家 名 田 東 男
は し が.き
フランス革命の名と共に史上有名なアシニア紙幣についてほ︑少くとも我々紅とって名のみ高くしてその実体は
余り知られていないのが実情のように思われる︒これは必ずしも理由のないことではない︒例えばその価値がそ
れに基いて明示された︵assignか︶という意味でアシェア︵As¢ignat︶という名が起った程これと密接な関係にあ
った国有財産の売却に関する研究についてみても︑当初マリオン等によって財政史的な観点からなされていたもの い力
が︑漸次階層別の取得内容がどうであったかという風虹社会構成を問題とする方向に移行しで結局現在ルフェー
ブルを頂点とするフランス革命史学界においてほ財政そのものをあつかった研究ほ比較的少いように思われる︒従
ってこれらの業鎗に学びつつ︑新しい角度から再構成せんとすか日本のフランス革命史研究が財政・金融問題を労
流に置いてし辛っている事実も或は当然なことといわねばな.るまい︒︑併しながらアレエアは当時の社会にと?ては
やこより大きな問題であり︑特に革命中の歴代政府の諸政策と密接な関係にあるとすれば︑我々としてほ︑たとえ
理論への無知を恥じっつも︑やはり︑二軍蛸牛の歩みをふみ出すべきであろう︒ 2 このようにアシニアに関する研究ほ当初財政史家により始められ︑今より八†年程前に出たスト・ゥルムの財政史 榔 4 を以て疇矢とするが︑その後は主として第山大戦前に出たゴメル特にマリオ山等によって清々進められたごの他モ 第二十八巻第五骨
アシェア紙幣の減価に関する覚書 ︵四六〇︶ 二四
リニ・コムビの概説もあるが︑これ等は共に歴史叙述としては標準的なものであ嵐と考えられるが︑理論蹄把握に
おいてほ多少弱い点があることは否めないようである︒
㈲ 山方これに対し︑限故に山応独自の方法乃至貨幣理論を持ちつつ︑分析を志したものとしてはイけ/ッヒ・フォー m 8 クナ1・ホートレ小そして現今も尚活躍中のハリスが挙げられる︒特に最後のハリスの著作ほ山九二〇年代西ヨー
ロッパのインフレーレヨンの中から漸く勃興して来た貨幣論の新しい潮流に梓しな︑がら︑周到紅して盤富な史料操
作の上に強靭にして柔軟な理論的処理を行った力作であり︑今日も尚フランス革命史学界にお后て高い評価を得て
いるものである︒なお史料として筆者が目を通すことのできたものはキャロンの優れた各廉堅旦る減価に関する史 的
料があり︑これはハリスもまた自己の立論の主要な支えとしている滝のである︒
飼って筆者は貨幣・財政・金融理論に対しては何等の素養なく︑又特にハリスが多彩に駆使している〟般的史料
は勿論︑計数的諸統計に関してもまた披見し得たもの正に蓼々といわんよりは絶額転近く︑ために本戯稿は全く暫
定的な中間報告であり︑文字通り仙個の覚書にすぎぬものである︒併し今後における自己の勉学の二塁塚として敢
えて発表以て大方の御高教を仰ぐ次第である︒
1
2 G.Lefeぎr2︑Et已2SSuぺーa R曾○−まiOn fran竃首e︵−誤e−La諾nt2deのbieゴS natiOna仁粥pp.NNA−N∽
R・SIO彗m﹀1esぎancesd2
CF GOmel−慧stO∋Ⅷfinanci晋e de−︑A設emb訂cOn裟tuante︵ヒ誤読−⊥嵩︶
d仁mかme∵讐st.fi戸 de la L含is−ati諾et de−a COnくentiOn︵−笠N−−苫∽︶
M.MariOn︸ HistO−re financi音e de ia﹃rance depuis−ゴ訪︵−呼rT!−諾u︶−t.HI−:lH﹀ ⅠくV
アシェア紙幣の減価に関する党務 ︵四六こ 二五
制 l・MOrini・COmby︐Le∽a設ignats⁝R晋○−utiOn et in叫−atiOn︵−譜∽︶
捌 H.i≡g﹀ Da¢Ge−dwesen FrankreicF00Z彗Neitdere宗tenRe言−已i昌bisz仁mEndederPapie蒜e−dw旨r弓g﹀
AbFandungen aus dem Staatswissensc訂fこic訂n Seminar舛巴StrassbOurg︵−¢−e
円 S.く.Fa−kner−Das Papie蒜e岩der frぎ註si㌢Fen Re言−已iOn−霊還−−遥↓一ScFrifteロdesくereins f琵SONiaT
pO≡ik︵−∽Ne
㈱ R.G.Hawtrey﹀ Currency and credit︵−ed−望や ﹈完W.imp.倉d−讃○︶
㈲ S.E.HarユsY T訂assignats︵−浩○︶
鋤 P−CarOn−Tab−eau舛de d晋reciatiOn du papier・m呂n・aie︵−苦り︶
H アシェア紙幣の由来
フランス革命の誘因をなす財政問題は今日現象的には次の二つの観点から考えなければならない︒山ほ第三階級
にのみ重圧がかかる税負担の不平等︑その二咋絶対王制下以来の財政の赤字である︒而して当時これが対策として
挙げられるものが︑一に対する新税の設定であり︑二に対してのアシl仰ア紙幣の発行である︒ ■
さて︑紙幣発行の思想は︑﹁金︵Or︶と銀 ︵Argent︶ は表象価値︵uneくa−eur de r名︑r訂entatiOn︶であっ
て︑内在的な価値︵une遥−2ur i訂rinsgue︶ではない﹂という十六世紀のマレスト占ア︵Ma−estrOit︶やジァ
ン・ボーダン ︵Jean・BOdin︶においてその効芽を見隻革命前の経済学者やフィズィオクラートもまたこれ等二
人の考えをうけて漉いたが︑それより前ジョン・ロク︵10Fn.㌣aw︶ の企てた紙幣発行の失敗のショックが当時の
社会にとって大きいものであったため︑彼等は紙幣発行に反対した︒とはいえ︑通貨ほ土地よりの年呼人を越えて 第二十八巻.罪五号 ︵四六二︶ 二六
2 はならず︑紙幣ほ手形に限らるぺしとは考えてい和︒併しながら︑貨幣経済の浸透︑〟七八六年仏英通商条約に原
因する金の流出等の貨幣危機は財政の赤字とからんで︑結局何等かの紙幣発行をせざるを得ぬ被目となり︑しかも 3 これが史上有名なフランス革命の口火をきちた三部会の招集をもたらりためにこれ等の問題はフランス革命が解
決すべきものとして持ちこされることにな?たのである︒
然るに︑革命が勃発した後は︑周博は乏しきに拘らず︑予算ほ祭杷の費用と僧侶の年金で膨脹し又負債ほ廃止さ
匝− れた官職への支払により増大して︑国家財政の赤字ほ益々大となったため︑これが補償の政滞としてア望ア発行
の事が問題となり︑しかもこれがブルジョア民主革命としてのフランス革命の性格を決定した一つと考えられる教
会財産の売却とからんで︑クローズアップしたのである︒即ち︑教会財産の売却が最初に議会において論ぜられた
のは後にジロンド党員︵GirOn計ns︶として特に有名なロユフン夫人の翠人となるビュゾ︵F・Bu邑・︶の八月六日
の演説においてであったが︑紙幣と教会財産との間に持たるべせ関係を明確笹論七たのはグクイ・ダルソイ︵GO壱
d︸A岩y︶がピコゾより約山月彼の九月十九日に行った演説を以て囁矢とする︒彼はその中で︑国庫の緊急な必賓に
備えるため︑教会の未来の﹁無償の贈物﹂︵dOngratuit︶を担保に国家手形︵mandats natiOnau盟四億を発行 ㈲
すべきことを提案したのである︒この捉実はやがて議会において採択され︑幾多の人々の論議の的となったが︑同
年▼二月二日先ず重ハ八宗対三四六票にて教会財産が国家の管理の下に置かれJ祭紀窄および司祭者たちの生活
費︑食肉者の救済にあてられることが決せられた︒併し未だこれを如何に具体化するかは議せられず︑仙方もとも
と乏しかった国庫の状態もこの間題に関する解決の遷延を許さなかったため︑艶時の大蔵大臣ネッケル︵Jacques・
芳cker︶は壱七六筆ユルゴー賢り設普れたパリの大銀行︑手形割引金聖eCaiss2d宮㌢p−e︶の支持
を秘かにうけつつ︑十∵月十四日これを国家銀行となして発券せしめるいわば王の利益をはかった上からの掟案を
︷四六三︶ 二七 アシェア紙幣の減価に関する覚書
二十八巻第五号 ︵四六四︶ 二八 . したが︑議員違の反撃をうけ却下されてしまった︒しかるに︑国民自身が紙幣を発行せよとの︑︑︑ラボー︵Mirabeau︶
の提案を更に具体化したセルノン︵Cern︒m︶ほ︑溌ザ貨幣は榛票︵signe︶以外の何物でもなく従→てその事 7 偏に▼よってほ外の標票を以てする事が可能であるとない︑結論として教会財産の売却価格と等しき総額となるべ
き二五︑五〇︑山00リーグルの三種のアンエア︵A芸ignats︶ の発行を要求したのである︒こうして︑迂余曲
折の後十二月十九日と二十一日に︑国民議会ほ国有財産の内四億リーグルの売却に任ずべき非常金棒︵Cai訂e d︑
Ⅰオ已raOrdinaire︶ の設立を議決し︑この金庫によって国有財産は五%の利率を持つ劇000リーグルのアシェア
紙幣四億で動産化されることになった︒これがアシェアの初めといってよいが︑併し未だ上述の経緯が示すどとくe
其の紙幣とは称し難く︑いわば国有財産を担保とした公債︵Obli管tiOn︶であり︑戎ほ一種の国庫の手形 ︵b昌d仁
trかsOr︶ と称すべきものであ.った︒なおこの外︑手形割引金庫ほ既に国庫に対し赤字補填のため借款を与えてい
たが︑これがアシー仰アにより返済されることに振ったため︑アピーアと並んで金庫発行の手形︵bi−−et︶及び株券
父U ︵acti呂︶が流通し始めることになったのでぁか︒
然るに一七九〇年一月二十六日以来︑其の紙幣の発行を求める者が多く︑九〇年四月にほ財政委貞会︵COmitか
des finances︶は強制通用カを持つ四億のアシェア紙幣の発行を議会に要求したりなどしたため︑同月十七日紅は
改ぬて先の八九年十二月の法令によるアレエア四億は依然として通用カを持ち︑種類は一〇〇〇リーグル●三〇〇
リーグル・二〇〇リーグルの三つに分けられることが定められた︒
仙方アシ一脚アの基礎をなす国有財産売却の問題は当隠の大間腰として幾多の迂余曲折を綾ながらも着々具体化し
て行ったが︑依然′として財政危機が続いているため︑これと平行して更に新アシェア発行の問題が提起されること
になり︑ネッケルの反対論を排して立った︑\\ラボーの九〇年九月二十七の発言は遂に軍手九日議会において五〇
八宗対四二三累を以て八億の新アシェアの発布を議決せしめるに至った︒しかもこ・の新アシェアは強制惑用カを肯
する
行ほ立法府︵COrpS−蒜islatif︶の法令︵dかcret︶なべしてほなし得ないことを議決した︒そして最後に十月八日
新アシェア五〇︑六〇︑七〇∵八〇︑九〇︑叫00︑五〇〇︑二〇〇〇リーグルの八種の紙幣を発行することを議
決して︑いわばそのしめくくりとなしたのである︒が︑以後依然としてアジエア紙幣の新発行ほ止まることなく︑
膨脹の一途をたどって行くのである︒
︵許︶
用 ハイマン 経済学説史 啓多村浩訳︵山九五〇︶五二頁
闇 T.GOdecFOt﹀Lesinstit已こOn∽de−a勺rancesO宏−aR晋○−utiOneニ︑Empi蒜︵−琵︶p.−声
㈲ 芦S恥e一HistOire軌cOnOmique de−a句rance t◆ Ii︵−誤−︶p・N−・
㈱ A・SOb書l︶La R晋○−utiOnfran首se−遜り−−送りNed∴−溜i︶p・−挙 邦訳小場漱︑渡辺訳︵岩波新書︶上巻一四二1
三田
舅 GOdecbOt−Op.Cit.pp.−余−−島タレーラン︑ミラポー︑フィズィオクラートのデュポン・ドゥ・ヌムールの名が見える︒
瑚 ibid−p◆−あ
の ibid﹀ p・−念・
瑚 ibid−p◆−誓
㈲﹂bid﹀ p・−誓結局前と合せて山二億となる勘定である︒ソプールは二億リーグルといっているが︵Op・Cit・p・−台上掲邦
訳上山四三頁︶︑もとより誤りであろう︒ルフェーブルも十二億といっている︒人G.Lefeb∃e﹀ La R曾○−uti呂fran芯ise
−辞−p・丹3︶
ヽ
アンニア紙幣の減価に関する覚書 ︵四六五︶ 二九
国 減価 の実態
ユ 先ずアンエアの泳過敏粛各時期別に挙げて見ると
山七九一年六月山日
九一二︑000︑000リーグル 憲法制定議会︵COnStituante︶
山七九二年九月二十二日
山︑九七二︑000︑000リーグル 立法議会︵Lかgis−ati扁︶
山七九三年仙月仙日
二︑八二五︑九〇〇︑000リーグル 公安委員会︵COmitかdeSaどt㌢b−ic︶
山七九四年七月副日
六︑○入二︑一〇〇︑000リーグル 公安委貞金
一七九四年十月一日
六︑六一入︑一ニ00︑000リーグル テル︑︑︑ドールの反動︵RかactiOn t訂rmidOrienne︶
一七九五年七月一日一日
融二︑三三八︑劇00︑000リーグル タル︑︑\ドールの反動
山七九五年十月山日
一七︑八七九︑三〇〇︑000リーグル 総裁政府︵Di蒜ctOire︶
〟七九六年九月七日 第二十八巻 第五号 ︵四六六︶ 三〇
﹁ は 降︑アンエアの減価がソプールの所謂﹁目もくらむほかり﹂
アシニ︑ァ紙幣の減価に関する覚書 となっており︑ 四五︑五七八︑八〇〇︑000リーグル
となっており︑ 2 また低落の変化新見れは
九 八 七、六 五 四 三 二 月 月 月 月 月 月 月 月 月
一七八九年
統討の厳密性において若干留保すべきも仰がある 九八 しT\
▼7ノーノ
九七
九六
九五 一七九〇年
し﹂ヽ ▼﹁ノー′
九五
九四
九四
九四
九五
九五
九二
九〟
九山
九〇
九二 仙七九一年
九山
九副
九〇
八九 八五
人五 八五
七九 八二
八四
八二
・七七 総裁政府 一七九一一年
七二 六一
五九 六八
五八
五七
六一
六一
七二 七仙
七三
七二
︵くmrtigiロe宏e︶ の商品の値上げをもたらしたことが
︵四大七︶ 三一 尊 一七九三年七九四年
→ 八 三 八 セ ニ 三 六 二 三 一 四 三 二 二 二 二 三 五 四 五 五 五
も︑尚︑ 四〇 四一 三六 三六 三四 三〇 三四 三一 二八 二八 二四 二〇
一七九五年に入って︑特に一二月以 一七九五年 一八︑ 仙七︑ 劇三︑二八 一〇︑七一
一︑五三
三︑三八
三︑〇九
二︑七二
二︑〇八
州︑三二八
〇︑七七
〇︑五二 一七九六年
○︑四六
〇︑三五
⇔ 減価 の 原因
糾 学説 の 検討
さて減価の原因紅ついては︑前述の通り数多くの学者が各々論及しているが︑その貨幣的現象分析の方法的反省
を欠くフランス商業史の大家ルプァッスール ︵E.Le諾S肌e彗︶ や諸々の財政史家を別とすれほ︑大別して次の三
っ紅分れ牒︒即ち︑H金銀の価格を視点とするもの︑⇔為替相場から分析するもの︑鱒物価指数等かゃ比論す牒
もの︑がこれである︒
第∵の立場竪且つ代表的なも岬はホートレイが前述の著作の中で自己の覿諭のEstOrica宏tr邑Onの一つ
として掲げたアンl脚ア研究である︒彼は先ず初期の減価を論じてその基本的原因は額面金額の大きいものを此例を
/ 失して発行したことにあるとし︑﹁アシェアが国家の貨幣供給打全ての半ば以上の周撃まで発行される時︑減価する
ことほ唯々もう当然である﹂と論じて金銀を中心に考え︑次いで漸次減価しっつ軋ったアシ︼ヤアが一七九二年九月
以降一時もちなおした事実を説明して︑これはイギリスにおける商業の発展︑信用の非常な膨脹に基く金銀価値の ︵四六八︶ 三二 第二十八巻 第五号 明瞭によみとれるであろう︒従ってアシェアの歴史的意義の討究ほ先ず何よりもこの時期に集約せられねばならぬ であろう︒我々は以下この点に関して研究を進めねばならぬ︒
︵註︶
山 S▲訂∴Op.Cit.pp● NN−N∽
到 ibid︑p.N∽
閻 SObOu−TOp■ Cit・p・.∽宗前掲邦訳下一三四貢
低落乃至物価の昂騰がフランスにはねかえったも.ので︑山国での減価のもちなおしが別の一国の信用膨脹を通して
起ることは非常にしばしばある現象であるとなしたのである︒更紅これが再度低下に向う事情を説明して﹁叫七九
三年に入って間もなく︑ルイ十六世の死刑やフランスの対英宣戦布告とはぼ時を同じうして︑英国における商業は突
如として不幸な危機に陥り︑為替ほ強烈紅ロンドンに有利となって行くが︑未だ逆転するに至らない︒パリの為替
ほそれまでアシェアと殆んど同じペースを保っていた︒金が輸出のため第血に必要となり︑従ってパリにおけるよ
りロンドンにおける方が価値のあるようになるので︑為替のプレミアム︑は金貨︵LOuisdぎ︶ のそれをしのぎ︑再 浮 びアレニ㌢の減価ほ進む﹂と論じたのであるが︑その根底年金を置いていることは右によっても明らかであろう︒
次に山嶽覚︵MOnta管ards︶ の独裁下に於てほ金の退蔵摘発政策や戦争による通商の因薙があったにも拘らず︑
正貨や外国とのバランスの重要性は政府の外国での生活必需品の責付のためにも必要であったことを指摘し︑更に
テル︑︑︑ドールの反動以後の︑我々が当面対象としている時期に関しては︑山嶽党の象徴であっ狩野高価格法の廃止
が︑既にそれより前に事実上実質的な効力を失っていたに拘らず︑特に商人の買急ぎとそれに伴うバランスの喪失を
惹起してアンエアを市場に溢れさせる結果を招来したと同時に︑名実共にアンエアを正貨に結びつける端緒になっ
たのであると論じたのである︒即ち︑山嶽党独裁下において発令された金銀取引の禁止は当時においてなお法的効力
を有していたが︑既に貴高価格法の溌止以前においても投機業者遵はれぎankinJとか︒mus−in︑︑と称して売買を
始めており︑政府当局も商業貿易を禁止することができなかった︒更に劇七九五年叫月二日の法令は正金の輸出を
許可し︑それと交換に生活必需品を輸入することを可能ならしめたが︑この場合これは金銀取引を公然と許可した
わけでないにしても︑金銀価格の国際的な相場への靡を開いたものであり︑そして副たび貨幣が外国商品を購発す
る法的紅認められた手段となると︑仙般取引紅おいて瀬高価格法ほはっきりと無視され︑貨幣による支払が条件と
アシェア威幣の減価に関する覚書 ︵四六九︶ 三三
されるようになってしまった急恢は論じているのである︒
要するに︑彼は常に金銀を中心に考察しているのであるが︑併しパリのみならず地方におけるアンニアの減価の
状態を検討すると︑ホートレイが主として引射した大蔵省の金銀に依拠する減価表との間にかなりの差異がある︒
これは我々になお多くの因子の存在を感ぜしめるのである︒この外貨幣の対内価値と対外価値との両面がやや直接 欝二十八巻 第五号
−−・− アシ㌧エアの価値
(金銀による〉
・山「…−−−・んりヽソプルグ曹こお
ける為替相場
無媒介に結びつけられた感じがないわけでもなく︑そして又ホート
東レイの主張虹も拘らず︑例えば一七九二年後期において蒜的騰貴
A Oノ
﹇′
つJ ウー
9
7 の理由として挙げた正貨の現送を可能ならしめる世界乃至国際市場 が真に存在していたか否かほなお検討を要する問題であろう︒この 最後の点は第二のイリッヒがやや異る点からではあるが問題とした ところである︒
第二の立場を純粋に代表するものはドイツ・クナップ学派のイリ
ッヒである︒外国為替以外の基準を考えるのを拒否しっつ︑ハンブ
ルグの為替相場がアシェアの減価の過程と共振したことを述べてい 4 ㈲ 封︒図示すると上の如くである︒即ち﹁人はアピーアの減価ほ紙幣量
の増大の直接の結果なりとするが︑これにほ何の確証ほない︒然るに
前記の如き為替相場とアピーアの減価とほ大体︵imGrOSSen︶全
くパラレルである︒パリのアシェアへの投機の評価のみならず︑外国
に対するフランスの取引全般︵Nahどn的Sくerkeぎ︶ に関する全ゆる ︵四七〇︶ 三四
モメソートは為替相場に作用するのである・から︑︒︿りのアシー叶ア相賂の中には本来ハンブルグのリーグル相場の反射
が見られるとの結論ほ許されるであろう︒そのパリの相場︵Pari00er芳恩erun巴の意味を充分理解すればする程︑
これは明らかなものになるであろう︒即ちパリ相場は実際におい′て資金属の打歩︵A的iO︶を指示し︑従って如何なる
価格で金貸乃至銀貨が外国から買われ︑或は外国へ買われ得るかを明示するのである︒そしてハンブルグのリーグル
相場の大体の運動に関してはフよノンスの支払関係の状態とこの支払関係の将来の状態についての推測により決点さ
れることが判る︒﹂と彼イリソヒは論じたのである︒そして当面問題紅なっている一七九四年七月から九五年七月の
甚しい
得ざをものとなったかということだけは確実性を以て答えることができる︒﹂として︑当時まで外国為替の打歩が九
七%であったものが︑その年の終りにほ一〇〇%に近ずいた事実がこれを示しておるとなし︑し.かもこれほフランス
政府の貨幣政筒そのものの結果であったと彼は論ずる︒即ち︑﹁アシェアの価値︵Ge−tung︶ほその流通量に対して一
定の定められた比率にしたがって上下させることを定めた一七九五年六月二十一日の法令は︑地租︵G壱ndst2u2→︶
の半分と関税︵N監2︶の半分に対する支払の場合以外は︑国庫においても為替相場︵B竿senkurs︶ に従って受領
されるど命令すると共に︑国家は年金︵Rentenu邑Pen阜呂︶の支払に際しではアシニアの価値をそれが発行さ
れた額望回さ︵H罫edesauszuge驚bendenBetrage単にしたがって定めるこ㌧を命令している︒.個人間のお互
いの取引に関しては︑同年七月十二日の法令によって債権者は個々の場合債権額の受領を拒むことができることが
定められ︑更竺七九五年十二月三日の法令は債権者の権利を保証し︑精確に定めた︒これによって︑国家ほ自ら
創始した貨幣法の前授を靡止したことになり︑政府に向けられる支払に際し︑変動する相場︵B晋seukurs︶に準じ
て支払手段としてのみならず有価証券としてアンニアを取引することになったのである︒従って一七九五年秋登場
アシ土ア紙幣の減価に関する覚書 ︵四七こ 三五
︵四七二︶ 三六 第二十八巻 第五号
した総裁政府は貨幣法の全面的な崩壊に直面しなければならなかった︒﹂と断じているのである︒以上の如きイり/ッ
ヒの考え方はインフレージョンにおける為替の意義を論じたものヱして蟄重であるが︑これが我々にとって如何に
評価さるべきかは後払論ぜられるであろう︒
次に︑このイリッヒの如き立場にはっきり批判的であったのは︑第三の立場を代表するロシア人のフォークナー
である︒先ず︑彼は貨幣認識のための主要な拠りどころ︵quee︶としてほ︑第二に対外為替相場︵der aus−ぎ・
discheWechse−kursOdeりderWertder aus−ぎdisch¢rくa−uten︶︑第二に紙幣単位における金の価値︵Wert
desGe−desinPapier鷲−deinheiten︶︑そして第三に﹂般物価水準︵dasagemeinePreisni諾aヱなりとし︑次
にこれを検討しっつ︑先ず常州の為替相場の評価︵Bewertung︶の動きといったものについては︑貨幣の相場が仙
国の為替相場の減価の充分な反映として無条件なりと見なす事ほ出来ない︒即ち︑貨幣の対外価値なるものは聴々
なる要素例えば外国との物資交易の状態︵der StanddesWarenaustausch2S mitd2mAus−and︶︑支払決算の
状況.︵der Standder ZaEungsbi−anz︶︑国際的な信用取引の見通し︵Ausb−ick aufdi2int2rnatiOna−en誉el
ditbeNiehu点en︶等に影響されるから︑国内の貨幣減価とこれらの国際為替とは相離れ︑これ等庭よる限り普遍
的な形でほ決定できぬとした︒次小・で︑第二の金価格についてほ国際的な決済の手段であると同時に︑金本位国に
率いてほたとえ迂回する形であるとはいえ為替相場の変動を反映する傾向を持つ︒更に︑特に血般的な交換手段
︵al蒜emeineTauschmitte−︶或略その不変たることの保証を本来有する価値としての金が︑紙幣増発により惹
起された経済的な動揺の中においで蓄蔵︵Akkum已ati︒n︶の優れた手段となる七とを指摘して︑蓄財︵HOrteS︶の
放能︵funktiOn︶に問題が移ると貨幣︵Meta−−ge−d︶の交換価値︵T賢SChbewertung︶の原則ほ根底から変化
してしまうとなして︑潜局︑このように︑金の評価は国内的︵inneren﹀J占−ksw芝scFaftHcben︶と対外的︵a仁
sseren一internatiOna−er︶の二つの要素如何にかかっているとサればごれは充分客観的な︵︒bj′ektiヱ尺度たり得
ないと論じたのである︒これに対し︑第三の国内の商品価格︵inlandiscFen毒arenpreis︶の運動の研究は紙幣が
国内の物資の流通の全ての場合の九五%以上に関係のある事実からみても︑もし必要な事実が充分集められるなら
ノ ば︑最も妥当するものではないかと思われるが︑これが欠けているから︑結局金銀と為替の史料によらざるを得ぬ ことを述べて・いる︒次いで︑彼ほ外国為替相場の場合と同様に金銀への需要紅際しては非常に﹁心理的動揺﹂︵psych− ︒−︒gisc訂nSchwankun驚n︶即ち客観的には政治・社会的発展の動揺転よって︑違簡約には富裕者︵Besit詔r︶
ハ0 がその所有のために恐れた大衆︵dasM計s︶によって規定されたること疑いないと防い︑より広い立場から考えな
く七はならないとしたのである︒
さて坂ほ山七九二年六月に五七%まで急落した原因に関して︑当時の貨幣量にさしたる変化のなかった事実を論
じて︑先ず紙幣の畳に変化がなくても必ずしも減価が起らない七は小えないとし︑これが理由を他に求めた︒即ち
当時の人々はアピーアの価値の限枕をその信用的性格︵誉editnatur︶︑換言すれば︸信用取引︵官rsengesch仙き︶
において交換し得る信用の基礎になり︑固有の価値ある金属に対する交換関係を決定するために︑アシェア債務償
却︵Tご瞥n的deトA00Si習aten諾rbi邑ic芽eiten︶に対する保証をなすことがその本質的な役割であるという︑性
格の中に見たのである︒であるから︑かくの如き状況の下紅おいてほ経済状態の悪化︑特に国家財政乃至政治の弱
化はアシェア相場に反映し︑又その逆に︑政治権力の内外に対する強化は経済状態の好転と並んで財政の展望を好
転せしめ︑金融経済的・流通的二重性格︵kreditwitschaft−icF−Nirk已at︒riscFen D︒ppe−nat鳶︶を持つ紙幣相
場を高めるのである︒しかもこれ等のファクターは︑同時によりよき貨幣喪章︵G巴dzeichen︶が流通するときに
のみ︑紙幣の国内価値に本質的に影響する︒金銀との比較により︑そして貨幣︵Hartge−d︶の一定価値︵stabi−e
アシニア紙幣の減価に関する覚書 ︵四七三︶ 三七
−−−…仙−……
物価の昂騰′率
第二十八巻 欝五号 ︵四七四︶ 三八
Wert︶の原価︵KOSt︶に基き︑それに対応する貨幣量の変化なくじて︑紙幣の国内価格における金融政鱒瀾な変
動が可能である︒何となれほ︑流通量の全体ほ一定の酎晶量の価値を現す安定鼠であるからであると論じたので▲あ
㈹ る︒しかるに︑一七九三年四月以来︑強力な政府紅よってアシ土ア評価の際プレ︑︑\アムを禁止して︑この二つの通
貨は法的紅等価なりとせられ︑ためにアシェアは貨幣に代位して一時価値を回復した.のであるが︑一彼フォークナー
ほこれを説明して︑完全虹貨幣が姿を消し且つ退蔵されてしまったから︑始めて数量説の立場から減価を論じて差
支えないとし︑仙七九四年の半ばから九五年始めに亘る減価の場合は﹁累積した貨幣供給の増大が各紙片の価値の
闇mⅧ朋 9︒︒轡用6︒︒醐相卸卸−︒︒8
2 9
9 0 a︶
憫 それに応ずる減退により相殺されたのである︒一七 九四年五・六月においてアシェアの流通屋は′−マ ルな通貨の流通鼠の三倍であり︑アピーげの各々ほ 8 金リーグルの三分の一の価値を有してい等﹂と論 ずるに至ったのである︒次いで︑その後のはげしい 減価の時期を論じ︑この場合繊幣の外に貨幣が流通 ㈲ し始めでくるが︑これは上に掲げる如く︑紙幣増発 の率よりも減価の率が大きいことを指摘して︑前述 の如き理由に基く事を断定したのである︒
最後が﹁新しき経済学﹂の編者ハリスである︒
彼の分析基準ほフォークナーが最もよしとしてし
かも果さなかった物価指数であるが︑前三者と関連
1
況を仙般化することは︑各人の家計におけるパンの消費量 に敬しても場所や地方によりかなりの差があり︑しかもフォークナーの使用したパンの価格ほ政府から最高価格法 〇〇 抑 eJ 旬 80 50 川 30 20 用″8
アシニア紙幣の減価に関する覚書
lつ89 1790 I内I tワ82 叩93 1ワ釣 一っ鮎 17S6
、−‥…一■一
−∴ ̄ 地方別価格表による80一縛県の相加平均値下邸
大蔵省調査による低下率
づけていえば︑その主張の眼目ほ次の三点に要約されるで
あろう︒
即ち︑欝仙に︑彼が史料として依拠しているのは前述の
キヤロンの減価表であるが︑この史料の優れた特徴はパリ
のみならず各県の減価の状態を細い数字で表していること
である︒而してこれが告げるところによれば︑アレエアの
減価率ほ各県毎に甚しい偏差があり︑最低二〇%から八〇
%の範囲些且っている程である︒彼は先ずこの史料を分析
して︑各県の相加平均低下率が大蔵省調査の金銀と対比し
たアシー㌦アの低下率とを比較して上の如き結果を得︑かく
の如き二系列間紅羞が生じたのほ︑もし統計そのものに誤
りや虚構がないとすれぼ︑最高価格法実施期間中をとって
みる場合︑大蔵省のアシェア価格表はパリにおける市場価
格を中心としたものであるの紅反し︑キャロンの地方別価
格表は金銀の外に土地︑その他の品物を含む価格統計であ ㈹ るからであると論じ︑例えばフォークナーの如くパリの状
︵四七五︶ 三九
第二十八巻 罪五号 ︵四七六︶ 四〇
により極めて憤く手に入れた部分︵全消費量のi呑の一乃至二分の一に当る︶を全消費量からとりのぞいた分のパ
ンの価格であ引故誤りであると批判し︑価格分析の際における最高価格法b重要な意義を指摘して︑テル︑︑\ドール 相川 反動以後の激しい瀾価は最高価格法の轍靡に原因すると論じたのであ懲︑
そして第二には︑第﹂の指摘と関連があるのであるが︑彼ほやがてケインズ軋発展して行かんとする貨幣理論
臥潮流に梓し︑名目主義哀五首つつ︑金を捨象しているが︑一方最高価格法によりある程度量以上の通貨は退蔵
個 宮ard︶されて貨幣の機能を失い︑ために減価のもらなおしをもたらした事を強調し︑この点でほ前述のフォー バ甲 ‖■ロ クナーの優秀性を質讃している︒併し︑果して金の特殊性を無視することが正しいであろうか︒
第三に︑ハリスは外国為替︵f︒reigne誓hange︶を分析基準として使用することに対しても批判的であ官そ
れは︑要するに︑外国為替相場ほ独立の因子紅よって影響されるが︑国内の貨幣にほ余り影響を及ぼさないという
にある︒換言すれば︑外国為替の減価は部分的紅ほアシェアの発行による︒国内において紙幣が減価するに従い︑
ァレエアの対外価値を表す︑或いは外国の貨幣本位における金銀の価値に関連して表わすところの外国為替は低
落する︒併しながら︑リ﹂グルの国内及び対外価値ほ必ずしも密接転連関して動かないし︑対外価値の変動は必ず ︷訓﹁
8 しも国内価値のそれを伴うものでほないとして︑外国為替の問題ほ切りはなして︑最後の章で論じている︒
併し︑その章の最後で︑﹁国内の減価が対外減価を誘廃する際に演ずる役割については︑ここで余りスぺースが与
えられていない︒⁝⁝⁚由内の減価に対してしばしば対外価値の変化が反応することほ既述から明らかである︒=・
:⁚﹂と述べており︑この点たつき尚仙歩考究すべき点があるであろう︒
さて既に述べた如く︑ハリスの立論紅おける穀高価格法の意義は極めて大きいのであるが︑果して彼の断定する
程有効なものであったか否かは尚検討ガ必要があろう︒次にこの点を論究することとしたい︒
︵註︶
印 喜awt記y﹀ Op Cit● pp・N缶−N彗
剖 ibid︶ pp.N彗−N畠
割 ibid−pp.N∽N−N∽い
㈱ l≡gこ.a.〇こ筆者は東大図書館にて同名の巻物を発見したが︑実に遺憾ながら扱琴であった︒従って止むなく彼と同じ説を
述べている︑Handw芝erb宍FderStaatswis籍nSC訂ften倉d・ざー・Ⅰ.・︵−紹∽︶s・岩芦Assignatenの項を参照した︒
㈲⁚﹃a宗ner︼ a.a.〇: S● 富 の引用図表を利用したり
㈲ ibid−SS.∽−窒
り ibid︸ S.料○
捌 ibid.野.ふ這
㈲ ibid−SS● ひNl冨
師 Harris−Op・Cit・pp・−N?−−N−
川 ibid﹀ pp.遥−−00︶ p.−○可
は ibid﹀ p.−00f
旭 ibid﹀ pp・−∞−1−00∽
掴 ibid−p・治
個 ibid﹀ p・Nい∽
㈹ ibid﹀ p● Nのー
アシェア紙幣の減価に関する党蓄 ︵四七七︶ 四一
劇七九三年五月四日の穀物最高価格法︵P蒜mierMa已mum︶に引続き同年九月二十九日にほ血般仕活必需品最
高価格法へMa監mumg監邑︶か発布され︑更軽質銀嶺高額法︵Ma賢umd2SSa−air2S︶せ以て﹂応成立を見 た事命政府の物価統制法の成果に就ては︑革命攻研究の中心課題として多くの学者により研究されており︑従って
ハヅ︑ス自身も当時入手し得る限りの諸研究を参照しっつ最高価格法に就て論じているので︑筆者もまた出来るだけ これ等を検討してハリス果して正しきか否かを検討することとしたい︒
一体警同価格法ほ︑当初より種々の実施上の難点を包蔵し而もそれ自身激動するフランス革命の中で或は軽減さ
れ︵attかnu2︶戎ほ改正︵r2鼓か︶ぎれたのであって︑決して初めから絡まで同様の効果を持ったものではない︒ 先ず五月四日制覚された穀物最高価格法の成果が挙らざるため︑妄対外状勢の緊張もあって︑九月二十九日法 律は制遷されたが︑それほ生活必需品三十九種目に対するものであって全商品を対象とするものでほなかった︒而
も市町村自治体当局︵m亡nicipa宗s︶がこの制定︑実施空任され︑また輸送費に関して如何なる特例も認められ
l なかったことは︑垂が確かに観迎される内容を持っていたのにも拘らず︑大きな映点であった︒また低物価制定に
り︼ 伴う価格差に関する補償も講じられず︑従って物資不足や所謂闇市場︵marcF言Oir︶も存続し︑その他農民の売 ㈱
悼み︑低い公定価格に反対する中立諸国のフラ∴Jスへの輸出拒否等︑既紅早々にして法令の紋点を暴濱し始めたの である︒
このような状態の下では︑所詮︑テロ︵t2rr2ur︶による強制措置を行わざるを得ず︑またそれに伴う種々の経済
統制機構の整備を見るに至った︒即ち同年十月二十←日発足した食糧委員会︵COmissi昌富SubをaロCeS︶こ 第二十八巻 聴聞五官
吻 最高価格法の意義 ︵四七八︶ 四二
そはこれが中央機関として全権を掌握すると共に︑所謂サン・キュロブー︵sans−邑︒tte︶が構成す指事命軍と人 4
民結社曾ci芸POpu−aire︶を二本の推進力として違反者にほ厳罰を以て臨むことになっ雷であ聖と同時に 廟 法自体の整備を急ぎ︑適用対象は全食料品に拡大されて︑更に木材・紙訝にまで及び︑その他生産の増強︑また貴
金属の供出没収等まで徹底的になされ︑持ほかなりの成果をあげたといってよい程であった︒ 然しこれはあくまで∵時的であるのであって︑十二月二十二日以後ほ買占者に対し死刑を以て臨むことをやめ︑
革命裁判所は多くの買占者︵特に皮革業︶を釈放し︑独占眉占取締法を殆んど死文化せしめ︑頗高価格法の効力を 6 そいでしまったのである︒この事実はわれわれに当時の政治状勢の複雑なることうかがはしめ引︒即ち当時国内の ジロンド党の反抗は弾庄され︑若きナポレオンの指揮によりツーロンは陥落し︑プァンデーの封建的反革命軍は壊 滅され︑一方対外的にほワッチニイの大勝あり︑十二月にはゲィセンプールの勝利によヶアルサスの防衛成り︑共和 国の前途ほ明るいものとなっていたが︑フランス革命軋於ける大きな問題点をなしているサン・キュワットとジャ
コバン派︵JacObins︶乃至山嶽党のブルミアジー各層との矛盾は当然・これらの状勢の綬和をうけて︑その悌帯
の弱化︑即ちブルジョア汐−の嫌悪する警同価格法の緩和を腐起せしめたのであろう︒以後ミール派のデマゴー け︑ グに部分的に代表されたサン・キ言ッーの妥望も無視されて︑やがて九四年三月にはエペール派ほ弾圧されてし
ハH︶ まった後は︑最高価格法の主動者︑防衛者ほ殆んど存在せず︑政府ほこの法律を維持しはしたが︑併し何等の
熱意もなければ︵sansen−hOuSiasm2︶︑確信すらなく古ぎsansCOnまc−iOn︶なっでしまつたのであった︒ そしてもはや有名無実の商品への価格統制に対して労賃哉高額法が依然厳重虹守られていたことは一部サン・キュ ロットの政府への冷視を招き︑これがロベスピエールの没落の二堺因︑′即ちサン・キ言ットの二部の山嶽党へ 9 の不協力を惹起したのであ聖 このような事態の下に於てやがて大ブルジョアジーを中心とするテルミドリアン
︵四七九︶ 四一ニ アシェア紙幣の減価に関する覚書
第二十八巻 第五号 ︵四八〇︶ 四払
︵thermidOri2n∽︶の陰謀の前に山嶽党政府は劇的没落を遂げてしまったのであり︑そして羨高価格法またこの反
動以後︑雪月四日±七九四年十二月二十四日︶全廃されるに至るのである︒以上主として古典的名著たるマティ
モ.その他によりつつ︑波高価格法の概要を述べ来ったが︑蓼する紅最高価格法はそれ紅蓮る休閑地耕作︑干拓の
義務化︑種子の分配等生産増強のための諸施策並びに︑徴発政策及び買占の禁止等の配給策と共に︑一時的乃至部
分的に効果を納めたにすぎない欄であって︑ハリスが金時期を通じて最高価格法が有効であったかの如く論ずる点
は明らかに行きすぎであろう︒ハリスが引用したマティエの恋文ほ披見することが出来なかったが︑論文と同じ題 目の牽を含むこの労雛見てもそのような積極的な見解完うことほ出来ない︒ 帥 更に彼はプルヌの論文を引いて統制組織は経済的フ莞デラリズムが最頂点にある時フランスを救った占首述べて
いるが︑これほ九三年十月中旬から十二月中旬ぜでのニケ月間︑経濁的な恐怖政策が効果をあげた例証にほなって
も︑果してハリスが言う程の強いカを全期間を通じてふるったか否かは当然問題となろう︒しかも更にハリスの引
用は
来た諸史料の概要を述べ︑ついで﹁最高価格についてのプラ/ンスに於ける実験はあからさまにいうと失敗であっ
た︒少くとも︑それは一七九四年十二月最高価格法が廃案された時︑宣明された国民公会の意見であった︒﹂ と述
べ︑﹁然りとすればその原因は如何﹂と問題を捏起し︑これについて若干の考察を行っている︒そして前述の如き
理由を述べ︑十山月の価格改定ほ手続が繁雑で︑翌年真にまで及び︑一仲々実施困難であったことを伝えている︒特
紅︑︑最後に価格管理の最も奇妙な結果の一つとして非常に広汎に拡がっている密売買︵cOロtrabaロdtrade︶の浸透
を挙げて︑特にそれがバター︑卵︑肉等に於て甚しかったことを述べている程であって︑最高価格法の有効性の
例証どころか︑むしろ反証として挙げられるべき性質のものであるといわねばならない︒
凋 また更に彼の要約引用したルフェーブルの史料集の序文の五七頁1六四頁を見ても︑ハジスの要約自体が正確
か香かほ別鱒論及するとしても︑彼が一体何故引用したか判らぬ程であり︑引用文自体が既紅金時期を通じて効果
があったといってはおらないのであるが︑ルフェーブルは彼によれば次のように書ちているといわれる︒即ちユ⊥
七九三年五月から九月に至る最初の期間鱒敦高価格法ほ一般に遵守されていた︒そして山七九四年前単に至るまで
不足は殆んど感ぜられなかっだ︒彼︵ルフェーブル︸は如何なる不足も戦争に帰して最高価格法にほ帰してはいない
が︑併し彼は一七九四年の九月から十二月にかけては中央統制がやぶれ従って闇商業が急速紅発展したと譲歩して
述べている﹂とハリスほ番いているのである︒
併 が注意されなければなるまい︒
さてルフェーブルはその序文の第五章最高価格令の最初の時期︵︼ヨ芯・野鼠〜︼遥山・H・隻︶を論じた文章の中で既 ヽヽ
に窮乏のあったことを述べ︑﹁この窮乏を畢口同価格令のみに帰するのは避けるべきである﹂︵Ⅰ=aut se garder d帥・ 礪 ttribuer cette penurie au seu−ma監mum︶ とし︑この時期を賓約して﹁かくしてこの最後の時期の間では最
高価格法は極めて不完全にしか適用されなかった﹂ ︵Ai宏i︸durant cette premi㌣e pかriOde−e ma舛imum 個
n﹀a孟it空茶q莞tr訂imparfaitement app−茸uか.︶と結論している︒次いで第六章に於て第二の時期︑一七九
三年十月〟口から九四年九月十六日まで論じでいるが︑共和暦第二年の収穫ほ桓めて悪く︑七三年に三分の脚は劣
るといわれていたことを述べ︑次いぽ﹂のような秋乏をもたらしたのは最甘同価格法でほない︑それは戦争に原因す
ハ︼U るもの篭ることを論じているのであ愁更に第三の時期︑壱九由年九月から一七九五年二月二十二日迄の期間紅
ついては↓共和暦第二年に於て適用された制度ほ笹々なる修正により弱められた︒即ち中央権力は少しつつこの制
︵四八こ 四五 アシェア紙幣の減価に関する覚書
欝二十八巻 第五号 庶から解放されたのである﹂︒︵Le r蒜ime qui a吉it app−iq象en−.an HH fut筈ran−かpar ces diff野entes ︵四八二︶ 四六
m︒邑icati︒nS⁚︒n∽entaitque\−かpOu㌢ircent邑s一endetac訂itpeu抄peu.Yと述べ︑ロベスピエールの
没落後︑最高価格制が次第に名実共に死文化して行くことが述べられている︒
併しながら︑もとより最高価格法のアヤ−ア減価への意義が全然ないというわけではない︒それどころか︑ハリ
スは引用していないが︑また自身も具体的にほ述べていないが︑ルフェーブルは同じ序文の別の章でほ﹁最高価格
法ほアシニアの相場を支え以て国家に対し大なる責献をなルた﹂︵Lema軋mumrendaitdまHeursde grands
Oハリ S2r喜2S=曽a−enseu−2nan=2COurSd2−︸a邑gnaこと述べておるし︑又そのプラ/ンス革命史研究Ⅵ璽同
峯たる﹁プラ/ンス革命に於けるノー㌦の農民﹂の第三章﹁最高価格法と農民遵﹂の末尾に於て︑主として労賃最高額
法に関してでほあるが1次の如く述べている︒即ち﹁ここで女中や日傭労働者が最高価格法の不完全な遵守や補給
の不完全に他の人々より悩んだとしても︑彼等の状態ほ依然として辛抱出来るものであったろう︒とにかくパンの
価格は彼等の給料程には上らなかった︒そして秋まで︵九四年︶ほ彼等も充分であった︒最高価格法ほアシニアの
低落をゆるめることセ彼等には大変役立った︒何となれば︑彼等ほ紙幣の値下りをつぐなうだけの給料の増額を妥 個
求するいとまを待ったから︒﹂と論じていることは少くともこ伊最高価格法が幾多の不完全な点を持ち︑公然と破ら
れておりつつも︑尚一応の存寵意義を持っていることが知り得るであろう︒
︵註︶
り GOdecFOf.〇p.Cざ p.∽澄
劫 ibid︶ p.∽誤
刷 A・gatFi¢N−訂くiecF富eニe m吉富memts︒Cial∽OuS−aterre誓ハー§︶p.会↓
射 ibid︶ pp.き↓−給N
㈲ ibid﹀ p・会↓
㈲ 西海太郎 恐嚇時代における山岳覚の経済政策︑西洋史学特輯フランス革命研究六二−六三膏∵二九五二年︶
里 MatFiez\p.∽定
捌 ibid一pp.川㍍函−∽∽00
馴G−R已ee−A・SOb2ユ﹀卜2ma已m昌des邑a−r2∽parisie−−Seニe¢−he昌i賢︸An邑es histOriq完S deJa
R曾0−まi昌fran竃ise−欝かNO−−pp・−et seq・
㈲ Ma−FieN﹀Op・Ci−・pp・毘上声chap・ⅠⅠⅠ・Ladicta言e許OnOmiq莞duCOmitかdeSa−utpubHque 尚同名
の論文はAn忌訂s R晋○−已iOnaireくOL舛く・にあるとの由である︒
囲H.E.BO彗ne−Ma已mumpr首sinFrancein−芸and−讃芦AmericanHistOryReまew邑・舛巴IHOct﹂害
1Ju−y−讐00﹀ ppJO∽1−−∽
㈹ G−1efeb∃e︶DOC昌en−s邑a−1fs=︑Fis−Oire de∽Subsistances dがns−e district de Berg莞S︿−議−・anく︶
言r l︵︸淫£
個 Harris︸Op・Cit・p・−あ
㈹ G.Lefebくre﹀DOC仁mentS・intr︒ductiOnp・こー一
個 ibid﹀ in告○−P‖ L≦−
摘 ibid−imtr〇.P‖ L回国l
㍑ ibid︸ intr〇.P.L舛舛−−H
個 ibid−intr? p・LH巴舛
アシニア紙幣の減価に関する覚書 ︵四八三︶ 四七
琴一十八鹿 第五号 ︵四八四︶ 四八
胸 G・Lefeb∃e﹀Lespaysanのdu誉rdpendanニa R曾0宣iOn fran首se︵−給料︶pp.の誤よ∽の
問 総 括
以上実に蕪雑ながら諸学説を検討し来った積りであるが︑その結果その何れもが何らかの難点を威し︑特に最高
水準を示すとフランス革命史学界に於ても考えられるハリスの研究も普通云われる程には正当性は持ち得ないもの
があると仙応してよいであろう︒とはいえ︑これ等ほ絶対的にはともかく︑相対的にほそれぞれ事態の劇画をつい
ていると考えることほ必ずしも当を失していると聴いえないであろう︒
果して︑然らば我々は曽てジョレスが諸規準を綜合的に時に応じて利用しつつ解明した如く︑何等かの形に於て
叙上の観点を統劃して行かねばならぬであろうが︑この場合もやほり我々の出発点ほ前記ハリスの研究であろう︒
さてこの場合想起せらるぺきほホートレイがハリスの反批判として前記著作の新版に於てのぺた脚註の文章であ
鴻即ち彼ホートレイは﹁ハサスほ減価の規準としてア雲アの金価格を用いることを非難んている︒ハリスほ各
県に於ける減価ほ正貨︵speci2︶と同じく物価を無視し得ない︵−akeac3︑邑○!︶が故に︑地方別減価表曾・
Ca=ab−2S︶に拠る方をよしとしている︒成程物価指数は価値あるものであろうが︑併し地方別減価表は実際ほそ
れをもたらさない︒物価と金銀価格が連経あるということは壱九五屈まで物価の動きは常蔽金銀価格の変化より
ぉくれるということによっても︑示されている︒正金︑︵sp2Ci2︶価値ほより敏感であり︑従って減価過程に影褒す
る原因に対する最も有効な︑リトマス試験紙であったりハリス教授は﹃我々ほ貨幣が何を買うであろうかをいうこ
とに興味を感ずる﹄といっているが︑併し︑私はまだ金属本位制︵−hem2−a≡cstandard︶そのものからの準離
︵d2p邑彗e︶を測定することに興味を持っている﹂と▼いっているのである︒ここに於て我々はハリスが価値尺度に
のみ蚤きを置いて価格の基準に対しては少くともをれを視野以下にさげるものであり︑これに対し︑ホートレイの
それは価格の規準としての貨幣にのみ主として限を向けるものであると云うことが出来︑共に一面的なものとせざ
るを得ない︒即ちやぼりこ互に於て価値尺度と価格基準を鯨二するものとして貨幣に着目したマルクスの分析の正 2 しぎを想起せざるを得ないせあろう︒従って紙幣の問題もこの線に沿って︑考えられなけれほな牒まいし︑又当面
関係する範囲での為替の問題も︑この基本的観点に立って論ずる事が出来るであろう︒
即ら﹁金貨ほ流通量と必要量とを一致せしめる自動矧節作用が認められるが故に︑換言すれば流通界以外に於て
も価値乃至富の蒐集形態として保威されうるから︑流通必質量なこえれば自らぬけ出して﹃退蔵貨幣の貯水池﹄の
中に入りこん七しまい︑そこから氾濫することほない︒しかるに紙幣は流通界に於てのみ価値を有するにすぎず︑
㈱ 貨幣流通の内在的法則と相まって︑その価値はその自身の分量によってきまる﹂と言葉の正しさを認めるならば︑
やほり我々は︑商品の需要と供給とのアンバランスにより即ち需賓が供給にくらぺて大きくなった場今に起る物価
騰貴と︑不換紙幣の必葵限度以上の膨脹に基く処の物価騰貴とを区別して︑後者にこそ根本原因がありと考え︑前
者ほ促進作用を営むものとすべきであろう︒
併し筆者は充分当時の生産状況及びその内容を把握する用藩に乏しいため紅︑今日ここに論及する事が出来ない
のを遺憾としたい︑従ってここでほ主として財政の赤字に重点をおきつつ︑同時に︑段階も条件も異なるが︑かの
ドイツ・インレーションに際して︑数々の論争を惹起した為替の役割についても一書することとしたい︒
さてアンシャン・レジーム下に於ける︑税負担は第三身分紅とり特に直接税に於て非常に重く且つ不公平であっ
た︒最初の議会に於ても改革の事が議せちれ︑やがて一毛丸山年三月一七日の法律によって︑全税額の四分の一こに
当る不動産税︵c︒ntributiOn計nci㌣e︶身二七九州年より納付すべきことと定められたのである︒課税ほ十五年
アシェア紙幣の減価に関する覚書 ︵四八五︶ 四九
第二十八巻 第五号 へ四八六︶ 五〇
間の平艶純収入︵re諾nロnet︶を対象とし︑台帳がなきため申告により原簿∴Matrices︶を作成以てこれが基
礎となすことになったが︑本来極めて長期に︑且つ専門家によりなさるぺきものが︑制定早々課税を開始することに 4 なったので︑その成果の前途ほ危いものであっ専更に全税額の五分の﹂に当る動産税︵c︒ntributi︒nn︒bごi㌣
re︶ 軋ついては︑山七九一年一月十三日の法得でその大要が発ったが︑むれが税源の査定は元来不動産の場合に放
して〟段と難しく︑ために五穆に分け︑或は女中を傭うことに或は馬車を持つことに課税する等苦心しているが︑
申告による点また徴税上聞題があるといわねばならない︒
而して晋通各県当局が県内の原簿の作成︑課税額の計算するのを待つのが正式であるが︑それでは余り長期に亘
るので︑′面積により各ディストリクト ︵district︶ の負担の額をきめ︑更にこれを市町村各自治体に多種多様な方
法で更に分割したりし︑速にはアンシアン・レジームにおける税金支払額に比例して分布をきめることすらなされ
た︒これが極めて不備なことはアンレアン・レジ−ム当時の税金ぞのものが出たらめであった事実によっても倍化
されたために﹂ 四八︑000︑000リーグルの軽減・減免の賓求があるのに反し︑議会は総額二て000︑000
リー究ルしか見込めなかった程であるという︒而も徴税ほ全て地方官庁の賓任とされ︑たとえ徴税が好成絵であっ
ても何等の報賞が与えられなかった︒従って徴税の成続は悪く︑例えば山七九山年制定された不動産税及び動産税
ほ︑一七九二年四月一日三〇〇︑000︑000リーグルの予定が僅か六〇︑000︑000リーグルであったとい
う︒また一七九二年五月の或る報告によれば︑四万の市町村の内借か二仙000の市町村のみが地代帳を完成した
に止ったという︒.この外︑商人は営業税︵patente全税額の三〇分の刷軋当る︶を課せられ︑遥反省ほ商品の没
収等の罰が加えられたが︑例えば濃村などで農民が農閑期その他にわずかな商売を行っていたが︑彼等ほ当然これ
を忌避することとなり︑〟七九︑一年にほ二二︑000︑000リーグルの予定が僅か四︑八〇〇︑000リーグルの税