「フランス的ヨーロッパ」をめぐって
普遍主義とナショナリズムの相剋(4)一
小井戸 光彦
これ迄の処でフランス語とフランス文学が啓蒙期のヨーロッパに及ぼした影響について見 てきたので,次には美術の領域におけるヨーロッパのフランス化について検証することにし
よう。
中世にもフランス美術がヨーロッパ大陸のアルコバッサ(ポルトガル)からウプサラ(ス ウェーデン)まで,カンタベリーからアルバ・ユリア(ルーマニア)まで伝播したことは周知 の事実である。しかし当時,美術は宗教に隷属していたから,その普及もキリスト教界内,
もっと正確に言えばカトリックのキリスト教世界内に限られていた。ゴシック美術は南でイ スラムの壁に,東で東方正教会に服するロシアとバルカン諸国に阻まれたため,バルト諸国
・ポーランド・トランシルバニア地方を越えることはできなかったのである。
ところが18世紀となると,フランス美術がその優位を確立する勢力範囲は遙かに広大であ る。というのも今や教会の支配下を脱した世俗的な美術にとって,宗教の違いは何の障害に もならぬからである。それ処かむしろ,フランス美術がその主要な販路を見出すのはプロテ スタントのヨーロッパと正教会のヨーロッパにおいてなのである。ドイツにはナントの王令 の廃止後多数のユグノーが移住していたし,新興ロシアでは西欧文明に学ぶため外国人の教 師が必要とされていたからである。
それにもう一つ理由が付け加わる。大発見の時代以降,新大陸の分だけ世界が拡大したの である。その上,これまで隊商による交易を通じてのみヨーロッパに知られていた中国が,
海上交易により直接ヨーロッパに開かれることになったのである。
従って啓蒙期のフランス美術はウラル山脈とボスポラス海峡までの全ヨーロッパは言うに 及ばず,アメリカ大陸と極東にまでその影響力を伸ばす可能性さえ持っこととなったのであ
る。
《イタリア美術・オランダ美術との競合》
しかしフランス美術も何の抵抗にもあわず覇権を手にし得た訳ではない。フランス語が
「普遍性」を獲得するに当たってラテン語に打ち勝たねばならなかったように,フランスは美 術の領域で勝利を収めるために,前以てイタリア美術とオランダ美術という手強い競争者を 打ち破る必要があったのである。
フランス語とフランス文学の侵入に対しては,イタリア語とイタリア文学がさほど頑強に
『人文学科論集』33,pp.89−101. ◎2000茨城大学人文学部(人文学部紀要)
抵抗し得なかったことは前述した通りである。しかしルネサンス以来イタリア美術の優越性 は実に目覚ましいものであったし,イタリアの芸術家たちは尚もその威信を保ち続けていた から,この領域での争いは非常に厳しいものとならざるをえなかった。イタリア本国からイ タリア美術を撤退させようとするのは思い上がりというもので,フランス美術に望めるのは 精々イタリア美術が根をおろし防御してきた本国以外の国々でどこまで善戦できるかである
ように思われた。
フェリーペ2世がエル・エスコリアール修道院の装飾のためにヤコポ・ダ・トレッッォや ポンペオ・レオー二,ペルレグリーノ・ティバルディ等のイタリア人芸術家の援助を求めた 時以来,スペインはイタリア美術にとって代々受け継がれる封地の如きものとなった。ブル ボン王朝の時代になっても,スペイン宮廷はマドリードの王宮やサン・イルデフォンソのラ・
グランハ宮の設計をイタリア人建築家フィリッポ・ユヴァーラとG.B.サッケッティに依頼し ている。
カトリックの南ドイツと就中オーストリアは18世紀初頭においても尚,イタリア美術のい わばく属州〉である。バロック様式ないしイエズス会様式の宗教建築にはイタリアの商標を 貼られたものが多い。例えばS.ソラーリによるザルツブルク大聖堂がそうであり,アゴス ティーノ・バレルリによるミュンヘンのテアティナー聖堂,アレッサンドロ・ビビエーナに よるマンハイムのイエズス会聖堂もそうであり,ドレスデンの宮廷聖堂はガエターノ・キャ ヴェーリによって建立された。ドイッ諸侯の王宮も殆どすべてイタリア人建築家によって建 造されている。エンリコ・ツッカリはボンとシュライスハイムで仕事をしたし,バレルリは ニュンフェンブルクで,レオポルド・レッティはシュトゥットガルトで仕事をした。ウィー ンの2つのリヒテンシュタイン宮はD.マルティネルリの作である。
中欧にあってカトリック世界の東端をなすポーランドにおいても同様の光景が見られ,メ ルリー二はスタニスワフ・アウグスト治下にワルシャワの王宮のために働き,ベルナルドーネ はクラクフのイエズス会聖堂を建てている。
ロシアでさえ,モスクワのクレムリン(要塞)をミラノのスフォルツァ城をモデルにして煉 瓦造に改築した際ミラノの芸術家たちに助力を求めて以来,同国が必要とする建築家のかな
りの部分をイタリアに頼り続けている。すなわちペテルブルグの聖ペテロとパウロ大聖堂の ためにはドメーニコ・トレッッィー二が,冬宮殿とツァールスコエ・セロー宮のためにはバ ルトロメーオ・ラストレルリが,アレクサンドル宮のためにはジャコーモ・クアレンギが貢 献しているのである。
こういった次第で,フランス美術の競争相手はまさに強敵であった。1700年代になっても
イタリア美術がフランス美術に屈服しようとしない厳しい情勢の下で,フランス美術が前進
を示し得たことは称賛に価すると言えよう。だがとかくする内に,イタリアの影響力も到る
処で押し返され始める。例をドイツの建築史にとると,イタリア人の建築家がフランス人の
後継者に席を譲る時が来る。ボンではロベール・ド・コットがツッカリに取って代わり,
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シュトゥットガルトではレッティの始めた仕事をラ・ゲピエールが続けている。ロシアでも,
建築家だけに触れるとしても,ルブロンとヴァラン・ド・ラ・モットが,そしてもっと後に なるとトマ・ド・トモンとリカール・ド・モンフェランが,イタリア人たちと張り合うよう
になる。
北ヨーロッパ,特に17世紀にはオランダの海といってもいい状況にあったバルト海沿岸の 地方では,オランダの新教ブルジョワ美術が絶大な影響力を揮っていた。ベルリンもダンチ ヒも,コペンハーゲンもストックホルムも,それにピョートル大帝のペテルブルグも,アム ステルダムに生き写しであった。しかしこれらの地域におけるフランス美術の勝利は,上述 のイタリア美術が影響力を持っていた地域においてよりも一層容易に勝ち取られた。という のも,18世紀になるとオランダ美術は地方化して威信と創造力に陰りが見られ,ヴェルサイ ユの光輝に目が眩んだ諸国民の心をいつ迄もっなぎ止めておくことができなかったからであ る。ベルリンではフランス人の建築家ジャン・ド・ボッドが,オランダ仕込みのドイツ人建 築家ネーリングに取って代わる。ピョートル大帝もネヴァ河畔の新アムステルダムといった 趣のある新都を急ぎヴェルサイユ風に造り替えようとする。
こうしてフランスは美術の領域において,イタリアとオランダという2大ライバルを犠牲 にしてヨーロッパを手中に収めるのである。
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フランス美術についてはフランス語の場合と違って,その「普遍性」が外国のアカデミー において懸賞論文のテーマとなるようなことはなかった。しかし当時のフランス人たちは自 国の芸術家たちがヨーロッパにおいてどのような地位を占めているかを知らなかった訳では ない。建築家のパットは『ルイ15世を称えてフランスで建立されたモニュメント』(1765)の 中で次のように言っている。
ロシア,プロシア,デンマーク,ヴュルテンベルク,ファルツ選帝侯領,バイエルン,
スペイン,ポルトガル,イタリアの諸国を巡ってみるがよい。到る処で,フランス人建 築家が首位を占めているのを見出すであろう。ペテルブルグではラ・モット氏が首席建 築家であり,ベルリンではル・ジェ氏が,コペンハーゲンではジャルダン氏が,ミュン ヘンではキュヴィイエ氏が,シュトゥットガルトではラ・ゲピエール氏が,マンハイム ではピガージュ氏が,マドリードではマルケ氏が,パルマではプティトー氏が首席建築 家の地位にある。
わが国の彫刻家たちも亦到る処に散らばっている。コペンハーゲンにはサリ氏が,ド
レスデンにはユタン氏が,ストックホルムにはラルシュヴェック氏が,ペテルブルグに
はジレ氏がいる。
わが国アカデミー会員の画家ル・ロラン氏,トッケ氏,ラグルネ氏は相次いでロシア
に招聰されている。1)
パットはこのように外国で活躍しているフランス人芸術家を列挙するが,彼自身ドイッで ドゥ・ボン(ZweibrUcken)公の建築家として仕えた人物で,フランス美術が外国に影響力を及 ぼし始めた草創期の芸術家の一一人であるから,その証言には説得力があると言えよう。彼は 続けて,誇らしげにこう結んでいる。
パリがヨーロッパにおいて占めている地位は,ギリシアで芸術が栄え,ギリシアが世 界の残余のすべての国々に芸術家を供給していた当時,ギリシアが占めていた地位に相
当する。2)
それは兎も角,18世紀後半にフランス美術がヨーロッパにおいて揺るぎない地歩を占める に至ったことは確かである。というのも1765年のパットの証言は,更に時代が下ってアンシ アン・レジーム末期になると全く不完全なものと化し,外国で活躍するフランス人芸術家の リストは途方もなく長くなるからである。例えば1766年にはファルコネがエカテリーナ2世 の招きでペテルブルグに赴きジレに合流して,ピョートル大帝の青銅の大騎馬像を制作して いる。又やがてアメリカまでがフランス人彫刻家を招聰することとなり,1785年ウードンは 合衆国議会から依頼された『ジョージ・ワシントン像』制作のためアメリカに数週間滞在し た後,帰国して大理石による同像を完成させる。画家についても,パットが挙げた名前に,
スペイン王の首席画家であったジャン・ランクとルイ・ミシェル・ヴァン・ローや,プロシ アの3代の王の首席画家であったアントワーヌ・ペーヌ,ザクセン選帝侯やポーランド王の 首席画家であったルイ・ド・シルヴェストル等の名を付け加えなければならないであろう。
かくして当時,フランス人芸術家たちは建築,彫刻,絵画等のさまざまな分野にわたって ヨーロッパの各地で活動し,多大な影響を及ぼしていたのである。その活躍ぶりを国別に詳 しく紹介することもできるが,煩項に過ぎる記述で徒に紙幅を費やすことは避けねぼならぬ ので,ここでは分野毎に基本的な事柄だけを概括するに止めることにしよう。3)
[建築]
ルイ14世の時代に外国で活動したフランス人建築家の影響も無視し難いが,何分この時期,
彼らはヴェルサイユ宮の造営に追われていたため,殆ど国外には出向いていない。しかしべ ルリンに2度滞在(1653,1657)して「兵器廠」Arsenal(Zeughaus)の設計に携わったフランソ ワ・ブロンデルの活躍は特記すべきであろう。
フランス人建築家がヨーロッパ中に勢力をふるうようになるのは1715年以後である。その
中でも特に盛名を馳せたのは,義兄アルドゥアン・マンサールの後を受けて1708年王室付首席
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建築家となったロベール・ド・コットである。彼はあまり旅行はしなかったが,18世紀初頭 には並ぶものなき威信を享受していた。彼は相談を受けた外国のあらゆる君主のために改築 や建築の設計図を引き,施工の指揮はその弟子たちに委ねるというやり方で非常に広汎な影 響を及ぼした。このようにして彼はスペイン宮廷,サルデーニャ王,ドイツの聖職選帝侯ケ ルン大司教バイエルン選帝侯等のために貢献したのである。パリにあって彼は一切を取り 仕切り,どんな些細な事にも目を光らせていた。ロベール・ド・コットはフランス王の首席 建築家であったばかりでなく,まさにヨーロッパの首席建築家でもあったのである。他にも,
18世紀に本国以外の複数の国で活躍した建築家としてはド・ヴァイイやルドゥーがいる。
[彫刻]
建築の分野ではイタリア人もフランス人と覇を競えるにしても,18世紀フランスの彫刻家 たちのイタリアの同時代人たちに対する優位を認めることにっいては全ヨーロッパが同意す るであろう。ベルニー二からカノーヴァに至るイタリア人彫刻家の中からヨーロッパ全体を 動かすような大作家は生まれていない。ローマのフランス・アカデミー院長であった画家ウ ルーゲルは1731年に次のように書いている。
ローマにも全イタリアにももう彫刻家はおりません。まだ幾らか腕の立っ者が見出せる フランスにしかおりません。4)
フランスの彫刻家がヨーロッパの全宮廷で好評を博したのはその為である。立像であれ騎 どくせんじょう
n像であれ,王のブロンズ像については彼らの独檀場であった。それに彼らは庭園の彫刻作 品,教会や宮殿の装飾彫刻,アカデミーでの教育といった仕事のためにも外国に招かれてい
る。
そうした彫刻家としては,まず一方にロンドンのルビヤック,コペンハーゲンのサリ,ぺ テルブルグのファルコネといった一匹狼的な作家たちがいる。又もう一方には外国のフラン ス人工房に働く一群の彫刻家たちがいる。例えばローマの工房にはテオドン,モノー,ピ エール・ルグロがおり,スペインの「ラ・グランハ」のアトリエにはルネ・フレマン,ジャ ン・ティエリ,ジャック・ブソー,デュマンドレ兄弟といったクストゥー派の面々が働いて いる。又フリードリヒ1世治下のベルリンの「アルスナル」の工房はギョーム・ユロ,ルネ
・シャルパンティエというジラルドンの2人の弟子を擁したし,その後この工房はフリード リヒ2世の首席彫刻家となるフランソワ・ガスパール・アダン,シジスベール・ミシェル,タ サエルに引き継がれて行く。ドレスデンのアトリエではコワズヴォの弟子のフランソワ・
クードレとヴィナシュが活躍している。そしてストックホルムの王宮のアトリエには相次い でルネ・ショーヴォー(1693),ベルナール・フッケ(1696),大彫刻家の弟ジャック・フィ
リップ・ブーシャルドン(1741),ラルシュヴェック(1755)がやって来る。
[絵画,版画,その他]
フランス人画家たちも彫刻家や建築家と同様に,ヨーロッパの各地に迎えられたことは言 うまでもない。しかしこの事については余所でも概括的に触れているので,ここで敢えて彼 らの活動に言及するのは止めて,以下では版画とその他の分野について概観することにしよ
う。
〈版画〉
版画家にも,外国に招かれて成功を収め,その地で大きな影響力を発揮した者が多い。パ ルマの宮廷ではシモン・ラヴネが,マドリードではブリパールが,リスボンではキイヤール が活躍したし,ブノワ・オードランとセバスティアン・ルクレールの弟子ベルナール・ピ カールはアムステルダムで成功を収めた。イギリスにはジェラール・オードランのライバル であるニコラ・ドリニーが1711年アン女王に招かれたのに続いて,ベルナール・バロンや,
南仏ルエルグ地方出身のフランソワ・ヴィヴァレスもロンドンで活躍した。パルマの版画家 の父に当たるシモン・フランソワ・ラヴネは1750年ホーガースに呼ばれて,彼の『当世風の結 婚』の銅版画制作に協力した。ロシアではエカテリーナ2世治下にアントワーヌ・ラディー
グ,ルイ・マラン・ボネ,ブノワ・ルイ・アンリケがペテルブルグで活躍した。
18世紀フランス文明は住居空間や我々の身の回りを飾るあらゆる装飾芸術の領域でも洗練 されたモデルを提供し,パリのモードはヨーロッパ中に知れ渡った。
〈家具〉
18世紀パリの家具は高級家具(6b6nisterie)の歴史上に一つの頂点を画した。中世は何にで も使える家具しか知らず,例えば〈bahut(櫃)〉はテーブルにも椅子にもなり,また衣類など
ひつをしまうのにも使われた。これに対し18世紀には〈コモード(commode)〉謄智],<スクレ テール(secr6taire)〉[;籍蒋乞 ],〈シリンダー・デスク(bureau a cylindre)〉,〈シフォニエ
(chiffonnier)〉陳鷲膿禦んす],〈ボヌール・デュ・ジュール(bonheur du jour)〉[讐蝪測,<プ
スィシェ(psych6)〉[蝶墾覧]が作られた。テーブルはより可動的となり,<コンソール
(console)〉に〈ゲリドン(gu6ridon)〉が取って代わる[雛講霧旨鵬繍羅し]。座りたければ,〈べ ルジェール(berg6re)〉[島美軽嬬]もあればくデュシェス(duchesse)〉[勤鰭亨]もあり,また がって腰かけカードゲームを見物するための〈ヴォワイユーズ(voyeuse)〉もある。寝台も ポーランド式,トルコ式等々と実に様々である。
これらの家具のすべては外国に輸出され,また模倣された。イギリス人はくchaise−longue
(寝椅子)〉のようにフランス語の呼称をそのまま保持したり,<berg6re>を英語風に変えて
<burgair>といったりしている。イギリス人エベニストのシェラトンやチペンデールもルイ
15世様式とルイ16世様式を巧みに模倣して,ついには独自の様式を創り出し,やがて逆にフ
ランスに影響を与えることになる。ロシアのような家具産業のない国では,パリの家具を輸
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入して満足していた。ドイツ人のダーヴィト・レントゲンは,パリで催された彼の作品展が 契機となってパリで高い評価を得たが,パリには定住せず,そこに支店を持つに至る。マ
リー・アントワネットの後楯もあって1780年にメートル・エベニストとして認められ,又グリ ムの推奨によりロシアのエカテリーナ2世の愛顧にも与った。
〈タピスリー〉
フランスのエベニストは殆ど国外に出なかったが,タピスリーの織師(tapissiers)の場合は おりし たてばた よこばた ねばた
事情が異なる。外国の君主たちは竪機と横機(臥機)双方のフランス人織師をあらゆる策を講 じて引き抜き,自国にゴブランと対抗できるタピスリー工場を設立しようとしたのである。
フランスの王立ゴブラン工場の名声がヨーロッパに遍く知れ渡るにつれ,やがてゴブラン織 という語は近代ヨーロッパのタピスリーの一般的呼称となる。そのため例えぼ「ブリュッセ ルのゴブラン織」などと言うのである。
北方の装飾芸術であるタピスリーはイタリアにはうまく定着しなかった。ローマでもフィ レンツェでもトリノでも,フランス人移住者の力を借りて努力を重ねたが十分な成果は挙げ られなかった。スペインはカトリックのネーデルラントを支配していた問は,タピスリーの 需要をブリュッセルの職人たちによって満たせたが,1715年この地域がオーストリアの支配 下に移ってからはそれが不可能となり,フェリーペ5世はフランス人の堅機の織師たちの協 力の下,マドリードに独自の工場を開設している。
イギリスではスチュアート王朝時代の1620年頃に,フランスからヒントを得てジェームズ 1世がモートレイクに王立工場を創設した。また18世紀にはロンドン郊外のフルハムに,ゴ プランから移った職人たちの助力を得てタピスリー工場が建てられた。しかしそれでもイギ リスの大貴族たちは,ゴブラン工場の横機の技術革新に貢献したことで知られるスコットラ ンド生まれのネイルスンを介して,ゴブランに注文を発することを止めてはいない。
ドイツはタピスリーの領域でもフランスの亡命新教徒を利用している。ベルリンの工場は,
タピスリーの産地として16世紀以来の伝統を持つフランス・オービュッソン出のピエール・
メルシエによって創設された。彼は1686年宮廷織師となり,ル・プラン作の『ルイ14世の事 跡』に倣って,『大選帝侯の事跡』の連作を仕上げている。その後彼はドレスデンに移ってザ クセン選帝侯に仕え,1729年の死までその地に留まった。ミュンヘンの工場を指導したのも フランス人芸術家たちである。
ロシアのタピスリーについても事情は同様で,ピョートル大帝が18世紀初頭にゴブランの 織師たちを雇い入れたのがその始まりである。次いでゴブランとともにフランス・タピス
リーを代表するボーヴェの工場からも織師が採用されたが,ペテルブルグ工場の主要な目的
はル・プランの『ルイ14世の事跡』に対抗して,カラヴァクの下絵により『ピョートル大帝
の事跡』の連作を織り上げることであった。ペテルブルグのタピスリー工場は,1756年にゴ
プランを去って64年までペテルブルグで働いたジャン・バティスト・ロンデの補充のお陰で,
エカテリーナ2世治下には活気を取り戻すことになった。
〈金銀細工〉
フランスの金銀細工も,高級家具やタピスリーに負けず劣らずもてはやされた。18世紀半 ばにはパリに500軒以上の金銀細工商(or驚vres)の店があった。彼らはフランスのみならず外 国の宮廷,特にポルトガルとロシアの宮廷に商品を供給していた。
パリの金銀細工師のうち国外で最も高い評価を受けることになったのは順次クロード・バ ラン,トマ・ジェルマンとその息子フランソワ・トマ・ジェルマン,ジャック・ニコラ・ロエ ティエル,ロベール・ジョゼフ・オーギュストである。
クロード・バランは当時流行のロカイユ式の装飾よりも古典的な簡潔さを好み,「先人たち
っぼ
の節度をわきまえた装飾模様を,ザリガニや小ウサギといった,壺の外面に金銀細工を施す 際に用いるべきでない模様に置き換えることにより,人々が美しい形を台なしにしているこ とを嘆いていた」。5)彼は1727年にロシア宮廷に3点の飾り皿(surtout)[踏縫解駿繍睾寒]を発送 し,1742年にはスペイン王のために狩猟の場面を描写した飾り皿を制作している。
全ヨーロッパ的な名声を博することとなったトマ・ジェルマンも,建築と彫刻のしっかり した教育を受けていたので,ロカイユ様式とシノワズリ(中国風装飾モチーフ)の過剰に対し ては用心深かった。マリエットは「これはフランスがあの有名なバラン以後に持ったもっと
も優れた金銀細工師だ」と言った後で,次のように付け加えている。
ジェルマン氏が古代の様式を必ずしも正確に写しとっていないとしても,また流行の趣 味を受け入れるため不規則な形に身を委ねるとしても,氏は非難すべき逸脱には決して
陥らない。6)
彼は豪奢を好むポルトガル王ジョアン5世からとりわけ高く評価され多くの注文を受けた。
王は彼を大いに尊敬していたので,その計報に接すると,リスボンの大聖堂において厳かな 葬儀を執り行なった。
父の後を継いだフランソワ・トマ・ジェルマンは,世間を騒がせた破産(1767)に打ちのめ されるまで,ヨーロッパのあらゆる宮廷に作品を提供し続けたが,中でも彼に最大の利益を もたらしたのはポルトガルとロシアであった。F.−Th.ジェルマンの失墜以後,同じ外国人顧 客たちが向かったのはロエティエルのもとであり,更に遅れてはロベール・ジョゼフ・オー ギュストがその後を継ぐことになる。
これらの金銀細工師は全員パリのアトリエで仕事をした。しかしナントの王令の廃止以降
は,若干の新教徒の金銀細工師が外国に赴いて,その地で活動しフランス製の作品に対抗し
た。殊にロンドンでは亡命フランス人のピエール・アラシュ,ピエール・プラテル,とりわ
けポール・ド・ラムリが非常に美しい銀器類を制作している。破産後のF.−Th.ジェルマンも
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ロンドンにやって来たが,その信用を取り戻すことはできなかった。
鉄細工(ferronnerie)の分野でもフランスはヨーロッパに美しい作品を提供した。有名な者 にはハンプトン・コート宮殿の鉄格子等を制作したジャン・ティジューや,ジョアン5世の 注文を受けてマフラ修道院の聖堂のために仕事をしたガルニエ等がいる。
〈陶磁器〉
陶磁器 それはしばしば金銀細工師の手になる〈vaisselle plate(貴金属製の食器)〉の安 せ ソな模造にすぎない においても,就中ロココ時代に大流行した磁器の小彫刻 多彩施
ゆう むゆう
粕の小像にしろビスキュイ(白色無粕磁器)による小像にしろ においても,フランスはゴ プラン織と同じく支配的な役割を果たした。
マイヨリカ陶器の伝統を持つイタリアに比べると,18世紀のスペインはより強くフランス 陶磁器の影響を受ける。1727年アルコラに創設された陶器工場はフランスのムスティエ陶器 工場の影響下にあり,J.ペラン・スタイルのモチーフが見られるし,1759年マドリードに設 立された王立磁器工場は初めナポリのカーポ・ディ・モンテの磁器を模倣するが,程なくフ
ランスのセーヴル磁器の影響を受けるようになる。
イギリスでも1745年にロンドン近郊のチェルシーに建てられた磁器工場はフランスのヴァ ンセンヌ磁器の,次いでセーヴル磁器の影響を受ける。同工場の指導的立場にあったフラン ス人ニコラ・スプリモンは,主題をヴァトーとブーシェの版画から借用している。そこに使 われている様々な色合いの中でも,有名な「国王の青」(bleu de roi)と「ポツパドゥールの ローズ」(rose Pompadour) 不適切にも「デュバリのローズ」と呼ぼれたりもする が際 立っている。ダービーやウースターの工場でも,セーヴルの影響がマイセンのそれに取って
代わる。
ザクセン地方の磁気産業が全ヨーロッパに名声を博していたドイツにまで,徐々にフラン スの影響は波及することになる。ウィーンの磁器工場はデュ・パキエによって1719(一説に は1717)年に創設されたが,1770年以降はセーヴル磁器の影響を受けてロココ風の高級食器 や小像を産出して最盛期を迎えた。更には,17世紀に輸入された中国の磁器に刺激されて 1707年ヨーロッパで最初に白磁の製作に成功したマイセンでさえ,フランス趣味に譲歩を示 さざるを得なくなる。18世紀中葉にマイセン磁器のモデルマイスターとして長期間活躍した ケンドラーの作品にも,フランス作家の影響が窺える。例えば彼が計画したアウグスト3世 の磁器製騎馬像は,シルヴェストルの肖像画『アウグスト3世』に拠っている。
ロシアではペテルブルグの磁器工場で指導的役割を果たしたのはフランス人ラシェットで あり,エカテリーナ2世は金に糸目を付けずセーヴルの高級磁器を買い求めている。
当時セーヴル磁器工場がかくも輝かしい名声を保持することになった原因の一一端は,フラ ンス王がヴェルサイユを訪れた諸国の君主に与えた贈り物によって説明がっくとも言えよう。
タピスリーの贈り物にはセーヴル磁器の贈り物が付き物だったのである。
〈モード〉
モードの世界におけるパリの優越はフランス語やフランスの文学・芸術のそれよりもはる かに揺るぎないものであった。「フランス的ヨーロッパ」の中心に女性たちがいたことは我々 のすでに見た処である。7趣味について裁断を下した女性たちは本能的に,自分がドレスや絹
せんす べにつぼ
のストッキング,扇子,香水をしませた手袋,紅壺8)を取り寄せた国に惹かれてゆくのであっ た。彼女らがフランス風の衣装をまとい,フランス風に髪を結ってからフランス語を話すま
ポンポン
での間は,ほんの一歩であった。書物や絵画は衣装についた玉房やフリル,リボンやレース 飾りの後からやって来たのである。
パリのモードは倦む暇も与えぬ程に目まぐるしく移り変わり,それがモードの成功の一因 だったとも言われている。そのモードの発展に実質的な影響力を行使した最初のファッショ ン・デザイナーといえるのがローズ・ベルタンである。彼女は当時マリー・アントワネットの
「モード担当大臣」(ministre de la Mode)と董軍名された。9)また移り変わりの速いのは衣裳ばか りでなく,髪形の流行も同じであった。著名な美容師のレオナールはベルタン嬢と才能を競 い合うようにして,意匠を凝らした実に様々な髪形を考案したのである。
モードの変遷もさることながら,モードの普及の速さには目を見張らされる。それは音と 光の速度をも殆ど凌駕するとまで言われる。フォントネルも「パリのモードには翼があると 思える程,それはまたたく問に行き渡る」と言ったものである。10)それにしても当時,ヨー ロッパの貴婦人たちはどのようにしてパリのモードについて逸早く知り得たのであろうか。
モード雑誌は18世紀末にならなければ現われないから,11)何か別の手立てが必要であった。実 はそれが有名な「サン・トノレ街の人形」(poup6e de la rue Saint−Honor6)であった。
ヨーロッパ中の首都のお洒落な女たちが鶴首して待つこの人形とは,最新流行の衣裳と髪 形に身を固めた手足の動くマネキン人形で,これを外国に送ってフランス宮廷のモードを知
らせたのである。ベネチアの夫人たちはく主の昇天の木曜日〉に送られてきた後,小間物 商12)の店に陳列されるこの人形を待ちかねていた。ロンドンには毎月1体が送られたという。
メルシエはその『18世紀パリ生活誌』の中で書いている。
この人形は北にも南にも行く。それはコンスタンティノープルやペテルブルグにまで入
ひだ
り込む。そしてフランス人の手が襲を施すと,サン・トノレ街の趣味の慎ましい遵奉者た るあらゆる国民のもとで,同じ嚢が反復されるのである。13)
ドリール師もこのパリ・モードの使者を次のような詩句でほめ称えている。
かくの如くフランスはモードによってとは云え,
愛らしくも他を圧する美装の,未だ女王であり,
マネキン人形は暴君さながらに最北の地までも
「「フランス的ヨーロッパ」をめぐって」 99
わがフランスの数多の趣味を伝えつつ,世界をひれ伏させる。14)
外国人もこのフランス・モードの〈専横〉を指摘している。ゴルドー二は書いている。
フランス人は衣装や髪形,あるいは装身具や宝飾品といった,人を心地よくさせるあり とあらゆる事柄において,ヨーロッパ中に範を示している。人々が模倣しようとしてい るのはフランス人である。15)
フリードリヒ2世もこれに呼応する。
フランス人の趣味が我々の家具や我々の衣装を規定し,抗い難い影響力を持っ流行の支 配下にあるありとあらゆる些細な事までも,フランス人の趣味が規定している。この情 熱は過度にまで達して,熱狂に変じた。女性たちはしばしば度を越すものだが,彼女た ちがこの情熱を常軌を逸した段階にまで押しすすめたのである。16)
しかし,いかにヨーロッパがフランス化したからといって,それぞれの国民,それぞれの 土地に固有のモードが消滅してしまった訳ではない。それぞれの伝統,気候風土に根差した 本来の衣装は当然守られていたのである。ただ宮廷の礼装は到る処でフランスを手本にして 作られていた。
最後に料理について手短に触れるとしよう。カレームとブリヤ・サヴァラン17)もフランスの 名声に貢献した点では,ベルタン嬢とレオナールに劣ることはなかった。カラッチオリは書
いている。
ヨーロッパがもはや酒に溺れて理性を失わなくなった名誉,優雅に食事をするように なった長所は間違いなくフランス人に負うている。18)
18世紀とは発泡性のシャンパーニュワイン,ストラスブールのフォア・グラのパテ,マヨ ネーズ・ソース,プララン公爵の料理人が考案したプラリーヌ,その他多くの美味珍味が登 場した世紀である。そのお陰でフランスは選り抜きのグルメたちと,大勢のグルマンたちを
も己れの陣営に加えることができたのである。
(1999年10月)
注
1)Une page souvent cit6e de l architecte Patte, dans son ouvrage sur lesルfoηπ配6肛54r g6∫6ηFrαηc6 a 1α 810∫r{〜48Zo配∫3 XV(1765):
亀
メモoarcourez la Russie, la Prusse, le Danemark, le Wurtemberg, le Palatinat, la Bavi6re,1 Espagne, le Portugal et rItalie, vous trouverez partout des architectes frangais qui occupent les premiさres places. A
P6tersbourg, M. La Mothe est le premier architecte;aBerlin, M. Le Geay;註Copenhague, M. Jardin;a Munich, M. Cuvilli6s;aStuttgart, M. La Guepi6re;註Mannheim, M. Pigage;aMadrid, M. Marquet;a
Parme, M. Petitot.<<Nos sculpteurs sont 6galement r6pandus partout:M. Saly h Copenhague, M. Hutin a Dresde, M. Larcheveque
aStoc㎞olm, M. Gillet a P6tersbourg.
<<MM. Le Lorrain, Tocqu6, Lagren6e, peintres de notre Acad6mie, ont 6t6 successivement appel6s en
Russie.》(Louis R6au,ム E配アρρ6 Frαη@5εα配312c1ε485加η舵r63, Albin Michel 1938, p.114)
2)<<Paris est a l Europe ce qu 6tait la Gr色ce lorsque Ies arts y triomphaient:elle foumit des artistes a tout le reste du monde.》
(Cit6 dans L. R6au, gρ. d ., p.115)
3)ルイ・レオーは外国で活躍したフランス人芸術家の詳細なリストを国別,分野別に掲げている(ρρ.
d .,pp.395−403).
4)<<ll n y a plus de sculpteurs a Rome ni dans toute l Italie;il n y a qu en France oU on trouve encore
quelque habile homme.〉〉
(Cit6 dans L R6au,ρρ. c∫ ,, p,145)
5)Claude Ballin qui pr6f6rait la simplicit6 classique aux e功olivements a la mode de style rocaille et《se
lamentait sur ce qu on gatait les belles formes en substituant aux sages ornements des anciens des 6crevisses et des lapereaux qui ne sont pas faits pour garnir le dehors de vases d orfもvrerie>>...(LRεau,ρρ. c∫ .,p.208)
6)Mariette d6clare que《c est le plus excellent orf色vre que la France ait eu depuis le c61色bre Ballin>>et il 勾oute:《Si M. Germain ne copie pas tout juste l antique et si, pour se preter au goOt r6gnant, il se livre ades formes irr6guli6res, il ne donne jamais dans des 6carts blamables.》
(1襯。,P.209)
7)茨城大学人文学部紀要『コミュニケーション学科論集』創刊号,1997年3月,149頁,参照。
8)パリは紅(rouge)の大市場で,年に200万個以上の紅壷を売上げたという(L R6au,ρρ. d孟, p.213,
n.1).
9)Be且in(Marie Jeanne, dite Rose,1744−1813)はマリー・アントワネットに高く買われていた特権的なモー ド店主(modiste phvil6gi6e)で,15年間に亘って彼女に衣裳を提供し,30人ものお針子を使っていた。
彼女はモード界のスター第1号といえるが,大革命前に国外に亡命した後再びパリに戻り,1787年 には当時の金額で200万フランに上る財政破綻を来したという。彼女の商取引きの規模が偲ばれよ
う。
10)<<Les modes parisiennes ont des ailes, tant elles font de chemin en peu de temps>>.
(Cit6 dans L R6au,ρρ. d ., p.215)
11)《Le Cabinet des Modes>〉が隔週に発行されるようになるのは1785年11月17日以後である.
12)婦人服飾商(marchands de modes)は元来小間物商(merciers)の組合に属し,両者の商売には殆ど違 いがなかった。やがて服飾商が独自性を見せ始め,小間物商から切り離されて行く。1765年にディ ドロは『百科全書』の中で婦人服飾商という職業を社会的に位置づけて次のように記している。
「この商人たちが独自の社会的地位を得て,服飾商と名乗ってから,ほんの僅かな時間しか経ってい
ない。それは彼らが小間物を商うことを完全に止めて,婦人用服飾を商う道を選んだ以後のことに
「「フランス的ヨーロッパ」をめぐって」 101
過ぎない。」
<<11yafort peu de temps que ces marchands sont 6tablis, et qu ils portent ce nom;c est seulement depuis
qu ils ont quitt6 enti6rement le commerce de la mercede po皿pre曲e le co㎜erce des modes.》(伽d磁8,
o配D c o朋αかθrα 30ηη44θ53dθηc8∫,4ε5απ56 4θ3ητ4漉r5, tome lO,1765, pp.598−599)
13)<<Elle(=cette poup6e)va au nord et au midi;elle p6n6tre a Constantinople et a P6tersbourg;et le pli qu a donn6 une main frangaise se r6p6te chez toutes les nations, humbles observatrices du goOt de la rue Saint一
Honor6>.
(Louis−S6bastien MercierJ励1ε翻481)αr∫5, tome II,1782, p.213)
14)<<Ainsi de la panlre aimable souveraine
Par la mode du moins la France est encor reine,Et jusqu au fond du Nord portant nos goOts divers
Le mannequin despote asservit l univers.〉〉(Cit6 dans L R6au,ρρ. c∫ ., p215)
15)<<Les Frangais donnent le ton a l Europe enti色re:soit en habillement, en coiffures, soit en parure et en b麺outerie, en toutes esp6ces d agr6ments, ce sont les Frangais qu on cherche a imiter.》
(Cit6 dans L R6au,ρμd∫., p.216)
16)《Le goOt des Frangais r6gla nos meubles, nos habillements et toutes ces bagatelles sur lesquelles la tyrannie de la mode exerce son empire. Cette passion, port6e a r exc6s, d696n6ra en fureur;les飴mmes,
qui outrent souvent les choses, la poussさrent jusqu al extravagance.〉>
(Cit6 dans L R6au,ρρ. c∫ ., p216)
17)Careme(Marie Antoine,1784−1833)とBrillat−Savarin(Anthelme,1755−1826)の主要な著書がいずれ も19世紀に入ってから刊行されていることは事実であるが,彼らの生年を考えれば,2人を「フラ ンス的ヨーロッパ」に連なる者と見なしてもあながち不当とは言えまい。
18)<<C est certainement aux Frangais que l Europe doit l honneur de ne plus noyer sa raison dans le vin et r avantage de manger avec d61icatesse>>.