日韓両地域 における寺院の造瓦体制の比較研究
‑8世 紀 を中心に一
林 正 憲
1.は
じめ に2.奈
良時代 にお け る寺 院の造瓦体制3.慶
州地域 にお け る寺 院の造瓦答制4.ま
とめ5, お わ りに
要
旨
日本列島の寺院は官寺の成立と共に、造寺司なる寺院造営の専属組織が設置される。この造 寺司の活動は各寺院の歴史的背景 とその展開に応 じて異なるが、概 して平城官の造瓦徐制 とは一定の距 離を置 き、独 自性 を持って展開 していた姿が窺える。 しか し、奈良時代後半に造東大寺司が成立する と、その影響は各寺院のみならず、長岡京や平安京にまで及んでいたことが明らか となった。一方、朝 鮮半島における寺院では、 日本に比 して多種多様な瓦を用いると共に、 日本では一般的な軒瓦のセット 関係がみられないという状況が確認できる。 しかし、これが8世紀後半になると、セ ット関係がみ られ る寺院が出現 し、造瓦体制に何 らかの変化が生 じたことが指摘できる。また金丈里瓦窯の状況において も、やはり多様性が指摘でき、日本の瓦窯のあ り方と異なることがわかる。そして両地域の比較を通 じ て、彼我の地域においてこのような差違が生 じた原因として、日本列島では官寺成立以前の状況に大 き く影響を受けていること、また慶州地域でもその造瓦体制の淵源たる百済の造瓦体制の影響が強いこと を指摘 した。その結果、建物における軒瓦の文様の統一性などに対する意識についても、両地域で大き く異なる状況に至ったのである。
キーワー ド
造寺司
瓦窯
セ ッ ト関係
複数瓦窯複数寺院型
文化庁記念物 課 (前奈 良文化 財研 究所都 城発掘調査 部)
1.
イまじめ に古 代 東 アジアにお いて、 国際宗教 た る仏教 の広が りとともに、その布教拠 点 とで も言 う べ き寺 院が東 アジア各地 にお いて無 数 に造営 された。 それ は、今 回取 り上 げる 日本 列 島 と 朝鮮 半 島 にお いて も例外 で はない。特 に 日本列 島の場合 、寺 院の初現 であ る飛 鳥寺 が 百 済 の技 術 を導入 す る こ とに よって造営 が お こなわれ た経緯 もあ り、朝鮮半 島 との関係 が極 め て深 い。それ は、 同時 に導入 された造瓦技 術 において も同様 の ことが指摘 で きよう。
た だ し、そ の後 の 日本列 島 と朝鮮 半 島 にお いて、寺 院の造 営や造瓦技術 が独 自の発 展 を 見せ る につ れ て、彼我 の地域 差 は次 第 に大 き くなってい った。 そ して今 回検討 の対 象 とす る8世紀 、す なわち 日本列 島で は平城 京 の時代 であ り、朝鮮 半 島で は統 一新羅 の時代 に な る と、寺 院造営 を と りま く環境 は大 き く異 なっていた と考 え られる。
しか し、 これ まで の研 究 を振 り返 って み て も、両 地域 の寺 院造 営 が どの よ うに異 な る か、 その比較研 究 は驚 くほ ど少 ない。 そ こで本稿 で は、寺 院造営 の状況 を克明 に反 映 して い る と考 え られ る寺 院の造瓦体 制 に焦 点 を当 て、そ こか ら両 地域 の造瓦体 制 を比較 す る と と もに、 その共通 点 と相違 点 を明 らか に しなが ら、 その原 因 となった背景 につ いて、 論 じ る こ とに したい。
2.奈
良 時代 にお け る寺 院 の造 瓦 体 制(1)奈
良時代以前の状況初期寺院の造瓦体制
それではまず、奈良時代以前の寺院と瓦窯の関連について概観 して お きたい。
日本 に瓦生産が導入 された6世紀末か ら7世紀前半 における寺院 と瓦窯の状況 につ い て は、既 に上原真人が整理 をお こなってい るl① それによると、瓦生産 は「消費地近接 型 」 と「遠隔地型」の2つの類型 に分類 で きる。前者の近接型は飛鳥寺 など、瓦窯が寺 院地 に 近接 した位置 に営 まれるもので、主 に瓦専業窯 に見 られるものである。一方、遠隔地型 は 豊浦寺 と隼上 り瓦窯 (京都府
)や
、四天王寺 と楠葉平野 山瓦窯 (京都府 。大阪府)の
関係 の ように、瓦窯 と寺院地が遠 く離れて営 まれ るものである。 この類型 は一般的に瓦陶兼業 窯 に見 られることが多 く、 しか も須恵器生産地で瓦生産が開始 されるケースは比較的少 なく、む しろ瓦生産 と須恵器生産が同時に開始 されることが多いようである。
この状況が大 きく変化 を見せ るのは、7世紀後半における「官寺」の成立以降である。 こ の段階の官寺 としては元興寺 (飛鳥寺)、 川原寺、大官大寺、本薬師寺があげられるが、 こ れ らは朝廷の直営事業 として造営 されるため、いずれ も「造寺司」が設け られた上で、それ らの所管 となる瓦窯にて所用瓦が生産 されるようになる。この場合、瓦窯は近接型 と遠隔地
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日韓両地域 における寺 院の造瓦体制の比較研究
型が混在 してい るようである。
宮部 の瓦
7世
紀 末、藤原宮 にお け る瓦 の導入 は、瓦 が寺 院の ような宗教 施設 のみ な らず、公 的 な建造物 に も用 い られ るようになった点 で、大 きな画期 といえ よう。 この段 階の瓦生産 は、宮 中枢 部 に関 しては瓦窯が近接地 に営 まれ、集 中的 に供給 され る体制 を とっている。 し か し、それだ けで は生産が追いつかなか ったせ いか、大垣 な どの宮縁辺部 の瓦 は遠隔地 にお いて生産 されている。
これ と比較 す る と、平城宮 にお け る瓦 の生 産体 制 は極 め て集 中的 な生 産体制へ と転換 し て い る。す なわ ち、平城官 の北方 5 kmに 位 置す る平城 山瓦 窯跡群 にお いて生産 。供給 され る よ うにな るの であ る。 これ らの瓦窯 は造宮 職や宮 内省 木工寮 な どに よって管理 されてい た と考 え られ、後 には皇后宮職や修理司 な ども所管瓦窯 を有す るにいたる2。
(2)平
城 京 内 寺 院 の 瓦 生 産寺 院の成 立事情
平城 京 にお ける寺 院の成立事 情 は一様 で は ない。そ して、 この成立事情 に 応 じて瓦 の生 産体 制がそれぞれ異 なった様オロを見せ てい る。それ らを概観す る と、概 ね3つ の類型に分類することができる。すなわち、① 藤原京内寺院との関連性が深いもの、② 平 城京において新造 されるもの、③ 奈良時代後半における造東大寺司の影響下のもとで成立 するもの、である。このうち①に相当する寺院として大安寺、元興寺、薬師寺が、②には興 福寺、法華寺、③には東大寺、西大寺、西隆寺があげられる。それでは以下、各寺院の成立 状況について簡単にまとめていきたい3。
①
藤原京 と関連の深い寺院
大安寺
大安寺は霊亀二年 (716)、 藤原京 より移建するかたちで平城京に造営された。こ れは、和銅四年 (711)イこ藤原京において造営途中であった大官大寺が焼亡 してしまった ことによる。そのため、創建当初の大安寺の所用瓦 としては、大官大寺か らもたらされた
6231A
①
第 1図
大安寺所用瓦① (1:6)
6138C
6231A‑6661Aの
セ ッ トが用 い られ ることになる (第 1図①)。 この ことか ら、大官大寺の造営 に 携 わっていた造大官大寺司が、その まま大安寺 の 造営 に携 わっていたことが伺 える。ただ し、現状 では6231A‑6661Aを 生産 した瓦窯は明 らかになっ ていない。さ らに大安 寺 で は、創 建 当初 の補足 瓦 と して 6712A 6304D‑6664Aも 確認できる (第 1図②)。 これは 第2図
大安寺所用瓦②
(1:6)
典型的な平城宮式軒瓦であ り、6304Dは内裏東外 郭か ら多 く出土 し、6664Aは第一次大極殿院などか ら多 く出土す る。ただ し、大安寺出土の このセ ッ トは F大安寺伽藍縁起井流記資材帳』 に記 された造大安寺司所管の「棚倉瓦屋」と目される、石橋瓦窯 (京都府
)で
生産 されたことがわか っている。 したが って、平城宮 における瓦生産体制が造大安寺司に移植 され、その結果 として平城宮式軒瓦が補足瓦 とし て用 い られるようになった状況が窺 える。その背景 としては、ゃは り大官大寺か ら大安寺 の移建 に伴い、充分 な瓦の供給体制 を整 えることを急務 としたため、新 たに平城京 におい て瓦窯 を備 える必要が出て きたため と言えよう。これが奈良時代後半 になる と、6138C‑6712Aからなる、いわゆる「大安寺式軒瓦」が成 立す る (第2図)。 この大安寺式軒瓦の成立時期 に関 してはい くつかの説があるが、中井 公の整理 によると、概 ね749〜 757年の成立 と推定 される4。 この大安寺式軒瓦 は伽藍 に近接 する杉 山瓦窯で生産 され、僧坊 の建 て替 え時に使用 された もの と考 え られる。 この大安寺 式軒瓦 は、6304D‑6664Aと は異 な り、平城宮か らは出土 しない。 この ことか ら、奈良時代 後半においては造大安寺司が独 自に造瓦体制 を整備 していた状況が窺 える。
元興寺
元興寺 は養老二年 (718)創建の寺院である。 『続 日本紀』 などでは藤原京 に存在 した法興寺 (飛鳥寺
)を
移建 した、 との記述 もあるが、実際には飛鳥寺 は藤原京で存続 し 続 けていることか ら、基本的 には新造 された と判断 して差 し支 えない。その元興寺創建時 の所用瓦であるのが6201A‑6661Dである (第3図①)。 これ らは平城宮式軒瓦ではな く、元興寺独 自の瓦 として製作 された ものであるが、その瓦窯については不明である。
ただ し、この6201A‑6661Dのモデル となったであろう軒瓦が飛鳥寺 に存在する。それが 飛鳥寺XⅣ ‑6661Bである (第3図②)。 これを見ると、両セ ッ トが非常 に類似 しているこ とがわかる。 また、興味深 い事実 として6201A‑6661Dが飛鳥寺か らも出土する点が指摘で きる。 これ らの ことを勘案す ると、瓦窯の状況 こそ明 らかでない ものの、飛鳥寺 と元興寺 の瓦窯体制はほぼ同一の もの と考 え られ、その結果、類似 した軒瓦のセ ッ トが両寺院か ら 出土することになったのであろう。
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日韓両地域 における寺院の造瓦体制の比較研究
第3図
元興寺 (左)と飛鳥寺 (右)の瓦 (1:6)
薬 師寺
F続
日本 紀』 に よる と、養老 三年 (719)に「 始 め て 造 薬 師寺 司 を置 く」 との記 載 が あ る。 したが って、 そ の年 に平城 宮 にお け る薬 師寺 の造 営 が 開始 され た こ とが わか る が 、 この薬 師寺 が新 造 で あ るか、 あ るい は藤 原京 にお け る本薬 師寺 の移建 で あ るか、本尊 の薬 師如 来の美術 様式 の問題 な ども巻 き込んで、長年論争が 聞わ されて きた。しか し本薬 師寺 の発 掘 調査 が進展 し、 出土瓦 の状 況 も明 らか になって くる と、その論争 も概 ね決着 を見 る こ ととなった5。 具体 的 に説 明す る と、本 薬 師寺 の所 用瓦 で あ る6276A―
6641H(第 4図①
)で
あるが、これが薬師寺の創建期においては6276A‑6641G(第 4図②) とな り、軒丸瓦は共通するものの、軒平瓦においては新たな型式が生み出されている。そ し て、薬師寺の6276A‑6641Gのセ ッ トで、さらに抱傷の進んだ ものが本薬師寺 の西塔周辺か ら出土 していることがわかった。以上のことか ら、薬師寺造営 に併行するように本薬師寺の 西塔の建造がお こなわれていることか ら、本薬師寺か らの移建 は想定 し得ず、平城京の薬師 寺は新造であることが明 らか となったのである。さらに、6276A‑6641Gが薬師寺 と本薬師寺の両方か ら出土 していることは、両寺院の造 瓦体制が基本的には同一であつたことを示 している。本薬師寺の瓦窯 としては奈良県南部に 位置する牧代瓦窯が知 られているが、薬師寺の瓦 も基本的には牧代瓦窯か らもた らされたも
①
① ②
第4図
本薬師寺 (左)と薬師寺 (右)の瓦 (1:6)
66640 第5図
薬 師寺所用瓦 (1:6)
の と考 え られ る。
一 方、創 建期 の薬 師寺 におい て は平 城宮式軒瓦 も 使用 され てい る。 それが
6304E‑66640で
あ る (第5図)。 これ らは僧坊 な どの周 辺 施 設 か ら出土 して い る こ とか ら、補足 用 と して用 い られ ていた ようで あ る。 た だ し、 これ らの セ ッ トは平 城 宮 か らは出土 して い ない。す なわ ち、文様 自身 は平城 宮式軒瓦 に 系譜 が認 め られ る もの で あ るが 、 あ くまで楽 師寺 に お い ての み使用 されていた瓦 なので あ る。 この こ と は、造薬 師寺 司が平城宮 の造瓦体 制 と関連性 を もちつつ も、基 本 的 には別個 に活動 してい た様子が窺 える。 なお、 このセ ッ トを生 産 していた瓦窯 につ いて は不 明で あ るが、製作技 法 な ども6276A‑6641Gと は大 き く異 なるこ とか ら、牧代瓦窯 とは異 なる瓦 窯 で生産 されて いた可能性 が高い。
②
平城京で新たに造 られる寺院
興福寺
興福寺は和銅三年 (710)とこ創建 された藤原氏の氏寺であ り、藤原京 に存在 してい た と思 われる厩坂寺か らの移建 とされている。ただ し、考古学的には厩坂寺 の状況 も不明 であるため、移建の事実は確認 されていない。興福寺で興味深 いのは、藤原氏の氏寺であ るにもかかわ らず、養老四年 (720)に藤原不比等が死去する と、「造興福寺仏殿司」が置 かれて「官」 による造寺体制が整 え られる点である。 これは当時の藤原氏 の権勢 を反映 し ているとはいえ、平城京においては唯―の事例であることか ら、極めて異例 といえる。
その興福寺の創建期の軒瓦 として、6301A‑6671Aがあげ られる (第6図①)。 これは、
平城山丘陵に位置する梅谷瓦窯 (京都府
)に
おいて生産されたことが明 らか となっている。この瓦には布 目押圧技法など、藤原宮式軒瓦などにも認め られる製作技法が用い られている が、文様 自舅は過去 に系譜 を引 くものではな く、興福寺において新たに採用 された独 自の文
②
(右)の瓦 (1:6) 第6図
興福寺 (左)と平城宮
日韓両地域における寺院の造瓦体制の比較研究
様 と位 置づ け られ よう6。
一方、平城宮式軒瓦 においてはこの興福寺所用瓦 と極めて類似 した軒瓦が存在す る。そ れが6301Bと6671Bで ある (第6図②)。 6301Bは 内裏周辺域か ら、6671Bは 東方官行地区か らそれぞれ出土 しているため、セ ッ トではなかった ようであるが、興福寺の影響 を受けて 成立す る平城宮式軒瓦が存在 していることは注 目すべ きである。前 出の薬師寺や大安寺の ように、平城宮式軒瓦が寺院所用軒瓦 に影響 を与 えているケースは少 な くないが、興福寺 の ように、寺院所用軒瓦が平城宮式軒瓦 に影響 を与 えるケースは、後 に触れる東大寺式軒 瓦 も含め、 きわめて希 なことと言える。 この ように、興福寺の造瓦体制は限定的ではある が、平城官の造瓦体制にも影響 を与 えていたことが指摘で きよう。
法華寺
法華寺は、天平十三年 (741)に「法華減罪之寺」 として総国分尼寺に任ぜ られる 大寺院であるが、極 めて複雑 な歴史的展開を経ている。そ こで、 まず は法華寺の成立過程 とその後の展 開について整理 し、その後 に各時期の軒瓦の様相 についてまとめることとす る。
まず、法華寺成立以前、平城遷都の際に当該地 に営 まれたのが藤原不比等邸である。そ して養老四年 (720)とこ藤原不比等が亡 くなると、その地 を娘である光明子が伝領 したもの と考え られる。そ して天平元年 (729)に光明子が皇后 に冊立 された際には、 この地 には皇 后宮職が営 まれた ようである。そ して天平十七年 (745)の平城還都 の後、皇后官 は「宮 寺」 なる寺院に改築 される。既 に天平十三年 (741)には総国分尼寺である「法華減罪之 寺」なる呼称 は存在するようだが、天平十八年 (746)ま では「宮寺」 として しか文献には 登場せず (F官寺三綱牒」 など)、 「法華寺」の初見は天平十九年 (747)まで待たねばな らない (『正倉 院文書』 な ど)。 とはいえ、平城遠都以降には寺院 として機能 し始めてい たことには間違いない。
そ して、法華寺 として本格的に伽藍整備が始 まるのは天平宝字年間である。 まず、「造 法華寺判官」の名称が初見 されるのは天平宝字二年 (758)である (『続 日本紀』)。 そ し てその翌年の天平宝字三年 (759)とこは金堂の造営が開始 され、完成するのがその翌年のこ とである (『造金堂所解』)7。 他の堂塔 については文献に登場 しないが、おそ らくは順次 築造が開始 されていったことと想定 される。そ して天平宝字五年 (761)には、その前年 に 亡 くなった光明皇太后 の追善のために、法華寺の南側 に阿弥陀浄土院が建 て られる。 この 段階で、概ね法華寺の伽藍整備 も終了 していたと考えられよう。
それでは以上 を踏 まえた上で、法華寺所用瓦 の変遷 とその特徴 について述べ てお きた い。ただ し、本来な らば藤原不比等邸所用瓦か ら論 じるべ きであろうが、今回はあ くまで 寺院所用瓦の分析 を主たる目的 としているため、平城還都後の「宮寺」成立以降について のみ触れることとする8。
その「宮寺
J所
用瓦のセ ッ トであるが、6282B‑6721Cが その候補 としてあげ られる (第7図①)。 しか し、 このセ ッ トは平城宮 において非常 に多用 されるセ ッ トなのである。 こ れ まで触れて きた寺院においては、平城宮式軒瓦が使用 されることはあって も、それはあ くまで補足用 な ど、主体 を占めることは決 してなかった。 ところが、 この「宮寺」の段階 では平城宮式軒瓦が主要な所用瓦 として用い られているのである。
これは、「宮寺」の成立か ら法華寺の本格的伽藍整備 までの歴史的展開がその背景 とな っている。 まず、「造法華寺司」 の初見が天平宝字年 間 まで降ることを考 える と、「宮 寺」成立段階に造寺 に携 わる専属の官営組織 は存在 しなかった と考 えられる。 とはいえ、
造寺 に携 わる何 らかの組織が存在 しない限 り、「宮寺」の整備 はお こなわれなかったであ ろう。そこで考 えられるのが、「宮寺」の整備 に際 して、皇后宮職が主体 的な役割 を示 し た可能性である。「宮寺」の前身たる皇后宮の瓦 を見 ると、いずれ も平城宮式軒瓦 との強 い共通性が見 られる9。 したがって、皇后宮職 は平城宮の造瓦体制 を一部借用す るかたち で瓦 を確保 しているもの と判断で きる。 これは、平城還都後 も同 じ状況であったことだろ う。6282B‑6721Cを生産 していた瓦窯については未だ明 らかにされていないが、 このセ ッ トの平城宮か らの出土数 を考慮 に入れると、基本的には平城宮の造瓦体制 によって供給 さ れていたと考えて差 し支えない。そ して、平城官の造瓦体制 と深い関連をもつ皇后官職によ って「宮寺」の整備がおこなわれたため、その所用瓦は平城宮式軒瓦 となったのであろう。
これが天平宝字年間に入 って造法華寺司が成立す ると、状況に変化が見 られる。法華寺 金堂の所用瓦 と考 えられるのが6137C‑6716A、 6138B‑6714Aのセ ッ トであるが (第7図
②)、 これ らが平城宮か ら出土す ることはほ とん どな く、法華寺独 自の瓦 と判断で きる。
また、 これ らのセ ッ トは音如 ヶ谷瓦窯 (京都府
)で
生産 された ことが明 らか になってお り、造法華寺司が独 自に瓦窯 を所管 していることが窺 える。すなわち、造法華寺司の成立 と共に平城官の造瓦体制 とは一線 を画 し、独 自の造瓦体制 を営むようになったといえよう。6282B 6138B
②
第7図
法華寺所用瓦 (1:6)
日韓両地域 における寺院の造瓦体制の比較研究
③東大寺 との関連で成立する寺院
東大寺
総 国分寺た る東大寺 は巨大 な底舎那仏 で有名であ るが、その大仏 は天平十七 年 (745)に造立が開始 される。その大仏の巨大 さゆえ、その時はまだ伽藍の造営 に着手 され ていない段 階である。大仏造立が一段落 し、本格的な伽藍整備が開始 される契機 となるの は、造東大寺司の設置である。その名称が文献 に初めて見 られるのが天平二十年 (748)の ことであるか ら、その頃か ら東大寺の伽藍整備が開始 された と判断 して よい。それ と時 を 同 じくして、いわゆる「東大寺式軒瓦」が成立す るわけだが、その成立以降、奈良時代後 半の造瓦体制 に多大 な影響 を与 えていた ことが わかっている。以下ではその状況 を整理 し てみたい。
いわゆる東大寺式軒瓦のうち、最 も古 い相 を示すのが
6235E‑6732Eの
セ ッ トであ り、これ らは奈良県荒池瓦窯産 と考 え られている (第8図①)。 そ してこれを端緒 として、東 大寺式軒瓦 は多様 な発展 を遂げてい くわけだが、その うち6732型 式に注 目して整理 した花 谷浩 と山崎信二の研究によると、東大寺式軒瓦 は文様や製作技法の点において、概 ね3つ の系統 に分かれることが明 らか となったЮ。す なわち、「東大寺系」 と「平城宮系」、「西 大寺系」である (第9図)。
「東大寺系」 は東大寺や新薬師寺 などで顕著 に見 られるもので、直接的に造東大寺司 と関 係 を有 している一群である。それ らの6732型 式の製作技法は、粘土塊 を用いてそれ らを固め なが ら成形 し、凸面には縦方向のヘ ラケズ リを施す という特徴 を持つ。そ してこれ らの技法 を持つ集団は後 に平安京の西寺の造瓦 にも携 わっていたことが明 らか となっている・ 。
次に平城宮系 は、その名の通 り平城官 を中心 に用い られ、称徳天皇の「西官」所用瓦であ る6235B‑6732Aのセッ トがその代表例 と言えよう (第8図②)。 このセットは市坂瓦窯産で あることがわかっている。この6732型式 は1枚の粘土板か ら軒平瓦 を成形 し、凸面には縦縄 叩 きを施す という特徴 を持つ。そ して、同様の技法 を持つ集回はのちに長岡宮の造瓦 に携 わ
① ②
第8図
東大寺 (左)と平城宮 (右)の瓦 (1:6)
6732‑E
西 大 寺 系 宮 系
6732‐N
勢
盈
7珀 a 第 9図東大寺式軒瓦 における3つの系列 (毛利光・花谷 1991)
日韓両地域 における寺院の造瓦然制の比較研究
っているようであるワ
。
そ して最後が「西大寺系」である。 これ らは西大寺お よび西隆寺で顕著 に見 られるもの である。両寺の瓦 については後 に詳述す るため、 ここではその技法 についてのみ触れてお く。西大寺系の6732型 式は薄い粘土板 を重ねることによって成形 し、その後、凸面 に布 目 押圧 を加えて調整するという特徴 を持つB。
この ように、造東大寺司の手 によって作 り出された東大寺式軒瓦であるが、その影響 は 他の寺院のみな らず、平城官の造瓦体制 にも大 きな影響 を与 えていることがわかる。ただ し、影響 を受けるallの製作技法 に関す る独 自性 は保たれてお り、東大寺式軒瓦 とい う大 き な枠組みの中で、各々独 自の造瓦体制の展開を見せている点 も、奈良時代後半の大 きな特 徴 と言 えよう。
西大寺 と西隆寺
両寺院は ともに称徳天皇の庇護の もとに成立 した寺院である。東大寺 と 法華寺 は総国分寺 と総国分尼寺 として対 になっているが、西大寺 と西隆寺 も僧寺 と尼寺 と して対 になっていたようで、父親たる聖武天皇の造営 した東大寺・法華寺 に劣 らぬ よう、
称徳天皇が並 々な らぬ情熱を傾けて両寺 を造営 した状況が窺える。
西大寺 は天平神護元年 (765)に創建 され、天平神護三年 (767)に設置 された造西大寺 司 によって伽藍の造営がお こなわれたことが明 らか となっている。そ して伽藍全体 の詳細 な記述が記載 された『西大寺資材流記帳』が編纂 される宝亀十一年 (780)頃には、伽藍の 整備がほぼ終了 していたようである。一方、西隆寺 に関 して も造西隆寺司が天平榊護三年 (767)に設置 されていることか ら、西大寺 と期 を一に して造営が開始 されていることがわ かる。その後、西隆寺が文献 に登場する機会 はさほ ど多 くないが、宝亀二年 (771)頃には 伽藍の整備が終了 していたようである。
その西大寺所用瓦 と西隆寺所用瓦 は、いずれ も西大寺系 の東大寺式軒瓦である (第 10 図)。 もちろん、今回掲 げたセ ッ トの他 にも、各堂塔 において多岐に渡 る軒瓦のセ ッ トが 見受け られるが、いずれ も東大寺式軒瓦の系譜 を引 くものである。ただ し、両寺院の瓦 を
① ②
0
●
第10図
西大寺 (左)と西隆寺 (右)の瓦 (1!6)
生産 していた瓦窯 については未だ明 らか にされていない。
これ らの瓦 に東大寺式 の影響 が見 られ る原 因の一つ に、佐伯今毛 人 なる人物 の活躍が推 定 され る。 この佐伯 今毛 人 は初代 の造西大寺司長官 であ るが、実 は天平二十年 (748)の段 階 で造東 大寺 司次官 を務 め、天平勝宝七年 (755)と天平宝宇七年 (763)に は造東大寺 司 長官 に任 ぜ られ て い る。 この ような経歴 を もつ人物 が西大寺 の造営 に携 わっていた こ とか ら、造瓦 の面 にお いて も東大寺 の影響 が認 め られ るに至 った と考 え られ る。 もちろん、西 隆寺 に関 して も西大寺 と一体 として造営 が進 め られていた こ とか ら、 その影響 が及 ぶ こ と になったのであ ろ う。 ただ し、先 に も触 れたが東大寺系 と西大寺系 とで は製作技 法 が異 な っていることか ら、両者 の独 自性 も充分 に発揮 されていた状況が窺 える。
(3)小
結それ で は以上 で述べ て きた奈 良時代 にお ける各寺 院の造瓦体制 につ いて、重要 な点 に し ぼ って まとめてお きたい。
まず指摘 で きるのは、奈良時代の寺院の造営 において「造寺司」は欠 くことので きない 存在 だ とい うことである。藤原京の時代か ら官の手 によって造 られた寺院、すなわち「官 寺」は存在 しているが、既 にこの段階で造高市大寺司 (天武天皇二年 (673)、 高市大寺は 後 に改名 して大官大寺 となる
)や
造薬師寺司 (大宝元年 (701))な どの存在が文献か ら知 られるH。 この造寺司の出現 については、円滑な寺院造営 をおこなうために比較的独立性の 高い専 門組織 を設けるとい う点で、純粋 に実務的な理由であった可能性が高いが、結果 として、造瓦体制において も寺院ごとの個性が強調 されることになった。
その独 自性が もっ ともよ く現れているのが寺院所用軒瓦の状況である。先 にも整理 した ように、成立期の法華寺の ような特殊 な例 を除 くと、基本的に寺院所用軒瓦 と平城宮式軒 瓦は区別 して用い られている。 これは、平城宮の造瓦体制 と寺院の造瓦体制が基本的には 分離 して存在 していたことを示 している。ただ し、文様や製作技術 に関す る交流 は存在 し ていた ようで、平城宮式軒瓦 をモデル とした寺院所用軒瓦や (薬師寺の6304E‑66640な ど)、 寺院所用軒瓦の影響 を受けた平城宮式軒瓦 (6301B‑6671B、 6235B‑6732Aな ど
)の
存在 は、その事実 を端的に示 している。 これは寺院間において も同様で、東大寺式軒瓦 に 見る東大寺系 と西大寺系の並立などは、その例証 と言えよう。
次に指摘 で きるのは、造寺司が単一の寺院だけではな く、比較的距離のある複数の寺院 の造営 に携 わっていた とい う点である。す なわち、藤原京か ら平城京への遷都 にともなっ て、かつては寺院について も移建 された とのイメージが強かったが、 これ までの整理で も 明 らかなように、純粋 に移建 されたのは焼亡 とい う予想外の事態が生 じた大官大寺 (=大 安寺
)だ
けである。 しか も、その大安寺 と元興寺の造営 に関 しては、造大安寺司 (=造大 官大寺司)と造元興寺 (=造法興寺司)が
藤原京 と平城京の両方で活動する とともに、両194
日韓両地域 における寺院の造瓦体制の比較研究
京における寺院造営・整備 に一貫 して携わっていた状況が窺 えるのである。
その中で、造東大寺司の出現 は奈良時代後半の寺院造営 に計 り知れない影響 を与 えた。
そ してそれは平城京内寺院にとどまらず、平城京の造瓦体制のほか、長岡京や平安京の西 寺 にまで影響 を及ぼす にいたる。 これは、造東大寺司なる組織が単一の寺院造営組織 とい うだけでな く、他の造寺司 (造西大寺司や造西隆寺司な ど
)に
対 して主導的地位 を保 って いたことに起因するのであろうる。そ して、視点 を転 じて造瓦体制の根幹 に関わる瓦窯その ものの築窯技術 に注 目した場 合、実 はここにも造東大寺司の影響が及んでいる可能性がある。それは、有沐式平窯の普 及の問題 についてである。有林式平窯は奈良時代後半以降、平安時代 にいたるまで一般的 に普及す る瓦窯構造であるが、現状で発見 されている有林式平窯の うち、出現期の ものを 見てみると、そこではいずれ も東大寺式軒瓦が見 られるのである。
まず、造東大寺司所管の荒池瓦窯であるが、 これについては奥村茂輝の紹介が詳 しい16。
それによると、永承二年 (1047)に書かれた F造興福寺記』では、当時の造興福寺司長官 であった藤原資仲が荒池瓦窯 を一度発掘 し、その後その窯 を作 り直 した後 にもう一度瓦窯 として使 った との記述がある。永承二年 (1047)の段 階で最 も普遍的であった窯構造は有 沐式平窯であ り、その時期 に再利用が可能であった窯構造であることを考慮 に入れると、
荒池瓦窯 も有沐式平窯であった可能性が高いのである。
次に、平城 山丘陵の瓦窯 を見てみると、現状有沐式平窯が検出されているのは市坂瓦窯 と五領池東瓦窯である17。 この うち、市坂瓦窯は称徳天皇の「西宮」所用瓦である6235B―
6732Aを 生産 していた瓦窯である。 また、五領池東瓦窯は阿弥陀浄土院所用瓦を生産 してい た瓦窯 と考 えられているが、 この壁体 には東大寺系の6732F18が 使用 されていた。 このよう な点 を考慮 に入れると、両瓦窯 について も造東大寺司の影響が見て取れるのである。 した がって、造東大寺司の影響 は軒瓦の文様 などにとどまらず、その瓦 を製作す る瓦窯その も のの築窯技術 にまで及んでいる可能性が高い。
この ように、奈良時代 を通 じて寺院の造瓦体制 に大 きな影響 を与 えていたのは、その造 営 を所管する造寺司なる組織の存在だったことがわかる。
3.慶
州 地域 にお け る寺 院の造瓦体 制(1)寺
院における瓦の状況皇 龍 寺 と芥皇寺
皇 龍寺 は真興 王十 四年 (553)イ こ創 建 された、新 羅地域最大 の寺 院で あ る。584年に金 堂 を建 立 し、645年 には百済 の阿非知 を招 いて、高 さが80mにも達 す る木造 九重塔 を建立 した。か くして皇龍寺 の建設 は645年 に木造 の塔 が完成す るまで4代の王、93 年 間 に及 ん だ こ とが わか る。伽 藍 配置 は中門・塔・金堂・講堂が南北 に配置 された一塔 式
時期 今叶州 文様
寺 期 期 皇 建
・1 芥 創 I
I‐2期
AD 650
1[翔
〔Ц期
i国統一 千載
JV期
齢
711瓶鶴
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∞
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EIHヮ フ十Ⅲdセ
鯵 鍮
Ll■おb 711a2
第11図
芥皇寺出土瓦の編年案 (朴2006)
日韓両地域 における寺院の造瓦体制の比較研究
時期 午4可 文検
Ⅳ期
AD 7う0
V期
よつ350
VI期
AD 950
欝 饒
フ十モC■ アIHa 3aアトma 2c
∞
●If1 1
鱗
→II‐2
ヰII
甥
I球II‐4
71mⅢ 2d
欝
ロトE
斡 鶉
71ma‐2e /1tta Fa
/1Eb 3
欝 鬱
714d3 4■
〔騨
身II
鶴
′+1(aぉd鞠
/1tta イc
翰
辞 ■5
翻
ァrmaぉc騨
枷 甥
/1tta主d
伽藍配置 を基本 とし、中央の中金堂の左右 に東金堂 。西金堂が配 されている。そ して754年 頃までには、塔の前方に左右対称 に鐘楼 と経蔵 も配置 された。
その皇龍寺の北方に近接 して造営 されたのが芥皇寺である。芥皇寺の創建年代 について は文V‐iに記 されていないが、完成 については 『三国史記』 に記載があ り、それによると、
善徳王三年、すなわち仁平元年 (634)に完成 したことが記 されている。 また 『続高僧伝』
の慈蔵伝 によると、慈蔵が貞観十七年 (643)に唐 よ り帰国 した時に王命 (善徳王か
)に
よ り大国統 に任命 され、「王芥寺」 に住 まわせた とある。 『続高僧伝』では、「王芥寺」に ついて、「寺 は即 ち工の造 るところな り」 としていることか ら、芥皇寺のことであると思 われ、 『三国遺事』で も「命 じて芥皇寺 に住 ましむ 〔唐伝 に「王芥」 となす〕」Юとあ り、慈蔵が帰国後の住房 は芥皇寺であった とい う認識 にたち、 『続高僧伝』 の「王芥寺」 は芥 皇寺 とみて間違いないようである。
芥皇寺 の創建期 の伽藍配置 は、現存す る石塔 を中心 として、その北側 に中金堂・東金 堂・西金堂 を配す る一塔三金堂式である。そ して、8世紀の中頃には中金堂において建て 替えがおこなわれていたことが、発掘調査か ら明 らか となっている。
この皇龍寺 と芥皇寺 は、隣接 して造営 されていることに加 え、完成の時期 も近接 してい ることか ら、併行 して造営 されていた もの と考 えられる。 また、出土す る瓦樽類 に注 目し てみると、創建期 に用い られた と考え られる高句麗系 の7葉素弁蓮華文軒丸瓦が共通 して 出土 していることや、同範 と考え られる軒瓦 も多数出土 していることか ら、両寺院の造瓦 体制は基本的には同一の ものであったと想定される。
そ して、両寺院の出土瓦の状況に共通 して認め られる最大の特徴 は、その種類の多 さであ る。例 えば、皇龍寺 においては蓮華文軒九瓦だけで216種類が確認 されている。 また、芥皇 寺 において も蓮華文軒九瓦は135種類が確認 されている。 もちろん、 これは寺院の存続年数 などの問題 もあるので、そのままの数字を受け入れるわけにはいかないが、第11図に掲げた 芥皇寺の瓦編年集20を参考にすると、芥皇寺が完成する650年頃までにおいて、高句麗系の素 弁蓮華文軒九瓦や、百済系の蓮華文軒丸瓦、そ して複弁蓮華文 としては極めて初現期にあた る軒丸瓦など、実に多彩 な瓦が用いられていたことがわかる。 さらには、中金堂の建て替え がおこなわれる750年頃までを見ても、宝相華文 を中心 とした統一新羅期の流麗な軒九瓦が 多種類 にわたって用い られているようである。
また、芥皇寺の発掘調査報告書別においては、軒瓦の各型式が どの地点か ら出土 したかに ついて、情報が記載 されているが、それを見 る限 りでは、特定の地点 に特定の瓦が集中す るような状況が確認で きないため、おそ らくは、
1つ
の建物 について複数の種類の軒瓦が 用い られていると想定せ ざるをえない。また、先 に述べて きた 日本の寺院においては、常 に軒丸瓦 と軒平瓦 を「セ ッ ト」 として
198
日韓両地域 における寺院の造瓦体制の比較研究
と らえて きたが、皇龍寺 や芥 皇寺 で は軒 丸瓦 ・軒平瓦 の種類 が極 め て多 岐 にわた り、 また 出土状 況等 か らで もセ ッ トを抽 出す ることがで きない22。
この ように、 日本の寺院 とは大 きく異 なる様相 を示す両寺院であるが、なぜその ような 状況が生 まれているのかについては、小結 において詳述 したい。
四天工寺
四天王寺 は、文武王十九年 (679)に創建 された寺院である。 日本にも四天王寺 は存在す るが、興味深 いのは両者共 に護国鎮護 を目的 として造営 された寺 院 という事であ る。当時の新羅 は唐 と連合 して百済 と高句麗 を減 ぼ し、三国を統一す ることになったが、
韓半島全体 を支配 しようとい う野心 をあ らわに した唐 は、文武王十四年 (674)に、50万の 大軍 を出兵 させて新羅 を攻撃 した。 この時、新羅は唐軍の撤退 を祈願 して四天王寺 を建立 したのである。 『三固有史』 によると、寺院建立に着工す る前 に唐軍が攻め寄 って くると い う急報が入 って来たため、強い榊通力 を持つ と言われる明朗法師が祈願す ると、大風が 起 こって唐 の軍船 は全部沈没 して しまった とある。そ して、その5年後 に寺院が完成 に至
り、四天王寺 と名づけ られた と伝 えられている。
四天王寺の伽藍配置 は、金堂 を中心 に、東木塔 と西木塔、北 に左経楼・右経楼 をもつ、
いわゆる双塔一金堂式である。現在 も発掘調査がおこなわれているため、出土瓦の全貌 に ついては報告書の刊行 を待 たねばな らないが、2010年2月、筆者 は出土瓦の多 くについて 実見す る機会 を得 ることがで きた。そ こで、以下ではその際 に得た知見 について触れるこ
とにしたい。
四天王寺 において も、 日本 の寺院に比 して軒瓦の種類 は多い。ただ し、先 に述べ た皇龍 寺や芥皇寺 ほど、バ リエー シ ョンは多 くない。 これは、四天王寺の成立が統一新羅の成立 以降であるため、古新羅系 の軒瓦が見 られないことがその一因ではあるが、そのような状 況をふまえた として も、種類の数が さほど多 くない点は注 目すべ き事実である。
出土瓦の中で、興味深 いのが複弁蓮華文軒丸瓦 と忍冬文軒平瓦である (第12図 )。 この 複弁蓮華文軒丸瓦 は今 回の発掘調査ではかな りの数が まとまって出上 してお り、皇龍寺や 芥 皇寺 で は複 弁蓮 華文軒丸 瓦 が さほ ど出土 しない
こ とか ら、 四 天 王 寺 にお け る特 徴 の一 つ とい え る。 また、忍冬 文軒平 瓦 につ いて も一定量 出土 し て い るが、複弁蓮華 文 同様 、 皇龍寺 や芥皇寺 で は ほ とん ど出土 していない瓦 であ る。
そ して、 この複 弁蓮 華 文軒 丸瓦 と忍冬 文軒平 瓦 の製作技 法 につ いて見 てみ る と、瓦 当の接合 方法 につ い て共通す る技 法 が認 め られ るので あ る。複
弁 蓮 華 文軒 丸瓦 に関 して は、 瓦 当 と丸瓦 を接 合 す 第12図
四天王寺出土瓦 (約 1:6)
る際 に、① 丸瓦先端 を歯車状 にギザギザ に加工す る もの、② 瓦当裏面 に刻み 目を施す も の、③ 未加工の まま接合す る もの、の3つの技法が認め られる。そ してそれぞれ の技 法 の差違が、瓦当文様の細かな差違 に対応す ることか ら、概ね3つの流派か らなる といえよ う。 この うち、① の技法が忍冬文軒平瓦 と共通す るのである。朝鮮半島の軒平瓦は、
日本 とは異 な り、瓦当部 と平瓦部 を別 々に成形 したのちに接合す る技法 を採用 しているが、 こ の忍冬文軒平瓦 に関 しては、平瓦先端 を歯車状 に加工す ると共 に、瓦当裏面 に指頭圧 痕 を 施 しているもの もある。 この ことか ら、忍冬文軒平瓦 を製作 していた工人は、複弁蓮華文 軒丸瓦の1流派 を作 っていた工人である蓋然性が極めて高いのである23。
この ように、四天王寺 においては複弁蓮華文軒丸瓦 と忍冬文軒平瓦が同様の技法 に よっ て製作 されていることか ら、 この軒九瓦 ・軒平瓦が「セ ッ ト」 として成立 していた可 能性 が極めて高い。最終的には、報告書の刊行 を待 って出土状況の分析 をお こなう必要 が ある が、皇龍寺や芥皇寺では見 られなかった事態が生 じていることは注 目に値 しよう。
ただ し、 このセ ッ トが四天王寺創建期 の ものであるか どうかについては、議論の余地が ある。 これに関 しては、現状では情報が足 りないため、報告書の刊行を待 ちたい。
仏国寺
仏回寺の創建 は法興三十五年 (528)のことであ り、その当時 は華巌仏国寺,ある いは法流寺 と呼ばれていたようである。その後、景徳王十年 (751)│こ 当時の宰相、金大城 によって実に17年間にわたる伽藍整備がお こなわれた。そ してそれが終了 した恵恭 王 十年
(774)、 仏回寺 という名称がつけられたようである。最盛期の8世紀には約60棟の木造建物
が立ち並んでいたようである。
最近の発掘調査 としては、慶州大学校博物館 によって聖宝博物館建設予定地 にてお こな われたものがある24。 この発掘 によって も数多 くの瓦が出土 してお り、筆者 もそれを実見す る機会 に恵 まれたため、今回はそれ らを中心 に紹介することとしたい。
出土瓦 としては、複弁を基調 とす る重弁軒九瓦 と、鬼面唐草文軒平瓦がある (第13図 )。
これ らの時期 と して は、統一新羅の後半、8世紀 後 半 か ら9世紀 前 半 頃 に属 す る もの と考 え られ る。 これ らの瓦 の特徴 に、軒丸瓦 の瓦 当側面 と軒平瓦 の顎面 に、花 文や 唐 草文 か らな る施文が施 されている点があげ られ る。 そ して これ らの施文 を子細 に見 てい くと、軒丸瓦 と軒 平瓦 とで共通 の文様 を持つ ことが明 らか になった。 したが っ て、 これ らの重弁軒丸瓦 と鬼面唐草文軒平瓦 は同一 の工 人集 団 に よって製作 された「セ ッ トJと考 え る こ とが で きる。
また、 鬼 面唐草文軒平瓦 に関 して は、個体 に よって文 第13図
仏国寺出土瓦 (1:6)
日韓両地域における寺院の造瓦体制の比較研究
様 に多少 の差 違 はあ る ものの、基本 的 にはすべ て 同 じス タイルで統一 されてい るこ とが わ か る。 これ は、今 回の発掘調査 地 で検 出 され た建物 の い くつか は、 この重弁軒丸瓦 と鬼面 唐 草 文軒 平 瓦 とい う文様 で統 一 され た屋 根 を有 して い た こ とを示 して い る。 かつ て、皇龍 寺 や 芥 皇 寺 な どで見 られ た1つの建物 に複 数 の文様 か らな る軒瓦 を用 いていたの に比べ る と、仏 国寺 の状 況 は、 日本 の寺 院 にお ける軒瓦 のあ り方 に似通 って きた こ とが指摘 で きよ う。
(2)瓦
窯 の 状 況慶 州 地 域 で はそ の周 辺 部 の丘 陵地 に瓦 窯 が 点 々 と営 まれ てい る。 しか し、発掘 調査 が お こ なわ れ た もの は少 な く、 多 くは表面採 集 で瓦 が確 認 され てい るの み で あ る。 したが っ て、慶 州地域 の瓦 窯 の状況 につ いて は今後 の検 討課 題 で あ るが、今 回 は金丈里瓦窯 の状況 につ い てのみ ご く簡単 に触 れてお きたい。
金 丈里瓦 窯 は慶 州地域 の北西 部 に位置す る瓦 窯 で あ るが、1978年 に緊急発掘調査がお こ な われ 、 そ の 際 に多 数 の瓦 が 出土 した。 それ らは概 ね8世紀 以 降の瓦 と考 え られ る こ とか ら、瓦 窯 の操 業 時期 もそれ以 降 と考 え られ る。 隣接 して古新羅 の瓦が 出土す る多慶瓦 窯が 存 在 して い るが 、基 本 的 には同一丘 陵上 に展 開す る一 連 の瓦窯 と と らえ られ るため、 時期 を経 るに したが って、多慶瓦窯 か ら金丈里 瓦窯へ と生 産 の中心地が移 って きた と考 え られ る。
金 丈里瓦窯 か ら出土 した瓦 は既 に F新羅瓦埠』25などで紹介 されてい る。筆者 も、その一 部 を国立 慶 州博 物館 にお いて実見 す る こ とが で きた。 そ こで得 られ た 印象 と して は、 文様 の多彩 さ もさるこ となが ら、製作技法 や使用 され てい る胎 土 な どにつ いて も、実 に多様性 にあふれてい る26。 す なわ ち、
1つ
の二 人集 団が多様 な瓦 を製作 してい るので はな く、複数 の工 人集 団が それぞれ独 自に瓦 を製作 した結果、多様性 が見 られ る よ うになった と考 え ら れ るので あ る。また需給関係についても、既に指摘 されているように月城や雁鴨池、 また一部は皇龍寺 や芥皇寺に瓦が供給 されている。このように、単一の供給先をもつのではなく、複数の供 給先、 しか も寺院に限 らず都城域へ も供給 していることか ら、寺院などの専属瓦窯ではな
く、瓦生産の中心地として慶州全域に広 く瓦の供給をおこなっていたことが窺えよう。
(3)小
結慶州地域 においては、 これまでにまとまった発掘調査がおこなわれた寺院が少ないた め、全体 として寺院所用瓦の情報は乏 しい。そのため、今回は筆者が出土瓦を実見で きた 寺院を中心に述べ ざるを得なかった。 したがって、管見の限 りとなって しまうが、以上で 述べてきたことを簡単にまとめておきたい。
まず、皇龍寺や芥皇寺のような創建が7世紀に遡 る寺院においては、軒九瓦 と軒平瓦の
セ ッ ト関係 は成立 してお らず、 しか も文様の種類が多岐にわたるため、
1つ
の建物 におい て複数の文様の軒瓦が使用 されていた ことが想定で きる。 しか し、 これが四天王寺や仏国 寺の ように、やや時代が降るにつれ、文様 のバ リエー シ ョンは少 な くなってい き、建物 に 用い られる軒瓦の文様が統一 される方 向に向かってい くようである。 また、軒丸瓦 と軒平 瓦 について も、 四天王寺 で顕著 な ように同一の工人集 団に よって製作 されていることか ら、両者の間にセ ッ ト関係が成立 してい く状況 も見て とれる。す なわち、統一新羅の寺院 所用瓦 は多様性か ら統一性へ と向かってい く傾向が指摘で きるのである。もちろん、 この多様性か ら統一性へ の変化 は、造瓦体制その ものの変化 に結びついてい るもの と考え られる。瓦窯の状況 についてはまだまだ不明な部分 も多いが、金丈里瓦窯の 状況 を見 る限 り、8世紀 の段 階では寺院専属の瓦窯 としては機能 してお らず、都城 をも含 めた複数の供給先 を もっている様相が確認で きる。そ して、供給先である寺院の状況を顧 みると、皇龍寺や芥皇寺 で見 られた多様性 は、
1つ
の瓦窯か らの供給 だけではな く、多数 の瓦窯か ら瓦 を入手 していたことを示 している27。そ して これ は、亀 田4雰―が百済・扶余地域 の分析 で明 らか に した「複数瓦窯複数寺院 型」28とほぼ同 じ様相 を示 しているのである。亀 田はこの複数瓦窯複数寺院型が成立する背 景 として、扶余のほ とん どの寺院の造営 において、国家 または王家が関わっていた と推定 する29。 これは、皇龍寺や芥皇寺の成立事情 を鑑みると、同様の指摘が可能か もしれない。
すなわち、
F続
高僧伝』 に記 されているように、「寺 は王の造 る ところ」であ り、 国家主 導によって大規模 な寺 院造営がお こなわれた結果、複数の瓦窯か ら瓦が調達 され、 またそ れ らの瓦窯が複数の寺院に瓦 を供給す ることによって、結果的に非常 に多様な瓦が1つの 寺院に用い られる結果 になったのである30。しか し、 これが時期 を経 るにつれて、様相が変化 して くる。すなわち、バ リエーション の減少 とそれにともな う文様の統一性や、セ ッ ト関係の成立である。 これは、む しろ日本 の寺院における瓦のあ り方 に類似 して くることが指摘で きる。四天王寺や仏国寺に瓦 を供 給 していた瓦窯の状況が まった くわか らないため、あ くまで想定の域 を出ないが、
8世
紀 も後半 に入 る と、瓦窯 と寺 院の関係 に変化が生 じていたのではなか ろ うか。すなわち、複 数の瓦窯か ら複数の寺 院に供給す るのではな く、 日本同様、寺院専属の瓦窯が成立 してい た可能性がある。特 に仏 国寺では複弁 を基調 とする重弁軒丸瓦が主体であるが、 これ らは 他の慶州地域 の寺院では決 して主体 にはな らない。同様の指摘 は四天王寺の忍冬文軒平瓦 について も可能である。以上のことか ら、少 な くとも8世紀後半以降の寺院においては、複数瓦窯複数寺 院型 ではな く、
1寺
院1瓦窯が成立 していた可能性 を指摘す るとともに、今後の瓦窯の研究の進展 を待 って、改めて論 じることにしたい。
日韓両地域 における寺院の造瓦体制の比較研究
4。 まとめ
以 上 、 日韓 両 地域 の造瓦体 制 につ いて、整理 をお こな った。す なわち、 日本 において は
「造寺 司」 な る寺 院造営 の専属組織 を設 ける こ とに よって、寺 院の独 自性 を保 ちつつ、か つ他 の造寺 司や平城 京 の造 瓦体制 とが互 い に影響 を与 えなが ら展 開 してい つた状 況 を見て 取 る こ とが で きた。 一 方 、慶 州 地域 にお い て は複 数瓦 窯複 数 寺 院型 とい った、寺 院や都 城 も一体 とな った造 瓦+供給 体 制 を取 って いた た め、寺 院 の独 自性 は さほ どな く、 かつ軒 丸 瓦 と軒 平 瓦 のセ ッ ト関係 も不分 明 な ままであ った。 しか し8世紀 後 半以 降 、 セ ッ ト関係 が 確 立 して い くと共 に、寺 院 の独 自性 が徐 々 に表 れ て くる こ とか ら、 日本 の よ うな寺 院造営 の専属組織 が成立 しつつ あった可能性が指摘 で きる。
それでは、 日本 と朝鮮半島で この ような差違が生 じた原因は何 にあったのであろうか。
1つは、寺院造営 に関す る組織の成立状況の差違 による もの と考 えられる。 日本 におい ては、6世紀末の飛鳥寺以降、7世紀後半の官寺の成立 まで、寺院はすべ か らく氏寺であ り、その造営 は各氏族 ごとにお こなわれることか ら、寺院造営組織の個別性が高かったこ とが窺 える。それが、7世紀後半以降において も、寺 院造営組織 は寺院に専属するもの と いった伝統 を受け継 ぎ、その個別性 を維持 していった と考 え られるのである。一方、朝鮮 半島においては、慶州地域 に とどまらず、その前段 階たる百済地域 において も、「基本的 に王家や官 と関わ りを持つ寺院が多かった と考 えられる」ため凱、王宮や寺院に用い られる 瓦 は王家所管 の複数の瓦窯か ら供給 され、結果的に複数瓦窯複数寺院型 といった造瓦 十供 給体制が成立 していた と考えられよう。
そ して もう1つ、建物 に関す る瓦の用い方の伝統の差 も影響 していたことであろう。先 に、 日本の寺 院ではセ ッ ト関係が明瞭である と述べ たが、それはす なわち、一つの建物の 瓦 を統一 した文様で飾 るとい う意図の現れである32。 そ して、それを可能に したのが当初の 寺 院が氏族 による造営である点 と、寺院造営が個別性 を持 ってお こなわれた とい う2つの 要因である。す なわち、建物 の瓦 を寺院ごとに統一す る とい った行為は、他 の氏族 との区 別 を明 らか にす る と共に、氏族間関係 を明示する手段で もあったのである33。
̲方
、朝鮮半島の寺 院で複数の軒瓦が一つの建物 に用い られているのは、やは り寺院 ごとの個別性が問 われなか った点が大 きかったのであろう。いずれ も、王家や官 に関わ りのある寺院であっ たため、寺院 ごとの独 自性が強調 される必要 もな く、造瓦体制その もの も個別的生産体制 ではなかったため、結果 として、複数の軒瓦の使用が当然 の こととして受 け止め られて き たのであろう34。 それが変化するのが8世紀後半以降のことであ り、やは り護国鎮護 を契機
として造営 された四天王寺や、統一新羅後半期 において最 も隆盛 を誇った仏 国寺では、他 の寺院 とは一線 を画す る必要性が生 じたため、独 自の文様 と独 自の寺院造営組織 を有す る
に至った可能性が指摘で きよう。
この ように、7〜8世紀 の 日本列島 と朝鮮半島において、同 じ仏教 を基調 とす る寺院の 造営 に関 して も、その導入や歴史的背景 に応 じて、それぞれの地域 において独 自の展開を 見せることとなったのである。
5。
おわりに
以上 、多少雑駁 な感 はあ るが、 日本列 島 と朝鮮 半 島の寺 院造営 のあ り方 にお いて比較検 討 をお こな った。 結果 、両 地域 の共通性 と独 自性 とが 明 らか になった わ けで あ るが、朝鮮 半 島 にお い て筆者 が確 認 で きた瓦 は全体 の ご く一部 に過 ぎず、 まだ発掘 調査 がお こなわれ てい ない寺 院 も多 数 あ り、筆 者 が述べ て きた見解 の多 くは、今後 の調査 の進展 を待 って再 検討 され るべ きで あろ う。
とはい え、現段 階で検 討 すべ き問題点 につ いて、本稿 で は可 能 な限 り整 理 したつ も りで あ る。 これが 、今 後 の 日本列 島 と朝鮮 半 島 にお ける瓦研 究 の一助 とな る こ とを祈 りつつ、
今 回は この辺 りで筆 を置 きたい。
註 1
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上原真人「初期瓦生産 と屯倉制J『京都大學文學部研究紀要』第42号、京都大学文学部、2003年。 奥村茂輝「奈良時代の瓦窯」 『造瓦体制の変革 ―畿内 ―』帝塚山大学考古学研究所、2007年。 なお、平城宮 と寺院の瓦 については、既 に森郁夫の論考がある (森郁夫「平城京 における宮の瓦 と 寺の瓦」『古代研究』8、 (財)元興寺仏教民俗資料研 究所考古学研究室、1976年)。 しか し、氏の論 考か ら既 に 30年 が経過 し、新たな成果が明 らか となっている部分 も多いので、今回改めて再整理す るものである。なお、その うち大安寺 と元興寺の箇所 については、中井公の論考の多 くを参考にさ せていただいた (中井公「平城京初期官寺の建立 と瓦生産J『古文化論叢』伊達先生古希記念論集、
同刊行会、1997年)。
中井 公「法華寺創建軒瓦 と「大安寺式」軒瓦」 F地域 と古文化』 同刊行会、2004年 。
花谷 浩「出土古瓦 よ りみた本薬師寺堂塔 の造営 と平城移建 について」 『展望考古学』考古学研究 会、1995年など。
梅谷瓦窯では奈良時代初頭 としては異例の一枚作 りの平瓦が生産 されている ((財)京都府埋蔵文化 財セ ンター 『平城 山瓦窯跡群』京都府遺跡調査報告第27冊、1999年)。 これ も、興福寺所管瓦窯の 特異性 を示す一例 といえよう。
この 『造金堂所解』の記述がいかなる建物の造作に関する記述なのかについては、見解が分かれる ところである。黒田洋子 などの文献史学者の中には、法華寺金堂造営文書 とする説が主流であるが
(黒田洋子「正倉院文書の一研究 ―天平宝字年間の表裏関係か ら見た伝来の契機 ―」『お茶の水史学』
第 36号 、1992年 な ど)、 奥村茂輝 は瓦窯 と文献の比較検討か ら阿弥陀浄土 院の造営文書 とする説 を唱 える (奥村茂輝 「法華寺阿弥陀浄土院の造営」『佛教芸術』275号 、毎 日新聞社、2004年)。 筆 者は奥村の説 にはまだ再検討の余地があると考えるため (註18参 照のこと)、 この場では法華寺金 堂造営文書説の立場 をとる。詳細 は稿 を変えて論 じることにしたい。
法華寺全体の軒瓦の変遷 については別稿 を期 したい。
日韓 両地域 にお け る寺 院の造瓦体 制 の比較研究
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具体的には6285B・ 6320A‑6691Aや 、6308A‑6663Aが ある。前者 は生産 されていた瓦窯 こそ不明 な ものの、平城宮か らもかな りの数が出土 している。 また、後者 については中山瓦窯産である。こ の他、皇后宮職 と関連する瓦窯 として歌姫西瓦窯があげ られるが、 この瓦窯では平城宮内裏 にも瓦 の供給 をお こなっていたようである。10 毛利光俊彦・花谷浩「屋瓦」 F平城宮発掘調査報告XⅢ 』奈良国立文化財研究所学報第50冊、奈良回 立文化財研究所、1991年。山崎信二「東大寺式軒瓦についてJ『古代瓦 と横穴式石室の研究』、同成 社、2003年。
11 山崎信二 「東大寺式軒瓦について」 (前掲註10)。
12 上原真 人「前期の瓦」 F平安京提要』角川書店、1994年。
13 小 澤 毅「西大寺 の倉1建お よび復興期 の瓦」 『西大寺 防災施設工事 。発掘調査報告書』 西大寺、
199o4F。
14 造寺司の最古 の もの としては、推古 四年 (596)に 設置 された法興寺 (=飛鳥寺)の「寺司Jがあ る。 ただ し、 この段 階では既 に「法興寺造 り党 りぬ」 とあるので、法興寺その ものの造営ではな く、周辺 の伽藍整備 や寺院維持 を目的 とした組織であった可能性が ある。 また、弘福寺 (=川 原 寺)の造弘福寺司 については、文献の初現が天平十五年 (743)と 遅れ るが、一応存在 していたこ とが知 られる。 また造薬師寺司については、大宝元年 (701)と 養老三年 (719)│こそれぞれ設置記 事があるが、前者が藤原京 において、後者が平城京 においてそれぞれ設置 された とも解釈 で きる が、先 にも触れた ように、基本的には同一組織 によって本薬師寺 と平城薬師寺がそれぞれで造営 さ れたことを指 していると考 えてお きたい。
15 例 えば、先 に触 れた ように、造香 山薬師寺所 は造東大寺司の下部組織であった し、興福寺 のように 造東大寺司 に瓦の借用 を依頼 している寺院 もある。
16 奥村茂輝「奈良時代の瓦窯」 (前掲註2)。
17 (財)京都府埋蔵文化財セ ンター F平城 山瓦窯跡群』 (前掲註6)。
18 この6732Fは凸面 に縦方向の縄叩 きが見 られる。すなわち、6732F自 身は東大寺系 とされる軒平瓦 であるが、その製作技法は平城宮系 と同様である。 したがって、奥村 の言 うように造東大寺司の直 接 的な関与 は考 えに くいであろう (奥村茂輝「法華寺阿弥陀浄土院の造営」 (前掲註7))。
19 ここに見る「唐伝」は 『続高僧伝』のことである。 『続高僧伝』が唐代 に道宣によって記 されたこ とか ら、その ように表現 されている。
20 朴恩辰「芥皇寺 吾ヱ キ守州 編年研究」 『芥皇寺』特別展 図録 第2冊
国立慶州文化財研 究所、
20064F。
21 回立慶州文化財研究所 『芥皇寺』2005年。
22 特 に統一新羅以前 の、いわゆる古新羅の段 階では軒平瓦その ものが ご くわずか しか出土 していな い。 したがって、「セ ッ ト」 なる概念は古新羅の段階には存在 していなかった といえる。
23 また、四天王寺か らは草葉文の軒平瓦 も出土 しているが、これは複弁蓮華文軒丸瓦の② の技法 と共 通 した接合法が用い られている。
24 慶州大学校博物館 『慶州 佛國寺 境内 聖費博物館 建立豫定敷地 稜掘調査報告書』2006年。
25 日立慶州博物館 『新羅瓦埠』2000年。
26 典型的な例 として、瓦危を取 りあげてみ よう。金丈里瓦窯か らは陶製の瓦籠が出土 しているが、出 土瓦の多 くは明 らかに木製の瓦籠 を用いている。すなわち、陶製瓦籠 を使 う工人 と木製瓦籠 を使 う 工人が併存 していたことは確実である。
27 金丈里瓦窯の多様性 を見ていると、金丈里瓦窯その ものが複数の瓦窯 を含むものであ り、そこに多 数の工人組織が活動 していた状況が想定で きるのではなかろうか。つ ま り、 日本における平城山瓦