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南山宗教文化研究所研究所報 第 30 号 2020 年 はじめに 3 金承哲 死後存続研究が示す 死後の世界 5 と 心的現実 の問題について坂井祐円 田川建三における大学闘争と宗教批判 17 観念と現実のはざま村山由美 教皇来日に寄せて 33 深堀彩香 第 4 期南山大学国際化推進事業国際ワークシ

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南山宗教文化研究所 研究所報

第30号 ・ 2020年

はじめに 3 金 承哲 死後存続研究が示す「死後の世界」 5 と「心的現実」の問題について 坂井祐円 田川建三における大学闘争と宗教批判 17 観念と現実のはざま 村山由美 教皇来日に寄せて 33 深堀彩香 第4期南山大学国際化推進事業国際ワークショップ報告 40

「Homo Translator: Traditions in Translation」 斎藤喬

第5回日本宗教研究・南山セミナー報告 45

後藤晴子 Japanese Journal of Religious Studies 53

年次報告 マシュー・D・マクマレン 旧師旧友 58 昨年の行事

62 研究所のスタッフの研究業績

65 研究所のスタッフ

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は じ め に

例年通り、2019 年度にも私たちは新しい研究員を迎え入れることができました。南 山宗教文化研究所奨励金研究員として、前年度に引き続き深堀彩香氏を再任用し、新 しい研究者として後藤晴子氏を受け入れました。後藤氏は、宗教と老いをめぐる宗教 学的・人類学的研究をテーマにしており、本研究所の諸活動にさらなる活力を吹き入 れてくださることになりました。 そして 2019 年度末をもって、ポール・スワンソン第一種研究所員の 3 年間の任期 延長が終わり、定年退職することになりました。スワンソン氏は、長年にわたって、 研究所員として、また Japanese Journal of Religious Studies の編集者として勤めてくださ いました。特に、2019 年度には、天台智顗大師『魔訶止観』のスワンソン氏による英 訳 Clear Serenity, Quiet Insight: T’ien-t’ai Chih-i’s Mo-ho chih-kuan (3-volume set, University of Hawai‘i Press, 2018, Nanzan Library of Asian Religion and Culture) に対して学問的な業績が 認められ、Toshihide Numata Book Award for Buddhism を受賞しましたし、アメリカ宗 教学会(American Association of Religion)では、出版を記念するシンポジウムが開催 されました。3 巻を合わせて 2256 ページに至る膨大な翻訳書は、まさにスワンソン氏 のライフワークといってもよい翻訳作業であって、その業績が高く賞賛されたことに、 研究所としても感謝と喜びを申し上げたいと思います。 また、長い間第一種研究所員として勤めていた奥山倫明氏も、個人的な事情により 辞職することになりました。M・エリアーデの研究者としての奥山氏は、最初の研究 書『エリアーデ宗教学の展開―比較・歴史・解釈』(刀水書房、2000 年、南山大学学 術叢書)により 2000 年度の中村元賞を受賞しましたし、その後の旺盛な研究活動― ―研究助成金の獲得、国内外における学会活動、宗教学関連古典の翻訳など――によ り、南山宗教文化研究所のために多大な貢献をしてくださいました。 スワンソン氏と奥山氏の退職は同研究所にとっては本当に残念なことですが、この 場を借りて、スワンソン氏と奥山氏に長年のご奉仕に感謝しながら、今後のさらなる ご活躍をお祈りする次第です。 2019 年度は、第四期南山大学国際化推進事業(2018 年度~ 2020 年度)が本格的な 軌道に乗る年でした。本研究所は、「日本思想文化を国際的に発信するための研究拠 点の確立」という研究テーマを掲げてこの事業に参加しておりますが、主な活動と して目指している日本思想の翻訳、すなわち、Japanese Philosophy: A Sourceboo (ed. by James W. Heisig, Thomas P. Kasulis, John C. Maraldo, University of Hawai‘i Press, 2011, Nanzan Library of Asian Religion and Culture) を韓国語に翻訳し出版する作業が順調に進んでお りますし、この活動に関連して、思想・文化の翻訳という問題をめぐる国際コンファ ランスを 7 月に開催することができました。この国際コンファランスには、ドイツ、 イタリア、チリ、韓国、日本からの研究者・翻訳者が参加して、「翻訳するものとし ての人間――翻訳の伝統」(Homo Translator: Traditions in Translation)というテーマの

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下で、研究発表および討論が行われました。 さらに、2019 年度においても、名古屋大学高等研究院客員教授の阿部泰郎氏のコー ディネートの下、名古屋大学人文学研究科教授の近本謙介氏とともに、昨年度に引き 続き「南山セミナー」を開催しました。これは、主に海外で日本宗教の研究をしてい る大学院生を招聘し、日本語で研究発表とディスカッションを経験してもらうことを 目的として企画され、2018 年度からは名古屋大学との共催という形で「平成 29 年度 研究拠点形成事業」(研究課題名:「テクスト学による宗教文化遺産の普遍的価値創成 学術共同体の構築」)の一環となり、今回で二度目を迎えました。 以上を持ちまして、簡単ながら 2019 年度における南山宗教文化研究所の主な研究 活動についての所長報告に代えさせていただきます。 今後とも、南山宗教文化研究所の活動に皆様方の変わらぬご協力とご支援を心より お願い申し上げます。 金 承哲 2020 年 6 月 1 日

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る多くの現代人(とりわけ研究者の立場) からすれば、この研究自体をオカルトの類 と見做して、学問的な議論に値しない「い かがわしきもの」と考えるのも無理からぬ ことである。 とはいえ、意識と脳の関係を考えるとい う点だけを見れば、これは哲学の歴史にお いて古くから議論されてきた身心問題の中 心テーマであり、取り立てて奇妙なことで はない。死後存続研究が近代科学主義と本 質的に相容れないのは、いわゆる「あの世」 もしくは「死後の世界」の客観的な実在を 前提としている点にある。しかも、その具 体的な描写や世界構造までもが含まれてい る。このことを容認するためには、私たち が当たり前のように感じ取っている世界の 見方を一変しなければならないほどの価値 転換を迫られるだろう。死後存続研究が明 らかにする「死後の世界」は、日常感覚か らするとそれくらい奇妙なことである。一 例として、ここでは「中間生記憶」という 現象について見てみることにしよう。 中間生記憶とは、人が転生をくり返す中 で、一つの人生が終わり次の人生へと移行 するまでのあいだを過ごすその中間の世界 (死後の世界)についての記憶である。こ れは前世療法において、退行催眠によって

死後存続研究が示す「死後の世界」

と「心的現実」の問題について

坂井祐円

Sakai Yūen

1.死後存続研究の方法論とその矛盾 死後存続研究とは、肉体が機能停止して 死を迎えたとしても、意識は何らかの形で 残存し継続する可能性を経験科学的に検証 しようとする研究の総称を指す。もともと は 19 世紀の後半に、イギリスを中心に流 行したスピリチュアリズム(心霊主義)を 背景として盛んに行われた霊媒現象を対象 にした研究を発端とする。1霊媒による心 霊科学研究は、やがて ESP(Extra-Sensory Perception /超感覚的知覚)研究、超心理 学研究へと派生していったが、20 世紀の後 半になると他のいくつかのアプローチが展 開した。これには大まかに二つの流れがあ り、一つは臨死体験の研究、もう一つは生 まれ変わりに関する研究である。2 いずれにせよ、意識が死後も存続すると いう発想は、「意識は脳の副産物である」と する近代の自然科学が示してきた唯物論的 仮説へのアンチテーゼであり、近代科学主 義パラダイムの否定ないしは転換を要求し ている。それゆえ、科学的思考を常識とす 1. 三浦清宏『近代スピリチュアリズムの歴史―心 霊研究から超心理学へ』講談社、2008 年。 2. 大門正幸『なぜ人は生まれ、そして死ぬのか』 宝島社、2015 年。大門正幸「意識の死後存続研究の 新たな展開」『人体科学』24(1), 75 頁~ 77 頁、2015 年。

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トランス状態に入ったクライエントが過去 生の記憶を語る際に、一つの人生が終わり 死んだ後に入っていく世界のヴィジョンと して出てくる。3しかも中間生記憶が語られ る場合には、トランス状態に入っている本 人の人格とは異なる、ガイドもしくはマス ターと呼ばれる精神的に進化した霊的存在 が突如として出現し、本人の人格とは別に 語り出すという形を取ることが多い。この 中間生の内容は、19 世紀の心霊科学研究に 照らし合わせると、霊媒を通して現れた高 級霊なる存在が語る霊界の内容と酷似して おり、ガイドやマスターというのは霊的成 長のための手助けをする守護霊(guardian spirit)もしくは守護天使(guardian angel) と呼ばれる存在に近い。また、前世記憶や 胎内記憶を語る子どもが、この世に生まれ てくる直前に過ごしていた場所について言 及することがあり、その中で導き手のよう な存在を示唆するような発言もあるが、こ れも中間生のヴィジョンとよく似ている。 あるいは、臨死体験の事例では、死後の原 風景と感じられる平安な光景を目の当たり にするという報告が多いわけであるが、そ こでは神々しく光に包まれた存在に遭遇し て何らかの示唆が与えられるという展開が しばしばある。これもまた見方によっては 中間生記憶が語る内容と似通っていると言 える。このように死後存続研究が伝える「死 後の世界」の様相は、アプローチや対象に 違いはあっても、ある程度の共通性をもっ た特徴が見出されるのである。 3. 前世療法の最中に、中間生記憶を語るクライエ ントは多いようである。前世療法を紹介する本の中 でも比較的内容がまとまっているものとして、ブ ライアン・ワイス(山川紘矢・山川亜希子訳)『前 世療法―米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘』 PHP 研究所、1991 年 がある。 では、こうした死後の世界の実在性は、 科学的な方法を用いて客観的に証明できて いるのかと言えば、そうとは言い切れない ように思う。その最大の理由は、物質的な 根拠が全く見つからないことにある。死後 存続研究が明らかにする死後の世界には、 具体的で実感を伴った描写が多く含まれて いる。臨死体験者の中には「そこで見た光 景は普段の日常感覚よりも何十倍もリアリ ティの感覚が強かった」と報告する者も少 なくない。とはいえ、彼らが見てきたとさ れる死後の世界の様相は、あくまでも個人 の心の内側において起きたイメージ体験な のであって、客観的に実在するとは言い難 いように思う。インターネットのように、 何らかの媒体装置を用いてその場所にアク セスすることが誰にでも可能ということで あれば、死後の世界を客観的な実在として 容認することもできるだろう。ところが、 死後の世界にアクセスする(体験する)方 法は、退行催眠によるトランス状態であっ たり、臨死状態であったりと、非日常的で 特殊な状況においてであり、しかも必ず一 個の人間の内面にいて主観的に体験されて いるものである。そこでは体験を共有する 者もおらず、物的証拠も何もないので、そ の体験がリアルなものだといくら訴えても、 周囲の者からすれば当人の性格や状況から その発言に信憑性があるかどうかを判断す るのみである。 このことは法廷をモデルに喩えてみると わかりやすくなるかもしれない。被告人に 見立てられるのは、死後の世界を見てきた と語る臨死体験者や退行催眠で前世記憶が 蘇ったと語る証言者である。彼らを擁護す る死後存続の肯定派の研究者はさながら弁 護士であり、これに対し、脳神経科学など の知見をもとに低酸素状態で見た幻覚にち

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がいないとか、虚偽記憶の植え付けかセラ ピストの意図的な誘導だろうなどと反論す る否定派の研究者は、まるで検察官のよう である。結局のところ、そこでのやりとり は、体験者や証言者らの語りの事実性をめ ぐっての証拠探しとその反証のくり返しで ある。決定的に違うのは裁判官がいないこ とで、そのために判決(判定)が出ないま まこの対立は平行線をたどることになる。 要するにこれは、死後存続研究の方法論 が、相変わらず従来の近代科学主義の唯物 論パラダイムに則っており、その範疇を出 ることがないからこその必然的な齟齬なの である。死後の世界や霊魂といった存在は、 そもそも物質世界には還元できない領域の 問題と言っていい。にもかかわらず、物質 科学の方法に準拠して何とかその存在を論 証しようと躍起になることは、論理矛盾で しかなく、結果的には徒労に終わるほかな いのである。 2.「在る」とはどういう事態か 打開の方策があるとすれば、思考法自体 を全く別の方向に転回させるほかない。す なわち、物質世界とは異なる次元として、 心や意識という領域を考えることである。 死後の世界や霊魂などは、そうした思考法 の延長において把握するべき事象ではない だろうか。そのためには、さらに哲学的思 考の原点へと遡及していく必要があるだろ う。具体的には、そもそも何かが「在る」 とはどういう事態なのか、「現実」とは何を 指すのか、「経験」とは何か、といった古く て新しい問いを掘り起こしていく作業であ り、哲学の方法論的な用語で言えば「現象 学的還元(エポケー)」のことである。 今ここにおいて、私が感覚している世界 ——パソコンの画面、叩いているキーボー ド、座っている椅子、呼吸している身体、 窓の外に見える景色、聞こえてくる作業用 の BGM…。私はこれらの感覚する事象につ いて、すべてが「在る」と思って疑うこと はない。なぜ「在る」のかはすぐにでも実 感できる。目を閉じて耳を塞いでみてから 数秒後に、再び目を開けて耳を傾けてみれ ばいい。外の景色や音楽に多少の動きはあ るが、ほとんど何も変わっていない。外界 には「在る」ことに関して恒常性や一貫性 がある。そして、このことが「現実」の確 かさ、根拠になっている。一方、こうした 外的な現実とは異なりながらも同時並行的 に起きている、もう一つの現実がある。内 面世界、心の中の現実である。何か作業し ながら、心の中では様々な思考や感情が動 いている。様々なイメージも湧き起こって いる。そうした心の中の出来事は、外界の 現実の確かさに比べると、変化が早く一定 ではない。さきほど考えていたことが過ぎ 去ると、今はもう別のことを考えている。 また、外界の刺激に触発されて、気持ちが 変化することも少なくない。さらに言えば、 自分の心の中の動きを確認できるのは、自 分自身だけである。こうした心の中の動き や変化を外的な事物と同様に「在る」と表 現するには無理がある。実在的な根拠が見 出せないからである。心の中で起きている 現実は、どこまでも不確実で不安定であり、 実在であるとは考えにくい。現実と呼べる ものには外的現実と心的現実の二つがある ことは認められるとしても、その性質を比 べてみれば違いは一目瞭然である。外的現 実こそが実在であり、心的現実はこれに付 随する副次的なものと考えるのは、こうし た経験的事実に基づいている。 ところが、存在や現実とは何かを考える 上で、この素朴実在論を覆す現象学的に

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重要な局面がある。デカルトの思考法であ った「方法的懐疑」によって見出された存 在の起点としての「コギト(考える私)」。 ならびに、カントによって洞察された認識 の「コペルニクス的転回」とそれによって 見出される「超越論的主観性」である。そ れはすなわち、対象の事物が客観的に実在 するから人間の認識が可能になるとする素 朴実在論の考え方を全く翻転させて、対象 の事物はそのまま実在するのではなく、認 識主観によって構成されることによって初 めてその存在が可能になるとする見方の転 換である。そして、この対象世界を構成す る超自然的原理としての主観のはたらきが 超越論的主観性(純粋自我)と呼ばれる。 対象世界はひとまず在るとしても、その在 るというのは、この「私が」在ると認識し ていなければ、成り立たない。その意味で すべての存在の起点となるのは、私の認識 主観である。この認識転換の考え方は、よ くよく考えてみると、かなり衝撃的なこと を伝えている。私たちが当たり前のように 存在していると思い込んでいる外的な物質 世界は、内的な主観の世界、つまりは心の 世界によって生み出されるのであり、いわ ば、心が物質に先立って存在する、という ことになるからである。4 このような唯心論的な思考傾向は、ネ オ・プラトニズムの創始者とされるギリ シャの神秘家プロティノスの万物流出説 (emanatio)を思い起こさせる。無限にして 真の実在である「ト・ヘン(一なるもの)」 4. ただし、カントのいう不可知の「物自体(Ding an sich)」の概念を物質世界の実在性の示唆であると 考えるかどうかは解釈が分かれるところである。な お、世界の存在と自己との関係についての現象学的 考察として、新田義弘・河本英夫『自己意識の現象 学―生命と知をめぐって』世界思想社、2005 年 が ある。 が自身を顧みるという思惟の働きによって 「ヌース(知性)」が流出し、ここから「プ シュケー(魂)」が流れ出て、プシュケー (魂)が観る(主観)という働きにおいて、 観られるもの(客観)としての「物質」が 流れ出てくる。これによって世界が成立す ることになるという説である。ト・ヘンとは、 有限にして仮象なる存在としての万物(魂 と物質)とは異なり、「神(デミウルゴス)」 (プラトンのいう「最高善のイデア」)に等 しい。そのため、ト・ヘン自体は流出によ って変化したり増減したりすることはない。 あたかも太陽自身は変化せず、太陽から出 た光が周囲を照らすようなもので、光から 遠ざかれば次第に暗くなるように、流れ出 た魂や物質には高低や善悪の差別が生まれ るのだという。5 グノーシス主義やヘルメス主義などの西 洋の異端的な密儀信仰の系譜は、おおよそ このプロティノスの流出説と深い関わりを もつ。また、初期キリスト教神学者のアウ グスティヌスもプロティノスの思想に傾倒 したという。ベーメやエックハルトなどの 中世ドイツの神秘主義、さらに 18 世紀の神 秘思想家スェーデンボルクや 19 世紀末に起 こった神智学運動にも多大な影響を及ぼし ており、西洋神秘思想の原点でもある。プ ロティノス自身は、流出を逆にたどり、忘 我状態となってト・ヘンに没入するという 神秘体験(エクスタシス)に何度も達した と伝わっているが、こうした体験は、現代 の臨死体験にも通じるように見えるし、ま たイスラム神秘主義(スーフィズム)や古 代インドのヴェーダーンダ哲学との類似を 彷彿とさせる。 5. 水地宗明他編『新プラトン主義を学ぶ人のため に』世界思想社、2014 年の中、第 3 章「プロティノ ス」を参照。

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3.心的現実の実在性 さて、「在る」とはどういうことか、「現 実」とは何なのかを考えるために、現象学 的還元から純粋自我の発見、そして西洋の 神秘主義との関連について見てきたわけで あるが、それでもやはり物質的現実が確固 として存在するという世界観から心的現実 こそが実在であるとする世界観へとパラダ イムシフトするには、理屈はわかるとして も、実感としてはまだまだ納得しがたいも のがある。 そこで、今度は視点を少し変えて、20 世 紀前半の現象学派の興隆と時期を同じくし て展開した、C. G. ユングを創始とする深層 心理学の見解に注目してみたい。ユングは、 物質的世界の実在性や独立性の意義を十分 に認めながらも、同時に人間の内面世界で ある心的現実もまた、外的な物質世界と同 じように、実在性や独立性を認めるべきと する見方を示している。つまりは、現実に はひとまず物質的現実と心的現実の二つの 領域がある、という前提から出発するので ある。その上で、両者にはしばしば相互的 に交差する現象が発生することにユングは 注目し、この現象を共時性(synchronicity) と名付けて、一つの研究分野を切り開いて いる。また、こうした前提から物質世界と 心の世界には共通する基盤が存在し、これ らを統合的に生成させる機序としての類心 (psychoid)という仮説も提起している。6 周知のように、ユングの深層心理学は、 集合的無意識(collective unconsciousness) の概念を根幹に据えているが、このことは 心的現実(psychic reality)の世界が超個体 6. ユングの心的現実についての理論とポストユン ギアンの考察については、菅原浩「心的現実と想像 界をめぐって―世界空間論への歩み―」『人体科学』 10(1), 1 頁~ 10 頁、2001 年を参照した。 的な実在性を保持しており、個人の感覚に は収まり切らないことを示唆している。も ともと心的現実という概念は、S. フロイト の神経症研究の初期において提唱されたも のである。フロイトのもとに来談してくる 女性クライエントの多くが幼児期に成人か ら性的誘惑や虐待を受けたと語ることか ら、そうしたトラウマが神経症の重要な病 因と捉えていたところ、やがてクライエン トの内的欲動から出てきた空想であり作話 であったことがわかってくる。しかし、こ の空想は無意識の精神過程からすれば、外 的世界の現実以上に重要な機能を担ってい る。つまり、内面的で主観的な出来事こそ が、むしろ神経症を実際に引き起こしてし まうのであり、こうした心の構造に注目し て、フロイトは心的現実と呼んだのである。 このようにフロイトのいう心的現実という のは、心の中で作られる虚構の物語を指し ており、外的な現実に影響を及ぼすエネル ギーであるとしても、それが実在であると は考えられていなかったのである。ところ がユングは、フロイトとはまったく異なる 観点から心的現実に注意を向けたのである。 それはつまり、イメージという心的現実が もつ固有のはたらきへの洞察である。イメ ージは、元型(archetype)という自律性を もった潜勢態が発現することにより、生み 出される。そして元型は、おおよそ「影」「ア ニマ」「アニムス」「グレートマザー」「老賢 者」といった、人格化された姿をもって現 れてくる。イメージ体験の背後には、必ず 何らかの元型が二重写しのように潜んでい るのであり、しかも、夢や神話や伝説など のように、個人を超え、さらに時代や地域 をも超えて、普遍的に顕現するのが元型の 特徴である。したがって、心的現実は、元 型に彩られたイメージによって構成されて

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いるからこそ、固有の世界なのであり、物 質的現実とは性質が異なっているとはいえ、 ここにも独自の実在性や独立性があると認 めざるを得ないわけである。 ユングの心的現実についての見方は、ポ ストユンギアンに至ると、さらに唯心論的 な傾向を強めていく。物質的現実は仮象で あり副次的であって、心的現実のほうが一 次的であり優位であるとする世界了解に立 ち、ネオ・プラトニズムへと傾斜していく のである。このことは、とりわけ元型派と 呼ばれるジェームズ・ヒルマンの「魂の地 平」や、アーノルド・ミンデルの「ドリーム・ ボディ」などの考察に顕著に見られる。彼 らの考察が極めて特徴的と言えるのは、心 的現実の深層には、「身体性を伴ったイマジ ナルな世界空間が存在している」という主 張による。この発想は、日常的感覚からす ると、まったく異文化世界に連れてこられ たようなショッキングな印象を受ける。と はいえ、卑近な例として、深層心理学がし ばしば取り上げる「夢」をもとに考えてみ ると、少しは理解が可能になるだろう。夢 は、私たちの誰もが経験している心的現実 の代表的なものであるが、夢の中に出てく る出来事は、意図的に想像して作り出した わけではなく、気がつくと、いつのまにか その場面の中にいて、出来事が起こってい るわけである。また、夢の中には、様々な 人物や生き物たちが現れるが、これも大抵 は、意図的に現れるように仕向けたわけで はなく、なぜか現れているわけである。そ して、その人物たちには、人格があり会話 も成立したりしている。こちら側では、様々 な感情や思考が起こってくるし、接触する ことがあれば、肌の感覚や臭覚、味覚がは たらいたり、ときには痛みを感じたりする ことさえある。当然、視覚や聴覚はすでに はたらいている。つまり、夢の中でも、身 体感覚がしっかりと機能しているわけであ る。ということは、心的現実においても、 物質的現実において身体を持っているのと 同様に、何らかの身体性(いわゆるイマジ ナル・ボディ)を帯びていると考えること ができるのではないか。しかも、そうした イマジナル・ボディが生きてはたらく自律 性や独立性をもった世界空間が存在してい ることにはならないだろうか。こうした仮 説は、夢とは脳内での記憶情報の処理過程 にすぎないと説明する脳神経科学の立場か ら見れば、いくらでも反論ができそうであ る。とはいえ、この心的現実のもつ世界空 間や身体性は、明晰夢7や瞑想における変性 意識状態などの事例を鑑みても、現象的に は認めざるを得ないものがある。ただし、 これらの事例もまたあくまで体験者の証言 を根拠にしているのであり、死後存続研究 の成果と同じく、客観性を主張できるとし ても結局は経験科学的にしか実証できない ものではある。 しかしながら、話は振り出しに戻るわけ では決してない。ここで確認したいことは、 思想的に突き詰めていくことによって、近 代科学主義の唯物論的パラダイムが決して 堅固な理論基盤の上に成り立っているわけ ではなく、その反面、心的現実の実在性は、 物質的現実と同等もしくはそれ以上に真実 味を帯びている、という点に尽きる。そして、 だからこそ、こうした心的現実論の立場か ら「死後の世界」とか「あの世」といった 7. 明晰夢の実験的検討や考察については、現象学 の立場から心理学研究を進める渡辺恒夫の次のよう な論文が参考になる。「明晰夢:実験的検討と心理 的条件」『国際生命科学会誌』21(1), 159 頁~ 65 頁、 2003 年、「夢、明晰夢、死、転生―世界という夢か ら覚めるために」『現代思想』32(1), 214 頁~ 27 頁、 2004 年。

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事象について捉え直してみるとき、科学的 な検証とは異なった意義を探ることができ ると思うのである。 4.死後の世界でのからだの修復 以上の考察を踏まえて、ここからは具体 的な事例をもとに「死後の世界」という心 的現実の深層に分け入ってみようと思う。 ここで取り上げるのは、イラク戦争の最 中にアメリカ陸軍の民間技術者として戦地 に入っていたナタリー・サドマンという女 性の臨死体験の事例である。8ある日、アメ リカ兵たちと一緒に武装車両に乗って、イ ラクでも危険地帯とされている地域に出か けたときだった。走っていると、突然に何 かの爆撃が襲った。何が起こったのか考え る間もなく、気がつくと次の瞬間に、異次 元のような世界にいたという。 ナタリーさんは、広い会議場のようなと ころに立っていた。そこには、人のように 感じるが肉体のない意識体がたくさん集ま っていた。彼らはナタリーさんの処遇をど うするのかを討議していた。そこでのコミ ュニケーションは、すべてテレパシーで行 われていた。討議では、ナタリーさんのこ れまでの人生における様々な能力が検討材 料として審査にかけられていた。結果、ナ タリーさんには地上でまだ果たすべき役割 があるということになり、肉体に戻される ことになった。その時、ナタリーさんはこ こが天上の世界であることに気づく。見下 ろすと現実の世界があり、そこに半壊状態 になった武装車両が見えた。その中に、顔 面が血だらけで、目には穴が開き、腕が折 れ曲がって、壊れた人形のような姿の女性 8. 出典は、エリコ・ロウ『死んだ後には続きがあ るのか―臨死体験と意識の科学の最前線』扶桑社・ 2016 年、65 頁~ 70 頁。 がいた。ナタリーさんは、それが現実の自 分の姿であることに気づき、生き返される と聞いて、あんなになった肉体に戻ったら、 この先大変な苦労が待っていると思い、「地 上には戻りたくありません」と会議場に集 まった意識体に訴えたという。そこで、さ らに討議が続けられることになり、それな らば、壊れた肉体の一部を「修復」した上 で地上に戻すという条件はどうかと交渉さ れ、ナタリーさんは生き返ることに同意し た。 次の瞬間、会議場は消え、ナタリーさん は別の次元に移っていた。そこは、人の肉 体の損傷を修復するところだった。ただし、 病院というよりも修理工場のような雰囲気 だったという。何人かの意識体と一緒に、 ナタリーさん自身も手伝い、爆破で瀕死の 重傷を負った肉体の修復作業が始まった。 それは現実の世界で行われる外科手術とは まったく異なるものだった。まずそのから だはホログラフィーのようで、からだの基 盤は網の目の光のようなものになっていて、 光を操作すると、それが現実の肉体に反映 されて、壊れたからだの機能が修復されて いく仕組みになっていた。ナタリーさんは、 数人の意識体とともに作業しながら、彼女 自身の肉体の不具合に関するきわどい冗談 をかわしたのを覚えているという。 からだの修復が終わった途端、ナタリー さんの意識は、瞬時にまた別の次元に移さ れた。今度は宇宙ロケットの発射場のよう なところにいて、そこから彼女は地上の自 分のからだめがけて、弾丸のように発射さ れた。強い衝撃とともに、現実の世界に着 地したかと思うと、耐え難い激痛を感じて、 意識が戻った。あたりを見回すと、ナタリ ーさんは半壊状態の武装車両の中にいて、 同乗していた兵士たちが血まみれで倒れて

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いるのが見えた。ナタリーさん自身は片方 の目しか見えず、からだは自力で動かなか った。やがて援軍が来てナタリーさんや生 き残った兵士たちは無事救出され、数か月 の入院治療とリハビリの末、障害を抱えな がらも自力で生活できるまでに回復した。 興味深いことに、重篤な状態を脱した後 でも、ナタリーさんはしばらくの間、意識 を向けるだけで天上の世界に自由に行くこ とができ、そこにいる意識体とコミュニケ ーションができたという。しかし、あの世 とこの世を頻繁に行き来するのは本人のた めにならないとして、向こうから交流を断 たれたようである。その後、この臨死体験 の影響によって、ナタリーさんにはアート の才能と、手から微細なエネルギーを出す ヒーリング能力が開花したという。そのた め、現在では、アリゾナ州で絵を描きながら、 スピリチュアル・カウンセラーとして悩め る人々の癒しの導き手になっているとのこ とである。 この事例は、アメリカ在住の日本人ジャ ーナリストのエリコ・ロウ氏が、直接本人 に電話取材することで聴き取りをした臨死 体験の記録である。しばしば報告される臨 死体験では、暗いトンネルをくぐっていく、 心地よく穏やかで光に満たされた世界に入 る、すでに亡くなった親族や光の存在に出 会う、などといったいくつかの共通要素が あるわけであるが、この事例では、そうし た共通要素がほとんど見られず、むしろ SF 映画さながらのドラマチックな展開であり、 稀有で奇妙な臨死体験の内容として注目を 集めている。 この体験をどのように解釈したらよいの だろうか。一つには、臨死体験というより も夢を見ていた状態に近いのではないか、 という見方があるだろう。夢の中であれば、 どれほど荒唐無稽な出来事であっても可能 性としては起こり得るので、臨死体験のパ ターンから逸脱していてもおかしくはない。 この体験者が語った「会議場のようなとこ ろで複数の意識体によって死者の魂の処遇 について討議する」といった場面は、退行 催眠で中間生記憶を蘇らせたときに語られ た内容の中に類似のものを見出すことがで きる。アメリカの熟練した催眠療法士の一 人であるマイケル・ニュートン(故人)は、 中間生のことをスピリット世界と呼び、魂 が死後に行く異空間であり、魂が住む世界 と捉えているが、彼のもとに来談するクラ イエントたちが催眠状態の中で語るスピリ ット世界の記憶によると、長老(Elder)と か賢者(Sage)と呼ばれる霊的に高次元の 存在が複数現われ、死んだばかりの魂の過 去生の行いについて審問する評議会のよう な会合が開かれるのだという。9まるでイン ド由来の閻魔大王の審判のようにも見える が、この評議会というのは、罪を裁かれ懲 罰を受けるような場ではなく、過去生を振 り返り、次の未来世の計画を立てることが 目的なのだという。そしてまた、ここでも やはり死者の魂と長老たちとはテレパシー で交流しており、言葉を介さずに思いが伝 わる点は共通している。臨死体験と退行催 眠では心的現実の性質が異なっているよう に見えるが、評議会(会議場)や複数の高 次な意識体が出現して、死者の魂の生前の 行為や処遇などを評価し審議するという共 通した展開を考えると、これらは元型的で あると言えるだろう。

9. Newton, Michael (2000): Destiny of Souls: New Case Studies of Life Between Lives. Woodbury, Llewellyn Worldwide Ltd., pp. 201–51. (澤西康史訳『死後の世 界を知ると人生は深く癒される』パンローリング、 2014 年)。

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さて、ナタリー・サドマンの臨死体験に おいて、最も重要なテーマとなっているの は「修復」であることは間違いないだろう。 もちろん、それは爆破によって激しく損傷 した肉体の修復をひとまずは指しているの だが、さらに深く考えるならば、この臨死 体験自体が人生そのものの修復を意味して はいないだろうか。ここでは、からだの修 復が行われるときには、肉体がホログラフ ィーのようになっていて光を操作すること で進められる、というヴァーチャル・リア リティ(仮想現実)のような描写があるが、 このことは、意識のほうが肉体よりも優位 であり、むしろ肉体とは本来は実体のない もの、仮象なものにすぎない、ということ を伝えているかのようである。そして、か らだの修復を終え、地上の世界に戻ってく ると、彼女の人生が一変するという展開が 待っている。障害を抱えながらの生活にな ったとはいえ、アートの才能の開花とヒー リング能力の目覚めによって、「傷ついた癒 し手」10としての第二の人生を歩み始めるの である。まさしく戦地での臨死体験が、彼 女の人生を修復し、新たなものへと再生さ せていったのである。 もちろんこの事例に限ったことではなく、 臨死体験を通してその人の生き方そのもの が大きく変容するという展開については、 以前から数多くの研究報告がなされている。 このことに注目していくと、結局のところ、 「死後の世界」を探究するということは、な ぜ人生において、臨死体験のように死後の 10. 「傷ついた癒し手(wounded healer)」は、ポス トユンギアンの一人グッケンビュール=クレイクに よって、心的現実の元型として考察され提起された 概念である。この問題については拙論「傷ついた癒 し手としての法蔵菩薩」(西平直・中川吉晴編『ケ アの根源を求めて』第 3 章)で考察している。 世界を垣間見るような特殊な体験が起こり 得るのか、その意義を掘り起こすことこそ が、本当に問われていることなのではない かと思われるのである。こうした視点から 考えると、この事例のもつ「修復」という テーマは、ユング心理学の用語で言えば、 死と再生のダイナミズムをともなった「個 性化過程(Individuation)」の劇的なパター ンであり、W. ジェイムズの「二度生まれ」、 禅語の「大死一番、絶後再び蘇る」などの 言葉に示されるような、人生最大の変容体 験をドラスティックに象徴する出来事であ ることに気づくのである。 5.破損した仏像の夢 ここで「修復」というテーマから、もう 一つ印象的な事例を紹介したいと思う。こ れは京都・愛宕念仏寺の住職で、仏像修理 師であった西村公朝師が語っていた夢の話 である。11東京美術学校で彫刻を学んでいた 時期に、法隆寺夢殿の救世観音に出遇って 感激し、仏師になることを決意。卒業後は、 三十三間堂の十一面千手観音千体像の修理 に参加していたのであるが、昭和 17 年(1942 年)、27 歳のときに戦争に召集され、日本 軍の兵士として中国各地を転戦することに なった。それはちょうど武漢から長沙へと 向かう夜行軍に加わっていたときのことで ある。極度の疲労から、歩きながら眠って いるような状態になった。その間に次のよ うな夢を見たという。 私の右側に、破損した仏像が何百何千と、 実に悲しそうな表情で一列に立ち並んでい ます。その前を私は歩きながら、その一体 11. 西村公朝『千の手 千の眼』法蔵館、1986 年。なお、 河合隼雄は「仏教と現代人の夢」(佐々木宏幹編『現 代と仏教』春秋社、1991 年所収)、239 頁~ 42 頁に おいて、この夢を取り上げて考察している。

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一体をみつめています。そこには阿弥陀如 来や薬師如来、千手観音や地蔵菩薩、その 他いろいろの仏像が、手足の無いもの、頭 や体部が割れているもの、それは哀れな姿 となって、お互いが倒れようとする身体を、 寄りそっているかの様子でした。私は無言 で何百体かをみました。しかしその先には、 まだまだ何百何千体といるように見えたの です。そこで私は、歩きながら、その仏像 たちに次のことを言いました。 「あなた方は、私に修理をしてほしいなら、 私を無事に帰国させて下さい」 ここで私は夢からさめたのです。隣の戦 友は、私に寄りそうようにして、眠りなが ら歩いていました。何故か、心に安心感が 沸き上がってきました。この時の仏像の姿 と、何かわからないような喜びのような感 情が今も忘れられません。 この後、西村師は中国の戦地で滞留して いたわけであるが、その三年半の間、一度 も敵兵に撃たれることがなくまた一発の弾 も撃つことなく終戦を迎えて、昭和 20 年 (1945 年)に無事に帰国した。そして、そ れ以降、仏師、仏像修理師としての修行を 積み、36 歳のときに得度し、天台宗の僧侶 となったのである。 これは単なる夢にすぎないと切り捨てる ことのできない、かなり意味深い内容をも っている。まず戦地での身心の極限状態の 中でのヴィジョンであることから、夢とい うよりは臨死体験に近いものではないだろ うか。そのため、この体験自体が死の向こ う側(死後の世界)に触れることで起こっ た心的現実であると言えるように思う。こ のことは、夢から覚めたときに、不思議な 安心感や喜びに包まれていることからも裏 づけられる。また、夢の中での「無事に帰 国させてほしい」という訴えの暗示が、外 的な現実において奇蹟的に実現しているこ とも、この心的現実が超越性を帯びたもの であることを証している。そして、最も重 要なことは、この夢における誓いが西村公 朝師のその後の人生を決定づけている点で ある。彼は、この夢が暗示したように、破 損した仏像を修復することに自身の生涯を 捧げたのであり、まさしくこの夢を生きる ことによって、切り拓かれた人生であった。 こうしたことからも、心的現実が、人生最 大の変容体験となり、死と再生を象徴する ものになり得ると了解できるわけである。 さて、この夢を、先に見たナタリー・サ ドマンの臨死体験と対比してみると、「修復」 というテーマに照らして考えるならば、二 つの心的現実はちょうど対照的であること がわかる。一方はからだを修復される側で あり、他方は仏像を修復する側となってい る。ただ、どちらの場合も、複数の霊的な 存在が登場して、それぞれの体験者に「修復」 のメッセージを与える点では共通している。 まず複数で出現する霊的な存在については、 どのように解釈すればよいだろうか。心的 現実が実在性をもつとすると、これらのヴ ィジョンもまた実在性をもっていると言え るだろう。何体もの仏像たちも、モノでは なく人格を有した生命体であるように感じ られる。アニミズムの世界観が示している ように、神仏の像に霊験が宿るというのも、 唯物論的にはあり得ない話であるが、太古 の昔から人々が本能的に感じてきた霊妙に ほかならない。時代や文化は異なるとはい え、ここにも元型的な共時性が見出せるは ずである。ユング心理学でいう個性化過程 を布置している自己(Selbst)元型は、一神 教的に解釈すれば唯一のものであるが、こ れを多神教的に解釈して、無限に分化して いく自己元型という存在形式もあり得るの

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ではないだろうか。12日本神道には分霊とい う考え方があるが、心的現実のあり方から すれば、複数に霊が分かれいくほうが自然 なのであろう。それから、「修復」というこ とについてであるが、これは言うまでもな く、精神変容にとって重要な契機にほかな らない。からだや仏像というのは、カタチ の象徴である。霊性にはそもそもカタチが ない。だからこそ、変化や変容のためには 依り代としてのカタチを必要とする。カタ チを通して、変容体験が起こること。これ が「修復」に込められた深いメッセージで あると思う。ちなみに、西村公朝師は、修 復する側に立っており、変容体験からすれ ば能動的で違和感を覚えるものであるが、 逆に考えるならば、仏像を修復するという 作業を通して、常に自己が修復されている という反転が起きているわけであり、西村 師はあくまでも仏の慈悲の媒介者であって、 実は一貫して受動性の中に生きているとも 言えるのである。 6.おわりに ここ数年、大学で死生学の講義を受け持 たせていただいている。この講義の中で「人 は死んだらどうなると思うか」と聞いてみ ることがある。すると、「死んでも意識は続 いている」、「死は終わりではない」と漠然 と感じている学生が案外多いことに気づく。 「無になる」、「何も残らない」と答える学 12. 西平直「元型が布置する―人生の分岐点」(『ラ イフサイクルの哲学』東京大学出版、2019 年所収) では、自己元型を「変容という元型」として捉え、 元型の中でもドミナンテの機能をもつことに注目し て考察をしている。その中で、井筒俊彦の「言語ア ラヤ識」の概念に触れ、元型イマージュが起こって くる心の構造について明らかにしている。この問題 は今後の課題としたいと思う。 生ももちろんいるが、そういう人であって もつっこんで聞いてみると「誰かの心の中 に思い出として生きている」などの回答が 返ってくる。自分が死後どうなるかよりも、 他者の死をどう受け止めるのかという話に 変わってくるのである。一方で、現代にお ける「死後存続」に関する研究の成果、臨 死体験や生まれ変わりなどに関する調査研 究の内容を提示して意見や感想を求めてみ ると、多くの学生が「実感が湧いてこない」、 「自分の思い描いている死後の世界はそうい うことじゃない」といった感覚を抱くこと もわかってきた。死後にも何らかの形で意 識は存続すると考える人であっても、死後 世界の様相を具体的に明示されてしまうと、 とまどいを隠せなくなる。ここには、未知 のものに対して、曖昧なままであるとそれ なりに受け入れやすいが、それが具象化し てしまうと途端に違和感をもったり関心が 冷めたりする、といった心理がはたらいて いる。そしてまた、これは日本人にありが ちな傾向とも言えるのではないかと思う。 死後の世界についての心的現実は、体験 した者にとってそれはあまりにも生々しく その実在性を疑いようもなく感じてしまう。 ところが、体験していない者からすれば、 それはあまりに奇想天外で荒唐無稽であ り、妄想かファンタジーのように思えてし まう。この断絶はどうしようもなく、溝を 埋めることはまず無理だろう。イメージに よって具象化された死後の世界は受け入れ がたい。そうであったとしても、私たちは 死後にもやはり何かは続いているはずだと どこかで信じているし、何もかも無になる とは感じていない。心は脳の機能であり副 産物だと考えている人であっても、それな らば人間とは AI (人工知能)のような存在 であり、精巧に造られた機械であると説明

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されると違和感を覚えるのではないだろう か。果たして生命というのは、シンプルな 数式によって説明し尽せるほど合理的に出 来ているのだろうか。心の内に感じ取って いる「私」という感覚は、本当に有機体の 結合によって生じたものなのだろうか。生 命や心というのは、考えれば考えるほど不 可思議であり神秘なものである。だからこ そ私たちは、死後のゆくえについて考える ときであっても、どこまでも謙虚な姿勢で 臨まなければならないのではないかと思う のである。宗教哲学者の故上田閑照先生は、 死の向こう側の「何処か」について、ある 随想の中で次のように述べている。13 13. 上田閑照「今しばし」(『哲学コレクションⅠ 宗教』岩波現代文庫、2007 年所収)、14 頁~ 15 頁。 …本来その「何処か」(いずこ、いずく)は 名づけることができない。実際にはさまざ まな歴史的宗教がそれぞれに名付けている が、名付けてしまうと、知られたところと なり、人間の分別の網にかけられてしまう。 大切なのは、私たちの世界が「この世」と 感じられ、その感じに、同時に「この世」 ならざる、死に逝くことによってのみ行く ことのできる「いずく」が感じられている ことである。 死後の世界について思索しようとすると き、心に留めておきたい言葉である。 さかい・ゆうえん 仁愛大学人間学部心理学科

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た学生たちだった。1キリスト教系大学にお いても他大学と同様に、各大学の「全学共 闘会議(全共闘)」が中心となって、国家や 資本制に奉仕する権力を徹底的に批判し、 「大学・学問」とはなんであるのか、さらに 社会とは、人間とは何者であるのかを、「当 事者」の「立ち位置」から問いなおすこと が目指された。それは経済界からの要請を 受けて私立大学が増設され、とくに理工系 の学部が拡張するなど、大学が営利目的で 大衆化されるようになったころであり、そ れにともなって「学者」や「知識人」の様 相も変化した時代であった。一言でいえば、 全共闘運動で学生たちが批判的にとらえよ うとしていたのは、個々の大学の具体的な 問題の背後にある資本制社会のあり方だっ たと言うことができる。 そのような権力との対峙についての思想 的発展をうかがう手がかりとして田川建三 を選んだのは、田川がキリスト教徒思想家 の代表として闘争に参加したなどというこ とが言いたいからではない。むしろ、田川 の権力批判は、キリスト教批判へと向かっ ていく。しかもその議論は「真のキリスト 教」を対置して教会を批判したのでもなく、 1. なにをもって「教会」とするのかは議論の余地 があるだろうが、ここでは教団当局をさしている。

田川建三における大学闘争と宗教批判

観念と現実のはざま

村山由美

Murayama Yumi

はじめに 本稿は、1960 年代から 70 年代にかけて の全共闘運動のなかで、「キリスト教と権 力」の問題がどのように論じられたのかに ついて、田川建三の思想と行動を通して考 察することを目的としている。 従来「キリスト教と権力」が歴史学的に 論じられる場合、アジア・太平洋戦争以前 の帝国主義・天皇制に具現化される国家権 力との関わりがいわば古典的なテーマであ り、「教会」を行為の主体としてとらえ、国 家権力に迎合したか抵抗したかが論じられ てきた。その観点からは戦後の GHQ 主導 の宗教政策において「信教の自由」が保障 されたことにより、宗教教団の存続をかけ た国家権力との緊張した関係は終わりを告 げたかのように語られがちである。だが、 戦後においても、とくに学者や学生たちの 間で新しい「権力」の表出のかたちが問題 とされ、たとえば靖国神社国家護持運動か らはじまった「靖国神社法案」、管理教育、 人間の疎外や差別など、新たな課題への関 心が強まった。ただし、これらをよりラデ ィカルなかたちで問題化したのは、いわゆ る「教会」ではなく、1968 年を契機に全 国の大学に広がっていく大学闘争をとおし て、権力批判や社会問題に取り組もうとし

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世俗主義的な立場から宗教を批判したので もない。彼が何を批判し、何に抗ったのか、 解き明かす鍵となっているのが、全共闘時 代の田川の著作である。新約聖書学者田川 建三は、全共闘運動の最盛期に国際基督教 大学専任講師としてこの運動にかかわり、 その結果 35 歳で大学を解雇された。その思 想と行動にある「一貫性」をみていくときに、 知識人としての責任、学問論といったテー マが浮かび上がってくる。結論を先取りす れば、当時の田川建三は、新約聖書研究を 徹底することで、同時代の権力批判を貫徹 しようとしたということができる。 田川は宗教が現実から乖離した観念論と して、現実の人間の生のあり方を抱え込も うとしてくることを批判的に指摘しており、 その批判の論理はマルクスの宗教批判を基 盤としている。宗教だけでなく、あらゆる 思想がもともとは現実をうつすものだった ところが、観念論的に現実から乖離して、 現実を規定する言説として作用することへ の批判である。人間は「観念」を手放すこ とはできないし、する必要もないのだが、 それが「観念論」的に現実の占めている場 をのっとることが問題であると、田川は繰 り返し語っている。2こうした田川の批判は、 キリスト教だけではなく、教条主義的マル クス主義や「民衆」や「大衆」概念を理想 化する知識人にも向けられていく。3 2. 田川建三の宗教批判と知識人批判の中核にこの 「観念論化」ということがあり、随所に見られる議 論だが、たとえば赤岩栄の「思想よ、さようなら」 という論考を批判した、「キリスト教的疑似知識人 の悲劇」(『赤岩栄著作集別巻』教文館、1972 年、 208 ~ 59 頁)が、「キリスト教脱出」を目指したと される赤岩栄との違いも含めてわかりやすい。 3. 教条的マルクス主義についてはたとえば「キリ スト教とマルクス主義その一」および「その二」(『思 想的行動への接近』呉指の会、1972 年)、知識人の ではその批判のなかで、キリスト教、あ るいは「イエス」はどう位置づけられたのか。 そして、宗教批判を徹底していく過程でそ れらはどのように思想的に乗り越えられた のだろうか(あるいはのりこえられなかっ たのだろうか)。それを紐解く作業は田川の 大学批判、そして、宗教批判を分析するこ とで可能となるが、彼の全共闘運動との関 わりとその時期に紡がれた思想を抜きにし てはなし得ない。 この課題と取り組むときの資料として、 「キリスト教脱出」をめざした赤岩栄がはじ めた月刊誌『指』を用いる。田川建三は赤 岩の死後、その編集を引き継いでいる。『指』4 に掲載された論考は、全共闘運動のさなか の田川の思考を現在進行系で追うことを可 能にしてくれる。 田川建三については、神学的、あるいは 文学的な観点からの分析がいくつかあるも のの、全共闘運動との関わりのなかで彼が 生み出した思想や実践について論じたもの は、管見の限りない。また、書評などにお ける田川建三の論じられ方を見る限り、「聖 書学者」と「評論家」としての田川建三が それぞれ別個のものとして存在しているよ うな印象を受ける。これに対して本稿では、 とくに 1970 年代の田川建三の思想を包括的 に論じることを目指したい。 「大衆」観については、「知識人論への一視覚――谷 川雁をめぐる――」、「民衆理念の観念的浮上」とも に『立ち尽くす思想』(勁草書房、1972 年)がある。 また、「大衆」をどう見るかということは田川の吉 本隆明批判の根底にも流れているテーマである。田 川建三『思想の危険について――吉本隆明のたどっ た軌跡』(インパクト出版社、1987 年)。 4. 赤岩栄が中心となって編集していた第 1 期の 『指』は、1950 年 12 月に創刊し、67 年 2 月に赤岩 の死をもって休刊にはいったが、同年 11 月から田 川と宮滝恒夫の編集チームによって再刊された。

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1. キリスト教系大学における全共闘運動 まずは、そもそも全共闘運動とは何だっ たのか、またそのなかでのキリスト教系大 学の位置づけを簡単に確認しておきたい。 全共闘運動の象徴的なシーンとしてしばし ば回想される、1969 年 1 月の東京大学の安 田講堂攻防戦は、前年 6 月に医学部による 安田講堂占拠に端を発している。医学部の インターンがいわゆる無償労働である現状 にたいして、研修契約を求めたことからは じまったこの学生運動に、大学当局は機動 隊を導入した。「大学の自治」、「学問の自由」 を謳っていた大学の欺瞞を糾弾する学生の 集会は五千人という大規模なものとなった。 68 年 7 月には東京大学全学共闘会議(東大 全共闘)が結成され、闘争は他学部にも広 がっていく。当時東京大学で全共闘運動に かかわった小阪修平は、次のように振り返 っている。 東大闘争の発端はきわめてささやかな事件 であり、大学内部の不条理ともいえる当局 の傲慢さに対する学生の抗議だった。なぜ 機動隊の導入が学生の憤激をよんだかとい うと、当時の大学は社会から中立で真理を 探求する場所だというタテマエをもってい たからだ。5 (大学当局が)口先では進歩的なポーズを とり反権力的なことを言いながら、実際の 行動ではそれとまったく逆で機動隊に頼っ てしまうという落差が学生を憤激させたの である。この発端からわかるように、東大 闘争の出発点は、学生と教官の間に対等な 関係をもとめる要求であり、それを支えた4 4 4 4 4 4 感性は戦後民主主義が育てたものだった4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 。 (括弧内及び強調点引用者。)6 5. 小阪修平『思想としての全共闘運動』(筑摩書房、 2006 年)、70 頁。 6. 同上、71 頁。 小阪は、戦後民主主義的な感性が、全共 闘運動を指導部や組織系統のない、「当事者 性や個人の自発性を重視するリゾーム型の 組織」として存在し、機能することを可能 にしたとしている。7全共闘はメンバーシッ プのない、闘う有志の会として、他大学で も次々と結成され、1969 年に全共闘運動は 全国の大学で最盛期をむかえる。しかし、 その個人の自主性による組織のあり方は、 責任の所在の不明瞭さから、運動の着地点 の見極めを困難にしてゆくことになる。 キリスト教系大学における全共闘運動を 組織論から考察した齋藤崇徳によれば、キ リスト教系大学でも全共闘は結成され、運 動は激しさを極めたが、かならずしも「キ リスト教的」なものが批判の対象になった わけではなかった。しかし、キリスト教が 批判の対象になった大学では、キリスト教 と大学が結びついていることが批判された 場合と、キリスト教自体が批判の対象とな った場合があり、後者ではそれが教会批判 へと展開されていったという。運動の帰結 もさまざまで、神学部が廃部になった関東 学院大学と青山学院大学の例はしばしば象 徴的にとりあげられるが、いずれの場合に おいても、全共闘運動が廃部を要求したと いうよりも、むしろ学内の対立や政治的な 力がはたらいた結果であったようだ。8たと えば関東学院大学の場合は、「神学とはい ったい何だ」という意義が問われる中で、 「経済的な問題ともからんで」教授会がひら かれ、かねがね神学部の存在に対して懐疑 的であった人々の動きもあり、神学部廃部 という方向が理事会から出されたと、当時 7. 同上、75 頁。 8. 齋藤崇徳「戦後日本におけるキリスト教系大学 の組織論的研究―宗教的適応とその変動に着目し て」東京大学、2018 年、学位請求論文、特に第 13 章。

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神学部助教授であった高尾利数が 71 年に述 べている。9 田川は 65 年 4 月から 70 年 3 月まで国際 基督教大学に所属していた。同大学は戦後 に「日本と北米のキリスト教界の指導者」 を中心に設立の計画が進み、ニューヨーク にできた財団への募金をもとに 53 年 4 月に 発足したキリスト教系大学だが、10全共闘運 動時代もその以前も、「キリスト教」そのも のが学生たちの側から直接問題とされたこ とはない。当時は在籍学生数が 1000 人ほど の小規模な大学で、専任教員は「キリスト者」 でなければならないという「キリスト者条 項」があった。 2. 国際基督教大学における闘争 田川建三は 1965 年にストラスブール大学 から帰国し、国際基督教大学の常勤助手、 及び非常勤講師となっている。11田川が解雇 されるにいたった直接の契機は、69 年 2 月 から翌年まで続いた闘争で、最終的に、田 川は大学側から「一度も事情聴取すること もなく、会って話をすることすらなく」、大 学当局から一方的に 3 ヶ月間休職処分を言 い渡され、そのまま教授会の決議を経ずし て解雇されたと証言している。12この経緯を 9. 高尾利数、谷川健一、田川建三「キリスト教的 ラディカリズムとは何か」『現代の眼』12・4(1971 年、 現代評論社)132 頁。 10. 国際基督教大学ホームページ〈https://www.icu. ac.jp/about/〉(2020 年 3 月 24 日閲覧)。 11. 立場としては「常勤助手」なのだが、助手は 授業を担当できない立場であったため、授業をする ときは「非常勤講師」として教壇に立っていた。田 川建三「授業拒否の前後――大学闘争と私」『批判 的主体の形成 増補改訂版』(洋泉社、2009 年)258 ~ 59 頁。 12. 田川建三「何故私はここまでやったのか」『指』 223(1970 年)12 頁。 追うことは全共闘運動を理解する上でも、 田川の思想を理解する上でも重要だと思わ れるので、主要な部分を確認していきたい。 69 年 2 月 8 日から 11 日まで行われる予定 であった ICU 祭り・反戦討論集会には、ガ ードマン 20 名が学生の監視のため、警棒と ヘルメットといういでたちで配置されてい た。13国際基督教大学全共闘が要求したのが、 この「ガードマン体制」の撤廃、教授会議 事録の公開、そして、「能研闘争」の処分白 紙撤回であった。この「能研闘争」という のが、いわば 69 年の闘争の前史となってい る。 当時、国際基督教大学には「能力開発研 究所」14と関わる教員たちがおり、マークシ ート方式の試験を開発しようとしていた。 それで、67 年、能研テストを入試の一次試 験に導入することを決定したのだが、能研 反対者同盟のメンバー約 70 人は本館の出入 り口に内側から机を針金でゆわえたバリケ ードを積上げ、ろう城し、能研テストの採 用とそれに伴う受験料の値上げに反対を唱 えた。4 月 10 日、機動隊出動のもと不法占 13. 田川建三「弾圧者となったキリスト教」『朝日 ジャーナル』12 月 7 日(1969 年)45 頁。 14. 文部科学省の白書、『学制百年史』には、「昭 和三十八年一月中央教育審議会は「大学教育の改善 について」答申を行なったが、その中で大学の入学 試験の改善を重視し、具体的改善方策として信頼度 の高い結果をうる共通的・客観的テストの研究・作 成および実施とその主体となる専門の機関の設置を 提案した。この答申に基づいて、三十八年一月、大 学、高等学校、文部省の関係者が発起人となって、 財団法人能力開発研究所が設立され、三十八年度か ら四十三年度までの六年間、大学入学者の選抜と高 等学校の進路指導に役だつ共通テストの開発と、そ れに関する専門的な調査・研究が行なわれた」とあ る。文部科学省ホームページ〈http://www.mext.go.jp/ b_menu/hakusho/html/others/detail/1317828.htm>(2020 年 3 月 24 日閲覧)。

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拠排除が行われ、大学は 9 月まで休講とな り、学長は辞任した。15 この「能研闘争」、及びその後の展開につ いては、田川も『批判的主体の形成 増補 改訂版』(2009 年)にある「授業拒否の前 後――大学闘争と私」の註でくわしく説明 している。当時はまだ常勤助手だった田川 は、教授会には出席を許されていなかった が、「封鎖」された本館に学生たちを訪ねて 話し合った結果、彼らが「知識の国家管理」 に結びつきかねない、能研テストのような ものの全国化を危惧していたことを知る。 このとき、60名以上の学生が退学、無期停学、 けん責等の処分を課されたが、これが能研 闘争処分にあたる。1 年後に学生たちは復 学をゆるされたものの、2 年後の学生運動 ではこのときの大学側の対応が問題とされ た。 翌 68 年の 2 月から、田川は、66 年に制定 された「建国記念日」が、大学の祝日とな っていることに反対する運動をはじめ、教 授会にはたらきかけて、建国記念日を授業 日としようと試みた。「建国記念日」は、戦 前の「紀元節」にあたる日をあらためて制 定したものであり、その反動的な性格が批 判の的となっていた。また、キリスト教界 では、政教分離がおびやかされるという危 惧が表明されていた。田川は、もしキリス ト教系の大学が本当にその精神に基づくな らば、「国家神道」という異なる宗教の祭日 をまもって、建国記念日に休むというのは 看板と食い違うはずだと指摘した。しかし、 この日を祭日として休みにしている時点で、 大学としては所詮文部省のきめた枠組みの 中でのみ自己の存在を担保しているという 15. 「鵜飼学長が辞表出す・紛争つづく国際基督教 大・根の深い学生の不信感」(朝日新聞、1967 年 5 月 4 日夕刊)10 頁。 ことが明らかになる。それはつまり、キリ スト教の理念ではなく、現在の資本制社会 の中で居場所をもっているということにし かならない。大学のその自己矛盾をついた 上で、その限界を乗り越える道をさぐるた めに、田川は学生と共闘するようになる。16 その意図について、71 年 4 月の『現代の眼』 に掲載された高尾利数と谷川健一との鼎談 では次のように述べられている。 現在の高度成長が進んできたあとの日本の 帝国主義再編成の過程のなかで、ナショナ リズムの問題が何ほどか処理されていかな ければならない、というそういうところで 出てくるわけですから、そういう位置づけ の問題としてとらえて、そしてそれをたた いていく。実体としてはそういうものなわ けです。二・一一の問題にせよ、あるいは 最近、宗教界で常に問題になってきた靖国 法案の問題にせよ、本質的には「信教の自 由」というような問題じゃないわけで、もっ と徹底して現在の日本帝国主義の再編成の 過程の中に出てくる一つの民族主義的イデ オロギーの問題なんですね。17 つまり、田川はキリスト者として国家に 対峙しているのではなく、あくまでキリ スト教の表明するところを議論上の戦略 として利用したのである。既成のキリスト 教を支持するわけでも、その思想的優位性 を説くわけでもではないが、何か別の強力 なイデオロギーに対して戦略的にその表看 板でうたっていることをぶつけていくとい う姿勢である。この手法によって、民族 イデオロギーと宗教的観念論という両者を 一度に批判しようとしている。 同様のレトリックは、キリスト教系大学 16. 高尾利数;谷川健一;田川建三「キリスト教的 ラディカリズムとは何か」128 ~ 29 頁。 17. 同上、130 頁。

参照

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