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Vol.39 , No.2(1991)075久保田 力「マナ識と『楞伽経』」

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Academic year: 2021

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印度學佛教學研究第39巻第2號 平成3年3月 マ ナ 識 と 「娚 伽 経 」 久 保 田 力 『樗伽 経 』に は 第 七 マ ナ 識 は 説 か れ て い な い, あ る い は 甚 だ 不 明 瞭 な 説 か れ 方 し か さ れ て い な い, と い うの が 中 国 の 地 論 宗 系 の 学 者 も含 め て 従 来 ま で の 一 般 的 な 見 方 で あ る1)。 次 下 に 取 り上 げ る 二 節 は, そ の 定 説 に 疑 義 を 挟 む 一 典 拠 を 検 討 す る も の で あ る。 紙 数 の 都 合 上, 問 題 の 極 く 一 端 に 触 れ 得 た の み で, 要 約 的 論 述 と な ら ざ る を え な い 部 分 が 多 く な っ て し ま っ た こ と を 御 寛 恕 願 う。 既 に 少 し 論 じ た 如 く,『樗 伽 経 』が マ ナ 識 問 題 に 貢 献 で き る 最 も 重 要 な 点 の 一 つ に, マ ナ ス を 「道化 」(vidusa) と 規 定 し た こ と が あ げ ら れ る2)。 こ の 道 化=ト リ ッ ク ス タ ー 的 視 点 を 基 に 経 中 の マ ナ ス を 検 討 し て み る と, む し ろ か な り 明 瞭 に そ の 「曖昧 さ 」の 姿 が 見 え て く る よ う にご思 わ れ る の で あ る。 ま ず, 経 中 の 偶 順 の 記 述 だ け か ら で も 次 の よ う な 要 約 が で き る こ とを 述 べ て お か ね ぽ な ら な い。 「マナ ス は, ア ー ラ ヤ識 を 因 と して 生 じ (210, 269, 870), そ れ を 対 象 と し て (210) 道 化 の 如 く (433) そ れ を 我 ・我 所 と して (645) 常 に思 量 し (102, 400, 461) 作 動 し (94, 103, cf. 208, 646), 業 や 輪 廻 の 因 を 作 る (712, 390) 染 汚 の 作 者 で あ り, 習 気 の そ そ ぎ 手 で あ る (216, cf. 884 etc.)。」<番 号 は Sagathaka(S)> こ の よ うな マ ナ ス は, も は や ア ビ ダ ル マ の 無 間 滅 の 意 の 性 格 か ら逸 脱 し て い る と 言 わ ざ る を 得 な い。 そ し て, 道 化 的 両 義 性 を 帯 び た マ ナ ス を 念 頭 にご 置 く 限 り, 『樗伽 経 』の 次 の 謎 め い た 小 節 (Nanjio ed. pp. 126, 66∼127, 413) の 意 味 も 何 とか 読 解 で き る と 思 わ れ る3)。 そ こ で は, 世 尊 冒 頭 の 言 に よ り外 教 の 四 種 の 浬 薬 が 斥 け ら れ,「わ が 教 説 で は 分 別 た る 意 識 の (vikalpakasya manovijnanasya) の 滅 が 浬 架 で あ る 」と 告 げ ら れ る。 マ ハ ー マ テ ィ は そ れ に 対 し,「八 識 (astau vijnanani) が 設 定 さ れ た に も か か わ ら ず, 何 故 意 識 の み の 滅 を 云 い, 七 識 (の 滅) を 云 わ な い の か 士 と 詰 問 す る。 続 く世 尊 の 解 答 全 文 が 以 下 の 通 りで あ る。

tadd-hetv-alambanatvan-Mahamate saptanam vijnananam pravrttir-bhavati/ma-novijnanam punar-Mahamate visaya-pariccheda-abhinivesena pravartamanam vasa-nabhir-alayavi jnanam prapusnati/manah sahitam-atmatmiya-graha-abhinivesa-

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manyana-akarena-anupravartate*abhinna-sarira-laksanam-alayavijnana-hety-alamba-(183) マ ナ 識 と 『榜伽 経 』(久 保 田)

nam*/svacitta-drrsya-visaya-abhinivesac-cittakalapah pravartate 'nyonya-hetukah /udadhi-tararnga iva Mahamate svacitta-drsya-visaya-pavana-iritah pravartante nivartante ca/atas-tena Mahamate manovijnanena vyavrttena saptanam vijnanam vyavrttir-bhavati//tatra-idam-ucyate// (以 下, 重 頒 三 偶 は省 略 す る。) *Tib. 訳, 漢 訳 に よ りダ ンダ を 移 行 す る。 こ の 中, 特 に 問 題 とす べ き 箇 処 は 下 線 部 で あ る。 因 み に, 安 井 広 済 博 士 と 高 崎 直 道 博 士 は こ の 文 全 体 の 主 語 を 冒 頭 の manovijnana と し て 次 の よ う に 訳 さ れ る。 「しか も, マハ ー マ テ ィ よ, 意 識 は境 の差 別 に執 し着 て生 起 す る とき, もろ もろ の 習気 に よ って ア ー ラ ヤ識 を 長 養 し, 意 (manas) と と もに, 我 我所 の執 に 執 着 す る思 量 (ma-マ (ma-マ nyana) のす が た で 生 起 す る。 〔もろ もろ の七 識 は〕ア ー ラヤ識 を 因 と し所 縁 とす る不 異 な る 自体 の 相 で あ り…」(安 井 広 済 『梵文 和 訳 入鰐 伽 経 』法 蔵 館, 昭和51年, p. 114) 「しか る に, 大 慧 よ, 意 識 は, 対 象 を判 別 す る こ とに執 われ て 転起 しつ つ, 習気 を も っ て ア ー ラ ヤ識 を 長 養 す る。 マ ナ ス と共 に, われ, わ が もの の観 念 に執 わ れ る思 量 の 形 相 を も っ て随 起 す るが,〔そ れ は〕ア ー ラヤ 識 を 因 と して 所 縁 とす る もの と し て, 体 が 不 可 分 とい う特 質 を も っ てい る。」(高 崎直 道, 註1論 文, p. 83) 途 中 の manah sahitam-を 梵 文 通 り区 切 っ て 読 む と 「マナ ス は 我 ・我 所 を 取 著 す る 思 量 の 相 を 伴 っ て 随 起 す る」と い う体 系 的 唯 識 思 想 と な る の だ が, チ ベ ッ ト 訳, 漢 訳 は こ れ を 支 持 せ ず, 文 脈 に も 難 を 生 ず る4)。 ま た, 当 然 な が ら manah sahitam-の 直 前 の 語 句 を ひ と ま と め に manah に か け て 「諸々 の 習 気 に よ っ て ア ー ラ ヤ 識 を 長 養 す る マ ナ ス 」と 読 む こ と も こ こ で は 許 さ れ な い。 チ ベ ッ ト訳, 漢 訳 は,

Blo gros then po, yid kyi rnam par ses pa yul bye brag hbyed pa la mason par shags sin hbyun bas bag chags kyis kun gshi rnam par ses pa sin to rgyas par byed do//yid dan Than cig to bdag dan bdag gir hdsin pa la mason par chags pas nar sems pa lta bur rjes su hjug ste/kun gshi rnam par ses pa rgyur gyur cin de la dmigs pa, lus tha dad pa ma yin pahi mtshan nid do//(D. 106a1-2,

P. 48-58-49-11) 「意識者。境 界分段計著生。習気長養蔵識, 意倶我我所計著思惟 因縁生。不壊身相蔵識 因蓼縁 」〔宋訳, 大正16, 496a〕 「復次大慧, 意識執著取境界生。生巳種種黒習増長 阿梨耶識。共意識故,〔離〕*我我所 相, 著虚妄空而生分別。 大慧, 彼二種識無差別相。 以依 阿梨耶識 因観 自心見境。」 〔魏 訳, 同, 538c〕*明 ・宮本 の如 く欠如 の方 が可。 「大慧, 意識分別境界起執著時, 生諸習気長養蔵識。 由是意倶我我所執 思量随転無別体 相。 蔵識 為因所縁 故。」 〔唐訳, 同, 606a〕

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-872-マナ識 と 『榜伽経』(久保 田) (184) とあ るか ら, 安 井, 高 崎 博 士 の よ うに, 全 体 を manovijnana (m. v. と略) を 主語 と解 す るの が 一応 最 も原 文 に 即 した 訳 出 とな る。 しか し, 果 して 第 六 意識 の滅 を 浬 繋 とす る文 意 は そ の ま ま で納 得 され うるで あ ろ うか。 経 内 外 の 他 処 に お い て も か くの如 き特 殊 な地 位 を 占め る第 六 意 識 を 筆 者 は知 らな い。 そ れ は あ ま りに も唯 識 的 発 想, 否, 仏 教 的 発 想 か らさえ も離 れ す ぎて い る の で は な か ろ うか。 こ こ に, 原 文 読 解 可 能 な範 囲 内 で思 想 的 脈 絡 が 通 る解 釈 へ の努 力 が 必 要 と され る。 そ こ で, 筆 者 の試 論 は, まず 下 線 部 中 の manah sahitam-を 安 井, 高 崎 博 士 の 如 く, m. v. を 主 語 と して は読 ま な い こ と, そ して manahsahitam を 一 つ の Comp. と して 直 前 の alayavijnana と同格 主 語 とみ る, とい う解 釈 を 取 る こ と に あ る。manahsahitam な る Comp. が ア ー ラヤ識 を 指 す 例 は 「刹那 品 」に も見 ら れ5), Tib. 訳 と も ど も支 持 され る。 従 って, 下 線 部 の和 訳 は次 の よ うに な る。 「マハ ーマ ティよ, m. v. は対象の識別に執す るもの として生起 して はい るが, 諸 々の 習気に よって アーラヤ識を長養す るので あ る。(その アーラヤ識 は) マナスを伴 うと, 我 ・我所を取著す る思量 の形相 に従 って生起す る。(故にm. v. は) アー ラヤ識を因 と し対象 とす るもの として実質が区別 され ない性質を もつ。」 ア ー ラ ヤ識 は, 道 化 の如 く, マ ナ スを 伴 う とい う解 釈 は, 原 文 の読 み 方 に お い て も, また 思 想 的 に も容認 され よ う。 この解 釈 が支 持 され る とす れ ば6), 小節 全 体 のm. v. を 第 六 意識 と規 定 す る必然 性 は稀 薄 に な って くる と思 わ れ る。 試 訳後 半 部 にお いて, ア ー ラヤ識 を 因 と し対 象 とす る 体 不 可分 の もの の 主語 を一 応m. v. と補 った が, この 主語 は manas と解 す る こ と も可 能 で あ る。 こ こで, 今 一 度 小 節 全 体 の構 造 を, 主 語 に 着 目 しな が ら整 理 して お きた い。 1. 分 別 を 因 とす る識 (vikalpahetuvijnana) <重 頬179>→分 別 た る意 識 (vikalpa-ka m. v.)<散 文 冒頭 世 尊>→意 識 (m. v.)<マ ハ ー マ テ ィ質 問 部>→“そ れ ” を 因 と し対 象 と して七 識 生 起 <世 尊>7)。 2. am. v. は(1)対 象 を 識別。 (2)習 気 に よ りア ー ラ ヤ識 を 長 養。 b (ア ー ラヤ 識 は) マ ナ ス を 伴 い, 我 ・我 所 を 取 著 す る思 量 の 形 相 に 従 って 生 起。 c (m. v. or manas は) ア ー ラヤ識 を 因 と し対 象 とす る もの と して体 が 不 可 分。 3. 心 の 束 (citta-kalapa) (=七 識or八 識) が 相 互 に 因 とな って 生 起。 4. (七 識 は) 大 海 の 波 の 如 く, 自心 所 現 の 対 象 の 風 に 動 か され て 生 じ滅 す。 5. m. v. が滅 すれ ば, 七 識 も滅 す。 m. v. が 生 滅 す る こ と に よ り七 識 も 生 滅 す る(5)と い う七 識 と は, 当 のm. v. を

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(185) マナ識 と 『榜伽経』(久 保田) も含 ん だ 七 識 であ ろ うと思 わ れ る。 経 が 従 前 節 で 強 調 した 不 滅 の ア ー ラヤ 真識 観 を 前 提 とす れ ぽ, 七 識 と は真 識 と して の ア ー ラ ヤを 除 い た 全 て を 意 味 す る と解 し た 方 が 合 理 的 で あ る。 また, 2cの 主 語 がm. v. と manas とに 交 替 可能 で あ る こ とか ら も, 本 節 のm. v. は, 八 識 説 の枠 内 で は 第七 マ ナ識 を指 す もの と解 され て もよ い。 従 って, この 場 合m. v.=mano-nama-vijnana-=manas が成 り立 つ。 そ うす る と, 恐 ら く世 親 以 前 に, マ ナ識 がm. v. と呼 ばれ て い た新 た な 事 実 が 発 覚 す る こ とに な ろ う。本 節 のm. v. を 第 六 意 識 と解 す る限 り,『樗 伽経 』に は マ ナ識 は説 かれ て い な い とい う見 解 に な り, 本節 の文 意 も謎 の ま ま に放 置 され る こ とに な る。 こ こ で, 以上 の推 定 を直 接 的 に裏 付 け る偶 顛 が 「偶頬 品 」に 二 頒見 出 され る。 マナ ス 〔S-239〕 「意な る識 (m.v.) が 滅 す れ ば 心 は染 汚 を は なれ, 一 切 法 を覚 知 す る が 故 に心 は悟 れ り, とわ れ は語 る。」 マナ ス 〔S-468〕「意を はなれた浬架 (nirvanam mana-varjitam), これ こそが諦 である。世間 は芭蕉や夢や幻 の如 く (意によって) 分別 され た もの と観ずべ し。」 この両 碩 に よ って もm. v.=manas で あ る こ とが確 認 され よ う。 さ らに, 筆 者 の解 釈 を 間接 的 に論 証 す る方 法 が あ る。 そ れ は, 前 記1で 記 した 如 く, m. v. は ほ ぼ vikalpa と同 義 に使 用 され る点 で あ る。 これ に つ い て は 別 に 詳 細 な論 述 が 必要 とな る の で あ る が, こ こ で要 約 的 に述 べ て お くな ら ば,『樗 伽 経 』に お け る vikalpa は, そ れ が名 詞 として 使 用 され る限 り “汚れ た あ り方 で機 能 して い る こ ころ ”を 示 す。 そ して, そ の汚 れ た あ り方 を 規 定 す る要 素 が vasa-na (習気) で あ る。 マ ナ ス は, む しろ ア ー ラヤ識 よ りも, 汚 れ た 心 の実 態 に深 く 関 わ っ て い る。 『樗伽経 』で は重 層 的 心 理 観 と して だ け の八 識 説 よ りも, 染 汚 の 心 の現 実 態 を機 能 的 に追 究 す る観 念 の方 が む し ろ強 い。 経 中, ア ー ラヤ識 そ の も のを 滅 して 浬 藥 を 得 る, と い う文 句 は筆 者 のみ る限 り 存 しな い。 しか し,「ア ー ラ ヤ識 の 習 気 を 滅 す る こ とにこよ り」(p. 241) 解 脱 を 得 る とい う如 き表 現 は見 られ る。 とい うこ とは, 最 初 にご要 約 した 如 く, 習 気 のそ そ ぎ 手 は マ ナ スな の であ るか ら, マ ナ スを 滅 す れ ば 浬 架 を 得 る とい うの と 同 じ趣 旨 に 帰 着 し よ う。S-237 に は 「そこ にm. v. よ り生 ず る習 気 は 垢 の如 し。 心 は 白衣 の 如 し。 習 気 に よ って は輝 か ず。」と 言 い, S-416で は 「相と して は (心意識の) 三 とな ろ うが (それ らは実 には) 習 気 を 因 とす る乙 な る もの であ る。」と も 言 う。 ア ー ラ ヤ識 とマ ナ ス とは, 王 と道 化 の 如 く不 可 分 では あ るけ れ ど, ア ー ラ ヤに 真識 の 側 面 を 認 め, 後 には 如 来 蔵 と同 視 す る 『樗伽 経 』の 立場 か らす れ ば, 汚れ た心

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-870-マ ナ 識 と 『榜伽 経 』(久 保 田) (186) かぶ の実 質 上 の担 い手 は ます ます マ ナ ス に被 され て くるわ け であ る。 道 化 の マ ナ ス は ア ー ラヤ な る心 王 を 椰 楡 して 汚 す。 さす れ ば, 道 化 た るマ ナ ス こそ が, ア ー ラ ヤ識 に よって 具 象 化 され た 幻 の如 き世 界 全 体 を 調 刺 して い るの で あ る。 シ ェー クス ピア の 『リア王 』に お い て, 道 化 は リア の愚 か さを 先 取 りして 笑 い とば し, 観 客 が リア を笑 う前 にそ の笑 いを 独 占的 に 吸収 した が 故 に王 の厳 粛 は保 た れ た。 この名 も な き道 化 は シ ェー クス ピア 自身 であ る。 リ ア 王 が, 世 界 を, 人 間 を, そ して 己れ 自身 を は っ き りと認 識 し, 真 の 自 己を 回復 した 時, 道 化 は 役 目を 終 え て退 場 す る。 この痛 烈 な る悲 劇 的 世 界 観 は, こ の 『榜伽経 』の 浬 繋 観 と同 じ崖 淵 ま で われ われ を誘 い 出 す。 1) 勝 又 俊 教 『仏教 に お け る心 識 説 の研 究 』pp. 660∼662, 高 崎 直 道 「『入榜伽 経 』の マ ナ ス(意)に つ い て 」 『仏教 の 歴 史 的 展 開 に 見 る諸 形 態 』所 収, pp. 75∼89な ど。 こころ 2) 拙 稿 「マナ ス(意)の ト リ ックス タ ー性(1)-マ ナ 識 と道 化-」 『仏教 学 』29号。 3) 高 崎 前 掲 論 文 と舟 橋 尚哉 氏 の 『初期 唯 識 思 想 の 研 究 』pp. 128∼134は 専 ら この 小 節 を 扱 い 問 題 とす る。

4) P. L. Vaidya (ed.), Buddhist Skt. Texts, No. 3 (1963) も何 ら新 た な校 訂 や 註 記 を加 え る こ とな く南 条本 の manab sahitam と区 切 る読 み を 踏 襲 して い る。(p. 52) 5) LAS. Nanlio ed. pp. 235, 415∼236, l1.

6) 朝 一 番 の 学 会 口頭 発 表 にお いて, 高 崎 博 士 は, manabsahitam を ア ー ラヤ識 とす る 筆 者 の解 釈 に賛 意 を表 明 して下 さ っ た。 7) 成 立 史 的 に分 析 す る と, 180偶 中 の “それ ”は 元 来 は ア ー ラヤ識 を指 す もの で あ っ た が, 重 類 にご採 用 され る に及 び, 179偶 と180偶 (S-25, 26) の 問 にや や強 引 に挿 入 さ れ たた め, 179偶 に言 及 され た “分別 を 因 とす る 識 ”を 指す こ とに な っ た。 それ を 受 け て散 文 は さ らに “分別 た る意識 ”=“意 識 ”と 同置 して 解 説 を施 す。2cで “アー ラヤ識 を 因 と し対 象 とす る”と い う同様 の 表 現 が使 用 さ れ るの で (経 の基 調 の 残存 で あ ろ う) 構 成 を よ り紛 らわ し く して い るの で あ る。 な お, vikalpahetuvijnane (179) はT写 本 に 従 う と vikalpake tu vilnane とな り散 文 部 の 呼 称 と相 応 す るが (高 崎, 安 井両 博 士 は そ の よ うに 訂 正 す る。Tib. 訳, 漢 訳 も hetu は 明 確 で は ない), 羽 田野 編 『聖入 榜伽 経 註 』(p. 282) に は そ の よ うなT写 本 の 読 み は 存 在 せ ず, か っS-25に お い て もそ の よ うな 読 み は存 在 しな い。 従 って, こ こ億 安 易 に 訂 正 さ るべ きで な く, む しろ 偶 頒 と散 文 の 断 層 と会 通 を 見 るべ きで あ る。 <キ ー ワ ー ド> マナ 識, 道 化, 榜 伽 経 浬 架 観 (東 北 大 学 非 常 勤 講 師)

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