著者 李 良浩, 越後屋 朗
雑誌名 基督教研究
巻 64
号 2
ページ 109‑120
発行年 2002‑12‑26
権利 基督教研究会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004437
I 序論
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ルター神学の構造という問題はルター研究者の間で議論を呼んできたもののひとつ である。1ルターはトマス・アクィナスの『神学大全』あるいはジャン・カルヴァンの
『キリスト教綱領』のような体系的な本を書かなかった。ルターの多くの著作は固有な 状況での必要性に応じて書かれたものであった。それゆえ、彼の神学の構造を見つけ 出すことは困難である。そうした事情にもかかわらず、ルター研究者はルター神学の 統一的原理を見つけ出そうと試みてきた。
アンダース・ニーグレン2 とフィリップ・S.ワトソン 3 は、ルターの神学の統一的原 理を自我中心的な宗教に対立する神中心的な宗教、あるいは上昇運動に対立する下降 運動であると提唱する。ニーグレンはルター神学の「一定の傾向」について語っている。
宗教改革において起こった偉大な宗教的革命のもつ最も深い意味は、この出来事にお いて神中心的な宗教が明らかにされたと言うことによって、簡単に要約されるだろう。
カトリックのキリスト教に対する反対運動において、ルターは完全に一定の傾向に支配 されていた。出発点として何をとっても、彼の宣教の思想、彼の愛の概念、そのほか何 でも−われわれはいつも同じ事柄につれ返される−すなわち、ルターは宗教の自我中心 的形態全部に反対して、神に対する純粋に神中心的な関係を主張していることである。4
ニーグレンはまた中世の神学の上昇運動に対立するルター神学の下降運動について 語っている。
ルター神学の構造
The Structure of Luther’s Theology 李 良 浩
Yang - Ho Lee 訳 : 越 後 屋 朗
Translation : Akira Echigoya
中世のキリスト教解釈は一貫して上昇運動の傾向によって特徴づけられていた。この傾向 は、スコラ哲学の合理的神学と、神秘主義の忘我的信仰三昧におけると同じ程度に、民間の カトリック信仰の道徳的敬虔のなかにもあらわれていた。...実際に行われていた信仰生活 に知られていた功績の道、神秘主義の上への導き( )であれ、あるいは、「存在の 類比」(analogia entis)に基づく思弁的思索の道のいずれであれ、これらは皆、人間が神のみ もとまで昇って行くことのできる道を知っている。人は、三つの天の梯子の一つによって神 に上昇して行かねばならない。5
そしてそれが受肉であって、それこそ福音的な救いの道にとって、極めて強い証拠である。
神のみもとまで自身を高めるものは、われわれではない。神が、キリストにおいてわれわれ に降りたもうたのである。6
さらにニーグレンはヤコブの梯子との関連で下降運動を説明している。
「天の梯子」は、神秘的「上昇」の典型的な象徴である。ルターも、ヤコブの梯子に注 意を向けた。しかし彼は、それがもはやエロースの思想をあらわすのではなく、アガペー の思想をあらわすような風に解釈した。神は神のみもとにのぼっていくために、われわれ が梯子を立てることを望み給わない。キリスト御自身が、梯子を準備され、われわれのも とに降り給うた。(lpse descendit et paravit scalam )。7
他方、ゲルハルト・エーベリングは、ルターの思想はいつもアンチテーゼを含んで いると主張する。
このことへの手がかりは、ルターの思想はいつもアンチテーゼ、すなわち、強く対立し てはいるが関連している両極の間にある緊張関係を持っているという観察の中にあるよう に思われる。そのアンチテーゼとは、最も重要なものだけを挙げるならば、神学と哲学、
文字と霊、律法と福音、律法の二つの用法、人と業、信仰と愛、キリストの国とこの世の 国、キリスト者としての人とこの世にある人、自由と束縛、隠れた神と啓示の神、とかで ある。8
私たちは、ニーグレンやワトソンが主張するように、自我中心的な宗教に対立する 神中心的な宗教あるいは上昇運動に対立する下降運動に従って、ルター神学の多くの テーマを説明することができる。しかし、エーベリングが言うように、神中心的な宗 教あるいは下降運動によって説明することのできない多くのテーマも見つけることが
できる。言い換えるなら、ルター神学の多くのテーマは「信仰を通しての恵みによる 義認」によって説明されることができるが、神が霊的な国では福音によって、この世 の国では律法と剣によって人々を支配するという、ルターの二王国論は「信仰を通し ての恵みによる義認」によって説明されることはできない。この点において、エーベ リングによるルター解釈はより包括的なものであると思われる。他方、多くのルター 研究者はルターの思想における律法の第三の用法に言及していることから、エーベリ ングの解釈、すなわち、強く対立してはいるが関連する両極の間にある緊張状態、例 えば、律法の二つの用法はその限界を示している。この論文で、私はルター神学にお ける三つの要素の関係を論じようと思う。
II 三種類の国
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ルター研究者は、二王国論がルター神学においてたいへん重要であるということに ついては同意している。しかし、彼らはその二つの国がどれであるかについては意見 が一致しない。ヨハネス・ヘッケルによると、その二つの国とはキリストの国とサタ ンの国である。彼は次のように語っている。
キリストの国にはその敵としてもう一つの国、すなわち、この世の国がある。ここで、こ の世とは神から離れた人類を意味する。またそれはサタンを頭とした神秘的な体であり、す でに言及された三つの部分、すなわち、君(この世の君)、サタンの統治、サタンに従う 人々(この世=バビロンの体)からなる。9
他方、パウル・アルトハウスと他の研究者たちはヘッケルの解釈を批判している。
アルトハウスは次のように語っている。
疑問の余地なく、1523 年とそれに続く数年において、ルターの二統治論は神の国と、サタ ンによって支配される、罪深いこの世の国との間の対立を土台にしている。しかしながら、
ヘッケルはあたかもこれがルターの最終的な見解かのように書いている。…それゆえ、彼が それを「アウグスティヌス的」と述べる時、彼は部分的にルターの教義を曲解している。10
W.D.J.トンプソンは次のように言っている。「しかしながら、こうした取り組み方 はヨハネス・ヘッケルなどによって、ルターの思想において実際に基礎となっている 教義は、‘regnum dei’ と
‘regnum diaboli’
との間の争いであるという理由で、攻撃されてきた。」11「…これは疑いなくルターの思想の一面を表しているが、それは完全では なく、考慮されるべき他の面もある。」12
ルターの二王国論は基本的に神とサタンの国という教義であったのか、それとも神 の霊的な国と世俗的な国という教義であったのだろうか。実際のところ、私たちはル ターの著作の中に、三つの対になった国、すなわち、神の国とこの世の国、霊的な国 と世俗的な国、神の国とサタンの国を見つけることができる。
1523 年の『この世の権威について、人はどの程度までこれに対し服従の義務がある のか』の中で、ルターは次のように語っている。
ここで私たちはアダムの子ら、すなわちすべての人間を二つの部分に分かたねばならない。
第一は神の国に属する者、第二はこの世の国に属する者である。神の国に属する者はキリス トのうちにあり、キリストのもとにある真の信仰者すべてである。なぜなら、キリストは神 の国における王、また主でいたもうからである。ちょうど詩篇二篇[六節]と全聖書が語っ ているとおりである。13
この世の国、あるいは律法のもとには、キリスト者でないすべての者が属している。14
ここでルターはもっぱら神の国の人とこの世の国の人について語っている。そして、
神の国はこの世の国に対立している。ここに私たちはルターへのアウグスティヌスの
「二国」の影響を見ることができる。
同時に、ルターは二つの統治を次のように説明している。
それゆえ神は二つの統治を定めたもうた。キリストのもとで聖霊によってキリスト者、す なわち信仰深い人々を作る霊的統治と、キリスト者でない者や悪人を抑制して、欲しようが 欲しまいが外的に平和を保ち、平穏であるようにするこの世の統治とである。15
それゆえ、この二つの統治を熱心に区別して、両者とも存続させなければならない。一つ は義たらしめるものであり、一つは外的に平和をつくりだし、悪事を阻止するものであって、
この世ではどちらを欠いても十分ではないのである。16
ここでルターは霊的統治とこの世の統治を区別しているが、彼はこの二つの統治は 相互に関連していると考えている。要するにルターにとって、神の国の人は真のキリ スト者からのみなり、この世の国の人はそれ以外の人々からなる。神によって定めら れているこの世の統治はこの世の国の人を支配する。しかしながら、後にルターは国
と統治という言葉を同じように使っている。ルターは 1525 年の『農民に対するきびし い小著についての書簡』で二つの国について、1526 年の『軍人もまた救われるか』で 二つの統治について次のように語っている。
二つの国がある。一つは神の国であり、他の一つはこの世の国である。…神の国は、怒り や罰の国ではなく、恵みとあわれみとの国であり、そこにはゆるし、いたわり、愛、奉仕、
善行、平和、喜びといったことのみが存在する。しかし、この世の国は怒りと厳格さとの国 であり、そこに存在するのは、罰、抑圧、さばきと判決、すなわち、悪しき者への強制と、
信仰あつき者への保護といったことのみである。17
神は、二種の統治を人間の間に設けられた。一つは剣によらないで、言による霊的なもの であり、これによって人は信仰を得て義なる者となり、その義とともに、とこしえの命を得 るのである。…もう一つの統治は、剣による現世の統治で、言によって信仰を得て義となり、
とこしえの命に至ろうと望まない人も、現世に対しては温順で正しいものであるように、こ の現世の統治によって強制されるためなのである。18
他方、ルターは、1525 年の『奴隷的意志について』の中で二つの対立する国、すな わち、神の国とサタンの国について語っている。
(私は言うが)、彼らは互いにきわめて激しく戦っている二つの国が世にあることを知って いる。その一方はサタンが支配しており、そしてこの支配のゆえに、彼はキリストにより
「この世の君」[ヨハネ 12:31]と言われ、パウロにより「この世の神」[第二コリント 4:4]と 言われている。…また一方の国はキリストが支配しておられる。そして、この国は絶え間な くサタンの国に抵抗し戦っている。19
相互に、絶え間なく、争いの状態にある神の国とサタンの国の中間には国はない。20
要するに、ルターは初め、アウグスティヌスが二国を区別したように、神の国とこ の世の国をはっきりと区別した。彼は、神の国の人は真のキリスト者からだけからな り、この世の国の人はその残りの人々からなると考えた。また、彼は最初、国と統治 を区別した。彼は、この世の国の人は神によって定められたこの世の統治によって支 配されると考えた。後に彼は国と統治を区別しなかった。彼は国と統治という言葉を 同じように使った。要するに、後のルターにおいて、二つの国というものが二種類あ るのである。一つは神の国とこの世の国、もう一つは神の国とサタンの国である。
国についてのルターの教義は次のように図で示されることができる。
神の国とサタンの国は互いに排他的である。神の国とこの世の国には重なる部分と重な らない部分がある。神の国に属する真のキリスト者は高い位の職に就くことができる。21 し かし、「身体と財産に関する限り」、真のキリスト者でさえ「この世の支配者たちに従属し、
彼らに服従する」。22 言い換えるなら、真のキリスト者はこの世の国を支配でき、そしてこの 世の国は真のキリスト者を支配できるのである。この点で、神の国とこの世の国は重なり合 う部分がある。しかしながら、神の国は御言葉、福音によって支配するが、この世の国は 律法と剣によって支配するので、重ならない部分がある。私たちはこの世を福音で支配す ることはできない。23 この世の国とサタンの国との間には重なる部分と重ならない部分があ る。神がサタンの国に対して世俗的な統治を設けたとルターが言う時、この世の国とサタン の国は対立しあうのである。24 他方、トルコ人は「神の怒りのむちであり、凶暴な悪魔の僕」
であるとルターが言う時25、この世の国とサタンの国は重なり合う部分を持つのである。
III 三種類の理性
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ジョン・ウェスリーはルターの『ガラテヤ人への手紙の講解』を読み、理性に関す るルターの見解を厳しく批判した。
どれほど彼は(ほとんどタウラーの言葉で)キリストの福音と相容れない敵として、
よかれあしかれ理性を激しく非難するのか。理解し、判断し、論述する力ではない理性
(そう呼ばれる能力)とは何か。どの力も一般に見ること、聞くこと、感じることと同 様に非難されるべきではない。26
ウェスリーは、彼が「ルターはよかれあしかれ理性を激しく非難する」と言った時、
理性についてのルターの見解を理解してはいなかった。B.A.ゲリッシュによれば、ル
ターは理性を高く称賛していた。
理性は「すべての芸術、医術、法律の、またこの世において人間の所有する知恵、力、
徳、栄誉などの発明者であり、支配者である」と擬人化されている。理性は人を獣から 区別するものであり、聖書それ自体は理性を地上の王女として任命している(創世記 1 章 28 節)。堕落によって理性の支配が理性から奪われることはなかった。理性はある種 の「神的な大陽」(sol et numen)としてあり続け、その光の中でこの世の出来事は管理 されている。理性は最も偉大で、非常に貴重な神の贈り物である。27
ゲリッシュはルターの思想における理性を次のように三種類に区別している。
もし我々がルターの思想の複雑さを正しく取り扱おうとするなら、注意深く次のよう に区別しなければならない。(1)固有な領域(地上の国)において支配している自然 の理性、(2)信仰の領域(天の国)に侵入しようとする傲慢な理性、(3)信仰の家に おいて謙遜に仕え、神の御言葉にいつも服従している、再生した理性。最初の状況にお いて、理性は神からの素晴らしい贈り物であり、第2の状況において、理性は悪魔の娼 婦、フルダであり、第3の状況において、理性は信仰の侍女である。28
ゲリッシュがルターの思想における自然の理性、傲慢な理性、再生した理性という三 種類の理性に言及したことは正しかった。しかし、彼はルターの思想における三種類の 国を把握できなかったため、この三種類の理性を適切に配置することができなかった。
ゲリッシュは、「ルターのこの見解についての主張の基礎をなしているのは、地上の国 と天の国という彼の基本的な二元論である」、と言っている。29 実際のところ、自然の理 性はこの地の国、傲慢な理性はサタンの国、再生した理性は天の国に対応している。
とりわけ、私たちは自然の理性に関するルターの見解を 1536 年の『人間についての 討論』の中に見つけることができる。
4.さらに次のことも正しい。すなわち、理性はあらゆるものの中で、かしらなるもので あり、この世の生に属する他のいっさいにくらべて最善かつ聖なるものである。5.理性は すべての芸術、医術、法律の、またこの世において人間の所有する知恵、力、徳、栄誉など の発明者であり、支配者である。7.聖書もまた、「治めよ」といって、地、鳥、魚、獣の 支配を理性にゆだねている[創世記 1 : 28]。9.神はアダムの堕落後もこの権能を理性 から取り去ってはおらず、むしろそれを強められた。30
次に、ルターはサタンの国に対応する理性を「悪魔の娼婦」と読んだ。
更に、彼は、フルダ、すなわち自然の理性がこの事がらに対して述べることを、私たちに教 えているが、その態度は全く、理性が悪魔の淫婦であること、あたかも、理性は神が語り、か つ、なしたもういっさいのことを し汚す以外には何もなし得ぬものであることを、私たち が知らぬかのごとくである。31
また、ルターは『ガラテヤ人への手紙の講解』の中で理性は神について正しく考え ることができないと語っている。
だが理性ではなくて、信仰のみが神について正しく考えることができる。ところで、人間 は、神のことばを信じるとき、神について正しく考えるのである。みことばから離れて、自 らの理性によって神をおしはかり、信じようと思うときには、神についての真理をもつこと はなく、それゆえ神について正しく考えることも、判断することもできない。32
それゆえ、彼は「哲学は神に敵対する肉の高ぶりである」と言う。33
最後に、ルターは霊的な国に対応する再生した理性について次のように語っている。
信仰と神の知識の前では理性は暗やみである。しかし、信仰者においてそれは最高の道具 である。すべての贈り物や自然の道具は神に従わない者を敬わないが、神を信じる者において は有益である。それから信仰は信仰の前では大きな障害である理性、レトリック、言語によっ て手助けされるのである。信仰へと組み込まれ、啓発された理性は信仰からの贈り物を受ける。
それは再び克服され、生命を与えられる。まさに私たちの体がより明るく成長するように、神 を信じる者における理性は信仰とは戦わず、それを助ける何か異なったものである。34
IV 律法の三つの機能
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律法の第 3 の機能がルターの思想に現れるかどうかは、ルター研究において激しく 論じられてきた問題のひとつである。ヴェルナー・エラートは、それはルターの中に は現れないと論じている。それゆえ彼は、ルターの『反律法主義者たちへの第二の反 論』の中の最後の数文を後代のメランヒトンの
Loci
からルターの著作にコピーされた 偽造であると見なす。35ここでルターは、「律法は、聖人が神がどの種の業(行為)を 要求しているのか、どんな事柄において彼らは神に実際に従うべきかを知るためにも、保たれる(持ち続けられる)べきである」と述べている。36 他方、アルトハウスは律法 の第 3 の機能がルターの思想に現れていると言う。
ルターは「律法の第 3 の機能」(tertius usus legis)という表現を使ってはいない。メラン ヒトンは確かにこの表現を使い、その後これは、和協信条(1577 年のルター派の告白文 書)とルター派の正統主義の中に、そして 19 世紀の神学によって適用された。しかしな がら、実際のところ、それはまたルターの思想の中にも現れているのである。37
ルターのテキストを調べるなら、私たちは三つの国に対応する律法の三つの機能を 見つけることができる。まず、この世の国に対応する律法の機能がある。
律法は二とおりの用法のために与えられている。第一は、粗野な人々や悪人を強制
(抑制)するためである。このようにして「これを行なう人はこれによって生きる」と いうのは市民的な表明である。すなわち、もし外的に、地上的な領域において支配者に 従うならば、罰と死を免れるということである。地上の支配者には、彼に罰を課したり、
彼を殺したりする権はない。彼が咎なく生きることを認めるだけである。これが律法の 市民的用法であって、粗野な人々を強制するためのものである。38
律法の第 2 番目の機能はサタンの国に対応する。たとえルターは「霊的」という言 葉を使っているとしても、律法のこの機能は「霊的な国」に対応していない。ルター はこの機能について次のように語っている。
律法の他の用法は神学的あるいは霊的であり、違犯を増す役割を持っている。これはモー セの律法の主要な目的であり、それを通して罪は特に良心において、大きくなり、増え広が ることができる。パウロはこのことをローマ書 7 章でどうどうと論じている。それゆえ、律法の 真の機能と中心的、適切な用法は人にその人の罪、盲目性、みじめさ、邪悪さ、無知、神へ の憎しみと侮蔑、死、地獄、審判、そして功罪に応じた神の憤りを明らかにすることである。
第三に、神の国に対応する律法の機能がある。ルターは律法のこの機能を次のよう に語っている。
今や律法の国から取られ、キリストの国の中へと置かれている。それゆえ律法は、信 仰者が良き業をするための手本として、信仰者によって保持されなければならない。39
V 結論
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ルターの神学の統一的原理を見つけ出すことは簡単ではない。しかし、ニーグレン は一定の傾向、すなわち、自我中心的な宗教に対立する神中心的な宗教、あるいは上 昇運動に対立する下降運動を見つけ出し、この観点でルターのすべての教義を解釈し ようと試みた。私たちはルター神学の多くのテーマを神中心的な宗教あるいは下降運 動に従って説明することができるが、二つの国の教義のように、神中心的な宗教ある いは下降運動によって説明することができない多くのテーマも見つけることができる。
この点で、強く対立し合うが関連する両極間の緊張関係にあるという、エーベリング によるルター解釈はより包括的であるように思われる。他方、多くの研究者がルター の思想における律法の第3の機能に言及しているので、エーベリングの解釈、例えば、
律法の二つの用法はその限界性を示すことになる。この論文では、ルター神学におけ る三つの要素の関連を論じようと試みた。その結果、私たちはルター神学における三 つの国、三種類の理性、そして律法の三つの機能を見つけることができた。
注
1 Cf. Bernhard Lohse, “ Zur Struktur von Luthers Theologie”, Evangelium in der Geschichte: Studien zu Luther und der Reformation, ed. Leif Grane, Bernd Moeller and Otto Hermann Pesch (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht,
1988),237-249.
2 アンダース・ニーグレン著、岸千年・大内弘助訳『アガペーとエロースIII』新教出版、1978、260-325 頁。
3 Philip S. Watson, Let God Be God : An Introduction of the Theology of Martin Luther (Philadelphia: Muhlenberg, 1948) .
4 ニーグレン『アガペーとエロースIII』、260 頁。
5 上掲書、281 頁。
6 上掲書、283-284 頁。
7 上掲書、286 頁。
8 Gerhard Ebeling, Luther : An Introduction to His Thought, trans. R. A. Wilson (Philadelphia: Fortress press, 1983) , 25.
9 Johannes Heckel, Lex Charitatis, ed. Martin Heckel (Köln: Böhlau Verlag, 1973) , 321.
10 Paul Althaus, The Ethics of Martin Luther, trans. Robert C. Schultz (Philadelphia: Fortress Press, 1972) , 54, n. 52.
11 W. D. J. Cargill Thompson, The Political Thought of Martin Luther, ed. Philip Broadhead (Sussex: The Harvester Press, 1984), 56-57.
12 Cargill Thompson, The Political Thought, 58.
13 ルター著作集委員会編「この世の権利について、人はどの程度までこれに対し服従の義務があるのか
(1523)」『ルター著作集第 1 集 第 5 巻』聖文舎、1967、146 頁。
14 上掲書、148 頁。
15 上掲書、148-149 頁。
16 上掲書、150 頁。
17 ルター著作集委員会編「農民に対するきびしい小著についての書簡」『第 6 巻』、1963、386 頁。
18 ルター著作集委員会編「軍人もまた救われるか」『第 7 巻』1966、386 頁。
19 ルター著作集委員会編「奴隷的意志について」『第 7 巻』1966、479-480 頁。
20 上掲書、391-392 頁。
21 「それゆえ、刑吏、捕吏、裁判官、領主、君侯が足りないことを知り、自分がそれに適していることが わかったら、自らそれに応じ、その《職》を求めて、必要な権力が軽んじられて無力となり、あるいは 滅びてしまわないようにするべきである」(ルター著作集委員会編「この世の権利について、人はどの程 度までこれに対し服従の義務があるのか(1523)」、155 頁)。
22 ルター著作集委員会編「軍人もまた救われるか」、559 頁。
23 「だから一国全体や世界を福音をもって統治しようと企てることはすなわちまさしく、ひとりの羊飼い が一つの馬小屋に狼と獅子とわしと羊をいっしょにいれ(る)…ようなものである」(ルター著作集委 員会編「この世の権利について、人はどの程度までこれに対し服従の義務があるのか(1523)」、150 頁)。
Also cf. John R. Stephenson, “ The Two Governments and the Two Kingdoms in Luther's Thought,”
Scottish Journal of Theology, 34 (1981) : 321ff.
24 D. Martin Luthers Werke ( Weimar: Hermann Bohlaus Nachfolger) , 17/1:479, 13ff. Cf. Althaus, Ethics,80-81.
25 ルター著作集委員会編「トルコ人に対する戦争について」『第 9 巻』1973, 27 頁。
26 Luther, Lectures on Galatians 1535, LW26,309.
27 B.A. Gerrish, Grace and Reason: A Study in the Theology of Luther (Oxford: The Calrendon Press, 1962) , 17.
28 Gerrish, Grace,26.
29 Gerrish, Grace,13.
30 ルター著作集委員会編「人間についての討論」『第 10 巻』1980,271-272 頁。
31 ルター著作集委員会編「天来の預言者らを駁す、聖像とサクラメントについて」『第 6 巻』、208 頁。
32 日本ルーテル神学大学ルター研究所編『ルター著作集第二集 第 11 巻(ガラテヤ大講解・上)』聖文舎、
352 頁。
33 「人間についての討論」、284 頁。
34 WA, TR 3, 2938b.
35 Werner Elert, Law and Gospel, trans. Edward H. Schroeder (Philadelphia: Fortress Press, 1967), pp.38ff, cited by Paul Althaus, The Theology of Martin Luther, trans. Robert C. Schultz (Philadelphia, Fortress Press, 1970) , p.
272.
36 Martin Luther, Die zweite Disputation gegen die Antinomer, WA39/1:485, 2224. “ Lex est retinenda, ut sciant sancti, quaename opedientiam exercere erga Deum possint.”
37 Althaus, The Theology of Martin Luther, 273.
38 日本ルーテル神学大学ルター研究所編『ルター著作集第二集 第 11 巻(ガラテヤ大講解・上)』、405 頁。
39 WA 39/ II :274, 20, quoted in Althaus, The Theology of Martin Luther, 272.