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『老子本義』から見る魏源の「救世」思想

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﹃老子本義﹄から見る魏源の﹁救世﹂思想 【要旨】

本論考は︑清朝の思想家︑魏源︵一七九四│一八五七︶の著作﹃老

子本義﹄を対象に︑その中の﹁救世﹂思想を検討したものである︒

魏源といえば︑幕末の志士たちも愛読した﹃海国図志﹄の著者とし

て知られているが︑著書の一つである﹃老子本義﹄の本義について

はいまだ解明されていない︒しかし︑今回︑本書において︑魏源独

自の思想である﹁救﹂︑﹁救世﹂思想が展開されていることが明らか

となった︒さらに﹃老子本義﹄は﹃老子﹄注釈としては完全なもの

ではないが︑魏源の思想的変遷を跡付けることができる唯一の著作

であることが判明し︑本書を考察することにより︑彼の思想を局所

的ではなく全面的に捉えることができた︒

序論本論文では︑清朝思想家である魏源の著作﹃老子本義﹄を対象に︑

その中の﹁救世﹂思想を検討していく︒

魏源といえば︑今日まず︑彼の著作である﹃海国図志﹄中の言︑﹁師

夷長技以制夷﹂を思い浮かぶだろう︒また魏源を研究する場合︑﹃海 国図志﹄﹃聖武記﹄﹃書古微﹄などの著名な書を対象としがちである︒

これらの著作と比べ﹃老子﹄の注釈書である﹃老子本義﹄はあまり

注視されない︒では﹃老子本義﹄とは一体如何なる著作であろうか︒

魏源は︑その序において︑﹃老子﹄従来の各注に対する不満を抱き︑

﹁無一人得其眞﹂と批判して︑次に諸注の長所を集め︑それに自ら

の解釈を附して注をつくると述べている︒それゆえ︑従前︑本書の

内容は単なる﹃老子﹄注の寄せ集めであって︑魏源自身の思想が反

映されているとは見なされていなかった︒しかし︑精読してみると︑

やはり魏源独自の思想︑特に書中に何度も現れた﹁救﹂︑﹁救世﹂と

いう言が本注のみならず︑魏源思想全体の真面目と考えられる︒そ

もそも﹃老子﹄の本旨については︑従前は﹁出世﹂あるいは﹁養生﹂

観点から︑または逆に﹃老子﹄への批判という否定的な立場から語

られてきた︒しかし魏源は︑老子が﹁時を憫れみて世を救う﹂とい

う思いからこの五千言を著したと考えた︒そのため︑彼の著作にお

いて︑﹁救世﹂の言を用いた章節は少なからず存在し︑これも本注

釈の特徴であると考えられる︒そこで本論文では︑﹃老子本義﹄中

の﹁救世﹂を基軸として︑魏源の生涯における﹁救世﹂思想の変遷

『老子本義』から見る魏源の「救世」思想

龔   麗璇

(2)

   麗璇

を論じていく︒

これまでの魏源研究は汗牛充棟といえる︒まず︑魏源の生涯を

跡付けているものとしては︑魏耆﹃邵陽魏府君事略﹄︵咸豊年間︑

一八五一│六一︶が挙げられよう︒この書は魏源の長子︑魏耆が父

のために書いた家伝であり︑魏源を研究する際の重要な史料である︒

また魏源の著作集として︑中華書局が一九七六年に刊行した﹃魏源

集﹄があり︑﹁古微堂内外集﹂﹁古微堂詩集﹂及び魏源の他の詩文や

序などが輯められており︑一九八二年版には﹁籌海篇﹂などの重要

な文や書簡︑詩などが補されている︒二〇〇四年には︑岳麓書社整

理﹃魏源全集﹄が出され︑魏源の全著作が網羅されている︒

次に魏源に関する初期の研究としては︑斉思和﹁魏源與晩清学風﹂︵﹃燕京学報﹄第三九期︑一九五〇︶が魏源の生涯や思想または政治

的功績について詳細に紹介している︒また馮友蘭も﹁魏源│十九世

紀中期的中国先進思想家﹂︵﹃人民日報﹄一九五七年三月二十六日︶

において魏源の思想を歴史的に位置づけた︒近年の魏源研究とし

ては︑李瑚﹃魏源研究﹄︵朝華出版社︑二〇〇二︶がある︒この書

は魏源の著述の年代特定を主としており︑参考とする価値がある︒

﹃魏源評伝﹄︵南京大学出版社︑二〇〇五︶は陳其泰︑劉蘭肖が共同

執筆した魏源の基礎的な評伝である︒黄麗鏞﹃魏源年譜﹄︵湖南人

民出版社︑一九八五︶は︑魏源が生きた時代背景とその生涯︑事

績︑交遊︑著述などを総合的に考証したものである︒ちなみに︑夏

剣欽・熊焔は︑戊戌の変法以降の魏源研究を総括︑批評し︑それを

﹃魏源研究著作述要﹄︵湖南大学出版社︑二〇〇九︶として刊行して いる︒また李柏栄﹃魏源師友記﹄︵岳麓書社︑二〇〇九︶は︑魏源

の交友関係を考証するうえでは欠かせない資料である︒そして賀広

如は﹃魏黙深思想探究││以伝統経典的詮説為討論中心﹄︵台湾大

学︑一九九九︶において︑魏源の生涯を早・中・晩の三期に分け︑

各期の思想の発展及び著作について︑それぞれの意義を検討してい

る︒楊晋龍﹁台湾学者魏源研究述評﹂︵﹃中国文哲研究通訊﹄一四│

一︑二〇〇四︶は現在の台湾における魏源研究を論評し︑﹁現代の研

究では︑魏源の経学︑史学︑政治における成果と影響のみを注視し︑

これらの成果と影響をいわゆる神話化し︑他の例えば仏教︑文学︑

経世と彼が実際に行った業績などについては︑未だ深く研究する者

は現れていない﹂と指摘し︑文末では魏源研究において検討すべき

課題を列挙している︒

次に︑﹃老子本義﹄の研究についてだが︑魏源思想を主としたも

のと老学の視点から考察したものとに分けられる︒

︵一︶魏源を主とする研究は以下の通りである︒

①成書時期の研究︒そもそも﹃老子本義﹄は魏源の生前には刊行さ

れておらず︑また書中にも成書年代に係る記事も無いため︑研究

者は各見解に拠って︑様々な分析を行っている︒この問題につい

ては後述する︒

②注釈の内容に関する研究︒賀広如は﹃魏黙深思想探求││以伝統

経典的詮説為討論中心﹄で︑﹃老子本義﹄を魏源の早期思想の反

映とみなした上で︑同時期の著作と比較した︒賀氏の論点は宋学

に拠っての分析が多く︑筆者が重要視している﹁救世﹂に対して

(3)

﹃老子本義﹄から見る魏源の﹁救世﹂思想 はあまり注目していない︒

︵二︶老学の視点から行われた研究としては︑熊鉄基・馬良懐・劉

韶軍著﹃中国老学史﹄︵福建人民出版社︑一九九五︶︑劉固盛・劉韶軍・

肖海燕編﹃近代中国老荘学﹄︵福建人民出版社︑二〇一四︶などは︑

あくまでも老学研究を中心に据えて︑﹃老子本義﹄の思想及びその

書が﹃老子﹄解釈に与えた影響を論じている︒

以上︑魏源﹃老子本義﹄の先行研究について論じてきたが︑ここ

で筆者は﹃老子本義﹄研究が未だ不十分であることを指摘しておき

たい︒それは大半の学者が彼の中・後期の著作︑特に﹃海国図志﹄﹃皇

朝経世文編﹄﹃書古微﹄﹃詩古微﹄など名の知れた著述に重きを置き

過ぎたことが原因である︒楊晋龍は前述の評論内で﹁︵﹃海国図志﹄

他の︶著作が今なおより重要視されているのは︑清末以降外国に敗

れ続けてきた中国の行く末を憂いた研究者たちが︑いわゆる中国の

﹁近代化﹂のみに焦点を当ててきた結果と言えよう﹂と喝破した上

で︑安易に﹁後進的利益﹂︑つまり過去の歴史事象に対して先入観

を持った立場から研究してきた者が少なくないと批判している︒楊

はまた﹁魏源の生きた時代は︑歴史が発展する可能性が大いにあっ

た﹂として︑それに論及していない従前の研究の欠陥をも指摘して

いる︒つまり﹃老子本義﹄は氏の言を借りれば︑魏源が歴史の可能

性について考察した書であり︑そこには魏源思想研究を違った方向

へ発展せしめる可能性が示されており︑よって﹃老子本義﹄を考察

した本論文は今後の魏源思想研究に益するものであると自負する︒

本論において︑﹃老子本義﹄の本文は︑﹃魏源全集﹄第二冊︵岳麓 書社︑二〇〇四︑六四三│七三九頁︶︑華東師範大学出版社﹃老子本

義﹄︵二〇〇九︶に拠った︒﹃老子﹄本文の解釈については︑小川環

樹訳注﹃老子﹄︵中公文庫︑一九八二︶︑﹃王弼集校釈﹄︵中華書局︑

二〇一七︶及び陳鼓応﹃老子注釈及評介﹄︵中華書局︑二〇一六︶

を参照した︒

第一章   魏源の生涯

﹃老子本義﹄の分析の前に︑まず魏源の長子︑魏耆の﹃邵陽魏府

君事略﹄及び黄麗鏞﹃魏源年譜﹄を主な根拠として︑さらに李瑚の﹃魏

源研究﹄を参看しつつ︑魏源の生涯及び著述の次第を見ていきたい︒

︵一︶魏氏の系譜

魏源︑元の名は遠達︑字は良図︑号は黙深である︒清の乾隆

五十九年︵一七九四︶に湖南省邵陽県金潭村 で生まれ︒祖は江西省

の太和県人で︑元朝末の戦乱を避け湖南省善化県︵現在の湖南省長

沙市︶に移住した︒明の初めに︑湖南省邵陽県金潭村に居を移し︑

以後そこに定住したのである︒曾祖父大公︑字は席儒︑家は裕福で︑

常に周りの貧困者を助けていた︒祖父志順︑字は孝立︑学問を重んじ︑

周囲を助けようとする志行もあった︒嘉慶九年︵一八〇四︶︑邵陽

で大飢饉が発生した際︑孝立公は自らの財産を投げ売って︑民の代

わりに徴税を納め︑それにより家運が傾いた︒父︑邦魯︑字は鐘毓

または春熙︑医術に長け︑善行を施し︑江蘇省嘉定︑呉江などの巡

検を歴任している︒また︑かつて蘇州銭局︵造幣局︶を管掌してい

たが︑一貫して清廉潔白であったために︑若き日の林則徐︵一七八五

(4)

   麗璇

│一八五〇︶︑賀長齢︵一七八五│一八四八︶︑陶澍︵一七七九│

一八三九︶から礼遇された︒魏邦魯は四子を生んでおり︑魏源はそ

の次子にあたる︒

︵二︶青年期

魏源は幼いころから賢く学問を好み︑常に﹁寡嬉笑︑常独坐﹂を

していたので︑祖父の孝立公は彼を非常に寵愛していた︒魏源は読

書を好み︑深夜まで書にふけった︒七︑八歳の時︑家塾に入り︑九

歳で童子試を受け︑考官の問いにすぐさま答え︑彼らを驚かせてい

る︒十四歳の時に邵陽県の愛蓮書院に通い︑翌年︑県学に入学した後︑

陽明学に傾き︑さらに史書も好んだ︒十九歳の時には四大書院の一

つ︑湖南長沙の岳麓書院において︑朱子学に没頭した︒翌年︑貢生

となり︑嘉慶十九年︵一八一四︶の春︑二十一歳の魏源は父に従っ

て︑鄧顕鶴︵一七七七│一八五一︶と共に都に上ることとなる︒

さて前述したように︑魏源の祖父は学問を重んじ︑父も清廉で

あった︒その家系の影響を受けて︑魏源も勉学に勤しみ︑﹁経世済民﹂

を重視した︒湖南での生い立ちにおいて︑魏源に大きな影響を与え

たのは︑嘉慶十七年︵一八一二︶における︑岳麓書院への入学であ

る︒岳麓書院とは︑北宋開宝九年︵九七六︶に創建され︑﹃湖南通志﹄

巻六十八︵﹃中国書院史資料﹄浙江教育出版社︑一九九八︑五〇頁︶

によると﹁嶽麓書院在善化縣西嶽麓山下︒宋開寶中︑潭州守朱洞

建︑⁝乾道初︑帥臣劉拱重建︑爲四齋︑定教士額二十人︑以張

教事︒朱子自閩至︑相與講學︑手書﹃忠孝廉潔﹄四大字於堂︒⁝紹

熙中︑朱子爲潭帥︑牒委興學︑四方影從︑幾千人﹂というように湖 南省のみならず全国的な規模を持つ書院であった︒湖南の学問は朱熹︵一一三〇│一二〇〇︶と張︵一一三三│八〇︶が書院で講習

したこともあって︑朱子学が中心となった︒魏源は岳麓書院在学中︑

当時の山長袁名曜︵?│一八三五︶から重きをおかれ︑また当時の

湖南学政湯金釗︵一七七二│一八五六︶に才能を認められている︒

袁氏は朱子学を学ぶ伝統と史学︑地学などの実学の両方を重んじ︑

在任中に自ら書院にあった朱張祠の右側に︵周敦頤を祀った︶濂渓

祠を建て︑湖南の道学の源を明らかにしようとした︒袁氏の教導及

び実学や経世致用を重視する学風の薫陶を受け︑魏源は朱子学及び

陽明学に対する更なる学習に励んだのである︒岳麓書院の在学時間

はわずかに一年に満たないが︑ここで学んだことは彼の初期の学術

思想の形成に重要な影響を及ぼした︒当時︑魏源は李克鈿︵一七八五

│一八三二︶や何慶元︵一七九五│一八五〇︶と交遊し︑互いに書

信で励まし合い︑朱子学に対する意見を交わしており︑ここからも

書院で学んだ学問が魏源の青年期に大きな影響を与えたことが理解

できよう︒

︵三︶京師滞在期

嘉慶十九年︵一八一四︶︑魏源は故郷を離れ京師に上った︒途中︑

彼は黄河が氾濫し︑人々が戦禍や飢饉で苦しむ様を目の当たりにし

て﹁北上雑詩七首同鄧湘孝廉﹂の詩を詠んだ︒京師に着いた後︑

師友を訪ねて︑引き続き研鑽を積んだ︒彼は漢学を胡承珙︵一七七六

│一八三二︶︑宋学を姚学︵一七六六│一八二六︶︑公羊学を劉逢祿︵一七七六│一八二九︶より学んだ︒また董桂敷︑龔自珍︵一七九二

(5)

﹃老子本義﹄から見る魏源の﹁救世﹂思想 │一八四一︶と互いに古文を切磋している︒その間︑初の詩集で

ある﹃北道集﹄を編纂した︒嘉慶二十四年︵一八一九︶︑魏源は

二十六歳で再び京師に上り︑順天郷試の副貢生となった︒七月五日

は胡培翬︵一七八二│一八四九︶の招きに応じて︑京師万柳堂で鄭

玄を祀った行事に参加した︒

京師に滞在した折︑知己を得た学者たちは彼のその後の学問に大

きな影響をもたらした︒京師到着後︑魏源は先に陶澍ら同郷の先輩

を訪ね︑彼らの紹介で胡承珙︑姚学などの学者と知り合い︑その後︑

胡承珙について漢学を学び始めた︒胡氏は専ら﹃毛詩﹄に潜心して

おり︑著には﹃毛詩後箋﹄がある︒魏源は後に﹃詩古微﹄︵二巻本

は道光九年に編纂︑﹃魏源年譜﹄八五頁参照︶を著し︑胡氏の学説

を用いたが︑胡氏は彼に書簡を与え﹁僕讀足下之書︑不欲爲異︑亦

不敢爲同﹂︵﹁与魏默深書﹂︶と評した︒胡氏の提言の後しばらく

して魏源は自著の不完全さを悔み︑﹃詩古微﹄二巻本を二度と他人

には見せなかった ︒ここからも魏源が胡氏の意見を重視していたこ

とが分かる︒魏源は姚学にも従って︑宋儒の学を学んでおり︑彼

の﹃大学﹄古本に対する主張は姚氏の説に拠っており︑それは﹁帰

安姚先生伝﹂︵﹃魏源集﹄三五六頁︶からもうかがえる︒例えば︑道

光二年に魏源は自らの注釈を施した﹃大学﹄古本について姚氏に教

えを請いた︒姚氏はその中の得失を指摘したが︑魏源はその指摘に

納得し︑姚氏に弟子の礼を執ろうとした︒実際に姚氏は魏源からの

弟子の礼は受けていないが︑この挿話からも︑魏源が姚氏を師とみ

なしていたことがわかる︒ 京師での研究について︑彼が﹃公羊﹄を劉逢禄から学んだことは看過できない︒劉氏の学は︑家学の常州学派に属しており︑それは彼の外祖︑荘存與︵一七一九│八八︶とおじの荘述祖︵一七五〇│一八一六︶から伝えられた︒劉氏はもっぱら後漢の何休の説に傾注し︑何休の体例を明らかにした︒魏源は董仲舒を尊崇しており︑劉氏と研究の方向性は一致していなかったが︑今文経学から微言大義の影響を大いに受けたといえよう︒例えば﹃公羊﹄の﹁三世説﹂︑﹁三

統説﹂は︑いずれも後の魏源の歴史観と経世観に影響を与えている

︵賀︑二〇〇五︶︒魏源の名が世に知られたのも劉氏のおかげであり︑

それは道光六年︵一八二六︶の春︑魏源が龔自珍と共に会試に及第

せず︑そのため︑師の劉逢祿は﹁両生行﹂という詩を詠み悲嘆する︒

この詠詩をきっかけに彼らは﹁龔・魏﹂と連名して呼ばれ︑それが

今に至っても広く称されている︒京師にいる期間︑魏源は陳沆と生

涯の知己となり︑董桂敷︑龔自珍らと古文を切磋しており︑これら

の師友からも少なからずの影響を受け︑長年の交友関係を保ってい

る︒︵四︶幕僚時期

嘉慶二十四年︵一八一九︶魏源は山西提督学政賀長齢の幕下に入っ

た︒翌年の嘉慶二十五年︵一八二〇︶︑彼は母に仕え長江を東に下り︑

父のいる江蘇の任所に赴き︑舟の中で﹃老子本義﹄の序を作ったの

である︵﹃老子本義﹄の成書時期については後述︶︒

道光元年︵一八二一︶︑二十八歳の魏源は三回目の上京をし︑再

び副貢生となり︑翌年︑順天郷試においては第二位で及第した︒道

(6)

   麗璇

光五年︵一八二五︶︑魏源は江蘇省の承宣布政使となった賀長齢の

依頼を受け︑清朝中期以前の学者や官僚の﹁経世致用﹂に係る文を

萃めた﹃皇朝経世文編﹄を編集した︒道光八年︵一八二八︶︑杭州

での遊学から都に戻り︑捐納して内閣中書舎人となり︑史館秘閣の

官書を借りて︑後に﹃聖武記﹄などを作成するための史料を収集し

た︒道光十一年︵一八三一︶父邦魯は病に倒れ︑魏源は休暇を乞い

て南に戻ったが︑七月に父病没し︑魏源は喪に服し︑その間︑父の

埋葬地を選定するために堪輿の術を潜心している︒そして道光十三

年︵一八三三︶まで︑陶澍の幕下において﹁塩票法﹂の試行に参与

した︒道光二十年︵一八四〇︶︑アヘン戦争が勃発すると︑英国人

捕虜の尋問を記録し︑他の資料を加えて︑﹁英吉利小記﹂を著した︒

道光二十一年︵一八四一︶魏源は︑左遷された前両広総督林則徐

と鎮江で会談し︑﹃四洲志﹄の手稿を得︑そして︑翌年﹃海国図志﹄

五十巻及び﹃聖武記﹄十四巻を完成させたのである︒

魏源の一生を振り返ると︑科挙に及第していなかった時期︑彼は

幕僚として生活を送っている︒この経験により︑林則徐や包世臣な

ど多くの学者や官僚と交流して時政を検討することができたとも言

えるだろう︒

魏源は相い前後して賀長齢および陶澍の幕僚として︑経世致用に

力を尽くした︒陶澍が安徽省から江蘇省巡撫を転任した際︑魏源と

は文章や経世について往来が親密となり︑また陶澍は海運︑水利な

ど重大な政策について︑すべてを魏源より意見を求めた︒﹃皇朝経

世文編﹄の編集をきっかけに︑彼の経世思想は確立し始めたのであ る︒その後︑漕運︑塩務︑水利の改革に参与し︑また︑実地に山川や民情を調査することにより自らの視野を広げた︒アヘン戦争の後︑

英国の侵略を目撃し︑海外の事情にも早くから注目したため︑自ら

捕虜を尋問して﹁英吉利小記﹂を作成した︒後に︑林則徐から送ら

れた﹁四洲志﹂を得て︑それに基づいて︑さらに数多くの史志を引

用して︑有名な﹃海国図志﹄を完成したのであった︒彼は各国の歴

史地理を紹介することで︑人々の世界に対する視野を広げようとし

ていた︒そして﹃海編﹄においては︑﹁夷の長技を師として夷を

制す﹂の思想を明らかにして︑国の変化や復興への思いを表明して

いる︒︵五︶地方官から隠棲︑そして死去まで

道光二十四年︵一八四四︶︑五十一歳の魏源は生計が成り立たな

いため京師に上り︑科挙を受験し︑礼部会試十九名に及第した︒た

だ考巻の文字が整っていなかったため︑同年の殿試の受験を止めら

れ︑翌年の殿試を経て︑乙巳恩科三甲九十三名進士として及第し︑

知州として江蘇省に配属された︒道光二十六年︵一八四六︶夏︑母

の喪に服し︑官を辞した︒五十四歳の時︑香港とマカオを遊覧して︑

そこで収集した資料は揚州に戻った後︑﹃海国図志﹄を六十卷に増

補する際に使われ︑それは揚州において刊行された︒道光二十九年

︵一八四九︶六月︑揚州興化県の県令に就任し︑自ら豪雨の中で治

水に励み︑堤防も建てている︒それにより︑当地の人々からは敬愛

された︒咸豊元年︵一八五一︶︑高郵州に在任中︑太平天国の乱が

起り︑二年後揚州が攻略され︑彼は団練の結成を首唱して︑自ら巡

(7)

﹃老子本義﹄から見る魏源の﹁救世﹂思想 察を行なった︒咸豊三年︵一八五三︶三月︑河南省総督の楊以增からの糾弾により罷免されたが︑後に命令を受けて安徽に赴き捻軍を鎮圧したために︑十一月︑勅令により復職したが︑最終的には﹁無心仕宦﹂の境地に至り︑官界から身を引くことになった︒

咸豊四年︵一八五四︶︑六十一歳の魏源は興華に居留し︑これま

での著述を編集・改訂する︒また﹁菩薩戒弟子魏承貫﹂を自称し︑

浄土宗を専ら信仰した︒そして﹃無量寿経﹄の訳文には欠陥がある

と考え︑五種の訳本によって新訳を撰し︑さらに﹃無量寿経﹄﹃観

無量寿仏経﹄﹃阿弥陀経﹄﹃普賢行願品﹄を﹃浄土四経﹄として編集

した︒また﹃詩古微﹄を増補し︑翌年﹃書古微﹄も作成したのであ

る︒そして咸豊七年︵一八五七︶三月一日︑杭州の僧舎において︑

六十四歳で死去した︒西湖を愛したため︑遺体は杭州・南屏山の方

家峪に葬られた

第二章  魏源『老子本義』の成書時期について

次章で本文の内容を分析する前に︑本章では﹃老子本義﹄を考察

するにあたって最も大きな問題である︑本書の成書時期について言

及しなければならない︒以下既存の成書時期の問題についての各観

点を整理し︑いずれが妥当かを検討していく︒

さて﹃老子本義﹄の構成は︑序︑﹁論老子﹂︑﹃史記﹄老子列伝︑﹃老

子本義﹄上・下二篇全六十八章︑付録︑跋︑識語から成る︒﹃老子本義﹄

の完成年代を巡っての論争は種々の説が提起されており︑ここで筆

者は︑夏剣欽・熊焔﹃魏源研究著作述要﹄︵岳麓書社︑二〇〇九︶に拠っ て諸説の得失を論じてみたい︒﹃老子本義﹄は魏源の生前に刻本がなく︑現存する最古の刻本は

光緒年間出版された﹃漸西村舎叢刊﹄であり︑書中には桐廬袁昶の

題辞と跋文があるが︑現行本に附されている﹁識語﹂は見当たらな

い︒また袁氏の跋文に﹁庚子四月﹂を明記されているものの︑著作

の時期に関する記述は一つも見えないことが指摘できる︒﹃老子本

義﹄の成書年代については︑従前︑以下の三説が諸家によって提起

されている︒

① 『老子本義』は道光二十年(一八四〇)以後、即ち魏源の中年時

期の著作である

王家儉は﹃魏源年譜﹄︵一九六七︶の中で︑﹃老子本義﹄を魏源

四十七歳の著作であると指摘しているが︑根拠として袁氏跋文中

の﹁庚子﹂の語を挙げ︑それを道光二十年︵一八四〇︶のことと

推定している︒許冠三も﹁龔魏之歴史哲学与変法思想﹂︵﹃中華文史

論叢﹄一九八〇年第一輯︶や﹁関於老子本義成書年代問題﹂︵同上︑

一九八二年第四輯︶において︑﹃老子本義﹄を﹁論老子﹂四篇︑﹃本

義﹄上下編を分けたうえで︑﹃本義﹄本体の成書時期を同じく道光

二十年︵一八四〇︶と主張している︒

②『老子本義』は嘉慶二十五年(一八二〇)以前、青年期の作である。

李瑚は﹃魏源詩文系年﹄において︑﹃湖南文徴﹄八十巻所引の﹃本義﹄

序﹁嘉慶二十五年奉母東下録於舟中﹂を引用し︑﹃本義﹄がその時

期に作られたと考えている︒黄麗鏞は︑許冠三の﹁道光二十年﹂説

に対し︑袁氏跋文中の﹁庚子﹂は道光二十年ではなく︑六十年後の

(8)

   麗璇

光緒二十六年︵一九〇〇︶年であるとして︑その説を否定している

が︵﹁魏源﹃老子本義﹄成書年代問題﹂︑﹃中華文史論叢﹄一九八〇

年第四輯︑二八一頁︶︑理由として︑もし道光二十年だとすれば︑

袁氏はまだ出生しておらず︑跋文を記すのは不可能という点を挙げ

ている︒そして後に﹃魏源年譜﹄において︑李瑚と同様︑﹃湖南文徴﹄

の記述を引用して︑青年期成書説を主張している︒

③『老子本義』の上下編及び序は嘉慶二十五年(一八二〇)前後、

青年期の作。「論老子」は道光二十五年から二十九年(一八四五

─四九)前後の中年期の作。

本説は賀広如によって提起されたものであるが︑筆者もその妥

当性を大いに首肯する︑賀氏は﹃魏默深思想探究│以傳統經典的

詮説爲討論中心﹄︵台大出版委員会︑一九九九︶において︑﹃本義﹄

をその上下編︑序︑﹁論老子﹂の四篇を分けて︑上下編と序は嘉慶

二十五年前後︑﹁論老子﹂四篇は道光二十五年から二十九年の間に

成ったと結論付けているが︑その根拠は以下のとおりである︒賀

氏は魏源の序を多く収録している﹃湖南文徴﹄を版本学的見地から

信頼できるものと判断し︑②の李︑黄説と同じく︑﹃老子本義﹄の

上下編及び序を嘉慶二十五年︵一八二〇︶前後とした︒また賀氏は

上下編・序の文体が朱子学の用語を多用していることから︑魏源が

朱子学に専念していた青年期の作であると重ねて主張している︒し

かし﹁論老子﹂四篇について︑上下篇・序とは特に儒家と老学の区

分けに関して相違していると主張して︑上下篇・序が先︑﹁論老子﹂

四篇が後に成ったとした︒さらに賀氏は︑著書は通常︑本文︑序の 順で著されることから︑﹃本義﹄の成書の順序を上下編が最初︑次

に序︑そして最後に﹁論老子﹂四篇が成ったと結論付けている︒

以上が賀氏の説の大体であるが︑筆者は序および﹁上下編﹂の成

書の前後順については︑賀氏の主張に与せず︑序︑﹁上下篇﹂の順

で著されたものと考える︒その理由としては︑

1.魏源は序で﹁言有宗︑事有君﹂と記し︑それをこの文の主旨と

みなしている︒この一句は﹃本義﹄の主旨というべき第一章に

も見えており︑序︑第一章と連続して且つ繰り返し記すことで︑

読む者にそれが重要であることを示している︒ちなみに序及び

本章以外に本句は見えないが︑逆に﹁言有宗︑事有君﹂の重要

性が看取できるだろう︒さて﹁上下編﹂第五十九章の本文に﹁言

有宗︑事有君﹂が見えるが︑魏源は注中で﹁言之宗︑事之君﹂

と記し︑また中年期に書かれた﹁論老子﹂四篇中でも︑﹁言之宗︑

事之君﹂と記している︵﹁論老子﹂一︶︒もし賀氏の説くように

序が本文の後に成ったならば︑序には﹁論老子﹂と同じ﹁言之

宗︑事之君﹂と記述されているはずで︑実際と相違していると

ころからも︑やはり序︑本文の順序であったとしたほうが妥当

と思われる︒

2.魏源は︑序文中﹃老子﹄の章句について﹃開元御注﹄を取るべ

き所があると評したが︑﹁上下編﹂では﹃開元御注﹄をほとん

ど引用していない︒そして﹁上下編﹂で呉澄注を何度も援引し

ているが︑序では逆にそれに言及していない︒魏源は﹁四論﹂

において﹃開元御注﹄を﹁贅文臆加︵余分な文章を憶測で加え

(9)

﹃老子本義﹄から見る魏源の﹁救世﹂思想 た︶﹂と批判しており︑賀氏もそれを指摘している︵﹃魏黙深思

想探究﹄六七頁︶︒しかし賀氏が説く﹁本文は前︑序は後﹂の

通りであれば︑最初に作成された﹁上下編﹂において﹃開元御

注﹄に論及しなかったのにもかかわらず︑序では肯定的︑その

後﹁四論﹂では逆に否定という突飛な論展開となる︒そこで筆

者は︑魏源が序文作成時において﹃開元御注﹄を評価した後︑﹁上

下編﹂作成時にその欠点に気付いて︑最後に成った﹁四論﹂で

さらに批判したと見るのが妥当だとおもわれる︒

したがって︑筆者は﹁成書在前︑作序在後﹂という見方に与せず︑﹁作

序在前︑成書在後﹂︑序が先︑本文が後に成ったと結論付けたい︒

第三章 『老子本義』第五十八章、第六十一章に見える魏源の前半

生期の思想

魏源は︑乾嘉時期を代表する﹁餖飣﹂いわゆる考証学を好まなかっ

たため︑彼は当時の学問の傾向とは違った観点で︑﹃老子﹄を解釈

していた︒筆者が本稿で﹃老子本義﹄が重要であると考えたのは︑

この書が魏源所説の老子﹁救世﹂思想を体現していると考察したた

めであり︑以下その根拠を明らかにしたいと考えている︒そこで本

章では︑﹃老子本義﹄上下篇を解析するにあたって︑﹁救﹂や﹁救世﹂

をキーワードとして︑全六十八章から下編の第五十八章︑第六十一

章を選び︑以下それらを詳細に検討し︑分析を行っていきたい︒

さて本論中の﹃老子﹄通行本は︑﹃老子﹄のテキストとして通常

用いられる魏・王弼注本を用いる︒しかし王弼本が上編三十七章︑ 下編四十四章の八十一章となっているのに対し︑﹃老子本義﹄は︑

元の呉澄﹃道徳真経注﹄の章立て︑上編三十二章︑下編三十六章︑

に倣っている︒ただ呉澄﹃道徳真経注﹄は四巻本であるのに対して︑

﹃老子本義﹄は上下二巻となっている︒また﹃老子本義﹄の体例に

ついてだが︑各章は︑本文と注釈に分かれ︑注釈はさらに歴代注釈

の引用︑魏源の案語︵見解︶より構成されている︵ただしその順序

は章によって異なっている︶︒なお本論では︑﹃老子本義﹄と王弼注

本の章数を各々表示して︑読解の便を図った︒

︵一︶第五十八章﹁老子書を著して︑道を明らかにして時を救う﹂

に対する魏源の解釈

本章は通行本第六十七︑六十八︑六十九の計三章に対応している

︵冒頭から﹁以慈衛之﹂までは第六十七章︑﹁是謂配天古之極﹂まで

は第六十八章︑残りの部分は第六十九章に相当する︶︒河上公本も

通行本と同じく本章を三つに分けているが︑魏源がそれに従わず︑

呉澄︑姚鼐説に従って章を一つとしている︒

吾有三寶︑持而寶之︒一曰慈︑二曰儉︑三曰不敢爲天下先︒慈︑

故能勇︒儉︑故能廣︒不敢爲天下先︑故能成器長︒今舍慈且勇︑

舍其儉且廣︑舍其後且先︑死矣︒夫慈︑以戰則勝︑以守則固︒

天將救之︑以慈衛之︒善爲士者不武︑善戰者不怒︑善勝敵者不

與︑善用人者爲之下︒是謂不爭之德︑是謂用人之力︑是謂配天

古之極︒用兵有言︑﹁吾不敢爲主而爲客︑不敢進寸而退尺﹂︒是

謂行無行︑攘無臂︑執無兵︑無敵︒禍莫大于無敵︑無敵幾亡

吾寶︒故抗兵相加︑哀者勝矣︒

(10)

   麗璇一〇 ︵吾に三宝有り︑持して之を宝とす︒一に曰わく慈︑二に曰わ

く倹︑三に曰わく敢えて天下の先と為らずと︒慈なるが故に能

く勇なり︑倹なるが故に能く広し︒敢えて天下の先と為らず︑

故に能く器の長を成す︒今慈を舎てて且に勇ならんとし︑倹を

舎てて且に広からんとし︑後まるを舎てて且に先ならんとする

は︑死せん︒夫れ慈は︑以て戦えば則ち勝ち︑以て守れば則ち

固し︒天将に之を救わんとす︑慈を以て之を衛る︒善く士為る

者は武ならず︑善く戦う者は怒らず︒善く敵に勝つ者は与せず︒

善く人を用うる者は之が下と為る︒是れを不争の徳と謂い︑是

れを人の力を用うと謂い︑是れを天古の極に配すと謂う︒兵を

用うるに言えること有り︑﹁吾敢て主と為らず而うして客と為

る︒敢て寸を進まず而うして尺を退く﹂と︒是れ︑行くに行無

く︑攘うに臂無く︑くに敵無く︑執るに兵無しと謂う︒禍は

敵を無くすより大なるは莫し︒敵を無くすれば︑幾ど吾が宝を

亡わん︒故に兵を抗げて相加うれば︑哀しむ者勝つ︒︶

【魏源案語】

魏源は︑この章において﹁徳﹂の用が﹁三宝﹂にあることを明ら

かにしている︒彼は言う︑道の本質は﹁虚無﹂であり︑それが運行

して﹁徳﹂となり︑慈・節・謙・退は﹁徳﹂の用となる︒もし﹁徳﹂

が万物の母とすれば︑慈愛は善の首長ともいえ︑そして﹁與慈相反

者莫如兵﹂︑慈に反する最も不善なものは兵︑すなわち戦争である︒

老子は天下が皆な堅強であることを求めている実態を見て︑その著

﹃老子﹄で﹁道﹂を解明し︑それによって天下が慈︑倹︑謙︑退に 返り時弊を救うことができると考えた︒しかし︑実際︑天下はただ堅強であることを求め︑先頭に立つ︑そして勇を求めることだけを思い︑﹁則天下必以爲不適于用﹂つまり慈︑倹︑謙︑退は用に適さ

ないと見做している︒だからこそ︑老子は最も不善なる戦争を例に

挙げて慈の使い道を説き︑それが万能であることを明らかにした︒

そうすれば︑たとえ戦いの攻守においても︑敗れることがなく堅固

を保つことが可となる︒そもそも﹁慈﹂とは﹁倹﹂でありまた先頭

に立つことはない︑なぜなら︑慈であればすなわち倹︵全力を出し

切って奮闘しないこと︶であり︑先頭に立つことがないからである︒

これは兵家︵﹃孫子﹄形篇︶の﹁後退を以て前進と為し︑弱を以て

強とする﹂戦法と同様で︑慈愛が有用であることを示している︒し

かし魏源は︑老子が以上のように主張するのは勝利するための戦術

を示しているのではないと説く︒なぜなら︑﹁慈と相い反するは兵

に如く莫し﹂だからである︒続いて﹃老子﹄において﹁禍は敵を無

くすより大なるは莫し︒敵を無くすれば︑幾ど吾が宝を亡わん﹂と

説かれており︑魏源は三宝を順位付けし︑慈は最初であり︑その慈

から生みだされたのは哀︵筆者が思うに︑これは戦争の災禍に対

する憐憫と悲痛を意味する︶と定義している︒﹁佳兵者不祥﹂ とは︑

慈しみがない対峙が即ち佳兵︵戦争︶であり︑それは不祥であるこ

とを意味し︑よって両軍が対峙する際︑哀がある方が天の守りを得

て必ず勝利を収める︒魏源がかくのごとく老子の意図を代弁してい

る理由は︑諸注が﹃老子﹄の意味するところを理解していないと考

えたからである︒本章について︑従前の解釈では︑老子が兵法を語っ

(11)

﹃老子本義﹄から見る魏源の﹁救世﹂思想一一 たものだと誤解されてきたが ︑魏源は︑老子が戦争を最も不善なも

のと考え︑ひいては魏源自身も老子と同じく戦争に反対しているこ

とが理解できる

続いて魏源は第六十七章︑第六十八章︑第六十九章を一章として

いる理由を説明している︒つまり三章を一つにしたのは︑第六十七

章文頭の﹁吾に三宝あり﹂と第六十九章文末の﹁幾んど吾が宝を亡

わん﹂とを呼応させ︑人々が﹁宝﹂を失わないように喚起し︑併せ

て老子のその主張をより明確化しようとしたためである︒魏源はさ

らに︑老子は本章で﹁道﹂を明らかにし︑かつ﹁慈﹂によって世を

弊害から救い︑かつそれが有用であることを証するために︑兵︑す

なわち戦争について論及したものの︑結局それを否定したのは︑戦

争がやはり不善だからである︑と説く︒王弼︑河上公ら従前の注釈

では︑本章を三章に分けて︑﹁三宝﹂﹁不争﹂﹁反戦﹂を別個に解釈

しているが︑魏源は本文を数章に分けると老子の意図がかえって不

明になるとして王弼らの説を否定し︑さらに﹁而昧者遂至以老子爲

談兵之書︑其失甚矣﹂︑すなわち﹃老子﹄を兵法書であると盲信し

ている者は無知で︑老子の意思に大きく反しているとも批判した︒

さらに魏源は案語において﹃老子﹄本文中に見える﹁無敵﹂の

真意を説明する︒彼は︑﹁﹂とは強く牽制することとした上で︑

そもそも﹁戦﹂とは死に物狂いで敵からの攻撃を防ぐことである

から︑それゆえ﹃老子﹄本文中にあるように行︵戦のための行列︶︑

攘臂︵戦のための腕まくり︶︑執兵︵戦のために武器を執ること︶

などが実行されると説いた︒もし我々が﹁無敵﹂︑すなわち敵を 牽制することが不要になるまで圧倒的に強くなれば︵つまり同等

の力を持った敵が存在しなければ牽制する必要がないため︶︑行列︑

攘臂︑執兵も不要であり︑いわゆる﹁行無行︑攘無臂︑執無兵﹂と

なる︒老子がここで説いた﹁用兵有言﹂は揚雄﹃法言﹄君子篇の﹁後

を先と為し︑退くを進むと為す﹂術であって︑これに従えば︑結果

的に無敵となる︒しかし︑この無敵であることは︑実際には老子の

良しとする所ではなく︑天下に敵が存在しなくなるとは︑戦を重ね

て敵を殺した結果であり︑これほどの大きな災いは無い︒そもそも

魏源は︑戦争が行われれば︑寝返りや血が河のように流れ出る戦い

が必ずや行われるとしてそれ自体を否定している︒そのため︑たと

え不正義であれば挙兵せず︑﹁順﹂すなわち大義が無ければ民を動

かさない﹁︵儒教においては道徳者である︶王者の師﹂であっても︑

実際には挙兵して戦っており︑︵儒教における︶君子もそれに対し

て無言を貫いて戦いを結果的に肯定している︒つまり君子の沈黙は︑

結局老子の説く﹁幾んど吾が宝を亡わん﹂と同様であると指摘した

のであった ︒よって用兵は最終的手段としてやむを得ず用いなけれ

ばならないもので︑我々はまるで葬儀に出るような﹁哀の至り﹂﹁不

祥﹂として戦争を見なければならない︒そのような﹁哀﹂の感情を

抱いてこそ勝利を勝ち取ることが可能で︑たとえ武力で勝利を得て

も人々に喜びをもたらさないのである︒すなわち﹁慈則戰勝而守固︑

天將救之︑以慈衛之﹂であると論を結んでいる︒他注は︑﹃老子﹄

本文を﹁禍は敵を軽るより大なるは莫く︑敵を軽れば幾んど吾が宝

を亡わん﹂としているが︑魏源は﹁敵を侮れば必ず敗れ︑その身も

(12)

   麗璇一二

存在しえない︑それは単に宝を失うことだけであろうか﹂として︑﹁こ

れらは孫子︑呉子の戦勝術であり︑どうして太上の慈・哀の教えと

言うことができようか﹂と彼の説を批判している︒

本章で︑魏源は老子の著述の目的︑すなわち﹁道﹂を明らかにし

て世を救うことに言及したほか︑﹁治世の人﹂が慈愛を持ち︑﹁倹﹂﹁謙﹂

であってこそ︑その弊害から救いだせると説く︒また天下がみな堅

強を求めると﹁末世﹂を迎えてしまうので︑慈愛を保つことでそこ

ではじめて世を救えるとした︒魏源は本章で老子の本意を明らかに

したうえで︑兵家の制勝術を﹁何ぞ太上の慈︑哀の教を語ぐるに足

らんや﹂として否定し︑ここからも彼の戦争に対する嫌悪と軽視の

様が明らかとなろう︒

︵二︶第六十一章﹁此れ老子の時を憫れみ世を救うの心なり﹂に対

する魏源の解釈

この章は通行本第七十三︑七十四章を併せたもので︵冒頭から﹁天

網恢恢︑疏而不失﹂までは第七十三章︑そして﹁民不畏死﹂までは

第七十四章︶︑魏源はここに呉澄の立章 に従うと述べた︒この章は﹃老

子﹄の原文︑引用及び案語から成っている︒

勇于敢則殺︑勇于不敢則活︑此兩者或利或害︒天之所惡︑孰知

其故︒是以聖人猶難之︒天之道︑不爭而善勝︑不言而善應︑不

召而自來︑然而善謀︒天網恢恢︑疏而不失︒民不畏死︑奈何

以死懼之︒若使民常畏死︑而爲奇者︑吾得執而殺之︑孰敢︒常

有司殺者殺︒而代司殺者殺︑是代大匠斫者︒夫代大匠斫者︑希

不傷其手矣︒ ︵敢てするに勇なれば則ち殺さる︒敢てせざるに勇なれば則ち

活く︒此の両つの者は︑或は利あり或は害あり︒天の悪む所︑

孰か其の故を知らん︒是を以て聖人すら猶お之を難しとす︒天

の道は︑争わずして而も善く勝ち︑言わずして而も善く応ず︒

召かずして而も自ら来たり︑然として而も善く謀る︒天網恢

恢たり︑疎にして而も失わず︒民死を畏れざれば︑奈可んぞ死

を以て之を懼れしめんや︒若し民をして常に死を畏れしめ︑而

うして奇しきを為す者は︑吾執えて而うして之を殺すことを得

ば︑孰か敢てせん︒常に殺を司る者有りて殺す︒夫れ殺を司る

者に代わって殺す︑是れを大匠に代わってると謂う︒夫れ大

匠に代わってる者は︑其の手を傷つけざること希なり︒︶

所引の注釈の中で注視すべき二説を以下紹介する︒

①  明末清初・張爾岐︵一六一二│七八︶は﹁此爲當時廢法任情者

警也﹂として︑法が廃れ情の赴くままとなった政情に対する警

告とみている︒

②  北宋・蘇轍︵一〇三九│一一一二︶の解釈︑天網は恢々として

広大であるが︑民は部分的に見るのみで︑それが﹁疏にして漏

らさない﹂のに気づかないため︑結果僥倖︵偶然なる幸運︶を

望むばかりである︒︵中略︶死刑を掌る者︵聖人︶に代わり人

を殺害する者は必ずその身を傷う︒

【魏源案語】

魏源は案語で﹁此老子憫時救世之心也﹂と述べたが︑これは老子

が慈を持っているがために︑世の﹁勇于用刑﹂である現状を憫み︑

(13)

﹃老子本義﹄から見る魏源の﹁救世﹂思想一三 ﹁道﹂に拠って世を救うため︑﹁勇﹂に対して慎重でなければならな

いという意である︒

そもそも﹁勇﹂には二種類あり︑一つは勇敢に殺︵死刑︶を敢行

することと︑もう一つは勇敢に殺︵刑︶を執行しないことである︒

﹁勇于敢則殺︑不勇于敢則活﹂とは︑死罪を執行すれば必ず︵他者を︶

殺し︑敢えて刑を執行しなければその者を生かすこととなる︒この

二者は一方が利︑他方が害であり︑為政者は慎重に処さなければい

けない︒そもそも天意は玄妙であり︑たとえ聖人であっても刑に処

する時は戦々恐々とし︑決して安易に執行してはならない︒なぜな

ら︑天と地は万物を生み出しているが︑それは父母がたくさんの子

を産むようなもので︑その本心ではたくさんの子を殺すことを望ん

でいないためである︒その子︑すなわち民が敢えて自ら死地に赴く

行動をし︑父母︑すなわち天地がその行いを許容できない事態に陥っ

て後︑ようやく彼らを死刑に処するのである︒これこそ﹁天網は広

大でしかも漏れず﹂ということであり︑処刑を代行する人は不要な

のである︒しかし﹁則雖極好生之德︑而未嘗失有罪之誅﹂︑聖人は﹁生

の徳﹂を極めて好むとはいえ︑決して罪人を死刑に処することを放

棄してはいない︒何となれば則ち最も重い罪を犯した者一人が処刑

されることによって︑民は恐れおののき必然的に敢えて罪を犯さな

くなるからである︒たとえば上古の時︑舜が四柱の悪神である共工︑

驩兜︑鯀︑三苗を処罰した後︑天下が自然と彼に付き従い︑結果︑

聖人は自らの意思で刑罰を敢行せず︑民もまた敢えて罪を犯さなく

なったことが例として挙げられよう︒ さて天を奉ずる者は天の命に従い︑天に逆らう者は権力を独占しようとする︒もし為政者が自らの意思で勇ましく殺︵死刑︶を執行した場合︑自らは天と同じ意志を持っていると思い込み︑思慮なくかつ毅然として行っている︒もし﹁聖人﹂を自認する者が天意に従わず︑権力を独占して︑﹃老子﹄の説く﹁察察﹂とした網を天下に

張り巡らそうとすると︑政治が煩雑となり︑結局︑刑罰は重くなっ

て﹁法網愈密︑掛網愈衆﹂に陥ってしまう︒民はといえば刑罰に対

して自然と鈍感になって︑なんと死刑をも恐れなくなり︑それを魏

源は﹁我敢えてする者︑人も敢えて之をするなり﹂と指摘する︒こ

の状況が続けば︑この世は﹁末世﹂に至ってしまう︒よって魏源は︑

為政者が死刑に執行する場合︑﹁敢﹂と﹁不敢﹂について︑最後の

最後まで慎重に判断しなければならないと主張した︒

魏源は︑本章で老子は第五十八章所出の﹁三宝﹂を最も重要なも

のと改めて規定し︑特にその中の﹁慈﹂の精神で世の中を哀れむこ

とにより︑逆に世の人々を告戒していると説いている︒すなわち敢

えて行わないことに積極的で︑独善的に権力を占有しない︑また事

に慎重で天意に順応するならば︑下にいる民は命を大切にして妄動

することをしない︒これは魏源が老子の説に拠って刑罰の執行は慎

重でなければならないと天下に訴えたものだともいえよう︒

第五十八章において︑魏源は︑老子が戦争に反対し嫌悪していた

と紙幅を費やして論じており︑例えば極端な例を挙げると︑兵︑す

なわち戦に勝利するためには慈も必要だと主張している︒魏源は第

六十一章を老子が世に発した警告としているが︑それは魏源自らが

(14)

   麗璇一四

当時の﹁勇於用刑﹂という風潮へ警告を発したものとも考えられる︒

以上二章中において魏源の戦争や刑罰に対する嫌悪感が明らかにさ

れているが︑それはどのような理由によるものだろうか︒ここで彼

の生涯をふり返って再検討してみよう︒

第一章で既に述べた魏源の事績を再び読み返してみても︑﹃老子

本義﹄の上下編を完成した嘉慶二十五年まで︑魏源の生活はひたす

ら学問に専心しているのみで︑戦争に関する主張は見当たらない︒

しかし︑﹃年譜﹄二十一歳時の記事および当時詠まれた詩﹁北上雑

詩七首同鄧湘皋孝廉﹂には︑その画期となる陰惨な経験が記されて

いるので︑以下考察してみる︒

嘉慶十九年︵一八一四︶冬︑魏源一行は京師に上るために黄河を

渡った︒平和かつ富裕な故郷湖南省とは違い︑彼がここで目にした

のは悲惨な光景︑特に河南省滑県等の地域では﹁天理教徒の乱﹂の

戦火により土地が荒廃していた︒黄麗鏞﹃魏源年譜﹄は︑﹁途中見

黄河失修︑兵禍饉︑魏源有感而賦北上雑詩七首同鄧湘孝廉︵途中︑

魏源は︑黄河が補修されず︑民が戦さや飢饉で苦しむ様を目の当た

りにして︑﹁北上雑詩七首同鄧湘孝廉﹂の詩を詠んだ︶﹂と考証し

ている︒ちなみに天理教とは︑一八〇四年︑仏教系民間宗教の一派

である白蓮教徒が起こした乱が︑郷勇によって鎮圧された後︑生き

残った信者の手により再興されたものであり︑当時においてなおも

一定の勢力を保っていた︒そして魏源が京師に上る前年の一八一三

年︑指導者の李文成と林清は反乱を計画︑李文成が山東省で挙兵︑

林清は紫禁城中の宦官らと結託し︑二百名の兵を城内に侵入させた︒ 反乱は結局鎮圧されたが︑清朝の心臓部である紫禁城に反乱軍が侵入したことは前代未聞の事件であった︒その際教徒︑兵士のみならず︑多くの民衆も殺され︑飢饉も発生し︑黄河の水利が長年不備であったことも相まって︑生き残った民衆も飢えに苦しんでいた︒この惨状はまさしく老子が説く﹁勇於敢則殺﹂の如きものであった︒

さて魏源が詠んだ﹁北上雑詩七首同鄧湘孝廉﹂七首の内︑前四

首は﹁足不九州莅︑寧免井蛙愚﹂などのように︑上京途中に目にし

た風景︑また自らの未来に対する興奮や希望が満ち溢れている︒し

かし︑残りの三首においては様相が一変し︑﹁滑臺阻運河︑距衛百

裏圻︒去歲大兵後︑大薐今苦饑﹂など︑当時魏源が目にした地方の

悲惨な光景が詠まれている︒また︑﹁明知麥花毒︑急那擇其他︒食

鴆止渴饑︑僵者如亂麻﹂では︑自らの飢えを癒すために︑有毒の麦

の花にも敢えて手を出す当地の人々の窮状が詠われおり︑ここから

魏源が受けた衝撃のほどが理解できよう︒そして︑﹁勿食蕎麥花︑

復作坑中人﹂︑農民に自らの命を守ることを促し︑続けて﹁借問釀

寇由︑色硬不敢唏﹂として︑彼は農民にこの戦の原因を尋ねたが︑

農民は表情を硬くして答えようとしなかったと記している︒今まで

ひたすら聖賢の書を学んでいた魏源はここで初めて世の現実の厳し

さに覚醒した︒それについて李瑚氏は﹁魏源は支配者と被支配者間

の矛盾に漸く気づき始めた﹂と指摘する︵李瑚﹃魏源研究﹄朝華出

版社︑二〇〇二︑一〇四頁︶︒

これはまさに当時︑世の中が﹁勇於用刑﹂であったからこそ︑人々

は死をも恐れず︑挙兵したといえよう︒つまり当時の政治体制に慈

(15)

﹃老子本義﹄から見る魏源の﹁救世﹂思想一五 当時の﹁勇於用刑﹂という風潮へ警告を発したものとも考えられる︒

以上二章中において魏源の戦争や刑罰に対する嫌悪感が明らかにさ

れているが︑それはどのような理由によるものだろうか︒ここで彼

の生涯をふり返って再検討してみよう︒

第一章で既に述べた魏源の事績を再び読み返してみても︑﹃老子

本義﹄の上下編を完成した嘉慶二十五年まで︑魏源の生活はひたす

ら学問に専心しているのみで︑戦争に関する主張は見当たらない︒

しかし︑﹃年譜﹄二十一歳時の記事および当時詠まれた詩﹁北上雑

詩七首同鄧湘皋孝廉﹂には︑その画期となる陰惨な経験が記されて

いるので︑以下考察してみる︒

嘉慶十九年︵一八一四︶冬︑魏源一行は京師に上るために黄河を

渡った︒平和かつ富裕な故郷湖南省とは違い︑彼がここで目にした

のは悲惨な光景︑特に河南省滑県等の地域では﹁天理教徒の乱﹂の

戦火により土地が荒廃していた︒黄麗鏞﹃魏源年譜﹄は︑﹁途中見

黄河失修︑兵禍饉︑魏源有感而賦北上雑詩七首同鄧湘孝廉︵途中︑

魏源は︑黄河が補修されず︑民が戦さや飢饉で苦しむ様を目の当た

りにして︑﹁北上雑詩七首同鄧湘孝廉﹂の詩を詠んだ︶﹂と考証し

ている︒ちなみに天理教とは︑一八〇四年︑仏教系民間宗教の一派

である白蓮教徒が起こした乱が︑郷勇によって鎮圧された後︑生き

残った信者の手により再興されたものであり︑当時においてなおも

一定の勢力を保っていた︒そして魏源が京師に上る前年の一八一三

年︑指導者の李文成と林清は反乱を計画︑李文成が山東省で挙兵︑

林清は紫禁城中の宦官らと結託し︑二百名の兵を城内に侵入させた︒

愛が無く︑民衆を哀れまなかったがために︑反乱が起こったのであ

る︒筆者が思うに︑当時の魏源は︑農民が苦しむ理由が﹁勇於用刑﹂

であったことに気づいてはいなかった︒ただ︑彼は﹁勇於用刑﹂によっ

てもたらされた惨状を直接目にし︑それを﹁我欲叫闔︑闔蒼莽

垂﹂と詠み︑自らの無力感を吐露したのみに過ぎなかった︒しかし︑

六年後に﹃老子本義﹄六十一章を撰した際︑﹁我敢者︑人亦敢之也﹂

という解釈︑および第五十八章中に見える戦争への嫌悪感を記した

のは︑心に深く刻まれていた陰惨な体験に起因していたと考えられ

よう︒︵三︶本章の結論

第五十八章において︑魏源は︑老子が徳の用を保ち︑﹁慈﹂﹁倹﹂﹁不

敢為天下先﹂の三つを宝とすれば︑時弊から人々を救えると主張し

ていたと述べている︒また魏源は︑﹁夫兵不祥﹂︑軍事力は不祥であっ

て︑やむをえず使う場合には喪礼のように哀の至りとして処すべき

だと説き︑正義の軍であるはずの﹁王者の師﹂に対しても︑上述の

﹁三宝﹂をほとんど失ったものとして批判するなど︑戦争に対して

激しい嫌悪感を抱いていた︒また第六十一章において﹁用勇不可不

慎﹂と戒告しているが︑その理由を﹁慈故能勇⁝今舍其慈且勇⁝死

矣﹂すなわち慈無き勇は﹁死﹂に至るためだとしている︒しかし現

実は彼の願いとは正反対の道を進み︑為政者は﹁勇於用刑﹂︑刑の

執行に積極的であり︑民衆はそれに抗して無謀な行動││天理教徒

の乱をするにまで至った︒この戦いにおいて双方とも﹁慈﹂と﹁哀﹂

が無かったため︑﹁無敵﹂を目指した結末は︑魏源を愕然とさせた 悲惨な状況をもたらしたのであった︒さて前述のように通行本の多くは﹁無敵﹂を﹁軽敵﹂としているが︑魏源があえて﹁無敵﹂を選択したのは︑彼にとって﹁無敵﹂こそが最大の災いであり︑それは老子の﹁三宝﹂をほぼ失わせる力を持っていたと考えたからであろう︒それは魏源若き日のあの﹁戦いの記憶﹂に因るものであり︑筆者はここから第五十八章︑第六十章の主題を﹁禍は無敵より大なるは莫し﹂と結論付けた︒第四章

  「論老子」に見える魏源の思想的変遷

本章で︑筆者は魏源の前半生で著された序及び﹃老子本義﹄上下

編︑後期の﹁論老子﹂の思想上の相違点を考察し︑その上で思想が

変化した理由を明らかにしていく︒

︵一︶﹁救世﹂思想の変化について

中年期の魏源は前半生と同じく﹃老子﹄に希望を抱き︑さらに﹁論

老子﹂で﹁老氏書古今︑通上下﹂とその書を高く評価していた︒

しかし︑中年期に抱いた﹃老子﹄に対する希望とは別に︑魏源がそ

れとは裏腹な思いを持っていたことは否めない︒突然勃発したイギ

リスとの戦争︵アヘン戦争︶︑いまだ予測しえない時局の変化︑そ

のすべては彼の心を失望へと変えていった︒彼は言う︑﹁內聖外王

之學暗而不明﹂︑儒教は暗く不明なままで弊害が続出している︑そ

こで彼は﹁時不同︑無爲亦不同﹂として︑時代の局面が変化してい

る以上︑無為︑すなわち治世も変わらざるを得ないと説き︑そのた

めには必ず﹁病状に応じて投薬﹂し︑状況の改善を図るべきと主張

(16)

   麗璇一六

した︒しかし現実にはいずれの変化の兆しも無いので︑彼はひたす

ら﹁藥無偏勝︑對癥為功︑在人用之而已﹂と悲哀をもって世に訴え

たのであった︒つまりこの世の弊害を改めるためには︑それに敵っ

た対処法を﹁用﹂いればいいのだが︑しかし見たところ誰一人とし

てこの簡単な道理を理解しないために︑彼は才能と志を﹁使氣﹂す

ることができず︑ひたすら﹃老子﹄を繰り返し読むことで︑この苦

悩に﹁對治﹂︑対処しようとしている︒

また︑﹁論老子﹂第二篇で︑老子の著書に対する自己の見解を詳

述しているが︑そこで︑もし周の為政者が︑国民のすべてが徳行を

積み︑かつ純朴で︑生活も安楽な状態に導いたならば︑老子は﹃老

子﹄を著すことなく沈黙していたはずだと述べている︒しかし実際

には救済しなければない状況に至ったため︑老子はやむなく﹃老子﹄

を著して道を明らかにしようとしたのである︒筆者が思うに︑魏源

は自らが老子と同じ苦悩を抱えていたと考えていた︒つまり︑魏源

も清朝が救済すべき状況に陥っていなければ︑自身も老子と同様に

沈黙を守っていたに違いない︒このような観点で︑﹃老子本義﹄上

下編を再読してみると︑そこで魏源は︑老子撰著の理由を﹁及迫關

尹之請︑不得已著書﹂︑自らの意志によるものではなく︑関尹の要

請によるものと論じ︑また老子が﹁真常不弊之道﹂を明らかにした

理由も単に﹁学術の日びるを見る﹂としか考察していない︒この

ような見方は従前の史書に拠って出されたものにすぎず︑﹁論老子﹂

で展開された老子への共感によって導き出された説と比較すると︑

その深浅の差異は明らかである︒ 若き魏源は希望に満ち溢れ︑上京途中では現実社会の厳しさを目の当たりにしたものの︑なおも積極的な思考を持ち続けており︑﹁人

定勝天︵人は天命をも変えることができる︶﹂︵﹃魏源集﹄一九八三年︑

二一頁︶と述べている︒上下編三章の﹁夫れ安んぞ治めざること有

らんや﹂のように︑自然に順応して無為の治をなせば︑世は必ずや

治めることができると考えていた︒この語には︑彼の余裕と希望が

見て取れ︑さらに上下編における魏源の﹃老子﹄解釈は︑従容かつ

倦まざることからも︑その心理的余裕が看取できる︒無論︑上下編

と﹁論老子﹂の間には形式的な相違があるが︑それよりも魏源の前

半生と後半生の心情的変化に注目すべきなのは言うまでもない︒筆

者が思うに︑魏源は︑﹃老子本義﹄第十六章において︑道は﹁大道﹂

から下降するものの︑太古の治を回復すれば徐々に﹁本﹂に返るこ

とができると考えていた︒しかし後期の﹁論老子﹂では﹁氣化遞

如寒暑然︒太古之不能不唐虞三代︑唐虞三代之不能不後世﹂として︑

変化の﹁不能不︵そうせざるを得ない︶﹂面が強調され︑それは人

の力で抑制できず︑﹁弊が極まった﹂状態に至ってようやく﹁其の

初に復び返る﹂ことができるとされた︒魏源は︑前半生において︑

世界には道の法則が存在し︑太古のような︑初にしてかつ良好な状

態に返れると楽観的に考えていた︒しかし後半生に至ると世界で何

が起こるかは予測し難く︑また人の力では如何ともし難いと悲観的

思考を持つようになった︒ここからも前半生︑後半生間の彼の思想

上の変化は明らかであろう︒

︵二︶対儒教観の変化

参照

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