哲学新案
著者名(日)
井上 円了
雑誌名
井上円了選集
巻
1
ページ
281-403
発行年
1987-10-26
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002873/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja哲学新案
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1冊
2.サイズ(タテ×ヨコ) 222×153mm 3.ページ 総数:267序文:4
目次:11 本文:252 t、/診M
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和す. ぽ序 砂裳 (巻頭) 明治西十二年十二月五一 明治西十二年十二月九一F野欝鶴
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自
序
わが国ひとたび国禁を解き、泰西の文物を輸入せし以来、ここにすでに四十余回の春秋を送り、国運は眼々と して世界を風靡し、東洋を圧倒するの勢いなるも、わが哲学界の現状は、今なお西人の駿尾に付し、欧米の糟粕 を甘んじ、翻訳受け売りこれ務め、ほとんど未だ一家独立の学説あるを見ざる状態なり。なんぞ意気地なきのは なはだしきや。余不肖かつ浅学といえども、心ひそかに憤慨するところありて、二十年前より独立の見地に立ち て、西人未到の学域に先鞭をつけんと欲し、多年研讃の末、ようやく↓新案を考定するに至れり。すなわち本書 所説の輪化説、因心説、相含説等なり。これ西人未発の新見なりと自ら信ずるところなり。そのうち輪化説の一 端は、先年﹃破唯物論﹄︵明治三十一年二月出版︶中に開陳したりき。そののち更に精究熟思を凝らして今日に至 るも、自信の確固として動かざるを見、今回はからずもその大要を世間に公表するに至れり。ここに多方面より 批評を仰ぎ、なお再考の上、修正を加うる心算なり。 余は近年神経衰弱症にかかり、久しく読書著作を廃し、自ら創立経営せる東洋大学も京北中学も、一時にこれ を退隠し、その療養には旅行の最も効力あるを聞き、全国周遊を思い立ち、およそ十力年間を期し、山隅海諏に 至るまで、隈なく一巡し、至る所御詔勅の聖旨を開達し、精神修養、風俗矯正、社会改良の急務を奨諭すること に決し、爾来南船北馬、朝講夕話、終年ほとんど寧日なき有様なり。しかるに今秋不幸にして慈母を失い、喪中 数旬の間、地方遊説を謝絶し、ひとり幽室に端座し、往事を回想し、母恩を追念するにあまり、余が宇宙観、人 生観を世に発表せんとの志を起こし、倉卒筆をとり、本書を起草するに至れり。時日の足らざるがために、所信 281のままを一気呵成に任せ、記述せるものなれば、考証不十分、論理不精確はもちろん、哲学上の著作としては、 あまり殺風景を極め、一見あたかも柱ありて壁なく、骨ありて肉なきがごとき観あるも、自ら認知するところな り。あるいは恐る、これを一読するものの眼には、空想の骸骨、理想の幽霊のごとく感ぜられんことを。かかる 理想の幽霊、空想の骸骨なるにもかかわらず、諸家の高批明評を賜るを得ば、本著者の大いに栄誉とするところ なり。伏してこいねがわくは↓棒を本書の頭上に加えられんことを。もし余の所望を入れ、その批評を雑誌新聞 等に発表せられたる場合には一本の恵与はあえて望むところにあらざるも、書名号名を一報せらるるあらば、幸 またはなはだし。 余は今後も余命のあらん限り、この方針をもって研究を継続する予定なれば、ここにずさんながら平素の所信 を自白し、哲学上の立脚地を明言し、もって賢明博雅の高教を待たんとす。しかして書中あるいは自ら信ずると ころに熱中のあまり、その言自負にわたり、排他に走り、ために古人先輩に対して敬意を欠けることなしとせず。 これあらかじめその罪を謝するところなり。読者請うこれを了せよ。 282 明治四十二年十月上旬 著 者 誌
第一章緒
論
第一節 学界の現状
哲学新案 一犬虚を吠えて、万犬実を伝え、一鶏農を誤りて、百鶏これに和す。哲学界の現状、またこれに類するあり。 カント氏ひとたび認識を哺きて、諸哲これに雷同し、ダーウィン氏ひとたび進化を歌いて、百科これに応和す。 爾来五十年ないし百年の星霜を経過したるも、未だ一人のその地平線上に、頭角薪然たるを見ず。学界の風物お のずから寂蓼たるを覚ゆ。もしこの二氏をして九泉の下より現今の実況を目撃するを得しめば、必ず後世笑うべ しとの嘆声を発すべきは、実に想するにあまりありというべし。 更に眼軸を東洋の天地に移せば、一層これよりはなはだしきものあるを見る。その国勢の萎微して振るわざる がごとく、思想界の独立心に乏しきは、有識の士だれか一驚を喫せざるを得んや。その言動たるや一も西洋を写 し、二も西洋にならい、三も西洋に擬せんとし、かれ笑えばわれもまた笑い、かれ泣けばわれもまた泣き、一餐、 一笑はもちろん、一挙手一投足に至るまで、夙夜孜々、ただかれのいうところを守り、かれのなすところを学ば んとし、これ日も足らざるがごとき状態なり。したがって哲学界の光景は概して凄風薫雨、満目荒涼の観を呈す、 あに長嘆の至りならずや。 83 2 今やわが帝国は、その兵力よく東亜を風靡し、その皇威遠く北洋を光被し、堂々として独立を太平洋上に聲かし、列国をしてその風を望みて仰嘆せしむるの勢いなれば、いやしくもその国の空気を呼吸し、恩波に浴泳する もの、いずくんぞ黙然として座視するを得んや。必ずやわが済々たる学界の多士は、奮然として立つ、猛然とし て進み、東西の思想界を脾睨するの慨なかるべからず。余や不肖これに加うるに脳力枯痩し、到底その任に当た り難しといえども、ここに痩我慢を張り、いささか独立の見地を撃じ、西人の上に一頭角を抜かんことを試む。 いわんや才学共に余輩に超絶せる諸士においてをや、よろしく感奮一番、手に唾して勇進高呼し、猛虎一声山月 高の壮観を哲学界に現ぜしむべし。これ余がここに愚案を提出して、先進の諸士に訴え、後学の諸子に謀らんと するところなり。 284
第二節 哲学の進歩
哲学には広義狭義の二様の見解あり。そのうち狭義の哲学すなわち純哲学の目的は、各方面より観察を下し、 宇宙の真相を究明開示するにありと解するも、従来の哲学史に徴して、正鵠を失したる定義にあらざるべしと信 ず。しかしてその究明の方法過程につきては、ひとり東洋のみならず、西洋においても、近世数百年間はほとん ど同一の旧路を左旋右回、東去西来するがごとく、局外に立ちてこれをみれば、その果たして進みたるや否を疑 わしむるものあり。ことに最近の哲学のごときは、先輩の旧説にあるいは紅粉を施し、あるいはペンキを塗り、 百方潤色して、一家の新見と装うもの多し、あに笑うべきの至りならずや。 近来日一日より哲学の論歩が、細より細に進み、微より微に入り、人をして哲学は針のごとしと思わしむるほ どなるは、今日の進歩と称すべきも、かくのごときは鶏を割くに縫針を用うるの類にして、微細に偏するの弊を免れず。そのはなはだしきに至りては、針小のことを棒大に吹聴して、自ら得意とする児戯に近きもあり、墳末 の点を仰々しくいい触らして、他を排斥せんとする女性に似たるもありて、宇宙の真相を看破すべき大観の力に 至りては、かえって日衰月退の状あるを見る。あたかも顕微鏡のみを覗きおる人は、近視眼となりて、望遠の視 力を失うと同一般なり。これ今日哲学界に空前斬新の卓見を立つるものなく、東西概して衰運の兆あるゆえんな らんか。
第三節 学海の新航路
ダーウィン氏ひとたび進化説を呼号してより、甲もこれを唱え、乙もこれに和し、靡然として学界を風化する の勢いなりしも、宇宙の初中後を達観しきたらば、即時に進化はただ一の階段に過ぎざるを知るべし。またカン ト氏が認識を立証せし以来、諸家みなその轍をふみ、批判哲学の坂路を上下するにとどまり、更にそれ以外に哲 学の高嶺あるを悟らず。余、浅学菲才なりといえども、ひそかに西洋哲学の未だ論到せざる学域に進入せんと欲 し、積年討尋の末、はるかに瀞荘たる学海の一隅に西人未発の新航路あるを認め、進化竿頭に一歩を進め、認識 城外に前駆を試むるを得たり。これここに﹁哲学新案﹂と題して、この航路の過程を発表するに至るゆえんなり。第四節 観察の方面
哲学新案 いま哲学上宇宙の真相を開示せんとするに当たり、その観察の方面を便宜のため表裏両観に分かち、更にその 祝 表観を内外両観に分かち、更にまた外観を縦観横観に分かち、初めに縦観より論歩を起こさんとす。縦観とは客観の世界を古今にわたりて観察する過程をいう。
余おもえ2従来唯物論唯舗独断派経験派等の互いに相争い・甲論量今日に至るも未だ決勝を見鰯
ざるは、畢寛するにおのおの一方の偏見を固執するによる。唯物も↓方の僻見に過ぎず、唯心も一方の偏説のみ。 唯物唯心等の各方面より観察せる結果をことごとく総合集成して、始めて宇宙の真相を開達し得るなり。あるい はいう、経験を立脚とせざるべからずと。あるいはいう、思想を論礎とせざるべからずと。これみな井蛙の凝見 にして、哲学の本領を知らざるものに外ならず、例えば富士山を観測せんとするに、大宮口よりするもあるべく、 吉田口よりするもあるべく、須走口よりするもあるべし。この各方面の所見を集合して、始めて富岳の真相を知 了するがごとし。これをもって余は多方面の観察を集合せんために、数重の起点を設くるに至る。これを表示す ること左のごとし。第五節 論理の自殺
余が哲学海上に新航路を発見せりというも、その実諸学の報告、諸家の決論を総合集成したるもののみ。これもとより新見にあらず、しかれども従来哲学者が我田引水の弊より、この総合の点に着眼せずして、小径に迷い、 窮谷に陥るがごとき状態なれば、これに対して余は総合的大観を哲学界に放つに至る。 つらつら考うるに、哲学の立脚地を経験の上にとるも、その経験中にすでに物心の両存を予想せざるを得ず、 またその起歩点を思想の上に定むるも、思想自体がすでに経験の結果たるを免れず。しかしてその断案に至りあ るいは物界を拒絶し、あるいは心界を否定するがごときは、己の刀をもって己を刺すがごとく、論理の自殺たる を免れ難し、これあに哲学上真理探究の道ならんや。故に余の総合は、物界も実在せり、心界も現存せりとし、 物心両界を起点として、絶対に向かって進み、その結果絶対の実在を立証し、これと同時に物心両界も現立し、 物心の実在するは絶対の現存するゆえん、絶対の実在するは物心の現存するゆえんの断案に到達し得たり。これ 論理の自殺にあらずして自活なり。
第六節 総合の大観
哲学新案 哲学は総合の学なりとは、先輩すでに主唱しきたり、これまた余の新案にあらざるも、先輩は口に総合を説き ながら、実際は局部の偏見を固執せり。かくのごときは決して哲学を完成する法にあらず。これを家屋を造営す るに例うれば、柱、礎、屋、壁、棟、梁等を総合して、始めて造家を落成すべきに、あるいは柱のみをもって建 てんとし、あるいは壁のみをもって造らんとす。その竣功を見難きは必然なり。故に哲学は名実共に総合の大観 によらざるべからず。 蜥 かく古今の諸説を総合しきたらば、自然に前人未発の点に想到するに至る。しかしてその総合は西洋のみをもって限るべきにあらず。また単に収集するにとどむべからず。必ず東洋の所見をも照合参酌し、練って一薬とな し打っ三丸・なすを要す・余は・の方法によりて・西人の所見の上に先鞭を着けたるを覚ゆ・これ余が自ら捌 許して新見新案と称するゆえんなり。
第七節 哲学科学の異同
哲学には形式と実質との二者あり。余案ずるにその形式は数百年ないし数千年間の研究においてすでに考え尽 くし、ほとんど余地をとどめずというて可なり。もしその実質においては百般の科学より供給を仰がざるべから ず。これにおいて科学は宇宙の一界一域の部位的研究にして、哲学は宇宙の万象万境の総合的研究なるを知るべ し。すなわち科学の結果を集大成するものこれ哲学なり。これを大成して得るところのものは、宇宙全体の真相 真理いかんにあり、その真相真理は決して科学のごとき一界一域の所見をもってうかがい知るべきにあらず、必 ず哲学の総合大成を待たざるべからず。しかるにややもすれば一局部の科学の所見をもって、宇宙の真相を論ぜ んとするあり。これ吾人の五官中の一官のみをもって、物界の真相を判ずるにひとしく、だれかその愚を笑わざ るものあらんや。 科学と哲学︵純︶との別すでに明らかなり。されば両学の今後の関係は、日進の科学より供給しきたる資料を とりて、哲学の内容を充実するに外ならず、哲学の形式すでに一定せり。実質も従来の供給によりて大抵充実し 得たれば、今後の供給によりて多少の修正を加うるに過ぎざるべし。ただし東洋哲学と西洋哲学とはひとり実質 のみならず、その形式もまた大いに異なるところあり。故によくこの二者を総合結成するに至らば、必ず哲学の舞台において、新演劇を開くを得べし。余のごときはただその三番嬰を演ずるのみ。
第一一土早 縦観論
一
第八節 世界の太初
哲学新案 吾人は耳目等の感官を有す。これすなわち心内より身外をうかがうべき唯↓の窓なり。しかしてこの心窓に映 じきたる対境を客観という。この客観界の真相を観察するは、余のいわゆる外観なり。もし客観の太初にさかの ぼり、いかにして世界の開発せしか、いかにして万物の生起せしかを究明するは、縦観にして、目前の世界を解 剖分析し、その体のなにものより成るかを開説するは、横観なり。すなわちこの二観は宇宙外観の二方面なりと 知るべし。 もし吾人が眼を開けば、忽然として森羅の諸象のその前に現立するを見る。海洋の空潤なるあり、山岳の雄大 なるあり、あるいは春草の竿々たるあり。あるいは夏木の森々たるあり、水暖かにして魚躍り、露冷ややかにし て虫吟じ、蝶舞い鳥歌い、犬走り馬いななく間に立ちて、あるいは笑いあるいは泣き、よく歩しよく談じ、任意 に行動し、自由に思慮するものあり、あるいは相集まりて同棲し、あるいは相結びて団居し、家族あり、社会あ 89 2 り、国家あり、これ何人の目にもよく映じきたるところなり。これらの千種万類、千態万状は、ようやくさかのぼりて地球の太古に達すれば、皆無の有様にて、一切の植物 90 も動物も、未だその形を現出せざりしときあるを知るべし。けだし太古にありては、地球のごときも高熱の流体 2 にして、生物はもちろん山川海陸すらも未だ成形するに至らず、いわゆる混沌未分なりしときあり。更にその以 前にさかのぼれば、地球は太陽の中に存し、共に高熱の気体なりしときありという。これより更に遠く世界の太 初にさかのぼれば、日月星辰の未だ全く分立せずして、無限の大虚の中に最も希薄なる気体の浮遊せしことあり、 これを星雲と名付く。この星雲がようやく回転運動を起こし、永き時期の間これを継続し、次第次第に減熱と共 に球体を形成するに至り、またその回転の際、自然に一球が砕けて数球となり、更に分かれて数塊となり、その 極今日のごとき天体の諸象を開現するに至れり。その分化の道理はいちいち物理学器械学の規則によりて説明す るを得という。地球成来ののち、その体より同じ規則によりて月球を分出せり。故に太陽は星雲の子、地球は太 陽の子、月は地球の子にして、一家相集まり、団樂の楽を営みつつあるはわが太陽系なり。すでにして地球の高 熱も永き歳月の間に、漸々冷却して今日の海陸山川の別、草木禽獣の形を分出し、吾人をして天地の美観を楽し ましむるに至る。これすでに実験学の証明せるところなれば、ここに煩わしく細論するの必要を認めず。
第九節 地球の進化
つぎに既成の地球につきて、その成来の歴史を検するに、ある時代より生物の原体を自発し、その体漸々徐々、 派生分来して、今日の千万無量の動物植物となり、人類もその中より分化してきたれりという。これ近世進化論 の証示せるところにして、諸学のひとしく是認するところなり。哲学新案 更に生物初生の当時にさかのぼり、その原体はいかにして発生せしやを考うるに、造物主を想定せざる限りは、 進化のある行程において、地球自体より自然に化生するに至れりと論定せざるを得ず。すなわち無生物の胎内よ り生物を産出せりといわざるべからず。この説に対しては世に多少の異見なきにあらざるも、これを造物有神説 に比するに、いずれに信をおくべきかは、余の判断を下すを待たず。すでに近来はフェヒナー、ヘッケル等の諸 氏のごとき、しきりに宇宙活物論、地球活物論を主唱するに至り、その説は諸学の進歩と共に、学界に歓迎せら るるにあらずや。故に余は詳細の説明は諸家の学説に譲り、人類の感覚も知能も理性も、外観上にありては、み な地球進化の結果に帰せんとす。これ決して自己の憶断にあらず、哲学科学の諸説を総合しきたらば、かく論定 するより外なかるべし。しかして地球および宇宙の内部に、精神状態がいかように起伏せるかは、余が横観論に おいて説明せんと欲するところなり。これを要するに、太初より今日に至るまでの世界の大化は、全く進化の行 程駅路を経由せるものと知るべし。
第十節 進化の将来
古往すでにしかり、今来また無限に向かって進化し、無窮に対して向上すべしとは、諸家の異口同音に唱うる ところなるも、吾人がこの有限なる地球に棲息して、無限の進化を望むは、星界に移住を望むよりもなお難かる べし。いわんや地球の将来の運命が無限の進化を許さざるにおいてをや。物理学および天文学の報ずるところに よるに、地球は幾億万々歳の後には、太陽と衝突して、微塵に破壊し終わるべしといい、地球の熱度もようやく 減却して、月球のごとき冷体に化し去るといい、また太陽その物も次第にその熱を放散し、ついに冷却して光熱 291を失うに至るべしという。果たしてしからば地球の寿命の尽くるときあるは瞭然たり。地球の運命すでにしかり 92 とせば、その周辺に生命を保ちつつある動植人類は、いかで進化を継続するか。地球の滅尽にさきだちて早く絶 2 無に帰すべきは、これまた明々白々、寸毫も疑いをいるる余地なし。人類すでに絶無に帰する以上は、国家社会 の永遠の発展を期するがごときは、みな今人の妄想なり迷信なりと評定せざるべからず。つまりわが地球は進化 極まりて退化することあるは疑いなし。 更にこれを世界の上に考うるに、諸惑星は将来ついに太陽に吸引せられてこれと衝突し、またわが太陽と他の 太陽と同様に衝突し、いずれも微塵に破壊し粉砕し、今日の天体全く滅尽して、地球も太陽も諸星も、太初の渾 然たる状態に帰すべしという。これ世界の退化なり。
第十一節 進化退化
以上述ぶるがごとく、永き将来においてひとり地球のみならず、世界にも退化ありとすれば、今日諸家の喋々 する無限に向かいて進化し、永遠を期して向上する説のごときは、全く一場の迷夢のみ、嘆語のみ。進化をもっ て宇宙の天則なり、大法なりと公言するがごときは、狂人の妄語に近しというべし。すでに今日の実験学が地球 および天体に進化退化あることを吾人に報告しきたれるに、何故に進化のみを取りて、退化を捨つるか。一を許 して他をいれざるか。これただ人類社会を鞭捷する一方便、一政略に出つといわば、余あえて詰問せず。しかる にこれを宇宙の大法天則と断言するに至りては、余輩愚なりといえども、決して黙過するを得ず。たとえ実験学 の報告なきも、有限の地球、有限の世界において、無限の進化、無限の向上を見ることあたわざるは、事理必然哲学新案 の数にして、古来の経験、世間の僅諺、またすでにこれを警告せり。すなわち始めあるものは必ず終わりあり、 生あるものは必ず死あり、盛あるものは必ず衰ありという。これ進化あれば必ず退化あるゆえんを暗示せるもの にあらずや。畢寛するに進化は世界大化の一階段に過ぎず、地球大化の半面のみ、進退両化交互するこそ、ひと り宇宙の大法というべけれ。 地球の破壊、人類の絶滅を説ききたらば、必ず世人をして悲観の淵に投じ、絶望の底に沈ましむべしというも のあらん、実にしかり。これ余が決して故意にかくのごとき言を弄するにあらず。学理の指定するところ、天則 の命令するところなれば、余輩これをいかんともするあたわず。ああ、人生は無常なり、社会国家も無常なり、 天地日月もまた無常なり。その寿これを吾人の五十年ないし百年に比して永遠なるも、一たび必ず絶滅すという に至りては、天地日月といえどもまたたのむに足らず。いわんや子孫をや、国家をや。これを無限の時間に比す れば、みな一瞬一息の境界なり。されば吾人ひとりカゲロウの一生を覆載の間に寓するのみならず、国家社会も 電光のみ、天地日月も朝露のみ、瞬息の間に生じて、瞬息の間に死す、なんぞ春花の嵐に散り、秋草の霜につく るるを見て笑うを得んや。いやしくも六合の間に形体をなすもの、一として朝生暮死ならざるなし。果たしてし からば、一身一家のために営々として働き、国家社会のために汲々として労し、功名を争い富強を競うがごとき も、すべて蝸牛角上の戦い、蝶夢場中の戯れに比すべきのみ。青年の立志は愚の極なり、志士の尽痒も凝の至り ならずや。それしかり、あにそれしからんや。かくのごときはただ宇宙半面の観察のみ、決してその真相を得た るものにあらず。請う、青年よ落胆するなかれ、絶望するなかれ。請う、志士よ悲観は無用なり、厭世は自棄な 93 2 り、奮起せよ猛進せよ。宇宙の内面には慰安の光景を漏らすあり、裏面には別途の消息を伝うるありて、吾人を
して歓天楽地の間に踊躍せしむ。これ余が後に詳述せんと欲するところなり。 294
第三章 縦観論 二
第十二節 世界始終
現今の学説によるに、世界の太初は星雲より起こり、世界の終極もまた星雲に帰すという。その理由は地球が 太陽と衝突するや、破壊の極、運動は変じて熱力となり、天体の諸星が互いに相衝突して、形体の粉砕と共に、 非常の高熱を起こすに至るを見て知るべし。かくして発熱の後は天体ことごとく気体となり、結局再び星雲の状 態を現ずるより外なし。これにおいてこの世界は星雲より出で、ひとたびは進化し、ひとたびは退化して、太初 の星雲に復するなり。 以上の所見はすでに諸学の保証するところなるが、未だ一人の星雲の前にさかのぼりて探究し、星雲の後に降 りて立論するを聞かず。哲学界にはなんぞかかる勇気を有する猛将なきか、余輩をしてその卑怯を怪しましむる のみ。もとよりその前後は実験の手をもって触知すべからずといえども、吾人には肉眼の外に心眼のあるあり。 感覚の顕微鏡にてうかがい知ることあたわざるも、論理の望遠鏡によりて探り見ることを得べし。いわんや今日 すでに界前界後に超越すべき思想の飛行器を諸学の実究の結果より供給せられたるをや。その飛行器を空しく胸哲学新案 底に深蔵して、無用の長物に帰せしむるは、いささか遺憾なきあたわず、余は微力といえども進んでこの応用を 試みんとす。人これを評して哲学上の冒険というもあえて辞せざるところなり。
第十三節 星界の前後
物質は不滅なり、勢力は恒存せり。いかなる変化のその間に起こることあるも、総量は勢力物質共に不増不減、 一定不動なり。これを物質不滅、勢力恒存の理法と称して、近世理化学の実験によりて明らかに証示せられ、何 人もその間に疑いをはさむことを得ず。これと同時に因あれば必ず果あり、果あれば必ず因あり、因果相続して 永久不断なるも、科学の信認するところなるのみならず、この世界におけるすべての実験も論究も、みなこの規 則に基づかざるはなし。これ実に諸学研究の根底をなすものなり。故に物質不滅、勢力恒存、因果永続の三大理 法こそ、星雲の界外へ渡るべき思想の飛行器にして、界前界後へ架すべき論理の橋梁というべけれ。故に界外の 探検は冒険に似て冒険にあらず。おそらくは世に確実安全なること、この飛行器、この橋梁の右に出つるものな かるべし。これ真に万劫不朽、終古不磨の大理法なり。 そもそも物質すでに不滅かつ不増なれば、星雲の前にも同量の物質あり、星雲の後にも同量の物質なかるべか らず。また勢力恒存せる以上は、星雲の前にも同量の勢力あり、星雲の後にも同量の勢力あるべきは必然なり。 しかしてその物質と勢力とは互いに連結抱合して、星雲の前後に変化を永続すべく、その変化は徹頭徹尾因果の 規則に基づくべきことも、以上の理法に照して明らかなり。果たしてしかりとせば、因果永続の推理によりて、 世界の開発するには、必ずその前因なかるべからず、世界の閉合するには、また必ずその後果なかるべからざる 295ゆえんを熟知すべし。これにおいて世界の前にも世界あり、世界の後にも世界あるの理、いよいよ明々白々とな るに至る。すなわち前世界の因が今世界の果をきたし、今世界の因が後世界の果を招き、前因後果の理法が、世 界の大化の起こるゆえんを証明して、一点の疑雲をとどめざるなり。 もし星雲の前に世界なく、星雲の後に世界なしと定めんや、たちまち物質不滅、勢力恒存の理法の破綻をきた し、永遠不朽の大法にあらざるに至るべし。これあに諸学の許すゆえんならんや。西人がこの大法の不朽を信じ ながら、これを星雲の前後に活用するの見識なく勇気なきは、けだし旧来の習慣遺伝により、世界には開端の起 元あり、万物には創造の主神ありとの迷夢が心裏に相続し、今日なお醒覚せざるによるならん。余のごときかか る迷夢を有せざるものにありては、この大法を信ずると同時に、星雲前後に世界あることは、いかに疑わんと欲 するも疑うあたわず、その実在は目前の世界の実在と同様に明瞭なるものと信ずるなり。 296
第十四節 過現来三界
更にさかのぼりて前世界の前を考うるに、これまた同一の推理をもって世界あるを見るべし。また降りて後世 界の後を想するに、同じく世界あるを知るべし。これにおいて世界の前に世界あるのみならず、前世界の前にも 前々世界の前にも世界あり、ないし無限の前に無限の世界あるを推知し、これと同時に無限の後に無限の世界あ るを想見して疑うべからざるに至る。 余はここに前界前々界ないしさかのぼりて無始に達するを総じて過界と称し、後界後々界ないし降りて無終に 至るを総じて来界と名付け、その中間の現今の世界を現界と呼び、一星雲のときより一星雲のときに至るまでの、哲学新案 世界の一開一合を一界紀間といわんとす。しかしてこの過現来三界を一括していうときは、宇宙と称すべし。こ れを要するに宇宙は無始の始より無終の終まで、余がいわゆる三大理法に従い、あるいは進化し退化し、あるい は開発し、閉合し、無数回、星雲状態を出没往返し、過現来三界にわたり、一進退一開合を反覆して際涯なきは、 実にその縦観の真相なり。余はこれを名付けて宇宙の大化、または世界の大化という。思いてここに至れば、だ れが天地に傭仰して無限の感想を起こさざるを得んや。
第十五節 世界輪化説
宇宙は上来述ぶるがごとく、進化退化を無限無窮に反覆し、その一大進化、一大退化をもって一世界の大化を 完了するなり。すなわち一界紀は星雲より進化して天地万象を開現し、ようやく退化してこれを閉合し、ついに 星雲に帰するに至る。果たしてしからば宇宙の大法は、進化にあらず退化にあらず、輪化なりといわざるを得ず。 あたかも地球の旋転するがごとく、車輪の回転するがごとく、世界は縦に古今にわたりて輪転するなり。この所 見を名付けて輪化説というべし。いやしくも物質勢力の不滅を信ずるものは、この輪化説の確実なるを疑うべけ んや。これ余が固くとり深く信ずるところなり。しかるにダーウィン氏は進化あるを知りて退化あるを知らず、 スペンサー氏は進化退化あるを説くも、輪化の宇宙の大法たるを説かず。故に余は冒頭にダーウィン氏一たび農 を誤りて、百家これに和すと題したるなり。 およそ物横にまろやかなれば、縦にもまろやかなるものか。地球のごとき天体のごときは横にまろやかなるも のなり、世界の輪化は縦にまろやかなるものなり。その形、球円なるが故に、地球のいずれの点より歩を起こし、 297前に進むも後に向かうも、無限の時日を経て進行を継続し、無数回の周行を重ぬるも、決してその終極の点に達 98 せざるがごとく、世界の大化もこれと同じく、前にさかのぼるも後に降るも、決してその開端にもその終局にも 2 達すべからず、実に輪転無窮なり。宇宙の広大にしてかつ玄妙なること、あに仰嘆せざるを得んや。
第十六節 大小の波動
人あるいは世界の一進一退の波動は事実なりとするも、前界より現界の進化の度、一段高く、現界より後界は 更に一階高く、前波は後波よりも漸々向上し、過現来三界にわたりて一界紀の大化ごとに、一段一階ずつ上行昇 進するものと考えきたらば、宇宙の大法は進化なりというを得べしと論ずるあらん。しかれども物質不滅、勢力 恒存の理法を論礎として推究するときは、到底無限に向かいて進化するの理を発見するあたわず。もとより一局 部にありては、前界の進化の度より現界の方、一段高く、現界よりも更に後界の方、一階高きことあるべきも、 これと同時に他局部においては、一段一階ずつ低きことあるべきをもって、全体を進化とも退化とも、一方に偏 定することあたわざるべし。 また人ありて各部共に毎界同一の状態を反覆するやと問うことあらんに、因果の理法により推測するときは、 毎界各部の変動が過現来にわたりて寸分の差異なき同一の状態を繰り返すべからざるは勢いの免れ難きところな り。前界の因によりて現界の果を招き、現界の因に応じて後界の果をきたす以上は、その因一様ならざる限り、 果もまた異ならざるを得ず。しかして宇宙は静止体にあらずして活動体なれば、毎界各部において同一の因を養 成し難きは明らかなり。故に過現来三界にわたり、毎界紀間における部位の小波動には、高低大小の差あるべきも、全界の諸波動を統計通算して大観を下すときは、進化にもあらず、退化にもあらず。星雲より出でて星雲に 帰るの前後、および前々後々、その変化の状態、千編一律ならざる中に、輪化を反覆して際涯なしと論定せざる べからず。 更に以上の所論を宇宙の理法に照合するに、物質勢力共にその量一定不変なりとの規程は、毎界紀間の変化の 状、波動の形、もとより一様ならざるも、その凹凸出没を通測するにおいては、平行なり輪化なりとの道理を証 明するものなり。もしこれに反して世界はますます進化し、その窮極するところを知らずと想定せんか、しかる ときはこれと同一の権利をもって、世界は大化することにいよいよ退化すべしと主唱するを得ん。故にこの両極 の中間に立ちて、双方の中庸をとらば、余のいわゆる輪化説に帰結するより外なし。これを要するに輪化説は、 一界紀ごとに進化するというがごとき説に比するに、はるかに妥当にして健全なること明らかなり。これ余が無 限進化説をとらずして、無窮輪化説を立つるゆえんなりと知るべし。
第四章 縦観論 三
哲学新案第十七節 千古の疑団
この過現来三界説と輪化無窮説とは、従来宇宙の謎、造化の秘として解明しあたわざる難問を容易に会通する 299を得べし。例えば運動の開端のごとき、生物の起源のごとき、精神の本源のごとき、先天性先在性の由来のごと き、異説百端、論波沿々、未だいずれの岸に帰着するを知らざるがごとき有様なり。これにおいて造物主宰の旧 夢を回想するものあり、一神独裁の圧制を復活せんとするものあり。その懐旧の情はいささか一欄↓笑に値する も、もし余の所見をもってこれを照しきたらば、春風の堅氷を解くがごとく、千古の疑団もたちどころに氷解し、 大石の小卵を圧するがごとく、久結の迷信も一時に粉砕するに至るべし。
第十八節 宇宙の活動
この問題を解決するに当たりては、まず宇宙の活物なるゆえんを説明するを要す。古代は一般に宇宙死物論を とりしも、今日はその論すでに昔時の妄想となり、百科の諸学の供給する材料を総合しきたらば、宇宙活物論を 唱えざるを得ざるなり。故をもって学者多くかの旧説の垢衣を脱して、この新調の春服を着くるに至る。余もま た帰するところ活物論者の一人なり。例えばここに一粒の籾米あり、これを櫃底に蔵すること数年の久しきに及 ぶ。児童見て必ず死米なりといわん。もしその死米を取りて地に投じ、雨露日光のこれに触るるあらば、必ず生 気を発して萌芽を生ずるを見ん。児童おもえらく、死物中より生気を偶発せりと。わが棲息する地球もこれにひ としく、一見死物なるがごときも、ひとたび生物を生ずべき事情に会すれば、必ずその中より生気を外発すべし、 その生気は偶然特発せるがごときも、決して死物中より偶発する理なく、また他より注入せらるるはずなく、つ まりその体内に包有せるものならざるべからず。この理を推しきたらば、ひとり地球のみならず宇宙自体の活物 なるを知るべし。そのしかるゆえんは、請う余が順次を追って述明するところを見よ。 300哲学新案 宇宙すでに活物と定まれば、世界の一進一退、一開一合するは、その体に固有せる活動の力によること論を待 たず。もし世界の太初にさかのぼり、いかにして星雲の中に運動を生起せしやといわば、前界の運動の継続なる こと明らかなり。ただその前後、潜勢顕勢の事情を異にするのみ。すなわち星雲の初めは前界の運動の潜伏する ときにして、ようやく開発するに及び、その潜力が次第に顕力となり、新たに世界万有を構成するに至るなり。 また因果永続の道理に考うるに、前界の因が現界の果を起こす以上は、本年の四時の気候が前年の気候を反覆し、 暖より暑に移り、暑より冷に向かうの順序をとるがごとく、前界が星雲の中より運動を起こし、次第に開発しき たれる順序を現界において反覆すべきは、必然の常理なるべし。けだし前界のひとたび退化閉合して、その極、 星雲の状態に帰するや、従来万象を開発せる勢力が、ことごとく星雲胎内に包蔵せられしは疑いなし。かくして 更に現界を開発するに当たり、その内包の勢力が漸々外発して、星雲中に再び運動を自生自発するに至りしはま た瞭然たり。換言すれば内包せるものの外発しつつある間は、開発の時代にして、外発せるものが内包せらるる に至るは、閉合の時代なり。これによって内包外発、潜勢顕勢、交互代謝して、一界紀間の大化を現ずるを知る べし。
第十九節 世界の習慣遺伝性
物理の原則の示すところによるに、同量の勢力があるいは運動となり、あるいは熱力となり、運動やみて熱力 を起こし、熱力減じて運動を増するという。果たしてしからば前界の星雲は、一界紀問の運動の次第に休止して 皿 熱力に変現せしときなり。つぎに現界の開発が星雲より漸起せしは、熱力次第に減退して運動を催進せるによる。しかしてかく熱力と運動とが交互に増減生滅するは、世界自然の状勢なりとするも、その実前界において経過せ る行程を反覆するものにあらずしてなんぞや。これを世界大化の習慣性と名付く。 この習慣性を知らんと欲せば、請う天体の運行を見よ。昼夜四時の循環が永遠の間、規律を違わず、反覆継続 するは、全く天体運行の怠力、すなわち習慣性の存するによる。これと同じくこの世界が無始の始より無終の終 まで、一進一退、一開一合を循環交替、反覆永続するも、世界大化の怠力、すなわち習慣性によること明らかな り。もしまた宇宙を一活物、世界を一生物と見るときは、その習慣はすなわち遺伝なり。この習慣性すなわち遺 伝性によりて、星雲胎内より次第に運動を催起し、前界紀間の大化を反覆するは、宇宙の大法のしからしむると ころと知るべし。
第二十節 生物の起源
つぎに生物はいかにして生起せしかも、同]の道理をもって説明するを得、植物と動物との間に判然たる分界 を立つることあたわざるがごとく、生物と無生物との間にも、その発生が最低より漸々徐々最高に及ぼせる順路 をとり、最低の生物に至りては、ほとんど無生物と弁別しあたわざるほどに二者の接近するを見る。すべて世界 万有そのものには、画然たる分界、または判然たる起点を有するにあらず。あたかも四時の次第に移りて、春夏 寒暖の分界の判明せざるがごとし。しかしてその種々の類別分段を設くるは、人為の仮定に過ぎず。故をもって 地球進化の力が、ある時代において無生物中より生物を漸生自発せるに相違なかるべしとは、学界の各隅におけ る最近の報告なり、消息なり。 302かくして近来生物と無生物との懸隔ようやく近づき、判然たる分界の立て難きを見るに及び、一切の元素に精 神あり、個々の元子に意識ありとの説を喚起するに至り、地球および宇宙の活物説を唱うる論者は曰く、だれか いう地球は死物なりと、またいう耳目なく精神なしと。人類はすなわち地球の感官にして、耳あり目あり、精神 あり、意識あるにあらずや。この理を宇宙の上に移せば、吾人は宇宙の感官なり、意識なりと主唱するに至る。 その論やや極端に偏するがごときも、この世界以外、造物主宰の実在を立てざる限りは、一切の生物の本源は、 世界の自体より自発せりと論定するより外なきは明らかなり。余が籾米の一例を示ししごとく、今日までは吾人 の知見が幼稚にして、児童が籾米を死物視せると同様の状態にありしが、今やその知見が進んで内部に生気を包 蔵せるの理を発見するに至れるなり。 この生物が地球の内部より発生するや、その時期のおのずから定まれるありて、いつにても発生するにあらざ る理由は地球進化の行程の事情によるは明らかなりといえども、その説明は到底前界の習慣遺伝を考証するにあ らざれば、人をして明らかに了解せしむること難し。これ余が逐次述べんとするところなり。
第二十一節 一神教と汎神教
哲学新案 従来進化論のために大打撃を受けたる一神教の創造論が、わずかに生物起源の一点において、学界に命脈を持 続しつつありしが、今日は世界活物論の起こるに及び、薬石その効を奏せず、ついに絶命のやむをえざるに至れ り。これと同時に世界その物すなわち神なりといえる汎神教が、学界に紹介せらるるに至れり。これを例うるに 蹴 古来学界が一神教と結婚して、久しく同棲せしも、唯物的進化論の賛否のために、図らずも両者の間に不和を起こし、争論を醸し、それ結局学界は一神教に離縁を命ずるに至り、その後妻に汎神教を迎うる場合となりたるが ごとし。これにおいて一神教は我を折り節を屈して、復縁をもとめつつあるも、学界の方は到底永く同棲すべか らざるを知り、固く執りてその請をいれざるは近時の実況なり。しかるに学界の多数なる家族中には、旧情の忘 れ難きために余恋をとどめ、生命、精神、意識の根元のごとき、進化学者の説明に苦しむ難問に会することに、 なお一神教を迎えんとする傾向あるも、また実に今日の内情なるもののごとし。 これらの難問は、最近の宇宙活物論にて一応会通することを得るも、なお根底より疑団を氷釈すること難し。 しかるに余の前界遺伝説の鏡をもって照見しきたらば、かかる難問はたちまち青天白日に会し、一点の迷雲をと どめざるに至るは必然なり。これ学界より一神教を離縁するのみならず、哲学の理刀をもってその首を断じ得た りというべし。
第二十二節 生物開発の順序
すでにこの世界を一大活物と見るときは、ひとり現界のみならず、前界も同じく活物、前々界も同じく活物に して、過現来三界を通じ、大活物が浮沈出没して、際涯なく継続せるを知るべし。これを動物、人類に比すれば、 現界は前界の子にして、前界は前々界の子と見るを得べし。またこれを植物に比すれば、前々界の種子が発生し て前界の花を開き、前界の種子が更に育成して現界の実を結ぶと解するも可なり。しかるときは星雲は世界の胎 児、または種子とみるべし。かく考えきたらば、その間に習慣性すなわち遺伝性を継続すべきの理は、一層明ら かに了解するを得るならん。 304哲学新案 草木の種子も人獣の胎児も、みなその親の過程を追い、およそ何日幾年を経れば、萌芽枝葉を生じ、手足鼻口 を生じ、言語知識を生ずるの期程あるがごとく、世界の発育にも前界の過程を追い、一界紀間の何々の時代に生 物の芽を生じ、感覚の枝を発し、知識の花を開くの遺伝性あるを見る。故に前界紀間の過程の星雲中に内包せら るるは、種子胎児の体内に親の遺伝性を包有せらるると同一なるを知るべし。
第二十三節 意識理想の本源
この理をもってひとり生物の起源のみならず、人類の特有と唱えられし意識理想の本源も、説明し尽くすを得 べし。けだし草木中春時に開くべき花をして、夏時に開かしむるあたわず、また秋季に開くべき花をして、春季 に開かしむるあたわず、気候循環してその時期に達すれば、自然に開花を見る。例えば梅花の春時における、菊 花の秋季におけるがごとし。これと同様に精神の花たるべき意識、理想のごときは、地球進化の行程がこれに相 応する時期に達せざれば、たとえその力を内包せるも、外部に向かいて開発することあたわず。草木がおのおの 開花期を有して、年々その期を誤らざると同じく、世界にも開人期ありて、ひとりこの地球に限らず、すべての 星界において、大化の行程が正しくその期に達すれば、意識の花を開き、理想の色を現ずべき理なり。しかして これみな前界の遺伝ならざるはなし。見よ今日は動植人類の他の星界にも存在すべきを予想して疑わざるに至れ るを。これまた余の輪化遺伝説を助くる一資料となれり。 305第五章縦観論 四
306第二十四節 応化遺伝の分類
進化学者の一般に唱うるところによるに、今日の人獣がその胎児成形の始めより漸次発育する順序は、生物進 化の行程を最急の速力をもって経過するものなり。すなわち長年月の進化の形跡を最短時間をもって繰り返すも のなり。故に胎児発育の状態を見て、生物進化の過程を知るを得べしという。これ生物進化の経過を吾人の一代 中に遺伝しきたるものなり。しかるにもしこの世界すなわち現界は、前界の経過を遺伝しきたるものとするとき は、従来進化説にて唱道せる応化および遺伝を左表のごとく改正せざるべからず。応化とは外界の事情に順応し て自体に変化を起こすをいう。応化蕪∵伝癬
従来は個体種族の応化遺伝を説きしも、すでに星雲の前後に世界あるを知るに至りては、更に世界的応化遺伝 を加うるの当然なるを知るべし。今、個体の遺伝状態を見て、種類進化の経過を知ることを得るときは、更にこ れを延長して、世界大化の行程をも推知し得べき理ならずや。吾人は世界の子にして、世界は吾人の父母なり。これと同時に現界は前界の子にして、前界は現界の父母なる理なれば、現界の状態に照して、界前界後の実況を 見ることを得るはもちろん、吾人の一生、生物の一代に考えても、界前界後を推測するを得べし。故に過界無限 間の経過を生物の一個体に遺伝しきたれりというも、あえて無根の空想ならざるを信ず。
第二十五節 潜因顕因
哲学新案 吾人もし目前の現状を見、さかのぼりて世界の大化を考え、更に前界開発の過程を案ずるに、すでにわが地球 が、生物なき状態より生物を開現しきたれるは、地球自体に生活の原力を内包せるがごとく、太古の星雲中にも、 生活、精神、意識等を内包せりと断定せざるを得ず。これと同時に前界の星雲中にも、同様の内因を包有せるこ とを推測するに足る。 宇宙は有機的組織を有し、縦横にわたりて統一せられたる完体にして、その中より一塵一分子を除き去るも、 全組織の破壊を見るに至るべしとは、諸学の一般に唱うるところなり。しかしてその間に種々の変化を現出する は、一として偶生偶発なるはなく、みな物質と勢力との関係上、因果の大法に従って、秩序を追い漸生漸発せる こと、これまた何人も疑うあたわず。今にわかに物質分子を集めて、生物を造り出さんとするの不可能なるも、 この道理あるに基づく。ただ勢力と物質との関係状態の潜伏せるときと、開顕せるときあれば、吾人の経験にて 明らかに原因を知了するを得ざる場合多し。いま仮にその潜伏状態における原因を潜因と名づけ、開顕状態にお ける原因を顕因と名付くべし。 細 今日胎生学の報ずるところによるに、動物人類の初胎のときにありては、全く同一にして、なんらの差異を見ず。漸々発育するに従い、次第に異同を生ずるに至るという。これすなわち初めに潜因の状態にありしものが、 08 漸々に顕因となるものなり。世界もこれと同じく、星雲の胎内に今日の一切万類、すなわち生物も無生物も共に 3 包有せらるるも、その当時は潜因の場合なれば、なんらの差別現象を見ることを得ざるのみ。しかるにその潜因 が発顕して、今日の万類万境を開示するに至りしを知らば、更に因果永続の理法により、星雲前にさかのぼりて、 同一の顕因あることを知るも、決して難事にあらざるなり。 これを要するに物質不滅、勢力恒存、因果永続の三大理法を根拠とし、現界目前の状態より推測して、界前界 後を観察しきたらば、電灯をもって暗夜を照し見るよりも、明々白々なり。故に余はこれを大にしては、現界は 実に前界を照す暗夜の灯台にして、後界を示す霧海の磁針なり。これを小にしては、個々の動物も植物も吾人も、 界前界後を照示する小灯台、小磁針なりといわんとす。
第二十六節 前界の人類社会
かく推究考察するときは、前界において地球の分化もあり、生物の開現もあり、人類の発生もありしを見るこ とを得、更に進んで細思精慮すれば、前界にも人類相合して社会を組織し、国家を設置せしを知るべく、今日の 現状実況を前界において一度開現せしを知るに足る。果たしてしからば吾人も今日始めて世界に生まれたるにあ らず、すでに前界において出現せしを想定するを得べし。これに至りてますます世界大化の高妙なると、吾人生 命の無窮なるとに驚嘆感動せざるべけんや。 進化学者曰く、吾人の卵はその直径わずかに一分の十五分の一に過ぎざるも、その中に祖先以来の遺伝性を包有すと。余はこれに対してかくのごとき微小なる卵中に、現界のみならず、過界無始の始より伝えきたれる遺伝 性を包有せりといわんとす。実に宇宙の幽玄不可思議なることいよいよ出でて、いよいよ妙なるにあらずや。も し果たして吾人の現在の一生あるを見て、前界を推想し得べしとなさば、なんぞ知らん、前界において日本帝国 も、井上円了もひとたび現存せしことあるを。たとえその名その形は現界と大いに異なるにもせよ、これに相当 せるものの、ひとたび前界に出現せしは想するに余りあり。例えば昨年開きたる蕊礎に、今年再び花を開かば、 その体質は外界より新たに吸収せるにもせよ、その花神花因は昨年の再生再現なりと想定するを得るがごとし。 これもとより実験をもって立証すべからざれば、ただ余は世界輪化、因果永続の理を追究して、かく自信するも のなり。故に人これを空想と呼ぶも、しばらくその評に一任すべし。
第二十七節 現界と前界との異同
哲学新案 現界は前界の経過を反覆したるものにして、現界の天地、山川、動植等の現状を見て、前界にもこれと同様の 万象を開現せるときありしを知るとするときは、その両界の万象は同一の形状を反覆するかというに、決してし からず。さきに第十六節において一言せしがごとく、すべて原因異なれば、結果また異なるべき道理にして、前 界と現界とはその内外の因、異ならざるを得ず。さればその開発の果においても、多少の異同あるべきは勢いの 免れ難きところなり。 かくして現界の因は前界において定まり、前界の因は前々界において定まるうちに、各界紀間の内外万般の事 09 3 情が集合して、次界の因となり、果となる以上は、到底寸分も違わざる同一の状態を反覆することあたわざるべし。その有様はあたかも子の形体性質と親の形体性質とが寸分も違わざるを得ざるがごとく、あるいは昨年の気 10 候と今年の気候とが決して同一ならざるがごとく、必然の理数なり。ただ大体において同一の状態を反覆するの 3 みなるべし。
第二十八節後界の状態
今すでに前界の状態を知れば、これを推して前々界の状態を照見すべく、更にさかのぼりて過界、輪化無限の 実況をも想定し得べし。これと同時に後界後々界ないし来界、輪化無限の真相をも予知し得べし。現界大化の諸 因が相合して、後界開発の果をきたし、現界と大同小異の状態を反覆する道理なれば、後界にも天地万物を開現 し、動植人類をも生起すべきは必然なり。すなわち知る後界にも地球あり、吾人あり、社会あり、国家あるべき を。ただしその有様が現界と多少の相違あるは前界と現界との異同あるに考えて察知するを得べし。果たしてし からば日本帝国も井上円了も、その名その形を異にせるにもかかわらず、後界に再生再現することを自信せざる を得ざるに至る。この理を推しきたらば、後々界ないし無限の来界の状態いかんも、予知するに足る。故に国家 および吾人の生命は来界無限の輪化の間に反覆無数、出没起伏すべきは、実に想像するに余りありというべし。 これにおいて吾人の一生の無始の始より無終の終まで、輪化の波間に流転しつつ、永続不滅なるを知る。ああ、 また最大快事ならずや。哲学新案
第二十九節 不朽の書籍
現界より相伝えて後界に継続すべきものは、日月にもあらず、地球にもあらず、山川、草木、動植はいうに及 ばず、これらはみな現界の退化の極、星雲に化するまでにことごとくみな破壊絶滅すべし、ただ物質と勢力との 二元、および因果の一則だけが、後界後々界を経、無限の輪化を反覆して、来界無限の終まで永続すべきのみ。 されば吾人と後界との連絡は、形体をもって伝うべからず、事業をもってつなぐべからず。国家も社会も絶望な り、書籍も石碑も無効なり、ただ吾人の一言一思、一挙一動が、宇宙活動の勢力の中に薫習して、一種の因力を 助成し、その力が星雲の中に包有せられて、潜因となり、後界開発の際に、再び成熟してその果を開くに至るの み。これ現界より後界に伝達すべき唯一の電線なり、無二の郵信なり。故に吾人の一挙一動は、後界を造出する 一因に加わるものと知るべし。 退きて考うるに、吾人はただこの一点において、わずかに一道の光明をはるかに後界の彼岸を望みて認むるを 得たり。換言すれば、因果の紙面に吾人の言行の筆墨をもって記載したるもののみが、真に不朽の書籍にして、 ひとり後界に伝達し得るなり。その他の計画はすべて水泡のごとく、徒労に属す。しかしこの一道の光明が、道 徳の前路を照す一穂の灯光となり、この一片の消息が、吾人に慰安を与うる一条の泉源となることは、後に至り て述ぶべし。 311第三十節 吾人再生の年月
吾人の現界における一生は、後界に至りて再現し、更に後々界より無限の来界に及ぼし、出没無数回なりとい うも、その間の年月は幾億万々歳なるを知らず、ほとんど想像しあたわざるほどなり。もししかりとせば、吾人 がこの世においてひとたび死し去り、後界の再生を待つは、永久の死を信ずるとなんぞえらばん。これまた絶望 の至りならずやと疑問を提出する人あるべし。しかれども時間の長短、空間の広狭は、すべて比較的にして、吾 人はカゲロウの一生を瞬息の一生と知り、細虫の一身を微塵の一身と見るも、無限長の世界に比すれば、吾人の 一生ははるかに瞬息よりも短く、無限大の宇宙より照せば、吾人の一身は必ず微塵よりも小なるを悟了すべし。 井底の蛙は大海の潤大なるを想し難く、腹中の虫は天界の高遠なるを知るべからず。これに反して吾人は寄生虫 の胎内に無数の微細虫ありとするも、その状態を観察するを得ず、これみな比較上の沙汰なり。故に吾人が永久 と思う年月も、無限長の宇宙の寿命より照しきたらば、これまた↓瞬一息に過ぎざるべし。 およそ吾人の推測は、とかく人間本位にして、この五尺ないし六尺の身体を標準とし、五十年ないし百年の寿 命を基壮として判断するをもって、永久の事、絶大の物を明知し難きのみ。もし宇宙を本位として考うるときは、 現界と後界との間に連続する年月のごとき、これあたかも一夜の長短にひとしかるべし。かつまた吾人が眠息し て無意識の状態にあるときは、一時間も一日も二日もその差を覚えず。もしひとたび死して真の眠息の状態に入 るときは、一年も百年もないし千万億年も更にその長短を感ずべき理なし。故に吾人が死して現界に永訣を告ぐ るときは、長き一夜を眠る心地にて、安息して可なり。しかして他日両眼を開きたる場合には、後界の天地のぞ 312の前に開現することを予期するにおいては、なんぞ絶望するに足らんや。もしそれ後界を待たず、現界において も吾人の再生復活ありとの説のごときは別問題にして、余が後にそのこともあわせて論明せんと欲するところな り。
第三十一節 無開端無終極
哲学新案 上来述べたるがごとく、世界は無始の始より無終の終まで大化を反覆するものと定むれば、必ずその無始の始 において、開端の起点なかるべからずと尋問する人あるべきも、これ無意味の疑難なり。なんとなれば、すでに 無始といい、無終といい、無限という以上は、もとより開端の起点あるべき理なし、開端なきと共に終極もなき 理なり。ただ宇宙の自体が物質、勢力、因果を具有して、始もなく終もなく、無限より無限に向かいて輪化する ことあるのみ。実際始なきものに、強いて始あらしめんとするの必要はいずれに存するか。ただしこの物質と勢 力と因果との関係いかんに至りては、横観の問題に属するをもって、次章に入りて詳述すべし。 縦観の所見はここに至りて大略述べ尽くしたり。さればその要点を再約するに、宇宙の真相を世界の古今にわ たりて縦観しきたり、現界の前後に無数の世界ありて、進化退化、開発閉合を反覆し、無始より無終まで、無限 の輪化を継続するを知り、過現来三界、輪化無窮というに外ならざるなり。もしまた一界紀間の大進化大退化の 間に、無数の小進化小退化あり、社会の盛衰、吾人の死生、草木の栄枯、山河の成壊等の一進一退あり。また一 草一木を組成せる細胞にも、一進一退ありて、輪回反覆窮りなきを知らば、輪化中に輪化ありて、重々無尽なる 13 3 を見るべし。これを輪化無窮、重々無尽といわんのみ。これ縦観の真相なり。第六章横観論
一
314第三十二節 横観の目的
縦に宇宙を大観して、過現来三界、輪化無窮なることを説明し終わり、更に横に大観するときは、ここに物心 両界の対立並存するを見る。すなわち眼を開きて前に現ずるものは物的現象にして、眼を閉じて内に感ずるもの は心的現象なり。物象の現立せる境域を客観界、または外界、または物界と名付け、心象の連起する境域を主観 界、または内界、または心界と名付く。しかして物界にも千種万類あり、心界にも千態万状あり、その両界のな にものたる、およびその両象の関係いかんを論究するを横観の目的となす。 古来この物心相関を究明するに、唯物論、唯心論、もしくは経験論、独断論等の論争ありて、その各派の間は 犬猿もただならざる有様なるも、これさきに緒論中に一言せるごとく、余をもってこれをみるに、あまり自己の 立脚地に固執する結果なり。すべて経験も認識も、物心相関を離れて成立することあたわず、物心両象の間、い ずれの一方を起点とするも、二者相待たざるを得ざるは明々白々なり。されば唯物論も一理あり、唯心論も一理 あり、経験論も一長あり、独断論も一長あり。故に物心両界、主客両観より観察したる結果を総合して、宇宙の 真相を開説せざるべからずとは余の意見なり。第三十三節 物質の分析
物心両界のうち、まず物界を大観するに、天には日星あり、地には山海あり、あるいは土石草木あり、あるい は鳥獣魚虫あり。その種類千万無量なるが、この万象の開発生起せるゆえんは、すでに縦観論において説明し尽 くせり。ただここにこれらの物質はなにものなるやにつきて、余の意見を述ぶべし。 すべて物質は有機と無機とを問わず、その分析の極、必ず微分子より成るを知る。微分子は化学のいわゆる元 素なり。しかしてこの元素はなにものなるや。あるいはいう、元素の元素ありと。余はこれを仮に元子と名付く べし。あるいはいう、数十種の元素は単純の元子より成ると。その説未だ実験にて明示せられたるにあらず。た とえその実在を許すも、更に元子はなにものなるやの問起こるは必然なり。かくのごとく進みきたらば、けだし 帰極するところなかるべし。故に余はまず物質の問題を元素にとどめ、元素は分析の極と仮定して説明を試みん とす。第三十四節 元素の真相
哲学新案 元素は形体を有するや、無形体なるや。もし形体あるものとすれば、更に分析分割するを得べき理なり。もし 形体なきものとすれば、元素相集まりて形体を生ずるはいかん。無より有を生ずるの理あるべからず。この間に 対して余は元素は有形にして、同時に無形なりといわんとす。 15 3 すでに元素は物質最小の極にして、また分析すべからずという以上は、必ず無形ならざるべからず。しかしてその元素相集まりて形体を生じ、元素は有形の基吐なりとするときは、必ず有形なるべき理なり。すなわち元素 は無形なるが故に更に分析するあたわず、有形なるが故に、諸形これより起こる。しかしてその体一なりという 以上は、有形にして同時に無形、有形無形を兼有せる最小体と定めざるべからず。もしこの点より外に一歩を進 めれば、単有形となり、内に一歩を進めれば、単無形となり、有形無形のよって分かるる最小極点なりと解して 可なり。けだしこの外に解説する道なからん。しかるに吾人は一方の所見のみをもって、終局まで論じ究めんと する癖ありて、それがために論理の衝突を起こし、窮谷に陥るに至る。これを例うるに物質は有形なるが故に、 その分析の極たる元素も有形ならざるべからずとの見解を固執するは、地球の表面に東西南北の方位ある以上は、 南極北極にも必ず同様の方位あるべしと主唱するに同じ。すなわち元素は物質の極位なり。余おもえらく有形の 一方をとるも不可なり、無形の一方をとるも不可なり、よろしく双方を総合しきたり、物質最小の極は有形と無形と 相分かるる微妙の点にして、吾人の思想も想像もここに至りてその力を失うほどの妙処なることを自得すべし。 今ここに元素は有形無形を兼有すといえば、一体両面なるか。すなわち一体の表に有形の面を具し、裏に無形 の面を有すと見るべきかと問うものあらんに、余これに対してしからずと答うべし。その故は一体両面の考案は、 死物的静止の状態を示すものにして、活物的活動の有様をあらわすものにあらず。しかるに元素は活動せる活物 なり、地球も活物、宇宙も活物にして、共に活動作用を有する以上は、元素もとより活物ならざるべからず。ま た一体両面説は単純の関係を示すのみにて、複雑せる状態をあらわすに足らず。故に余は元素を解して無形中に 有形を含み、有形中に無形を含む。すなわち有形無形の相含となす。換言すれば物質性、非物質性の相含なり。 もしその非物質性を勢力とすれば、物質と勢力との相含となる。これを余は物力相含説と名付く。 316
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