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図書館教育と図書館学教育

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図書館教育と図書館学教育

著者 岩猿 敏生

雑誌名 同志社大学図書館学年報

号 38

ページ 139‑145

発行年 2013‑03‑09

権利 同志社大学図書館司書課程

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014177

(2)

 1952年に発足した同志社大学の司書課程は2012年で開講以来満60周年を迎える。半世 紀を越える同課程の長い歴史の一時期にかかわりえたことは、私にとって幸なことであっ た。

 ところで、日本図書館文化史研究会の『図書館文化史研究』27号には、柴田正美によ る詳細な「太平洋戦争終結後の図書館学教育(司書養成を含む)体制に関する年表」(1)

が掲載されている。同年表によれば、わが国における戦後の図書館学教育は1946年4月 の同志社大学図書館学講習所開設(開講は10月)から始まっている。この年から数えれ ば同志社大学における図書館学教育は本年で66周年となる。

 しかし、この図書館学講習所は同志社大学としての正式の司書養成課程ではなく、そ れは同志社大学図書館学研究会が主催する講習会であった。この研究会については同志 社大学文学部教授で司書課程担当であった青木次彦が『同志社大学図書館学年報』(第 8号)ですでに報告しているが(2)、この研究会について、私は青木による報告以前から 少し知っていた。

 それは、この研究会とは全く別の件で『図書館雑誌』の戦前の旧号を調べていた時、

1942年の同誌36巻4号の「図書館時事」欄で、「同志社大学図書館学講習会」の記事を 偶然眼にしたことがあったからである。同記事によれば、“同志社大学図書館では、昨 年四月以降毎月標記講習会を開き、ひとつには館員の教養の向上を図り、他方一般社会 人の図書館意識を高めるため、館員交替で業績の公開を行ってきた。”(3)とあり、1941(昭 和16)年4月2日の第1回研究会以来、毎月一回1942年3月に至る第11回までの各回の テーマと報告者名が記載されていた。ただこの記事では、第9回(昭和17年1月14日)

の小野則秋による「歴史的に見たる京都と図書館 其2(日本文庫史 第4回)」が記 載洩れになっていた。その後も『図書館雑誌』には同会が開催されるたびに記事として 掲載されていた。私は同講習会(実は研究会)はその後戦中戦後の混乱の中で活動を停 止していたのではないかと思っていた。ところが、青木の報告によればしぶとく戦後ま

図書館教育と図書館学教育

岩 猿 敏 生

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図書館学年報 第38号

で活動を続けていた。驚くほかはない。

 『図書館雑誌』で講習会と称されていた同志社のこの研究会は、青木によれば太平洋 戦争の始まる以前の1941年4月にスタートし、以後ほとんど毎月1回開催され、敗戦の 年以降まで活動を続けている。研究会が活躍していた期間は、日本全土が戦争のため焦 土と化していく時代である。京都は幸にも大きな戦火を免れたが、あの苛酷な時代に戦 争とは直接かかわりのない図書館に関する事項について、志ある人たちが集って研究会 を続けていたのである。研究会の最終回(第38回)は敗戦による大混乱の年(1945年)

の12月であるが、その時の報告者戸沢信義(宝塚科学図書館長)のテーマは「芝居錦絵 之研究」であった。

 研究会は前述のように『図書館雑誌』では図書館学講習会となっているが、青木によ れば正しくは同志社大学図書館学研究会である。青木はこの研究会について、“当初は 館員に対する臨時の講習会として発足し、それがいつしか常置の研究会となった…”(4)

と述べている。この図書館学研究会では当時同志社大学図書館主任であった小野則秋が 報告者としてもっとも数多く記録されているが、参加者は同志社の図書館員に限られず、

館外、学外からも参加者があり、会の開催は学外にも通知され、『図書館雑誌』にも毎 回掲載されているから、同志社大学図書館内の館員研修会的なものではなくオープンな 研究会であった。

 この研究会が太平洋戦争前から戦時中を通じて戦後に至るまで活動を続けていたとい うこととともに、戦前からすでに図書館講習会や図書館研究会ではなく、図書館学研究 会と称していたことに関心を持たざるをえない。

 明治維新以来、わが国はそれまでの文庫形態のものに替って欧米流の新しいライブラ リー思想を導入することになったが、ライブラリーが真にライブラリーとして活動しう るためにはその事業を担当する図書館員の問題が重要である。しかし、明治期には業務 としての図書館事務の理解と整備に追われ、図書館活動の本質を問おうとする図書館学 的関心は乏しかった。1892年3月に図書館員の全国的組織として初めて日本文庫協会が 設立され、その会員である西村竹間によりその年の12月に図書館に関するわが国最初の 著作『図書館管理法』が刊行されるが、図書館業務のみを取扱っており、業務を担当す る職員についてはただ「学校図書館管理者」に対する注意事項について述べているだけ である。また、図書館学についても、“欧米諸国ニ於テ…往々図書館学ヲ一種ノ専門科 トナス”(5)と紹介しているだけである。業務を担当する人への関心がなければ図書館業 務担当者に対する教育論も起りえない。

(4)

 西村の著作に次いで刊行されたのが文部省編、田中稲城稿の『図書館管理法』(1900年)

である。その前年(1899年)にわが国最初の「図書館令」が公布されたが、本書はその 解説版的役割を持つ。しかし、本書もまだ図書館業務の解説に終始している。同書は明 治の最後の年の1912年5月に改訂版が出る。改訂版でも項目としては図書館の職員の問 題はとりあげられていないが、「第四 図書館ノ創立」の項で“図書館ヲ創立セントス ル者ハ先ヅ第一ニ主任者ニ適当ノ人ヲ得ザルベカラズ”(6)と、図書館活動における担当 者の問題が始めて重要視されているが、その教育についてはなにも言及していない。

 図書館関係の初期の単行本で図書館員の問題に始めて言及するのは、時代が明治から 大正に変った1915年10月に刊行された日本図書館協会編『図書館小識』においてである。

同書では“図書館の成分として職員の重要なること図書又は建物に比して遙に大”(7)と 述べながらも、“我国には図書館学講修の途未だ開けず、斯業に関する良書の公行亦極 めて稀なり”(8)と、当時の実情を述べている。その後日本図書館協会からの政府へのた び重なる要請により、文部省が1921年6月に開設したのが文部省図書館員教習所であっ た。しかし、この教習所は正式の学校ではなく講習形態のものにすぎなかったが、終了 生には公立図書館への任用資格は認められていた。

 このように、太平洋戦争以前のわが国においては文部省図書館員教習所以外は、時折 開催される文部省や日本図書館協会等の実施する現職者対象の短期の講習会以外には、“図 書館学講習の途”は未開拓であった。このような状況下にもかかわらず、業務改善のた めの「図書館研究」は時代とともにようやく進み、とくに資料整理業務の面においては 成果を挙げてきた。

 しかし、情報の記録である文献(document)を収集して広く利用に供するとともに 後世に伝える図書館という極めて重要な人間の文化的社会的活動を学問的な研究対象と して、すなわち図書館学の研究対象として追求しようとする面はきわめて弱かった。東 京大学では1910年代末から20年代にかけて、一時期文学部国語国文学科で図書館学の講 義が行なわれたことがあるが、正式のコースとして定着することはなかった。図書館学 は戦前の日本では、大学において教えられ研究される主題分野とはなりえなかったので ある。

 それは大学の世界でそうであっただけではない。肝心の図書館界の内部においても業 務研究である「図書館研究」は盛んになったが、「図書館学研究」は時に言及されるこ とはあっても本格的に追求されることはなかった。日本図書館協会の機関誌『図書館雑 誌』の1964年に刊行された総索引で、「図書館学」の件名で1945年以前の文献を検索す

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図書館学年報 第38号

ると僅かに3件を見出すことができる(9)。しかし、そのうち2件は内容的には図書館学 と全く無関係である。1件が神戸女学院で課外授業として一教師が図書館に関する講義 を行なった経緯の報告である。

 戦前の一時期東の『図書館雑誌』に対して関西で刊行された青年図書館員連盟の『図 書館研究』では、その総索引『図書館研究総索引』(1943年)(10)には「図書館学」という 件名がない。しかし、同誌には同志社大学図書館学研究会のリーダであった小野則秋の

「図書館学序説―図書館学の可能性と限界について―」(9巻3号、1936)、さらに「図 書館本質論―図書館の人間学的考察―」(10巻1号、1937)の論文が掲載されている。

この2論文は小野の初期の図書館学に関する論考であり、小野が研究のスタート時から 図書館の業務研究に埋没せず、学問的研究対象として図書館という文化的社会現象にと り組んだことを示している。

 その後小野の図書館学研究は理論的研究から具体的な歴史研究に重点を移し、この面 で大きな成果を残したことは館界で広く知られていることである。

 小野の図書館学論及び図書館史論の基本的な考え方は、戦前期一部で受け容れられて いた「生の哲学」(Lebensphilosophie)であり、それに基づく生物史観であった。「生 の哲学」は本質的に反主知主義である。小野の図書館学研究及び日本の図書館学史上に おけるその意義については、かつて『同志社図書館情報学』に私見を述べたので(11)、こ こでは再述を避けるが、小野の図書館学研究が図書館学論、図書館史論からスタートし ているところに、図書館研究に埋没していた戦前期において、小野は特異な存在であっ たと言わなければならないであろう。したがって、彼がリードして出発した図書館学研 究会は図書館研究会や図書館講習会と誤記されていることが多いが、それは「図書館学」

研究会でなければならなかった。

 太平洋戦争により図書館も全国的に建物や資料の面で大きな被害を受けたが、同時に 深刻な問題は戦後の図書館活動を担当すべき人材不足の問題であった。小野則秋が館界 の人材養成に着目したのは当然であった。小野は戦前から続けてきた同志社大学図書館 学研究会の主催で、1946年10月同志社大学図書館学講習所を開設する。小野の記述によ れば、“以来定時制として24日間100時間の講義によって翌年3月末第1期終了生19名を 送り出した。うち10名は部外者で9名は同志社大学図書館員であったが、我が国戦後の 図書館員養成のトップを切ったものとして歴史的に明記される存在ともいえよう。”(12)と 述べている。

 以後講習所は1950年度まで5期にわたって毎年開催される。講習所の開設にともなっ

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て同志社大学図書館学研究会は会則変更を行ない、事業の最初に“図書館学講習所ノ開 設”を挙げたが、その当時の研究会の会員数は僅かに25名であったと小野は述懐してい る(13)

 このように、同志社大学図書館学講習所は同志社大学とは関係なく、小野がリードす る小さな研究会が主催したものであったが、年間100時間をこえる当時としては極めて 長時間の講習であったため、1950年に公布された「図書館法」はその付則で、この講習 所の第3期及び第4期の終了者に対しては同法による講習科目のうち4単位が認定され た。

 また、1946年の同講習所の最初の開講式では同志社総長の挨拶も行なわれているから(14)、 大学との正式の関係はないにしても、当然のことながら大学の了解のもとでのスタート であったと思われる。したがって、戦後の司書養成教育に関する年表のトップに柴田が 同講習所を挙げたのも首肯しうるであろう。

 講習所は1950年の第5期まで続けられ、5期合わせて143名の終了生を出して終了し た(15)。それはこの年1950年4月に「図書館法」が公布され、同法で司書の資格は文部大 臣の委嘱を受けた大学の司書課程の修了を要することになり、一研究会の主催する講習 所では司書資格は認められなくなったからである。それで第6年度にあたる1951年度の 講習は同志社大学の主催する夏期大学の講義として開催され、さらに翌年からは大学の 司書課程へと発展して、以来60年の歴史を刻むことになったのである。

 5年間続いた図書館学講習所の修了者で、この講習所を主催した同志社大学図書館学 研究会に入会する者が増えてきたため、1951年度の会員数は80余名に達した(16)。そこで 研究会としてはさらなる発展のため1952年4月に同志社大学図書館学会として再発足し、

1961年には『紀要』第4輯を「創立20周年記念特輯号」として340ページの大冊を刊行 したが、その後は全国的な学会も発足しその活動も活発化したためか、活動を休止した。

 1960年代の日本の大学は学生による大学紛争の嵐に見舞われたが、大学への進学率は 上昇する。一方経済界の復興とともに図書館界もようやく活況を示しはじめ、司書職に 対する需要も増加してくる。それに応じて司書課程を設置する大学も増加し、1966年か ら70年までの5年間だけで65大学が司書課程を設けた。

 しかし、80年代まで続いた日本の経済発展は90年代以降緊縮化に転じ、図書館も財源 や職員の縮小を余儀なくされていく。これまでの好況期に増加した各大学の司書課程は 資格取得学生の進路開拓という難題に直面してくる。このような状況下ではアメリカで すでに見られたように、全国的に司書養成課程は縮小に向わざるをえないであろう。

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図書館学年報 第38号

 大学における司書課程は社会状況の変化による影響を受けざるをえない。しかし、人 類社会の文化的伝統の基盤となる文献の保存と、時間的空間的にできる限り広範囲にわ たる利用が可能になるように、いかにシステムを構築していくかは人類文化にとって根 本的な問題である。紙は中国では2世紀以来、キリスト教文明圏では12世紀以来文献の 独占的な材料となってきた。しかし今や文献の電子化時代に入りつつあり、図書館は大 きな変革期に直面している。

 日本の大学における司書職養成課程としての図書館教育は、時代の推移にともなって 盛衰していくことはあっても、人類文化の根幹である文献の問題にかかわる図書館学教 育は、実務教育としてだけでなく社会科学の基本的な一分野として大学に根づいていか なければならない。とくに図書館学研究に長い歴史を持つ同志社大学において、自由な 学風のもとで図書館学研究とそれに基づく図書館学教育の今後の発展を期待するもので ある。

 本稿を草するにあたり、資料の一部について渡辺信一氏の御援助を得ましたことに対 し、感謝の意を表します。

 柴田正美「省令科目をふりかえる―戦後における司書、司書教諭養成体制を整理する―」『図 書館文化史研究』27号 2010年9月 p.25-30

 青木次彦「〈資料〉同志社大学図書館学研究会について―同志社大学図書館司書課程30年史史 料(その一)―」『同志社大学図書館学年報』第8号 1982年6月 p.94-100

 『図書館雑誌』36巻4号 1942年4月 「図書館時事」p.94-100

 青木次彦「〈資料〉同志社大学図書館学講習所の創設―同志社大学図書館司書課程30年史資料(そ の2)―」『同志社大学図書館学年報』第9号 1983年5月 p.84-91

 西村竹間『図書館管理法』金港堂 1892 復刻版 日本図書館協会 1978 緒言 p.13

 文部省編、田中稲城稿『図書館管理法』改訂版 金港堂 1912 復刻版 日本図書館協会  1978 p.14

 日本図書館協会『図書館小識』日本図書館協会 1915 復刻版 日本図書館協会 1978 p.31

 注 p.3

 日本図書館協会編『図書館雑誌総索引 明治40(1907)年-昭和35(1960)年』日本図書館協 会 1964 創立70周年記念出版

 青年図書館員聠盟編『図書館研究』第16巻及総索引 昭和3(1928)年-昭和18(1943)年  青年図書館員聠盟 1944

 岩猿敏生「小野則秋の図書館学研究について」『同志社図書館情報学』1993 p.1-14

岩猿敏生「日本図書館学史上における小野図書館学の意義について」『同志社図書館情報学』1994  p.1-19

 小野則秋「同志社大学図書館学会20年の回顧」『同志社大学図書館学会紀要』第4輯 創立20 周年記念特集号 1961 p.7

(8)

 注 p.8

 注 p.89

 注 p.7

 注 p.9

(いわさる としお。元関西大学教授)

参照

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