Uni v) 第33巻 2 号 95~100
有害大気汚染物質の健康リスク評価
奥 村 二 郎 東 賢 一 千 葉 康 敬 近畿大学医学部環境医学・行動科学教室
は じ め に
発がん性を含む多様な有害物質が大気中から検出 されている.これらの検出された物質の大気中の濃 度が将来ヒトに健康影響を生じるレベルであるかが 注目される.近年,リスクアセスメントの手法を用 いた化学物質や重金属の健康リスク(健康影響)評 価が行われるようになり,個々の物質によっては, 直ちに健康影響が発生するものではないものの,長 期間曝露することにより健康影響が懸念される濃度 であることが明らかとなってきている.
本稿では,有害大気汚染物質対策の健康影響につ いて,評価手法の考え方を概説し,その後,闇値の ない物質の代表例としてベンゼンに対する健康リス ク評価の手順に沿って紹介し,加えて許容されるリ スクレベルについて述べるト
1 評価手法の概説
大気環境中の有害な化学物質や重金属は,実際の 一般環境中で検出される濃度が極めて低いことか ら,ヒトへの直接的な影響や被害が報告されること は少ない.このため,労働衛生分野における過去の 高濃度の曝露データや動物に対する高濃度の吸入実 験の結果から,一般環境における低濃度長期曝露に
e ぬ 品
動物実..デタ 物 理 化 学 的 佐 賀
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復 学 的 デ タ
〈玄に労働衡,.
ヒトの,.活状況 食生活 生活環境
よる健康影響を推定する(図1).この際,闇値の有 無により,それぞれ異なる手法で量反応関係を評価 する.
a 有害性の確認
まず最初の段階として,発がん性や一般毒性につ いて,有害性を評価し確認する.情報としては,物 質の物理・化学的な性質,変異原性などの短期試験,
動物実験データ(曝露経路,薬物動態,毒性学的作 用など),疫学的データを用いる.
b.発がん性
発がん性の有無の区別としては,疫学的にヒトに 対する曝露データと発がんの関係が十分に明らかに されたもの,又は動物実験において曝露量と発がん の関係が十分明らかにされたものを,それぞれ発が ん性がある物質とする.
c 量一反応評価(量一反応アセスメント)
曝露量と健康影響との関係を定量的に評価する. 曝露量と健康影響の関係には,ある曝露量以下では 影響が起こらないとされる聞値が認められそれに応 じた許容量を定めることが出来るものと,発がん性 があり遺伝子毒性を有する物質でこのような許容量 が存在せず(闇値なし)微量であってもがんを発生 させる可能性が否定できないと考えられるものがあ る.
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図1 有害大気汚染物質に係る健康影響評価の手法について
注)1)関値:ある曝露量以下では影響が起こらないとされる値
2 )実質安全用量 ;曝露量から予測される健康影響が十分低く,実質的に安全とみなすこと が出来る量
3 )最大無毒性量;検出可能な健康への悪影響を起こさない化学物質の最大の量文は濃度
96 奥 村 二 郎 他
d.
闇値のない毒性の定量的な評価遺伝子毒性により発がんを来たす物質について は,関値がないと考えるが,曝露量が小さくなれば 発生率も低くなることから,曝露量がゼ、ロでなくて も,予測される健康影響が十分に低い場合,実質的 に安全とみなす.この値は,実質安全用量
(VSD:
V i r t u a l l y S a f e D o s e )
として,関値のない物質につ いての安全性を示す値として, リスクマネッジメン トの過程において,目標値や基準値として用いられ る.e
関値のある物質の定量的評価直接的な遺伝子毒性に基づかないでヒトの健康に 悪影響を与えると判断された物質については,関値 があると考える.健康への悪影響を起こさない化学 物質の最大の濃度(量)である
TDI( T o l e r a b l e D a i l y I n t a k e ;
耐用一日摂取量)を求めて,健康影響を評 価する.TDI
は,従来から聞値のある物質に用いら れ て き たADI
と 同 様 の 手 法 で , 最 大 無 毒 性 量(NOAEL : no o b s e r v e d a d v e r s e e f f e c t l e v e
I)を不 確定係数(安全係数)で除して算出するべf .大気環境からの曝露評価
経気道や経口など複数の経路から曝露して起こる 健康影響については,食生活や生活環境を考慮した 経路別の曝露量データを使用する.日本の大気環境 については,環境省や地方自治体が測定した環境濃 度データやそれに準じて測定したデータを用いるこ
とが多い.
g.
闘値がないとされた物質のリスクの表示方法 量一反応アセスメントと曝露評価の結果を組み合 わせた,発がんリスクの推定値については,①量一反 応アセスメントの結果から,ユニットリスクとして,環境濃度
1 ぃ g/m
3の化学物質に一生涯曝露された ヒトが受ける生涯リスクの増加分を表示する方法.②一定リスクに対応した環境濃度を表示する方法.
例えば,一生涯で100万人或いは10万人に一人発がん するリスクレベルといった形で環境濃度を示す.③ 個人又は集団のリスクを表示する方法.ある国で
1
年間に00
人の発がんの増加があるといった表現方 法により表示する.2.
ベンゼンのリスク評価ベンゼンは,常温・常圧で無色透明な液体で,化 学工業製品の合成原料,溶液,抽出等広範な用途が ある.ガソリン中にも含まれている
.IARC
(In t e r n a ‑ t i o n a l Agency f o r R e s e a r c h on C a n c e r )
他により 発がん性を有すると分類され,わが国の労働環境では,特定化学物質等障害防止規則や労働安全衛生法 により使用が厳しく制限されている.一般環境では
大気環境基準が設定されている.ここでは,環境基 準設定(1997)の際に健康リスクが評価された手順
に沿って,概説する.
a
有害性の確認ベンゼ、ンの骨髄毒性は,ベンゼンそのものでなく,
その代謝物が原因であり,毒性発現物質としてカテ コール,ベンゾキノン,ヒドロキノン等が重要視さ れている6ー11 肝臓で代謝生成されたフェノール,カ テコール,ヒドロキノン等の中間代謝物が骨髄に運 ばれ,最終的に毒性を発揮する物質に代謝されるの ではないかと考えられている12 また,濃度により代 謝経路及び毒性の発現傾向が変わるという報告があ る13‑15
b.
発がん性と遺伝子毒性ベンゼンと白血病の関係については,代表的なも の と し て , ① ト ル コ に お け る 製 靴 工 の 白 血 病 研 究1叩,②米国ミシガン州の
Dow
工場における疫学 研究院19 ③米国オハイオ州のP l i o f i l m
製造工場に おける疫学研究20ーペ④羽Tongの化学工場における 疫学研究28がある.これらの研究から,ベンゼ、ンがヒ トに白血病を起こすことに関しては十分な疫学的根 拠があると考えられる.その他,多発性骨髄腫,リンパ腫, リンパ性白血病, リンパ組織の腫蕩発生と の関連性が報告されている.なお,動物実験では,
腫蕩の発生は造血器以外の多彩な器官にみられるも のの,骨髄性白血病の発生を示唆する知見が少ない.
c
遺伝子障害性(変異原性)細菌や晴乳動物の細胞にベンゼンを直接曝露した テストでは陰性であるが,小動物にベンゼンを曝露 した場合,骨髄や末梢血の細胞に染色体異常を起こ
表1
P l i o f i l m
工場の疫学調査20.21(1987) 概要1 .方法
ベンゼンを溶剤として大量に使用していた米国オ ハイオ州の
P l i o f i l m
製造工場労働者のうち.1940年~1965年の聞にベンゼンに曝露した男性 1165人につ
いて追跡調査,曝露量の推定を行った.
2 .
結果労働者個人の曝露量を会社の個人記録と工場のそ れぞれの部署の環境濃度を(1年ごと)算出した.
死因については.1981年まで追跡を行い以下の結果 を得た.
死因 死亡者数期待値 上七 白血病 9 2.7 3.3 多発性骨髄腫 4 1.0 4.0 リンパ系・造血器系悪性腫蕩 15 6.6 2.3 全悪'1生新生物 69 66.8 1.0 死亡全体 330 331.6 1.0
白血病全14例についての種々の研究におけるベンゼン曝露推定,ユニットリスク計算1
最初の 曝 露
(年)
曝露推定26,27 Crump と Allen22•23
(ppmo年 ) TWA(ppm) 露
間 引 曝期はいICD
コード (1987) 2‑
例 号 表 一 症
番 Paustenbachら24.25
(ppmo年) TWA(ppm) Rinskyら20,21
(ppmo年) TWA(ppm)
63.0 53.3 88.3 111.3
62.6 88.5 80.8 59.6 27.
。
126 1120 1766 668 1126 1239 1051 596 54 189.5
44.6 107.5
5
1.0
18.0 106.6 19.3 1.51
1.5
379937 2149 306 324 1493 251 15 23 25.0
22.6 32.0 16.3 14.0 35.5 19.9 0.1 5.
。
50 474 639 98 252 497 259 1 10
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唱
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204.2 204.3 204.3 204.2 205 204.3 204.3 205 204.1
1i戸
b n b η i q u A
せqJ円
i Q U 可i
30.0 48.1 17.9
1
1.0
18.0 54.2 [44.6J 38.7 [22.2J 3.4 (4.7) [4.1 (8.2)J 70.5 [66.0J 55.3 [44.7J 2.6 (3.3) [2.8 (4.1)J
3 337 286 11 9 30.0
9.3 9.0 50.0 14.0 3
65 144 50 7
47.3 [25.6J 20.4 [7.4J
3.9 (8.9) [7.1 (24.6)J 61.1 [31. 4J 22.9 [7.4J
3.0 (7.9) [5.8 (24.6)J 1.0
12.9 3.9 7.0 2.0 14.1 [7.2J
8.2 [1.5J 12.9 (22.2) [25.3 (122.0) J
18.9 [10.4J
1
1.8
[1.5J9.6 (15.4) [17.5 (122.0)J 0.1
90 62 7 1 0.1
7 16
1 0.5 1948
1950 1940 1945 1949 204.1
205.1 204.0 208.9 208.9
η︐μphunxun同dAHU 1 i 1 4 1 4 n L
TWA平均[幾何平均]
95%信頼下限[幾何平均]
UR(XlO‑6) [幾何平均]
(95%信頼下限) TWA平均[幾何平均]
95%信頼下限[幾何平均]
UR(
x
10‑6) [幾何平均](95%信頼下限) (全体)
(上段)
T W A : timeweighted average (時間荷重平均),
UR (ユニットリスク)は,平均相対リスクモデル(表5)により算出
Pliofilm製造工場の労働者に関する研究における累積曝露別の白血病死のSMRl 曝 露 推 定26,27 累積曝露 人・年 観 察 期 待
(ppmoyear) 死 亡 数 死亡数 表 3
95%信 頼 区 間 S恥1Ra
0.41~5.76 0.47~6.69 2.78~14.28 0.51~11 1. 4 0.02~4.89 0.88~8.33
1. 79~ 10.63
2.13~30.21 0.03~7.43 0.22~6.45 0.76~7.16 4.76~24.44
1. 97 2.29 6.93*' 20.00
0.88 3.25 4.87本
10.34叫
1.33 1. 79 2.80 11.86*事
1.52 1.31 1.
0 1
0.05 1.14 1.23 1.23 0.29 0.75 1.12 1.43 0.59q合u q t u a可np‑tutqυn4A︐a‑Et'ム1ム
︒
︐
4 4A
s巧 ︐
18,178 l3,456 8,383 328 12,974 13,951 11 ,448 1.972 9,645 12.882 14.095 3,723
0~5
>5~50
>50~500
>500
0~5
>5~50
>50~500
>500
0~5
>5~50
>50~500
>500
Crump と Allen22•23
Paustenbachら24,25
Rinskyら20,21
SMRa ; two.sideポワソン検定, *; p<0.05, **; p<0.01
平均相対リスクモデルによって計算されたユニットリスク1
表4
ユニットリスク X 10‑6 標 準 化 死 亡 比
(SMR) 白血病死亡者数
推定平均累積曝露 (ppmo年) 累積曝露区分
(ppmo年) 曝 露 推 定26,27
16.8 11.0 4.3 7.0 6.93
4.87 10.34 11.86
ウ
a ι
リηJウt
247 245 1526 1081
>50~500
>50~500
>500
>500 Rinskyら20,21
Crump と Allen22•23
Paustenbachら24,25
98 奥 村 二 郎 他
すことが知られている.また,ヒトに対しては,比 較的高濃度爆露で染色体異常が観察されている29
これらの研究結果から,総合的に判断して 遺伝子 毒性がある"と考える1,2
d.量一反応評価(量反応アセスメント)
ベンゼンのヒトへの発がんの標的臓器が造血器で あることが過去の労働環境における白血病データか ら明らかであるため,発がんに関する量反応アセス メントはヒトの疫学研究のデータを用いて行う.疫 学研究としては,
P l i o f i l m
製造工場の労働者に関す る研究が代表で,知見に対する信頼性からみて,こ の研究を用いるが,対象となる労働者の曝露量の推 定に確定的なものがなく,種々の推定が行われている20‑25(表1‑4).
e
低濃度域への外挿に用いる数理モデルについて ここで用いる疫学データが過去の労働環境でのデ ータであることから,個々の曝露の形態はさまざま で,累積曝露が同じ程度であっても曝露濃度や期間 が異なるなど,動物実験における制度・均一性と異 なるデータの性質を考え,ベンゼ、ンにおいては,平 均曝露量と相対リスクを用いる数理モデル(表5)
を使用する1‑3
f .ベンゼ、ンの発がん性リスク
表5 平均相対リスクモデノレを用いた定量的評価の手 法1‑3
UR= (Po(R‑1))/X UR;ユニットリスク
P o
;生涯リスクのパックグラウンド値R;
相対リスク.曝露集団中の観察された発がん数 と期待値の比.標準化死亡比(SMR)
で表すこと もあるX;生涯平均曝露(い
g/m
3)表2の計算方法;Po=0.007
,
R二 3.60,
X = (8時間 TWA(ppm)) x (8/24) x (240/365) x (従業年数/平均寿命(70))
表6 一般環境中のベンゼン濃度 (2006 (1998)年度)30訓
地域分類 測定した地点数 環境基準の超過地点数
一般環境 247
。
0%(174) (68) (39%) 発生源周辺 86 3 3.5%
(58) (22) (38%) 道路沿道 118 10 8.5%
(60) (45) (75%)
全体 451 13 2.9%
(292) (135) (46%)
量反応評価及び数理モデルの選択から,リスク評 価に用いたデータの不確実性を考慮したうえで,生 涯曝露に関するユニットリスクとして,
3
X1 0 ‑
6~7x
1 0 ‑
6の範囲と推測している.ベンゼンのユニ ットリスクについては,その根拠となる過去の文献 から死亡リスクであるが,日本の現在の医療水準で は発症リスクと考えるのが妥当である.なお ,WHO
欧州においては, 4.4X10-6~7.5X10-6 と評価している
g.大気環境濃度からみたリスク
工場・自動車など特定の発生源を除いた日本の一 般環境(247地点, 2006年)における年間モニタリン グ濃度範囲が0.4~2.6 ぃg/m九平均が1. 4 仲g/m3 で ある30,31 (表
6 ) .
この最大値の濃度データと,ユニ ットリスク4X
10‑6を用いて計算すると,白血病に よるリスクは 1X1 0 ‑
5となる. この濃度のベンゼ、ン を吸入した場合に,一生涯で白血病の発生の増加が 10万人に1人ということになる.3. 闇値がないとされた物質の「目標リスクレベル」
について
闘値がない物質については,曝露量から予測され る健康リスクが十分に低い場合には実質的には安全 とみなすといった考え方に基づいてリスクレベルを 設定する. リスクマネッジメントの過程として,日 常生活で遭遇する様々なリスクとの比較,大気環境 やその他の分野における目標リスクレベル,海外に おける同様の例などを整理した上で,リスクコミュ ニケーションを行い,最終的には,科学的な根拠を
もとに政策的に決定する.
環境省では, 1997年,専門家の意見などを参考に,
「現段階においては,生涯リスクレベル
1 0 ‑
5を当面 の目標に,有害大気汚染物質対策に着手していくことが適当」とし ,
3 ぃ g/m
3の環境基準を設定してい る32 現状の環境濃度は,工場周辺や道路沿道を除く(同
/m
3)測定した検体数 環境中のベンゼン濃度 平均 最小 最大 2,964 1.4 0.40 2.6 (2,099) (3.0) (0.92) (11) 1.032 1.8 0.77 4.5 (696) (3.2) (一) (9.9) 1,416 2.1 0.94 4.0
(732) (4.4) (1.1) (8.5) 5,412 1.7 0.40 4.5 (3,527) (3.3) (一) (11) 注)月 1回以上1年間,測定した環境省及び地方自治体モニタリング調査結果
上段;2006年度,下段( )内;1998年度(ベンゼン環境基準の新設は1997年)
一般環境中で,概ね目標が達成され,
1 9 9 7
年のベン ゼン環境基準新設の効果と考えられる.ま と め
大気中の有害化学物質について,評価手法の考え 方から,有害性の確認(定性的評価),量一反応評価 (定量的評価),闘値の有無に対する考え方,一般環 境における曝露評価など,健康影響評価について概 説した.合わせて,闘値がないとされる物質の代表 例として,ベンゼンの健康リスク評価の事例につい て解説した.本稿では説明しきれないが,このほか,
複数の有害化学物質(重金属)に対する健康影響の 評価やリスクコミュニケーションについては,現状 ではいずれも満足のいく水準に達しているとは言い がたし今後の取組みの成果が期待される.
注)リスクアセスメント;ある化学物質が人に対し て有害性を有するか否かを明らかにする作業.有害 性を有するならば,現在或いは将来予想される曝露 量下における人間集団の健康に対する影響を確率論 的に明らかにしようとする科学的な作業.
ユニットリスク;発がん性を有する物質が大気中 にl阿
1m
3含まれる場合,そのような大気を生涯を 通じて吸入した人のがん等の発生確率の増加分を意 味する.この数値は,種々の仮定のもとに計算され た値であることに注意する必要がある.リスクとい う言葉には,好ましからざる事象の発生確率という 意味が含まれる.文 献
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