第1次世界大戦期の英国の女性と子供の技術の習得(1)
永 島 利 明*
(1996年10月14日受理)
Women s and Children s Acquisition of Skill in UK during the World War I
(Part 1)
Toshiaki NAGAsHIMA*
(Received October 14,1996)
第1次世界大戦と日本
一体どうして日本は第2次世界大戦の引き金を引いたのであろうか。それにはいろいろな理由があ るであろうが,第1次世界大戦の実情が国民に知られていなかったことにも一つの原因があるのでは なかろうか。日本の軍隊は戦場はヨーロッパが中心であったから,青島・膠州湾に出兵する程度で 損害は軽微であった。
20世紀の初めに世界の大部分をすでに分割していた英,仏,オランダなどに独,オーストリア,イ タリヤ,日本が割り込む形で世界の再分割が進行した。1911−12年の伊土戦争にトルコが敗れ,革新 トルコの無力が明らかになり,ギリシヤ,ブルガリヤ,セルビア,モンテネグロはトルコ領マケド ニア分割を目的としてバルカン同盟を結び,いっせいに隣接するトルコ領に進入した。トルコは敗 れて,1913年5月ロンドン条約で4国にマケドニア,アルバニヤ,クレタ島の割譲を認めた。
ところがオーストリアは,セルビアがアルバニヤを得て,アドリア海に出ることを強く反対し,各 国にアルバニヤを独立国とすることを提案して,承認された。セルビアにとり非常な損失で,オー ストリアに対する反感が強まった。セルビアはアルバニヤ放棄の代わりに,ブルガリアの取得した 土地を求めて,ほかの3国と連合してブルガリアに宣戦を布告し,続いて,トルコ,ルーマニアもこ れに加わった。1913年ブルガリアもこの要求を受け入れ,1913年のブカレスト平和条約でセルビア,
ギリシヤ,ルーマニア,トルコに隣接する土地を割譲して第2次バルカン戦争は終わった1)。このよう なヨーロッパ列強の友好国の小さい国がお互いに領土争いをし大戦争をまねいた。
この戦いによりセルビア対オーストリアの感情がいちじるしく悪化し,ロシアの援助を頼んで,セ ルビアは反オーストラリア運動を続けた。1914年6月27日オーストリア皇太子が暗殺された。オース
*茨城大学技術科教育研究室(〒310水戸市文京2丁目1番地;Laboratory of for the Technology Edication,
Faculty of Education,lbaraki,Mito,lbaraki,310 Japan)
146 茨城大学教育学部紀要(教育科学)46号(1997)
トリアはドイツの援助をたのみとして,セルビアに宣戦布告した。開戦と同時にロシアもバルカン の権益を守るため,動員を開始したので,ドイツも動員令を出し,8月1日にロシアに,同3日その同 盟国フランスに宣戦布告し,中立国ベルギー領を犯し,東北フランスを攻撃した。最初外交調停に より戦争を防こうとしたイギリスも,8月4日ベルギー侵犯を理由にドイツに宣戦した。日本もまた日 英同盟を理由として8月23日ドイツに宣戦した。
ヨーロッパの戦いで列強がアジアから手を引くことになった結果,日露戦争以来中国市場におい て英米と競争するようになって,おされがちであった日本はきわめて有利な立場に立っことになっ た。日本政府は「シナ海においてイギリスの貿易を脅かすドイツ艦隊をおさえてもらいたい」とい うイギリスの希望を機会に,日英同盟のよしみを名目にして参戦を決定した2)。イギリスは戦争が中 国大陸に波及し,その経済基盤に打撃を受けることを恐れて,「参戦」まで希望しなかったが,それ を押し切ってドイツに参戦し,ドイツの拠点であった青島・膠州湾に兵を出した3)。また,10月には 赤道より北のドイツ領南洋群島を攻撃した。
翌年初め中国政府に対し,二十一ケ条の要求を出し,山東省,南満州,東部内蒙古,その他中国全般 に関する広い特殊利益の要求をしていた。5項目の要求には政治的な干渉があり,政治,軍事,警察 の顧問として日本人を招くこと,外資導入のときには日本との協議をする必要とすることなどが述 べられていた。この要求に対して中国政府は最初は強く反対したが,日本の軍事力により屈服させ られた。しかし,ベルサイユ講和条約では日本の勢力が拡大することを恐れた列国の反対により青 島を含む山東省は中国のものになり,日本は旧ドイツ領の南洋諸島が委任統治領になり実質的に日 本の領土になった。
国民に影響を与えたのは,こうした大戦による領土の獲得よりも戦争景気による経済の好況が大 きかったと思われる。ドイツの優れた工業生産品の輸入が途絶え,日本で自給しなければならない ものがあった。例えば,化学染料はその代表例であった。
先行研究
イギリスで第1次世界大戦中女性や子供がどのように処遇されたか,という問題を扱ったものは非 常に少なかった。筆者がみることのできた文献で最も長いものは,1932年の桜井忠温監修r国防大事 典』であった4)。日本軍も女性が第1次世界大戦で家庭から街頭や工場に追い立てられたことを研究
していた。英独仏3力国ともに大戦中は女の警官,消防士,交通関係者,通信従業員がいたこと,食 料,石炭,新聞配達,荷物の運搬,煙突掃除,機関車掃除に進出したことを報告していた。そのなか で軍需工場で働いた女性については,ほぽ次のように報告している。
大戦中戦場の兵士を徴兵するため,男性の兵役義務を延長して,戦場に送られた。イギリスでは 兵役義務年齢の74%,フランスでは83%,ドイツでは90%が召集された。その結果,国内の労働力が 不足し,各国とも工場に女性が進出した。大戦中軍需工場で働いた女子工員の男性工員に対する 割合は,英25%,仏35%,独50%と報告していた。ドイツでは男性と同じ数の女性が軍需工場で働き,
戦闘に間接的に参加した。1916年の中頃には英国の兵器製造工場で働く女性の数は,約40万人,ド
イツでは約70万人に達した。さらに,英国の貴婦人たちはヴィカース(女性職工隊)という団体 を組織して無報酬で兵器の製造工場で働いた。
出陣するに至らなかったが,とにかく,大戦中英国には婦人補助軍隊(WAAC)という団体が生 まれて,軍需教練を自ら行い,出征もしかねまじい意気を示した。
しかし,軍需工場で働いた学齢期または義務教育学校卒業直後の青少年(以下子供という)がい たことは何も報告していなかった。日本の西洋史研究者の著書を見ても,女性や子供が工場で働か なければならなかったことを示しているものは少ないようである。しかも,子供については皆無で
あった。
日本の研究者のものより比較的多いのは,翻訳されたものである。最も初期のものはAJ.P.テー ラー(都築忠七訳)rイギリス現代史』である5)。その内容は,次のとおりであった。
戦争が始まり,緊急の問題は軍に志願した軍需工場の熟練工に代わって不熟練工を用いることで あった。これを「労働の希薄化」といった。機械工場を拡大するためには,不熟練労働者や女性を 雇わなければならない。熟練労働者は伝統的な権利の緩和を拒否した。政府が国土防衛法による強 制力を使いそれをするならば,労使の対立が厳しくなるであろう。しかし,それを労働組合の指導 者が行えば,つまり組合が自主的に行えば,組合員はこれを受け入れざるを得ない。ロイド・ジョー ジ(1890−1945年自由党議員,1908−15年蔵相,1915−16年軍需相,16年陸相,1916−22年首相)は1915 年3月17−18日にかけて大蔵省で組合幹部と会見した。組合,特に機械工組合が関係することになっ た。その結果結ばれた大蔵省協約は労働組合の地位を大きく変えた。労組が以前は反対していたの に,経営に参加することになった。組合が「希薄化」を担当し,運営することになった。この代わ りに3種類の約束が与えられた6)。第1に,伝統的な権利は戦争が終われば,復活されるということで ある。この約束は順守された。第2は,組合の権利を犠牲にする代わりに,資本家の利潤は制限され るという内容であった。この協約も守られたが,組合が期待するほど効果はなかった。第3は,労組 は地方合同委員会を通じて産業の管理を分担する,というものであった。この約束は守られなかっ た。委員会は「希薄化」に利用されただけであった。このようにしてロイド・ジョージは戦争の努 力に労組という「民衆」の一大勢力の確保をすることができた。一方,当時のフェミニストの最大 の実現したい目標は,参政権を手にいれることであった。第1次世界大戦におけるフェミニストの次 の戦争協力のみが1918年の女性参政権の獲得を実現した。
1915年7月戦闘的な女性参政権者のクリスタベル・パンクハースト等は最後のデモ行進をした。「国 家に奉仕する権利を要求する」というスローガン掲げていた。パンクハースト母子や信奉者の参政 権獲得の戦術はハンストばかりではなく,放火,殺人,国王の競走馬に飛び込み自殺をするというさ まに身命を捧げてもいとわないという幕末の志士のような感じであった。例えば,エミリー・デビ ソン7)(Emi夏y Devison)はパンクハーストの「女性社会政治同盟」に1906年に入り,参政権獲得のた め,8回投獄され,ハンガー・ストライキをしたたあ,48回も強制的に食べさせられたり,石を投げ,
役所に放火し,ロイド・ジョージをアバデイーンの駅で暗殺したいと考え,人違いをして牧師を殺 し,1913年のエプソムのタビーで国王の馬に身を投げ,4日後に死亡しても目的を達することができ なかった。この戦争協力はこのような困難であった女の権利の獲得を可能にした。
女性参政権のこの要求は,すぐ受け入れられた。約20万人の女性が政府の各省に採用された2)。50
148 茨城大学教育学部紀要(教育科学)46号(1997)
万人の女性が民間会社の事務を引き継いだ。女性が市内電車やバスの車掌を勤めた。25万人の女が農 場で働いた。これに加えて約10万の女性が3軍の補助部隊に参加した。さらに,10万を越える救急看 護婦義勇隊がいた。女性労働者の増加が最も多かったのは,機械工場であった。1915年7月後の1年間 で約80万人の女性が補充された。これとは対照的に減少したのは,女中と言われた家庭使用人であ
り,40万人も少なくなった。
一・
禔C戦後になると,復員兵が帰り機械工場では女に取って代った。しかし,事務は女が継続し た。女性は自立して進歩的になった。女性の就業が工場で問題を引き起こした。ほとんどの女が組 合に加入しなかった。その職種に特有の習慣に気を使う女性は,いなかった。その時の軍需相ロイ
ド・ジョージが約束した「両性賃金の平等」に関心をもち,男の労働者はそれに反対した。
しかし,A.J.P.テーラー(都築忠七訳)rイギリス現代史』もr国防大事典』よりも女性について のべているももの,子供については何も書いていなかった。
この研究ではおもな資料としてイレーネ・グッドおよびマーガレット・ホップ共著「イギリスに おける女性と子供の世界大戦の経済的効果」8)を使いながら,日本における第1次世界大戦や第2 次世界大戦と比較しながら,女性や子供の技術の習得やそれに関連した問題を考察することを目的
としている。
女性と子供の労働者の増加
英国では前線の一人の兵士が完全に装備をするためには「三人から五人の労働者が必要である」と 見積られていた。4年間の戦争中,男と見られる兵士の総動員数は890万4467人であったから9),平 和産業を維持しながら,軍需品を供給するのに,女や子供に大きな負担がかかっていた。戦争が始
まったすぐあとの1914年9月40%以上の女が短期の仕事をするようになった。大部分女だけが働いて いた「ぜいたく品」を扱う仕事は,厳しい影響をうけ,男が徴兵リストにのせられたように,女は その状況を救うことはできなかった。しかし,女の雇用水準は1915年4月までには戦前の水準には達
しなかった。1915年7月から1918年7月のまでの3年間で女の労働者は165万9000人増えた。
18歳以下の働く子供や青年がどのくらい増加したかを正確に確かめるのは,困難であるが,義務 教育の末期に仕事をするため,学校をやめ違法に働いているものが増えたのは,明らかであった。公 式報告は1914年7月193万6000人から1918年1月227万8000人増加したことを示していた。教育局長の ハーバート・フィシャーは議会で過去3年間に14歳以下の60万人の子供が児童労働法や義務教育法の 緩和により,「早期に仕事をするようにならざるをえなかった」と認めた。同年10月賃金局は戦争中 9万人の子供が学校を中退したと詳細に発表した。初期に公表された事例は統計は農業がほとんどで あったが,フィシャーの声明によれば,戦争が3年たち,相当多くの事例が鉱山と軍需工業のための 中退であった。
この戦争の経過は第2次世界大戦中の日本に似ている。日中戦争や太平洋戦争が始まったときから
1943年頃までは生徒や学生は出征兵士を出した農家に働きに勤労奉仕されたのに,末期になると軍
需工場に動員された。このような事実が正確に日本に伝えられていたら,我が国は違った道を歩ん
でいたかも知れないのに,残念である。
戦争の影響が最も大きかったのは,1916−17年の冬までに,女が多くの職業に入ってきたことであ り,「女がある程度男に変わってできない職業はない」と言われるようになった。公式の数字によれ ば,1918年181万6000人の女が男に替わって仕事をしていた。
戦争の初年度の1914年に女が男に代わってした仕事は,製造業よりも運送の大部分,小売り,事 務であった。
工場ではある女たちは,長い間勤務していた主流の人が以前習得していた技能よりも高い水準の 仕事を簡単にできることを知った。靴下工場は軍需品を造るようになり,規模を拡大した。そこで は女は戦争前と同じ仕事をした。女が軍需工業に急速に入ったのは,戦争の2年目の年の特徴であっ た。1915−16年家事労働印刷,典型的な「女の仕事であった」菓子製造,クリーニングで働いてい た女が非常に減少した。
戦争の3年目になると,男に代わって女がする仕事は,軍需工業から戦争にあまり関係のない安定 した仕事にまで拡大した。多くのケースで,女は正確に男と同じ仕事をしたのではなかった。特に,
技術的な仕事では1914−17年の間に技術革新が起きていた。熟練労働は細分化され,自動機械が導入 され,すべての変化は専門化した物作りに必要な技能の必要を減少していく傾向がみられるように なった。戦争の初期,決まりきった仕事や反復する仕事を除けば,男ほど能率的ではないと見られ た。しかし,経験を増すにしたがって,だんだん熟練した男の仕事を観察するようになり,能率を 上げるようになったことを証明し,力の限度まで働き,仕事が好きになって行った。戦争の最後の 年,すこし新しい分野が入ってくると,生産過程をできる限り,進歩させて,この年以前新しく入
ってきた仕事を反省しながら,問題を解決していった。
農業における女の労働者は工業ほど注目するものはなかったが,1914年8万人であったものが,1918 年にはll万8000人に増加した。職業の機会が増え,工業や商業で女の管理職の仕事がある程度開放
されたことは,女の仕事が変化した重要な特徴であった。日本の太平洋戦争の場合,工業で女に管 理職になる道は開かれなかった。このことは日英の大きな違いである。
女は普通の軍務にもついた。何千の従軍看護婦のほか,いくらかの軍事教練を受けた特別な女性 部隊が設置され,フランス戦線の後方で事務,調理,清掃,運転手,機械工として働いた。女性陸 軍補助部隊と言われたが,戦争の末期には5万人になっていた。女性海軍補助部隊は海軍のため,海 岸で軍務をした。陸海軍の補助部隊は1917年に設置された10)。女性空軍:補助部隊は1918年に設置さ れ,その目的のほかに,賃金局のため,木材の伐採をした。そこで女は正式の教育訓練を驚くべき ほど少ししか受けなかったが,新しい仕事に取りかかった。例外的なものには農業労働者や半熟練 の軍需工場の製造工は短期の実用的な講習会があった。第2次世界大戦中日本にも女子軍属といわれ る職種があったが,これについての詳細な研究は行われていない。
子供がしていた作業は性により異なっていた。少女は大人の女のように職業の選択は広がってい
た。少年は普通のケースよりも男性の熟練労働のための教育訓練は少なかった。男子は兵役にいか
ざるをえなかったから,家族の生活費がかかるようになり,少年は大人に代わって街頭で物を売り
生活費を稼ぐ必要があり,多くの少年は授業時間以外に働くようになった。高い賃金をもらってい
た男たちは,イギリスでも兵隊にいかなければ,白い目で見られるようになった。学校を卒業して
いない子供は不足する生活費をえる必要があった。
150 茨城大学教育学部紀要(教育科学)46号(1997)
労働条件の変化
イギリスでは戦争状態になり,女も子供も賃金が上がった。特に,軍需工業はそうであった。あ まり上がらなかったのはクリーニングの仕事のように統制されていない,いわゆる「女の手仕事」で あった。賃金局は司法権の管轄権の中にある工業を増やした。しかし,労働条件の変化は生活費の 向上には対応しているのは,稀であった。男に代わった女の経済的な地位は,経験や能率の違いや 工業の多くの変化を考慮しても両性間の経済的平等を達成しているのは,稀であった。政府は女の 賃金を固定する権力をもち,そうすることによりまず最初に賃金の平等の原則に味方をしているよ うに記録するように見えた。しかし,実際にはこの原則は未熟練や半熟練の労働者には適応されな かった。戦前の女の賃金よりもずっと賃金は高かったけれど,女は男と同じ生活費を受け取ること には失敗した。ほかの産業では労働組合の同意を得ていたが,単に男の仕事を変わってするだけの 場合では,例えば,農業では男の割合よりも低かった。
新しい労働者の募集
軍需の必要を満たすため,イギリスの女はどのように集められたのであろうか。それには3つの違 ったグループがあった。第1は,低い賃金の「女の職業」やいろいろな不況の仕事から軍需や「男の仕 事」に変わったのである。第2は,補足された女の労働者は働く男の妻や他の家族で,大部分は結婚 前に働いていた。兵隊の妻は別居手当てが不十分な場合が多かった。一般には愛国的な動機や生活 費の上昇により,既婚の女性や多くの若い男女が工業で働いた。第3は,愛国的な訴えに応じて社会 の上流階級の女が事務,農業,軍需工場で働いた。
多くの女や子供は政府により作られた地域の代表である「女性戦争雇用委員会」や「地方農業委 員会」により募集され,全国的な雇用の交代をして働いていた。1917年の冬1カ月5000人の女や多く の若い男女が家庭から遠くの工業に交代されて送られていった。軍需省の代表によれば,このよう な状況のなかで工場の外の福祉を保証することが最も重要な問題であった。住宅,リクリエーショ ン,交通の改善をする仕事はボランティアの委員会にまかされたが,この仕事を補い調整するため,
「外務福祉公務員」を任命する必要があった。女の軍需工場にしばしば作られていた大規模な寮や共 通のスイッテイグルームを持つ「宿舎」は,必要とされるルールや規律を維持するためには不満足 であることがわがった。このような施設は女に人気がなかった。
住宅問題を解決するため,政府は工場のある地域の住民に従業員を「宿泊」させることを義務に
する手段を法律化することを強行した。しかし,実行はされなかつたようである。工場が拡大され
て強制執行のような手段を取って時間をかけるよりも,住民が高い家賃をとっても,工場の従業員
がそれを支払うことで,決着したほうが戦争生産には都合がよかったからであった。
おわりに
この研究ではおもに第1次世界大戦中のイギリスの女性と子供の増加,その結果による労働条件の 変化,募集などを見てきたが,女性が男と同じ職業ができると自信を持つようになったのが,大き な変化であった。第2次世界大戦中のアメリカでも世論調査の結果,「男と同じ方法で職業訓練すべ である」という意見が多かったという11)。日本の特に若い女性はこのことを学ぶべきであると思う。
本年は女子学生のかってない就職難と言われている。ある女子学生が石油会社の面接を受験したと き,ドラム缶を担げなければ,合格できないといわれ,怒ったという話を聞いた。現在のこの会社 は女子学生を採用するつもりはなかったと推測するのは,当然であるが,ドラム缶がもっと小さい ものを作ればよいという発想はないのであろうか。石油のような液体を現在ドラム缶を担がせると いうことはそれ程ないとも思われる。また,この話を英米の戦争時代の女性ならば,どう考えるの であろうか。
この研究は国会図書館の憲政資料室幣原文庫所蔵の注8を資料として用いています。幣原喜重郎氏 に深く感謝いたします。
注
1)吉岡力「世界史の研究』(旺文社,1956),pp.339−340.
2)歴史教育者協議会編r教師のための日本歴史』(河出書房,1955),pp.221−222.
3)岩波講座「日本通史』第18巻近代3(岩波書店,1994),pp.19−20,
4)桜井忠温監修r国防大事典』(中外産業調査会,1932),pp.122−123.
5)AJ.P.テーラー(都築忠七訳)rイギリス現代史』(みすず書房,1968), p.29.
6)同上,PP.37−38.
7)Jennifer Uglow(ed), The Macmilan Dictionary of Women s Biography Second edition(1989), p.151.
8)Irene Osgood and Margaret A.Hobbs, Economic Effects of the World War upon Women and Children in Great
Britain ,PP。1−12.9)神谷不二編,r20世紀の戦争』(講談社,1980), pp.54−55.ちなみに,戦死者90万8731人,戦傷者209 万212人,市民の死者3万633人であった。
10)F.D.Margiotta and T.NDupy et al, Intematlonal Military and Defence Encyclopedia (Brasseys Inc.,1993), vol 6,P.2945.