序論
聞一多の「賈島」(一九四一年、後『
詩雜論』
の後の賈島 字にも滿たない短い文章であるが、すぐれた洞察に富み、そ 收)は四千 究の出發點となるほどに大きな影
聞一多の「賈島」にはいくつもの創見が を持った。
その最たるものは、 められているが、
「賈島の時代」と を賈島の詩風が風靡した時代として め、すでに賈島の生においても彼の
には不 圍
な下 るものである。文章の 士族出身の詩人が集まっていたことを指摘す 頭を引用しよう。(拙譯)
これが元和長慶年
であった。すなわち、こちらでは年老いた孟郊が、あの の詩壇における三つの有力な新傾向
味のきいた刺々しい五言古體詩を唸って世
て 人心に向かっ
惡の言
叉がおどけた仕 を浴びせかけ、その罵聲の中では、盧仝と劉 で人を笑わせ、韓愈は
々と く大
で佛老を攻 聲
していた。あちらでは元
と張 白居易の と王建が、
會改良の旗印の下で、リズミカルな樂府の
に乘せ、樣々な階 子
の中に潛む病
げて、 な小さな悲劇を取り上 會にむかって哀訴していた。そして同じ時に、
く離れた古びた禪
姚合が一群の や、小さな縣の官舍において、賈島や を引き
世のために、また嗜好を滿足させるために、暗い色 !れて詩を作っていた。各人の出
は出世のために) 言律詩を作ったのである。(暗いのは嗜好のせいで、五言律詩 の五
友を招く姚合
姚合詩集團の形
"
松原
ここで聞一多が言う「
く離れた古びた禪
の役場において、賈島や姚合が一群の や、小さな縣 を引き
作っていた」とは、 れて詩を 登元和合宰相崇曾孫。(姚) ろう。 らくは、左記の二條に基づくものであ
士第、武功
…武功。…與馬戴・費冠卿・殷堯 、世號姚 ・張 、李
(『 師之。
賈 詩紀事・姚合』卷四九)
仙燕人。……同時、喩鳬・
非熊、繼此張喬・張 ・李
・劉得仁、凡
子皆於紙上北面。隨其
淺深、皆足以 得 其身而名後世。(方岳「深
宗儀『 偶談」(元・陶
郛』卷二十下
聞一多が古びた禪 收)の賈島條)
姚合を取り卷く詩集團の一員である詩 と言ったのは、賈島の從弟で、賈島や
・無可の
武功縣 に置くものであろうし、小さな縣の官舍というのは、姚合が (1) 坊を念頭
や萬年縣尉を
指すものであろう。そのような場 めていた時の縣の官舍を(縣齋)
は、確かに賈島たちが
りに集って詩會を催したところであった。本稿が取り上げるのは、
るために必 という「賈島の時代」が出現す であった賈島の文學の
贊 にどのように形 =詩人群が、初期
されたかという問題である。またその詩人 たことを、姚合の 群の紐帶となったのが、實は賈島その人ではなく、姚合だっ
體な働きを
!して考察するものである。
一 姚賈の初期交
姚合は、嚴密には、賈島を取り卷く詩人たちの一人に位置づけることは不
壇に對する影 "當である。當時においても、また後世の詩
#においても、兩
姚賈という竝稱は、こうした文學史 は相い拮抗する地位にあり、
ある。南宋の江湖 $價を反映したもので
%等が、姚賈に代表される
體の文學を
&
'する中で、趙師秀が姚合と賈島のために『二妙集』を
(
んだのは、兩
の對等の關係を象
)している。もっとも、兩 は對等の關係に置かれながらも、その詩壇に果たした役
*
は
+なっていた。兩
に、自らの役 は惹き付け合いながら、互いに補完 賈島は、元和七年秋の上京の直後より、姚合との交 *を果たしていたと言うべきなのである。
賈島が姚合を初めて識った時期については、現在、三 めている。 を始 る。傳統な あ は、李嘉言が「賈島年譜」(『長江集新校』
上 收、
,古 出版 -に一九八三年)
'べるもので、賈島が鳳
.に /
行の
01、武功縣
に在任していた姚合に會ったとする。
友を招く姚合(松原)
第二 は、齊文榜『賈島
究』(人民文學出版
第六章第三 の二〇〇七年)
「姚合」に
識したとする べる、元和八年頃、長安において結 。この 年の秋、兩
その後もなく長安において結識したと考えるである。第三 は應試のために上京し、
は、張震
『 士
低吟―賈島詩歌
新探』(中國
學出版 會科
二〇〇六年)の第九章「姚賈初識考」に
年から七年のに范陽と洛陽・長安をたびたび べる、元和五 賈島が、經路の 復していた た姚合と結識したとする 中にある相州臨河縣で、そこに家居してい この中、李嘉言が唱える姚合の武功 である。
在任時期
でに否定されている。 は、す 年の姚合
究の 武功縣 果として、姚合は となる
に、魏
かにされ、かつこの時期の兩 度使從事となったことが明ら の交 が確 第二の齊文榜 されたのである。 (2)
と、第三の張震
は、兩
上京した元和七年の秋の が應試のために
後と見る點で、時
には大きな
たりはない。本稿では便宜
に、齊文榜の
なお本稿がこれ以上にこの點に に從いたい。
姚賈の交 く拘らないのは、その後の を考える上で、この點が、決定
姚賈の交流が回想の文 ないためである。 な分岐とはなら ではなく、當人たちの同時
料と して初めて確
されるのは、姚合が元和十二年
から十五年
までの魏
の從事(官銜:試校書
姚合を魏 )の時期に、賈島が 春の科を共に受驗して に訪問したものである。賈島と姚合は、元和八年
で浪人生活を !第。姚合はそれから三年、長安
"っており、
#くともこの時期に兩
結んだと推定される。その後姚合は、元和十一年に は交際を
$士
%第、
&十二年に吏部銓試に合格し、同年
に釋 'して魏
(試校書 從事
)となった。その
姚合の赴任先からの招待を受けて、この魏 &年(元和十三年)の春、賈島は、
の たものと推定される。時系列に從って、三首を (を思い立っ の賈島の詩は、魏 )げる。初め に の歸路に *年逗留した後、姚合と別れ、長安へ +河を南に渡った黎陽で作られたものである。
黎陽寄姚合賈島魏
,-裏 從熟魏
,の -裏 去日 才子齋中止泊多才子の齋中止泊すること多し び從ふこと熟し .楊垂紫陌去く日 ゆ
.楊紫陌(
歸時白 ,に垂れ大路)
/夾 +河歸る時白
/ 古鏡曾經幾番 新詩不覺千迴詠新詩覺えず千迴詠じ +河を夾む 0古鏡曾經て幾番か かつ
0ける 中國詩文論叢第二十七集
惆悵心思滑臺北惆悵たる心思滑臺の北滿杯濃酒與愁和滿杯の濃酒愁ひと和す
(大意)三國魏の
である
に、
官舍には幾 れ立って久しく游び、また君の も泊めてもらった。長安出發の時には、
枝を垂れていたが、長安に歸る今は、枯れた白 大路に柳が が ている。君の作り立ての詩を、思わず千回も口ずさみ、 河の兩岸を蔽っ
(魏しい思いが、君のいる滑臺の北 の顏を覗こうと、古びた鏡を何度もきなおした。名殘を惜しむ悲 ろな自分 上は滿杯の酒を、私の愁いと共に飮み下すしかあるまい。 )に惹かれてゆく。かくなる
の詩は、賈島が魏
から長安への歸
合が についた後に、姚 って寄せた詩である。
喜賈島至姚合布
懸蹇驢布
飮酒誰堪 千里到貧居千里貧居に到る 蹇驢に懸け
酒を飮めば誰か
省語似相疏けば相ひ疏なるに似たり語を省 はぶ 愛眠知不醉眠るを愛して醉はざるを知らんや 留詩自與書詩を留めて自ら與に書す みづかため ふに堪へん 軍吏衣裳窄軍吏衣裳窄し
應暗笑余
た應に暗かに余を笑ふべし
(大意)君は痩せた驢馬の背中に布
を挂けて、千里はるばる魏
なる我が陋屋にやってきた。共に酒を飮むのに、誰が君の代わりが務まろうか。君は詩を紙に書き留めて、私のために殘してくれた。眠くなれば寢てしまうので、何時しらふでいたのか分からない。君と心が
じ合うので、言
を交わすことなく、殆ど疎
ただろう。自分は、 な仲に見え 度使に仕える武官ゆえ、窮屈な軍
「 とう。それを君は、きっと心ひそかに笑っていたのではあるまいか。 を身にま 應暗笑余」の
遜の語は、正規の官職ではない
文官ではなく軍 職、しかも を身にまとう武官であることを言うものであろう。
この詩に對する賈島の
事が、
覺入關 の詩である。第七句「不 の留守先に屆き、賈島は歸京(入關)後にこの詩を讀んで、 」を見ると、姚合の「喜賈島至」詩が先に長安の賈島 の「酬姚校書」詩を
したものと指定される。
酬姚校
書
賈島因
貧
行
貧に因りて
を行き
友を招く姚合(松原)
得見舊
交
舊き交
好詩 美酒易傾盡美酒傾け盡くし易きも を見るを得たり 卒酬好詩卒かには酬い には
公堂 し
共到公堂
不覺入關 私第夜相留私第夜に相ひ留まる に共に到り 覺えず關に入ること
別來林木秋別來林木秋なり し
(大意)貧乏な自分は、仕方なく就職のために
く そこで友の して來たが、
かい持て
すいが、君の好詩は、すぐに唱和できるような代物ではない。役 しを受けた。美酒は、飮み乾すのはたや
には、
一 に出かけ、寓居には、一
に泊まり
んで、交
りを盡くしたものだ。ぐずぐずしている の限 に、長安に歸り
くのが くなった。君と別れてから、木々にはもう
が この詩に んでいる。
し、姚賈の初期交
について、三つの確
ておこう。第一に、「得見舊 をし
交
」の句によって、賈島の魏 訪問の以
を 、すなわち長安で共に應試を目指して浪人生活
っている時に、兩
がす
で
に
交
二に、「因貧行 關係にあったこと。第 」から、賈島の魏
訪問が
とする求官活動と推定されること。科 職を得よう の合格が無くとも、
度使の
不首尾に ために、その就職の斡旋を買って出た可能性が高い。結果は 職に就くことはできた。そして姚合は友人賈島の わったわけだが。第三に、詩題の「酬姚校
書
この時の姚合が試校書の中央官の官銜を帶びて、魏 」から、
使從事に在任していたこと。すなわち校書は、名義 度 であって、實際に祕書省校書の職務に就いたのではない。 !職位
二 武功縣
姚合と賈島との交
姚合は元和十五年 は、その後も繼續される。
"に魏
歸京し、 度使從事を辭任して、秋には
#年ばかり長安で
$の任官を待った。長慶元年
に武功縣 821春
春まで在任した。この武功縣 %&(正從九品上)に任命され、二年後の長慶三年
%&の時代は、姚合が武
功
體
よばれる獨自の作風を確立した點で、重 と
姚合を、最 'な時代となった。
官によって姚少(祕書少監)
監
としても、この初期の小官をもって姚武 と呼ぶのは自然
功
のは、 と呼ぶことがある
(代の姚合文學の
)價を象
功體の典型 *!に示すものである。武 (3)
!作例として、
$の詩を讀みたい。
武功縣中作三十首其一姚合 中國詩文論叢第二十七集
縣去
縣は
を去ること
馬隨山鹿放馬は山鹿に隨ひて放たれ 爲官與隱齊官と爲るも隱と齊し く 雜野禽棲
遶舍惟 は野禽に雜りて棲む 架舍を遶るは惟だ
架 階是藥畦階を
更師 すは是れ藥畦 叔夜更に
不擬作書題書を作りて題するを擬せず 叔夜を師とするも
(大意)武功縣は、
長安から
馬は山鹿の群れの中に放たれ、 く、官となっても隱と同じだ。
は、野鳥と一
に 官舍の われている。
りは、
。階まで
びるのは、藥畦。
はいるが、かの「山 康先生に仕えて
源に與へて
交するの書」のような俗物に
姚合のいわゆる武功體の特 を申し渡す手紙を書くのは億劫なのだ。 交 功縣中作三十首」の其一に について、蒋寅氏はこの「武 しつつ、四點「縣
似隱」「種 地僻」「居官 生」「生活懶散」に整理する。それは
世界の中心から するに、
のように振る い邊鄙な小縣において、官に在っても隱 い、
を育てては病身を氣
は至ってのんびり氣儘、そのようなアルカディアの って、生活
人とし て自己を
言うまでもないことだが、姚合が事實それほどに病 く文學なのである。 (4)
で、
も 嬰であったと考える必
はない。武功縣
る直 !"とな
#に、彼は魏
てもいた。また姚合が就いた畿縣である武功縣 (5) 時期には憂國憂民の思いを吐露する威勢の良い從軍詩を作っ $%度使の僚佐(從事)であったが、その
姚合が 理解すべきものである。 生活の直接な反映なのではなく、姚合の美學の反映として 鄙しむような小官であったわけでもない。武功體の文學は、 !"が、人も
!"となった武功縣は、長安から
ある。姚合は、ここが長安から比較 渭水の北岸に沿って、馬嵬を經てさらに西に行ったところに &八十キロの西、
傳って、朱慶餘・殷堯 'い縣であることも手 記の詩から、武功縣を訪ねたことは確實と思われる。 賈島には、武功縣で作られた詩が殘っていない。しかし左 ている。 (7) で、姚合の顰みに倣って、武功體の風味を持つ詩を書き殘し (ら友人を招き、彼らはその武功の地 (6)
寄武功姚
!"
賈島居枕江沱北、
)懸渭曲西。數
*曾 +見、幾處得書披。
友を招く姚合(松原)
「驛路穿
阪、公田帶淤泥。靜棋功奧妙、
作韻
鋤 淒。
留叢藥、
山上石梯。客迴河水漲、風
空地苔 夕陽低。
井、孤村火溪。卷簾
、 隴色澄秋 印子規啼。
、邊聲入戰
」。會須
縣去、況是
招攜。
(大意)長江の北に
ている。幾 寢しているが、心は君のいる渭水の西に向かっ も、君を
ことになった。街 に見たし、行く先々で君からの手紙を讀む は 野の丘を
たりと詩を作るとき、その がっている。靜かに碁を圍むとき、その差し手は奧妙であり、ゆっ けて引び、官田は濕地に廣
べは悲しい
にも美しい。
を刈って、
を守り、山を
ねて石段を登る。客人が歸
川は水かさを に就く頃に、渡る し、風が吹き
苔が井き地では、 こる頃に、夕日は沈もうとする。空 すだれを卷こうと窓邊に出ると、に見える。モミジが まで廣がり、小さな村は、その燈が川の向こう
官印を仕 ちかかり、
おうとする時、ホトトギスが鳴く。隴山の景色に、秋の が輝き、邊境の氣配に、陣太鼓が
この詩に據れば、賈島はこの時、長安を離れて長江の北岸 ているのだから。 縣を、きっと訪ねることにしたい。いわんやこう何度も招待を受け く。そんな君のいる武功 あたりを(江沱北)
合から何度も招待を受けて、訪問を 行中であり、武功縣に赴任していた姚
中 束した。
の大部分を占める第五句「驛路穿
「邊聲入戰 阪」から十八句 合が賈島に寄せた詩( 」までの十四句は、武功縣をくが、これは姚
合に限らず、詩友を招く時には、 武功の光景を復唱するものであろう。姚合は、この賈島の場 !"にく「武功縣中作三十首」等か)
努めて魅力 #らく任地武功縣の樣子を 賈※島の武功縣訪問は、朱慶餘と一 $に詩にいて誘ったのである。 ※
左記の朱慶餘の詩が、それを推測させる。鳳 (8) %だった可能性がある。
武功縣からは西 &は、岐山の麓、
鳳 百キロにある。
&西池與賈
島 '
'
四面無炎氣、 (涼朱慶餘 池闊復深。蝶飛逢
)、魚戲見人
拂石安 *。 +,、移床
-樹陰。幾迴同到此、盡日得
姚合は、友人を自分の任地に招くことを樂しみとする、 吟。
.
交
ような $な人物だったと思われる。しかもそれは、韓愈の場合の /い 0張を
"げて自分の共鳴
1を る 2る領袖のような振 いとは 3なっていた。姚合自身は年齡も官
4も るにもかかわらず、友人としての水 5位にあ
殊更ていた。それにしてもに詩友をはるばると任地まで招い 6$な關係を作ろうとし 中國詩文論叢第二十七集
て接待するに至っては、單なる
に特 交好きの枠を越えて、姚合
別
振り な趣味と言うべきであろうか。
れば、かつて姚合が賈島を任地の魏
その後の姚合の振る に招いたのは、
いの原型を作ったという點で、重
に友人を招き、そこで文 意味を持つものである。この時姚合は、自分の赴任先の官舍 な 長安から余りくない武功縣の の交わりを結ぶことの喜びを知り、
となった時に、早
を實行に移したのである。なお友人を、それを目 それ て自分の任地に招待することは、 とし のことではない。多くは、 詩の中では必ずしも常見 行の
中で友人の任地を
かり、ついでに立ち寄る りか 度である。 (9)
三 萬年縣少尉
長慶三年の春、姚合は武功縣
年縣尉に就任し、二年後の長慶五年の秋まで(從八品下) を罷め、その年の秋に萬
ている ( め
萬年縣は、朱雀大街を以て二分される長安の東 。 )
分を管
する縣で、政廳は、東市の西に
ば 接した宣陽坊にある。言わ 心の
務地を得たことによって、姚合は一
人たちを呼び集めることができた。その官舍(縣齋)は、賈 氣樂に、友 島の「宿姚少府北齋」詩(後
の頷聯「鳥)
萬年縣の官舍に最も多くの參加 客臥時」によれば、政廳と一體のものであった。 吏歸後、蛩嗚
が集まったのは、
慶餘の詩が記す、賈島・ の朱 非熊・無可、それに朱慶餘と、
人の姚合を加えた五人が一堂に會したものである。この時は、殷堯
い。なおこうした夜會は、一の宿泊を にも姚合の誘いがあったが、病氣で缺席となったらし
たこと、「 !提とするものだっ "坐」「漏聲殘」の語句から知ることができる。
與賈島
莫厭 非熊無可上人宿萬年姚少府宅朱慶餘 "坐厭ふ莫かれ
"を 貧中會聚 じて坐するを
#貧中會聚すること
堂 #し
$%氣入堂
$しくして
思を役して殷生役思殷生病(殷堯 燈在漏聲殘燈在るも漏聲殘はる そこな %氣入り
當禪豈覺 病めり)
&
禪に當たりて豈に
非不惜餘歡餘歡を惜しまざるに非ざるなり 開門各有事門を開けば各おの事有り &きを覺えん
(大意)夜
しの坐禪を、覺悟しようではないか。貧乏
'らしの中、
友を招く姚合(松原)
こうして時
客 を工面して顏を合わせることは、容易ではないのだ。
はがらんとして、
の さが
び が、水時計の み、燈火は燃え續けている は夜が盡きるのを
げる。殷堯は、
て來られなかった。ここに集う我等は、せめて 經症を患っ さを 組もう。明 れて坐禪を みたくとも、こればかりは 、門を出れば、おのおのやることがある。名殘を惜し
し方ないのだ。
舍が如何に に、萬年縣の官舍に集會した彼らの筆下に、萬年縣の官
かれているかを見ることにしたい。
目は、武
功
體
の
詩
人
である姚合の美學が、彼らの
かどうかである。まず姚合自身の作。 で共有されていた
萬年縣中雨夜會宿寄皇甫甸姚合縣齋
寂寞縣齋
夕雨洗 た寂寞
苔夕雨
苔を洗へり
氣燈 潤
氣燈
かに潤ほい
聲竹共來
蟲移上階 聲竹と共に來たる 蟲移りて階に上りて
客 づき
到門迴客
唯應對酒杯唯だ應に酒杯に對すなるべし 想ひ得たり想得吟詩處きみの詩を吟ずる處 ちて門に到りて迴る かへ の雨が 萬年縣の官舍(縣齋)は、やはりひっそりとしていて、夜(大意)
い苔に 濕い、冷たい っている。すがすがしい氣配に、燈火も心なしか はしを登って きが、竹のそよぎと共に聞こえてくる。蟲は、きざ 寄ってきた。客は、人の訪れを氣
まで って、庭先を門 いて ってきた。皇甫甸よ、君のことを思い
君が詩を吟ずる時、きっと酒と向かい合っているに かべている。
がら邊鄙な村里の一角のように ここで姚合は、長安の中央にある萬年縣の官舍を、さな いないのだ。
き出す。「縣齋
この「 寂寞」、こ 齋も、やはり以 」の助字は、事態の繼續を意味し、「ここ萬年縣の縣 第六句までは、その縣齋の寂寞を 武功縣の縣齋のように寂寞としているのである。第二句から である。姚合の知っている縣齋は、武功縣以外にない、その !の縣齋と同じように、寂寞としている」の
き出す。例えば、夜雨が
苔を濡らす。
苔とは、詩の中では決まって、人の訪れの 待たない。この詩を讀む "えた寂しい世界の一角を填める景物であることは、言うを
#は、詩題の「萬年縣中」の
ければ、 $明がな
%臺が大明宮と東市を
に控えた長安の街
讀 ん中であるとは、想像もできない。 &の眞
#がそのようにこの詩を讀む時、姚合は、彼の目
'
中國詩文論叢第二十七集
を ことと、これが姚合の文學の美學であり、武功縣 長安の中心であったとしても、世界の邊鄙な片隅に布置する したことになる。眼の屆くあらゆる光景を、假にそれが
に彼が完 の時代 した「武功體」の特
この姚合の詩と同座の作と推定されるのが、 なのである。
姚合詩と同 の賈島の詩。
韻
の
五
言
律
詩
であり、詩友と集
會
同
座
の
況
で、秋 の中
の
夜
雨
この推測の 不在の友人を思って作られた詩である。を詠じ、
りであるとすれば、姚合・賈島以外に、この時 荀 玄も同席していた。なお皇甫荀は、賈島には別に「題皇甫 田廳」詩もある。姚合詩の「皇甫甸
「皇甫荀」は、
の譌りであろう。 」の魯魚
雨夜同
雨多風更吹雨多くして風も更に吹く 桐竹遶庭匝桐竹庭を遶りて匝り 玄懷皇甫荀賈島 如舊山夜
磧雁來期 臥聽瀑泉時臥して瀑泉を聽く時の如し た舊山の夜に 磧雁來期
秋鐘到 く
遲秋鐘
に到ること遲し
西吟 客 西吟
の客を 中夕話
思中夕話りて
ねて思ふ
(大意)桐と竹は、庭の
りを取り圍み、雨が
吹きつのる。故 りしきる中、風も い出す。 の夜、伏して瀧の水おとを聞いたかつての時を思 北の雁は、そろそろやって來るだろう。秋の鐘の
は、
の中に くから く。疎水の西に
む 賈島から、もう一首。 われらは夜の更けるまで語り合い、そして懷かしんでいるのだ。 吟の詩人、君のことを、
宿姚少府北齋賈島石溪同夜泛石溪同じく夜に泛び復此北齋期復た此に北齋に期す鳥
吏歸後鳥は
蛩嗚客臥時蛩は嗚く客の臥せし時 ゆ吏の歸りし後 涼雨細
を 開印 せば涼雨細やかに
鐘遲印を開けば
憶此 鐘遲し
川岸憶ふ此の
如今是別離如今是れ別離なるを 川の岸
(大意)韓愈の
南の別の南溪では一
!に舟に乘り、そしていま
友を招く姚合(松原)
は君の萬年縣の官舍の北齋を
束 鳥は鳴き止み、客人が臥 り訪ねる。役人が歸った後に、
に付く時に、秋の蟲は
りに鳴く。夜に 門を閉める頃おい、涼しい雨がしっとりと
出して り、君が官印を取り る。思い出すのは、かつて 務に就く頃おい、夜明けの鐘のがゆっくりと聞こえてく
川の岸邊で君と
ごした懷かしい時
「復此北齋期」とは、姚合から誘いがあって、その 只今、君と別れるのだ。 。 束を
えずに官舍の北齋を訪ねたことを言う。「憶此
かつて魏 川岸」とは、
從事の姚合を訪ねた時、二人で魏
( を漫)
したことの回想。魏
の南を、
一帶は、曹丕が、建安の文人たちと交 川が流れている。なおこの この詩の したところでもある。
臺となった萬年縣の縣衙がある長安
坊は、 の宣陽
な東市のすぐ西
に位置し、大明宮も
顯貴の いために、
たちが家
を 詩を讀む限り、特に頷聯「鳥 ねるところでもあった。しかしこの
それが 吏歸後、蛩嗚客臥時」等は、
功縣の縣齋を の一角であることを思わせるものはなく、邊鄙な武
いた詩句と
別が付かない。この樣な
たものと 趣向は、賈島自身のものと言うよりも、姚合の趣味に寄り添っ 寫の
好材料である。 斷すべきであろう。武功體の何たるかを確する、
四 金州刺史
以上
!べたように、姚賈の初期交
分の任地(魏 は、姚合が、賈島を自 その後しばらく、姚合が京官として長安に で續けられた。 "・武功縣・萬年縣)の官舍に招く、という形
ては、第六 は、互いに自宅に招くなど親密な關係が續くが、これについ 務する時期に
#に
$單に整理するので、ここでは
下、姚合が金州刺史・杭州刺史として %愛する。以
&地に赴任した時に (
賈島を任地に招待していたことを、重點 、 ')
姚合が したい。 (に紹介することに )部員外
大和六年秋。在任は(八三二) *(從六品上)から金州刺史に轉じたのは、
+年秋までの、實質一年
ある。金州(陝西省安康市)は、 で 刺史は、地方の大官であり、この時期の姚合は十分に榮 ,中盆地の中心に位置する。
姚合は、金州に ていた。 -し 招待した。 .任すると、例によって知友たちを任地に
金州書事寄山中舊友姚合 中國詩文論叢第二十七集
安康雖好郡安康(金州)好郡なりと雖も刺史是
刺史は是れ
かん
買酒
飮酒を買ひて
人を憂ふること骨肉に同じ憂人骨肉同 事を親しくすること星河在り親事星河在 衆も亦たわが心の公なるを覺衆亦覺心公る し 自ら爲政の拙なきを知るも自知爲政拙 吟詩一室空詩を吟じて一室空し 飮み 書嵐色裏
井邑 鼓角水聲中鼓角水聲の中 書嵐色の裏 州接井邑
帆檣 州に接し
路帆檣
野亭 路にず
帶霧野亭
竹寺 るるも霧を帶び 多風竹寺
燒林 漑稻長川白稻に漑ぎて長川白く なるも風多し
岫紅林を燒きて
舊山期已失舊山期已に失へり 岫紅し 思何窮
男兒五馬雄男兒五馬雄なり 林下無相笑林下相ひ笑ふもの無し 思ひ何ぞ窮まらん (大意)金州は、立
日酒を買って、がな一日飮み續け、詩を作っては、部屋は空っぽで な郡だが、刺史の自分は、無能な年寄りだ。
の 大いのを分かってくれる。事なことは人任せにせず、公明正大。人 えもない。自分でも政治が下手と承知だが、民は、自分に私欲な を心配するのは、骨肉の身
氣配の中に積まれ、鼓角の軍樂は、川 と同じだ。事務の文書は、山の の中に
く。村里は
接し、帆 に は、
水を下って
にじる。野面の亭は、
でも穩やかに靄がかかり、竹林の中の寺は、 れてた日 なのに涼風が吹き
ける。稻田に水を灌ぐのを見れば、川面は白く輝き、林を野燒きすれば、山の端が赤く見える。故
の思いは、 に歸ることは、期待できず、隱遁 この詩の の孤獨をかこつ有樣だ。 自分は、ない。五頭の馬に馬車を牽かせる大官となったが、我が身 るばかりだ。園林の中にいても、共に談笑する友がい
目點を確
嶺山 合は、自分の任地に友人たちを誘っていること。金州は、秦 すれば、第一に、ここでもやはり姚
をてて長安と
!接し(「井邑
世界に 州接」)、賈島ら、詩の た。姚合からの誘いを承けて、長安の詩友たちは、積極 "まう友人たちに來訪を呼掛けやすかっ(「山中舊友」)
反應している(後 #に 第二に、武 $。)
功 %
體 %
の %
文 %
學 %
「安康をここでも作っていること。 %
友を招く姚合(松原)
雖好郡、刺史是
。買酒
怠惰な無能 飮、吟詩一室空」の部分で、
としての自畫像を
型 き出すことは、武功體の典 な手法である。また「書嵐色裏、鼓角水聲中」は、爲政 の という隱水聲(川のせせらぎ) な任務である民政と軍政を、嵐色(山林の氣配)と
の世界の中に仕
い とするものである。「舊山期已失、 もう 隱の思いの吐露、「林下無相笑」の同好の文人たちへの思 思何窮」に見られる歸
そのいずれもが地方行政の責任 、 けて、却って邊鄙な片隅の である刺史の職務に背を向 とのは「自知爲政拙」 刺史の職務に怠慢だったことを意味するものではない。それ ある。無論この樣な武功體の文學を作ることは、姚合が 人であることを演出するもので
遜の言 いう爲政 が、ただちに「衆亦覺心公」と としての自負を語る言
こと、また「親事星河在、憂人骨肉同」が、爲政 によって引き受けられる
としての心
えを
べることからも確
できる。武功體は、事實の
物 ことが、解釋を な反映ではなく、それが美學の實現であることを理解する
らないためにも肝
姚合の仲 ******* である。
は、姚合のこの詩による誘いに對して、例えば のように武功體の手法をもって反應した。韻目こそ
なる が、共に五言二十句の整然とした排律であり、明らかに
と 詩
斷される。姚合が先の詩に
この詩に巧みに いた金州の風景や生活が、
收されていることに
意したい。
寄金州姚使君員外馬戴老懷淨
迸泉疏石竇、殘雨發椒香。山缺 !、乞去守洵陽。廢井人應滿、空林虎自藏。
憂農生野思、 "巴峽、江流帶楚檣。
#廟結雲裝。
$局松移影、聽琴
鳥鳴開郡印、 %墮光。
&去置禪床。罷貢金休鑿、凌
'筍更長。 (公披鶴
)、高
*+ ,行。相見朱門
-、麾幢拂
.霜。
(大意)老いては淨な生活を願い、
はには人が人)惡(にに虎奧山林のまり、集村たれ、廢果政の結善 /うて金州の守となった。太 が 0げ去った。迸る泉は、石を穿ち、雨上がりには山椒が香しい。山 1切れたところは巴峽に
"じ、 2江には楚の舟が
事を見て回ると、のんびり 3かぶ。野良仕 4いだ氣分になり、寺廟に參詣しては、
&衣をまとうのだ。碁を打ち
えると、松の日影は移り、琴を聞く -に、
%は沈む。鳥が鳴く
には、郡の官印を取り出し、
貢禪床への國金州は、り出す。取をでんし惜殘を名と、 &が去る ので今は金を掘ることもなく、 5を止めた
'伸公務をさの中でびる。は子の竹 中國詩文論叢第二十七集
くと、隱
の皮衣をまとい、役人の行列を
ぶ。しかし長安の朱門の家 れて高踏の世界に游 けの冷氣の中を、儀仗の旗を押し立てて で貴殿に出會おうものなら、夜明 則った作品であることが確 この詩は、最後の二句を除けば、徹底して武功體の手法に 參する大官なのだ。
されよう。とりわけ「
影、聽琴墮光。鳥鳴開郡印、 局松移 功體美學の極 去置禪床」に至っては、武 二句が、 また興味深いのは、この詩の「迸泉疏石竇、殘雨發椒香」の と言っても良い。
に げる喩鳧が賈島を金州に
椒 別した詩の「溪瀝 氣、巖盤漆
陰」と
似していることである。從って、
友たちに屆く。それを承けて詩友たちは一 「金州書事寄山中舊友」という金州來訪を催す詩が、長安の詩 のような想像をすることが出來るであろう。姚合から
會を開く。馬戴は「寄金州姚使君員外」という詩を作って、 に集まって、詩
事とした。そして誰が姚合の招きに應じて金州を訪ねるかが話し合われたとき、賈島が自分が行くと名乘りを上げた。その賈島に對して、喩鳧が
別の詩を作ったのである。
賈島 金州
山光與水色山光と水色と 姚員外喩鳧 獨
此中深獨
溪瀝椒 すれば此中に深し 氣溪は瀝る椒 したた
巖盤漆 の氣
陰巖は盤る漆 わだかま
瀟湘 の陰
共去瀟湘
巫峽羨先 に共に去らん 巫峽先づ
玄暉 幾夕江樓幾夕か江樓の ぬるを羨む 靜吟玄暉靜吟に
はん
(大意)山の景色と、川の景色と。君はひとり
け入ってゆく。溪流は、山椒の香りの中に雫を して、この中に分 の とし、岩山は、漆 陰にむくむくと聳え立つ。瀟湘の地に、いつか一
たい。巫峽を、君が先に訪れるるのが羨ましい。あと幾 に行ってみ 君は すれば、
江の りの樓に登ってを愛で、宣
姚合)と 太守の謝(金州刺史 なお !れ立って、靜かに詩を吟ずることになるのだろうか?
中盆地の中央に位置する金州は、
江の ため、「瀟湘」「巫峽」といった長江沿岸のイメージと一體 りにある
"
している。先だっては方干が姚合の金州赴任を
別した「
姚合員外赴金州」詩にも、「樹勢
!巴 江聲入楚沒、 #
る とあ流」 #
$りである。
友を招く姚合(松原)
五 杭州刺史
姚合は五四
となった大和八年の(八三四)
を拜命した。 に、杭州刺史 任は、
年の春、離任はその
年(開 の春、實質わずか一年八三六) 元年 しては、賈島と劉得仁が詩を作って の任期であった。出發に際 呼掛けたものと思われる。武功縣や金州とは 杭州刺史となった姚合は、例の如くに、友人たちに來訪を 行している。 ()
なると、一箇 い、杭州とも
以上を費やす長
殷堯 賈島が杭州に確かに赴いたことは、杭州の地で姚合と共に、 それにもかかわらず、賈島は杭州を訪問している。 を覺悟しなければならない。
を 別する「
ら 殷侍御赴同州」詩を作っていることか 明する (
(姚合詩は「 )
殷堯 賈島は、この杭州訪問に先立って二篇の詩を作っている。 。侍御赴同州」)
早秋寄題天竺靈隱寺賈島峰
峰後寺新秋、
人在定中聞蟋蟀、鶴曾棲處挂 頂高窗見沃洲。
山鐘夜渡空江水、汀 猴。
心憶懸帆身未 生古石樓。
、謝公此地昔年
。 身依 寄毘陵徹公賈島
寺老、
幾迴看。早
林霜在、孤禪隙
井 殘。
浪
、鐘與角聲
。已有南
、誰言禮
。 詩を 詩は、弼『三體詩』にも收められている。「寄題」とは
くに寄せて、題詩を依
賈島が杭州 !すること。從ってこの詩は、
行を計畫し(心憶懸帆身未
後詩は、毘陵の寺(江蘇常州市) 訪れるに先立って作られたものとされる。 、杭州・靈隱寺を)
"である である ( #徹に寄せた詩
。 $)
%目すべきは尾聯「已有南
&
&
、誰言禮 &
南方 ―もう
行の 束があるので、老師への禮
の部分である。その南方 も必ず實現できる」
行の 賈島は五十七のこの時、五) 任地に招こうとしているのである。ちなみに大和九年(八三 は、疑う余地がない。姚合はここにおいても、友人を自分の 束の相手が姚合であること
、當てのない長期の漫
られるほどに に出 姚合がこの時に賈島を招いた理由は、今迄 'い年齡ではなかった。
地に詩友を呼んで、 りに自分の任 わけ賈島とは、共に元和八年正 (會を開こうとする思いであろう。とり
の科 片や杭州という大 )を受け始めながら、
の刺史まで榮
*し、片や科
)に
+第を續 中國詩文論叢第二十七集
けて長安の陋巷に逼塞した生涯を
と、その境 えようとする老殘の詩人 は 世界の中に てられた。その中で、せめて賈島を新しい れ出したいと願う姚合の思いがあったに
い。 いな
費は當然、姚合が提供したのであろう。
六 姚合詩集團の詩會
以上、姚合がどのように賈島(等々)を招いたかを、特に地方官赴任時を中心に整理した。地方官時期に絞ったのは、そこでは 方への招待が、非日常な特
別
の
の點を 行爲であり、こ
して、姚合の詩友に向ける特
別
の
勢を
き 早年の魏 したかったからである。 りに 度使從事・武功縣
ての招きを受け入れて、はるばると は、賈島を自分の任地に招いている。また賈島も、そのすべ た後年の金州刺史・杭州刺史のすべての時期に亘って、姚合 ・萬年縣尉の時期、ま この事實は、姚合と賈島の關係に限定すれば、兩 方まで足を伸ばした。
が篤い友 うした に結ばれていたことの證據となるだろう。しかし姚合のこ 勢が賈島に對してだ
け
ば、 向けられていたと考えるなら
趣味を同じくする詩友を仲 解である。姚合は、賈島だけではなく、多くの自分と
として招いていたのである。 武功縣には、賈島と共に、朱慶餘も殷堯
年縣の縣齋の場合はさらに多く、賈島・朱慶餘・無可・ も招かれた。萬
熊・ 非
玄が招かれ、殷堯
と思しい。金州の場合は、方干が姚合を と皇甫荀にも聲を挂けられていた
別する詩「
員外赴金州」を作った。また 姚合 戴が 中舊友」詩を長安の詩友たちに投げかけて、これに對して馬 任後、姚合は「金州書事寄山 詩を作り、金州を訪問する賈島に對しては、喩鳧が
別の詩を作った。實際に金州を訪問したのは、賈島以外に、
無可と項斯がいた (
。杭州の場合は、賈島が「 )
劉得仁が「 姚杭州」、 姚合 中任杭州」の詩を作って、姚合の赴任を 以上に名を 賈島ひとりである。 別した。なお實際に杭州を訪ねたことが確されるのは、
慶餘、殷堯 !げた詩人を列記してみると、賈島、無可、朱 、 非熊、
けではなく、在京の日常場面においても、 なる。そしてこれらの詩人たちは、姚合の地方赴任の場面だ 玄、馬戴・喩鳧・項斯・方干らと
とに詩會を開いて集まり、詩を唱和し合う仲 "りに姚合のも 姚合詩集團だったのである。 たち、いわば 果たした姚合の役 #に、姚合が加わった同座の唱和詩を取り上げて、そこに
$と、參加
の範圍を確することにした
友を招く姚合(松原)
い。長安時期(萬年縣尉)姚合が萬年縣尉であった時期では、①李餘の
の 別、②韓湘
別、③朱慶餘の
①【李餘 別について取り上げたい。
別】李餘(生卒年不詳 (
であり、少なからぬ應酬の詩が殘る。長慶三年 )は、姚賈の詩集團の一員 )
823、科 十回目にしてようやく 受驗
第した。そして故
の蜀に錦を
時、姚合・賈島・朱慶餘・張が る 特に三二句の長篇五言古體詩を用い委曲を盡くして、この 別の詩を作った。姚合は
勞の末に
第した後輩詩人を勞っている。
別の詩は、
は短篇の律詩を用いるものであり、姚合の作詩は、常軌を 常
して懇切と言わねばなるまい。
李餘 蜀山高 第歸蜀姚合
嶢、蜀客無
十 才。日飮錦江水、文章盈其懷。
年
作
貢
、九
年
多
迴 手持 。春來登高科、升天得梯階。
集書、
家獻庭 。人生此爲榮、得如君
李白蜀 稀。
、羞爲無
歸。子今稱意行、
與子久相從、今 安覺危。
忽乖離。風飄
中船、會合
長安米價高、伊我常 自期。
。臨岐歌
子、無聲但陳詞。 義交外不親、利交
相。
!子愼其
、
"
#$與衣。
熱
路赤、行人念
%馳。一杯不可輕、
姚合の詩に「十年作貢 &別方自茲。
、九年多
が 迴」と記される。李餘 '年應試したとすると、
九年 (算すれば、初めての應試は元和 814となる。それは、姚合や賈島が應試を始めたその
のことである。姚合は三回の )年
*第の後、元和十一年
816に した(賈島は 第 +續
*。姚合と李餘は、共に科第)
に
り *第を繰
(姚合と賈島とはそのような境 ,していた時期に、長安で知り合った可能性も十分にある
假にそうでないまでも、李餘の -。またで知り合ったと推定される)
る 勞は、姚合の良く理解でき であった (
。單なる紋切り型の儀禮 .)
/作品とせず、あえて 0例とも言える長篇の詩型を擇んで自らの眞
由も、その邊にあるのだろう。姚合が、 1を吐露した理 な樣この けは、實來たのも、出ることが持し續保を力求心、けを惹き付 2圍に詩人たち り一 3ではない惻隱の
賈島は五律この時、「 う。 1に富んでいたからであろ 李餘
「 第歸蜀」、朱慶餘は七律 李餘 第歸蜀」。張は七律「
李餘 首聯に「十 第後歸蜀」を作り、
年
詠好人詩章、今日
名出舉場」と辛
の 十年の末
4士 第を言
5いでいる。張は、後輩に當たる姚合・賈 中國詩文論叢第二十七集
島とも親交を持ち、しばしば詩會を共にしている。この時も同座において
別の詩を賦したものと思われる。
は、彼らの詩 目すべき
型
が
不
揃
い
であること。
らく、あえて
②【韓湘 のだろう。 詩型を用いることで、唱和の場に緊張感を持たせようとした なる あり、相互に多くの詩の應酬がある。李餘と共に長慶三年の 別】韓湘(韓愈の姪孫)は、姚賈の詩集團の一員で 士に 第した。李餘の時は、
第直後の春に歸を
たが、韓湘の場合は、その年の 別し に宣歙
察使從事(試校書
六韻十二句の五言排律を作って壯行した ( として赴任する時に、姚合・賈島・朱慶餘・無可が、同じく )
。姚合の「 )
江西從事」の第二聯に、「行裝有兵 韓湘赴
、 席盡詩
人
」とある。
僚としての赴任だから、「兵
ある。そして を身に帶びての出で立ち」と あることを特記する。以下、詩題は賈島「 席を占めるのが姚合・賈島以下の詩人たちで
韓湘」・無可「
韓校書赴江西」・朱慶餘「
韓校書赴江西
③【韋 」。
別】韋
は、寶
元年 に合格し、秋に、浙東 825に賢良方正能極言直諫科 察使元
に 察使從事(試校書
として辟召された。この時、姚合は「 ) 韋瑤(當作
赴越」、賈島は「 校書) 韋瓊(當作
)校書」、朱慶餘は「
韋
校書赴浙東
」の五律を作って壯行した。姚合詩を
げる。
寄家臨禹穴、乘傳出秦關。霜 韋瑤校書赴越姚合
橘滿地、
來帆
相門 山。
貴、水國事多
。晨省高堂後、餘歡杯酒
。 察使などの使職は、僚佐の辟召
があり、元
が れた人材を んに優 集したことは、「相門
元 貴」と記されるとおり。
は、以
・賈島詩の「韋瑤」「韋瓊」は、「韋 宰相だったので「相門」と言う。なお姚合詩の
④【朱慶餘 」の譌り。
別】朱慶餘は、姚合が武功縣
人。 問して以來の古い詩友であり、姚賈の詩集團の中心にいる一 !であるのを訪 士 第は、寶
"二年 826。姚合「
朱慶餘
賈島「 第後歸越」・ 朱可久歸越中」・張
#「 朱慶餘
も五言律詩である。なお賈島詩については、張 第歸越」は、いずれ しかも越に歸るのを #詩と同韻で、
朱慶餘の ることから、詩題には明記されないが、
第して歸するのを
行した詩と
以上、李餘・韓湘・韋 $斷される。
の の作であり、朱慶餘の 別は、姚合が萬年縣尉の時期 別は、萬年縣尉を辭して
作である。姚合詩集團の活 もなくの
%な詩會開催を確
****** &できる。
'洛陽時期(監察御史分司東
()
友を招く姚合(松原)
姚合は、大和一年
827の秋、監察御史分司東
馬戴「 詩會が開かれた。現存する詩は、姚合「洛下夜會寄賈島」と 多くの應酬の詩を殘す。洛陽の姚合の私邸に馬戴を招いて、 ⑤【洛陽の馬戴との詩會】馬戴は、姚合詩集團の一員として、 一年ばかり洛陽に赴任する。 として、以後 中 を 夜姚侍御宅懷賈島」である。ここでは馬戴の詩 げる。
中 夜木動 夜姚侍御宅懷賈島馬戴 色、
陽
闕深。如何
思、更故人心。
關山
、 階霜霰
。誰知石門路、待與子同
尾聯「誰か知らん石門の路、待ちて子と同に 。 は何處にあるのか分からない、君(賈島)が來るのを待って一 ねん」(石門
に によれば、この詩は、長安にいる賈ねたいものだ)
島
に
對
し
て
、洛
陽
來
訪
を
催
す
にこう 容となっている。客人の馬戴が詩中
べるのは、當然、
人
姚
合
の
意
向
が
賈
島
の
洛
陽
招
待
にあったからであろう。なおこの時に賈島が洛陽に行ったことを示す
料は、確
****** されない。
再び長安時期(殿中侍御使・侍御使・
部員外 監察御史分司東 )
から歸り、
に金州刺史として外任する まで、姚合は殿中侍御使・侍御使・(侍御)(端公)
部員外 として順
に昇 してゆく。この
、 四年
(大和二年
828~大和六年
832の姚合の詩會を秋)
る。姚合はこの時、殿中侍御使(在任:大和二年 は、姚賈詩集團の中核。參加できなかった無可も、同樣であ ⑥【長安の姚合私邸の詩會】この詩會に參加した賈島・馬戴 !しよう。
。姚合は「喜馬戴年初春) 828~大和四 夜見
"期無可上人不至 (
「夜集姚合宅期可公不至」、馬戴は「集宿姚殿中宅期 」、賈島は #)
至」の五律を作った。馬戴詩を $無可不
殿 げる。
中
日
相
命
、開
%話
舊
時
。餘鐘催鳥
&、積 '阻
林靜 $期。
光 、天陰
(色遲。今夕復何夕、人
)去
*+。 ,目すべきは首聯「殿
中
侍御使の姚合は、
相命」( を交わしながら昔話をしようと誘ってくれる」である。「日 -日のように、杯 -日來訪を
ついては、果たせるかな姚合が積極 .求する)の言辭を見ると、詩會の開催に
/だったことが
⑦【李廓 0明する。
1別】李廓は、
2縣の尉だった時期を中心に、
34
に姚賈らと詩の應酬をした。姚賈詩集團の一員である。大和三年
829に、南詔の入寇が始まり、
察御史であった李廓が現地に 5が脅かされた時、監 6遽 は、殿中侍御使在任)李廓を私邸に招いて、 78された。姚合(侍御=
1別の詩會を催 中國詩文論叢第二十七集
した。姚合「
李廓侍御赴西川行營」・無可「
夜姚侍御宅
李廓少府」・
非熊「
が殘る。姚合の詩を例示する。 李廓侍御赴劍南」らの三篇の五言律詩 不 李廓侍御赴西川行營姚合
弓箭字、罷
官
唯
醉
眠
。何人
陣變孤 籌策、走馬逐旌旃。
外、功語笑
。從今
州路、無復有烽
首聯「弓箭の字を 。 意の武 はず、官を罷めれば唯だ醉眠」は、姚合得
功
體
の手法に從って、李廓が吏
事
に
無
關
心
である樣を
⑧【姚合私邸の詩會】姚合が侍御使(端公)在任中の大和四年 き出す。
830九 の た。姚合はじめ、他の詩人の詩は確 の頃、無可ら何人かの詩人が姚合の私邸に會し
できない。無可の詩を
秋 げる。
與
文士集宿姚端公
居無可 風多秋 復圓、共集侍臣筵。獨寡區中學、空論樹下禪。
竹、雲盡夜深天。此會東西去、堪愁又
⑨【姚合私邸の詩會で殷堯 年。
侍御使姚合の私邸で詩會が催された。永樂縣令の殷堯 を思う】⑧の集會からほどなく、
が見える。殷堯 の名 は、姚合詩集團の一員である。無可「
與 中
公會宿姚端公宅懷永樂殷侍御」、馬戴「集宿姚侍御宅懷永 樂宰殷侍御」の五律がある。また姚合の五律「寄永樂長官殷堯
」、雍陶の七律「寄永樂殷堯蕃明府」も永樂縣令の殷堯
言 に
し、この詩會における作と推定される。無可の詩を
る。詩中の「 げ 史」は、侍御使の
名として用いられる。
史靜開筵、
思何地
。故人爲縣吏、五老
峰 。 榻
!樹、公庭夜
⑩【姚合私邸の詩會で馬戴に寄詩】大和八年 "泉。會當隨假務、一就白雲禪。
834秋、
「馬戴居島 らは詩會を開いて馬戴に五律を寄せた。姚合「寄馬戴」、賈 屏居した馬戴から「山中寄姚合員外」詩が屆いたので、姚合 #山に
#山因寄」、無可「寄
#州馬戴(一作:秋中聞馬戴
$#」。ちなみに山因寄)
非熊の五律「
上有 馬戴入山(一本:山
#字)」は、馬戴の
#山に行くのを
こでは姚合の詩を 別した詩である。こ 天府鹿鳴客、幽山秋未歸。我知方甚愛、衆 寄せた「山中寄姚合員外」詩を指す。 げる。詩中の「新詩」は、馬戴が姚合に
%以爲非。
屋聞泉細、和雲見鶴
&。新
詩
處此得、
⑪【雍陶 峭比應稀。 角姚合詩集團の一にいた詩人と言える。大和八年 別】雍陶は、姚賈との數篇の詩の應酬があり、
834に '士に 第して
(に歸
)するのを
別した詩が、姚合の五律「
雍陶
第歸覲」・賈島の八韻十六句の五排「
雍陶
第歸
友を招く姚合(松原)
以上、多くは友人の ****** 親覲」である。
參加 別を場面とした詩會を取り上げて、
と作品を
した。參加
なる。なおABは、第三 を列記すれば、左のように 弧の中はその詩會には不在で、詩中に言された人物。 に取り上げた萬年縣齋の詩會、括
A【萬年縣齋詩會】姚合・賈島・
(殷堯 非熊・無可・朱慶餘・
B【萬年縣齋雨夜會宿】姚合・賈島・ )
①【李餘 玄・(皇甫荀)
別】姚合・賈島・朱慶餘・張
②【韓湘 ・李餘
③【韋 別】姚合・賈島・朱慶餘・無可・韓湘 別】姚合・賈島・朱慶餘・韋
④【朱慶餘
別】姚合・賈島・張
⑦【李廓 ⑥【長安の姚合私邸の詩會】姚合・賈島・馬戴・(無可) ⑤【洛陽の馬戴との詩會】姚合・馬戴・(賈島) ・朱慶餘
別】姚合・無可・
⑨【姚合私邸の詩會で殷堯 ⑧【姚合私邸の詩會】姚合・馬戴 非熊・李廓 陶・(殷堯 を思う】無可・馬戴・姚合・雍
) 戴)・( ⑩【姚合私邸の詩會で馬戴に寄詩】姚合・賈島・無可・(馬
⑪【雍陶 非熊)
別】姚合・賈島・雍陶
これを
度の順に竝べると、姚合
13・賈島 慶餘5・馬戴5・ 10・無可6・朱
非熊3・張
2・雍陶2・殷堯
2・
玄1・李餘1・韋
會 ( 字は、姚合の詩會を條件にしたもので、當然、姚合不在の詩 1・李廓1・皇甫荀1となる。以上の數 や、そもそも同座の )
況にはない詩の應酬は數えられない (
また金州刺史赴任以 。 )
の姚合の
それ以後に姚合との交際が活 期に限定しているため、
する無可 (
得仁・ ・喩鳧・方干・劉 )
賀 (
は、數字として十分に表れてこない。この樣な制 )
その のある數字だが、それでも姚合を取り卷く詩人群のおおよ を窺う參考となる。これらの詩人の交
をさらに
すれば、姚合詩集團の 査 體相を 究することも可能であろう。
七 姚合詩集團の形
姚合と賈島の
いうなれば詩集團が形 邊には、專ら詩歌を紐帶とした人關係、
!されていた。官界での
"
は、ここでは無意味であり、官僚としてのエリートコースを #や、年齡 中國詩文論叢第二十七集
たどる姚合も、科
に 二十 第を續けた賈島も、また姚賈よりも
は年少の佛
無可も、その詩集團の
れの一方にある、例えば白居易が 員であった。こ 稱される緊密な交友を結び、『劉白唱和集』の形で兩 年に劉禹錫と「劉白」と竝
學交流を結實させたことも、 の文 榮 詮は、年齡と官僚としての という二つの接點が兩
そのような文學以外の を互いに引き寄せたものである。
賈島ではない。姚合には 姚合詩集團の核心となっているのは、明らかに姚合であり、 詩人集團の場合と大いに徑庭があった。 因に多くを負う文人の結合は、姚合 交性があり、またその
揮する 交性を發
貧士であったならば、詩會の場 會地位も備わっていた。もし姚合が賈島と同樣の
友人を呼んだ。私邸を持った中年以 たであろう。姚合は、私邸を持たない時には、自らの官舍に も提供することも出來なかっ を待ったのである。また姚合が官界において昇 は、そこを開いて客人
とは、集團の を重ねたこ
員にすれば
もしい慶事である。科
を控えている の應試 にすれば、姚合の高
しかし とは、事態を有利にする材料となった。 という後ろ盾を得るこ 會地位は、畢竟、二
べきであろう。姚合の地位を得た詩人はいくらでもいた。し な位置に止まると言う かし姚合のような特
別
な
交性を發揮した詩人は、
いて、殆ど 代にお 自らがまだ十分な地位を得ていない時にあっても、魏 を見ないのである。姚合は、詩友を善く招いた。
は賈島を招き、武功縣はに賈島や朱慶餘や殷堯 に そして萬年縣尉となった時には、その縣齋に賈島・ を招いた。
無可・朱慶餘・ 非熊・
姚合が詩友を招く時は、偶々の 任地の郡齋に詩友を招いたのである。 京官でいる時には、長安の私邸に、地方官となった時には、 玄らを招いた。その後になっても姚合は、
う代物のものではない。意 り行きでそうなったとい
志
もあれば、姚合への 呼んだのである。姚合の詩篇に、それが明示されているもの を明示して、詩友を自分の側に
詩の中に、姚合の意
志
〔友を招く姚合〕 のもある。 が復唱されたも
姚合が武功縣
「寄武功姚 の時期に賈島を招いたことは、賈島の 」に「數
曾見、幾處得書披。……會須
去、況是 !縣
"招攜」(幾
も君がに現れ、
に明らかである。賈島は、ているのだから) 紙を貰った。……必ず君の武功縣を訪ねよう。まして度々誘って貰っ #の行く先々で、君の手
#先から、長安に
$らずに武功縣を訪問したものと推測される。とは當時、
友を招く姚合(松原)
先方が自分を思う結果、と理解されていた。
に「 萬年縣の縣齋にも、賈島を招いた。姚合自身の「寄賈島」
君時訪宿、不
來て欲しい、縣齋の北の部屋にすきま風が吹くのを 北齋風」(君へのお願いだ、時々泊まりに
賈島の 。いで欲しいのだ) がったりしな
「故人相憶 の「酬姚合」は作時不明だが、假にこの頃とする。
來
。「枝という枝に鳴いている) と坊さんが傳えてくれた。思っているよ、柳に風は吹かず、秋蝉が 、楊柳無風蝉滿枝」(君の友が、君のことを
い。 」とは、無可のことかも知れな た。馬戴の「集宿姚殿中宅期 姚合が殿中侍御使の時期、自宅の詩會に詩友たちを招い
無可不至」詩に、「殿
中
日
相
命
、開
話舊時」(殿中侍御使からは、
日のようにお
召
し
姚合の「喜馬戴 かる。杯を交わしながら昔話でもしようと)。この詩會で作った が掛
夜見 期無可上人不至」詩に、「
可
相
深居閉古松」(坊 、
の無可は、またお
見
て は誘いを挂けていたと考えて良い。 。無可に向かっても、姚合奧にひっそりと籠っているのだろう) だ。きっと松の老木の
詩を長安の詩友に寄せたことは、 姚合が金州刺史に赴任した時に、「金州書事寄山中舊友」
したとおりである。末 尾二聯の「舊山期已失、
雄」(故 思何窮。林下無相笑、男兒五馬 に歸ることは、期待できず、隱遁の思いは、
〔後 ****** 金州を訪ねている。 姚合の招きに答えて賈島・無可・方干が、この結果、。だ) 我が身の孤獨をかこつ有樣馬に馬車を牽かせる大官となったが、 五頭の自分は、共に談笑する友がいない。園林の中にいても、だ。 るばかり 姚合は、すでに詩友として交友を結んだ を育む姚合〕
だけに門
いたのではない。常に、自分と趣味を同じくする を開 き立てようとしていた。ここではいくつかの事例を、 たちを引 單に 明することにしよう (
は、すでに第六 【韓湘】韓湘が姚合詩集團の一員であること(韓愈の姪孫) 。 )
に韓湘別の詩を取り上げるところで言
!
した。左記の姚合の詩は、韓湘が
士に たものであり、ここに至る韓湘の投刺・行卷の經 !第した直後に作っ
子獨訪我來、…… 答韓湘姚合 ていて、興味深い。 "が記され
#詩 相 子在名場中、 $。……
%戰
%北。我無數子明、端坐空歎息。 中國詩文論叢第二十七集