウー キ ( thっ、 : ‑ n〇 と呼ばれ た。. al. I は 関わ りがある ところが、テ イプ ラ川沿いには 1村だけでな く、4村が点在 していた。J. or. 8軒)のみで、残 りの 3相 は植物名や村 を築 村名 は源流のキがつ く、北端のテ イブラー キ (. Do. ct. いた人物名で呼ばれていた.南‑向かってク リアムゲラ ( / khli : ‑ a 一 m( J 、 = ‑ kl a/ 山芋)( 1 0軒)、 ニ‑デ ( /ni ‑ h6、 = ・ dg= /ニ‑ の谷間) ( 3軒)、ブスアジ. なる。. ( / p t l : l s d‑ a・ zi ‥ /ブスの村) ( 8 軒) と I. このなかで源流名 を冠す るテ ィブラキ ( /t hュ : ‑ b上 a: ‑ khi : /)村 は 4村 のなかで もっ とも早 一部 タイ語 を使用 してい る. 「トノ」はタイ語 の 「トウア ( 豆)」 か らの借 用語で、 「ウ」 は 「 腐敗 して い る」 とい うカ レン語 である。 これ はタイ語 の川名 をカ レン語名 に転化 した もの と推測 され る。. 17. 1 01.
(6) Do. ct o. ra l. Th es. is. (T. ok. yo. Un. ive rs. ity. of. Fo r. ei gn. St ud. ie. s). 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). 図 4・ 1 メカプ村区内におけるカ レン族のジの分布地図. 1 02.
(7) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). く移住 してい る。 以前はテ イプ ラ川 の上流 に村 があったので、移住後 も源流 を意味す るキ. いは分出 した村 である。 支流 を集 めたティブラ川が大 きく南に迂回す るところに も う 1村 がある。 この村 は ヴァ. St ud. ブコ( / v 畠 ・ pa ・ k h e ' : /寺跡)と呼ばれていた.この地に寺の跡 を示す右横 があったか らである.. ie s). をつ けてテ イプ ラ・ キ と呼ばれていた。 ほかの 3村 は、そののちに移住 してきた村か、ある. この寺は先住 民族 のラフ族 の残 した もの推定 され るが、ラフ族 はカ レン族が この盆地‑移. 住す るかな り以前 にす でにこの地 を去 ってお り、村人 の誰 もがその存在 をまった く知 らな. ign. い。 また、寺跡 とい う村名 も、再移住後 の呼称 である。 この辺 りには何度 かジが築かれ て. re. い るが、それまでは北側 に位置す る泉 にちなんでナ ウル ( 泉) と呼ばれ た。 この ヴァブ コ ( 寺跡村)は盆地内ではもっ とも多い 3 4軒 を有 していた。. Fo. ところが、メカプ村 区内で 「 大村 ( パ ジバ ド / p g a : ‑ zi : ‑ p hかd 6 / ) 」 の通称 で知 られ ていた. of. のは、 ヴァブ コではな く、 グネ タル クロ村 であった。 なぜ な ら十数年前 までは、 この村 が もっ とも大 きい村 だったか らである。 ところが戸数 が多 くな りす ぎたゆえに村 内の紐 帯 を. rs ity. 維持 できず、何軒 も村 を去 り、調査時には ヴァブコが最大規模 の村 になっていた。. 1 0村 の中で、共同体 としての村 のま とま りにおいて問題 を抱 えていたのは 3村 で、上記 の グネ クル タロ村 とヴァブ コ村、それ に二年前 に村長 が亡 くな り、後継者 がまだ決 ま らな. ive. いク リアムグラ村 であった。 そ して 1 9 8 9年 に村 を移 したのは 3軒だけか らなるこ‑デで、. Un. 親村 のブスアジに再合流 して消滅 した。. 筆者 はテ イプ ラキ村 に居 を構 え、盆地内すべてのジを調査対象 としたが、詳細 な調査 は. ok yo. テ イプラ川周辺の 4村 で行 った。村 として問題 を抱 えたク リアムグラ村 を含 めて、最初 に これ らの 4村 の村 内の世帯構成 を提示す る。 なぜ な らテ イプ ラ川 沿いの 4村 は移住 による ジの成立 とその解体過程 を示す典型的な事例 となるか らである。 そ して、それ はカ レン族. (T. にお けるジを考 える上で重要な手がか りとなる。. es. is. 2.村 内にお ける世帯構成. Th. 調査地で もジを構成す るのは家 (ドゥ)の集 ま りであった。 ドゥはベ ランダ付 き一間か らな る竹 と茅の簡素な高床式住居 で、若夫婦 が独立後 に最初 に建 て るよ うな新居 な ら、男. al. 0人で数 日間か ら一週間以内で建て られ る ( 第 5章 2節参照) 。メカプ村 区内でジは 性 5‑1. or. 川沿いの少 し開けた平地あるいは山腹 の森 の中に位置 していた。 2 0世紀初頭 にマー シャル. Do. ct. は 「 かな り平坦で、暑李でも枯れ ない泉や小川 の付近 」 ( Ma r s ha l l1 9 2 2: 5 6 )が村 の場所 と して選択 され た としているが、調査地で も同様 であった。 テ ィブラ川沿 いの 4村 の うちブ. スアジ ( ブスの村) とこ‑デ ( ニ‑ の谷間)村の 2相 は分出で形成 され た村 である。. ( 1)ブスアジ ( ブスの村、以下 P村). 960年 頃にブスがグネ タル クロ ( 蜂蜜 の木川村、以 「 ブスの村」 とい う名 が示す よ うに 1 1 03.
(8) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). 下 G村)か ら転出 して建てた村である。彼 は G村で結婚 し、3人の子供 をも うけたが、の 人で、子供 2人 と末妹 と暮 らしていた。挙式後 しば らくして彼 ら夫婦 は G村 を出てブスが. die. 所有す る水 田の近 くに家 を建 てて移 り住 んだ。. St u. カ レン族 の儀礼の基本単位 は夫婦で、その紐帯が死後 も維持 され るゆえに再婚 はまれ だ. 。また、その当時、 った。再婚す るとよ り煩雑 な規制が生 じることになる ( 第 5章 4節参照). G 村 ではジコ ( 村長)の継承で問題 が生 じていた。再婚 によって村 内で 「 異端 」 となった. gn. ブスは、当時、継承で もめていた G 村 の暮 らしに嫌気 が さして、新 たな居場所 として 自分. Fo re i. の水 田の近 くを選 んだ らしいO. 楽 しくない (トクー ム・ バ)」 と、近 くに水 田をもつ G 村 の 3 ブスは 1軒だけでい るのは 「 軒 に声をかけた。つ ぎつ ぎに越 してきたが、 しば らくす る とその うちの 1軒 は、「 豚 があま りに水 田の稲 を食べ るので、 ここは居心地が よくない」 といって G 村‑戻 った。そ して残. of. った 2 軒 (ⅡとⅢ) と一緒 に暮 らす よ うになった。 そ こで最初 にここ‑移 った彼 がジコ と. rs. ity. 図 4・ 2) 0 なってジが形成 され た。 のちに甥夫婦たちが G村か ら移 ってきた ( Ⅰはジコ ( 村長)が妻 と二人で暮 らしているo. ive. I・ 1に妻の長男夫婦 ( 子供 7人)が住んでいるo. Un. I′は妻の未妹がこの村で結婚 し、独立 して分家 した ( 子供 4人) 0. Ⅱはジコの先妻の妹夫婦の家だが、妻が死亡後、その夫が未婚の息子 と住んでいる。. yo. Ⅱ‑ 1は彼の末娘夫婦 ( 子供 1人)が独立 して分家 した。. Ⅲ‑ 1はジコのイ トコ夫婦Ⅲの息子夫婦 ( 子供 1人)が結婚後に戻ってきて住んでいる。. ok. ( 父親は P村で死亡 し、母親は 3年ほど前に他村‑移った。). (T. 4と5はジコの甥夫婦たち ( それぞれ子供 5人 と 3人)が G村か ら移 り住んだ。. is. ( 2) ニ‑デ ( ニ‑の谷間、以下 D 村). es. 970 この村 も人名 で呼ばれ てお り、三軒が暮 していた。 これ も転 出でできた村 である。 1. Th. 年頃に P 村村長の娘 (Ⅰ‑ 1′)が結婚 して独立時に夫 とともに、数百メー トル離れた ここ に 1軒で家 を建 てた。実母でな く義母 の場合 には守 らねばな らぬ儀礼上の禁忌が煩雑 なの. al. ‑6年 間、一軒だけで暮 ら で、それ に抵触す ること‑の恐れが転出の一国 となった らしい。5. Do. ct. or. 薄水川源流村) していたが、のちに義弟夫婦が移 ってきた。義弟 は P 村か らテ イプ ラキ (. ‑婚入 し、1 976年 に分家す るときに妻 と子供一人 を連れて移 ってきた。1 984年 に婚 出 した 息子が戻 って家 を建てた。 卜 1′は P村村長の娘夫婦 とその末息子が住んでいる。. Ⅰ‑ 1I‑ ( I ) は彼 らの息子夫婦が住んでいる ( 子供 2人) 0 I‑ 2は義弟 ( P村村長の現妻の末息子)夫婦 ( 子供 5人)が住んでいる。. 1 04. s). ‑8年間独身でいたが、40歳頃に現在 の妻 と再婚 した。現妻 も未 亡 ちに妻が亡 くなった。 7.
(9) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). ー【ー H‑ 山≠≠州す. ok. I ‑ 1 J ・ ( 1 ) 華. yo. Un. ive. rs it. y. of. Fo. re i. gn. St u. die. s). ‑. (T. 手 打. lIi / 柵 、 ‑\. 育. \. Ⅲ ・1. t・ 三. ==. こ‑デ ( ニ‑の谷間)から転入. :‑ ‑‑ I ‑ ‑. 事. 工. 荷. ー 拝. al. 1 9秒 牢. 4. ・ \∴ ‑ 、一 一 一. ̲〜̲ / ‑ ・ ヰ. Th. es. is. 二 拝. Ⅱ・ 1. Do. ct. or. 5 Ⅰ一 字等 寺竿. 図 4‑ 2 P村 ( ブスアジ)系図 と家の分布. 1 05. 日 ジコ). 二 年.
(10) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). ところが、 この村 は 1 989年 にすべての家が P村‑移 り、ジは消滅 した。 「 消 えた村」で. 供 たちはよ く病気 にかかった。それ に悩 ま され た親 がスラ ( 呪術師) に伺い を立て る と、. ud ie. この地が良 くないので家 を動かす よ うに告げ られ た。 そ こで P 村‑移 ることが決 まったの である.道路が通 じている P村 の方が病気 な どの場合 、利便性 が高い とい うこともその一. ign. 1 989年 にこ‑デ村 が合流 した時点で、P村 は 11軒、人 口 51名 となった。. St. 因にあったよ うである。 Ⅰの夫婦 は残 され ることを嫌 って、一緒 に戻 ることに した。. re. ( 3) テ イプラキ ( 薄水川源流、以下 で村). P村 と D村が転出による自発的なジ形成 であるのに対 して、つ ぎのテ ィブラキ ( 以下、T. Fo. 秤) とク リアムゲラ ( 山芋、以下 K 村)は、ジの強制的な解散 による移動であった. ジコ. of. ( 村長)が亡 くなると、同 じ場所 に住み続 けることはできない とい う 。. T村 のジコは結婚後 に子供 を 1人連れて父の村‑戻 って暮 らしていた。長兄 も次兄 も同村. ity. 955年頃に父が亡 くなった とき、村 には 6軒の家があった。 で結婚 し、父 と一緒 にいた。 1 次兄はすでに死亡 していたが、長兄 を含む ほかの 3軒はそれぞれ別 の秤‑移 っていった。. rs. 彼 は父のあ とを継 ご うと思い、妹 キ リと弟ナの夫婦 を連れ て三軒で ここ‑移 って きて ジ. ive. を作 った。 ( ジ コの家 は最初 に建てなけれ ばな らないか ら)まず 自分の家 を弟や義弟や甥が. Un. 手伝 って建 ててか ら、ほかの家が順 に移 ってきた。村 は変わ らず T村 と呼ばれた。 その後 しば らくしてか ら、 も う一人 の妹 ジ ョカが夫ル ム と一緒 に夫 の村 か ら移 ってきた。や がて. yo. 子供たちが結婚 して家が増 えた ( 図 41 3) .. ok. 1 987年時点で T村 は 8軒、人 口 43名 であった。. (T. 子供 5人) と長女の長男夫婦 (Ⅰ・1・ ①) ( 子供 1 Ⅰはジコ ( 村長) と、長女夫婦 (Ⅰ‑1) ( 人)が住んでいる。. is. ( Ⅱは妻の死亡後に村 を出て、T村 と K 村の中間地点に一人用の家を建てて住んでいる。). es. 3) とその末娘の夫婦 ( Ⅲ・ 3) ( 子供 3人)が同居 している。 Ⅲは下の妹夫婦 (. Th. 1は 1 975年頃に子供の頻繁な病気が理由で隣の K村‑移住 したO) ( 彼 らの長女 Ⅲ・ Ⅲ‑ 2は彼 らの次女夫婦 ( 子供 4人)が住んでいる。. Do ct. or al. Ⅳはジコの弟夫婦が未婚の末息子 と同居 している。 Ⅳ‑ 2はその長女夫婦 ( 子供 3人)が住んでいる。 Ⅳ‑ 3はその三女夫婦 ( 子供 3人)が住んでいる。 Ⅳ・ 1 ′ はジコの弟の甥夫婦が住んでいる。. ( 彼の母親は出産直後に死亡 して父親は出身村‑戻った。そこで同居 していた祖父母が扶養 し、 祖父母の死後は結婚後に同居 した叔母夫婦 ( Ⅳ) が彼を育てた。). 1 06. s). 述べた通 りである。 このジ ( 柿) には若夫婦が二組 いて、小 さな子供 が多かったので、子.
(11) Ⅲ‑ 2. Ⅲ‑ 3. 上帯. of. Fo. l. : .△ A O. ive. rs ity. 過. ign. ヽ. re. L ・ 1 ■. A. 命. Ⅳ3. \ \. 、. is es Th al or. Do. ct. 3 Ⅲ肝. I.〜‑ dも .11 I t〜 ''.: ' '..I. 令. : .J f: ・ i. : .I .1:I :. , .I .・:・ ・ : I, : :・ .・ ・ : ・; Ⅱ ← 転. .. (T. ok yo. Un. 1 ( ジ コ ) ・、 鳥 令l ' i 命Ⅳ ̲ 2 角Ⅲ ・ 2. l To G +. 図 4・ 3 T村 ( テイプラキ)系図 と家の分布. 1 07. St ud. ie s). 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies).
(12) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). ( 4 )ク リアムゲラ. ( 山芋、以下 正村). た。調査時にこのジにはジコがい なかった。. 正 村 も T村 と同 じよ うに、ジコ ( 村長)の死亡によって解散 し、その後 、 1 950年頃に、. St ud. ジコの息子 が再び戻 ってきて家 を建 て、妹弟や姪夫婦 が集 まってきてジ となった。死後三. ie s). ジを移動 させ ないまま、家 々が留ま り続 ける とどの よ うにな るかを示 してい る村 であっ. 年 を経過すれば、父親 とゴ ( 国)のつなが りは消えるので、息子が同 じ場所 でジを作って、. 977年 に死亡 した。ここで再び移住 が行 わ 父のあ とを継 ぐことが可能だ とい う。その彼 が 1. ign. れれ ば、現在 のよ うな問題 は生 じなかったが、7 0年代後半にはジその ものを動かす ことが. re. 難 しくなっていた。. ジコと同居 していた娘夫婦 は地相‑移 った。 ジコを引き継 ぐはずの息子 た ちは同村 にい. Fo. I‑ 2)をジコとした。 なかった。残 ることを決 めた家々ではジコの姉 の娘 の夫 になるタネ ポ (. なぜ な ら、彼が K 村 の中で、初代 ジコに次いで もっ とも長 く住 んでい る男性 だったか らで. of. ある。初代 ジコが亡き後、彼 が 「 最初」の男性 にな るか らだ とい う。 この村 はほかに もさ. rs ity. ま ざまな理 由で出て行 った世帯 も多 く、歴史が古いにもかかわ らず世帯数 は少 なかった。. 985年 に死亡 した。その後、つ ぎのジコが決 め られ ぬままにジ コ不 ところがそのジコも 1 在 の村 になっていたO そ して、その翌年 の うちに、村 内の一軒 ( Ⅰ ‑ 1)が、娘一家 を説得 し. ive. Ⅰ1 2) も、同様 に娘一家 ととも て、土着 の信仰 を断 って仏教徒 となった. さらに彼女の妹 (. Un. i村 ではジコが司る村単位 の年 に改宗 したoすなわ ち一挙に 4軒が改宗 したことになるol 中行事 は行われてお らず、各戸が必要 に応 じてそれぞれ独 自に儀式 を行 っていた。. ok yo. 正 村 は、初代 ジコの三姉妹 の、子や孫か ら構成 され てい るが、す でに世代交替 してい る ために構成員 は母方イ トコたち とその子供 たちになる ( 図4 ‑ 4) 0. (T. 1 987年時点で 1 0軒人 口は 49名 であった。 Ⅰ‑ 1は初代ジコの姉の娘 ( 7 0歳代)が、一人で住んでいる。 ( 仏教徒に改宗 した。). is. II ll ( 1 ) では彼女の未娘夫婦 ( 子供 6人)が住んでいる. ( 母親に倣って改宗 した.). es. ト2は Ⅰ‑ 1の妹で、彼女の夫が二代 目ジコ ( 死亡)だった。子供 2人 と住んでいる。. Th. ( 姉に続いて仏教徒に改宗 したO) Ⅰ・ 2・ ( 1 ) は彼女の四女夫婦 ( 子供 3人)が住んでいる。 ( 母の説得により改宗 した。). al. Ⅲ・ 1は初代ジコの上の妹の娘夫婦 ( 子供 6人)が、未婚の末弟 とともに暮 らしている。. Do. ct. or. Ⅳ‑ 1は初代ジコの末妹の娘夫婦 ( 子供 1人)が住んでいる。 Ⅳ‑ 1・ ( 1 ) はその長女夫婦 ( 子供 3人)が住んでいる。. Ⅳ・ 1‑ ( 2) はその四女夫婦( 子供 1人) が住んでいる。. Ⅳ‑ 2はⅣ‑ 1の妹夫婦( 子供 8人) で少 し離れた場所に家を建てていた。. T‑ Ⅲ‑ 1は 1 0年ほど前に隣村の T村か ら移ってきた夫婦 ( 子供 7人)が住んでいる。. 1 08.
(13) Un. ive. rs it. y. of. Fo r. ei. gn. St ud. ie. s). 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). T 村よ り 移 住. ok yo. ㌔. 査 Ⅳ鵬) 令. Ⅳ. 東. Do c. to. ra. lT. he. sis. (T. Ⅰ 十( 1 ) Ⅰ 廿( 1 ). 1 0m. L一 一 一l. : \二. 図 4‑ 4 E村 ( ク リアムグラ)系図 と家の分布. 1 09. 1( 1 ). ヽ \. \∴. \. Ⅳ‑ 1.
(14) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). 4村のジの構成を分析す るとつぎのよ うなことが分かる。. ジ とは複数戸の家 (ドゥ)か ら構成 され る共同体の単位 である。一軒か ら始まる場合. St ud. ●. もあるが、一軒の場合は ドゥ ( 秦) と呼ばれて もジとは称 されないか ら、ジであるた. ● ● ● ● ●. めには少なくとも二、三軒以上の家がなければな らない。. re. 積極的に移動す るのは幼い子供 をもつ比較的若い夫婦の家である0. ign. ドゥ ( 慕)の構成員は基本的に夫婦 とその子供である ( 第 5章 3節参照) 0. ジにはジコ ( 村長)がいる。最初に移 ってきた家の男性がジコになる。. Fo. ジはキ ョウダイ間の家の紐帯によって維持 され、移動す る集落 にお けるジの適正戸数. of. は1 0軒前後で、数軒か ら 20軒未満の ドゥか ら構成 され る。. rs ity. ジコが死亡す ると ドゥは離散 し、ジコが父か ら息子‑継承 され る。. 移動す る家 (ドゥ)の中核 となるのは子供が小 さい比較的若い夫婦たちである。その理 由として幼い子供の存在があげ られ る。 18 幼児は病気にな りやす く、度重なる病気 は、死. ive. 者 のゴ ( 国)か らの来訪者である彼 らが、住み心地が悪い といっていることになるか らで. Un. ある。気 に入 らなけれ ば彼 らは死者のゴ‑戻って しま う。親たちは居心地の良い地を求め なければな らなかった。また、葬式の事例で示 した よ うに乳児や胎児の死は悪霊タプ レを. ok yo. 生む。 タプ レか ら逃れ るためにはジを移す しかなかった。 このよ うに彼 らの他界観がジの 移動 を促す ( 第 3章参照) 0. ジは最初の移住者 をジコ ( 村長) として成立す る。 ジコが移住の先鋒であることは文字. (T. 通 り呼称が示 しているoカ レン語のコ ( / k h a: / )は 「 頭部」だけでな く「 最初」も意味す る. 前頭部に宿 る寿命 を記 された霊魂 をガラ・ コー ティと呼ぶの と同様 に、ジコとはすなわちジの. is. 最初」なのである。 ゆえに P 村のよ うに一軒か らジが始まることも 「 頭」 であってジの 「. es. あるし、また T村や 正村のよ うに数軒で移 るに して も、まずジコの家を最初に建てなけれ. Th. ばな らない。それから居住者の家を建ててい く。 そ してジコか ら始まるジは、ジコの死で幕 を閉 じる。 ジコが死亡す ると村 は解散 し、ジ. Do. ct. or. al. を構成 していた家 (ドゥ)は離散す る。各家は他のジを捜 して家を移すか、 ( のちに自らが ジコになる可能性 を含 めて)一軒だけで居 を構 えるか、あるいは何軒かで新たなジコを決 め、彼 ともに移住 して新たなジを建てるかであるQ ジコを核 として形成 され るジ ( 秤)はキ ョウダイ間の場合のみ紐帯の維持が可能なよ う. にみえる。正 村ではジコが死亡 し、世代交代によって、構成員がイ トコ同士の関係 になっ た。それがジの維持 を難 しくしている。そ してキ ョウダイ関係で成 り立つジの適正戸数は 18. ラジャも移動す る夫婦の平均年齢 を 30歳前後 とし ( Rajah1986:58)、子供の病気 を移動の原因であ ると報告 している ( Rajah 1986:73‑74) 0. 11 0. ie s). 3.移動す る集落 としてのジの特徴.
(15) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). 1 0軒前後 と推測 され る。なぜ な らジコが長命 で安定 したジの場合で も 2 0軒 を越 えることは ゥ( 秦)の戸数は 1 7軒であった。19 ヴァブコ村 とグネ タル クロ村 の問題 はそれ ゆえに生 じ. St ud ie. ていると推測 された。. 移動す るジの適正軒数 を数軒か ら 2 0軒未満 と仮定 してみ る と、先行研究にお けるジ と移. 動の関係 を推測す ることが可能 となるoマーシャルの ロングハ ウスはプ ロ ( 客間)を除き、. 1 4部屋 (ドゥ)に居住 してい る ( Ma r S ha l l1 9 22: 5 9) 0分芽す る直前の大きな と ( ジ)であ. ign. る。. re. 岩 田は 1 95 7 〜5 8年のメサ リアン西部のメカン流域での調査 でシャン族 (タイ ・ヤイ) と の競争に 「 敗退 した社会の歪み」である としてカ レン族の 「 村落規模 の小 さい こと」 ( 岩田. Fo. 1 971 : 2 03 )を挙げているが、5戸、4戸、3戸 とい う軒数 と移動 を繰 り返 してい るさまは敗. of. 退 とい うよ り、分芽による前進 と捉 えることができる。 1 95 0年代 にはメカン川 支流 で も盛 んにジが移動 していていたのである。. ity. ‑2世帯か ら 5 0世帯まで クンスタ ッタ‑はメサ リアン郡のカ レンの集落お よび村落は 1. Un ive rs. Kuns t a dt e r1 97 0: 41 3) としてい るが、 1 ‑2世帯 とは P村 のよ うな 自発的な転 存在す る ( 出から形成 された集落であろ う。 また彼 は近隣のルア族 よ り小規模 なカ レン族 の村 に注 目. 0‑2 0軒の家が普通で、それ以上増 えると近隣に居住す るために殖民 し、 「( 村 の規模 は) 1 荘uns t ad t e r1 9 67: 649 ) としているが、その規模 の相が移動す るジの上限 団を送 り出す 」 ( であ り、送 り出す とい うよ りジは必然的に分芽す るのである。. o. また同 じころ飯島がメサ リアン郡で 「 部族社会 を形成す る山地カ レン族 の」村 と して選. ky. 択 したテ ィ トパ村 は、系図か ら分かるよ うに 2 5世帯か ら構成 され、すでにイ トコ同士のつ. (T o. 971 : 末巻系図) 。それ ゆえ移動す る集落 としての維持 は難 しい なが りとなってい る ( 飯島 1 状態だっただろ うと推測 され るが、それ を裏付 けるかの よ うに、村長 ( ジコ)が 「 家神 ( ブ ガ)」 との絶縁 を告 白してい る ( 同掲書 : 1 7 9) 。家神 との絶縁 は同時にジコの祭 司 としての資. is. 格 を放棄す ることを意味 していた。 それ ゆえに、飯島の 「 山地カ レン族 」 の村 ではジコに. es. よって継承 され る儀礼が欠落 し、む しろ形 を変 えてそれ を残 していた 「 平地カ レン族」の. Th. 村 での儀礼 を、水 田耕作 とともに新たに導入 された儀礼 として分析す ることになった と考. 1 87・ 1 93 ) . え られ る ( 同掲書 :. or al. 0軒か ら 57軒までの村落で現地調査 を行 っているが、アニ ミス トの村 が 1 0軒 と 速水 は 1. 1 6軒 か ら構 成 され てい るの に対 して、 2 0 軒以上 の村 には教 会や 寺院 の存在 してい る. Do. ct. ( Ha yami1 992: 1 7 ) 。その他の先行研究においても、2 0軒以上の村 には、何 らかの形で、. 仏教 またはキ リス ト教‑改宗 した家が加 わっている ( Mi s c hung1 9 8 0: 3 2, 53) o. 0軒 これ らの先行研究の事例が裏付 けるよ うに、移動す る集落 としてのジの適正戸数 は 1 前後 である。ジの戸数が 2 0軒以上であるとい うことは、すでにそのジは移動 を前提 とす る. 19. s). まれだか らである。 メカプ村 区内で最長老 はマ コ川村 のジコだったが、 このジにお ける ド. 1987年末 に 2軒転出 したので、19軒まであった。. 1 1 1.
(16) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). 集落ではな くな り、定住が始まって 「 村落」へ と変容 しつつ あるとみ るべ きであろ う。20. ジの長であるジコ ( 村長)が死亡す る と、同村 に居住 してい る息子、 とくに長男が父か. ud ie. らジコを継承す るとされ る。実際に 正村や T村 では息子が継承 している。だが、調査 当時、. s). 軒 とい う ドゥの戸数 は移動 と定住 の境界線 を示す重要な指標 とみることができる。. その実践が もはや不可能なよ うに筆者 には思えた。 なぜ な ら結婚後 に妻 の両親 と同居す る. St. 若夫婦 は、独立す るときも妻 の村 に残 ることが多 く、婚 出 した息子 たちが戻 って くる可能. ign. 性 は低い。そ こで結婚後の移動 について各村の統計 をま とめてみた。. 結婚数. ・ 配偶者の村. 出身村. P村. 男性 8人. 5組. 3組. 女性 4人. 0組. 3組. 6組. 女性 8人. 1組. ( 妻方居住 1 0/1 6、 夫方居住 3/1 6. 0組. 4組. 3組. 独立居住 3/1 6) 0組. 2組. 3組. 8組. 2組. 1 4/21、 夫方居住 3/21、 独立 4/21 ). yo. ( 妻方居住. 2組. Un. 女性 1 3人. 1組. 6組. ive. 男性 8人. K村. of. 男性 8人. rs. T村. 0線. 独立居住 1 /1 2). ity. ( 妻方居住 8/1 2、 夫方居住 3 /1 2. 他村. Fo. 村名. re. 表 4‑1 結婚後の住居移動戸数. ok. 数字上では夫方居住が 20%近 くになるが、実際問題 として P、T、K 村のジコの息子 8. (T. 人の うちで戻 ってきているのは 1人 もいなかった。 D 村 か らの合流 もあって、P 村 では結 婚後 に帰付 した男性が 3人 と多いが、正確 にいえば、この うち 2人 ( 図 4・ 2、P村 卜 1、2). is. は義父のもと‑戻 ったので実子ではない。. es. T村 における 1人はジコの弟 の妻方の甥 ( 図 4‑ 3、T村 Ⅳ・ 1′)であ り、も う1人、す な. Th. わちジコの孫息子 (Ⅰ十 ( 1 ) ) は妻子 を妻の実家 に置いての帰村であった。姑 と嫁 の間で ド ゥ ( 家)の共有 はできない。 だか ら彼が帰村す るな らば 自分たち夫婦の家 を新 たに建 てな. Do ct. or al. けれ ばな らないのだが、それができぬままに別居結婚 を続 けていた。20 そ して K 村 にいた っては帰村 した男性す らいなかったのである。 このよ うな状況では息子のジコ継承な ど不可能である。そ こで過去 50年間の村移動 をジ. コたちの生い立 ちを追 うとい う形 で再構築す ることによって、頻繁 に移動 していた頃のジ の継承 を再現 してみた。す ると戸数が 20軒以上に増 えて、ジが定住す る村落‑ と変わると、 ァ‑ ン依存症であった彼 は結婚後に同居 した妻の両親 の家か ら親元‑ もどった。婚出 した息子が実家‑ 戻 ることはあ り得 なかったので、村人は誰 もが彼の同居を 「 ま ともでない」 とみな していた。彼 は 自分 の家を建てるといいつつ、ア‑ ン購入のための現金収入を求めるだけで、家を建てる様子はなかった。. 20. 11 2.
(17) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). ジの移動史. St ud ie. 第 3軒. s). 初 めて 「 息子の継承」の問題が表面化 してきたのである。. 調査地で遡れ る祖先は祖父母世代までであった。その世代で も日常生活 においてはテ ク. ノニ ミ‑が用い られているために個人名 は しば しば忘れ られていた。だがジコの祖父たち の何人かはこの辺 りで初めて棚 田を開いた人物 として、水 田とともにその名 が記憶 されて. re ign. いた。また彼 らが最初の移住者であると語 る者 もいた。 ジの移動の再構築はジコの祖父母の世代か ら始まる。 21. メカプ柑区内 9村 ( D 村はすでに合流)の うち、P村 を含む 2相は新 しく進出 したジで. Fo. あった。さらに 7相の うち、3村の歴史を再構築すれば、メカプ村区内のジの移動は理解で きることも判明 した。移動を繰 り返 しなが らの分裂で調査時に至っていたか らである。そ. y. になった。移動 しつつジコが継承 されていたのである。. of. して 7村すべてで何 らかの形で父か ら息子‑のジコ ( 村長)の継承があったことが明 らか. rs it. ジ ( 秤)を建てるのに適 した場所は、ある程度の許容範囲はあったが、限 られていた よ うで、同 じ場所‑の移住が何度か繰 り返 されていた。調査時にはすでにその適地のすべて. ive. にジがあった。ジコたちが異 口同音に 「もう村を移す場所 もない し ‑ ・」とい う咳きは、. Un. ま さにその通 りだったのである。. まず、世帯構成 を詳 しく論 じたティブラ川 ( 以下、T 川 ) 沿いの T村の村長 ( ジコ)の. ok yo. 生い立ちか ら始める.T村 と K 村は兄 と弟が父の複 を継いで建てた村である。 さらに妻が Iの事情 も彼 の話か ら明 ら 亡 くなったのちに T村 を出て、K 村 との中間地点に家 を建てた I. (T. かになる。22. es is. 1. T村の村長ナ ドゥ ( 1 91 6年頃生、約 7 0歳)の移動 ( 図4 ‑ 5 ) ( 1 ) ナ ウル ( 泉)村時代 ( 〜1 93 0年頃). Th. 自分はナ ウル ( 以下、N村)で生まれた。N村は今の Ⅴ村のあた りにあった。 ジには 1 0. al. の ドゥ ( 家)があった。N 村の村長は自分の父親ではな くてパパだった。 口頭伝承や語 りによって歴史を明 らかにす るにはい くつかの問題点があるO ‑つは当然であるが、答 え が数字でないことだった。ジコたちが過去を語 るときに、年齢 ではな く、「 子供の とき」な どの よ うに成 長 に基づ く区分を用いた り、または結婚 して子供が 1人いた ころ とい うよ うに時の経過 を説明 した。そ れゆえに年号は成長区分名に基づいて推定 した。第二次大戦 中の 日本軍の進駐 とそれに続 く天然痘の流 行は年号が明 らかなので、それを手がか りとして前漢 を推測 した0 1942年には陸軍第 15師団がイ ンパ ール作戦でクンユアムに入っている。また神話や民話 を語 るときにはよくあるが、現在に沿った形で過 去が語 り直 され ることも考え られ る.そ こで移動史を再構成す る ときには、そのジにどの一家がいたか を確認 した り、複数の証言を重ね合わせた りして、できるだけ客観的なデータを得 るよ うに努 めた。. Do. ct. or. 21. 22. 日常会話では個人はテクノニ ミ‑で同定 され るが、便宜上、本名で記述 した。聞き取 り調査は確認 を含 めて数回か ら十数回に及んでいるので、以下の内容はそれ に基づいて要約編集 されている。. 1 1 3.
(18) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). 自分が 1 1、1 2歳 ( ポサホゴマ)の ときに父 トウル がまず村 を出た。 ほかの家族 たちも ト2. る とジはな くなるか らだ。. St ud ie. ( 移住 した理由を問 うと)たぶん病人が多かった り、収穫が少 なかった りしたか らだろ う。. s). 年 の うちにはすべて村 を出た。そ して最後 に村長パパが出て N 村 はな くなった。村長 が移. 父親 が村 を出て しば らくしたあ と、伯父 ( 父の兄) タマハがや は り子供 たちを連れ て ジ 弟 ( プ)」 の相 には入れ ないか ら、伯 父タマハ を出て行 ったO だが 「 兄 (ヴェジ ョ)」 は 「. は T川 の下流 に 自分の村 を建てた。 ( 同 じ川 なので川 の名 でな く)K村 と呼ばれ た。伯父 は. ign. 長女夫婦 と同居 していたが、結婚後 に戻って きた長男 ( タ トゥ)夫婦 と、Ⅳ 村 で結婚 した. re. 1 ) にそれ ぞれが家 を建てた。 三女夫婦の 3軒で一緒に移 って行 き、旺 村 (. Fo. ( 2) T村( D時代 ( 1 930年 〜1940年頃、約 1 0年間). 父親 トウル は T川 の上流 に家 を建 て、村 はテ イブラー キ ( T川源流村) と呼ばれ た。父. of. 親 と一緒 に来たのはホムー家 ( 父の姉 の夫 の弟) と長兄バ ク‑一家の 3軒で、長兄 は妻. ity. と子供一人 と妻 の弟妹 と一緒 に移 ってきた。村長 は父だった。 自分 は この村 で大人 にな って、結婚す る直前までいた。. Un ive rs. ホムー家の長女 ノポ トクが この村で結婚 して、長男 を生んだが、 ノポ トクが出産後 ま もな く亡 くなったので、夫 は 自分の村‑戻 った。そ こで、残 された孫 ( 図 4・ 3、T村 のⅣ ・ 1ー) を同居 していたホム夫婦が育てた。. N 村の村長パパ一家 と彼 の義弟べ ドゥ一家 の合計 4軒が、二年後 に移 ってきて この村. o. に加 わった。. ky. 兄 (ヴェジ ョ)」( 妻 ( なぜ この村なのか との問いに答えて)N村村長パパ は伯父 タマハ の 「. (T o. の兄)になるので、パパは K村 ( 1)‑は行 けなかった.父 とは何 の関係 もなかったので 父の村‑来 ることができた。 この村 には、途 中でマ コ川 ( 以下、M 川 ) か ら 3軒がや ってきた。 M 川村① のジコが. is. 死んで、村 に村長がいな くなったか らだo Lか し、 しば らくしてか ら、M 川 ‑ゲムー家. Th. es. M 村② を建 てた。ゲムは今 も M 村 のジコだ。 と彼 の妻の弟夫婦が戻 り、ゲムは 自分の相 、. ( M村のジコも次のように語って T村ジコの話を裏付けたO. or al. 「自分が M 村‑婚入 した とき家は 3軒 しかなく、ジコがいなかった。ジコがいない村は村では. なく、よくないので、ジコがいる村 を捜 して、3軒で T村①‑移った。そ して、そこで数年間す. Do. ct. ごしたあと、自分たち夫婦 と妻の弟夫婦の一家は、また M 川‑戻 り、自分が村長になった。 し. ば らくしてか らもう一軒 ( 妻の姉夫婦) も戻ってきて 3軒になったoJ. M 村は P村 と同様に、父親か らジコを引き継がないで建てたジ ( 村)であった。M 村ではそ れ以後、ジを移す こともなく、1 7軒を有するにいたっている。だが、実際は 1 975年頃に胎児 の死亡があ り、悪霊タプレゆえにジを移 さなければならない事態に直面 した。それを回避するた めに、メカプ村区内で初めて低地タイの呪術師か ら導入 した 「 悪霊払い」が施行 された。). 1 1 4.
(19) Do c. to. ra. lT. he. sis. (T. ok. yo. Un. ive. rs. ity. of. Fo. re. ign. St. ud ie. s). 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). 図 4・ 5 T村の村長ナ ドゥの移動地図 とジコの継承. 11 5.
(20) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). ( 3) T村②時代 ( 1 940‑47年頃 :7‑8年 間). 呼ばれた。 この村 にい るときに 日本兵 をみた。. St ud ie. 自分はここへ移 ったす ぐあ とに G 村‑行 って結婚 した。子供が 1人生まれ てか ら戻 って きたので二年 間 くらいは、この村 にいなかった。妹 キ リもここで結婚 した。母 が ここで死 んで、N 村か ら一緒にきたホム ( 父親 と同 じ世代) も亡 くなった。. 隣の K村で、村長だった伯父 タマ‑が死んだoジコが亡 くなった ら、どの家 も残れ ない。. ign. すべての家が どこか‑移 らなければな らない。 だか ら、ジコの末妹 ノ レポ とジコの息子 タ. re. トゥの 2軒が K村か らこの相へ移 ってきた.. 弟ナが故ホムの三女 ノナプ とこの村 で結婚式 をあげ ( 図 4・ 3. T村 のⅣ)、そのす ぐあ とに. Fo. 村 を移 した。. 移 る ときに、M 村か ら来ていた残 りの一組 の夫婦が、ゲムの M 村へ戻 っていった。. of. また長兄バ ク‑は一緒に移 らな くて、その ときはも う誰 もいな くなっていた K 村 の近 く. T村③時代. ( 1 947‑1950年、3‑4年 間). Un ive rs. ( 4). ity. ‑移 って行 き、 1軒だけで家を建てた。. 再び T川上流 に家を建てた。前 よ りも う少 し上流だった。 ここで次兄デ クコと弟ナの義 母イデ ( 故ホムの妻)が亡 くなった。 だか らイデが育てていた孫 ( Ⅳ・ 1′)は同居 していた 弟ナ とノナプ夫婦 ( Ⅳ) が引き継 いで育てることになった。. o. 正村か ら移 ってきていたタ トゥの息子ル ム (Ⅱ) が 自分の妹 ジ ョカ と結婚 した。. ky. この相 を出て行 くときに、タ トゥとその妹一家、タ トゥの長男ル ム夫婦 は再び E 村があ. (T o. った場所‑戻 って行 き、タ トゥ ( 図 41 4、K 村 I/初代村長)が父親 の後 を継 いで新 しい K 秤( 2)を建てた。. 4 )「 グリアムグラ ( 山芋、以下 K 村) 」‑つながる.I (村の ( ここか ら 2項 2の村内の世帯構成(. es. is. タ トゥも父親か ら村長を引き継いだ 1人 となる。). Th. ( 5) T村④時代 ( 1 950‑1 955年 、4‑5年 間) ( T村③で結婚 した妹ジョカは妊娠 したが死産であった。村を移 したのは悪霊タプ レゆえである。. or al. ジョカとルム夫婦は K村( 2 ) へ移った。) 柿) を建 てたo 父は、今度は T川のず っ と下流、今の P相のあるあた りに新 しいジ (. Do. ct. K 村ではタ トゥが新 しく自分の K 柑 ( 2)を建てたので、その近 くに 1軒だけで住んでい. た長兄バ ク‑ は父の元‑戻 ってきた。 しば らくして、父が亡 くなった。だか ら村 を移 さなけれ ばな らなかった。 長兄はタ トゥが村長である 正村 ( 2)‑移 った。 ( 移 るのに問題ないのか との問いに対 して)タ トゥは長兄 に とって 「 兄 (ヴェジ ョ)」 ( 父の 秤)‑ は来 られ ない。 兄の息子)だか ら問題はない。だが、「 弟 ( プ)」 の 自分が建てるジ (. 11 6. s). 父親 トウル は村 を移す ことを決 めて皆の合意 を得て、 ここ‑移 ってきた。村 は同 じ名 で.
(21) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). ( 6) T村6) 時代 ( 1 95 5年頃か ら調査時まで :約 30年 間). s). 自分が妹 キ リと弟ナ一家 ( 甥 も含む) を連れて、今 の この場所‑移 って来て 自分 がジコ. St ud ie. なった。 ここには小 さいけれ ども泉 もあった し、祖父が造 った水 田もあったか らだ。 ( ここから 2項 2の村内の世帯構成( 3 )「 テイプラキ( 薄水川源流、以下 で村)」 ‑つながる 後に 。. 妹ジ ョカとその夫 (Ⅱ) が再びこの村‑加わる。 Ⅱは 正 村の初代村長タ トゥの長男である。本. 来ならば父のあとをついで K 村の村長になるべきなのだが、この夫婦は最初の子を死産で亡 く. re ign. したあとに子が生まれなかった。そ うい う理由もあって夫婦は T 村へ移って来た。妻亡き後、 Ⅱは T村を出て K村 との中間点に自分一人用の家を建てた。彼の複雑な心境を表わしている。). Fo. T村 におけるジコの継承 を辿 ると、祖父はジコでなかったが、息子たちがそれぞれ に 自ら のジを形成 してジ コとな り、 さらにそれ を息子 たちが継承 していった様子が分かる。祖父. of. コ ド‑は T川周辺で水 田を拓いた人物 の一人 として広 く記憶 されている。だが で村 ジコは. y. 祖父 を覚えていない。なぜ な ら幼少の頃にすでにメカプ盆地内か ら出て移住先の村 で亡 く. rs it. なってい るか らである。. T村 ジコは祖父がジコであった とい う話は聞いた ことがない とい う。祖父 よ り先 に来た家. ive. が一、二軒あった とい う話を聞いたよ うな気 もす る とも語 った。 もし彼 の祖父 よ り先 に移. Un. 住者がいて、その男性 がジコであったな ら、またジ コが父か ら息子へ継承 され るな らば、 そのジコは N村時代のジコであったパパの父親 の可能性 は高い。 しか し息子パパが建てた. ok yo. 村 は櫛 の歯が欠 けるよ うにつ ぎつ ぎ と家々が出て行 き、最後 にパパ 自身が T村①‑移 ると い う形で N村 は消滅 した。 これは奇妙 な移動である。T村 の村長 の話ではその原因が よく 分か らなかったが、のちの Ⅴ村村長の話か らその理 由の一端 を うかが うことができた. 。. (T. また T 村 ジコの話か ら、ジを形成す るにあたって 「 兄 (ヴェジ ョ)」 は 「 弟 ( プ)」 のジ に入れない とい う確かな決ま り事があることが分か る。 つま り系譜上の年長者 は年少者 の. is. 村 に合流す ることはできないのである。. Th. es. それでは次に G村 の村長のジ移動の話‑移 る。. al. 2.G村 の村長 キポ ( 1 924年頃生、63歳)の移動 ( 図 4・ 6). Do. ct. or. G村 は T川 流域 に最初に水 田を導入 した人物 として語 られ るジ ョ ド‑ とつながっていた。. ( 図 4‑ 6) 。ジ ョ ド‑ とサスペはイ トコ同士で、ジコは彼 らの系譜上で継承 されてい る。 G. 村は 1 0軒を越 えない小集落 しか分布 していなかった 1 960年 頃に、すでに 30軒近 くまで戸 数 を増や し、 「 大村」 と呼ばれた。 しか し、他村 とは対照的に、息子が村長 を継承す るたび に ドゥ ( 慕)の数 を減 らしていった。 腐 った豆源流、以下 U 村) と クエスモクラ村 ( ガ ヴァの実、以下 S村) と トノウキ村 (. P村の 3村は、G村か ら分出 したジである。. 1 1 7.
(22) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). ( 1 ) ジャコチカ ( ∫) 時代 ( 1 920‑1 930年頃まで) ブス ( P 村村長)一家がティ トタロ ( 高水川)村 ( 以下、H 村)か ら移 ってきた。 この村. St ud ie. を出たのは自分が 1 0歳頃だった。それぞれの家は別々に移 って行 き、村はな くなった。村 長サニー家は M 川にある M 村①‑移 って行 った。. ( 2)G村①時代 ( 1 930‑1 940:約 1 0年間). ign. 自分たち一家は伯父のフテ ィ ( 母の姉の夫)について行 き、今の G村があるところより、. re. P 村村長)一家 も一緒に来 少 し上流に村 を建てた。村は川の名で G 村 と呼ばれた。ブス (. た。 7軒 くらいだった。 この ときの村長は伯父フテ ィだった。. Fo. ( フティはサスペの息子でサ二の第二イ トコになる。). ここにいた ときに、役人が税金 を取 り立てにきた。牛を三頭 も売って現金 を作 らなけれ. of. ばな らなかった。理由は豚の屠殺 だった。家畜が病気 ばか りし、仔 も生まれ ないので、豚. ity. を殺 して霊魂 を呼ぶ儀式 をして、森か ら戻って来 ると、ちょうど役人が来ていて、それ を 見つけ、屠殺税 として 1 7タブを支払‑ と言われた。現金がないので、牛三頭 を売 らなけれ. Un ive rs. ばな らなかった。. 自分が青年になった頃、次々に死人が出た。昼に一人死んで、その晩に一人死んで、翌 朝に一人死んだ。そこで村を移す ことに した。. o. ( 3)S村①時代 ( 1 940‑41年 :I ‑2年間). ky. S川のかな り上流にサニの村があったoサニー家は M 村①の村長が亡 くなったので、S. 川‑移 ってサニを村長 とす る S村①を建てていた。 自分たち一家は伯父 フテ ィについてサ. (T o. ニの S村‑移 ることに した。その とき 3軒はほかのジ‑移 っていった。S村①は自分たち が合流 したので、 1 3軒 くらいの大きな村 になった。. is. ところが 1年 と少 し経 った ときに、一週間の間に 4人 も死んだ。足や手に大 きな腫癌が. es. できて死んだ ( 天然痘の流行) 。 あま りの恐ろ しさでみんな一斉に逃げ出 した。バ ラバ ラに. Th. 逃げた。誰 も新 しい家 を作 る余裕がなかったので、 とりあえず焼畑や水 田の作業小屋‑移 った。. or al. ゲムのこと)M 川へ移 って新 しい M 村② を作っていた。 ( S この頃に T村①か ら誰かが (. 村か ら)2軒がその M 村‑逃げていった。. Do. ct. 自分たちは田んぼの作業小屋 ( ㊨)‑逃 げた。 田植 えが終わってか ら、サニが S川の下. 流に新 しい S村② を作ったので、そこへ 自分たち一家 も家を移 した。. ( 4)S村②時代 ( 1 94ト43:2‑3年間) 新 しくできた S村②‑散 らばった家が戻ってきて 9軒の家が集まった。村長 はサニだっ た。 この村で暮 らしていた ときに 日本軍が ミャンマー‑行 くのを見た。. 1 1 8. s). 自分はジャコチカで生まれた。村長はサニだった ( サニはジョド‑の長男である。)途 中に、.
(23) Do c. to. ra. lT. he. sis. (T. ok. yo. Un. ive. rs. ity. of. Fo. re. ign. St. ud ie. s). 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). 図 4・ 6 G 村の村長キポの移動地図 とジコの継承. 1 1 9.
(24) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). ところが 3年ほ どした ときに二、三 日の間に 3人の村人がつ ぎつ ぎ と死んだ。そ こで、. s). ここを移 ることに した。. ud ie. ( 5)G村②時代 ( 1948‑). G 川に戻 って、今 の G 村があるところ‑ 9軒で移 った。村長 はそのままサニだった。 と. St. ころが、サニは二、三年間 ここで暮 らす と、息子一家 と一緒 に、二軒だけでまた S川‑戻. 5軒)はサニが移住 して作った村 で、息子 ム トウ‑がジコを継 い って しまった。今の S村 (. ign. でいる。. re. サニが出て行 って しまったので、G 村 にジコがいな くなって しまった。そ こで残 った家 で伯父のフテ ィを村長 ( ジコ)に した。 フテ ィが村長 になった頃、 ミャンマーか ら日本兵. Fo. が戻って来 るのを見た。. of. 結婚 した子供たちがつぎつ ぎに家 を建てた り、またほかか ら移 ってきた りして、G 村 は. 1 960年頃には 30軒 くらいの大きな村 になった。そ して 「 大村」と呼ばれ るよ うになった。. ity. その頃に村長 フテ ィが亡 くなった。. あ とを息子モ ドゥエポが引 き継 いだが、数年す ると彼 は村 か ら出て行 って しまった。彼. U村 は今 も彼が村長 である。. rs. は一軒で U川‑移 って行 き、そこに自分の U村 を建てた。. ive. そこで、また新 しい村長 を決 めなけれ ばな らなかった。. Un. この村 に留 まることを選んだ家は、叔父 ジュケ ( 故村長 フティの妻 の弟)を村長 とした。. 0年間以上、村長だったが、 1 975年頃に亡 くなった。 ジュケは 1. yo. 村内にジュケの息子 タ トゥルがいたので、彼が父 を継いだ。 ところがタ トゥル は 1年間 と少 しで、仏教徒 に改宗 して しまった。改宗 した彼 はジコと. ok. して村の祭 司を務 めることはできないC そ こでまた新たにジ コを決 めなけれ ばな らな くな. (T. った。. 5、6年前 にその新 しい村長 に自分 ( フテ ィの妹の息子 ‑ジュケの姉 の息子)がなった。. is. ジコが代わ るたびに、新 しいジコを受 け入れ られ ない家 は村 を離れ た。 それ で家 の戸数. Th. es. がずい分減 り、大村ではな くなったが、通 り名 は今で も大村である。 G 村のジコ ( 村長)の話か ら分か ることは、G 村でジ とジコの関連性 に問題が発生す る. Do ct. or al. 5 ) G 村②時代 に入 ってか らである。問題 の始ま りはジコであったサニ ようになったのは、(. 945年頃に G 村 を出て行 った ことにある。 ジコがいな くなる と誰 も村 に残 ることはで が 1 きない とされ るが、 この とき残 され た家々はジコがいな くなった村 を出ることを しなかっ. た。 これ はジコと村人 との間で移動 に関 して同意に至 らなか ったためであろ うと考 え られ る。転出 したジコと残 ったフテ ィとの粋 は第二イ トコ同士 と弱 く、 もともと二つの村 の合 流の形に近かったので、この よ うな選択が生 じた と考 える。 だが この選択 はつ ぎのジコの 死の ときに少 なか らぬ影響 を与 えた よ うに思える。 ジコが死亡す ると、T村や 正 村の事例 のよ うに離散す るとされ るが、G村 はそれ を行 っ. 1 20.
(25) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). ていない。 それ は前回の留まる とい う選択が影響 してい ると思われ る。 また現実問題 とし. い る。すべての家が移動す るのが容易ではな くなっていたのであろ うし、また後述す るが、 村移動ができる適所 もな くなっていたのである。 だが留 まってジコだけを新 たにす る とい. St ud. う選択 は、ジ とジコの間に矛盾 を引き起 こ した。継承 した息子モ ドゥエ ポはその矛盾 ゆえ に結局、村 を出ている。. G村村長 はその辺 の事情 をあま り詳 しく話 さなかったが、村長 の娘婿 ( T村出身)の話 に. re. ign. よると :. 年少」のジコを 「 長」 この引継 ぎは 「 年長者」にとっては好ま しくなかった。彼 らは 「. Fo. として仰 ぐことができない。村 にいるはずではない一家がいるような状況になった。す なわち彼のオジ ( パティ)が村に居た。村はまとま りがなくな り、ブスも、この頃に村. of. を出て、水 田の近 くに一軒で移ったDブスはジコの 「 兄」になる ブスはジ ョド‑の孫 D. rs ity. 息子で、モ ドゥエポはサスペの孫息子である ( 第三イ トコ) 。モ ドゥエポでは うま くい かなかった。. ive. 世代交代 の ときに息子がジコを継承す る と、ジ コが 「 最年長者 」 である とい う条件 に矛. 。. Un. 盾が生 じる可能性 が高い S村 の よ うに戸数が少 なけれ ば父サニか ら長男 ム トウ‑の継承 も 可能 であるが、戸数が多 くなればな るほ ど 「 年長者 」が存在す る可能性 が高ま る。結局、. ok yo. 息子モ ドゥエポは G村 を出て、U 川‑分出 して彼 自身のジを作 るとい う形 になった。 その 意味では彼 も父か らジ コを継承 した ことになる。す なわち移動 してジを建 て さえすれ ば、 息子 の継承 も うま くい くことになる。. (T. 息子 が出て行 った G 村では故村長世代で系譜上 「 最年長」 となるジュケをジコとして選 んで落ち着いた。息子 よ り、年長 とい う条件の方が優位 であることが分か る。. is. ところが この騒動 にも関わ らず、ジュケが死亡す る と息子 タ トゥルがジコを継承 した。息. es. 子 が在村 していれ ば息子が継 ぐべ き とい うのは明 らかな決 め事 であるよ うだった。 そ うし. Th. てまた 「 年長者 」が在村す ることになった。や は り息子 では うま くい かず、彼 は 自らの信 仰 を捨てて仏教徒 になって しまったのである. 。. ct. or. al. 前述の T村 出身の婿 はそれ を次の よ うに説明 した。. Do. ie s). て3 0軒 とい う ドゥの戸数は多過 ぎて、すでに移動す る集落 の戸数の上限を大幅 に上回って. タ トゥルは とても長いこと病気がちだった。そのためいろいろ儀式をやっていたが、 ゴを治める神 ( 超 自然的存在)‑の儀式 したその翌 日に息子の 1人がひ どい頭痛を訴え て、突然、死亡 して しまった。 彼は混乱 して、どうしてよいのか分か らなくなった。悩 んだ末、土着の神々と絶縁できるとい うので仏教‑改宗 した。そ して彼は 1 983年に亡 くなった。. 1 21.
(26) 東京外国語大学博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies). ジコの 「 息子の継承」 と 「 最年長者 」 とい う条件は村 を移動 させ続 けることで成 り立っ. ie s). か、あるいは数軒の小集落において成 り立っ条件であった。. St ud. 3.Ⅴ村の村長 ソジェ ( 1 926年頃生、60歳位)の移動 ( 図 4‑ 7). Ⅴ村は. 現在は Ⅴ 村 と呼ばれているが、これは 1 958年頃に再移住 した後の村名である。. 1 930年頃まで存在 したパパを村長 とす る N 村 と関わ りがあったO 最初のジコとして記憶 さ. ign. れているスポは N村に居住 していたのである。. re. Ⅴ柑村長 ソジェは、. 「 伯父 ( 母の姉の夫)スポか ら聞いた話だが、伯父は以前に N 村に住んでいたことがあっ. Fo. たそ うだ。T村 を作った トウルや 正村 を作ったタマハ も一緒にいた。スポは N村村長パパ の弟である。N 村に住んでいた とき、政府の役人が頻繁に来 るので、スポはそれ を嫌って、. of. 役人が来ないような奥地‑移 った。それか らまた戻ってきて、テ イ トー キ ( 高水川源流、以. rs ity. 下 H 川) に家 を建てたが、まわ りに村 もなかった し、数軒だけだったので、楽 しくない、 もっと人が多い ところの方が良い と、かつての N村の近 くにもどってきた。そ して R村を. ive. 作った。」. Un. ( 1 ) ノ トクエ (/n〇: ‑ t ' k 耶: / 虹の背)村時代 ( 〜1942年) ( 以下、R村) 自分は R 村で生まれた。川がちょうど虹の背のよ うに曲がっていていたか らそ う呼ばれ. ok yo. タロ ( シナモン ていた。 ノ トクエは N 村の川向こ うにあって、そばを流れ る川 の名でシソー の木川)と呼ぶ こともあった。あそこは水牛が水浴びす るのにちょうど良い ところだった。 村長は伯父スポだった。. (T. 1 1月)に亡 くなった。村は村祭の ときと、稲の収穫期の間は移 しては スポは稲刈 りの頃 ( いけないので、年が明けて、播種の前、ちょうど焼畑の伐採が終わった頃に ( 2月‑3月)、. is. 泉があるかつての N 相の近 く移 って新 しく村 を作った。前の N 村はも うなかった。みな. es. T相や K村‑移 っていたoR村か ら 1軒が G村‑移 ったので、一緒に新 しい村‑移ったの. Th. は 6軒だった。. Do. ct. or. al. ( 2) N 村時代 ( 1 942‑47年 :約 5年間). 泉があるので、このあた りに村を作 ると N 村 と呼ばれ る。 自分の父親パゼ‑が最初 に移. って家を建てたので、父がジコになった。 ( 故村長スポの息子はジコを継がなかったかとの問いに対 して)スポの息子はまだ青年で結婚 もしていなかった。だか らジコにな らなかった。 この村は水 田の近 くだったので、豚 が稲 を食べて、収穫が減 って しま うので、5年 くらい しかいなかった。水 田か ら遠い ところ‑移 ろ うとい うことで、また H川‑戻った。 この村にいるときに 日本兵を見た。. 1 22.
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