• 検索結果がありません。

コミュニケーションからみた「言語の起源」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "コミュニケーションからみた「言語の起源」"

Copied!
26
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1.はじめに

[認知科学の考え方と言語中心主義]

 「認知科学」と呼ばれる新しい学問分野、すなわち、心理学、コンピュータ科学、脳・神経科学、

自然哲学、言語学などの手法を駆使して人間の知的活動のメカニズムを明らかにしようする新しい 科学の展開によって、人間の精神の働きについての理解は飛躍的に拡大し、従来のものとは決定的 に異なるまったく新しい像を結びつつある。ただし、脳内の実際の情報処理プロセスについて直接 知られていることはごく限られている以上、大方の合意が得られる方向性が打ち出されつつあると いうよりは、大きくいって二つの相互に相いれない立場が併存しているという状態にある(クラー ク、1997)

 この論文の目的は、このような論争的状態にある認知科学のそれぞれの立場が採用している考え 方のいずれが正しいか、あるいは本当らしいかという問題には直接関わりをもたずに、その中の一 つの立場が採用している考え方を出発点にして、人間やその他の動物の精神活動全体の中に「コミ ュニケーション」という現象をきちんと位置づけることによって、人間が言語を手にする前後に起 こったコミュニケーション上の変革について新しい理解の可能性を示すことにある。ここで示され る主張は、人間は言語を獲得することによって認識や思考にとってのまったく新しい地平を手にし たが、それはコミュニケーションという領域における大きな変化を前提としてはじめて可能になっ た、というものになる。

 認知科学は、認識や思考が脳内にある何か具体的なものによって表示できることを前提として成 立する科学であるが、「人間は言語によって認識し、思考する」という常識に寄り添って、脳内に言 語が、具体的にはたとえば日本語の文が実在するとは考えない。この点まで、すなわち「言語と認 識・思考は別のものである」という点に意見の食い違いはないが、それではどんなものが実在する と想定するのかというところで、道は二つに分かれる。第1の立場は、言語の類似物、たとえば内 部言語(スペルベルとウィルソン、1993

211)とか心的言語(ピンカー、1995

109)と呼ばれ

るものを想定し、それが統語論的要請に従って配列された記号列として存在すると考える。それに 対して第2の立場は、日常言語で用いられる概念や関係に類似したものをいっさい含まないものを

コミュニケーションからみた「言語の起源」

北  村  光  二

(2)

想定しようとする。

 この二つの立場の違いは、脳・神経系の情報処理過程における計算の形式をどのようなものと考 えるかの違いに対応している。第1は、現在の一般的なコンピュータと同じ、記号処理を前提とす る直列型の中央処理を想定しているのに対して、第2のものは、記号によってまとめられる以前の 情報をバラバラのままで並行して同時に計算するという並列分散処理を想定している。この二つの 立場の違いにかかわる具体的な検討は省略せざるを得ないが、第2のものが人間や他の動物の認識 を言語とはまったく独立なものとみなしているのに対して、第1のものは「言語と認識・思考は別 のものである」とはいいながら、認識や思考は言語によって表現されるものの直接的な対応物とい う形で人間の脳内にあるのだと考えており、あくまでも言語中心的な認識観を維持している。それ に対応して、第2の立場は、言語は情報を貯蔵して移転する媒体なのだと考えていて、言語をコミ ュニケーションの媒体として明確に位置づける可能性を保持しているのに対して、第1では、言語 にとってコミュニケーション機能は付加的なものだという位置づけになっている。

 この論文で私は、この「言語中心的」認識観とははっきりと一線を画して、認識を日常言語の記 号列によって構成される文や命題に直接対応すべきものとする考え方を捨て、本質的には言語にま ったく依存せずに生成するものと考えるという立場に立つ。それとともに、言語の本質的な機能は コミュニケーションにあると考える。しかしそれは、言語の獲得を待ってはじめてコミュニケーシ ョンが可能になったということを意味しない。当然ながら、言語以前にコミュニケーションの活動 はすでに十分な展開を遂げていたのであり、それは言語以前にすでに見事に精緻化した認識の活動 があったことと同じである。むしろ、コミュニケーションの活動が複雑化して高度化することによ って言語の獲得の可能性が用意されたのだと考える。

 そして言語の獲得後、その言語を用いてなされるコミュニケーションの浸透とともに、対象世界 を言語的命題によって表示することで、その認識を他者に伝えて他者と共有するという可能性が現 実化し、さらにその認識を用いた論理的推論によって世界についての予測可能性を高めるという道 も開かれることになる。その後、文字の文化の拡大にともなう認識、思考のテキスト化(オング、

1991)という決定的な段階を経ることによって、言語によって表現されたものこそが真正な認識で

あり思考であるという理解が不動のものとなり、認識は限りなく言語に依存したものへと偏ってゆ くこととなる。

 人類学的興味からいえば、ここで取り上げようとする「言語中心主義」こそが、私たちが当然の こととみなしているものの見方、いわゆる「近代的思考」の重要な柱の一つなのだということにな る。この観点からすれば、認知科学の近年の取り組みは、自らの思考そのものでもある近代の常識 を「相対化」して、人間の認識や思考の本質を理解可能にする新しいものの見方を手にしようとし ているという意味で、人類学者の営為になぞらえられるものになっていると思える。そして、この 自らの思考の相対化という困難な試みを支えているものが、人間と他の動物との連続性を想定する 進化論的思考と、コンピュータをモデルとした情報科学的想像力の活用である。以下においても、

(3)

この二つの方法を基本的な手段として位置づけ、考察を展開したい。

[コミュニケーションの視点]

 ここで「コミュニケーション」を中心に据えて、人間の精神活動についての新しい理解を探ると いう方法が意味することについても言及しておきたい。コミュニケーションの観点からすれば、言 語を獲得することによってもたらされた変革の中核にあるものとは、他者(同種の他個体)に帰属 する認識を自らの認識として取り込む、ないしはその逆の場合を含めてある認識を他者と共有する という現象が現実化したことである。それは、認識・思考する当事者と対象との「関係」というレ ベルに加えて、その対象との「関係」について同じように考える可能性をもった他者との「関係」 典型的には同じように考えることによって結果的に競合する可能性のある「関係」とそうすること で協働する可能性のある「関係」を考慮に入れて自らの行為を選択するという状況において、決定 的に重要な役割を果たしたのだと考えられる。すなわち、言語によるコミュニケーションという回 路を通じて「認識の共有」がその場に具体化されることによって、競合する関係はいつでも調停さ れるはずのものに、協働する関係はどこまでも探索されるべきものに位置づけ直されることになる。

 認識や思考とは、本来的には、その当事者の脳・神経系における情報処理過程内の出来事にかか わる用語であるはずだが、それはその対象への働きかけというかたちをとって外部世界との「関係」

を生成する。そして、同種他個体との相互行為を濃密化させた系統では、それとともに、同種他個 体の認識や思考を推測するという経路を利用したコミュニケーションの活動において、それは外部 世界とのもう一つの「関係」、すなわち同種他個体との「関係」を生成するのだと考えられよう。コ ミュニケーションの観点から人間の精神活動を理解しようとする方法とは、それを徹底的に外部世 界との「関係」の構成という側面から考察するというやり方のことである(北村、1992)  言語によるコミュニケーションのもっともめざましい特徴として、正確で複雑な情報の移転とい うことが考えられるが、それが現実に何かの役に立つためには他者の認識を自らの認識とするとい う特殊な選択がどうしても必要なのである。したがって、言語の獲得によって正確で複雑な情報の 移転という適応価を手にすることができるのは、「同じように考える可能性のある他者との関係」を 前提とした相互行為をすでに十分に発達させていた系統に限られるということになる。すなわち、

言語を獲得する以前に「相手と同じように考える」というタイプのコミュニケーションが存在して いなければならないということである。言語はそのようなコミュニケーションの体系がすでに存在 する場合にしか出現しないし、そのような体系の一部としてしか意味をなさないのである。

2.フィードフォワード型の情報処理

[認識とは何か]

 常識的にいって、人類学的研究において取り上げられる「認識」とは、調査対象となる人々が質 問に応じてにせよ、日々の会話場面で表明するにせよ、生活世界に関わる何らかのことについて言

(4)

語的に表現したことをデータとしてそこから抽出されるものであり、ともかくそれは「言語によっ て表現されたもの」に限定されていると考えて間違いない。すでに述べたように、このような「言 語中心的」認識観を実体論的に突き詰めるならば、人間の認識は言語的命題の直接的な対応物とい う形をとって人間の脳内に存在しているとする立場に行き着くことになる。しかしこのような考え 方は、人間の認識能力のうちの、複雑な論理的推論のような進化論的に最近になって出現したもの の説明にはうまく適合するが、視覚やその他の感覚による認識やそれにもとづく運動の制御という 進化論的に基礎的な課題の遂行の理解にはまったく不適切なものになる。

 たとえば、道を歩いていて段差のある場所にさしかかったとしよう。その段差に気づかずに歩け ば転んでしまうかもしれないが、それに気づいたとき、「その段差」についての認識にもとづいて両 足の筋肉の収縮を調整して、なめらかにその段差を通り抜けることができる。これは、人間やその 他の動物が感覚運動調整の能力を用いてさまざまな課題を解決するというごく一般的な現象にかか わる一つの例であるが、ここで「認識にもとづいて行為を選択・修正する」という意味で問題とな る認識は、決して「そこに段差がある」というような言語的命題に翻訳される認識なのではない。

そのときの行為の選択・修正に必要な認識とは、身体の重心のなめらかな移動という結果をもたら すように筋肉の各部位にその収縮の程度を指令するうえで必要となる認識であり、そのような役割 を担うものとして、言語的命題という形式はもっとも不適切なものの一つだと考えられよう。

 ここでは「認識」という語によって、進化論的に基礎的な課題の遂行の理解にも適合するもの、

すなわち、感覚器官を通して内部に取り込まれた情報を何らかの行為選択に役立つように処理した もののことを考えるが、それは言語にはまったく依存せずに生成すると考える立場に立つ。「認識」 さしあたっての定義は、「脳・神経系の情報処理過程において、感覚入力過程の産物として運動出力 過程の手前に生成するもの」としておこう。それは、外部世界についての認識にもとづいて行為が 選択されるという図式を前提に、感覚入力過程の側に「出来事の報告」に関わる情報処理を、運動 出力過程の側に「行為の指令」に関わる情報処理を割り当てたということである。ただ、この二つ の過程を独立したものとして分離することは具体的には不可能である以上、ここでの定義が指し示 すものは仮想的で曖昧なものにしかならない。

[行為選択に有効な認識]

 ここでの立場からする「認識」の定義が具体性に欠ける曖昧なものになることは、ある種必然的 である。言語中心的認識観において認識をごく具体的なものであるかのように扱い得るのは、そこ での認識がその当事者の言語的報告によって代表させられているからであり、いずれにしろ私たち は、当事者の運動出力過程の産物という実際に知覚できるものを材料にすることによってしか脳・

神経系の情報処理過程の中間生成物としてある「認識」について何も知ることはできない。そして、

たとえ運動出力過程の産物が自らの認識を報告する発話という形をとったとしても、それはあくま でも運動出力過程の産物でしかなく、そのような行為選択の手前にあってそれを規定しているはず

(5)

の「認識」とは別のものなのである。言語中心的認識観を捨てたとき「認識」は、具体的に特定さ れる情報処理プロセスによって生み出される具体的な生成物という位置づけを失い、入力過程と出 力過程での情報処理が重なり合って生成した反応から推論されるしかないものとなる(ベイトソン とロイシュ、1989

196)

 さらにここでは、入力過程と出力過程が分離できないのだからそれらを一つの過程とみなさざる を得ないという以上に、より積極的に、それらを一つの過程とみなすべきだという考え方をとる。

すなわち、「出来事の報告」に関わる情報処理と「行為の指令」に関わる情報処理をあらかじめ分離 してしまうことなく、それらを相互規定的なものとして一体化して考察の対象とするという意味で そうすべきだということである。たしかに認識が「原因」となって行為が産出されるといいうる場 合もあるだろうが、一方で、行為選択に役立つような認識を構成する、すなわち、その認識に見合 った行為を選択することで目標を達成できるような認識を構成する、ともいいうる。後者は、ある 現実を前にしてそれをどう認識するかは、そのとき当人がどんな見通しをもって何をしようとして いるのかということを前提に、外部にあるどんな情報に注意を向けてそれを内部に取り込み、それ をどう処理するのかに依存するという考え方に対応する。その場合も依然として認識にもとづいて 行為が選択されるといいうるが、そこで「行為の指令」に関わる情報処理とはまったく無関係な、

外部世界についての認識を生成する情報処理プロセスを想定することは、まったく不適切な考え方 になる。

 ここで後者の場合に対応した「認識」の考え方を基本的なものとして採用するのは、以前と同様 に、前者が形式化された正確な推論が導き出した結論に自らの行為選択を委ねてしまうという、進 化論的にごく最近に出現したものに適合する考え方であるのに対して、後者が進化論的により基礎 的な課題の遂行に適合的だと考えられるからである。以上の議論をまとめていえば、ここでいう

「認識」とは、基本的に、その当事者となる個体の側にあらかじめ用意されている対象への適切な 働きかけを導くプロトタイプを前提に、対象の側にある情報を探索して、そのときの行為選択に有 効なものという基準で取捨選択され処理されることによってもたらされるもののことである。この プロトタイプとは、遺伝的基盤を持つ能力や学習によって身につけた技能を背景として、「こういう ときにはこうして、こうすればこうなる」というかたちで想起される、対象とどう関係するかにつ いての実践的な知識とでもいうべきもののことである。

 ただし、言語の獲得以後の段階においては、言語によるコミュニケーションによって他者と共有 されるものとしての「認識」が現実的に重要なものとなることを契機に、言語によって命題の形を とって表現されるもの、あるいは言語的命題からの論理的推論によってもたらされるもの(それも 言語的命題の形で表現される)で、ある個人に帰属するとみなされるものも認識の仲間に加えられ た。このような「認識」の場合も、あくまでも「認識にもとづいて行為が選択される」という可能 性が前提として保持されてはいるが、そこでは「行為の指令」に関わる情報処理とはまったく無関 係な、外部世界についての認識を生成する情報処理プロセスが想定されうることになる。すなわち、

(6)

そこで認識にもとづいて行為が選択されるときには、その認識が「原因」となってある行為の出力 という結果がもたらされることになる。

[予期にもとづく情報処理]

 対象とどう関係するかについての実践的な知識にもとづいてそのときの行為選択に有効なものと いう基準で情報を処理するというやり方は、利用可能な情報をすべて入力してそれを演算規則に従 った機械的操作によって処理するというやり方とは違って、適切な最終産物を生成するという目標 に即して入力情報を取捨選択して特異的な処理を行うという意味で、フィードフォワード型の情報 処理と呼ぶべきものであろう(チャーチランド、1997)。このフィードフォワード型の情報処理と は、別な言い方をすれば、ある予期のもとで情報を取捨選択して処理することであり、その「予期」

とは、もっとも基本的には外部環境への適応に関わるものである。ある環境で安定的な生存を確保 している種があるとして、それぞれの個体はその種のメンバーが共有する遺伝的適応機構を背景に した「こういうときにはこうして、こうすればこうなる」という予期のもとで、そのときその場で の行為選択に有効な認識を構成して行為することによってその環境に適応している。

 環境にある情報を内部に取り込んで処理し、それによって適応的振舞いを構成しようとする活動 において、すべての生物個体は、遺伝にもとづくにせよ学習を背景にするにせよ、環境への適切な 働きかけを導き出すプロトタイプに沿ったフィードフォワード型の情報処理を行っていると考えら れる。そして、このような外部世界との「関係」の構成において、「関係」の一方の側が勝手に自ら 予期のもとで情報を処理するという方法は、そのやり方で行為を選択することによって安定的に「予 期の実現」を図ることができて、はじめて維持可能になるやり方なのである。したがって、そのよ うな情報処理の基準となるプロトタイプは、予期の実現をより確実にするものへと置き換わる運命 にあるといえる。遺伝的基盤を持つ能力は遺伝子の突然変異と自然選択のもとで、学習によって身 につけた技能は更なる鍛錬によって新しいものへと置き換わる。

 このフィードフォワード型の情報処理の考え方は、以下のような意味において自然選択説にもと づく適応理論ともうまく接続している。まず、生物個体の認識や思考という活動が遂行される場所 である脳・神経系を、自然選択の産物である「基本設計」にもとづいて組み立てられ、学習によっ て刻々と改変が加えられつつある情報処理装置と考えるところから始めよう。自然選択説では、こ のような装置は、それ以前の世代のそれぞれの装置が環境への適応という結果を産出するという基 準で選別されることによって、結果的に、適応という「目的」のために設計されたもの、すなわち、

適応という予期の実現にとって有効な情報処理ができるように設計された装置と同じものになると 考えられている。自然選択説は、適応という生物個体にとって絶対的な「実現すべき目標」を想定 することの不可避的な帰結として、適応を目指す個体の情報処理装置がフィードフォワード型の情 報処理に適合的な基本設計を持っていると考えることになるはずである。

 しかし、ある特定の個体の現実の情報処理のプロセスが、この「適応という絶対的目標」そのも

(7)

のを目指しているという意味でフィードフォワード型であると考えてはならない。適応という目標 と現実の情報処理において掲げられるそれとの間には、次元の違いとでもいうべきズレがある。現 実の情報処理では、たとえば道を歩いていて段差のある場所にさしかかったという場合のように、

そこでどんな情報に注目してそれをどう処理するかをめぐって、より具体的なプロトタイプを取り 出してそれにもとづいて適切に処理するというのでなければならない。そして、このようなやり方 を可能にする、それぞれの具体的プロトタイプを構成したり、複数のプロトタイプから適切なもの を選びとるという操作は、その装置を保有する個体が現実の情報処理を繰り返すことによって身に つけた技能という要素を前提にしたものになるはずなのである。

 なぜならば、もしそのような操作さえもがそれ以前の世代が採用したものの選別によってもたら されたものだとしたら、その適応の産物としてあるすべての装置が同じ機械のようにいつでもまっ たく同一の反応を出力するということになって、ここでの考察の中心にある「個体の知的な活動」

という設問自体が無効になってしまうからである。すなわち、少なくとも認識や思考という個体の 知的な活動を高度化させた系統では、適応の範囲内という限定はあるとしても、この適応という課 題とは独立でそれとははっきり区別できる「情報処理にもとづく行為選択」という課題に適切に対 処することの重要性が拡大していると考えられる。進化論的思考と認知科学的問題意識とは、この ようなズレを持った接合面で出会わなければならないはずなのである。

[相互の予期の整合的接続]

 このフィードフォワード型の情報処理を前提として考えると、同種個体間の相互行為という領域 における情報処理が、それ以外にはない特殊な事情を抱え込んでいることが明確になる。すなわち この場合には、自らの予期を実現しようとして働きかける相手は、そのこととは無関係に、同じよ うに自らの予期を実現しようと身構えているのである。それでも、それぞれの個体は自らの予期に もとづいて認識を構成して行為することで自らの予期を実現しようとするしかないともいいうる が、当事者のそれぞれが相互に歩み寄って自らの予期に相手の予期を重ね合わせるかたちで修正す る、すなわち「相互の予期の整合的接続」という独特の回路を利用することによって、自らの予期 の実現をより確実にできるはずなのである。この「相互の予期の整合的接続」とは、相手に働きか ける側からいえば、結果的に自らの予期を実現することになる行為を相手が選択してくれるように、

相手の予期を予期して行為を選択するすることであり、相手から働きかけられる側からいえば、相 手の予期を予期して、相手の予期を実現するように自らの行為を選択することである。

 ここにある特殊な事情とは、相手の予期に合わせて自らの予期を修正することによって、結果的 には、何世代にもわたる選別によってもたらされた、当人には変更不能な拘束に単純に従属すると いう状態から逸脱する方向へ、疑いようもない一歩を踏み出さざるを得ないという点である。そう することによって当の個体が手にするものは、たとえ修正されたものであれ、そこで自らが構成し た予期の実現がより確実になるということである。ここにある決定的な一歩とは、適応という進化

(8)

論的拘束を背景としながらも、「情報処理にもとづく行為選択」における予期の実現可能性を効率的 に確保すべしという要請が、当の個体の工夫によって何とか対処すべき現実的課題となり、そのと きの行為選択という結果が根本的に覆ることを許容するほどにその個体の裁量に委ねられた課題に なるという点である。

 このような「相互の予期の整合的な接続」を目指す活動をここではコミュニケーションと呼ぼう。

この定義によれば、フィードフォワード型の情報処理の一つの必然的な応用例としてこの同種個体 間のコミュニケーションがあり、そこでは両眼視覚像のような二つの予期の重なりという「予期の 関係の次元」をコンテキストとして情報処理がなされるということである。相互の予期が整合的に 接続できればこのような立体視が可能になり、それによって現実の相互行為におけるそれぞれの行 為が秩序だったものとして調整され、そこでコミュニケーションが成立することになる。

 相互の予期が整合的に接続されることによって現実の相互行為におけるそれぞれの行為が調整さ れてコミュニケーションが成立するとき、そのような行為選択へと至る情報処理の過程には、コミ ュニケーションの活動がなければ問題とならなかったような種類の認識が生成していると考えるべ きであろう。ただし、すでに述べたようにここでの定義によれば、言語とは無関係に生成する認識 は具体的なものとして単純には特定できない以上、この特殊な認識とはどんなものかについて、そ のような認識の生成の背景となる拘束要因、すなわち、「相互の予期の整合的接続」が可能になる具 体的条件を考察することによってアプローチしてみよう。

[コミュニケーションの活動]

 この「相互の予期の整合的接続」を可能にするやり方として進化論的に基礎的なものは、以下の 二つによって代表させられるはずである。第1は、当事者の一方が自らの欲望充足を抑制すること を前提に自らの予期を修正するというものであり、第2は、双方がある一まとまりの相互行為に協 働して関与すべくそれぞれの予期を修正する。それ以外に、進化史的により最近の出来事として、

行為選択を拘束する社会的に共有された基準(規則)に従属することを前提に予期を修正するとい うのがあるが、ここでは前2者について考える。人文科学と自然科学の双方にまたがる問題を扱う 大まかな議論では、この「規則」を拡大解釈して、第1と第2のものが第3に包含されるかのよう にいわれることがよくあるが、ここでは、規則を持ち出さなくとも理解可能になる「相互の予期の 整合的接続」の条件を考えたいということである。

 そして、このような予期の修正が相手の識別に関わるどんな手がかりを用いて実行されるのかと いう点についての区別もある。一つのやり方は、時間的な経過の中で変化を被らないという意味で

「定常的な」相手との関係を手がかりにそうするというやり方であり、もう一つは、そのときその 場での双方向的なすりあわせ、すなわち、そこで「相互の予期の整合的接続」を目指すことについ ての「合意」を形成することによってそうする。前者では、ある特定の種類のコミュニケーション が特定の関係を前提にはじめて可能になるが、後者では、任意の2個体間にその可能性が広がって

(9)

いる。ただし、この二つとは区別される、その予期の修正がある条件のもとでいつでもどこでもど の個体によってもなされるというやり方もあり、その場合はさらに相手の特定なしにコミュニケー ションが可能になっていると考えられる。ここでは前2者について考える。

 この二つの側面に関わる要素のさまざまな組合せのもとで実行される「予期の修正」によって、

「相互の予期の整合的な接続」を実現する試みとしてのコミュニケーションが、進化史上のさまざ まな段階で次々に登場した。以下では、特定の定常的な関係を前提にした一方の側の抑制によるコ ミュニケーションとして、集団生活をする多くの種に認められる優劣関係のコミュニケーションを、

特定の関係を前提とする協働によるコミュニケーションとしてニホンザルの親近関係のコミュニケ ーションを、任意の2個体間の合意のもとでなされる一方の側の抑制によるコミュニケーションと してチンパンジー属の食物分配を取り上げる。そして最後に、言語の獲得と同時に出現した、人間 の発話によるコミュニケーションを、任意の2個体間の合意のもとでの協働によるコミュニケーシ ョンとして位置づける。

3.優劣関係のコミュニケーション

[劣位者の抑制]

 ここでいう「優劣関係のコミュニケーション」とは、何らかの競合的要素を含む状況において優 位者がそうしたいと思うとおりに振舞うのに対して、劣位者がそれに対抗的に振舞うことを抑制す るというコミュニケーションである。それはたとえば、劣位者が優位者の前で食物に手を出すこと をあきらめてその場から立ち去るというように、劣位者の側が具体的な損失を甘んじて受け入れる という場合を含んでいる。したがって生物科学における従来の適応論の考え方では、劣位者とは資 源の獲得を目指す争いにおけるたんなる敗北者だという位置づけになっていた(ウィルソン、

1984

619)

。このような劣位者の振舞いを、「相互の予期の整合的接続」を目指す積極的な行為として、

すなわちコミュニケーションの活動として理解すべきだと主張するためには、そのような活動が可 能になる条件についての適応論的観点からの説明がどうしても必要になる。

 従来の考え方では、同種の個体は相互に同じ要求を持っていて、その要求の対象となる資源を前 にしたときにはその獲得をめぐって争わざるを得ず、それぞれの個体はその争いにおける勝利とい う唯一のゴールを目指して相手に立ち向かうしかないとみなされている。したがって、そのような 考え方では、資源の獲得という利得とそれを失うという損失だけが問題にされているといえる。と ころが実際には、相手に勝つことがそこでの唯一のゴールだとすれば、争いは深刻化して、もしそ れに敗れたときには、たんに資源を失うのではなく、身体的損傷という重大な損失を被ることにな るはずである。したがって、たとえ相手との争いに勝つ確率が 0.

を超えるとしても相手が勝つ確

率との差が大きくなく、争う資源の価値に比較して負けたときの身体的損傷というコストが相対的 に高いときには、争いを回避して資源を相手に譲るという「劣位者の戦略」が適応的になる場合が あると考えられる(Matsumura & Kobayashi, 1998)

(10)

 この考え方の利点は、争いに勝ったときの資源の獲得という利得と負けたときの身体的損傷とい うコストの2種類の可能性を同時に考慮することで、何らかの資源を前にしたときの競合的な状況 を、資源獲得のための直接的な闘争という選択肢だけではなく、闘争の回避という選択肢も用意さ れている場面だと認めたという点にある。それによって、その場にいて自らの行為を選択しなけれ ばならない当事者が直面する現実により近いモデルを数理的に定式化することができた。さらに、

このモデルは、たんに争いをするか否かということ自体が選択の対象となっているというだけでは なく、相手がどう出るかが一義的に決定できないときには、それによって採用すべき戦略が変わる 可能性があることを前提にしているという点が重要である。すなわち、争う資源の価値がごく高い 場合でなければ、相手が優位者として進んで争おうとするというときには劣位者として闘争を回避 しようとし、相手が劣位者として振舞うというときには優位者として振舞うということである。

 ただし、この数理モデルによって、競合的な状況における個体の行為選択のすべてが説明された ということにはならない。先ほど、争いで相手に勝つ確率が 0.

以上であるにもかかわらず負けた

ときの身体的損傷のコストが相対的に高い場合には劣位者として振舞うことがあるという場合を考 えたが、そうすることが適応的だと考えられるのは、そのとき勝つ確率が 0.以下である相手が優 位者として振舞うという場合に限られる。したがって、まったく同じ条件でも相手が劣位者として 振舞うことが確実であればもちろん優位者として振舞えばよいのであって、相手がどう出るかが不 明である場合にはそのときの行為選択を指定することはできない。すなわち、適応論的に直接的闘 争を回避すべきだとされる状況においても、当事者となる2個体のそれぞれが優位者と劣位者とい う非対称な役割のいずれを担うことになるかは、別の手がかりによらなければ決まらないという場 合があるということになる。

 このモデルが個体の行為選択のすべてを説明しないからといって、このモデルに欠陥があるとい うことにはならない。それは、外部世界との「関係」の構成において、「関係」の一方の側が勝手に 自ら予期のもとで情報を処理するというやり方で、ある行為を選択したりしなかったりするという 側面を説明しているのである。争う資源の価値がきわめて高い場合や、間違いなく自分が勝つと予 測できる場合には、争いに勝って資源を獲得するというゴールを目指せばよいし、逆に資源の価値 がそれほど高くはなく、しかも相手に勝つ可能性が低い場合には単純に争いを回避すればよい。そ れらの場合には、相手がどう出るかとは無関係にそれぞれの個体が採用すべき戦略が決まる。そし て、このモデルが規定する直接的闘争を回避すべき状況の「一つのタイプ」(Zone 6

Matsumura

& Kobayashi、1998)では、相手がどう出るかによって採用すべき戦略が変わる、すなわち「関

係」の一方の側が勝手に自らの予期のもとで情報を処理するというやり方では適切な戦略が決まら ない、ということである。

[優劣関係のコミュニケーション]

 そのような状況では、現実には相互行為の当事者の一方だけが劣位者の役割を担うことで直接的

(11)

闘争を回避するという方法が採られるが、それが可能になるためには、相手がどう出るかによって その選択を変更するという前提で、相互に相手の予期を予期して自らの予期に相手の予期を重ね合 わせるかたちで修正するというコミュニケーションの活動が不可避となる。それは、当事者の一方 が自らの欲望充足を抑制することを前提に自らの予期を修正することによって「相互の予期の整合 的接続」を目指すというコミュニケーションの活動である。そのときそれぞれの個体は、自らがお かれている状況について同じように考える可能性を持った他者との「関係」を考慮に入れて自らの 行為を選択することによって、結果的に、その場に外部世界とのもう一つの「関係」、すなわち他者 との「関係」を生成するのである。

 そして、この状況である個体が優位者と劣位者のいずれの役割を担うかを決める手がかりとなる のが、相手の識別に関わる情報であり、具体的には、相手との優劣に関わる定常的な関係、いわゆ る「優劣関係」を手がかりに、相手を優位者として識別する側が自らの欲望充足を抑制して劣位者 として振舞うということになる。このコミュニケーションは、相手との特定の関係を前提に、すな わち相手との定常的な優劣関係を前提にはじめて可能になるという意味で、優劣関係のコミュニケ ーションと呼ばれるべきものであろう。しかも、そのような「関係」を手がかりにその場に具体的 な「優劣関係」を構成するコミュニケーションであるという二重の意味においてそうなのである。

そしてこの理解は、ここで取り上げたような限定的な特定の状況ばかりではなく、「直接的闘争を回 避すべき状況」一般に拡大して適用できるのであって、争う資源の価値がごく高い場合でなければ 直接的闘争は回避した方が適応的であり、そのとき優劣関係のコミュニケーションがなされるのだ といいうる。

 このような理解によれば、直接的闘争を回避した方が適応的な状況において、そのような好まし い状態を実現するうえで決定的な役割を果たしているのは明らかに劣位者の側である。しかも、劣 位者はたんに負けることが確実だからそうしているというのではない。したがって、劣位者を資源 の獲得を目指す争いにおけるたんなる敗北者だとする従来の考え方は根本的に修正されなければな らない。そしてそのような劣位者の行為選択を可能にしているものが、相手との関係を手がかりに した「相互の予期の整合的接続」を目指すコミュニケーションの活動だということになる。適応論 的に争いを回避すべき状況でそうしたという意味で劣位者はそうせざるを得なかっただけだともい いうるが、相手がそうしてもよかったという状況で自らの予期の実現可能性を効率的に確保すると いう課題に適切に対処したという意味で、その振舞いはより積極的なものとして評価されなければ ならない。

[関係の定常性という手がかり]

 以上の説明でまだ釈然としないところが残るとすれば、この定常的な優劣関係がどこでどのよう にして決まるのかという点であろう。この問題についての詳しい検討は別の機会に譲るしかないが、

要点は以下のようになる。まず、何らかの競合的要素を含む状況において問題となる優劣関係は、

(12)

当該の2個体の組合せ(ダイアド)ごとに勝手に決められるものではない。なぜならば、群れのメ ンバーの適当な範囲の集合を取り出してその内部のすべてのダイアドの優劣関係を加算すると、す べての個体が直線的な順位序列という構造に位置づけられるからである。したがって、少なくとも ある優劣関係は別のすでに確立した優劣関係の影響のもとで生成するはずであり、しかも、別の優 劣関係の具体的な影響のもとである特定の優劣関係を生成するコミュニケーションが成立すれば、

その事実が手がかりとなって別の機会にも同じ関係が生成するというかたちで、それは容易に定常 的なものに移行してゆく。

 そして、ここでの議論の脈絡で重要なことは、このような「関係」を手がかりとした行為選択の 方法が、生物個体が環境への適応にとって有効な情報を環境の中に見つけだし、それを適切に処理 することによって行為を選択するときにしているやり方に直接対応するものだという点である。そ れらはどちらも、自らがおかれた状況を、以前にあるやり方で対処して良い結果を得たときと同じ だと積極的に捉えて、その基準で情報を選択して処理するというフィードフォワード型の情報処理 なのである。すなわち、外部の刺激に対して機械的な反射で答えるという場合を除けば、脳・神経 系を備えた生物個体はいつでも情報処理にもとづく行為選択を行っているのであり、この「情報処 理にもとづく行為選択」という課題への対処としてもっとも基本的なものが、外部世界との「関係」

の同一性を前提とした、以前に試みてよい結果を得たやり方を信頼して以前と同じように対処する という方法なのである。

 このような外部世界との関係の定常性を手がかりとしたコミュニケーションという現象の先に は、そのときその場での相手との合意にもとづくコミュニケーションがある。そのようなタイプの コミュニケーションが、資源の獲得をめぐる競合的な状況という優劣関係のコミュニケーションと 同じ枠組みのもとでも起こりうるのであり、その一つの例として、チンパンジー属の食物分配のコ ミュニケーションがある。特定の相手との関係の定常性を手がかりとした情報処理−行為選択は、

何世代にもわたる選別によってもたらされた、当人には変更不能な拘束に単純に従属することに比 べて、そのとき目の前にいる特定の相手との過去の相互行為における自らの情報処理−行為選択を 参照することによって、結果が根本的に覆るような選択を行うという意味で、より個体の裁量に委 ねられたものになっているといえる。そして、そのときその場での合意にもとづく情報処理−行為 選択はその方向へとさらなる一歩を踏み出したものだと考えられよう。

 一方、次に取り上げるニホンザルの親和関係のコミュニケーションは、これらとはまったく異な る枠組みのもとで成立するコミュニケーションである。それは、自らと同じように考える可能性を もった他者との関係として、同じように考えることによって結果的に競合する可能性のある関係で はなく、そうすることで協働する可能性のある関係を手がかりとする。この二つの枠組みの本質的 な差異は、前者が一方の利得と他方の損失という非対称な結末に至ることを前提とするのに対して、

後者では双方が基本的にはまったく対称的な立場に立つ。そのような対称的な関わりを前提とする 具体的な行為選択では、それによって利得を手にしたり損失を回避したりするという問題が表面化

(13)

することはなく、そのような活動については適応論とは全く別の観点からの考察が必要となる。

4.ニホンザルの親和関係のコミュニケーション

[親和関係のコミュニケーションとしてのグルーミング]

 ここでいう「親和関係」は、特定のダイアド(2個体の組合せ)で成立している関係であり、典 型的には、母−娘のつながりによってたどられるメスの血縁個体間の、より頻繁に近くにいてより 濃密に関わりをもつ関係のことである。ただしその関係は、生物学的な要求にもとづく育仔活動が 直接反映した母親とそのコドモとの関係のことなのではなく、娘がすでにオトナになってその要求 から解放された母親と娘の間に維持される関係であり、本来そのような要求とは無縁なそれ以外の 血縁個体間でも成立する関係である。さらにそれは、血縁関係にないメスどうしでも、オスどうし でも、オスとメスの間でも成立する関係だと考えられている。

 この関係は、当事者間の関わりにある「親しさ」という捉えどころのない印象にもとづいてそう 呼ばれてきたが、具体的にはより頻繁に近くにいて、グルーミング(毛づくろい)という独特なパ ターンをもった相互行為をよく行い、第3者との競合的関わりにおいて共同戦線を張ったりすると いう現象が観察される。ここでは、このような「関係」が実際に存在するとしたうえで、その関係 の定常性を手がかりに双方がある一まとまりの相互行為に協働して関与するコミュニケーションと して、グルーミングのコミュニケーションを取り上げる。

 ニホンザルのグルーミングは、このような親和関係にあるダイアドでなされることが多いが、だ からといってそれ以外ではなされないというのではない。ニホンザルにおいてもグルーミングは、

一方の誘いに他方が応じないという場合がふつうにみられるように、そのときその場での双方の合 意によって成立するという性格を備えた相互行為なのであるが、それがすでに成立している関係を 手がかりにして試みられる場合が多いということである。ここで取り上げるグルーミングのコミュ ニケーションは、親和関係という特定の関係を前提とするという意味で「親和関係のコミュニケー ション」と呼ぶべきものであるが、優劣関係のコミュニケーションとの対比でいえば、当事者の一 方の抑制によるのではなく、双方の協働によって「相互の予期の整合的接続」を目指すコミュニケ ーションであり、優劣関係という非対称的な関係をではなく、親和関係という対称的な関係を手が かりに、相互に対称的な立場に立った関わりを目指すという2点が重要である。

[協働によるコミュニケーション]

 まず、双方の協働によるコミュニケーションとは何かという点から始めよう。優劣関係のコミュ ニケーションでは、何らかの競合的要素を含む状況において優位者がそうしたいと思うとおりに振 舞うのに対して、劣位者がそれに対抗的に振舞うことを抑制することによって「相互の予期の整合 的接続」が実現し、コミュニケーションが成立すると考えられた。それに対してグルーミングでは、

当事者となる2個体の一方が相手に働きかけてグルーミングという相互行為の開始を提案し、相手

(14)

がそれに同意することによって「相互の予期の整合的接続」が実現すると考えられる。この働きか けられる側の同意は、優劣関係のコミュニケーションにおける劣位者の抑制とははっきりと区別で きるものだと考えられるが、それは以下のように要約できる。

 ここでの考察によれば、劣位者の抑制とは、その場での相手との競合の可能性を前提として、直 接的闘争を回避すべきだとする適応論的拘束に従属した行為選択である。それは、相手の出方によ ってはそうしなくてもよいのにそうするという意味でより積極的な現実対処という要素を含んでい るが、それと同時に、あくまでも適応という課題への対処としてそうせざるをえないという性格の 行為選択なのである。それに対して、グルーミングを提案された個体は、それに同意せざるをえな いという立場にはいない。一方の誘いに他方が応じないという場合がふつうにみられるのであり、

それに応じる場合は自発的にそうしているのだと考えられなければならない。

 それに対応して、最初に相手に働きかける「開始者」の振舞いも、たんにそうしたいからそうす るという類の行為選択ではなく、自らの働きかけに対して相手が無視したり、拒否的に反応したり する場合があることを前提としたものになっていると考えるべきである。すなわち、開始者は、自 らの振舞いによって、それが適応論的拘束に従属した否応のない反応を押しつけようとする働きか けではなく、双方の自発的な選択がかみ合ったときに初めて成立する協働的関係をその場に構成し ようという提案なのだということを相手に知らせているのである。そして、そのように自らの行為 の意図を相手に知らせることによって、自らの予期に沿った、相手との具体的な協働的関係の構成 をより容易にしようとしているのだと考えられる。

 この場合に、自らの意図をわざわざ相手に知らせることが自らの予期の実現可能性を確実にする と想定できるのは、以下のような理由による。すなわち、そこで開始者によって指し示された「協 働的関係の構成」という目標が、働きかけられる側の個体にとっても自ら進んで採用するつもりが あった目標であり、しかも、その目標を実現するためには相手が協働的関係にある者として振舞っ てくれることを必要としていたという条件のもとで、開始者が自らの意図を知らせることは、自ら がそこで協働的関係にある者として振舞う保証を相手に与えることになるからである。グルーミン グという双方の協働によるコミュニケーション、すなわち、グルーミングを行うという協働的関係 をその場に構成しようとするコミュニケーションでは、相手が自分と同じように考えてくれさえす れば、自らのそのコミュニケーションの意図を相手に知らせることによって自らの予期の実現がよ り確実になると想定できることになる。したがって、この種のコミュニケーションを実現しようと する個体にとっての現実的課題とは、自分がそう考えるように、自分との協働によるコミュニケー ションを意図する可能性の高い相手を見つけだすということなのである。

 ニホンザルのグルーミングは、ここでいう「親和関係」にあるダイアドでなされることが多いと 考えられているが、だからといってそれ以外ではなされないということではない。にもかかわらず、

この「親和関係」をグルーミングの頻度の高さという基準で判定するとすれば、この「関係」はグ ルーミングをよくするという以上のどんな属性を付与しうるものなのかという疑義が残ることにな

(15)

り、「親和関係」という考え方そのものにたいする疑念もくすぶり続けてきた。この疑念は以上の考 察で解消されているはずである。この「親和関係」とは、相互に相手との協働によるコミュニケー ションを実現しようとし合う間柄にある2個体の関係のことである。そして、ニホンザルのグルー ミングで一方の働きかけに他方が応じるか否かは場合によってさまざまだといえるはずであるが、

それは働きかける側が適切な相手を選びさえすれば相手がそれに応じる可能性がごく高くなるとい うタイプのコミュニケーションなのである。そのような背景のもとで、それぞれの個体は相手との

「親和関係」を手がかりにグルーミングのコミュニケーションを試みようとし、実際にそれを高い 頻度で実現しているのである。

[対称的な関係]

 以上の理解を別の角度から言い直せば、「親和関係のコミュニケーション」は当事者の双方が相手 との協働によるコミュニケーションの可能性をあらかじめ予期していたということ、そのような対 称的な準備状態にあったことを前提にしていると考えるべきだということになる。さらに、現実の 協働のコミュニケーションの成立においても、双方は以下のような意味において対称的な立場にあ ると考えられる。「開始者」ではない側は、自ら進んで開始者にならなかったという程度にはそう思 っていなかったのであり、相手の働きかけがあってはじめてそれに気づいたのかもしれないという 意味で、相手の働きかけに同意する立場にいるといえるが、一方で「開始者」の側も、相手がすで に準備していたはずの予期に沿って以後の行為選択にかかわる情報処理を行ってもよいという保証 を与えるという意味で、相手のあり得る行為選択にあらかじめ同意を与える立場にいる。「開始者」 グルーミングの意図を相手に知らせたとき、知らされた側はその働きかけを拒否するか、あるいは、

協働的な関わりを構成するという前提でその振舞いから自らの行為選択に有効な情報を抽出して処 理するかのいずれかを「自発的に」選択するが、このうちの後者の場合に、結果的に、「相互の予期 の一致」について合意が形成されることになる。

 この「合意」後の実際のコミュニケーションにおいて2者のそれぞれは、グルーミングする側と される側という非対称な役割のいずれかを担うことになるが、それは、それぞれが協働的な関わり の構成を前提に相手の振舞いから自らの行為選択に有効な情報を抽出して処理し、それにもとづい て相手に働きかけることによって決まることになるはずである。当事者となる2者が対称的な立場 を維持しつつ非対称な役割を分担するためには、相互に役割を交替させればよいはずであるが、こ の場合も、実際の頻度には偏りがあるとしても、優劣関係のコミュニケーションとは全く異なって それぞれの役割が固定的に決まることはなく、相互の役割の交替を前提として、そのときその場で の行きがかりで、あるいは一方の提案を他方が受け入れる形でそれぞれの役割分担が選択されてい ると考えられる。

 ニホンザルの親和関係のコミュニケーションは、当初、優劣関係のコミュニケーションと同じよ うに当事者となる2個体間の関係の定常性にもとづくコミュニケーションと考えられたが、一方で、

(16)

その典型的な具体例の一つであるグルーミングの場合に明確なように、そのときその場での当事者 間の合意によって成立するという性格も備わっていることが明らかになった。それは、ニホンザル においてもグルーミングは関係の定常性に依存せずに行われうるということ、さらに、たとえばチ ンパンジー属ではより一般的にグルーミングは誰とでも行われうるものになっているという事実に 対応している。それは、相手個体との関係の定常性に依存した情報処理−行為選択と、そのときそ の場での合意にもとづく情報処理−行為選択とが、明確に区別しうるものであるとしても、両立し うるものであることを示しており、そのうち後者がそのときその場にある手がかりによる「予期の 実現可能性」の効率的確保という側面の比重が拡大した対処の方法なのだと考えられる。そのよう な意味でこの親和関係のコミュニケーションは、優劣関係のコミュニケーションと比較して、適応 論的拘束からより自由になり、より明確に個体の裁量に委ねられた活動になっていると考えられる。

 このようなそのときその場での個体の判断に委ねられた活動の比重が高まるという進化論的な趨 勢のもとで、チンパンジー属の食物分配のコミュニケーションが出現する。これは、食物の獲得を めぐって一方が利得を得て他方が損失を被るという相互行為において、その食物を獲得して消費で きる立場にいる個体が、相手の求めに応じてそれを相手に譲るというコミュニケーションである。

これは適応論的拘束という観点からはまったく理解不能である。以下で、この問題を「予期の実現 可能性の効率的確保」という観点からアプローチしてみよう。

5.チンパンジー属の食物分配

[食物分配のコミュニケーション]

 まず最初に、食物分配を「競合的要素を排除した状態で、所有者から非所有者へ食物が移動する こと」と定義するところから始めよう。この定義の含意は、第1にそれが、ある個体が直接保持し たり、身体の間近に置いている食物を別の個体が強奪するという過程とは区別されるということ、

第2にそれは、個々の行動パターンの組合せとして同定されるような単一の相互行為なのではなく、

実際のプロセスにはさまざまなタイプが区別できるような相互行為のカテゴリーなのだということ である。そして、チンパンジー属の食物分配については、人間社会における食物分配と対比したと きに見出しうる特徴として、以下の2点が重要だと考えられる。まず、非所有者の所有者に対する 直接的な要求があってはじめて食物の移動が起こるのであって、要求がないままで分配がなされる ことはないということ、第2に、所有者が進んで食物を手渡すということはなく、たんに非所有者 がそれを取るに任せるというかたちで食物の移動が起こるということである。

 ここでの論点は、サルの多くの種で食物分配はまったくなされないのに対して、人間により近縁 なチンパンジー属では食物の分配がふつうになされるようになり、それが人間社会に一般的な「贈 与」という現象につながっている、ということである。多くのサル類では、食物の獲得をめぐって、

2個体間の優劣関係にもとづいて劣位者がその獲得をあきらめることで競合が回避されるという事 態がふつうに起こるが、一方で、いったん他個体がある食物を把持したときには、たとえ優位者で

参照

関連したドキュメント

と言っても、事例ごとに意味がかなり異なるのは、子どもの性格が異なることと同じである。その

自閉症の人達は、「~かもしれ ない 」という予測を立てて行動 することが難しく、これから起 こる事も予測出来ず 不安で混乱

手動のレバーを押して津波がどのようにして起きるかを観察 することができます。シミュレーターの前には、 「地図で見る日本

あれば、その逸脱に対しては N400 が惹起され、 ELAN や P600 は惹起しないと 考えられる。もし、シカの認可処理に統語的処理と意味的処理の両方が関わっ

討することに意義があると思われる︒ 具体的措置を考えておく必要があると思う︒

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

社会的に排除されがちな人であっても共に働くことのできる事業体である WISE

これも、行政にしかできないようなことではあるかと思うのですが、公共インフラに