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近代陶芸 としての万古焼 (1)

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(1)

人文論叢 ( 三重大学)第27 号

2010

近代陶芸 としての万古焼

(1)

藤 田 伸 也

要 旨 :明治 の ころ、 三重県の北勢地方 で は万古焼 が 四 日市 を中心 に盛 ん に焼 かれ、全 国的 にそ の名 は知 られて、商業的 に も成功 していた。 しか し現在、万古焼 は美濃や瀬戸 に比べて知名度 は 低 く、 陶磁 の産地 と しての規模 も小 さ く、 また陶芸作家 の活動 も卓越 しているとはいい難 い。 こ の論考 では明治以後現在 に至 る万古焼 の道程 を振 り返 り、 日本近代 陶芸 の発展 の様相 を探 り、芸 術 と産業 の間で揺 れ動 く陶芸 の可能性 につ いて万古焼 を中心 に考 え る

まず今 回は明治時代 か ら 昭和時代前半期戦時下 までの万古焼 の歴史 を振 り返 る

1

章 明 治 ・大 正 ・昭 和 前 半 期 の 万 古 焼

(1)

概観

ぬ なみ ろ うさん

万古焼( 註1 ) の歴史 は江戸時代 中期 に始 まる( 註2 ) 。桑名 の茶人 で豪商 の沼波弄 山

(1718‑77)

が おぶけ

元文年 間

(1736‑40)

、小 向村 ( 朝 日町) に京焼 を模 して窯 を開 いた。弄 山が器 に 「万古」 や

「 万古不易」 の印章 を捺 して、作 品の価値 が永久 に変 わ らず長 く残 ることを祈念 した ことか ら

「万古焼」 と呼 ばれ、後世 の万古焼 も同様 の印文 を用 いてその伝統 を示 している

この初期 の 作 品を後 の万古 と区別 して、「 古万古」 と呼ぶ。

弄 山は江戸 で陶器 問屋 を営んでお り、万古焼 は赤絵技法 ・更紗文様 ・紅毛趣味を特徴 とす る 新奇 な高級 陶器 と して江戸 の文化人 に持 て嚇 された (図

1)

。 つ いには将軍家 の御用 を仰 せつ か るまで にな ったため、弄 山は窯を江戸 向島小梅 の別邸 に移 し、元来 の小 向の窯を廃 した。 こ れ によ り、伊勢地方 における万古焼 の伝統 はい ったん途絶 えて しまい、 また江戸万古窯 も弄 山 没後 しば ら くして廃絶 した。

つ いで江戸時代後期 の

1832(

天保

3)年、桑名 の古物商森有節が弟千秋 とともに小 向の窯 を

再興 し、す ぐれた木型技法 によ って当時流行 の煎茶急須 や酒器 を焼 いた。 これが 「 有節万古」

で、有節 の成功 を追 って松 阪 の 「射和万古」 や 「桑名万古」、津 の 「阿漕焼」 が生 まれた。 こ の時期 の有節万古 を中心 とす る種 々の万古 を 「 再興万古」 と総称 し、明治初期 は再興万古 の後 期 にあた る

そ して明治 時代以後 は万古焼史 の第三期 にあた り、新 たに生 まれた万古焼 は 「 新万古」 と呼 ばれ る

その主産地 は四 日市 で、海蔵川 の下流域 であ る阿倉川 と川原町付近 に窯 は集 中 し、地 場産業 と して大 いに発達 した。

そ もそ も焼物 は美術工芸 品であると同時 に工業製 品であ り、社会 に広 く流通す る商 品 しての 性質 を備 えてい る

明治時代 には 日本政府 による産業製 品の輸 出振興政策 によってその分化 が 進 み、 陶芸家 と陶磁器工場 とが分 かれてい った。

輸 出を念頭 に置 いた大規模 な窯の成功 は、技術 に加 えて職人 の分業 による効率的生産 と営業 活動 による販売拡大 に起 因す るところが大 きい。幕末 か ら明治初 めにか けて四 日市では山中忠 左衛 門 ・堀友直 ・川村又助 らの企業家 によ って窯 が興 されて生産量 が増大 した。 また、万古 陶

‑ 109‑

(2)

器商工組合 が組織 され るな ど、品質 の向上 が図 られて ブラ ン ドカ が育成 され、海外へ の販売 が 盛 ん にな った。

(2)有節万古

幕末 か ら明治初期 にか けて江戸幕府 や 日本政府 は欧米 か ら専 門家 を招聴 し、西洋 の最新知識 を導入 す る とともに 日本 の諸分野 の現状 を積極 的 に調査分析 させてい る( 註3 ) 。美術 の分野 で は

1878

( 明治

11)年 に来 日した フェノロサが有名 だが、 それ よ り前 の1876

( 明治 9)年

12

月 に 来 日した英 国人 ク リス トフ ァー ・ドレッサー

(1834‑ 1904)

( 註

4)

が陶磁器 を中心 とした 日本 の工 芸 に関 して大 きな足跡 を残 している

日本 は、幕末 の

1862

( 文久

2)年 開催 の ロ ン ドン万 国博覧会、1967

( 慶応

3)年 のパ リ万 国

博 覧会 に続 いて、

1973(

明治 6)年 の ウ ィー ン万 国博覧会 に初 めて公式参加 し日本館 を設 け、

日本 の美術 や工業製 品等 を多数 出陳 した。翌年博覧会終了後展示品は荷造 りされ、 ヨー ロ ッパ で収集 した美術工芸 品 とともに船 で 日本 へ返送 されたが伊豆沖 で難破 しすべて失 われて しま っ た。 日本 の万博 出陳活動を通 して親 しくな っていた英国サウス ・ケ ンジン トン博物館 のオーウェ ン館長 は この沈没事件 を残念 に思 い、改 めて ヨー ロ ッパ の工芸 品を知人 に働 きか けて寄贈す る ことに した。 その物 品を託 されたのが館長 の友人 であ り日本美術 に強 い関心 を持 って いた工業 デザ イナ‑の ク リス トフ ァー ・ドレッサーだ った。

1876

年、 ミン トンや ロイヤル ドル トンな どか ら寄贈 を受 けた

300

点余 りの工芸 品は東京 の博物館 に無事 引 き渡 された。大役 を果 た した ドレッサーは 日本政府 の要請 によ り翌年 にか けて 日本各地 を旅行 し、 日本 の工芸 や産業 につ い て欧米 に通用す るものか どうか とい う観点か ら調査 した。 その とき同行 したのが ウィー ン万博 の仕事 を通 じて親 しくな っていた佐賀 出身 の石 田為武 で、 この調査旅行 の詳細 は 『 英 国 ドク ト ル ドレッセル同行報告書

( 石 田為武編、高鋭一校、

1877

年) と して記録 されている

日本 の万 国博覧会参加の 目的は、西洋 の近代文化 を学んで機械技術 を習得す ることのほかに、

日本 国土 の豊 か さと伝統技術 の優秀 さを海外 に紹介 し、 出陳 した美術工芸品や物産 の輸 出振興 をめ ざす ことにあ ったが、 この ドレッサーの視察旅行 も同 じ目的で企 図 されている

さて、 こ の報告書 において三重県か らは 「 勢州壷屋紙」 とともに 「 万古 陶器」 が取 り上 げ られ次 のよ う に記述 され る( 註5 ) 。

第六十一 万古 陶器

シト ミ 勢州 四 日市 二於 テ製造 スル所‑万古 陶器 ノ工人 ナ リ

中山孫七郎、 山中忠左衛 門、 蔀 庄平 等 ノ造 りタル器物是 レナ リ

只其着色彩画 トモ甚 夕雑製 ナ レ‑商用 ノ目的 ヲ立 テ難 ク、以 テ

オ ブケ

英 国 ノ需要 二適応 セス

然 レ トモ小 向村森与五左衛 門 ノ製陶‑一種 同類 ノ物 ナ リ ト雄 トモ其 製造甚 夕精巧ニ シテ、殊二彩画 ノ如 キモ 日本従来 ノ古紋類 ヲ着色 シテ甚 夕雅致 アル ヲ、以 テ 其器位‑ 中山其外 ノ陶器二超越 シテ大 二需要 ス可 キ物多 シ

斯 ノ如 キ品類‑倫敦 ノ売買 こ於 テ必 ス賞誉 アルヘ シ

聞 ク所二依 レ‑、此森氏 ナルモ ノハ小 向村こ於 テ一旦廃絶 シタル万古 焼 ヲ中興 シ、営業 巳こ二世 二伝 フル ヲ、以 テ其発明 ノ効験 ノ果 シテ四 日市陶工 ノ上 二位 スル

‑ 固 ヨ リ論 ヲ待 タサルナ リ

ヨー ロ ッパ で工芸 品 として通用す るか否 かの視点か ら判定 した ドレッサーによる各地 の陶磁

器 にたいす る評価 は歯 に衣着せぬ厳 しい もので、 しば しば 「 精巧ニアラス」や 「 輸 出二通 サス」

(3)

藤 田伸也 近代陶芸 としての万古焼

(1)

の語 が用 い られている

旅行 中、彼が高 い点数 を与えたのは京焼系統 の華やかな陶磁 であ り、

京都粟 田口焼 の金欄手 や、高橋道八 ・清水六兵衛 な どの京焼、 そ して織部焼 な どを購入 してい る

よ って四 日市万古 に対 して、着色 ・彩画 どち らも甚 だ雑 な製品のため、英国では商品 として 通用 しない と断 じているのは他所 と比べて格別珍 しい批評 ではない。 む しろ有節万古 に対 して 製造 が甚 だ精巧 であるとか彩画 ・着色が甚 だ雅致 があ り、 ロン ドンで取引 されれば賞誉 を得 る だろ うと非常 に高 い評価 を与えているのが 目を惹 く

ドレッサーが見 た万古焼 を具体的に明示す ることは現在で きないが、彼の京焼好みを勘案す

しようえん じ ゆ う

れば、有節万古 の中で も品格 を感 じさせ る 腹 膜脂粕 の製 品 に一際魅了 されたのではな

か と 推測 され る

腹膜脂粕 を用 いた代表的作 品 に 「 腹膜脂粕御神酒器

(1879

年作、朝 日町 ・小 向

じ きろ

神社蔵、 図

2)や 「

腹膜脂和食寵

( 個人蔵)、「 腹膜脂粕蓋菓子器

( 朝 日町歴史博物館蔵) が あ り、 その独特 の桃色 は品位のある艶やかな もので、器の出来 も精微 であ り高級陶磁 と して今 も通用す る

この腹膜脂粕 に代表 され る有節万古 を森有節 は

か に して生 み出 したのか。有節の本名 は与 五左衛 門

(1808‑82)

といい、森与市 の子 と して桑名 田町 に生 まれた。生来器用で好奇心 の強 か った有節 は古物商 を営んでいた と伝 え られ るが、

1832

( 天保

3)

年、

8

歳年下 の弟与平 ( 号 は千秋) とともに、沼波弄 山が開いて廃絶 した小 向村 の万古窯の復興 に取 りかか った。小 向は 江戸時代 には桑名藩領 の村で、弄 山と同 じように有節 も桑名か ら小 向に居 を移 し、様 々な古万 古焼 を忠実 に模倣 し技術 を高 めてい った。

提灯作 りの工程か ら想 を得 た とされ る木型組みによる急須 の成形法 と腹膜脂粕 の開発 によっ て商業 的 に成功 を収 めた。藩の殖産興業 に貢献 した と して桑名藩主 よ り五人扶持 を授か り、苗 字帯刀 を許 され、

1867

( 慶応

3)

年 には藩 の国産陶器職取締役 を拝命す るに至 った。

明治時代 に入 ってか らは内外の博覧会 に積極 的に出品 し、 その優れたデザイ ンと品質 は賞賛 された。各博覧会への出品歴 ( 博覧会名/受賞/ 出展品) を時代順 に列挙す る( 註6 ) 。

1875

( 明治

8)年 1876

( 明治 9)年

同年

1877

( 明治

10)年

同年

1878

( 明治

11)年 1881

( 明治

14)年

京都博覧会 有功銅牌 雪南天文角井 京都博覧会 褒賞 十錦手鉢

パ リ万国博覧会

京都博覧会 雅致賞銅牌 四季草花文膿血

第一回内国勧業博覧会 花紋褒賞 急須 ・蘭鉢 ・若碗 ( 煎茶茶碗) 三重県物産博覧会 褒賞 急須な ど

第二回内国勧業博覧会 有功賞牌 花瓶 ・風炉 ・急須 ・煎茶碗 な ど多数

森有節 は

1882

( 明治

15)

年 に

74

歳 で死去 してお り、晩年 まで旺盛 に活動 していた ことがわ か る

一方、弟千秋 は有節 よ り早 く

1864

( 元治元)年 に亡 くな ってお り、有節 の死後 は三男 勘三 郎

(1848‑ 1911)

が二代 有節 を名乗 り、 さ らに俊夫

(1885‑ 1941)

が三代 有 節、 一 男

(1913‑49)

が四代有節 と直系が後 を継 いだ。

ドレッサー一行 が調査旅行 にや って来 た

1877

( 明治

10)

年 は有節万古 の最盛期 であ った こ とが博覧会 の出品歴か らもわか り、勉強熱心 な有節 は欧米人 に好感 を持 たれ る陶器 とは何 かを 経験上熟知 し、世界 に通用す る高級陶磁 の製作 を 目指 していた と考 え られ る

有節が 「 万古」

‑ 111‑

(4)

「 有節」以外 に 「日本有節」印を作品に捺 していることは、輸 出用陶磁 を焼 いた他 の窯 と同様、

彼が世界 を意識 していた証である

有節の父与市 は精巧な義歯や義眼を作 るほど手先が器用 だ ったが、彼 もその才能 を受 け継 い で器用で とりわけ木工技術 に長 けていた。 自分 の家や家具を作 っただけでな く、彫刻 に も腕 を 振 るい、近隣の神社 に木馬や狛犬を奉納 している。現在、森家 には自刻の森有節像が伝わ る

その器用 さが最 も発揮 されたのが木型成形 による急須であ り、有節 は提灯作 りに木型が使用 さ れているのに着想 を得て発明 した ( 図

3)

弄 山が創始 した万古焼すなわち古万古の頃は、彼 自身が茶人 だ ったこともあって茶 の湯で使 われ る抹茶茶碗や水指な どの茶器 を中心 に焼 いて数寄者 の人気を得た。 しか しその後、 中国 と 同様 日本で も煎茶が急激 に流行 しは じめ、幕末期 には文人墨客の興味は煎茶器へ と完全 に移 っ ていた。 その流行 を主導 したのが青木木米 に代表 され る京都東 山諸窯の陶工 たちであ った。万 古焼 は弄 山の開窯時か ら京焼の影響が強 く、洗練 された薄造 りの器体や華麗な色相 そ して知的 で整理 された文様 な どの長所を備えた有節万古 もまた京焼 に通 じ、 ほかに例のない煎茶道具の 急須を有節が作 ろうとしたのは自然な ことであ った。

急須 は口の ところが狭 いため型では作 りに くい形 を している

そのため現在の万古焼では轍 櫨 を使 って成形 しているが、有節 は木型を用 いることによって得 られ る利点を重視 して木型成

はいど

形法 を発明 した。木型 に薄 く杯土 ( 陶磁用の素地土) を被せ ることによって類がないほど薄造 りの急須 を正確 に量産す ることが可能 になる点が最大の利点で、副産物 として型の表面 に龍文 様 を線彫す ることによって急須の内側 に文様 を表す ことができた ( 図

4

)。 その木型 の重要 な 工夫 は組 み立 て式であることで、胴部 は

6

個か ら

12

個 の木片 に分かれ、 それ らが溝 によって 組 み合わ されて中心の軸棒 と一体 となる

そこに薄 く伸 ば した杯土を押 しつ けるように して巻 いて成形す る

形 を整えた後、木型 を止 めていた環状部品を外 して中心軸 を抜 き取 り、 ば らば らにな った胴部 の木片を順次取 り出す。 この木型法 を実現す るには極 めて正確な木工技術が必 要 とされ るため、有節以外の誰 も思 いつかなか った ものだ った。

有節万古 の もう一つの特長である腹膜膳粕 は色鮮 やかな桃色の粕薬で、 これ以前 の 日本 の陶 磁 には見 られない ものである(

註 7)

。 中国清朝 の美 しい単色粕磁器を思わせ、舶載 された中国陶 磁が開発 の契機 とな っている可能性がある

腹膜脂粕 は、清朝康熊年間に始 まる上絵付 け技法 の粉彩 ( 龍郷彩、軟彩 ともいう)の一種で、七宝で使われ る酸化錫を加えた不透明な上絵具 を 用 いてお り、細微な描法や色の濃淡が 自在 にできる

器全面 に薄 い色の腹膜脂粕 を掛 け、 その 上 に濃 い腹膜脂粕で龍や鳳風な どの文様 を精密 に措 くのは有節の得意 とす るところで、先 に挙 げた

3

点の作品以外 にもこの技法 による優品が多 い。

給付 は陶磁器製作 における重要な作業工程の一つであ り、窯によっては給付を専業 とす る給 付師を雇 い入れ る場合 も多い。 しか し有節窯 は経営 においては保守的で、有節 は弟千秋 ととも に開発 した陶芸技法が外部へ漏れ ることを嫌 って外か ら職人を雇 うこともせず、他人が窯場 に 立 ち入 ることす ら禁 じていた。秘技 ともいえ る木型法 と腹膜脂粕の秘密を守 るため家族 だけで 製陶す る小規模な個人窯が有節万古 の実態だ った。 そのため生産規模が大 き くない こともあ っ て、給付師を雇 って分業の効率を高 める必要性 もなか った。

ほ や ま い ねん はな の

そ もそ も万事器用な有節は絵 も得意 とし、桑名在住の大和絵の画家帆山唯念 ( 画号 は花之含、

1823‑94)

と親 しく交流 して、絵 を習 っている

唯念 は桑名出身で浄土真宗高 田派 の僧侶であ

り、名古屋 の渡辺清や京都の浮 田一意 らに師事 した復古大和絵派の画家 として北勢地方で有名

(5)

藤 田伸也 近代陶芸 としての万古焼

(1)

であ った。森家 には唯念 の草花図下絵 をま とめた 「 植物 帖

( 個人蔵、 図 5) が現存 し、有節 万古 の中には唯念が松喰鶴 を簡略な筆致 で措 いた 「鶴文鉢

( 個人蔵、 図

6)

のよ うな作 品 も 残 る

また専門的に絵 を学んだ者でないと描 けないような洗練 された花鳥図が給付 されている 作品 も多 く、有節の絵の腕前 は陶工 として一流 であ った といえる

1870

( 明治

3)年 に帆山唯念が措 いた 「

森有節像

( 個人蔵、図

7)が残 る。墨書 は 「

森有節 翁之像/明治三庚午暮冬 花之舎」で、軸頭 は得意 の技法である盛絵 による菊花文 が付 いた有 節万古である

丁膏 を結 って静かに座す有節の脇 には小刀が置かれ、維新後 も幕藩時代 の風習 が続 いていた ことを示す。有節 はこの とき数 え

63

歳 で藩政時代 に既 に成功者 とな り、 その証 左 として この肖像 は措かれている

しか し、彼 の名声が高 まるのは内外の博覧会 に精力的に出 品 した この後 の

10

年余 りの年月であ り、 その最晩年 の 自身の発展 は有節 もま った く想像 でき なか った ものであろう

有節個人 の才能 によって成功 していた有節万古 は彼 の死後、時代 に即 した新 しいやき ものを 作 ることができな くな り徐々に衰退 していった。現在、朝 日町小向の窯跡 には有節の墓碑が建 っ ている

(3)桑名万古

幕末か ら明治 にかけて有節万古の隆盛 を見て、桑名周辺 では類似の陶器を作 り始 めるものが 多数現 れた。 これを桑名万古 と総称 し、 どの陶工 も等 しく 「 万古」 印を用 いている

桑名矢 田の別物師、佐藤久米造

(1819‑81)は森有節 に木型の複製を頼 まれた ことか ら木型

成形 の技術 を習得 し、1

840(

天保

10)年 頃か ら焼物 を始 めた (

図 8)。

1858

( 安政

3)年 には

竹川竹斎 による射和万古の開窯に技術 を提供 し、 やがて桑名安永 の東海道 に沿 った町屋橋北語 で窯を開いた。 これを 「 安永万古」 と呼ぶ。 その陶法 は有節万古を踏襲 し、 自らも工夫 を重ね た結果、

1881(

明治

14)年 の第二回内国勧業博覧会 に出品す るまでにな った。有節 とは違 っ

て陶技 を公開 したので、多 くの陶工が久米造 の下 に集 ま り、万古焼の技術が広 まることにな っ た。沼波弄 山の血縁者である竹川竹斎か ら弄 山の古万古で使用 された 「 万古」 印を贈 られた こ ともあ って、久米造 は万古焼の正系を標模 していた。

安永万古か ら出た陶工を挙 げてみる

久米造 の長男千代松 ( 号 は‑栄、

1853‑83)

は、「 色絵花蝶文菓子器

(

「日本万古‑栄造」

印、三重県立博物館蔵、図 9) のような有節万古 そ っ くりの絵付 と腹膜脂粕を用 いた色絵陶器 を残 しているが、病弱で早世 した。

安永生 まれの松岡鉄次郎

(1861‑ ?

) は、久米造没後、安永万古を継 いで明治 中期 の桑名万 古 の立役者 とな り、四 日市の川村組 を通 じて九州 や外国へ も陶器を販売 したが、大正末年 には 廃業 した。「 弄 山

「 桑名万古」等の印を製品に捺 している ( 図

10)

桑名舟町に生 まれた水谷孫三郎

(1849‑1916)は型万古 と手捻 りに優れた名工で、特 に手捻

りによる亀 の陶塑 を得意 とした ( 図

11)

。 印は 「孫三

「 九華万古

「日本孫三造」 な どで、

「 孫三万古」 と称 される

1894

( 明治

27)年明治天皇銀婚式 に桑名町が献上 した岩上 の亀 の置

物 は彼 と布 山由太郎、千葉松月が合作 し特別の窯で焼 いた。

布 山由太郎

(1836‑1912)は美濃の出身で、29

歳の とき桑名 に移 ってきた。木型 ・手捻 り ・ 擁櫨 のいずれの成形法 にも熟達 し、万古焼では珍 しいたたみ作 りの名人 として、桑名 ・四 日市

の諸窯の注文 に応 じて製作 を行 った ( 図

12)。

「 布 山

「 春景」 な どの印を使用 し、彼 の作品は

‑ 113‑

(6)

「 布 山万古」 と呼ばれる

桑名藩 の塗師の家 に生 まれた千葉松月 は家業 をよ くす るとともに、絵画 ・彫刻 ・陶芸 に腕前 を発揮 した。獅子頭 ・神馬な どを彫刻 し、陶芸では手捻 りと給付 を得意 とした。松村清吉 らが 精 陶軒 を開いた際には職工の教頭 として招かれている

桑名矢 田生 まれの加藤権六

(1839‑1931)

は型万古 の名手 と して、有節流 の急須 を作 った ( 図

13)

。 回転す る摘 みや取 っ手 の先端 に遊環 が付 いている点な ど有節が工夫 を凝 らした通 り 再現 している

「 翫土庵

「 可笑」 な どの銘印を用 いて、「 権六万古」 と称 され る

加藤茂右衛門

(1779‑1889)

は久米造か ら陶技 を学 び、

1878

( 明治

11)

年、京都 か ら陶工 を招 いて桑名走井 山に窯を築 いたが、短期間で廃窯 とな った。

桑名川 口町生 まれの山本数馬

(1850‑82)

も久米造 に学 び、明治天皇行幸の際に陶技 を披露 して買上 げの栄 に浴 している

客の注文を受 けて製作す る意欲的な生産体制を作 ったが早世 し て しま った ( 図

14)

また安永万古 とは直接関係がない松村清吉

(1844‑1905

)は、

1879

( 明治

12)

年、 旧桑名藩 士 の窮状 を救 うため川澄明 とともに桑名の名工 を集 めて精陶軒 を開いた ( 図

15)

。 しか し収支 が合 わず、わずか

10

年で窯を閉 じている

朝 日町では縄生天神宮の神主、後藤秀信

(1823‑73)

が 「 天神万古」を開いている ( 図

16)

。 天神 山で採れ る白土を用 いた白地 に給付の陶法 は子の隆政、孫の政義へ と伝わ った。 印に 「 天 神万古

を用 いている。

1884

( 明治

17)

4

月、 内務省社寺局 の要請 によ り伊勢神宮宮司に就任す るため鹿 島神宮 大宮司鹿 島則文

(1839‑1901)

は茨城県鹿 島か ら伊勢 に向けて出発 した。 この ときの経緯 につ いて則文 の父則孝が克 明に記 した記録 が 『 神宮 々司拝命記』 として鹿 島家 に残 ってい る( 註8 ) 。 則文 は海路で四 日市 に入 ったが、翌 日の記録 に 「 甘七 日、晴、南風吹、暑気強 し、朝飯後、伊 之助 は腕車 を雇 ひ、且陶器類 〔 万古焼‑、桑名の産物 にて、又尾張焼 も隣国故廉価也〕 を男 に 行 き、時間お くれ、前七時出車す」 とある

則文 は先を急 ぐ旅なが らも、宿近 くの店へ評判の桑名の万古焼を従者 に買 いに行かせている。

これによ り明治

17

年 当時、四 日市 に桑名万古 を尾張焼 ( 瀬戸焼) とともに扱 う陶器店があ り、

伊勢湾第一 の港湾都市四 日市を拠点 に遠方への陶器取引が行われていたことがわか る

また

1900

( 明治

33)

年 に、全国各地 の地理 や歴史 そ して名産品な どを子供 に教育す るため に作 られた 『 鉄道唱歌

( 大和 田建樹作詞)では、「 万古 の焼 と蛤の その名知 られ し桑名町/

日も長 島の西東 揖斐 と木 曽の川長 し

( 第

5

集 関西線

・18)

と歌われ、桑名名物 として万 古焼 と蛤が挙 げ られている

作詞者 の文学者大和 田建樹 は鉄道 唱歌 の企画者である市 田元蔵 とともに全国を実際に取材旅 行 してお り、評判だけでな く実情 に沿 って歌詞 を作 っている

四 日市は 「 巌 にあそぶ亀 山の 左 は尾張名古屋線/道 にす ぎゆ く四 日市 舟 の煙 や絶え ざらん

( 同

・17)

で、港 の交通 が盛 んな様子が描かれるのみで、明治後半で も万古焼 といえば桑名万古であ り四 日市 の陶器 はまだ 有名 にな っていない。

(4)

四 日市万古

四 日市 の製陶は幕末の海蔵庵窯 に始 まる

有節万古 に先んず ること

3

年、

1829

( 文政

12)

きょ う せい

年、東阿倉川 の唯福寺住職 田端 教 正

(1799‑1881

) は信楽か ら陶工上 島庄助 を招 いて、貧民

(7)

藤田伸也 近代陶芸 としての万古焼 (

1)

救済のため私財を投 じて窯を開き、信楽風の焼物 を始 めた。 この とき彼 らの苦心 によ り阿倉川 の北 にある垂坂 山の良質な陶土が発見 され、四 日市万古発展の基盤が生 まれた。 やがて製品は 流行 の有節万古風 に変化 してい った ( 図

17)

。慶応年間に窯 は廃 されたが、工人数名 は藤井元

しでの

七 の下 に移 り、羽津村 に開かれた志氏野窯の基礎 を成 した。

1873

( 明治

6)

年 に県がまとめた 資料 『明治六年調 地誌提要材料編』 において、製造物の項 に朝 日小 向の 「 万古陶器」 と並 ん で四 日市 の 「 志氏野陶器」が記 されている

四 日市万古 の創始者 と呼ばれ る山中忠左衛門

(1821‑78)

は、四 日市近郊の伊坂 に生 まれ、

末永 の地主 山中家の養子 とな った。末永 は海蔵川 と三滝川 に挟 まれた低地のため水害 を受 けて 窮乏 してお り、農民を救 うために陶器業 を興す ことを決意 した。忠左衛門は有節万古のような 高品位 の陶器生産 を 目標 として、

1853

( 嘉永

6)

年 に自宅で焼 き始めたが満足な品は容易 には 作れず、近 くの海蔵庵窯を訪ねて教正 らに教えを請 うな どして努力を重ねた。理想 とした有節 万古 の秘密 を探 るためスパイ もどきの行為 を試 みた とい う逸話 も残 っているほど、忠左衛門は 苦心 を重ねた。

困民救済 と陶法 開発への投資 による家が傾 くほどの出費 に も耐えて、 ようや く

1870

( 明治

3)

年、本格的な登窯を海蔵川南岸 の水車 ( 四 日市市浜一色) に開いて大量生産 を開始 した。

篤志家 の忠左衛門は私利 よ りも事業の社会性 を重視 し、熟練工 を育て、陶法 も広 く公開す るこ とによって四 日市地域 に陶業を根付かせ ることに成功 した。

1877

( 明治

10)

年 の第一回内国勧業博覧会 に急須 ・花瓶 ・コー ヒー茶碗 な どを出品 し鳳紋 賞牌 を受 け、

78

年 のパ リ万国博覧会で は‑ ノ名誉賞牌 を受賞 している

81

年 の第二 回内国勧 業博覧会 の出品解説書では 「 生器地師は三重郡 四 日市下新町小川半助井同郡阿倉川村増 田佐蔵 井 四 日市北町伊藤庄造、絵師は四 日市住三 島武井 同所 田中桑吉阿倉川鈴木大蔵」 と陶工 の名が 列記 され、前年の一年間の出荷数 は

3

5

千個で売上高は

3

8

百 円であ り、雇用者数 は百六、

七十人余 と記 されている

山中忠左衛門窯 は 「 万古 山中製

「日本万古」 な どの印を用 いたが、他の窯 と陶工 が共通 し てお り、作品を他の窯 と区別す るのが困難である

忠左衛門の死後、子の忠七が跡 を継 いで第 二代 を名乗 ったが、忠七が没す ると山中窯は途絶 した。

長 島藩 士堀友直 (

1836‑94

) は、 幕末 に長 島で佐藤久米造 に陶法 を学 び、 維新後 の

1871

( 明治 4)年、 四 日市 に移 って三 ツ谷 に万古窯を開いた。友直が桑名ではな く四 日市 を選んだ 理 由は、 四 日市が前年 に汽船航路 を東京 との間に開いて全国的な通商の拠点へ と急速 に発展 し つつあ ったためで、将来有望な事業 として万古焼 を考えていた。

困窮 した農民 を救 う目的で始 まった山中忠左衛門窯が家内産業的な傾向が強 く効率が悪か っ たのに対 して、堀窯は企業 として優れた陶工 を雇 い、製土か ら販売 までをすって 自社で行 った。

土 は垂坂 山の陶土を使 い、堀 はこの採取地 を所有 していた こともある

山中と同 じく第一回内 国勧業博覧会 に出品 して鳳紋賞牌 を受 け、

1877

( 明治

10)

年 のパ リ万国博覧会で も‑ ノ名誉 賞牌 を獲得 している

また第二回内国勧業博覧会 の出品解説書 には出荷数

2

万個、売上高千 円 と記 されていて規模 は山中窯よ り小 さか ったが、輸 出に力を入れていたのが堀窯の特色だ った。

友直 は

1885

( 明治

18)

年 には 日本第一 の港横浜 に支店 を開いて外国商人 と直接取 引を始 め た。 さ らに横浜西区浅間町に窯を築 いて、 四 日市か ら運 んだ陶土 を用 い、明治

30

年代 まで輸 出用 の陶器 を焼 いた。 これを 「‑マ万古」 と呼び、横浜地物の焼物 として人気があ った。天狗 やおかめの顔を土瓶の表面 に貼付 けた 「 面土瓶」 な ど新奇な品を海外向けに作 り、効率 よ く輸

‑ 115‑

(8)

出 した。

山中忠左衛門 と堀友直の成功 に影響 されて、四 日市では東海道沿 いを中心 に多 くの陶工が窯 を開いた。先 に挙げた内国勧業博覧会 には第一回、第二回 とも山中と堀以外 に

6

名が出品 して お り、 四 日市万古同士が競 い合 って繁盛 していた。

川村又助

(1843‑1918)

は、

1875

( 明治

8)

年 に万古問屋を始 めた。彼 は四 日市小古 曽に生 まれ、優れた商才 を発揮 して薬 を商 っていたが、販路を開拓できず品物の売 り捌 きに難儀 して いた万古業者か らの要請 に応えて転身 したのだ った。四 日市万古の原料 には金が混ぜてあるな どと言 って客 に急須を売 り込んだ話や、四 日市港 に降 りて見物す る外国人 を 自分 の店へ連れて くるように人力車屋へ頼んでいた話な ど彼の遅 しい商魂 は語 り草 とな っている

特 に海外への 輸 出に重点を置いたのは堀友直 と同 じで、やがて彼 は窯を開いて売れる万古を 自ら作 り始めた。

また津 と山田の監獄署 内に窯を設 け、受刑者 を使 って万古 を焼かせている

彼 の窯 もまた第二回内国勧業博覧会 に出品 し、 その前年 の

1880

( 明治

13)

年 には

4

5

百 円の売上金 を得て、 山中窯や堀窯を越 え る商売 を していた ことがわかる

陶芸の枠 にとらわれ ない又助 は合資会社川村組を作 り、陶器 によって作 ることのできる製品をなんで も作 って輸 出 した。 「 首振 り人形」 に代表 され る珍奇 な玩具や家具 も多 く作 り、主 としてアメ リカに輸 出 し

四 日市万古 は山中 ・堀 ・川村 らの尽力 によって四 日市の地場産業 とな った。 その品質 を維持 し生産量 を調整す るために、

1885

( 明治

18)

年 には万古 陶器商工組合が結成 された。 同業者 によ って品評会や研究会が開かれ るようにな り、製品の質 は一層向上 した。

ところで四 日市万古を支えていた垂坂 山の白土 は産量が少な く、 この頃には尽 き始 めていた。

そのため陶土 として瀬戸 ・美濃か ら白土 を買 い入れることにな り、土が粗いので上粕 を用 いる ことが多 くな った。 また

1887

( 明治

20)

年 頃か ら垂坂 山の赤土 を用 いて作 られ るよ うにな っ たのが、現在では四 日市万古 の代名詞 とな っている紫泥急須であ り、その製法 には美濃赤坂の 温故焼 の技術が取 り入れ られている

明治期 の四 日市万古の名工 は製陶工房で成形を担当す る生地師や給付を行 う給付師であって、

独立 した陶芸家 は四 日市 にはいなか った。

生地師では手捻 りの名手が 目立つのが四 日市万古 の特徴である

まず 山中窯で働いた大垣藩士の渡辺 自然斎がいる

彼 は蓮の絵が上手 く、蓮 をデザイ ンした

れん いん き ょ

急須 を得意 としたため、蓮隠居 と呼ばれた ( 図

18)

同 じく山中窯の山本利助

(1844‑1916)

も手捻 りの名人 として知 られ ( 図

19)

、伊藤豊助 ・ 小川半助 と共 に 「四 日市の三助」 と呼ばれた。号 は万里軒で、四 日市川原町に生 まれている

川村又助の首振 り人形の原型の作者 と伝 え られ る

四 日市西町の旅館大須賀屋 の主人、伊藤豊助 は動物の造形が巧 みで、急須 の蓋 の摘みにその 技が発揮 されていることが多 い ( 図

20)

。号 は晩成堂。

えん そ う しゃ

小川半助

(1840‑1905)

は四 日市下新町で煙草屋 を営んでいたため、号 を円相舎 とい う

作 品 も多 く、四 日市万古を代表す る陶工である

蓋 の摘みに狸 を象 った滑稽な狸摘みの急須 はと

りわ け珍重 された ( 図

21)

。娘の可久 とその夫 とされ る大沢政一郎 は、半助の後を継 いで円相 合 の号 を用 いて製作 している

山中忠左衛 門の子息七 は窯の経営 よ りも陶工 と して優れ、手捻 りと擁櫨 を得意 とした。号 は

‑左楽。

(9)

藤 田伸也 近代陶芸 としての万古焼

(1)

また木型成形 の名人 として、 四 日市比丘尼町の伊藤庄造が有名で作品 も多 く残 る

伊藤弥三 郎 ( 八三) も木型作 りの名手 といわれた ( 図

22)

川原町の中山孫七

(1829‑1914)

は、第一 回内国勧業博覧会 と翌年 のパ リ万国博覧会 で受賞 した木型成形 の名工 である

有節万古 と同様 に内側 に陽刻で龍文 を描 き出 し、器 の表面 には骸 骨 を浮彫 りし詩文 を書 き付 けた急須 は印象的である

絵付 けの名手 と しては川原 町の田中百桑

(1908

没) が知 られ る

彼 は南勢地方 の 日本画家 磯部百鱗 の弟子で本格的な絵が措 けるため、 山中忠左衛門 と川村又助の依頼 を受 けて絵付 け し た。 また黒粕 を挟んで金 を塗 り重ね る二重金 の技法 を考案 して評判 を取 り、商業的 に も大 いに 成功 した。 同 じく磯部百鱗門下の 日本画家 の給付師 には、水谷古墳 と坂井桜岳 が

大森貝塚 の発見 で有名 なアメ リカの生物学者、 エ ドワー ド

・S

・モース

(1838‑1925)

は、

1882

( 明治

15)

年 に再来 日し、 日本滞在 の間 に陶磁器 を精力的に収集 した。 アメ リカ帰国後、

ボス トン美術館 にその コ レク シ ョンを寄贈 した彼 は、 『日本 陶器 目録

(1901

年刊行、 原題

CatalogueoftheM orseCollectionofJaPanesePotte

r y) をま とめてその研究の成果を著 した。 この本 の中で万古焼 は 日本 の主要 な窯の一つ と して記録 され、前記 の陶工 たちの名 も散見 され る( 註9 ) 。

また、 明治以後、海外 に輸 出され るよ うにな った 「 万古」 印の捺 された万古焼 は世界で知 ら れた伊勢 の陶器で、急須 と小花瓶な どが手捻 りと型で作 られ ること、 この陶器 の珍奇 さと価格 が安 い ことが西洋人 にとって魅力であること、万古焼か ら日本 の焼物全体 を考 えて もおおよそ 間違 いはない とモースは述べている(

註 lo)

。万古 の創始者沼波弄 山以来、万古焼 は新奇 ・珍奇 を 常 に追 い求 めて発展 してきたのである

1911

( 明治

44)

年、 四 日市港 か ら輸 出 された品 目の内、 陶磁器 は絹織物 に次 いで第

2

位 で 総輸 出金額 の

22

パーセ ン トを占めるに至 ったが、 その大部分 は万古焼であ った と推測 され る

(5)

大正か ら昭和前半期の万古

四 日市万古 は明治末 には沈滞期 に入 ったが、大正時代 に硬 く強 い陶器が水谷寅次郎 によって 開発 された。大正焼 と呼ばれた この陶器 は石炭窯 による高火度で焼かれ、 その耐熱性 を生 か し て火鉢 ・土瓶 で全国的な成功 を収 めた。現在 国内産土鍋をほぼ独 占す る基盤 は この頃築かれて いる

また山本増次郎 は英国製 品に匹敵す るよ うな本格的な硬質陶器 を開発 した。 しか し昭和 前半 の不況 と戦時統制 の影響 を万古焼 も免 れ ることはできず、第二次大戦 中は耐火煉瓦や代用 陶器 ・建築資材 の製造が中心 にな ってい った。 この時期 の万古焼 は工芸 と工業 が分化 してい く 時代 の歩調 に合 わせて発達 し、 四 日市 の陶磁 は この後、工場 で作 られ る均質 な大量生産 品 と個 人作家 による作品の二つの流れに分 かれてい った。 そ して両者 の間に位置す る民芸的な窯 は生

まれなか った。

桑名 では、加賀月華

(1890‑1937

、図

23)

・瑞 山

(1896‑1962)

兄弟や森翠峰

(1865‑1929

、 図

24)

が現 れて、古万古写 しの作 品を多数作 りつつ、作家 と しての意識 を もって個性 的な や き ものを生 み出そ うとした。 月葦 は板谷波 山の弟子 で昭和

7

(1932)

には川喜 田半泥子

(1878‑1963)

に招かれて千歳 山で焼 いている

1 17 ‑

(10)

「 万古焼」 の呼称 について、「 伝統 的工芸品産業の振興 に関す る法律 」

(1974年公布) による認定 は

「四 日市寓古焼」 であ り、伝統 的工芸品 として四 日市の寓古陶磁器工業協 同組合が用 いるのは 「 寓古」

である

しか し本論文では広 く万古焼を扱 うので、四 日市の製品 も含めて 「 万古」 と表記す る

ただ し 固有名詞 はこの限 りでない。

なお 「 伝統的工芸品産業 の振興 に関す る法律」 とは、「 一定 の地域で主 として伝統的な技術又 は技法 等 を用 いて製造 される伝統的工芸品」 の 「 産業の振興 を図 り、国民の生活 に豊か さと潤 いを与えるとと もに地域経済の発展 に寄与 し、国民経済の健全な発展 に資す ることを目的」 としてお り、各地 の工芸品 産地組合か らの申請 によって経済産業大臣が 「 伝統的工芸品」 を指定す るものである

陶磁器では福島 か ら沖縄 まで全国

31

箇所の産地が指定 を受 けてお り、三重県では四 日市寓古焼のほかに伊賀焼がある

同 じく指定を受 けている岐阜県の美濃焼 と比較す ると、美濃焼伝統工芸品協 同組合 に所属す る企業数 は

539

、従事者 は約

5,000

人、伝統工芸士 は

65

名であるのに対 し、寓古陶磁器工業協同組合 は企業数

106

、 従事者 は約

1,000

人、伝統工芸士

18

名 とその規模 は美濃焼の数分の‑程度である。

2

万古焼の歴史全般 については下記を参照。

・水谷英三 『 寓古 陶芸の歴史 と技法』技報堂出版、1

982

・朝 日町歴史博物館 『 復興寓古 一有節の求めた もの

‑』

図録

1998

・岡田文化財団 『岡田文化財団所蔵寓古焼 コレクシ ョン』図録

2004

・朝 日町歴史博物館 『よみがえる寓古不易 一有節の桜色 と寓古窯

‑』

図録

2005

・四 日市市立博物館 『 伊勢の茶陶寓古焼 一古寓古 ・有節、そ して四 日市へ

‑』

図録

2005

・桑名市博物館 『 伊勢 の陶器 寓古焼 一沼波弄 山か ら桑名寓古へ

‑』

図録

2005

3

日本美術の調査 については、鈴木康之 「 誰が 日本美術史をつ くったのか ? 一明治初期 における旅 と 収集 と書 き物

‑」

比較 日本学研究 セ ンター研究年報第

4号 (

9回国際 日本学 シンポ ジウム報告5) 2008

年 参照。

4

ドレッサーについては、郡山市立美術館 『クリス トファー ・ドレッサーと日本』図録、2002 年 参照。

5

国立国会図書館の近代 デジタル ライブラ リーか らの引用。第

54丁裏か ら第55

丁表。 引用 に際 して、

新字 に直 し、句読点を補 っている。

6

前掲の水谷英三 『 寓古 陶芸 の歴史 と技法』、及 び朝 日町歴史博物館 『復興寓古 一有節の求めた も の

‑』

を参考 に した。

7

腹膜脂粕 については、前掲の朝 日町歴史博物館 『よみがえる寓古不易 一有節の桜色 と寓古窯

‑』

を 参照。

8

深沢秋男 『 鹿島則文 と桜 山文庫』近世初期文芸研究会 参照。

9 CatalogueoftheMorseCollectionofJapaneSePoite

r y につ いて はイ ンターネ ッ ト・ア‑カイヴ

Internet ArchiveAmericanLibraries

に収録 され るカ リフォルニア大学図書館蔵書 を参照 した。万古焼 に関連す

る記述 は伊勢地方の章

p94‑105

10

( 原文)

Themodem potteryoflseisknownthroughouttheworldunderthecommonnameofBanko

,

andtheobjectsarealmostinvariablysignedwiththeimpressedmarkofBanko.Theproductisusuallyin thefらrm oftea‑pots,littleflowervases,and thelike,eithermodeled by hand ormoulded ;thewalls delicate,withtwlgSmodeledinrelief,orflowersinafew vitrifiableenamelsonanunglazedsurface,Orthe bodymaybemadeofdifferentcoloredclays.Theforelgntastehasbeencaptivatedbythenoveltyofthis potteryanditscheapness.Ninagawasaysthismodernworkforexportwasnotmadeuntilafter1868・By thematerialthrownonthemarketto‑daynoonecanhavetheleastideaoftheremarkablepotterymade in thisprovincein pasttimes・Therewashardly any method orstylethatthelsepotterscould not successfullyimitate;andifthepotteryofthisprovincealonesurvived,afairideaofthepotteryofJapan wouldbegiven.

( 前掲書

p94)

11

加賀月葦 ・瑞 山と森翠峰については前掲の桑

名市博物 館 『伊 勢

の陶器

寓 古 焼 一沼 波 弄 山か ら桑 名

(11)

藤田伸也 近代陶芸 としての万古焼

(1)

寓古へ

‑』

を参照。

※図版の複写元 は次の通 りである

・図

1

,

3

,

4

,

12

,

17

,

18

,

19

,

20

,

21

,

22

,

24

出典 :岡田文化財団 『岡田文化財団所蔵寓古焼 コレク シ ョン』

・図

2

,5 ,6 ,7 出典 :朝 日町歴史博物館 『 復興寓古 一有節の求めた もの

‑』

・図

8

,

9

,

10

,

l

l ,

13

,

14

,

15

,

16

,

23

出典 :桑名市博物館 『 伊勢の陶器 寓古焼 一沼波弄 山か ら桑 名寓古へ

‑』

‑ 119‑

(12)

図 1 青粕和蘭字文鉢 古万古 岡田文化財団蔵

図 3 色絵秋草花文急須 有節万古 岡田文化財団蔵

図 5 植物帖 帆山唯念画 個人蔵

2

腹膜脂粕御神酒器 有節万古 1 8 7 9年作 朝 日町 ・小向神社蔵

図 4 同左 内面の龍文様

6

鶴文鉢 有節万古 個人蔵

(13)

藤 田伸也 近代陶芸 としての万古焼

(1)

7

森有節像 ( 部分) 帆山唯念画 個人蔵

9

色絵花蝶文菓子器 佐藤千代松作 桑名万古 三重県立博物館蔵

図 1 1 親子亀置物 水谷孫三郎作 桑名万古 桑名市博物館蔵

8

色絵菊文宝瓶 佐藤久米造作 桑名万古 三重県立博物舘蔵

図 1 0 印文急須 松 岡鉄次郎作 桑名万古 三重県立博物館蔵

図 1 2 色絵菊花文六角宝瓶 布 山由太郎作 桑名万古 岡田文化財団蔵

‑ 121‑

(14)

図 1 3 急須 加藤権六作 桑名万古 四 日市市立博物館蔵

図1 5 色絵象形土瓶 松村清吉作 桑名万古 三重県立博物館蔵

17

緑軸橘文角皿 海蔵庵窯 四 日市万古 岡田文化財団蔵

図1 4 孔雀牡丹文花瓶 山本数馬作 桑名万古 個人蔵

図 1 6 色絵桜銀杏紅葉文手培 天神万古 朝 日町歴史博物館蔵

図1 8 蓮華文急須 渡辺 自然斎作

四 日市万古 岡田文化財団蔵

(15)

藤 田伸也 近代陶芸 としての万古焼

(1)

図 1 9 山水文急須 山本利助作 四 日市万古 岡 田文化財団蔵

図21 金彩 山水文狸摘急須 小川半助作 四 日市万古 岡 田文化財団蔵

図2 3 色絵 山水文急須 ・茶碗 加賀月華作 三重県立博物館蔵

20

土瓶 伊藤豊助作 四 日市万古 岡田文化財団蔵

図22 金彩松葉文急須 伊藤弥三郎作 四 日市万古 岡 田文化財団蔵

24

森有節像 森翠峰作 岡田文化財団蔵

‑ 123‑

図 1 青粕和蘭字文鉢 古万古 岡田文化財団蔵 図 3 色絵秋草花文急須 有節万古 岡田文化財団蔵 図 5 植物帖 帆山唯念画 個人蔵 図 2 腹膜脂粕御神酒器 有節万古1879年作 朝 日町 ・小向神社蔵図4同左内面の龍文様図6鶴文鉢有節万古個人蔵
図 1 3 急須 加藤権六作 桑名万古 四 日市市立博物館蔵 図1 5 色絵象形土瓶 松村清吉作 桑名万古 三重県立博物館蔵 図 1 7 緑軸橘文角皿 海蔵庵窯 四 日市万古 岡田文化財団蔵 図1 4 孔雀牡丹文花瓶 山本数馬作桑名万古個人蔵図16 色絵桜銀杏紅葉文手培 天神万古朝 日町歴史博物館蔵図18 蓮華文急須渡辺 自然斎作四 日市万古岡田文化財団蔵

参照

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