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真宗教学研究 第20号(2001)

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講 演 会 親驚における教団 蓮如と教団 近代教学における教団 研究発表 王法と教団 真の共同体 一一浄土建設の精神

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0号

教 団

対外道における初期仏教の思想的見地 一一業・輪廻思想と無記説 1996年度教学大会発表要旨

真 宗 教 学 学

ISSN 1346 2156 小 野 蓮 明 1 加 藤 智 見 10 福 蔦 和 人 17 三 明 智 彰 24 武 田 未 来 雄 39 茨 田 通 俊 55 ど玉、 Z之 67

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親理店における教[司 失礼いたします。それでは最初でございますが、暫く 時間を頂戴したいと思います。私に与えられました課題 は、﹁親驚における教団﹂という問題でございます。真 宗教団というとき、それは一言にして言えば、本願念仏 の教えに帰し、それに立って生きる人びとの集い、つま り念仏の和合衆、念仏者の共同体である、と言えると思 います。念仏者とは、すなわち念仏に生きるものとは、 それは何よりも本願念仏の教えに生きている師教との出 会いを通して、それを縁として、その教説に育てられ、 本願念仏に帰して生きる者となった人のことであります が、同時に念仏に生きる人の身には、いわば念仏そのも ののもつはたらき、あるいは功徳として、曇驚がすでに ﹃論註﹄の中で、﹁同一に念仏して別の道なきがゆえに。 遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり﹂と言

ロ 一 刀 r I

われておりますように、﹁みな兄弟﹂として、つまり根 源なるいのちを共に生きるという、広やかな交わりが与 えられる者となるのであります。念仏に生きる人は、本 願に帰して生きる一人一人の独立者でありつつ、しかも 同時に、同一念仏の一道において、兄弟としてのいのち を共にする交わりが成り立ち、念仏者の共同体が成り立 つのであります。いわば、浄土をその超越的根拠として 成り立つ、そういう念仏の共同体、それが真宗における 教団ではないかと思います。従って、念仏に生きる者は、 決して孤独に、一人一人が無縁に、別々なる存在として 生きる者ではありません。必ずそこに、共同体的に存在 するものである。念仏の教法は、人間の最も本来的な共 同性に目覚め立たしめ、いわば教法に統理された教団を 生むものである、と言えるかと思います。

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2 そのことは既に、釈尊、すなわち教主世尊とその仏弟 子達との関係に明瞭であります。いわゆる仏陀釈尊の教 法に統理された和合衆、つまり僧伽がそうであったよう に、仏弟子とは、仏陀以来必ず僧伽に加わり、僧伽の一 員として僧伽に生きる者であります。したがいまして、 念仏に生きる者も念仏の僧伽に百され、その僧伽におい て真の念仏者として形成されていくのであります。僧伽 に召され僧伽に加えられたという自覚は、一人という佃 の自覚を超えて、いわば僧伽的存在に為すのであります。 僧伽的存在と中しますのは、仏法に帰し仏法を生きる者 となったからこそ、仏法を身をもって証しする、あるい は仏法をになう、仏法を成就せんとする者に転ずるので あります。本願に呼び覚まされ本願に帰した者は、本願 を証しし、本願をにない本願を成就する者へと転ずる。 それが本願に帰した者、本願の僧伽に帰した者に自然に 促されてくる、僧伽の実践であると、こういうふうに考 えていいのではないかと思います。 親驚の場合、本願の念仏の教法との値遇は、具体的に は 一 一 一 一 日 う ま で も な く 、 ﹁ よ き ひ と ﹂ と 仰 ぎ 続 け ら れ た 法 然 との値遇を縁とするものでありますが、親驚は﹁よきひ とのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきな り﹂と言われたとしても、それはただ法然に、いわば個 人的に親哀したという意味ではないと思います。そのこ とは﹁教行信証﹄の﹁後序﹂で、﹁しかるに愚禿釈の驚、 建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す﹂と表白し、 ﹁ 一 冗 久 乙 の 丑 の 歳 、 思 恕 を 蒙 り て ﹃ 選 択 ﹄ を 書 し き ﹂ と 、 こういうふうに回心の告白と﹃選択集﹄の付属のことを 記しております。そして、その出来事を﹁これ専念正業 の徳なり、これ決定往生の微なり﹂と、このように確認 して、法然との値遇の意義の持つ深さ、それを極めて深 い成績を込めて述べておられます。しかしまた、そのよ うな感激のただ中に起こる最も悲憤すべき事件、悲しむ べき事件が、ご承知の通りあの承元の法難の専修念仏の 弾圧という、事件であります。今そのことを親驚は、 ﹃教行信証﹄の﹁後序﹂で﹁主上臣下、法に背き義に違 し、怠を成し怨を結ぶ﹂と、このように述べて、その次 に﹁これに困って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに 門徒数輩、罪科を考えず、狼りがわしく死罪に坐す。あ るいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はそ の一なり﹂と、このように述べております。そこに親鷲 は﹁真宗興隆の大組源空法師、ならびに門徒数輩﹂と言 われて、法然によって聞かれた浄卜宗教問、つまり古水

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親驚における教団 の念仏教団の名を挙げておられます。しかも﹁予はその プなり﹂と、こう言いまして、自らその門徒であり、念 仏 教 団 の 一 人 で あ る 、 と い う こ と を 明 一 一 目 さ れ て お り ま す 。 私は、親驚における数回という問題を考えていこうと する時に、このような記述が、一つの大きな原点になる のではないかと思います。法然との出遇いを縁にして、 吉水教団、念仏教団に召され、その門徒として自らを見 出したときに、親鷲は、承元の法難の念仏弾圧という歴 史的な現実のただ中にありまして、いわゆる真宗開顕と いう仏事を生涯をかけて顕かにするという、そういう決 意を内に決断されたと言えます。流罪の記録に際して ﹁予はその一なり﹂、こういう親驚の一言葉には、いわゆ る法然の門徒として、念仏の門徒として真宗念仏の教団 に紛糾する様々な問題に、深い深い責任感と使命感を持 って立ち上がらんとする、そういう決意を、この言葉に 見出すことができるのではないでしょうか。 本願念仏の信は、人をして仏法にこたえ、仏法の願い を願いとする、そういう使命と責任を感得させ、自覚的 に教団的存在にならしめる、こう言えるのではないかと 思います。真実の仏法に帰し仏法に生きるとは、仏法に 相応する者として、自己の主観性を超えて、いわば教団 3 的存在として生きる者となる、ということかと思います。 今、そのことを少し立ち入って時間の許される限り考 えてみたいと思います。﹁愚禿釈親驚﹂と名乗る仏者の 原点と一言、つべき自覚的な烹脚地は、今申しましたように 法然の教説との値遇です。﹁ただ念仏して弥陀にたすけ られまいらすべし﹂と勧める法然の声、発遣の教主とし ての法然との出遇いです。﹁ただ念仏﹂の一道に発遣し て止まない法然の教言に聞かれた親驚の根源的な目覚め、 それが先程ふれましたように﹁雑行を棄てて本願に帰 す﹂という、あの回心の表白です。﹁本願に帰した﹂と、 つまり本願招喚の声に喚ぴ覚まされて如来の願心に生き る、そういう新しい生を獲得したと、親驚はこう一言って おります。そうしますと、親驚が法然を﹁よきひと﹂と 讃仰するのは、ただ個人的な意味での﹁よきひと﹂では ないと思います。むしろ個人を超えて教主世尊の教言を 法然を通して聞きあて、それに値遇し、それに立つこと が今できたという、感銘ではないでしょうか。だから親 驚は、法然のことを﹁真宗興隆の大祖源空法師﹂と﹁後 序﹂に記されたのであろうと思います。﹁法師﹂という のは、文字通り仏法の師という意味でしょう。末法濁世 のただ中に生きる民衆に、選択本願念仏を唯一の真実の

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4 仏道として掲げた法然の歴史的な意義を、親驚は﹁真宗 興隆の大祖源空法師﹂という言葉で讃えたのです。﹁法 師﹂とは、今申しましたように仏法の師、そこに法然の 出世の意義は、まさにそのまま教主世尊の出世の意義と 等しいということを、親驚は見出しているのではないで しょうか。二千年前の教主世尊、それは今﹁よきひと﹂ 法然として自らの前に立って下さっている。こういう感 動と感銘かと思います。それが和讃では、﹁本師源空﹂ と、このように誉め讃える意味かと思います。 親驚は、法然との出遇いに、そのような深い意味を見 出し確かめたのは、恐らく越後流罪以降であったかと思 い ま す 。 念 仏 の 弾 圧 は 、 二 一 一 口 う ま で も な く 悲 憤 す べ き 事 件 でありましたが、親驚は師法然の念仏の教えの純粋な帰 依を保持して棄てることがなかったために、法然と共に いわゆる流罪に処せられるのでありますが、しかし逆に 法然との出遇いの意味を、その値遇の意味をより一層根 源的にたずね、深く領、く、そういう決定的な縁になるの が 、 あ の 流 罪 で は な い か と 思 い ま す 。 承 元 の 法 難 は ヨ 一 口 、 つ までもなく、念仏の停止であり、念仏教団の解体であり ます。親驚は﹁後序﹂に記しておりますように、思恕を 蒙って選択の付属を、つけた意味は、一体何か。それは、 真宗興隆の仏事の継承、つまり真宗開顕の仏事であると、 自覚化されていったと思われます。そこに何よりも、親 驚の仏者としての深い目覚めと使命がある、と思います。 真宗興隆の仏事に参加して真宗開顕という生涯の仏事 を為そうとするときに、親驚は、選択本願念仏の教説を ただ法然の教説にとどめないで、いわゆる教主世尊の教 説に立って、その真実性を開顕しようとされました。こ れが﹃教行信証﹄の為された事業ではないかと、私は思 います。そのことは既に﹁教巻﹂に、﹁それ、真実の教 を顕さば、すなわち﹃大無量寿経﹄これなり﹂と申され まして、﹁大経﹄の大意を釈された、いわゆるあの宗体 釈があります。﹁ここをもって、如来の本願を説きて、 経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、経の体と するなり。﹂﹃大経﹂は、如来の本願を経の宗致と為し、 仏の名号をもって教説の体とする、このように親鷲は領 解されております。ところが、その宗致としての如来の 本願を説き、その体としての名号を説き続けた人、それ こそ親驚にとって﹁よきひと﹂法然であったはずです。 ﹃選択集﹄の﹁南無阿弥陀仏往生之業念仏為本﹂と いう襟挙の丈のもとに、選択本願の念仏の教えを語り続 ける法然の教説こそ、﹁如来の本願を説きて、経の宗致

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とす﹂﹁仏の名号をもって、経の体とする﹂という、﹃大 無量寿経﹄の教説の最も具体的な相ではなかったのか、 と。法然の本願念仏の教えとは、文字通り今教主世尊の 根本教説であります﹁大無量寿経﹄の歴史的な現成、あ るいは歴史的な現前ではないか、と。﹃大経﹄は、単に 釈尊によって教説され、伝承されただけではなくて、今 現に法然の本願念仏の教説としてここに現前し、末法濁 世の衆生のただ中に往生浄土の一道を説き続ける声とし て、今ここに現前しているという実感です。教主世尊と ﹁よきひと﹂法然、如来の本願の教説とその歴史的な展 開としての念仏の勧め、親驚はそこに、教主世尊と法然 との、いわば等同性と申しましょうか、その等しさをは っきりと見据えた眼が、そこにあるのではないでしょう 親鴛における教団 ・ 刀 親驚はそのような意味を込めて、そのような視点を十 分に獲得されたときに、法然の﹁門徒﹂として、同時に それは何よりも、法然の門徒であるということは、釈迦 仏の御弟子であるという自覚を開いてきたのではないか と思います。親驚は、本願の信が実現する、いわばそう いう主体的な人間像を﹃教行信証﹄で﹁真仏弟子﹂と顕 かにされます。﹁﹁真仏弟子﹂と言うは、﹁真﹂の言は偽 5 に対し、仮に対するなりよそしてその次に、﹁﹁弟子﹂ とは釈迦・諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この 信・行に由って、必ず大浬繋を超証すべきがゆえに、 ﹁真仏弟子﹂と日うよこのように述べられて、そこに 釈迦・諸仏の弟子であるという一言があります。法然の 念仏教団に加えられたということは、単に法然の門徒で あるというだけでなくて、この言葉に依れば、釈迦・諸 仏の弟子であるという、つまり﹁真仏弟子﹂の自覚をも たれたということです。釈尊出世の本懐につきましては、 親驚は﹁大経﹄の出世の正意を語る文に従って、﹁教巻﹂ に、﹁釈迦、世に出興して、道教を光閉して、群萌を振 ぃ、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり﹂、この ように述べられまして、そこに道教を光闇して群萌を挺 ぃ、如来の本願念仏を真実の利として恵まれたと、この ように述べられております。群萌とは言うまでもなく、 この五濁の世に生きる生活者を意味しますが、そのよう な群萌として生きる生活者こそが、如来の本願の正機で あ る 、 と 。 この如来の興世は、そのまま親驚にとりましては、法 然の出世の音公表であったのではないでしょうか。﹁生死 いずべきみち﹂を﹁ただ一筋に仰せられ候いし﹂、この

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6 法然の上に親驚は、釈尊出世の正意を、確かに感得され たと思われます。そのように領解しますと、﹁釈迦・諸 仏 の 弟 子 ﹂ と 一 言 、 っ と き の ﹁ 諸 仏 ﹂ と は 、 親 驚 に と り ま し ては、最も直接的には﹁生死いずべきみち﹂を﹁ただ一 筋に﹂語り続けられた﹁よきひと﹂法然であったと、こ のように領解できると思います。もちろん﹁諸仏﹂です から、法然一人だけではありません。﹁正信偶﹂に﹁印 度西天之論家中夏日域之高僧顕大聖興世正意明如 来本誓応機﹂という言葉がありますように、三国の浄土 の高僧たちがすべて諸仏です。さらには、その本願念仏 の法に帰して生きる、十方恒沙の諸仏が、そこにましま す に 違 い あ り ま せ ん 。 しかし親驚が、釈迦の仏弟子にされたという、そうい う深い謝念から今自らを直接に導いて下さった法然、こ の方を諸仏と仰ぎ讃嘆されております。親驚のこのよう な仏弟子の自覚が、あの﹁愚禿釈親驚﹂という生涯の名 乗りの根底にあると思います。﹁愚禿﹂とは、言、つまで もなく﹁愚かなる禿人﹂ということでありますが、それ が同時に﹁釈﹂、釈迦仏の御弟子として﹁釈﹂であると。 それは親驚にとりまして、同時に群萌の自覚であります。 その﹁愚禿﹂は、群萌の自覚を表す言葉でありますが、 その群萌なる者が同時に、釈迦、釈尊の御弟子として ﹁ 釈 ﹂ で あ る と い う 窒 一 一 百 で す 。 今 仏 弟 子 の 古 典 的 な 名 乗 りであります、あの釈子を意味する﹁釈﹂の丈字を、親 驚は敢えて自らの名とされている。そこには、親驚にお ける仏弟子としての強い自覚の表明があると思われます。 ﹁ 愚 禿 ﹂ な る ﹁ 釈 ﹂ 、 ﹁ 愚 禿 ﹂ に し て ﹁ 釈 ﹂ 、 こ の よ う な 名乗りは、いわゆる出家の意義を保つことができない仏 弟子を表すものでありますから、文字通り末法の世の仏 弟子、末法の僧伽のあり方を一不す、最も具体的な言葉か と思います。釈迦・諸仏の弟子としての﹁真仏弟子﹂を、 親驚は﹁仏弟子釈﹂で﹁金剛心の行人﹂と教えて下さっ て お り ま す 。 ﹁ 金 剛 心 ﹂ と い う 一 言 葉 は 、 言 、 つ ま で も な く 元は善導の言葉であり、本願の信を表す言葉であります が、親驚はそれを継承して、真実信心を表す言葉として 用いられます。つまり、﹁金剛心﹂を獲てそれを行ずる 人、このような人聞が仏弟子の具体相であると語ってお ります。親驚は、本願念仏に帰して生きる人を﹁信心の 行者﹂とか﹁信心の行人﹂と、このように言います。そ の行人という、行ずる人、ここに私は深い音品味を感じま す。善導は、﹁仏教に随順し仏願に随順する﹂、それを ﹁真の仏弟子と名づく﹂と、こう言ったのでありますが、

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親驚における教団 そういう領解を持ちながら如来の本願に帰し、その願心 に立って生きる﹁金剛心の行人﹂をもって﹁真仏弟子﹂ と。そこには長い仏教の歴史の中で、いわゆる戒を持っ て仏弟子の資格とされてきた、そういう仏弟子観に対し て、戒に依らない仏弟子、つまり﹁金剛心﹂という本願 の信に依ってこそ﹁真仏弟子﹂とされるという、仏弟子 の画期的な領解が、そこに示されています。 ﹁金剛心の行人﹂とは、﹁この信・行に由って、必ず 大浬般市を超証すべきがゆえに、﹁真仏弟子﹂と日う﹂と 言われますように、﹁必可超証大浬繋﹂の大道に立った 人であります。無上大浬繋道に立った人であり、いわば 仏道の根源のいのちを獲得した人であります。そういう ﹁ 金 剛 心 ﹂ と い う 言 葉 を 、 今 も し 世 親 の 一 言 葉 に 立 っ て 言 えば、それは﹁一心帰命の信﹂、あの﹁世尊我了心、帰 命尽十方無碍光如来、願生安楽園﹂と表された﹁一心帰 命の信﹂であり、従ってそれは、﹁一心願生の信﹂であ ります。如来の本願に帰して﹁無碍光如来の名を称す る﹂人であり、願生の一道を生きる人であります。 そのような念仏者の共同体、それが具体的には教団で はないでしょうか。その共同体は、本願念仏の教えを縁 として結ぼれた念仏の和合体であり、いわば念仏の僧伽 7 ﹁ 歎 異 抄 ﹄ の 中 に よ く 知 ら れ た 、 第 六 条 の 二 一 一 口 業 が あります。﹁専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟 子、という相論のそ、つろうらんこと、もってのほかの子 細 な り 。 親 驚 は 弟 子 一 人 も も た ず そ 、 つ ろ う ﹂ 、 あ の 一 一 一 回 葉 がございますが、そこに﹁専修念仏のともがら﹂、この ように言っております。﹁専修念仏﹂とは、言、つまでも なく法然の立場を最も端的に一不す言葉でありますが、親 驚が東国の地に形成された、いわゆる東国教団は、法然 の 深 い 感 化 の も と に あ っ た こ と が 、 こ の 一 一 一 日 葉 で 知 ら れ る のではないでしょうか。東国の同朋教団は、いわば吉水 の念仏教団の再興を願った具体的な形である、こう考え ることができるのではないかと思います。それは、吉水 教団が承元の法難で解体を余儀なくされたのであります から、親驚には、吉水の念仏の共同体を再び関東の地に 興隆したいという、僧伽の回復への強い志願があったと 思われます。しかも、その﹁専修念仏のともがら﹂の間 で﹁わが弟子ひとの弟子﹂という﹁相論﹂があったとき に、親驚は﹁弟子一人ももたない﹂と言い切ります。つ まり、すべての念仏者を友となし、同行としてかしずか れ た と い う こ と で す 。 その東国の同朋教団も実際には理想的な完全な教団で です

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8 はありませんでしたが、しかし﹃一念多念丈意﹄や﹃唯 信紗文意﹄などに言われておりますように、﹁丈字のこ ころもしらず、あきましき愚痴きわまりなき﹂﹁いなか のひとびと﹂、そういう人びとの集いであったと思われ ますが、しかし親鷲は、その﹁いなかのひとびと﹂を ﹁ひとえに弥陀の御もょうしにあずかつて念仏申しそう ろうひと﹂と、このように深い尊敬を与えて﹁ともの同 朋﹂と呼びおうて、本願念仏の和合体の場に立って、本 願の仏道を行証されたのであります。 本願の念仏という仏法のいのちに聞かれる教団は、い わゆる仏法の行ずる場所であり、仏法の歴史の現前して いる場所であります。教団とは、私は端的に、そういう 教法の現前、教法の現成の現実態でなければならない、 こう思われます。親驚の﹁教行信証﹄の結びの所に、ご 承知の通り道悼の﹃安楽集﹂の丈を置いております。 ﹁前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪 え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。 無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。﹂これ は文字通り念仏の僧伽の願いではないでしょうか。念仏 に帰し大行に帰した者が、自覚的に感得する、僧伽の願 いではないかと思います。本願の名号である南無阿弥陀 仏という真実の法は、この法に帰した者は、単に一人と いう個人の立場にとどまることなく、必ず個人を超えて 僧伽への大いなる願いを聞くということです。念仏の法 に帰した者は、僧伽的な存在に転成する、ということが 言えると思います。それを曇鷲が、既に先程申しました ように、﹁四海の内みな兄弟とするなり﹂と教えられた のです。親鷲においては、念仏は﹁四海の内みな兄弟と する﹂、そういう和合体を開くはたらきそのものです。 親驚は、その念仏を﹁大行﹂と捉えました。﹁浄土真 実の行﹂と領解されました。浄土を失って流転している 我ら衆生に、まさしく浄土を開示する真実のはたらき、 親驚は、そのような意味を﹁浄土真実の行﹂と言ったと きに、感得されているのではないでしょうか。念仏を、 衆生を浄土に往生せしめる行であると領解すれば、これ は法然の念仏の領解に立った行の理解でありますが、親 鷲は、念仏を﹁往生浄土の行﹂と理解する立場を継承し ながらも、念仏を一層根源的に﹁本願の名号﹂として捉 え、そして今﹁行巻﹂で﹁浄土真実の行﹂と、このよう に捉えられました。それは、本願の名号は、何よりも浄 土を開示するはたらき、こういう意味であると思います。 名号は、浄土を喪失して流転している我ら衆生に、真実

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親驚における教団 の浄土を開示し、真実の報土を得しめる法である。そう いう浄土を曇驚は、﹁各属功徳﹂の解釈の中で﹁四海の 内みな兄弟とするなり﹂と、こう言って、浄土は、本願 の名号に聞かれる一味平等の世界である、﹁ともの同朋﹂ の世界だと、御同朋御同行の世界であると、こういう領 解であります。名号に帰する信心において、すべてが兄 弟のように和合する場を聞く、つまり本願の名号を法と する僧伽に呼び帰されるのであり、そこに浄土のはたら きを感得しつつ自覚的に身を置くことができた、そこに 仏法の僧伽の深い願いを持ち、念仏の僧伽を生きんとす る者となるのであります。本願の信、念仏の信は、この ように必ず僧伽への大いなる願いを聞くものである。念 仏の法に帰した者は、いわゆる僧伽的な存在に転成する、 こういうことを私は、親驚の生涯の中から学ぶことがで きるのではないかと思います。 与えられた時間が来ましたので、これで失礼いたしま す 。 9

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加藤でございます。宜しくお願い致します。 我が国における﹁教団﹂という用語は、伝統的な仏教 から出たものではなく、近代になって法律的・行政的な 面から造語され、使用されるようになった言葉でありま す。一応、同一の教義を信奉する者の集団を指すもので あると言われております。しかし、この用語の歴史は浅 く、その概念規定もまだ十分に為されていない状況であ るため、むしろこれから明確な意味を与えていかねばな らない言葉であると私は考えております。 そこで今回私は、真宗の教えを基盤にして真宗教団は いかにあるべきかを、蓮如を中心にし、かつ私の専円で あります宗教学、特に比較宗教学、中でもキリスト教と の比較を参考に致しまして、考えてみたいと思います。 ところで、真宗教団の現状を憂いまして、しばしば親

驚の信心の原点に帰れ、とか、祖師聖人に聞け、という 言葉が発せられることがございます。確かにこれは正し い主張ではありますけれども、いわゆる教団体制という ものが整っていなかった親驚の時代に、一気に教団問題 の解答を求めようとすることは、場合によっては横暴な 主張になる恐れがあると思います。また、最近教学から 教団を考えるというよりも、教団に則した教学が再構成 されなければならないという見方もございます。教団の 現状とか布教の現実、あるいは日本の根深い習俗などを 見据えての問題提起でありまして、深い意味があると考 えられますけれども、これも一歩間違えば非常に危険な ものになる恐れがあると思われます。そこで私は真宗の 信、信心の中から必然的に由米し、しかも柔軟に時代に 対応しこれを包容し得る教問とはどの様なものであるか

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蓮 知 と 教 団 を考えてみたいと思うのであります。 周知のように親驚は﹁往還の回向﹂ということを言い ました。﹁往相﹂すなわち衆生が浄土に往生することも、 ﹁還相﹂すなわち往生して仏になり再び此の世に還って 利他のはたらきをすることも、全て本願の力がしからし めることであるという意味でございます。実は私は、こ の点が真宗における教団の重要な原点の一つになるので はないか、と考えております。広く様々な宗教を見た場 合、特に救い・救済をその究極の関心とする宗教形態に おいては、自己が救われる、いわば自利の面の裏側に必 ず利他のはたらきが要求されております。それが使命で あると同事に、宗教的な喜びになっております。今は信 のこの一一つの方向性を仮に二重性と名付けておきたいと 思 い ま す 。 さらに、親驚は﹁浄土の慈悲というのは、念仏して、 いそぎ仏になりて、大慈大悲をもって、おもうがごとく 衆生を利益するをいうべきなり o ﹂と述べております。 この様な態度は、例えば比較宗教学的な立場に立った場 合、その教理的な背景は当然異なりますけれども、信仰 というものを非常に強く主張しました、例えばマルチ ン・ルターが、信仰によって自己を越え出て高く神へと 11 のぼり、愛によって神から再び自己のもとに下り喜んで 人々のために奉仕する、という心情に類似する点が考え られます。そして、親驚は﹁わが身の往生をおぼしめし て御念仏そ、つろうべし﹂という往相道において、同時に ﹁世の中安穏なれ、仏法弘まれ﹂という還相道も成就し ています。この様な信の中で、親驚は人々をみて﹁よろ ずの煩悩にしばられたるわれら﹂﹁りょうし・あき人、 さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごと くなるわれら﹂と述べております。この﹁われら﹂とい う態度に教団の原点的なものを示していると思います。 親驚はいわゆる教団というものを志向したのではありま せんけれども、私はここにいわばまだ組織化を意図しな い﹁見えざる教団﹂、ちょっと奇妙な言葉ですけれども ﹁見える教団﹂・﹁見えざる教団﹂という使い方をこれか らしてまいりますが、組織化を意図しない﹁見えざる教 団﹂を私は見るものであります。 しかし、この﹁見えざる教団﹂いわば親驚の理想的な 教団とも一言えますけれども、この﹁見えざる教団﹂を ﹁見える教団﹂にしようとする場合、常に誠実に我々は 自問する必要があると思います。親驚は先程の言葉と同 時に﹁小慈小悲もなき身にて有情利益はおもうまじ﹂

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12 と告白しているからであります。この真撃な自問こそが 真宗教団の原点について考える場合、必ずなければなら ない態度である、と私は思うわけです。すなわち真宗に おいては、究極的には教団形成の主体は﹁有情利益﹂を なし得ない衆生ではなく、究極には仏なのであります。 従って、その仏意の実現をいかに人聞が手伝わせていた だくか、が教団論の本質問題になるのではないかと思い ます。仏意を離れて教団が独走してはならない。これは 当然のことなんですけれども、よくまた忘れられること でもございます。またこの点が真宗教団の最も純粋な特 徴であると思われます。あくまでも仏意の現われが真宗 教団の最も純粋な特徴であると、そういうふうに私は思 います。このような問題意識が先の核心の部分、いわゆ る往還の二回向の周辺に必ず設定されて常に意識されな ければならないと思います。 ではこのことをよく認識した上で、教団をいかに考え るべきか。例えばルタ l は﹁真の教会は神のみに知られ、 往々にして隠れていてバラバラであって霊の終によって のみ結合されているものである。﹂と申します。つまり 真の﹁見えざる教会﹂﹁見えざる教団﹂は神のみによっ て知られ、形成され、制度や組織ではなく霊の粋によっ て結ぼれている、と言うのであります。肉欲を持つ人間 の形成する教団は不純なものが混じるからであります。 しかし、この点を先ず凝視することによって、その﹁見 えざる教団﹂に一歩でも近づくべく﹁見える教団﹂を形 成する、という意味ある行為が始まります。ルタ

l

は ﹁人間はこの世ではなお身体生活にとどまっている。従 って自分の身体を制御し、また人々と交わらなければな らない。だからここにわざが始まる。この点では人は怠 けていてはいけないのだ o ﹂と言います。かくしてル タ

l

は自分を神の下僕とか奴隷と位置づけることによっ て教団形成に献身しようとします。 これを参考にして真宗について考えてみますが、浄土 真宗では﹁如来の教団﹂ということがよく言われますけ れども、しかし親驚が告白したように、肉欲をもち﹁愛 欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑し﹂﹁小慈小悲も なき身﹂がそのまま﹁知来の教団﹂を形成し、維持でき る も の で し ょ う か 。 如来の教団は、大悲が﹁つねにわが身をてらす﹂がご とく、知来の方から示されてはいるが、﹁煩悩にまなこ さえられ﹂た人聞が果たして形成できるものなのかが常 に問われねばなりません。蓮如が、﹁くうことと着るこ

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蓮 如 と 教 団 ととのこっかけぬれば、しんめい安からずして、かなし きことかぎりなし﹂と言った凡夫にとっては、むしろこ の﹁如来の教団﹂は﹁見えざる教団﹂であると考えなけ ればならないと私は思います。にもかかわらず教団を形 成するには、ルターが自己を﹁下僕﹂とか﹁奴隷﹂とし たごとく、徹底して如来の意志の奴隷に成り切る態度を 必要とするのではないでしょうか。真宗の場合、奴隷と いう表現は必ずしも適切ではありませんけれども、やは りこのような意識というものが必要だと思います。 実は蓮知は、その姿を見事に示していると私は思いま す。﹁御門徒のために、御身をばすてられ候う﹂と記さ れておりますように、まさに身を捨てたのであります。 ﹁門徒のため﹂と表現されていますが、これは究極にお いては﹁如来の教団﹂の実現のために身を捨て、如来の 奴隷になったんだと私は思います。自己を如来の御代官 と位置づけた親驚の姿をさらに徹し、如来の意志のまま に如来の手伝いに自分を徹せしめました。ちなみにル タ l に問いますと﹁キリストは奉仕者の立場における代 理人を必要としておられる﹂と言っております。蓮如は 自己の意識を徹底的に変革させました。蓮知は﹁見える 教団のみを組織し、世間に妥協した﹂とよく言われます 13 が、私はそうは思いません。肉を持った自己を絶えず変 革しつつ、肉を持つ衆生をおわえ取る如来の意志を手伝 おうとした人であると考えなければならないと思うので す 。 見えざる如来の教団の在り方を問い、そして如来に導 かれながら、つねに見える教団を実現しようとしていた と考えられます。見え、ざる教団のみを主張することは、 場合によっては独善に陥る。逆に見える教団のみを問題 にすると、野心とか名利に走りがちになるのではないで しょうか。教団について誠実に考えることは、この二つ の教団の聞につねに目を移動させなければならない。こ れがまた註還的な生きた動きであるし、これが先ほど申 しました二重性でもございまして、教団論の核心部の第 一周辺にこういう意識がつねに持たれねばならないと思 い ま す 。 ル タ

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は回心後、人とよくつき合い、よく話し、よく 聞き、よく笑うようになりました。家庭には人々を集め 談話し、弧児を引き取り面倒をみ、病人を収容したり、 追われている者をかくまった。修道院を否定したルター は家庭をそれに代わるものとし、生身の人間の集合場所、 教育の場にしました。また赤ん坊が生まれると何のてら

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14 むつきを洗って干したりもしました。蓮如も そうでしたけれども、神の愛のなかに高められると同時 に、ルタlは自分の目を人間の肉の生活の中に、つねに 同時に移動させております。丈字を知らない何も読めな い人を見れば、神に問い求めつつ口で暗記できる簡潔で 短い﹃小教理問答﹄を作りました。これは蓮如の﹁御 丈﹄に当たると言えます。つねに教会、教団をロlマ教 皇的な目で見ないで、あらゆるものに奉仕する神の下僕、 奴隷の立場から形成してまいりました。しかし﹁見える 教会﹂を形成するためには、現実の権力闘争や、利害打 算の嵐、あるいは異端の嵐のなかに身を委ねなければな りませんでした。苦しい試練でありましたし、どちらに 転んでも悪評を受けなければならなかった。彼は、よく ﹁妥協主義者﹂と言われますけれども、これは伝道の苦 し み を 知 ら な い 人 聞 が 一 一 一 日 う こ と で あ り ま す 。 日 夜 御 門 徒 の日常生活に関わりつつ、伝道しておられる方にはよく 分かるはずであります。 蓮如は如来の﹁見えざる教団﹂の本質をつねに尋ね、 如来の意志、つまり仏意を尋ねながら﹁見える教団﹂を 形成しようとしていった、と考えなければなりません。 その逆ではありませんでした。蓮如はよく﹁ただ信をと い も な く 、 らせたい﹂と言いましたし、信心を得ない人に接すると、 ﹁身をきりさくように悲しきよ﹂と言いましたけれども、 信をとらせたいと願うのはまさに如来であり、信の得ら れない衆生を憐れむのも実は如来であります。この如来 の意志を手伝うことこそが、蓮如の使命でありました。 如来の意志から離れた教団形成であれば、端的な野心に 陥ります。現代このような教団が非常に多いと思われま す 。 蓮如については、よく王法と仏法の関係が云々されま すけれども、果たして王法に歯向かい、門徒のいのちを 犠性にすることを如来が望むでしょうか。イエスも﹁剣 をとる者は剣によって滅ぶ﹂と言いましたが、たとえイ デオロギー的に妥協、矛盾といわれようと蓮如にとって はいのちを犠性にすることなく如来に顔を向けさせ、ひ とりひとりのしのぎという言葉がございますけれども、 ひとりひとりが信を得ることこそが究極でありました。 また他宗他派、諸神諸仏菩薩の問題についても、ご存 知のように﹁諸神諸仏菩薩をもおろそかにすべからず。 これみな南無阿弥陀仏の六字のうちにこもれるがゆえな り﹂と述べました。原理的に言えばこれには問題があり ます。しかし、庶民の素朴な心情にとっては諸神も諸仏

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蓮 如 と 教 団 菩薩も尊いのであります。諸神諸仏菩薩への信心を包容 しながら純粋な信心に昇華していくことが、もっとも自 然で安全な方法であると考えたに違いないでしょう。あ らゆる庶民の悩みを如来の意志に尋ね、答えを聞き、個 人個人の病や体質に応じて薬を与えなければならなかっ た。また良日、吉日、ト占などの問題についても、例え ば大坂御坊建立に当たっての鍬入れについて、﹃拾塵記﹄ には日柄が悪いので外聞を思って一日遅らせたと記され ています。しかし﹃反古裏書﹄には、蓮如は如来の法の なかに吉日などは説かれていない、仏説疑いなしと言っ て断固取りかかるべきだと主張した、と記されています。 このような一見矛盾するようなことが記されていること を、どう考えるべきでしょうか。 私見によりますと、このような問題については、蓮如 はその時その時の対処の仕方をしていたと考えられます。 つまり人々の神経を逆なでし、如来への信から遠ざかる と考えられる場合には、それを包容し素直に如来の意志 を受け入れる気持ちになるまで待つ。しかし、そうする 必要のない場合には断固如来の意志、親驚の意志を判断 基準とする。親驚も、ご存じのように﹁かなしきかなや 道俗の良時吉日えらぱしめ﹂と一言、っ。と同時に﹁仏法 15 をふかく信ずる人をば、天地におわしますよろづの神は、 かげのかたちにそえるがごとくして、まもらせたもう﹂ と一一百いました。蓮如は信心そのものに閲する点では厳し い態度を貫きますが、他の点では、信心に導くという大 前提が犯されない限り、柔軟に人々の素朴な心情を包容 したのであると思います。 そもそも蓮如に原理的なものを要求することの方がむ しろ横暴ではないか。彼の視点は衆生を憐れむ如来の音川 志と、動乱や飢笹や村八分を恐れる庶民の気持ちの聞を 絶えず動いているからであります。如来の教団に目を向 けさせる手伝いこそが彼の使命であって、原理を突き付 け、それをもって純粋であると満足するような思想家で もなく、あるいは信者の数や組織の強大さのみを誇る単 なるオルガナイザーでもなかったからであります。 さて、このようにして私は、如来の教団としての﹁見 えざる教団﹂を示した親驚の態度、これを継いであらゆ る努力をはらって﹁見える教団﹂を形成していった蓮如 の姿を見てまいりましたが、後に清沢満之は近代的な立 場から﹁大谷派なる宗門は、大谷派なる宗教的精神の存 するところにあり﹂と指摘し、浩々洞のようなうるわし い僧伽を形成いたしました。しかし、浩々洞は如来の意

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16 をよく知った知識人の集まりでもありました。近代的な 煩悩に眼をさえられた庶民を、いかにして教団に導き入 れていくかの具体的な方法についてはいまだ示さずに満 之は往生しました。まことに残念なことですけれども、 浩々洞は実質的にはむしろ﹁見えざる教団﹂﹁如来の教 団﹂に近いと思います。さまざまな苦悩を抱えた﹁見え る教団﹂への現実的対応の問題はわたしたちに残された 課題であると思います。 見えざる如来の教団ばかりを原理的に主張するのでは なく、逆に﹁見える教団﹂のみに気をとられ、信徒の数 や教団施設、組織力を誇ったり、さらには片寄ったマス コミの報道に気をとられることなく、あくまでも現代の 病巣を見据えなければなりません。例えば、若者達にお ける異常な占いブ l ム、墓ブ l ムや再び強固になりつつ ある祭組、新宗教から新新宗教ブ l ムへの変化と現代人 のストレスの関係など、その原因追究等の問題をその第 一周辺の外側の第二周辺におきつつ、その原因を敏感に 見抜き、つねに今知来なら、あるいは親驚なら、蓮知な らどう対応するか、を庶民の側に立ち、その下僕ないし は奴隷となって身を捨て、聞い直し続けることこそ、そ してそれが出来る人を養成していくことこそが、今教団 に求められていることですし、そこに真宗教団における 教団の意味があると私は考えております。少し時間を超 過しまして失礼致しました。

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近代教学における教団 近代教学において、教団はどのように観られているか、 また、教学者達は如何に教団に関わり、どう思想し、生 きたか、を問い、そこから私達は何を学び、何を考える のか、という諸点が、私に与えられたテlマの趣旨であ ろうかと、考えます。 さて、教団という時、そこには二つの意味を見ること が出来るか、と思います。 一つは、社会学的概念での社会集団の一つとしての教 団、つまり現実社会に存在する一種の組織体として。二 つ日には、﹁我、知来を信ずるが故に、如来在ます也﹂ ︵曽我量深九十歳領寿記念講演︶との表現に見られるよ うな、宗教的自覚において見出される万僧伽 μ の意味に おける教団として。 つまり、前者は調査・分析・綜合といった知的作業に 17

よる客観的理解・認識の対象としての、後者は、自身と 教団との主体的関係、すなわち、教団を自己の内容とし て覚知するところに見出される僧伽への願心において、 の二つであります。この二つは、私達の精神的作用とし て、性質を異にするものであるが故に、一見、対立・相 克の関係にある如く見られるもの、必ずしも相矛盾する ものではなく、一一者何れを立場としようとも、他の一方 の立場とその研究成果から学ぶことの出来るもの、と考 え ま す 。 近代教学の先駆者清沢満之師は、その宗門改革運動の 最中に真宗大谷派教団につき、次のように述べているこ とは、周知のところです。 ﹁窺々たる六僚の雨堂、既に大谷派と矯すに足ら ず、地方一寓の堂字、既に大谷派と矯すに足らず、

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18 三蔦の僧侶、百寓の門徒、亦た直ちに大谷派と矯す に足らずとせば、大谷派なるものは抑々何の慮に存 するか。日く大谷派なる宗門は、大谷派なる宗教的 精神の存する所に在り。量に人員の多寡を聞はんや。 置に堂宇の有無を聞はんや中略有くも此の精神 の存する所は、即ち大谷派なる宗門の存する所な り ﹂ ︵ ﹁ 教 界 時 一 言 ﹂ 第 十 一 号 ・ ﹁ 清 沢 満 之 全 集 ・ 問 ﹂ ︶ ここには、後者の立場に立つ教団観、否、教団精神を 見ることが出来ると思います。宗門から受けた御恩遇 法の謝念に発するに報ずるところに、己の道を選びと ったこの師の、宗門改革運動挫折後の求道と、﹁自信教 入信﹂の感化の中に育った門下生に受け継がれた教団観 にも、私はこの与えられた機会に多少なりともふれられ ればと、思います。 私が申し上げたい主旨は、レジュメにまとめさせても らいましたので、ご参考にと思っておりますが、誓えで 申しますと、こういうことでございます。大正時代に、 近角常観師の講話の折の話として、それを聞いた作家の 嘉村磯多氏が、伝えている、概略次のような話がありま す。あるお家に二人の兄弟がおりました。たまたま親類 にお祭りか何かお祝い事があっておよばれに行ったとい うことです。ずいぶんとごちそうが出たことでありまし ょう。兄ちゃんと弟が帰ってきました。待っていたお母 さんが﹁どうだつたの?﹂﹁ごちそうおいしかった?﹂ と聞きましたら、お兄ちゃんの方は、とにかく出された ごちそうを初めから終わりまで全部覚えていてですね、 最後にイチゴが出たとかですね、そういう一つ一つまで ちゃんと報告したのに対し、一方、弟の方は、いっぱい になったおなかをたたいて、﹁ああ、おいしかった﹂と それだけ言った、と、まあそういう話が、ずっと以前の 昭和初期に活躍したこの作家のエッセイに出ております。 私は﹁近代教学における教団﹂といういかめしいテ

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マ をいただいておりますが、気持ちとしては弟の方の﹁あ あ、おいしかった﹂と、そういう気持ちで、近代つまり、 明治以後の真宗の歴史を特に先学、同学のみなさまから 御導きいただきながら学ばせてもらっている、その中か らの一端を、ご報告に変えてお聞き願えればと、そんな 具合に思うようなことです。 そ れ で 、 今 申 し ま し た こ と は 、 難 し い 一 一 一 一 口 葉 を 使 え ば 、 前 者 は 、 客 観 的 と か 科 学 的 と か ・ 一 一 一 口 わ れ る 、 対 象 化 ・ 相 対 化しでものを事物として知るという五向ですし、後者の 弟の方は、そのことを自分の命といいますか生きている

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近代教学における教団 実感をそのまま表現する、報告するということになりま す。両者何れが正しいのかということよりも、問題点を 確かめることの方が大事だと思うのですが、何れにせよ 両方とも私たちの持っているところの知性や感性の営み であろうと思います。ただ私は客観的ともうしますか、 概念的といいますか、対象化しでものをとらえ、論ずる、 そのことがこの私たちの時代には非常に支配的なので、 そのために真宗の歴史といいますか願いというものが、 どうもこう感じ取れなくなるような見失なわれそうなそ ういう空気をも感じておりますので、そういうところか らあえて後者の視点を強調して申し上げたい、と思って い る 訳 で す 。 それでまず、明治頃から考えますと、とにかく教団が 内外からの現実的な危機に直面した時に、そういう危機 意識から、問われ促されて教団が論じられ、本来の教団 が願われ求められたということがございます。それは、 もちろん親驚時代の﹃歎異抄﹄の歎異の精神と同質のも のと受けとめておりますけども、それが近代において、 特に高まったといいますか意識された時期が、ご存じの ように明治三十年前後の白川党による大谷派の宗門革新 運動の時期であり、その機関誌であった﹃教界時言﹄に 19 みられる教団への見方というものが、まず、 目されるものであろうかと思います。 それから次に大正時代になりますと、明治からと比べ れば大正デモクラシーという一言葉が代表するように、非 常に人道的といいますか、個人的といいますか、体制よ りも個人、国家よりも国民、という空気が流れ出した時 代かと思います。そういう時代思潮の中で、どちらかと 言えば、人間の個我が教学・求道の焦点となり、体制と か組織ということが、宗門・教団内でも少なくとも表面 にはあまり強く出ないという傾向になった、と言えるか、 と 思 い ま す 。 しかし、昭和に入り、そして、更に戦時下になります と、これは天皇制国家の体制を翼賛する、そういう要請 の中に巻き込まれて行くということになりまして、教団 自体がほとんどその真宗としての本質といいますか、真 宗教団自体としての本来のあり方とかを問題にし得ない といいますか、意識しても取り組み得ないような事態に 陥るに至ったと言ってよいか、と思います。結局そうい う点で、教団が近代になってから二回目の覚醒、つまり その本来性が意識され、問題視され、教学の対象となっ ていくのは、戦後の真入社に始まる教学・信仰運動と、 何よりも注

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20 そこから展開していく同朋会運動と、特に同朋会運動の 中から教団問題といわれる、教団自体が内部に抱えてい た非常に深刻な矛盾がはっきりして参りますから、そう いう歴史と現実に直面したときに、教学が教団を本格的 に意識し、己れ自身の責任において取り組んで行くこと になったと、つまり、近代においては特に問題化した二 つ の 時 期 に だ い た い 絞 ら れ て く る と ニ 一 一 す O ただ、考えてみますと清沢満之先生とその直門と申 しますか、直接の門下の方々、ですから幕末から明治十 年前後くらいのお生まれの方々は、例えば第一世代とい う言い方が許されるかと思いますが、第一世代の方々の 中では曽我、金子両先生が一番最後まで勤められた存在 かと思いますけれども、先ほど申しました戦後の真人社 から同朋会運動への時期までは、その中でも加賀の三羽 烏とよばれる暁鳥、高光、藤原師等々のかなりの方々が ご存命で、重鎮として指導的存在となって下さっていた のであると思います。そういう点で、実際に同朋会運動 になりますと、中心となって現実的、実務的に教学を聞 いつつ取り組まれたのは、おそらく第二世代といいます か、第一世代に教化、教育を受けられた、出生年代的に いえば明治三・四十年代から、大正初期生まれまでの先 輩の方々であり、そういう方々が結局、実際に戦後の真 宗の教学、教化を担いご苦労なさっていくということが あると、思います。二応この場では、長い時代にわたる ことになりますので、第一世代に属する方々を中心とし て、どういう教団への見方といいますか、教団への関わ り方が見られるか、ということを少し申し上げられれば と 、 思 い ま す 。 それで、今も加藤先生のご引用にありましたけれども、 ﹁教界時言﹄の中に特にこれは宗門・教団の教学を中心 とした改革運動ということで、旗臓を高く掲げて同時代 の知的な、精神的な一つの状況に積極的に応え得るそう いう教学信仰を、という自覚に立った動きでございまし たので、今日の眼からも耐えられる教団への一つの礎石 になるような見方が提示され、そして、それが実際に実 践されたといいますか、運動自体は成功したというより も、むしろ挫折したと言われましょうが、実はそこに本 当に帰るべき教団、今日にあってもそこからくみ取るべ き教団論と申しますか、教団像が生きられておったとい うことが言えるのだと思う訳です。ちょっと読んでみま すと﹁大谷派本願寺は余輩の拠って以て、自己の安心を 求め拠って以て、同朋の安心を求め拠って以て世界人類

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近代教学における教団 の安心を求めんと期すところの源泉なるに於いてをや﹂ とありますように、源泉という言葉を使つでありまして、 個人、日本、世界と、視野・視界が広がりまして、結局 は全人類に自覚覚他の願いと命を、という、つまり、先 程の小野先生からの親驚の﹁同朋﹂精神をはらんでいる、 そういう願心の源として教団を見い出す、ということが ございました。先ほどの引用のその次でございましたけ れど、﹁大谷派なるものは抑々何れの処に存するか。日 く大谷派なる宗門は大谷派なる宗教的精神の存する所に 在り﹂という、これも有名な一つの教団に対するテ 1 ゼ になりますけども、そういうところに教団の命と申しま すか、本来性を見い出す、そして見い出した教団像・論 を拠りどころとして、身をもって実践したということが、 事実としであったわけです。それでそういう動きの中で 結局、教団にとっての一大事つまり教団の中心になるべ き役割ということについては、﹃教界時三口﹄にですね ﹁宗門の事業は教学おいて他にこれをみざるなり﹂とあ ります。ですから、教学こそが教団の第一義、そこには 当然教学、そこにある求道・信心、そこに生きるという 真宗人の為すべきあり方が求められてくるわけですが、 そういうところで第一世代の中心となった清沢満之先生 21 は、教団というものを更に教団圏外まで視野を広げられ まして、提示されたのであると思います。それで特に申 し上げたいのは、清沢満之師が中心となって教団論を唱 え逼進した改革運動は、御存知のように挫折しました。 しかし、その挫折を通して更に信心の深化をという形を とり、教団という一言葉を使われなくとも、常に教団に報 いるといいますか教団に育てられ教えを受けた、そのか けがえのない有縁の教団として、その恩に報いるという 願いと姿勢において生きられたことであります。もちろ んそのことについては、いろいろと残されている感銘深 い逸話からも教えられるわけですけれども、とにかく蓮 如上人のお言葉で申せば、﹁身を捨て﹂ての宗門への報 恩といいますか、恩を知る生き方といいますか、その姿 が結局第一世代の門弟の方々の心を打ち、感化を及ぼし ていったということが、ある訳であります。 戦後になって、教団を本格的に論じられた中心的存在 は安田理深先生ということになろうかと思いますが、そ の安田理深先生のお話しになったものの中に、やはり先 生は教団の願うところは知恩報徳を実践する者、それを 僧伽的人間という、との言い方をしておられますけれど も、知恩報徳を実践する者、そういう存在、そういう人

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22 聞の誕生を願うということとして教団の願いを言い当て ておられます。結局それは清沢師没後六十年ものことに なりますが、そういう形で第二世代といってもいい安田 理深先生を通して、清沢満之師の宗教者としての教団・ 宗門への姿勢や精神が生きてですね、はたらき続けてい る事実を見ることができると思います。それで第一世代 の先生方のお話になったものやら、お書きになったもの 等、いろいろと読ませていただきましでも、一貫してお るのはですね、教団を論じるとか分析するとかいう姿勢 ではなくて、もちろんそういう方法を重視されないと申 しますか、あまり採らない方々だったこともあるかもし れませんが、それよりも、とにかく教団を我が命として 生きた、そういう方を現にみた、遇ったという一つの経 験なり出遇いというものが後継者達の心を生涯にわたっ て打ち、貫ぬいていくということが確かにあったのだと 言うことがですね、門弟の暁烏敏先生とか曽我量深先生、 金子大栄先生の御生涯や言行からそういうことが窺えま す。例えば、それは曽我先生のことを、金子先生が、と にかく非常に宗門愛の深い方だった、ということをです ね、思い出して偲んでいらっしゃいますが、そういうこ とに心打たれる金子大栄先生にしても、やはり打たれる ということはそこに深い共感があるわけでして、その感 動を生きておられた訳でしょう。曽我量深先生が守って おられた士一つの自戒のその一つ目に、とにかく H 本山を 食い物にしない α ということがあったということを、聞 いております。そういう一言をとりましでも、対象化し 利用化するとかですね、そういう在り方ではなしに、社 会学的な言い方をすれば、ゲマイン・シャフトとが第一 次社会集団という言い方をしますが、その中に自分自身 が育てられ、そして共に自分がその中に生きていくと言 いますか、命を尽くしていくと言いますか、そういう今 日的に言えば、我が校だとか、我が社だとか、我が家だ とか、それは一つ間違えば所有し私有し愛着してですね 我執の虜にしていくというそういう閉鎖性への危険性を はらむわけです。しかし、対象化したために全く感応す るものがなくなる、自分のいのちの内容として全く意味 を持たなくなるという、そういう危険に直面しつつ、現 代の第三世代に当る昭和の前期生まれの私達は勿論のこ と、次の敗戦後生まれの第四世代の方々もその後の数年 の時代が提起してくる課題をかかえつつ、問われ、教学 すべき者として在る事実は否めないように思います。 教団やそれをとりまく時代を本当に自己の内容として

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近代教学における教凶 見い出し、生きていくというそういうあり方がですね、 第一世代や第二世代の先達方には共通してみられる事で あります。もちろん今日からいえば教団を時代の状況の 中で的確に据えていないとかですね、思案すべきものが 充分思慮されているかどうかとか、色々と検証され、批 判されなくてはならないことも、課題として残されてい るかと思います。しかし、何よりもまず全面的にそこに 自らが生きるというかですね責任をとるといいますか、 そういう生き方といいますか、そういう教団への願いに 根差す姿勢が根底にあるということを近代の教学と教学 者のうちに生き生きと感じられるところを、私は大切に したいと思います。安田先生や松原祐善先生や、宗政の 場を通して教学に務められた訓覇信雄師、更にその後に 続かれる先生方は、戦後それを一つの教学として実際に 追求されてですね、考察されて今もご発表にもなってお りますが、それにしてもやはり今申し上げたような教団 の歴史への熱いものがですね、歴史的心性と申したらよ いのでしょうか、表現の裡にあることを実感いたします 0 時間の都合がありますから具体的なことはご紹介でき ませんが、私としては、もちろん知的に対象化・相対化 して近代の教学の歴史を探っていくということも、為さ 23 ねばならないこととは思いますし、更にそのこと自体が、 自分の意識や存在自体が、歴史の中に在るということを 思う時、容易なこととはとても思えませんが、何よりも 何かそういう教学の営為を生み出したというか、その元 になっているような命といいますか、文字通り源泉にふ れるといいますか、そういうことから始まる学びという ことがあるのではないか、ということで、私見も含めて 述べさせていただいた次第です。どうも失礼しました。

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問 題 の 所 在 我々は今、時代の転換期にある。今日までの何を継承 し、来たる二十一世紀にむけて如何なる提言をしていく べ き で あ る か 。 真宗教学と真宗教団の聞い直しが叫ばれて久しいが、 それら諸問題の点検・確認・総括から、提起すべき進路 を、すみやかに見出して行かなければならない。 今取り上げる王法と仏法の問題もそれらの中の一つで ある。これは、いわゆる真俗二諦論と連携づけて、王法 は俗諦、仏法は真諦であると理解されがちであった。後 に触れる歴代宗主の消息にもそれを見ることができる。 これについて、﹁我々は、近代天皇制との癒着の中で語 られてきた真俗二諦論をあたかも蓮如上人の真意のごと

品rノ 早~

く学んできた。果たして蓮如上人の云わんとされたこと は 、 そ の 通 り で あ ろ う か 。 ﹂ ︵ 柴 田 秀 昭 ﹁ 蓮 如 上 人 の 教 化 に 学 ぶ ﹂ ・ ﹁ 教 化 研 究 ﹂ 一 O 三号︶との提起もなされている。 私の問いもこれと無関係ではない。 今日も王法・仏法と真俗二諦論が、軌を一にする如く 捉えられがちであるが、親驚に於てはどうだつたのか。 そもそも親驚の王法仏法観はいかなるものか。また、蓮 如の王法仏法観はいかなるものだったのか。そして、今 日の﹁王法 H 国家権力﹂観の成立は、具体的にそれは何 時、何故、如何にして行なわれたのか。 これらについて、親驚以前の王法仏法観、親驚の王法 仏法観、覚如と存覚の領解、蓮如の王法観と一向一撲大 衆の王法観、そして、﹁王法 H 国家権力﹂という理解を 定着させた要素について考えたいと思う。

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こ れ は 、 ﹁ 真 宗 ﹂ ︵ 一 九 九 六 年 五 月 号 ︶ に 於 け る 大 桑 斉 氏 と網野善彦氏の対談に刺激されて、一九九六年七月七日 真宗教学学会︵於大谷大学︶において﹁王法と教団﹂と いう題で発表したものである。すでに年数を経過し、本 発表以後、おびただしい業績が出されているが、当時の 発表資料と記録にもとづいて書き、最後に現今︵一九九 八 年 八 月 ︶ の 所 感 を 記 す こ と と し た い 。 親鷲以前の王法仏法観 王i去 と 教 団 親驚が、克服すべきものとして位置づけた﹁釈門・儒 林﹂の王法仏法観は、如何なるものであったか。 ﹃教行信証﹄のおわりに、承元の弾圧の契機として明 記 さ れ た ﹃ 輿 福 寺 奏 状 ﹄ に 、 仏 法 ・ 王 法 、 猶 し ・ 身 心 の 如 し 。 互 に そ の 安 否 を 見 、 宜 し く 彼 の 盛 衰 を 知 る べ し 。 ︵ 岩 波 日 本 思 想 大 系 一 五 ﹁ 鎌 倉 旧 仏 教 ﹂ 四 一 ︶ とある。ここに言う﹁王法﹂とは、律令制の天皇とその 臣下の権力とその制法を指す。 ま た 、 慈 円 の ﹃ 愚 管 紗 ﹂ に は 、 たずせんは仏法にて王法をまもらんとするぞ。仏法 なくては、仏法のわたりぬるうへには、王法はえあ 25 るまじきぞといふことはりをあらはさんれうと・: ︵ 以 下 略 ︶ : ・ ︵ 岩 波 土 口 典 文 学 大 系 八 六 ﹃ 愚 管 紗 ﹂ と あ り 、

唯、国王の威勢ばかりにてこの日本国はあるまじ、 ただみだれにみだれなんず、臣下のはからひに仏法 の力を合はせてとおぼしめしけることのはじめはあ ら は に 心 得 ら れ た り 。 ︵ 向 上 | 一 四 一 ︶ と あ る 。 ま た 、 王法仏法はたがひにまもりで 王 法 仏 法 、 牛 の 角 の 如 し ︵ 向 上 | 二 五 O ︶ 等々記されている。ここにある﹁王法﹂も、右の﹃興福 寺 奏 状 ﹄ と 同 様 で あ る 。 これらの文に述べられるのは、王法仏法の相資相依論 である。特に、後者、﹃愚管紗﹄の初丈の場合、表現は、 仏法が王法の指導原理であるかのごとくである。しかし、 政治的には、やはり、たがいに資け、たがいに依りあう 相資相依論であって、仏法が王法を指導するものではな かった。これら王法仏法の相資相依論は、いわゆる﹁儒 林﹂にあっても同様であったと思われる。 ︵ 同 上 一 問 七 ︶

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26 親鷺の王法仏法観 では、親驚の王法仏法観はいかなるものだったのであ ろ う か 。 ﹃ 教 行 信 一 証 ﹂ ﹁ 化 身 士 巻 ﹂ ﹁ 末 法 灯 明 記 ﹄ の 丈 に 、 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ 坂 東 本 に 依 れ ば 、 それ、一如に範衛して以て化を流す者は法王、四海 に光宅して以て風に乗する者は仁王なり。しかれば すなわち仁王・法王、たがいに顕れて物を開し、真 諦・俗諦、たがいに因りて教を弘む。このゆえに玄 籍、宇の内に盈ち、嘉猫天下に溢てり。 ︵ 親 全 一 l l 一 一 一 一 四 ・ 真 蹟 一 五 五 九 ︶ とある。一如のさとりを規範として衛り、衆生を教化す るは法王、世界に徳がみちみちて、法王の教化に乗ずる のは仁王である。仁モ・法王は、たがいに顕れて衆生を 開化し、真諦と俗諦は、たがいによりて教えを弘める。 このゆえに︵仏教の︶はるかで深い教えの典籍は宇内に 満ち、よき言葉は天下に溢てるのであると親驚は示して いる。すでに先学の指摘があるように、親驚は、仁王す なわち理想的国王について、﹁以て風に乗ずる者は仁王 なり﹂と読んで、法王の風、すなわち仏陀の教化を根拠 として、それに乗じて存在するのが国王であるとしてい る。この場合、仏法は王法の原理であり、 るものということである。 然るに、伝教大師全集所収﹃末法灯明記﹂では、﹁風 を垂るる者は仁王なり﹂とある。それにしたがって、 ﹃ 真 宗 聖 典 ﹄ ︵ 東 本 願 寺 ︶ の 表 記 も 、 それ、一如に範衛しでもって化を流すものは法王、 四海に光宅しでもって風を垂るる者は仁王なり。 ︵ 聖 典 一 二 六 O ︶ とされている。これでは、法王と仁王が並立の関係であ り、﹃教行信証﹄坂東本と趣旨が異なる。 この丈について、存覚は、﹃六要紗﹄に、 この書は是れ仏法・王法治化の理を演べ、乃ち真 諦・俗諦相依の義を明かす。︵真聖全二四一 O ︶ と註しているが、親鷲真蹟の坂東本を読んでいたか疑問 である。また、仏法を真諦とし、王法を俗諦とする諸註 の根源がこの解釈である。実は、﹃末法灯明記﹄自体に おいては、そのように、仏法を真諦とし、王法を俗諦と して読み、その相依を見るのが自然かもしれないが、そ れは、最澄の音訓図が存覚に受容されたのではないか。 親驚真蹟坂東本の場合は、必ずしもそうではなく、両 者の相依関係は右とは意味が異なる。また、真諦と俗諦 王法を指導す

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を、第一義諦と世俗諦と領解することも可能ではないか。 親驚の場合は、王法仏法相依論とは一線を画するもの があるのではないか。たとえば、﹃教行信証﹄﹁化身土 巻 ﹂ ﹃ 菩 薩 戒 経 ﹄ の 文 に 、 出家の人の法は、国王に向かいて礼拝せず、父母に 向かいて礼拝せず、六親に務えず、鬼神を札せず。 ︵ 親 全 一 三 五 人 ︶ と、諸価値からの仏教の独立精神を顕示し、また、﹃教 行 信 証 ﹄ ﹁ 後 序 ﹂ に 、 主上臣下、法に背き義に違し、念を結ぶ。 と記しているのである。また、﹁正信偽﹂には、 本師曇驚梁天子常向驚処菩薩札 と 讃 じ 、 和 讃 に も 、 換の天子はとうとみて 神鷲とこそ号せしか おわせしところのその名をば 驚公厳とぞなづけたる 本師曇驚大師をば 梁の天子斎王は おわせしかたにつねにむき 驚菩薩とぞ札しける 王 法 と 教 団 27 ︵ 曇 驚 讃 七 ︶ ︵ 同 三 四 ︶ と、帝王の曇驚への礼拝を述べている。さらに、源空和 讃 に 、 承久の太上法皇は 本師源空を帰敬しき 釈門儒林みなともに ひ と し く 真 宗 に 悟 入 せ り ︵ 源 空 讃 一 O ︶ とあるのも同様である。帝王に対して礼拝するのではな く、帝王の方が浄土真宗の祖師に帰敬したところに親驚 は 注 目 し て い る 。 親驚が、礼拝帰命する君主像がありとすれば、それは、 聖徳太子だけである。﹁皇太子聖徳奉讃﹂に、 和国の教主聖徳皇 広大思徳謝しがたし 一心に帰命したてまつり 奉讃不退ならしめよ とある。いわゆる天皇ではなかった太子を﹁聖徳皇﹂と 呼んだのは、太子を上述の﹁仁王﹂として親驚が観たか ら で あ る と 思 わ れ る 。 ところで、親驚の消息に、天皇絶対崇拝・排外的国家 主 義 の 一 言 葉 と し て 使 わ れ た 言 葉 が あ る 。 詮じそ、つろうところは、御身にかぎらず、念仏もう

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