2016.12.21 神奈川県徐福研究会定例会
徐福と私
神奈川大学大学院 歴史民俗資料学研究科 D1 華 雪梅一
徐福との出会い
徐福のことを初めて耳にしたのは中学歴史教科書の秦の始皇帝に関する紹介である。紀 元前 221 年、歴史で初の中国統一を成し遂げたことによって最初の皇帝となり、後に「始 皇帝」と名乗った。始皇帝は中国を統一後、多くの経済活動と政治改革を実行した。始皇 帝は貨幣(半両銭)や計量単位(度量衡)や漢字の書体(篆書体)などを統一し、交通規 則も制定した。今から見ると、これらの改革は中国の国家としての進歩を進めたと考えら れる。 しかし、始皇帝が実行した政策は前述のような賞賛すべきことだけではなく、大土木工 事・焚書坑儒・天下巡遊のような非難すべきこともあった。大土木工事というと、現存す る世界遺産に登録された万里の長城と兵馬俑がよく知られている。焚書坑儒の件は、紀元 前 213-212 年、秦の始皇帝が行った思想弾圧である。医薬・卜占・農事関係以外の書物 を焼き捨てさせた。翌年、批判的な言論をなす儒教学者数百人を咸陽で穴に生き埋めにし て殺したと伝えられている。天下巡遊というと、封禅と神仙への傾倒のことが世界中でよ く知られている。封禅は天地を祭る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備え た方だけが執り行う資格を持つとされる。これは国のために行った祭祀で、非難すべきこ とではないと思われるが、吉川忠夫の研究によると、始皇帝の泰山封禅について、「政治 的な成功を天地に報告するための公的で国家的な儀式であるとともに、いなそのことにも まして、皇帝個人の不死登仙を祈願する祭りであった」1という指摘がある。 司馬遷の「史記」の記録によると、泰山の封禅儀式が終わると、始皇帝は山東半島を巡 り、瑯邪で石碑(琅邪台刻石)を建立した。始皇28年(紀元前219年)、徐福はそこ で始皇帝に謁見したことがある。徐福は秦の始皇帝に、「東方の三神山(蓬莱・方丈・瀛 州)に仙人が住んでいる」と具申し、したがって、始皇帝の命を受け、千人の童男童女を 連れ、神秘性に富む三神山への探査を行った。史料によると、始皇帝の命を受け、仙人と 不老不死の薬を探す人は徐福だけではなく、韓終・侯公・石生などの人もいた。しかし、 仙人と仙薬探しにしては、徐福集団は他より規模が大きい、始皇帝に信頼されていたこと が窺えるであろう。 しかも、司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東 1 吉川忠夫 『秦の始皇帝』、講談社学術文庫、2002 年、p200。方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、三千人 の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持ち、東方に船出し、 「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、再び中国に戻ることはなかったとの記 述がある。 つまり、始皇帝は長生不老(不老不死)の目的を達成するために、徐福などの方士に仙 薬を求めさせた。「千古の一帝」と呼ばれる秦の始皇帝が求めた長生不老と方士徐福一行 の仙薬探しは中学時代から興味深いと思った。当時の私は、これはただ儚い虚構の伝説で あり、司馬遷の記録はあっても、歴史の信憑性は低いと思っていた。
二
徐福の再認識
中学時代から徐福に関する伝説・物語を聞いたことはあったが、本気で徐福のことを研 究し、考えたのは修士時代からであった。 修士課程の専攻は中日文化交流史で、修士論文は『道元の「宝慶記」研究』である。主 に千年以上の東アジアにおける交流手段としての「筆談」に関する史料の研究を行った。 『宝慶記』は日本曹洞宗の開祖である道元と道元が中国南宋で師事した如浄禅師との問答 記録である。私の研究によると、これは道元と如浄の筆談史料だと思われる。 修士課程の指導教官王勇教授が代表者である中国最大級の科研プロジェクト「東亜筆談 文献整理與研究」の研究助手として文献を収集した時、徐福に関する筆談史料を発見した。 興味深いから、多くの史料と文献を調べて整理し、「第三次東亜筆談研究会:朝鮮通信使 と日朝筆談」を主題とするシンポジウムで、『東アジアにおける徐福伝説――日朝筆談史 料を中心として』という論文を発表した。 筆者が収集した筆談史料によると、朝鮮使者と日本知識人は主に中国北宋の詩人欧陽脩 (1007-1072)の『日本刀歌』という漢詩の一句「徐福行時書未焚、逸書百篇今尚存」を 話題として、徐福が日本に伝えたという逸書について話し合ったことがよくある。例えば、 日本正徳元年(1711)に来日した第八回朝鮮通信使(正使は趙泰億・副使任守幹・従 事官李邦彦)と江戸時代の儒者新井白石との間で話し合われた徐福に関する筆談史料は、 『江關筆談』に収録され、内容は以下の通りである。 通政大夫吏曹參議知製教趙泰億 輯 辛卯(正德元年)十一月五日,在江戶時,白石源與君美(新井筑後守)來訪館所,敘 寒暄訖。 平泉1取紙筆書示曰:筆端自有舌,可以通辭,何必借譯。 白石曰:敬諾。 南岡2曰:貴邦先秦書籍獨全之説,曾於六一鏽刀之歌(歐陽永叔《日本刀歌》云:徐 1 平泉,正使趙泰億之號。 2 南岡,従事官李邦彦之號。福行時書未焚,逸書百篇今尚存。令嚴不許傳中國,舉世無人識古文。先王大典藏夷貊, 蒼波浩瀚無通津。《文忠公集》卷十五)見之矣,至今猶或有一二流傳耶? 白石曰:本邦出雲州有大神廟,俗謂之大社。嘗聞神庫所藏竹簡漆書,蓋古文《尚書》 云。 青坪1曰:其書想必以科斗書之,能有觧之者。亦有謄傳之本耶? 白石曰:本邦之俗,深秘典籍,蓋尊尚之也,況似有神物呵護之者?亦可以恨耳! 平泉曰:或人傳,熊野山徐福廟,有科斗之書。古文厄于火而不傳云,此言信否? 白石曰:此俗人誣説。 青坪曰:有書不傳,與無同。果有此書當與天下共之。深藏神廟,意甚無謂。何不建白 謄傳一本耶?(此下當有白石之答) 前述のように、朝鮮通信使は文禄・慶長の役の失敗によって派遣された使者である。 政治上の使命はもちろん、文人として学術・貴重な史料に対する熱情は戦争があってもお 互いに磨きあう気持ちは少しも冷めることはないであろう。引用文の筆談史料によって、 新井白石は三人の朝鮮使者の質問に答えたことが分かり、当時の筆談記録は紛失し、全貌 は分からないが、現存の史料によって、当時の筆談の緊張した雰囲気も感じられる。 この筆談史料は1711年のことを記録し、徐福の渡来から約2000年を経ている。 徐福は中国人だが、日本と朝鮮の知識人の心にも影響を及ぼすことができた。文化の検討 は文化の共感に基づき、前述のような徐福に関する議論はおそらく同根同源の東アジア諸 国家にしか現れない現象であろう。 その時から、本気で徐福を研究する気持ちを持った。東アジアの代表である中国・日本・ 韓国において、徐福は一体どのような存在であるか、各時代の中日韓の人々にとっては、 徐福が代表する意味、徐福を議論する目的も異なると思われる。歴史上の徐福と徐福のイ メージについて紹介したが、筆者は興味深いのは今日の徐福伝承である。即ち、2000 年続いてきた徐福のイメージはどのような形で伝承されているのか、どうして今まで伝承 されているのか。したがって、これらの疑問を究明するために、徐福伝説が最も豊富な日 本へ留学してきて、日本における徐福伝承を明らかにしたい。この目的を達成するために、 神奈川大学の歴史民俗資料学研究科の博士後期課程に進学し、民俗学の視点から日本の徐 福伝承を究明したい。
三
今までの徐福に関する調査
徐福に関する遺跡は北海道以外、日本全国各地に分布している。青森県から鹿児島県に 至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。徐福ゆかりの地として、佐賀県 佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士 吉田市、宮崎県延岡市などが有名である。 1 青坪,副使任守幹之號。図1 日本の徐福に関する遺跡分布図1 日本の徐福遺跡は数が多く、これは徐福伝説が日本の幅広い地域に影響した証だと認 められる。日本各地の徐福伝説地について、最も詳細に調べたのは台湾の彭雙松氏である。 彭氏の研究調査によると、徐福の遺跡と古書に記録された情報は以下の通りである。 表1 日本における徐福に関する遺跡状況と古書記録の数量2 地域 遺跡数 伝説 古書記録 1 佐賀県 30 9 10 2 福岡県 2 2 3 鹿児島県 3 4 宮崎県 1 5 山口県 1 6 三重県 6 3 7 和歌山県 9 14 34 8 名古屋(熱田) 1 9 静岡県(駿河) 1 1 10 山梨県(富士山麓) 3 2 2 総計 56 32 46 1 HP 徐福渡来伝承の地紹介サイトより 2 彭雙松:『徐福研究』、台湾・高蕙図書出版社、1984 年、p253。本文の表1はこの本を参考にした。表 中の数字は彭氏による1984 年以前の統計である。
彭氏の研究と調査によると、日本の徐福に関する遺跡は 56 ヶ所、伝説が 32 個、古書 記録が 46 個。遺跡は後人が徐福への偲ぶ思いを表す物質的な表現だと思われる。しかも、 古書の記録を通して、日本人の徐福に対する感謝・崇拝・敬愛する気持ちがわかるように なる。私が興味深いのは文字がない時代から、日本代々の人々の口口相伝によって、伝承 されてきた伝説である。 したがって、今年の8月、筆者は伝説の数が最多の和歌山県新宮市に行って現地調査を 行った。熊野徐福万燈祭は新宮市の徐福を記念する最も盛大な活動で、徐福供養式典と翌 日の花火大会からなる。今年は第 54 回熊野徐福万燈祭を行った。8 月 12 日午後、徐福供 養式典は徐福公園で行われた。参加者は新宮徐福研究会代表、神奈川県徐福研究会代表、 中国江蘇省連雲港市徐福村からの代表 10 名以上、中国からの徐福ドラム訪問団一行など である。しかも、今年の供養式典は 16 名の住職からなる新宮仏教会の協力によって執り 行われた。8 月 13 日熊野徐福万燈祭のもう一つの重要な祭礼である花火大会が行われた。 花火大会が始まる前に、この土地の先祖である徐福に関する供養式典が行われた。当日の 供養式典は前日より短いが、内容は前日とだいたい同じである。一番大きな差異は、12 日は、徐福の故郷徐福村からの徐福の子孫が代表して焼香したが、13 日は新宮市の徐福 に関する人物が代表として焼香したことである。 9月、河野さんのご案内によって、神奈川県藤沢市の徐福子孫の墓を見学に行った。藤 沢市の妙善寺という寺院には、徐福子孫のお墓があり、墓碑の記録によると、天文23年 (1554)に造られたということが分かる。伝説によると、徐福は日本に四人の子供が いる。苗字は福岡・福島・福田などに変わり、先進文明を伝播するために、日本各地に分 布している。神奈川県藤沢市の徐福子孫の墓は「福岡家」に属する。しかも、徐福集団は 日本に到着後、「徐」を使わずに、苗字を故国の「秦」にして暮らし、それから波田・波 多・羽田・畑など「ハタ」と呼ぶ漢字をあてて名乗っていた。 それに加えて、10 月下旬、田島会長のおかげで、富士山徐福フォーラム国際大会に参 加し、中日韓における徐福を研究する専門家にお会いしまして、ここで再び感謝の意を申 し上げる。国際大会で最先端の徐福研究の現状が分かり、多くの貴重なご意見を頂き、本 当にいい勉強になった。
四
今後の課題
近年、新宮の熊野徐福万燈祭の外に、中日の徐福に関する祭りが各地で行われるように なった。中国では徐福の出身地とされている江蘇省連雲港市で、1990 年くらいから「贛 楡徐福節」が行われている。この祭りに、徐福の研究に関連する日本人が招待されたりし て、徐福をめぐる中日国際交流も始まっている。熊野における徐福の祭りを調査したが、 これから江蘇省連雲港市における贛楡国際徐福節を実地調査する計画である。 また、『日本の民俗』シリーズでは、徐福渡来の伝承地が含まれる青森・山梨・愛知・ 三重・和歌山・佐賀・鹿児島の各巻全てにおいて、「口頭伝承・伝説」の項に、一つも徐福伝説を見出すことができない。1確かに、逵氏がおっしゃった通り、これまで徐福伝説 は伝説研究の対象とされてこなかったばかりか、伝説として捉えられてこなかったのであ る。 現在の徐福研究は主に考古的・歴史的な視点からの、徐福伝説の虚実に関する研究であ る。例えば、徐福の生まれた場所はどこか、徐福は本当に日本に到着したのか、上陸場所 はどこであるかなどの問題は歴史的な文献を通しての研究が多くある。徐福伝説の虚実を 確かめることは確かに重要なことであろうが、私が知りたいのは徐福伝説が日本でどのよ うに伝えられているのか、そしてこの伝説はどのように日本人の日常生活と結びついたの か、ということである。従って、今後日本現存の徐福遺跡を手がかりにして、徐福伝説の 日本伝播ルーツを探り、熊野の徐福伝承を中心に、徐福伝説と日本人の日常生活との結び 付きを検討してみたい。 1 逵志保:『徐福論――いまを生きる伝説』、東京・新典社、2004 年、P15。