本研究はイタリア・シチリア島における過去の地震災害からの復興を(1)都市の歴史の継承,(2)復興 の効率性・合理性,(3)環境親和性の3つの「サスティナビリティ」に着目しながら調査し,日本の 災害復興における安全・安心と「サスティナビリティ」とのバランスを考える上での示唆を得るとい う目的のもと,メッシーナ,ビアンカヴィラ(エトナ山麓の町々),ノートの市街地の復興の実態を 文献および現地踏査によって把握し,メッシーナの復興の背景に復興特需を見込んだ大量の労働人口 の流入があったこと,ノートの復興においてスペイン政府が既得権をめぐる争いと防衛(安全・安心) に関わる不安を分けて対応したことなど明らかにした.
This research project studied reconstruction after the past earthquake disasters occurred in Sicilian Island, Italy, focusing on (1) succession of history of the cities, (2) efficiency and rationality of reconstruction and (3) environment affinity, aiming to obtain clue for well-balancing between safety / security and "sustainability" in disaster reconstruction in Japan. Investigating on realities of urban reconstruction of Messina, Biancavilla (cities on the outskirts of Mt. Etna) and Noto through literature search and field survey, this project clarified such facts as the large scale inflow of labour force anticipating high reconstruction demand in the background of reconstruction of Messina, Spanish government had dealt with the reconstruction of Noto, dividing the controversy of residents over vested interests and the uneasiness toward defense (safety / security) and so on.
シチリア島における災害復興とサスティナビリティ
-17世紀以降の5つの地震災害に着目して-Disaster Reconstruction and Sustainability in Sicily
-Focus-ing on 5 Earthquake Hazards after 17
century-田中 傑
Tanaka Masaru
No.## 第3-研究奨励
研究の背景と目的 東日本大震災以降,安全・安心への要求は巨大防潮堤の整備や高台移転などの形で以前よりもさらに強まってい る様子が見られるが,一方でインフラの維持や長期的な財政負担の問題も指摘され,安全・安心とサスティナビリ ティとの折り合いの付け方が課題として浮かび上がっている. 本研究課題ではイタリア・シチリア島において17,18,20世紀に発生した大規模地震からの復興計画,その施 行,そして住まい手による住みこなし(空間の改変)実態を文献調査および現地踏査を通じて把握し,そこに反映 されてきているであろう各時代の災害観,死生観,経済力とそれらの変容過程を考察することを目的とし,最終的 にはこれからの日本の建築・都市空間における安全・安心とサスティナビリティとの折り合いを考える上での示唆 を得ることを目標としている. 研究代表者は本助成申請の当初,この「サスティナビリティ」を復旧・復興事業費の負担や自然環境に対する負 荷における持続可能性を意味する用語として漠然と用いたが,共同研究者との討議の結果,具体的には(1)都市の歴 史を継承できること(固有性),(2)復興した都市空間の実体やそれを形成する社会制度が効率的・合理的であるこ と(効率性・経済性),(3)自然環境に対する負荷が少ないこと(環境配慮)の3点が含まれるとの考えに至り,具 体事例を考察する際の着眼点とした. 研究経過 a)研究の方法と国内で把握できた既往研究の概要 本研究は(1)文献の収集,講読(6月~9月),(2)そこから得られた知見をもとにした現地調査のポイントの絞り 込みおよび調査内容に関する打ち合わせ(9月),(3)現地調査による情報収集(10月),(4)調査のとりまとめ(11 月~3月)という過程で実施した. 収集した文献はb)に示した研究対象(災害名称),地震,復興,都市計画史といったキーワードで国内の図書館 およびイタリア国立中央図書館,そしてAbebooks(海外の古書店のポータルサイト)のDBを検索し,ヒットした もののなかから選定したもので,それらを共同研究者を務めた岡北一孝氏(博士(工学),大阪大学非常勤講師)と 稲益祐太氏(工学修士,法政大学デザイン工学部研究補助者)(所属はいずれも当時のもの)とともに現地調査の前 後に講読し,史実や既往研究の内容を把握した. 現地調査前に収集した文献を講読して明らかになった点のうち,以下の報告内容に関わる要点のみを以下に箇条 書きにする. 【史実について】 ・メッシーナ地震(1908年)については,大量のプレハブ式仮設住宅(バラック)が建設された後に,被災市街地 とその周辺部に対して大規模な都市計画事業が施行され,市街地が一新された(例えば,文献1). ・ヴァル・ディ・ノート地震(1693年)ではカタニアやノートなど広範囲にわたって市街地が破壊されたが,それ ら市街地の再建には現地でなされたケース,別の場所に移転してなされたケース,両者が混合されたケースの3種 があった(文献2). 【既往研究について】
・本課題遂行者の専門性ともっとも関連の深い建築・都市計画分野からの研究は,ヴァル・ディ・ノート地震やメッ シーナ地震の資料を丹念に集成し,その記述内容を編年体的にまとめたものであり,それら資料に基づく独自の分 析・考察が見られなかった(前掲文献1など)ため,共同研究者との討議を通じてb)に記した調査の視点を見出し た. b)研究の対象と調査の視点 ・メッシーナ地震(1783年・1908年)・津波(1908年):メッシーナMessina市.1908年の地震については,大規 模な都市計画の立案過程,大量の仮設住宅の建設過程,それら計画・事業の運用と機構に着目する. ・エトナ山の火山性地震と噴火(1669年ほか):主としてビアンカヴィラBiancavilla市.災害対策としての都市計 画や市民防護計画とそれまでの生活との調整に着目する. ・ヴァル・ディ・ノート地震(1693年):主としてノートNoto市.移転再建時をめぐる議論に着目する. なお,当初調査を予定していたベリーチェ地震に関しては時間不足で訪問が不可能であったため,代わりにベリー チェ地震とほぼ同時期に発生し,2014年に研究代表者が訪問・資料収集したまま関連情報を未整理に止めていたフ リウリ地震(1976年)後の復興を補論として付記し,イタリアにおける災害復興の論点の変遷の一端を明らかにす る. c)現地調査の日程 現地調査は2015年10月に共同研究者の岡北氏・稲益氏とともに以下の日程・内容で実施した. 10月15日:イタリア国立中央図書館(ローマ市)での文献調査 10月16日:メッシーナ市役所都市計画局・メッシーナ県文書館での文献調査および同市の復興市街地の踏査(メッ シーナ地震) 10月17日:メッシーナの復興市街地の踏査. 10月18日:カタニア県庁にて文献調査. 10月19日:ビアンカヴィラ市都市計画局での文献調査および同市・ランダッツォRandazzo市の復興市街地の踏査 (いずれもエトナ山の噴火に関わる町). 10月20日:カタニアCatania市の復興市街地の踏査(エトナ山の噴火およびヴァル・ディ・ノート地震). 10月21日:ノート市文書館での文献調査および同市・アヴォーラAvola市の復興市街地の踏査(ヴァル・ディ・ ノート地震). 10月22日:モディカModica市およびラグーサRagusa市の復興市街地の踏査(ヴァル・ディ・ノート地震). 10月23日:シラクーサSiracusa市の復興市街地の踏査(ヴァル・ディ・ノート地震). 10月24日:イタリア国立中央図書館(ローマ市)での文献調査 10月25日:(日曜のため,新刊書店と古書店をめぐる) 10月26日:イタリア考古学・美術史学図書館(ローマ市)での文献調査 d)研究の進捗状況 資料の収集と読み込みに予想以上の時間を要したが,現在,それらの内容の把握をほぼ完了し,追加の情報収集
メッシーナ市は1783年と1908年の二度にわたり大規模な地震に遭遇した.研究代表者の関心のひとつは,この 繰り返される災害に対してメッシーナの市民が取った対応を歴史的な流れの中で解明することであったが,1783年 の地震についての情報はほとんど見つからず,唯一,ドイツの詩人ゲーテが地震から4年後(1787年)に同市を訪 問した際の街並みを「こんな焼野ガ原のような所」,建築物を「板葺きでかつ板囲いの小屋」で「まるで,猛獣やそ のほか珍奇なものを木戸銭をとって見せる年の市の見世物そっくり」と記していたことを把握した(ゲーテ,イタ リア紀行(中)). それらの木造建築がその後,徐々に石造あるいはレンガ造に置き換わったことは1908年の地震被害を撮影した写 真を見れば分かる.その地震の際にも同市では公共建築・商業建築・住宅などをゲーテが目にしたのと同様な木造 で簡易な意匠・構造による仮設建築(バラック)を建てて応急的な再建をおこない,その後,下記の復興都市計画 事業を実施しながらそれらの仮設建築を恒久的建築へと建て替えていったが,この建て替えには1930年代いっぱい を費やした. 下記の復興都市計画事業を施行するために,1910年,土地の収用権を国から同市に対して授権した勅令が公布さ れたが,そこに定められた事業施行期間は25年間であった(文献6).実際の収用作業にこの25年のすべてを要し たか否かは把握できなかったが,上述のように公共建築の再建が地震発生後30年ほどを要したことから,収用作業 も同様に長期間に及んだものと推察される.今日の日本で大規模災害が起きるたびに「復興が遅い」と指摘される のとは時間の捉え方が大きく異なる. 【1908年の震災復興計画】 1908年の震災復興計画(図1)を立案したボルツィは震災以前よりメッシーナ市から土木施設(水道・下水道) の計画立案を委嘱されていた土木技術者である. 彼は街路パターンを抜本的に改変し(図2),官庁を集中させ(図3),バロック的な演出のある街並み(図4)を 計画した. 市街地は瓦礫などを用いて数m程度かさ上げされた.その証左は,地震と津波の被害から免れた『カタルーニャ
人のための受胎告知教会』Chiesa SS. Annunziata dei Catalaniという中世の教会付近に見ることができた(図5).
海岸はかつては道路と荷揚げ場に利用されていた(図6)が,震災復興後は道路が拡幅されて岸壁沿いは広場や 広幅員道路・プロムナード(図7)に改められ,かつて荷揚げ場に面して存在していた街区は海岸線より内側に位 置する県庁や劇場,市役所などの付近で大きく組み替えられ,それら施設の前から海面が望めるようになった(図 8,図9.図8中の1は県庁,2はボッチェッタ大通りViale Boccetta,3は劇場,4は市役所の付近.).これらは復興 都市計画によって等高線に直交する道路が開削・拡幅されたこととともに,いわゆる"風の道"を確保することに もつながったと考えられる. 以上のように復興計画の具体的(物理的)な内容は把握できたが,ボルツィが既成市街地の街区を大規模に改変 してバロック的な街並みを作り上げた思想的・理論的な背景を明らかにすることは未だできていない.現時点では, メッシーナ市の復興計画の立案に対して中央政府からの授権や支援があったこと(文献7),のちに政界に転じイタ リア人民党に所属する議員になったパルマの法律家ジュゼッペ・ミケーリGiuseppe Micheliが地震後の応急対応期 に同市の行政を支援したこと(現地に残る地震の瓦礫に示された看板による),イタリア統一(1871年)後に南北 格差の解消による国家の一体性の確保が議論されていたことなどからの間接的な影響が窺えるに過ぎない.
図1. ボルツィの復興都市計画図(メッシーナ市都市計画局所蔵)
Fig. 1. The Urban reconstruction plan by Borzi(Collection of the City Planning Bureau of the City of Messina)
図2. 5月24日通りとカヴール通り,そしてサルディニア人広場の予定地付近と従前の地図(上段:メッシーナ市都市 計画局所蔵,下段:Karl Baedeker (1893), Italie Meridionale,p.342およびp.343のあいだの挿図に加工) Fig. 2. Urban reconstruction plan showing the layout of Via XXIV Maggio street, Corso Cavour Avenue and Piazza
Popolo de Sardo Plaza in comparison with the city plan before the 1908 earthquake (Above: Collection of the City Planning Bureau of the City of Messina, below: editing the map interpolated between p.342 and p.343, Karl
図3. 復興都市計画に位置付けられた官庁街付近の地籍図(メッシーナ市都市計画所蔵の図面に加工) Fig. 3. Cadastral map around the planned-Civic Center (Editing the collection of the Bureau of the City of
Messina)
図4. フィリッポ・ユヴァラ広場(田中撮影) Fig. 4. Piazza Filippo Juvara (Photographed by Tanaka)
図5. カタルーニャ人のための受胎告知教会付近における復興都市計画事業によるかさ上げ状況(田中撮影) Fig. 5. Ground level raised up through the reconstruction work, near Chiesa SS. Annunziata dei Catalani
図6. 1908年の震災前の荷揚げ場(Vincenzo Pugliatti (2007), Messina prima e dopo il terremoto, Armando Siciliano Editore, p.79)
Fig. 6. Wharf, before the 1908 earthquake (Vincenzo Pugliatti (2007), Messina prima e dopo il terremoto, Armando Siciliano Editore, p.79)
図7. 広幅員街路とプロムナード(田中撮影) Fig. 7. Avenue and Promenade (Photographed by Tanaka)
図8. 海へのビューコリドー(メッシーナ市都市計画局所蔵の図面に加工)
図9. 市役所からのビューコリドー(田中撮影)
Fig. 9. View corridor towards the Sea from the City Hall (Photographed by Tanaka)
【1908 年の地震後に大量に建設された仮設住宅(バラック)と復興公営住宅の建設】 本稿執筆時点では仮設住宅の建設場所・建設棟数(表1)と復興公営住宅の建設場所・建設棟数(表2)との関係 を精査しきれていないが,前者が文献で確認すると木造の平屋建てであった(図10)のに対し,後者は現地で確認 すると鉄筋コンクリート造の2 ~4 階建て(図11)であり,また両者の建設場所が一致しておらず,前者の建設地 には現在,後者に比べて後の時代に建設された思われる集合住宅が存在していることが判った. これらの点を踏まえると,仮設住宅の存在が復興公営住宅の建設の障害にならなかったこと,仮設住宅が復興公 営住宅の(一部)竣工後も市民の住まいとして一定期間,用いられ続けていたことが仮説として導かれる. なお,上述の復興都市計画を立案したボルツィは同市の人口が25 年の計画期間内に85,000 人に達すると見積 もったが,1909 年の時点では6 万人しかいなかったものの,地震から3 年後の1911 年には早くも近隣農村をあわ せて12万人に達し,1881 年の人口水準にまで回復した.これは人口転換すなわち”多産少死”による人口の自然増 や一時的に避難した人々が被災地に復帰したこと,さらには復興事業による労働需要の増大に惹かれて西シチリア やカラブリアから人々が移住してきたためであったという(文献8). このような人口の急激な回復・増加が大量の仮設住宅や復興公営住宅建設の背景にあり,抜本的な復興都市計画 事業の推進や住宅の大量新築を結果的に無駄にさせなかったのもまた,このような人口の増加のおかげであったと 言えよう.もちろん,短期的には仮設住宅に住まい続けるよう強いられた人々があったことも忘れてはならない.
表1. 1914年から1921年までに建設された仮設建築のリスト(Raimondo Mercadante (2009), Messina dopo il teremoto del 1908. La ricostruzione dal piano Borzi agli interventi fascisti., Edizioni Caracol (Palermo), p.158)
Table 1. List of the temporary houses built between 1914-1921(Raimondo Mercadante (2009), Messina dopo il teremoto del 1908. La ricostruzione dal piano Borzi agli interventi fascisti., Edizioni Caracol (Palermo), p.158)
表2. 1921年8月末日までに竣工した公営住宅のリスト(Raimondo Mercadante (2009), Messina dopo il teremoto del 1908. La ricostruzione dal piano Borzi agli interventi fascisti., Edizioni Caracol (Palermo), pp.161-162) Table 2. Municipal housing estates reconstructed until the end of August, 1921(Raimondo Mercadante (2009),
Messina dopo il teremoto del 1908. La ricostruzione dal piano Borzi agli interventi fascisti., Edizioni Caracol (Palermo), pp.161-162)
図10. 当時オーストリア領だったチロルから贈られたバラックの仮設住宅(Enrico Mazzoli(2008), "Nei giorni di tanta incommensurabile sciagura..." Trieste, l'impero e il terremoto di Messina del 1908 presentazione di Sergio di
図11. ミケランジェロ・リッツォ通り付近(左)とレジーナ・エレナ大通り付近(右)の復興公営住宅(田中撮影) Fig. 11. Reconstructed Municipal Housing Estates near Via Michelangelo Rizzo (left) and Viale Regina Elena(right)
(Photographed by Tanaka) 【1908 年の地震後の文化財・場所性・災害記憶の継承】 文化財や場所性の継承については,いくつかの異なるパターンが存在した. 1 つめのパターンは,失われた建築物を再建(復元)するというものである.大聖堂(図12)を例に挙げると, 我々が今日目にする大聖堂は1908 年の地震で被災した当時の姿とはファサード(妻壁部分)が大きく異なり,また 脇に鐘楼が追加されている.1783 年の震災以前の大聖堂を描いた絵図にはデザインこそ異なるものの鐘楼が描かれ ていることから,古い時代の姿に回帰させるべく再建されたことが判る(ただし,大聖堂は第二次世界大戦で再び 全壊しているため,地震後の再建の時点では地震発生当時の姿を復原していた可能性がある).モンテ・ディ・ピエ タ(図13)というカトリック教会が運営する慈善的な質屋も震災で半壊し,復旧後の1943 年の空襲で再び大きな 被害を受けたが,現在も残った一層目が慈善事業に活用されている. 2 つめのパターンは,都市空間の構成要素(モノ)を保存するというものである.フォンタナ・ヌオーヴァFontana
Nuova(”新しい噴水”)を例に挙げると,もともと現在のフィリッポ・ユヴァラ広場Piazza Filippo Juvara(図4.広
場とはいえ,広幅員街路の十字路である.当時の名称は八角広場Piazza Ottagona.)に設置されていたが,震災復興 計画で街路が拡幅されることになったため一旦博物館の遊歩道に移設された後,戦後,カリチェリ通りVia delle Carceri のロータリーに再度移設された(現地の案内板による). 3 つめのパターンは場所性を保存するというものである.ボルツィが官庁集中を計画したアントネッロ広場Piazza Antonello の予定地からは,女子寄宿学校(もともとは旧聖ドミニコ修道院)が地区外へ移転することになった(前 出の図3 の" 県庁" の位置).学校は1932 年にのちに復興公営住宅が建設されるダツィオと呼ばれる地区(via Alessandro Manzoni とviale Regina Elena との角,前出図11右の向かい側)へと移転したが,その際,付属教会の
みは旧修道院のファサードの部材を再利用して故地で再建された(図14.まぐさ石にMDCVIIII=1609 年と旧建物
に刻まれた竣工年が残る.).
また,災害記憶の継承については,当時発生した瓦礫を広場の一廓に設置して保存したもの(図15)やロシア水
兵による被災者救援活動を記念した像(いずれもロシア水兵広場Largo dei Marinai Russiに所在.現地の案内板によ
れば,水兵像は原型こそ地震から数年で完成したものの,像そのものは2012 年まで作られなかった.)を観察した.
前者はメッシーナ生まれの建築家ジャコーモ・ミヌトーリGiacomo Minutoli による旧市役所(1783 年の地震後に建
設)の部材であり,設置されている場所付近にかつてあった旧県庁舎(文字通りには”王宮”.1783 年と1908 年の
図12. 1908年の地震以前のメッシーナ大聖堂(左.Villari,P. Spinazzola,V. Ricci,C. Alfani,P.G. Ojetti,U (1909), Messina e Reggio, prima e dopo il terremoto del 28 dicembre 1908, Societa Fotografica Italiana, Firenze , p.62)と
その今日の姿(右. 田中撮影)
Fig. 12. Cathedral of Messina before the 1908 Earthquake (left.Villari,P. Spinazzola,V. Ricci,C. Alfani,P.G. Ojetti,U (1909), Messina e Reggio, prima e dopo il terremoto del 28 dicembre 1908, Societa Fotografica Italiana, Firenze ,
p.62) and its Contemporary appearnce (right. Photographed by Tanaka)
図13. 被災当時(左.Villari,P. Spinazzola,V. Ricci,C. Alfani,P.G. Ojetti,U (1909), Messina e Reggio, prima e dopo il terremoto del 28 dicembre 1908, Societa Fotografica Italiana, Firenze , p.162)と今日(右.田中撮影)のモンテ・
ディ・ピエタ
Fig. 13. Monte di Pieta in 1908 (left. Villari,P. Spinazzola,V. Ricci,C. Alfani,P.G. Ojetti,U (1909), Messina e Reggio, prima e dopo il terremoto del 28 dicembre 1908, Societa Fotografica Italiana, Firenze , p.162) and its
図14. 聖ドミニコ修道院付属教会(田中撮影)
Fig. 14. Church of the monastery of St. Dominico (Photographed by Tanaka)
図15. 1908年の地震で破壊された旧市役所の部材(田中撮影)
Fig. 15. Fragment of the old city hall destroyed by the 1908 earthquake (Photographed by Tanaka) b)エトナ山麓の町 エトナ山麓の町の中で人口規模が比較的大きなビアンカヴィラ市においてヒアリングをおこなったところ,噴火 に備えた市民防護計画は存在していたが,噴火に備えた土地利用計画上の規制は市域内については存在しないとの 回答であった(土地利用計画の図書の中には過去の数百年間の溶岩流の噴出履歴の図が含まれていた).担当者はそ の根拠を「歴史上,この市域に溶岩が流れてきたことがないから」と述べた.この事実は同市の人口規模が大きい ことと矛盾していない.
図16. 1651年および1832年の溶岩流に覆われた地点での住宅開発(田中撮影)
Fig. 16. Housing Development at the site covered by the lava streams erupted in 1651 and 1832 (Photographed by Tanaka)
図17. ブロンテ付近における溶岩流(Karl Baedeker (1900), Southern Italy, p.350とp.351の間の挿図(Contorni dell ETNA)に加筆)
Fig. 17. Lava streams near Bronte (Editing the map "Contorni dell' ETNA" interpolated between p.350 and p.351, Karl Baedeker (1900), Southern Italy
c) ノート市 1693 年1 月の地震後に再建されたノート市は南南西向きの斜面地に立ち,中心部では街路が格子状に巡らされて いる(図18).一方,ノートの北西約7km に位置する旧市街(ノート・アンティカNoto Antica. 図19)は古代ギリ シアにまで起源が遡る町で,中世にはアラブ人たちによってヴァル・ディ・ノート地方の中心都市と定められた農 業によって栄えた非常に豊かな街であったが,その形態は険しい土地によってかたちづくられた自然と人工が混淆 する美しい都市であったと考えられる. ノートの新市街はなぜこの場所に建設されたのか.新市街は斜面地にたつものの,旧市街のあった場所に比べれ ば平坦な土地にあり,貿易のための港に近く(海岸線から約5km),かつ土壌が農業に適し,都市防衛の観点や利権 争いの点からも無難であったことが理由であったようだ. しかし,旧市街から新市街への移転が市民の総意として順調に進んだわけではなかった.実際,かなりの数の住
旧市街への復帰を求めた住民たちは,新市街が都市の防衛という点で問題を持っていると考えていたが,この懸 念はノート(アンティカ)と同様に地震で被災して移転・再建されることになったアーヴォラの再建によって解消 された.アーヴォラはノートの東北東に約4km,海岸線にかなり近いところにある六角形平面の城塞都市で,かつ てはノートと同様に,海岸線から5km ほど内陸に入った山岳地にあったが,これら2 つの都市を近接させながら移 転・再建させることでアーヴォラにノートの防衛機能を担わせ,同時に再建費用を節約することをスペイン政府は 狙ったのである. この2 都市の再建計画はアンジェロ・イタリア(Angelo Italia, 1628-1700)というイエズス会修道士でもある建築
家によって立案された.アーヴォラの計画には,カターネオ(Pietro Cataneo, c.1510-c.74)やスカモッツィ(Vincenzo
Scamozzi, 1548-1616)が建築書の中で論じた都市の携帯からの影響が強く見られ,街の特徴はバロック的というよ りむしろルネサンスの理想都市の系譜である(図20,図21).これはノートにおいても同様で,きらびやかなバロッ ク建築群の舞台となる街路空間や広場やモニュメントの配置構成などはルネサンス的であるといえる. 旧市街への復帰を求めたノートの人々は,ウィトルーウィウスが『建築十書』第一書で「安全性が高く健康的」 という都市の要件を満たすのはノート・アンティカであると主張した(文献にはウィトルーウィウスの名前は現れ ないが,それが理論的根拠であった可能性は高い).そうした主張に対する反論として,ウィトルーウィウスの理論 を近代化したカターネオやスカモッツィが都市計画の基盤と推察される. 図18. ノート市街の全景(田中撮影)
図20. アーヴォラの街路パターン (Salvatore Boscarino (1997))
Fig. 20. Street pattern of Avola (Salvatore Boscarino (1997))
図21. スカモッツィの理想都市(Vincenzo Scamozzi (1615)) Fig. 21. Ideal City by Vincenzo Scamozzi (Vincenzo Scamozzi (1615))
補論)ジェモーナとヴェンツォーネ(フリウリ地震) 1976 年にイタリア北方の小規模な町村が散在する中山間地で発生した通称フリウリ地震では,1000 名ほどの死 者を出し,多くの建物が崩壊した.現代的な震災復興の事例としてこれまで研究が進んできたが,各々の街によっ て復興の方針は異なっていた. ヴェンツォーネVenzone の町では,「アナスタイローシス」の原則にも従いつつ,崩壊した建物からできる限りの 材料を集取し,足りない部材を復原的に補い,それらを震災前の撮られていた写真と照らし合わせながら鉄筋コン クリートの枠にはめ込み,家屋を再建していくという作業が進んでいった.この作業には25 年を要した. 一方,ジェモーナGemona の場合は,耐震性の向上を目的とした近代的な建築構造への変換が図られ,復元とい うよりはむしろ,歴史的かつ伝統的な建築要素をある程度継承しつつ耐震性を確保するようにデザインを再構成 =rimannegiamento した「再生」が図られた. 2 つの街の復興の指針の違いは,両者の災害経験の相違が反映されていると考えられる.すなわち,ヴェンツォー ネが戦災とその復興を経験していたのに対し,ジェモーナは第二次世界大戦では被害がほとんどなかったため,古 い家屋が多く,人口規模もヴェンツォーネの5 倍と大きかったこともあり,400 名ほどの死者を出した衝撃が強烈 であったため,耐震性の向上を希求させたのであろう.
b) ブロンテ市が過去の溶岩流を削って住宅開発をおこなっていたことから,同市における土地利用計画(土地利用 制限)の実態を把握する. c)ヴァル・ディ・ノート地震後の再建において,現地再建,移転再建,現地再建と移転再建の混合という3パター ンがいかに選択されたのか,その背景を解明する.災害復興における「過去の継承」という観点については,旧市 街のモニュメントなどからのマテリアルの再利用(スポリアspolia)の有無についても調査する必要がある. d)今回の調査で訪問できなかった1968年のベリーチェ川流域地震で被災したサレーミ,ヌオーヴォ・ジベリーナ, サンタ・ニンファの各町の復興における計画と実際を把握する.とくに,地震前後での農村社会の変容や営農状況 の推移と復興のあり方との関係(現地再建か,新規建設か)に留意する. また,災害経験に関する言説・災害経験を踏まえた技術や法規の改正についても調査時間が不足したため,レ ビューできていない. 今後は上記の諸課題を解明したあと,各地震からの復興に対して反映されたであろうシチリアでの災害観,死生 観,経済力とそれらの変容過程を踏まえつつ,我が国の建築・都市空間における安全・安心とサスティナビリティ との折り合いをどこに定めるかを考える根拠や手続きについて考察していきたい. 図22. メッシーナの復興事業で実現した階段(田中撮影)
Fig. 22. Staircase realized through the reconstruction work in Messina (Photographed by Tanaka)
謝辞
本研究助成によって隣接領域を研究する若手研究者2名と日々意見交換をおこないながらシチリア島の諸都市の調
査・研究をする機会を得て,今後の研究活動に新たな展望が開けましたことに感謝いたしますとともに,調査・研 究に協力くださった岡北・稲益両氏にも御礼を申し上げます.
[4]Liliane Dufour e Henri Raymond (1994), 1693. Val di Noto. La rinascita dopo il disastro, Domenico Sanfilippo Editore
[5]Francesco Balsamo (1972), Breve notizia della città di Noto prima e dopo il terremoto del 1693, Jonica editrice, Noto
[6]Giacomo Parrinello(2010),Urbanization, environment and society through disasters; Messina 1908 - Belice Valley 1968, Univ. degli Studi di Sienna, Science history and contemporary history, p.113
[7]同上,p.112および114 [8]同上,p.116
[9]Villari,P. Spinazzola,V. Ricci,C. Alfani,P.G. Ojetti,U (1909), Messina e Reggio, prima e dopo il terremoto del 28 dicembre 1908, Societa Fotografica Italiana, Firenze
[10]Liliane Dufour and Henri Raymond (1990), Dalle Baracche al Barocco La Ricostruzione di Noto Il caso e la necessità, Palermo, Arnaldo Lombardi
[11]Vincenzo Scamozzi (1615), La idea dell'architettura universale, Venezia
[12]Menzogne(2006), La Ricostruzione di un Centro Storico -Die Rekonstruktion eines Historischen Stadtkerns, Venzone
[13]Valentina Piccinno(2012), 1976 Frammenti di Memoria, Città di Gemona del Friuli http://www.girofvg. com/1976-frammenti-di-memoria-visite-guidate-gratuite-alla-mostra-fotografica-sul-terremoto-gemona-del-friuli-ud/ 本助成研究にかかわる成果 〔論文発表〕 1.稲益祐太,田中傑,岡北一孝(2016),1908 年メッシーナ地震の復興計画-ボルツィの都市調整計画を中心 に-,日本建築学会2016年度大会学術講演梗概集【建築歴史 ・ 意匠】(掲載予定) 2.岡北一孝,田中傑,稲益祐太(2016年)シチリア・ノートの 1693 年ヴァル・ディ・ノート大地震からの復 興-移転再建をめぐって,日本建築学会2016年度大会学術講演梗概集【建築歴史 ・ 意匠】(掲載予定)