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従業員持株制の史的例証

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従業員持株制の史的例証

小 倉 栄

一 郎

一 は し が き  前号では、江州中井家とアメリカはオナイダ社を例にとって、その経営理念を検討し、よって立つところの宗教観こそ 異なるけれども、経済理論から構成される利潤追求なるテーマが、決して自己目的とはならず、経済的ファクターを超え た社会的、道徳的指導原理にみちびかれて経営社会が規謝され、経営活動が動機づけられ、富の蓄積が社会的に是認せら         れた事情を比較研究した。  ところで、かかる経営理念は、経営における諸制度の中に具体化するものである。具体化にあたっては、その分野は限 定されない。また、著しく類似することになる。表面的には、同質とも見え、程度の差のみともみえる。  しかし、それぞれが芽生え育った土壌の差、基本となった種の差は見逃されてはならないものである。  このような目的でもって検討を加えるべき好個の制度は少なくない。そのうちで、本稿は、従業員持株制をとり上げた。 中井家にしても、オナイダ社にしても、従業員持株制の先駆者であったと断定する根拠はないが、少なくとも時代的に古 いという点と、経営理念に根ざしていることを論証するに足る史料が豊富である。中井家の場合は、公表された研究も多 く、史料そのものも、滋賀大学附属史料館に現存している。オナイダ社の場合は、公表された史料はないが、二次史料な      従業員持株制の史的例証       一

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     従業員持株制の史的例証       二        ヨ  がら著書がある。  従業員持株制①日豆。団①①ω8葺。≦づΦ冨ぽづは今日のアメリカ経済社会では、きわめて広くみられるところであり、二 十世紀に入ってからの株式会社、ないしは、企業構成の特色であるともいわれる。アメリカ資本市場では、労働者階級の 富の蓄積が急速に進み、一方では、貯蓄の増加、他方では労働者株主という形で資本供給がなされている。すなわち、全 般的にいって銀行における貯蓄額の増加率をはるかに超える貯蓄者数の増加がみられ、多数少額貯蓄者の傾向の実態は、 労働者蓄積であると考えられる。また、労働銀行は一九二〇年にワシントンに設立されて以来急連に増加し、偉大な金融 力をもつにいたっている。労働者株主の傾向は、いわゆる株式の民主化、または、大衆株主の著増という一般的傾向を背 景にしているが、なかでも、従業員持株制はその徹底したものである。この制度は、自社の株式を従業員が任意に株式市 場から買入れるのを奨励すること、買入れた株式の売渡しを抑制して、安定株主を維持することも含むとすれば、極めて 一般的となっているが、狭義に解して、会社が従業員に株式を割当てる制度に限ってみても、U・Sスティール社が一九        ヨ  〇三年に発足せしめたものを最初として、今日では、さまざまの方法が普及しているのである。この状況を指して、カー ヴァー臼げ。日9ω2冒。⇔0母く巽が﹁経済革命﹂と呼んでいるように、資本対労働の対立は人格的には解消し去る傾向が ある。  かのオナイダ社のケースは、創業の当初においては二百人の共同社会で、各人の所有権を否定したのであるが、三十年 にわたる共産生活によって、共同社会の理念が体験を通じて徹底せしめられた段階で、あたかも予定されていたもののご とく、近代的会社企業に組織をあらため、従業員の全員持株制をしくのである。持株は共同体への参加持分を意味し、利 益分配の基準でもあった。  中井家の帳合法の研究においては、多数の支店群から成る大経営を、独立の決定権をもつ店舗に分ち、分権組織とする。

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これを計数的に集中管理する手段として、巧妙に仕組まれた会計制度を完成していた。すなわち、管理会計という視角か ら研究したのである。しかるに、簿記の計算形式からは、当然の帰結として企業の正味財産、企業に帰属する抽象的価値 総額が導き出される。これは経済体制をぬきにしても、当然意識されるところの資本金概念である。資本主義が未成熟の 段階にあって、なおかつ、資本概念は簿記の計算原理によって意識されるにいたったとか、資本の認識が簿記の原理を完 結せしめたといわれるゆえんである。中井家にあっても、中井家特有の資本概念﹁望性金﹂が確立されるまでには、個人       ︵4︶ 財産の貸借を意味する用語からはじまって、資本投下を意味する種々の用語が使用されたが、資本の認識はすでにあった と考えられる。そして、一旦﹁望性金﹂概念が確立されると、資本概念の諸属性が有効に利用されるのである。持分権は

その一である.        屍罎藪?・や築、椀轄舞ザ競∴鱒

 わが国では﹁法人﹂は久しく存在しなかった。その拠って立つべき法律がなかったからである。しかし、自然人とその 所有に属する財産でなくて、無限に継続する営業実体としての﹁家﹂が意識され、社会的に公認されていたものと思われ る。封建制下にあって、モデルは武家のそれであったであろうが、外形的、表面的な類似性にとらわれてはならない。す でに営業を財団化し、資本実体を考えていたことはたしかである。その一つの証佐が持歩割合としての望性金にうかがえ るのである。  望性金は出資者が企業に対する持分権をあらわしていたが、現実の出資額を意味するのみでなく、中井家の肩替り出資       ら  であるとみるべき事例も少なくない。これは十九世紀のアメリカにも一般にみられるところである。これに加えて興味深 いのが、従業員持歩である。  創業の当初から主立手代の何人かにある持歩割合を与えて、利益分配と財産請求権の割当てをおこなった例もあれば、 年度毎に利益分配の一部に参加せしめ、これを内部留保せしめる形で持歩とすることもあった。      従業員持株制の史的例証      三

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従業員持株制の史的例証 四 両者は著しく情況の異なる二例である。その比較研究をおこなうのがこの論文の主題である。 ︵1︶ 拙稿﹁経営理念と宗教i二事例による試論一﹂滋賀大学経済字部附属史料館研究紀要第三号。 ︵3︶ 江州中井家については、江頭恒治著﹁近江商人中指家の研究﹂小倉栄一郎著﹁江野中井家帳合の法﹂その他多数の論文あり、オナイダ社の場含   は、芝里8﹃∪・国α日。目山ω.、日ず¢凋胃病国ロコα﹁Φα磯8﹃ロ・、、と、その素材となった同社の前社長℃δ匿唱。⇒二軍●Zo楓。ωの.、同≦︽凋象げ。﹁び出。ロωo﹁   ﹀都O昌①置固切O︽﹃OOα、、がある。 ︵3︶ 通説ではU・S・スティールの制度をもって最初とし、それは一九〇三年であるが、オナイダ社が六十万弗の株式を全従業員に割当てて揖発す   るのが一八八○年であるから、通説は正しくない。後述するごとく当時のアメリカでもめずらしくはなかったと思う。中.井家の場合は十八世紀末   から十九世紀はじめにかけて制度化しているから、時代的にも大差がないといえる。 ︵4︶ 拙著﹁江州中井家帳合の法﹂二四三頁以下。 ︵5︶ 会社企業といっても、出資者の範囲は限られていたし、株式の譲渡も制限されることか多かった。たとえばフォード社の場合、一九〇三年フォ   ードと友人であったアレッキス・マルコームソンが中心となって、有ヵな友人を説いて出資させ資本金二八、○○○弗で出発するか、そのときの   株主は十二入であって、極めて限られていた。株主の数は増加せしめない方針で、株式譲渡は制限されていた。フォード自身は富農の息子ではあ   つたか、父の業を継がずに、技術者となったので、出資能力はなかった。そこで、年俸三、六〇〇弗で製造部門を担当し、社長には銀行家のジョ   ン・S・グレイが就任した。フォードには二五五株、すなわち、グレイと同じ株数か贈与された。 二 中井家の従業員持歩制 中井源衛門良祐は資本の集中にたけていた。十九歳にしてはじめて売薬の行商に出るにあたって、伯父の井田玄泉の融 資をうけていたことが記録されているが、その翌年からしばらくの間の記録は詳細でないので、事情はわからないが、本 家﹁店卸記﹂が起筆されたと推定できる延享三年︵一七四六︶からは細目が掲げられるので、いかに広く他人資本が動員 されたかがよくわかるのである。有力な個人は商人と百姓の別なく、社寺の桐堂金や五金も強力な資金源であったし、家 族や子女の貯えさえも借用された。 このような財務活動のうちに、社会的に広く通用する慣行が成立していったであろうことは想像に難くない。 組合商合といわれる企業形態は、そういった信用慣行の中から生れたものと考えられる。

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 中井家がはじめて店舗を構えるのが、延享二年︵一七四五︶下野の越堀店で、ついで寛延二年︵一七四九︶には下野の 大田原の出店が開かれ、当分はここが主力店となるが、その頃、土地の商人と共同で質屋を営んだというが、そのときの       ユ  資本構成や利益分配などが約定された﹁質店引替証文流事﹂は寛延元年の日付である。︵滋賀大学史料画所蔵︶  組合冷々といわれる共同経営は、また乗合商合ともいい、出資持分を﹁歩乗﹂または﹁分乗﹂﹁持歩割合﹂などと呼ん だ。出資者同志を﹁相士﹂または﹁相子﹂と称していた。  現和五年、上野の小泉に枝店として十一屋を名乗る酒店を置き、辻次郎直なるものに委せた。その余剰金は中井家と次 郎七で均分するところの共同企業であるが、その約定内容はすこぶる興味がある。        ヨ           相定申一札事 一、小泉酒店置碁、此度拙者仲間二被成下此後引請世話可平庭、尤仕入金之義者、入用次第御取替可被下塵、利足之義者  壱ケ年二壱割勘定と相定申候、私世話として金五両宛年々宿本江御渡し被管、則店入用二相成申候、諸入用利息等指引、  損徳有之候分ハ弐割二可仕候 一、蔵敷之義ハ相定之通リ貴殿方江御請取可被成候  右之通り相定、右蔵有物相改請取申候処相違無御座候、然上鞘出精世話可居候、為後日一札脂漏    明和五年子四月廿四日       辻   次 郎 七圃

    中井源三郎殿

 小泉店は酒造場で、回定資産一式は中井本家が所有し、有償貸与、金銭出資は必要に応じて中井家が全額出資し、例に よって年壱割の利足をつける。経営全般は辻次郎七に委託され、世話料と呼ぶ給金五両を支給される立場にある。次郎七 は出資をしていない。前歴はともかくも、ここでは純然たる使用人である。﹁拙者仲間二被成心下﹂とあるのは、その使      従業員持株制の史的例証       五

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     従業員持株制の史的例証       六 用人が、損益計算をした上で算出される損益に対して、互格で参加するという﹁弐割二可仕﹂条項があるが故である。        ︵3︶  右のように損益を二分するケースは他に例がないわけではない。仙台店の枝輪、日野屋儀兵衛、日野屋林兵衛の場合は いつれも別家形式の枝店で﹁御出店同様﹂の扱いとするが、条件は小泉店と同じである。しかし、一般には、出資なしの 利益分配への参加というのは、中井家の単独出資のときに取られた方式ではないかと思う。共同出資のときには条件が格 段に違う。  伏見店と丹後後野店の開設のときの契約証文を検討してみよう。       る           為取替証文之事 一金七千五百両 一金千両 一金千両 ︷金五百両  合壱万両也 源左衛門出金 九右衛門出金 善兵衛出金 新右衛門出金  拾五歩  弐歩  弐歩  壱歩 〆弐拾歩  右警報、此度望性金割合を以致出金、青苧置合並丹後表糸畿内、其外各々相談之上相始候に付、伏見黒黒丹州後詰と申 所に致出店商売相談処相違無慮候、尤宗兵衛、助右衛門、徳右衛門、達次郎四人覇者は源左衛門歩叢話内に相加へ厚意事 ⋮⋮以下略::  主題に必要な部分のみにとどめたが、そのあと営業分野の分担と出金に対する利足、決算規定が続く、その中に﹁徳用 之儀は歩高割合を以配分可致事、若損金有之候は、右割合を以出金可致候事﹂とある。  この業務は中井家が京都の糸問屋仲間の統制に抗して丹後縮緬業者に直接取引を仕掛けるもので、中井源左衛門、杉井

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九右衛門、寺田善兵衛、矢野新右衛門の四人の共同企業とした。ところが、宗兵衛、助右衛門、徳右衛門、達次郎は出資 者でないので、出資者四人と並べて歩割りしないで、源左衛門の拾五歩の中に入れている。  また次のようなケースもある。七郎兵衛は多年忠実に勤め上げた店員であるが、これに金百両を与えるとともに、大田 原店・和泉屋・白河の日野屋の三カ所の惣世話役に任命した。       ︵5︶          一札之事 一金百両也  右者私実心に相勤五鼎以思召、是迄被下上候給金に都合被曝、此度右金子被思置、悉頂戴仕置、尚又大田原本店並に出  店和泉屋、白河町日野屋三ケ所、共に惣世話仕候推算仰付、則畑野渡世之、三ケ所に歩乗り壱歩通り御加へ被下、尤此  外何方之出店仕候共右同断之事、外に金拾両宛年年本店勘定之節、私曲津料として可被下候段、恭存奉候、然上は永々  私引請支配可仕候条、相違無御座候、為後日伍而一札如件    安永八年亥正月      五反田村        七 郎 兵 衛㊥

    中井源左衛門殿

 徒弟奉公は暖簾分けに結着したものであったが、時代が下るにつれて、これが困難となり、勤仕の別家が生じてくる。 それがどのように待遇されたか。これはその一例である。七郎兵衛は日野に近い比都佐村五反田出身の年期のあけた手代 であるが、奉公中は毎年の給金から個人負担の生活費を差引いた取前を給金帳に積み立ててきた。その額はこの際現金支 給されるが、これに加えて幾何かの退職金を加えて、合計百両となしてここにたしかに頷収したというのである。そこで 今後は三店の世話役として勤務するが、本家直属として年俸拾両を本家決算のときに支配料として支給する。これと同時

     従業員持株制の史的例証七

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     従業員持株制の史的例証       八 に、三店それぞれに歩乗り壱歩、すなわち、一般に二十歩に分つのであるから、五%の利益分配にあっかるということに なり、三店以外に担当範囲が拡大されるようなことになれば、そのときにも同じ持歩で待遇されるという約定である。こ の証文は、前者とは異なり、個人の側に立った約定の形となっている。  いま一つ、支配人︵世話人︶に持歩が与えられる例として、相馬店の場合を掲げよう。 相馬店は天明三年︵一七八三︶        ビ  の開設で、磐城国相馬郡中村に所在した。その黒黒目の中から必要な分のみを抜粋しよう。  一、店歩割    廿歩     内十歩    仙台持ち     又九歩    中井持ち     又壱歩    支配人      是は出請金に遣す、尤損金之参候節は、十九歩に可仕候  これも申井一統の出資のみから成る店であるが、支配人には﹁壱歩﹂︵二十分の一︶の持歩である。﹁折半﹂の場合と ﹁壱歩﹂の場合があるが、その差が何にもとつくかは明瞭になっていない。出題金とあるは出精金とも書かれ、功労金と いうに等しい。この場合、支配人本人は金銭の出資をしていないのである。右の例では損金のときは免除されることにな っている。条件は場合により異ったものと考えられる。  経験曲豆富な有能店員、古参店員を利益分配に預からせて、企業の充実と永続をはかろうとするのが右の例の共通の狙い である。後世に合名会社・合資会社となるべき企業形態の端緒がここにあると思われるのである。  従業員持株制は株式証券化されているところがら、これとは異なった現象を呈するけれども、主旨においては等しいも のである。

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 株主権に相当する持分権を望性と呼んだが、この概念は中井家特有のものであったけれども、その性格や運用について は、他家へも完全に通用していたと考えられる。たとえば前に引用した伏見糸店の﹁為取替証文﹂には、中井家のほかに 三人の一流の商人が参加するけれども、望真金割合という表現を用いて通用させている。伏見魚店以前からすでに乗合商 合はあったわけではあるが、顕著なものはこれがはじめてかも知れない。店の規模からいって最大のものは仙台店であろ う。その仙台店がやはり乗合商合なのである。  仙台店は明和六年︵一七六九︶の開設であるが、やがて組織を変更し合資形態となる。安永元年︵一七七二︶に五名の出 資で、つづいて二年︵﹁七七三︶に増資をなして、各人の持分が変更された。  やや余談にわたるが、当時の資本集中の方法が十九世紀アメリカにおける企業家のそれと酷似しているので、その要点 を指摘しておくことにする。私的な資本構成といわれ、人格的に結ばれた会社ともいわれるように、経営を担当する者と 出資者は物的な利害関係だけでなく、むしろ、人的な関係で結ばれていた。同郷の商入、地縁関係、友人、親戚、肉.親な ど一様ではないが、単に蓄財の有利な運用一利益分配だけで結ばれるものではなかった。仙台店の場合、日野と京都の取 引関係の出資を仰いだのである。  矢野新衛門・井田喜右衛門・脇村宗兵衛︵惣兵衛とも書く︶はそれぞれ日野の商人、杉井九右衛門は屋号を一文字屋と呼 びコ九﹂と略記されることが多い重要な取引先である。当初は五千両であったものを増資して八千両とし、利益分配は 十年間続いたが、天明四・五年頃から海難、凶作、札潰れが起り利益分配を停止するのやむなきにいたり、やがて一文字 屋はその持分を源左衛門の妻事慶に譲り、仲間を退き、他も同じく中井一統に譲渡して去ったので、仙台店は中井家単独 の出資によることとなった。このあたりの事情がヘンリー・フォード一世が友人からの出資を得て企業を起し、やがてそ の株の大半を買占めるにいたる経過と酷似している。当時としては、利益は分配もされたけれども、内部留保として再投      従業員持株制の史的例証      九

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     従業員持株制の史的例証      一〇 資し、自己金融をはかったという点も同じである。  出資という資本力の集中のみが持歩形成の作用でなかったことは、次のような手の込んだ出資肩替りによっても理解で きる。        ア   仙台店の安永二年︵一七七二︶三年の出資について、表面では、中井五、四〇〇両、脇村五〇〇両、井田八○○両、矢 野八○○両、杉井五〇〇両ということで持歩割合が決められているが、以上の金額がすんなりと出資されたわけではなく て、相当高倉に資金が動いている。記録には、﹁脇村惣兵衛殿かし﹂一八八両一歩余﹁井田助右衛門殿かし﹂三五〇両と       いう二項がある。この意味は何であろうか。翌年度の店卸記では、﹁脇村氏持歩出   中  井  本  家 5,400 itilf山ff望’i生 仙 台

一理匪亟}一

500両 800両      188両       かし

脇村*←一

     350両      かし 店 800両      一    矢野家         800両別!1          かり 500両     杉井口 金取かへ﹂﹁井田強持曲金取替﹂と註記され、さらに次の年には﹁⋮⋮㊥印望性か し﹂と呼ばれるのである。⑤は仙台店の屋印である。そこで、脇村・井田氏の出 資を中井家が代位して、両家にしかるべき持歩をあたえたのである。次に示した のは実際の資金の流れの図解である。持歩割合は、各々の望性金の高の比によっ て、中井家が十三分五厘、井田・矢野両家が二分、杉井・脇村両家が一分二厘五 毛、合計二十分と定めたが、この割合が何を基準にしたものかは明らかになされ ていない。営業に関与する程度、業界での比重、その他が考慮されていると考え ざるをえない。その比率は現実の出資金銭の額とは関係なく、中井家が裏打ちし

税 惑 独 価 覧 ているのである。何故にこのように裏打ちしてまで右の持歩割合を決定したものか、今日の考え方では理解しえないとこ\ ろであるが、それはとにかくとして、わかっていることは、企業に対する持歩割合、請求権の割当が第一義であって、資 本集中は第二であるということである。

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中   井   本   家 5,400両仙台望性中井分 188両脇村分取かへ出金 500両仙台 望性脇村分 350両井田分取かへ出金 3Sgeig!g{IEIEIe1 800両仙台 望性井田分 仙 台 ”“1一!ggi1iiuEg1!zsi2ii  同様の例がいま一つ。伊勢の香良州の酒造店の場合が、興味深い記録を残 している。この酒造店は奥田伴蔵の経営であったが、中井家が依頼されて、 酒造株と蔵道具一式を引き受けたのである。最初︵天保三年︵一八三二︶は 脇村要蔵、守村清右衛門、堀井九郎兵衛の三人を参加させた乗合膚合であっ たが、その時の店名は太田屋卯兵衛といった。天保十年︵一八三九︶より中 井家の単独経営となり、太田屋嘉蔵と称した。       ︵B︶  太田屋卯兵衛店の出資事情に関して﹁日野要用記﹂には次のように記され ている。  ﹁香良洲店分乗官立之義は、兼々従先君、守清殿三百、脇長殿三百、奥九  殿弐百、趾は本家持と被仰置候故、天保五年三帳面にて仕分け記事  管守三殿分は先君御譲三百金送り候間、右金子直に店方へ差加へ、脇長殿  分は自警無之付、同人相続金貸ロへ三百金年五にて貸に印し、香良洲店取替金之口奥へ年六にて預りに相印し世事、奥  九之方は自財有之、弐百金出金、即前同断﹂  要点は、﹁分乗訳立﹂すなわち持歩割合は、先君︵天保四年死去の光撫︶より言われていたように、三百・三百・二百と残 り全部という割当てにもとづいて、天保五年之帳簿に計上したが、守清一守村清右衛門は三代光熈の実父で、その遺産三 百両をそのまま店へまわして出資とし、脇長i脇村長左衛門は親類縁者なるも、職なく徒食していたので、︵彼に職を与 えるのが香良洲店開店の一因であったとさえ見える︶これには、相続金貸口という勘定口座に三百両を計上し、すなわち将来の 相続財産の前払いと考えて店から出金するが、これは年利五分で貸付の計算となるという処理をしているのである。この      従業員持株制の史的例証      一一

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     従業員持株制の史的例証       一二 例でもやはり人に対して持歩割当てをするのが先決で、物的な資金はこれに合わせて充当できるように工夫したもので、 出資した資金量が持分権の比率を決したものではない。  もとの主題に戻らなくてはならない。西洋においても初期の株式会社が内部蓄積に専念したように、中井家の場合も、 利益の蓄積を計って、資本を拡大していった。中井家の会計規程では出資額に対してまつ一割前後の﹁利足﹂がつけられ、 これを超える利益があれば、その超過額を﹁徳用﹂と呼ぶのである。この利足は出資者の要求によっては現金で支払われ たが、元金に繰入れられることも少なくなかった。徳用はすべて内部留保された。そしてこの額にもまた一割前後の利足 がつけられたのである。これら利足を、他人資本に対する借入金利と同視してはならない。自己資本に対して附けられる 定率の責任利益額であって、優先的利益分配額と称すべき性格をもっている。徳用は普通配当に相当する。  この徳用は、望性金割合、すなわち持分に応じて分配されたのであるが、その分配に支配役・世話人が参加した。﹁ニ ツ割﹂すなわち折半する場合もあれば、﹁壱歩﹂すなわち二十分の一という場合もあり、個々ケースで規定されたのであ る。この分配額は﹁徳用積金﹂と呼んで内部留保され、年々利足が附けられつつ次第に累積されていったのである。  世話人は年々定額の労務報酬をうけて、店を預る被傭経営者である。それが持歩を与えられて利益分配に預り、その分 配額が留保されて資本化され、優先利益分配に参加するという仕組みである。当時は法人格というものはなく、出資証券 i株式という制度はないが、その考え方はすでにあったわけで、従業員持学制と呼ぶことができよう。  経営の総合的成果たる利益に対して、経営者がその分配に預るという管理者刺戟計画として作用したことはたしかであ る。分配率は大きくないけれども、主家が賜る恩義であり、将来暖簾分けして独立するときの基本的資本となったのであ る。  利益分配を受ける権利が支配役・世話人のみに限られていたことに関しては、今日の常識からすれば疑問がないわけで

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はない。全従業員の経営努力の総合的結集である利益に対して、管理責任者のみを刺激することで所期の効果が達せられ うるかどうか。それは、当時の徒弟制度を前提としてはじめて理解しうるところである。今日の賃金労働者とちがって、   軌撃 年期奏公中は全人格を投入して働く徒弟であり、労働を売るのではなくて、一人前の商人になるまで、現場で教育養成を うけるのが本旨である。賃金が目的ではなく、年期を勤め上げて手代・番頭となり、別家できる身分と能力を獲得するの が目的である。人間の慾として、金銭には離れ難い愛着があり、金銭をめぐる犯罪の記録と、身を持ち崩した若い店員の 記録もないではないが、一般に当時の徒弟には個人の金銭を所持する機会はなく、年々の給金も、給金帳の各自の口座に 給金額が計上され、前借金と相殺されるのみであった。このような状況下では、賃金刺戟の効果は少なく、利益分配をう ける地位・身分が努力の原動力であった。  しかし、時代が下ると状況も変ってくる。明治八年頃から諸管理基準が大幅に改訂された。磁性金・預り金の無利足化 と、水増分の切捨てが第一の改訂点であるが、これに併せて、利益分配をうける者の範囲を著しく拡大したのである。明         ︵9︶ 治十年の分割配当書というのがある。       店卸勘定分割配当之規則  一金千円也    歳中店卸損益指引益金と看敬し   金五百円也   店積   金金百円也   本家之納金 指引   金四百円也 右分割方十に割  一、弐割五分   河原治兵衛      従業員持株制の史的例証       =二

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     従業員持株制の史的例証      一四

 一、同      地平市兵衛  一、弐割     平塚斉兵衛  一、壱割     池田松兵衛  引て 弐割   右は店中之者へ年中精不精により適宣に配当可致事  一右分配いたし人々預記帳いたし、其預金へ一六朱之利足相判預り置、元直は店出戸迄置据、利足丈可相渡事  一取引先之内⋮⋮以下省略、貸倒金の損失処分の方法⋮⋮  一甲之歳⋮⋮以下省略、繰延欠損金の補墳処理の方法:⋮  右之通、今般相定申渡候事

   明治十丁丑年立月日       本家

      仙   店  主立手代四人に利益額の十%以下をそれぞれ分配し、最後の八%を店員に対して、主務成績に応じて分配するのである。 ︵明治十三年にはさらに比率が改訂された︶そして、この金額は各人の口座へ預りの記帳をして年々三悪の利足を繰入れ るとあり、また、﹁店出情﹂すなわち、暖簾分けのときまで元金の引渡しをしなかったのである。  この頃には、出資金利益分配額の内部留保に利足をつける優先分配の方式は次第におとろえて、無利足の項目が増えて いるから、この預り金は今日の社内預金的性格が強くなり、右の﹁分割配当﹂はボーナス的性格を強めて来ているといえ る。  明治以降の中井家は、仙台店はすでに首位を他家にゆづり、京都店も崩壊過程をたどっていた。江戸後期を飾った業績

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はすでに過去の幻影と化し、すぐれた合理性の配慮の下に考案された諸制度も、わが国固有のものとして、定着・普及し ないうちに、急速に西洋の進んだ経営方法によってとって代られたのである。従業員持歩制もその例外ではない。そして、 明治以後では、兼松商店が採用した全従業員持株制をはじめ、種々の近代的方法が採用されるのである。 ︵1︶ 江頭恒治著﹁近江商人中井家の研究﹂七八八頁に写真が出ている。 ︵2︶ 拙著﹁江州中井家帳合の法﹂二八.真、二四六頁。 ︵3︶ 江頭、前掲書、八五五頁、拙著、前掲書二九頁、九七頁。 ︵4︶ 江.頭、前掲書、四〇頁︵原文写真は口絵にあり︶拙著、前掲書、九七頁も参照のこと。 ︵5︶江頭、前掲書、七八○頁。 ︵6︶ 江頭、前掲書、七八四頁。 ︵7︶ 拙著、前掲書、二六頁に詳記あり。 ︵8︶ 江頭、前掲書、七八六頁。 ︵9︶江頭、前掲書凸五一二、二頁。   ︵以上に引用の原文書は滋賀大学経済塒子部附属史料館所蔵︶ 三 オナイダ・コミュニティーの全従業員持株制 ニューイングランド地方はアメリカでの最初の機械工業化の進んだ地城であるが、ここ瓢の移住者の多くのものはカル ヴィン派の教理を信奉して、勤勉で節倹で献身的な新教徒であった。その中から、異端者ともいうべき完全主義者℃①や h①9δ三ωけωが生れるのである。  一八三〇年のアメリカは、すでに平静をとりもどして、古い思想の中から、新しい宗教的規範と社会秩序を樹立しよう という運動が進められていたのであるが、神の再来を待ち望み、その救世に身をゆだねる教理にあきたらない宗教的急進 主義者のうちから、キリストの再来はすでにあったという天啓に立って、紀元後七学年のエルサレムの滅亡のとき以来、 人間はすでに罪の償いをえており、罪と誤審の繰返しという古い径でなく、現世において完全な神の状態、すなわち、人      従業員持株制の史的例証       一五

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     従業員持株制の史的例証       一六 間に約束されていたものをかちとる努力をすべきであると考えるものが出たのである。  バーモント州のプトニー剛昌昌①ざく興Bo算でジョウン・ハンフリー・ノイズ旨。ご⇒国信白雪財おk乞。蜜Φω の指導の もとに原始キリスト教会のパターンに近い共同生活を開始した。そのためには一八三九年はじめて聖書講読会を開いてか ら一八四六年のプトニー・コミュニティー形成まで七年の慎重な研究期間が必要であったし、﹂般市民の反撃にあって二 年でコミュニティーは破れ、最も熱心な帰依者十二・三吉とともにニューヨーク州の中央に移り、レアードヴィルい鉱H早 く臼Φという小村で同志をえて、不十分な小屋の中の冬の生活からはじまってプトニーで解散せしめられたコミュニティ ーの同志を加え、ようやくにして本格的な共同社会の建設が始められたのであるから、構成員達は決して即興的な情熱で もって発足したのではなかった。  本稿ではコミュニティーの財産づくりを中心に素描してみよう。  レアードビルでは、ジョナサン・バート蟹江盛運じd庫昌という製材小屋の持主がその土地と設備を提供して参加し、 つづいて、ヨゼフ・アクレi冒ω①喜諺。匹①蜜が農地を提供して家族とともにコミュニティーに投じた。それからバーモ ント州からの追放された一隊が約十万弗の金をもって加わったので、新しい土地に新しい建物の建設がおこなわれ、当初 の三年間に二〇〇人以上の集団生活に膨脹したのである。  彼等はその財産と家族をこの共同社会に投入し、結婚生活さえも家族単位で考えないで、共同社会−拡大された家族の 中の結婚と観た。その子供は両親をはなれて﹁南の部屋﹂で集団養育された。この大世帯が住むために、彼等は分業して 木を伐り、煉瓦を焼き共同の完全な家を完成したのが一八四九年、その後次第に組立式に拡張して煉瓦造りのタワーと多 数の居間や集会場が附設せられ一八六〇年には、現存しているマンション・ハウスの全部が出現していた。  元来が宗教的に固く結束した集団であった上に、農夫あり、職人あり、行商人ありで、共同生活にはこと欠かない技術

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をもっていたし、周囲の社会はオナイダ・インディアンの丸太小屋や、移住者の小屋が散在する以外には集落がなかった ので、労働力を導入する可能性はなかった。最初の五十年間は手伝いの人手を雇ったことがなかったという。構成員には 発明の才のある人が多く、不足しがちな労働力を補うため労働節約の工夫、生活の機械化が進められ、一般よりも四〇年 も早くに洗濯機、皿洗機、リンゴむき機、野菜洗機を実用化しているし、分業のための基礎的原理、労働の尊厳と適材適 所、リーダーシップの理解、協働の楽しさといった諸要因ーパーティシペーション剛碧該。即製δpのセンスが醸成された のである。  彼等は集会を好んだ。毎夕の礼拝はそのまま一日の仕事の打合せ会議となったし、収穫時の共同作業は全員が参加する 最も楽しい機会であった。パーティーや演奏会、演劇会がしばしば開かれ、ヴィクトリア風の当時の風俗とは似ても似つ かない短断髪とパンタロッテ姿の婦人の集いの写真は今も保存されている。  現在はこの当時の共同社会をオールド・コミュニティーと呼んでいる。それがまだ六十人余りの集団であった頃、彼等 はその生活の資をすべてその土地からつくり出すよう努力したが、他の多くのこの種自給自足社会と同様に、農業だけで もってしては生活が維持できないことが判明するまでには三・四年とかからなかった。発足当初に十万弗からあった資金 が、この問に四〇%ばかり消えてしまっていたのである。当時次々と現われては消えていったユートピアの実験のほとん どは経済的自立を欠いていて、貧困の故に将来への希望を失って失敗してゆくのであったが、オナイダコミュニティーは、 現金収入のある工業への進出を考え実行に移した。  農産加工−収穫物の一部を罐詰にして売り出した。品質の標準化に成功し、世の主婦の期待に遜ったので成功し、七〇 年間オナイダの名を家庭に周知させるに役立った。  罠の製造ーソウウェル・ニューハウスωΦ葡①黒丸Φ≦ず。¢ωoというバーモント出身の男がコミュニティーのあるケンウッ      従業員持株制の史的例証      一七

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     従業員持株制の史的例証       一八 ド囚①口≦oqqのすぐ近くに住んでいて、罠と鉄砲をつくるのが得手であったが、ノイズ達が移住してきた翌年、この集 団に加わった。ニューハウスは機械工であったし狩猟の経験が豊富で、研究心が旺盛であったので、北アメリカの厳冬に も折れない鋼製罠の製造がはじめられた。製品はすぐ有名となり、翌年には工場を拡張し、水力の利用も可能となり、五 年の間にオナイダ・トラップはアメリカとカナダの標準品となり、やがて世界中に普及し、一八六〇年には年間売上一〇 万弗となった。  絹紡一構成員の中には何人かの行商人がいたが、いち早く行商を再開し、もっともよく売れる品物として絹糸を扱いは じめ、まもなく絹の卸売を業とするにいたった。特に、顧客の需要に応じる最も良い方法として絹糸の自製を考え出し、 一八六五年、メンバーの中から若い三人がニューイングランドの工場へ絹糸紡績の見習に出かけ、半年後、オナイダに工 場をつくって自製しはじめたのである。一九〇〇年には三〇万弗の売上に達したが、利益の点では罠ほどにはならなかっ た。  テーブル・ウエアー、一八七七年にはすでにスプーンの製造に踏切っていた。一八五二年、コネクティヵット州のウォ リングフォード芝巴冒ひq8巳にあるコミュニティー支所では、農場を流れる小さな河の水力を利用して、等級外の電鍍 金鉄スプーンを製造しはじめた。これが今日の﹁コミュニティ・プレート﹂の出発点となるのである。翌年、メリデン・ ブリタニア社ζΦはαΦ⇒じu葺p甘900B葛嵩団へ鍍金用生地として売る鋼スプーンを製造しはじめて、利益があがりはじ め、一八八0年には支所を灯ったく放棄してナイヤガラフォールズへ移転したが、ここが当分コミュニティーの工業活動 の中心となるのである。  その他ージョン・ハンフリー・ノイズは宗教上の指導者であったばかりでなく、発明の才もあり、自らランチ・バック の特許権をもっていたし、二十四種からの鞄のパターンをもって、鞄製造をやった。その他、鋳物工場、建築工業、左官、

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指物、製材、飯金工場、靴工場、馬具工場があったし、ウォルリングフォードでは印刷工場ももっていた。  一八七〇年にもなると、商業活動が活発となる一方、工場でも人手が不足するのでコミュニティー外から労働力を傭い 入ればじめるが、賃金が良かったばかりでなく、メンバーの労働に対する敬盧な態度が好感を呼び、募集には苦労しなか ったということである。        ユ   ジョン・ハンフリー・ノイズの原始キリスト教会に模した集団生活は一つの実験であっただろうと言われている。開拓 の進まない土地柄であったことと、仲間が一つの信仰に連っていたこと、指導者が当をえていたことなどの理由で、三十 年という長い年月にわたって続けえたのである。しかし、時代的に言って、アメリカ中のここだけが例外でとどまれるわ けはない。いっかはこの生活を解いて、時代の流れの中に混入する時期が来るはつであった。それを予期してか、常に外 部の社会の進歩に遅れない勉強と、競争に敗れないための訓練に多大の努力が払われた。  一八七九年、指導者ノイズはカナダに移住して、彼地から助言と統制を続けていたが、一八八○年になって、彼等は重 大な変更を満場一致で認め、新しい生活へと踏切ったのである。オナイタ・コミュニティー・リミテド○昌①崔鋤OoB− B皿息崎い鼠.すなわち、株式会社組織に移行したのである。  新世界アメリカでは、この頃になると、工業会社が次々に発足するが、企業形態としては株式会社が主流をなしていた。 もっとも、その多くのものは、同族会社であって、資本金を株式に分つことの意味は、株式会社本来の役割としての資本 集中ではなくて、事業体の共有が狙いであった。したがって、株主は肉親か、友人に限られ、持株の譲渡は一般に制限さ れていて、右の範囲の外に流出しない仕組みであったし、この範囲内での株式の売買も、承認を受ける必要があった。株 式の市価はその企業の成長ぶりによって著しい上昇を示したが、右のような関係から、投機的に扱われることが少なく、 財産と考えられ、配当が目あてになることもないわけではないが、︻般に内部留保が大きく、企業の拡大が楽しみとされ      従業員持株制の史的例証       一九

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     従業員持株制の史的例証      二〇 た。たとえば、フォードが、配当問題で株主から提帯され、株式の大部分を買い漁ったとき、額面の一万倍以上で買わな くてはならなかったし、ハイランド・パークの新工場建設を自己資本でまかなっている。またG・Mのデュラントがビユ イック・キャディラック・オールズモビールの三社を合併したとき、一、○○○万弗の資本金を要したが、いつれも利益 留保でまかなっている。株主の多くのものは企業家として活躍したのが常例であったが、たとえ現業から手を引いている 場合も、株主として会社の決定に直接参加する権利を留保していて、所有と経営は未分化の状態であったと言える。  企業家達はたくましいまでの企業意慾を示し、関係会社を次々と合併し、いわゆる産業王国の建設が︸つの理想であっ た。  アメリカはまさに産業化時代と呼ばれる企業機会に恵まれた時代にあり、オナイダとしても、その動向から外れるわけ にはいかなかった。オールド・コミュニティーはその準備段階であって、協働の理念勺碧けHo老輩ざ口の思想が確実に根を 下した段階であった。  転換には社会的感情的な大修正を必要としたが、公正にして一致した考え方で財産の配分が進められ、何の反対の声も 聞かれなかったという。  新しい会社はオナイダ・コミュニティー・リミテッド。かの共同社会の名残りが社名にとどめられ、その後、同社の主 力製品たる銀鍍金テーブルウェアのブランドとして残されることになる。当時を経験した人はすでに世を去っているが、 直接の親から聞かされ、設立直後の会社の雰囲気を幼時に体験した人は生存している。進取の気象に富んだ当時の人々の 生活態度、特に息子のピエールポント・ノイズへの信頼を語るこの老婦人の目は誇りに輝いているのを筆者は見逃さなか った。  発足当時の資本金は六〇万弗で、コミュニティーの構成員は、男も女も平等に、彼等がこの共同生活に持ち込んだ財産

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       ︵2︶ の額の半分と、この社会でのサービスに費した年月の長さに比例して、全株数が割当てられた。  指導者ハンフリー・ノイズはその後再びこの地へは戻らず、一八八六年カナダで世を去った。コミュニティーのこの困 難な修正の時期に、彼が与えた影響力は偉大であった。彼は宗教的、思想的指導者であったばかりでなく、合理主義で貫 いた技術者であり企業家であることを、この三十年の体験を通じて、構成員が承認していたのである。  会社は九人の取締役を選任したが、いつれもハンフリーともっとも親密であり、年長者であった。しかし、ハンフリー の死後は彼等は次第に仲間から浮き上っていった。年長者の中にはいわゆるスピリテユアリストが多く、これが政治的党 派性を帯びはじめると、そのグループは増加して、総株数の大きな割合になるまでに増大し、一八八九年には九人の取締 役中の五人を占め、会社の主導権を握ってしまったのである。すべての株主は全株数の二%以上を所有することが禁じら れていたので、大株主の継続的独裁体制というものは生じえなかったが、その代りに、勢力地図は度々書き替えられたの       き  である。それでも、会社は一応は適当にして安定した成果をあげ続け、毎年六%の配当を維持しつづけていた。  もっともこの成績は決して好ましい状態とはいえなかった。従来は若干の賃金労働者以外は、共同生活者であったから、 利益も相当に見込みえたのであるが、これを全部賃金労働とすれば、その負担は決して小さくはない。共同生活では節倹 という美徳が目立っていただけに、賃金負担は大きなハンディキャップとなる筈である。節倹によって進むかぎり、他の 地方産業と同様に、オナイダもマヌファクテユア時代にとどまり、近代工業化がむつかしくなるか、大企業に併呑されて しまうかという運命は見えすいていた。  経営首脳の交替、意欲旺感な指導的経営者の出現は、当然待ち望まれたところであった。 一旦オナイダを去って、銀製 品の卸商としてニューヨーク市の有力な実業家の経歴を踏み出していたピエールポント・ノイズが、突然その栄光の将来 を投げ捨てて父の家記ナイダに復帰し、彼ならではの戦略を駆使して今日のオナイダ社の基礎を確立する過程は、別の機      従業員持株制の史的例証       二一

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     従業員持株制の史的例証       二二 会に詳述したい。  会社発足当時は、罐詰、罠、ぬい絹、銀製品、鎖の五種の製品を製造しており、工場も相当に広範囲に分散していたが、 当時のアメリカでの銀製品のトップメーカー、メリデン・ブリタニア会社ζ興凱①昌bu目ヰき巳四〇ρとコネクティカット州 の数社の高級銀メッキ製品﹁ロジャース﹂幻。σq興ωの独占的市場に挑戦した、トリプル・プラス葺嘗。三日ωω鍍金の優良 品をコミュニティ・プレート○。日誉¢聖母営鉾Φの商標で売出しに成功して以来︵一九〇二年︶他の製品を急速に処分し、 町工場であったナイヤガラ・フォールの工場を一挙にシェリルに移転、 ここで集中生産がおこなわれる体制となった。 ︵一九一二︶。一九二五年に鋼製罠の仕事を売却したのを最後に、完全にスプーンに専門化したのである。第一次世界大戦 と第二次世界大戦には、外科手術用器具から兵器類、写真現像車など、軍需品への切替という脱線はあったが、概して銀 製品で押通した。  十九世紀にあっては、株式会社の利益配当は、当期の利益額に応じて相当に高率配当をおこなったものである。ヘンリ ー・フォードの自動車製造が好調にスタートしたとき、その株主は、巨額の配当を受け、株価は額面の千倍以上にも高騰 した。その配当を極端に制限し内部留保を重視する政策をとるにいたって、株主はこれを不服として提訴し、フォードは この時かぎり、他人が株主に入るのを嫌って、株の買占めを強行するのであるが、この例が示すごとく、高率配当を望む 株主の意識もあるけれども、企業家はむしろ、比較的低率の配当を恒常的に続け、可及的に内部蓄積をもつことに努力し たようである。フォードがリヴァー・ルージェ工場を建設する資金も、G・Mのデュラントが自動車製造に進出するとき の資金も、自己の内部蓄積に依存しているのをみても、その間の事情がわかるであろう。  毎年6%の配当というのは決して高率ではない。また、史料によれば、二十世紀に入ると、417%の間で上下してい るが、これとて高率ではない。一九二〇年の報告書によれば、﹁過去十五年の間平均七%の現金配当をつづけ、その間に

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      る  二回の五〇%株式配当を行なった。一九二〇年三月十五日目は通常配当1⊥4%と特別配当÷%を払った﹂とある。したが って、綿密に試算をやってみなければならないが、これは別稿に譲りたい。とにかく、深刻な不況に襲われた年度は別と して、順調に利益をあげて来たのであるが、それも、初期の間は、賃金支払を要する労働は少なかったが、会社に組織替 えしてからは、利益を計上するのは容易ではなくなった。ピェールポント・ノイズとこれを補佐する若者達が会社を経営 するようになってからは、業績は著しく好転し、右のような経過となったのである。  オナイダでは賃金ベースは、高かった。アメリカで賃金の高いニューヨーク州のうちでニューヨーク市とバッファロー 地区をのぞいて、オナイダはトップであったという。一九[五年忌不況の影響をうけて賃金は一〇%切り下げられ、次い で一九=ハ年にも賃金切下げはまだ続いた。この年、ニューヨーク州銀目労働組合は各所でストライキに入り、オナイダ にもオーガナイザーがやって来た。しかし、ストライキを組むことには失敗した。その間の事情が十一月三日のメリデン ・デイリー・ジャーナルζ①艮9Φ昌U鋤乱闘臼。霞昌巴に報ぜられている。﹁私はオナイダ・コミュニティー・リミテド銀製 品工場をしらべたが、私の見るところでは、銀製品はもちろん、他の分野でも、どんな工業組織も関係をもたない完全に 独立した会社である。従業員の労働時間は短かく、良い賃金を支払っている。そして、従業員を人間として扱っている。 ⋮⋮中略⋮他の多くの会社がやっているように、広告のためにこれをやっているのではなく、単純に、男も女も、金より        う  前に置くという、人間のやる経営政策がおこなわれているのである﹂従業員の福祉を第一にし、従業員の組合活動を積極 的に支持していたノイズではあったが、この度は強硬に抵抗し、難局に乗り上げた全責任を負わされるような窮地に追込 まれながら、終始態度を変えず、ついにオーガナイザーの退散、ストライキ回避という稀有の解決に持ち込んだのである。 ノイズの胸中には、かかる場合の従業員の福祉は、闘い取るという労働組合のやり方でえる効果以上の効果を、彼の経営        理念を実行することによってもたらしうるという信念が満ちていたということ、および、従業員の側からも、同社の待遇に      従業員持株制の史的例証       二三

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     従業員持株制の史的例証       二四 満足し、その経営者を信頼していたことによるのである。オナイダ社は、第一次世界大戦のはじまる少し前から、利益分        ア  配政策に直接につながるべき賃金制度の改正に着手した。﹁生活費上昇賃金計画﹂国璽げIoo馨ohい壷口αq妻9αqΦ凄き﹁戦 時サービス賃金﹂名碧ω①自陣8名9ぴq①﹁従業員建築ボーナス﹂OO日8身σO冒・。8ΦB立O巻Φ、。・ぴ乱一巳薦が普通の給料 と別に渡され、景気の変動に応じてこの額が上下したのである。しかし、一九二一年は、並々の方策では乗り切れるもの ではなかった。オナイダでは創立の当初から、従業員持株制による利益分配への参加よりも、賃金によること、可及的に 高い賃金支払でもって従業員をうるおすことの方を重視してきたが、この方針に対する決定的方向を指向することとなっ た。すなわち、従業員の待遇は会社の財政的健全さに依存するのであるから、不況のどん底では、社外流出を一時せき止 めて、賃金の切捨てに甘んじる。利益が上げられてのちに、これを賃金に加えるという方針が発表されると、圧倒的に支 持されたのである。かくてオナイダ社での利益分配賃金制が正式に発足することになった。これを﹁割前賃金﹂Oo甲 菖昌ひqΦ鼻妻9ひq①と呼んだ。  税金、配当金、それら、普通株への7%の配当と留保剰余金を含むあらゆる責任を果したあとの会社の利益の額の半分 を原資とする。その⊥・は従業員の普通賃金に割当てられ、・τは、一九一八年に成立したサービス賃金と呼ばれる年功加給 型賃金に割当てられる構想であった。たとえば、勤続二〇年以上になると一二%を加えるにいたるのである。  割前賃金ははじめから成功であった。第一回は一九二二年目宜言され、三十万弗に上った。一九二五年までに支払総額 は=七万弗に達し、世に一般にいう分益制賃金よりもはるかに多額なものであった。  会社の財務諸表は、株主総会に先立って、まつ従業員に呈示されたが、それには経営の成果が素人にも分るように表示 されていたし、また日常の経営能率が、結果における利益額に影響することが一目で認識された。  経営者と従業員の間に、パートナーシップの感情が培われる。オナイダ社にあっては、この感情は本来的なものであり、

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会社組織に組替えの際に、失われもせずに従業員持株制となって固定され、繰返し襲った残酷な不況の年に、独創的な賃 金制度の形に固定したのである。オナイダ社の発展の鍵はパーティシペーション、又は、パートナーシップの精神で各個       ︵8︶ 人が、そのグループ全体の福祉のためになした貢献の認識である。そして、これを制度的に条件づけたのが、従業員持株 制と、分益賃金制であった。  従業員に対する報酬制度としては分霊制賃金の方が比重が増していったけれども、従業員持株制も大きな役割をはたし ている。配当はしばしば株式配当の形でおこなわれたし、増資の際には相当額が金庫株として会社に保有され、支払給料 賃金に混じて新入の従業員や、持株数の少ない従業員に譲渡されたのである。  従業員に対する株式割当がおこなわれた年度はかなり多かったし、増資後、譲渡完了までは両三年かかるので、ほとん ど継続的であったといってよい。公開財務諸表が入手できなかったが、投資家用会社案内六十数年分から抜き出して、        ︵9︶ 年度的にも該当し、かつ、社業の一端もうかがえ、従業員割当もあった適例として、一九一七年の記事を引用する。 コ 八八箇年ニューヨーク州において設立、営業目的、ニュヨーク州オナイダおよびナイアガラ・フォールにおいて製造工業 一般および農業を営む。⋮⋮中略:::一九一六年ニュヨーク州ナイアガラ・フォールの製造設備にともなうリース、動力 契約、その他の権益はナショナル・エレクトロリティク社に売却。テーブルウェア工場はニューヨーク州オナイダのシェ リルに所在。同社のナイガラ・フォ∼ルとカナダ・オンタリオの二工場の一は罠の製造、他はテーブルウエアの製造であ る。  資本金一授権資本額、普通株二百万弗、七%優先株三十万弗。一九一七年五月二十五日現在発行済株式、普通株一、八 六三、七七五弗、優先株三十万弗。優先株は一九一五年長期負債償還の目的で発行。資金・配当ともに優先権をもち、一 九二〇年三月十五日一株あたり三十弗の払戻しにて全部または一部償還、その後五年間隔で三十日目事前通告にて償還、      従業員持株制の史的例証      二五

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議決権なし、普通株は一九〇四年六十万弗から八十万弗に、一九〇七年八十万弗から百二十万弗に、︵剰余金から株式配当と        ヘ  ヘ   ヘ  ヘ  ヘ   ヘ   ヘ   ヘ  ヘ  ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   へ して︶さらに、 一九=二年二月一日百二十万弗から二百万弗に増資されたもので、そのうち六十万弗は会社引受、普通株 へ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ の少額株主である従業員への俸給の部分支払に充当する。﹂︵傍点筆者︶  一九四六年はオナイダ社の百年の歴史の中で、もっとも社是から離れた苦難の年であった。一九四五年に一億二千万弗 という多額の戦時契約が、一挙にキャンセルされた上に、三年半のブランクで銀製品の技術は大幅に失われていて、平時 への復帰が遅延した。会社の利益は半減したが、積立金を崩してボーナスを払った。販売市場での競争は即時激烈となっ た。もっとも困難な聞題は、従業員の定着度が歴史はじまって以来の低下ぶりで、一九四六年にはシェリルとケンウッド 両工場で二、二五八人から二、八三〇人に増大したが、その間二、四五一人の新入工を受入れているのである。いうまで        む  もなく、その間に不在株主が急増し、従来の三倍にも上った。  一九四︸年以来の基本賃金は一〇四%上昇し、手取賃金額はニューヨーク州で最高となった。同時に会社は工場拡張の ために二百万弗の借入れをなし、この返済が残っていた。  ロバートソン社長銀9の国本。び①詳の。口︵︸九二山愛甲一月ノイズの後任として就任︶は年三回の利益分配賃金に踏みきった。 彼の考え方は次のようである。  今日の支払賃金も大切であるが、将来の労働条件と利益増大のための一時的沈潜も大切である。賃金と利益分配と利益 留保、そしてこの時代にはペンション・プランが加わっているが、これらのファクターの均衡をはかるのが経営者の責任 である。  一九四六年頃は、従業員数が増大したので一堂に会すべき場所がなかった。伝統の会計年度末従業員総会で総支配人 OΦ口Φ鐙H寓きpαqΦ円が年次報告書を読んで利益分配の説明をするのは不可能であったから、書面で伝達されたが、その報      従業員持株制の史的例証       二七

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     従業員持株制の史的例証       二八         告書は、退屈なわかりにくいものでなく、よく仕組まれた明解、詳細なものであったという。その報告書の冒頭に彼が掲 げた挨拶は彼の経営観をよくあらわしている。  ﹁この年次営業報告書は、株主に対するものというよりも、諸君と私にとっての方が、より重大である。われわれはこ こで毎日働き、ここからその生活の資をえているからである。この会社の繁栄、成功、安全は、われわれの繁栄、成功、     ︵12︶ 安全である。﹂ ︵1︶ 窯巴叶興∪.国αR5ロ匹笛.、弓げΦ霊霧け出q旨創諾匹鴫①餌霧.、菊Φぐ虜①匙Φ象ρ℃﹄9 ︵2︶ ま建・噂・酌Qgの ︵3︶ 社史の著者エドモンドは本来は小説家である。その著には実に簡単に6%と書かれている。︵O﹄O︶一≦ooO畷薩写αg伍絆一巻︼≦ρ浮偉巴によれば、   一八八一年−一九ニニ年の聞は一株当り一概六〇仙⊥4をつづけ、一四、五年はやや落ちるが、その後は恢復して、はるかに上廻る配当をしている。 ︵4︶冨。。身巴﹀轟ξωδ。=ロく霧§①昌什ωい唱﹂OOく。. ︵5︶窯巴8﹃∪・国自日。巳の二げ建・℃.9﹁ ︵6︶ 旨δ陰戸一Qσ・ ︵7︶ま匹・冒・㎝曲 ︵8︶ 一ぴ置.O・①bo・ ︵9︶℃oo顕竃四昌巴。h冒費ω茸一巴ω.δ日メ冒.目①ら・ ︵10︶ タ,9自犀Φ﹁U.国岱ヨ。昌匹ω・ぴ己●唱・刈P ︵11︶ タ.巴叶①円一︶・国αBo口低ω.ま置■︾・コ噸 ︵12︶ 旨置.O・鵡 四 結 舐 口口  中井家は江戸期中期以降︵一八世紀中葉︶のことであり、オナイダ社は十九世紀中葉以降、特に二十世紀のことであるか ら、これを並列に置いて比較することはできない。しかし、経済体制の遅れていた日本でのしかも一世紀も早い時期のこ とであるのを念頭においてみると、制度としてはともかくも、経営者の意識という点では、一脈相通じるものがある。

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 中井家の採用した組合商合は、商人同志の共同企業ばかりでなく、郷里の商人でない金持も参加していたが、資本の集 中効果を狙ったのもさることながら、企業への参加持分の考え方が強く、その考え方が主立手代、すなわち、トップの従 業員にも持分をあたえ、利益分配にあつからせるという管理者刺激制度をつくり出したのである。これによって世話人は お店の御恩といううけ取り方で任務に精励したのであるが、それが、トップの管理者のみに限られていて、従業員全体に 及ばなかったこと、それでいて十分業績向上に役立って、何ら弊害を伴わなかったことには、それ相当の理由があると考 える。些細な点はさておくとして、基本的には、徒弟制度であったことによっているのである。従業員達は、年期奉公の 身であって、店の現場教育で一人前の経営者になるべく、養成されつつある段階にあり、労務を提供してその報酬として 賃金をうける雇傭労働者ではないのである。了すなわち、企業体は主人個人の所有と考えるよりは、公、お家、と呼ばれ る継続体としての経営であるという意識はあるが、徒弟は奉公する身ではあるが、生活を托して、事業の盛衰に生涯をか ける意識はない。後世に勤仕の別家のようなサラリーマン化がみられるようになるが、これは一般的現象ではなかったの である。そのような制度下にあっては、貨幣支払による賃金は労働能率とは関数関係になかったのである。すべては金の 世の中とはいいながら、身分社会のきつなは依然として強く作用していたのである。  このような条件下にありながら、すぐれて進歩的であった中井家にあって、人の和を尊重し、持分参加の道を開いてい たという点に注目すべきであると思う。  オナイダ・コミュニティは信仰を同じくする男女が時代の差を超越して構成した共産生活の中から、協同体意識をつく り上げ、この意識を制度化しながら、近代的株式会社の形態にまとめ上げたのである。法人化すると間もなくニューヨー ク株式取引所に上場していて、近代化に遅れをとるようなことはしなかったが、オールド・コミュニティーの理念はその まま受け継がれた。悲惨であった不況の時代も、異常であった世界大戦中も、崩れ去ることなく受け継がれた。生活共同      従業員持株制の史的例証       二九

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     従業員持株制の史的例証       三〇 体ともいうべきオナイダ社の経営を一世紀にわたって貫いてきたこの理念は、すでに三代目になった今日、いささかも崩 れていないといってよい。その秘密は何か。  分量制賃金制度は、一般のそれよりもはるかに徹底していて、従業員の会社業績に対する関心を高める効果が大きい。 また、見事な会社経営の建売住宅や住宅建設ボーナスをはじめ、娯楽、福祉厚生施設も完備していて、牧歌的な雰囲気の 平原の直中にあるシェリル市は高級住宅地の観がある。この点も会社が永年苦心して達成したところである。これに加え て、徹底した従業員持株制が維持されていて、従業員の大部分が利益配当と高い株価︵会社財産への請求権︶の恩恵にあつ かっているのである。  筆者がマンション・ハウスを訪ねたとき、広報担当重役L・1・スミス氏の秘書のT・B・ロス君臼げ。匿器¢菊。ωωい g。 ヨω冨平坐8夢①竃9昌鋤σqΦ噴一Oo唇。冨δ勺二三8”①隔世ざ口ρは案内役をつとめてくれたが、彼はオナイダの生れでも、コ ミュニティーのメンバーの三代目でもないけれども、会社の主旨に共鳴して大学を出るとすぐに入社した。すべての点で 満足している。特に会社のゴルフ・リンクは楽しみを倍加してくれると語り、さらに、妻もここにくるのに同意してくれ たし、今も喜んでいると附け加えた。

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