『東車同文書院大学と愛知大学』の 編集に携わって
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2 ‑ 1
ブックレット
東亜川文書院大学記念センター委員・入試広wmm州主幹
山 下 輝 夫
はじめにーー 大学に対する伝統への評価
大学における伝統は、大学の生い立ちと建学の精神を背 旧民とする大学独自の学風、教育の特色などを表現していま
すGそして伝統は、大学の歴史のなかで先輩から後輩へと 受け継がれていく学空集聞の足跡の表現であります仁大学 に於ける伝統への評価は、大学’け休の、水年にわたる教育研 究への努力もさることながら、大学から巣立っていった卒 業生の社会での前脱が、オーバーラップした形での社会に 於ける抜介却価でもあります口 大学における版史と伝統は大学評価の一つとして理解さ れ、それ山体に同有の側偵をな味付けており、社会的評価 の尚さを衣現しています
cことに、私史大学にあっては大 学の生い立ちと建学の精神は、大学の伝統を性絡づける底 流をなしています
c愛知大学は敗戦の程年、
A九間六年に創立されました口 戦後日以初の川制大学として設立認可された愛知大学は、日 本の大学でただ一つ、敗戦という.佳史的な時代北口氏のもと に設置された大学でありますそして「日本川志法」の公 布と則を一にしていますい寸愛知大学設立趣立引け」のいけ刻、 には建学の趣行を次のように述べています口 「我日本は長則に一日一る今川戦争に依て物質的精神的に坑 廃せしめられ、殊に比ハの結果は惨櫓(
Hさんたん)たる敗戦を回引き一止に山間決の危機にす一つと.一パうも過ぺけではない)ん
I斯(H
か)かる山川凶械を免れんするならば、事をして悲(日 ここ)にいたらしめたる川き日本のぶれる指導と積弊を一 耐し、析しき日本として辺生するの道を択(”えら)ぶ外 ないのである」 「斯(日かく)の如き投が H 本の新しき出発に際して、 当而解決を要する諸磁の問題山航すると難(
Hい)えども、 就中(日なかんずく)、学問、思想、文化を.吐(日さかん) に興し、教養ある有為の人材を養成することは、北ハ急務に
して、以も法礎的なるものの一と.
Jうべきであろう口政ルザ 相謀(日はか)って法に愛知大学を設立せんとする所以(
Hゆえん)は、実に斯かる客観的要指に呼応するものにして、 一言を以て之を言えば、世界平和に寄与すべき日本人文の 興隆と有為なる人材の養成と一五うに以きるのである」 愛知大学は、日本の私立大学で二九番目に誕生した大学 です。明治時代からの十日い歴史と伝統を持つ東京・京阪神 の私大から見れば雌史の浅い大学ですが、その生い立ちは 他の大学には見られない県色の存紅であり、東.肱川文品川 H 院 大学という.怜史的遺産を純水するという特異性をもっ大学 であります。
風化していった 同文書院大学の位置づけ
『愛知大学十年の歩み』は、愛知大学創設に至るいきさ つを次のように述べています。 「本間学.長、小山石井教授、その他同文書院大学の教授(上 海からの)帰還の械がいいえられるや、内地において他の大 学に転入学千絞修了者、千統未修 f 者、或は新に復員せる 行等は述けの如く、成は千紙で或は自ら神川の(川文計院 大学消算)事務所を訪れ、新大学の設し止を希望する者が似 めて多かった。 東岨川文会の文緩による新大学の設なを断念された本問、 小山行井両氏は、事ここに到っては有志のものが相集まり山 分の力に設立する外はないと決心された。(中略) 新大学の設立するについて、位終的決定を行うため、・本 問、小川行井剛氏は鈴木保郎氏、神谷氏、本町氏等に凶られ、 附和一一卜一年五川一
創設朋の学部生は件院生が大勢を占め、教員の中心も川文 さつは、創設有本問点一先生の記述に見られます。しかも、 だからこそ、社会は支援をおしまなかった。その辺のいき 有りました。しかし、東亜川文書院関係者が創る愛知大学 の小で梢民地大学への謝われなき悦線を意識してのことで GHQ の圧力や、戦後の風潮 主張しませんでした。それは 創立以来愛知大学は、ことさら東亜同文書院の関わりを ものがあります。 の認識であり、若い世代にはその特異性の理解力は乏しい それは教育制度への理解をもっ一部識者か、年配若の間で 半陛紀にわたる時間の経過によって時代認織も希薄となり、 立の経緯と山制大学の輝かしい.惟史を持つとはいえ、戦後 学、愛知学院大学が誕生するぷです。愛知大学が特異な設 大学」制度が発足し、以降数年のうちに名城大学、市山大 しての地位を占めています口しかし、附和二川年に「新制 部のみで、文科系学部の大学では、中部地方最初の大学と されました。当時、中部地方に大学は名古屋帝凶大学医学 愛知大学は、中部地方唯一の旧制法文系大学として設立 1 十二頁) (『愛知大学十年の歩み』昭和三一年刊。十一頁 」 まり、九日開校を目標に具体的活動に入ることになった
D大勢を支配し、新大学の設立することに最終的決議がまと その他につき種々の意見が開陳されたが、積極的な主娠が 達し(氏名を略す)此の最初の会合に於いて設立の見透し 悪く、交通事情も拙悪の時代であったが参会行は卜三名に 院大学の教職けはを行集せられた。中-時、食税事情は極端に 卜日東京九段下の若立口旅館に旧同文書 ..
プ y クレ y ト r 東亜 luJ 文 a’i 院大’F と愛知大学』の編集に批わって
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臼 υ
A 院の先生方、創立から附和三七年度までの学長は、林学 長、本間学長、小岩井学長と同文書院関係者で有ったこと から、草創の頃はあえて川文井院と一一一日わずとも、愛知大学 は川文書院の流れをくむ大学として、叶一間一般に認識され ていました。そして、『小川ト八時典』の刊行、川川際問題研 究所の中川研究の取り組み、中凶関係専攻コ l スの配置は、 その実績と伝統を受け継ぐものとして評価されてきたので
す。創設に挑わった第一附代が去り、川文内院山身の教職 此・学生の桁導と彩枠を乏けた第三世代も数少なくなり、 愛大の設立の経緯への関心すら希薄となり時は流れていき ました。こうしたある時期に、非常勤講師として教酬に立 たれた、川文訂・院山身のジャーナリスト氏は「ん
rの愛ト八で は先住万も学生もぷも川文川院を知らず、以しい気持ちと なった」とお品になったと伺いましたニんーから
4・K
年程前のお話ですむ その頃の可愛知大学案内』には、「戦後、京.地川文計院 大学、京城帝川大学、ムリ北川巾川大学から引きぬげた教職日以 によって:・ぷ心比された口」と設立の経緯が記載されて来ま した。この記述は一而の事実では有りますが、「実事求口疋」 では有りません
c私たちが知っている歴史の本質がわざと 避けられているのです。この決まり文句は、先に述べた草 創の頃の深慮から生まれた衣現で有りましょう
cより.止時 には「戦後、収.佐川文品川院大学の教職日・学生が中心となっ て:・設立された」と記載されるべきであります。 東軍同文書院大学 記念センターの誕生
H た l':Iえ,,L'.(:.nt
2 6
ところで、こうした経過の中で九一年(平成二一)に、東 亜同文古院大学の川窓会「福友会」有志は、東亜同文書院 の偉業を後慌に伝え、日本と中凶の許隣友好に討献する学 術研究を衣彰するため「京岨川文市院基金会」を設立し、 その業務を川文品川院と縁の深い愛知大学に付託されままし
た
c「東川肥川丈芹院基金会」設立は、同文書院と愛大の両 校関係を語るとき、意義ある山来事として留意されるべき でしょうけその年「係文・山川兄弟予亥革命資料」が愛知 大学に寄附され、民ぃ合会の設な以降、組友会と愛知大学は 急速に視訟な関係へと改持されて行きました
cこの経過の 中で大賢一石一正教務課長(書院内六則・旧制五期)は大き な役割を果たされました
U「山県川皿川文訂院大学記念セン ター」は、こうしたいきさつによって一九九:一年. K
川一二。けに誕生したのです
q山本館(現「大学記念館」)の修復工事をまって問年間 の経過の後、九七年に「束亜同文書院大学記念センター民 示室」を開設しましたが、その開設記念式典で石井前学長 は、「一九
O一年創立の京一弛川文内院の一惟史と、創立五
O同年を迎えた愛知大学の一校史が一本の太い糸で繋がった思 いでございます
c思い起こしますと、一九九二年、学長に 就任以来、同文書院大学記念センターのことを霞山会と泌 友会の関係の方々と協議を続け、京一組川文いれけ院大学記念セ ンターという組織を削りました
cその~tu日は京姫川文洋院
火
山一子の教育、研究仁の業続を我々 の 下で明
らかにし、後附一 に伝えることであります
。端的に中しますと本問先生、小 岩井先生、鈴木怨郎先生方
、川文』院ゆかりの先生がたか ら直接数えを、つけた(京夜間文注院大学 ) ・卒業生の特さん が沢山おみえになります
。しかし
、大学に残
っている釘と 一言いますと、払たちが品後の者であります
。したがって、 弘たちが大 学 を去
ったあとは、おそらくそういったおは山米ないであろう
。夜々の手で東川同文洋院の優れた装結を 後批に伝えていく義務があると 一百 うことで山発しました
」と訪られています
。石井学長は本学創 立 者本間喜
一学長の 以後の教え子であり、同文品川院記念センター委員長 今 泉澗 太郎教授は、 『 小日大館叶胤( 』 の産みの説、鈴木嫁郎教ほの 後紙者でもあります
。「
MM 故知新
」、愛知大学の般事を訪ね愛大の存在を知ら しめ、京盟問文甘口院を 「 幻の名門校
」でなく
「訊り縦がれ る名門校
」とするため、新たなる文化活動の展開を、石井 学長
・今・ H水 委日 UK 等と
d
血友会代表 委日からな
る「
東亜同 文内院大学 記念セン
ター」のメ
ンバーで
一品川 りんけいま
した。 -九円
O
S付・学生た6のR-m剣ドマ愛大の歴史再発見 「前身校
・東亜 同 文 書 院大学」
削
立 以来学快紀を純て
、愛知大宇の版史認識も希滞な
った状似を断まえ
、川文 川院大学記念センターは
、その一
つのが業として学 生をはじめ打い川代へのメ
γセ|ジとして 『 ブックレ
Yト束雌川丈山院太平と愛知大学 』一
民1間保を刊行(九
三1九六年 )
しました。この刊行引業に私は記念センター委只と広械課長の
・一
川止 の引い鮭 で 、合同・編集を狙う事になりました
。すこし編集について述 べ ます
。『プ
γクレγト京姫川文 品川院大内
「と愛知大学 』 各民執乍の慨安は 『 都内集
L :一 行(
i五 頁で
、小川山
口二 氏が迎切な紺介をして下
さっているの で 割愛いたします
。『プヅクレy
ト京盟川文什 一 日院大川?と愛知大学 』 の執喰朽 は、愛知大学平創期の語り部として
、敗戦後、小川か
ら引き場げ愛知大学の創設に参加した束盟川文川院 止 の諸先椛 にお願いをしました
。小崎
日間業氏 ( 愛大旧制
一期・ 作院内 二
問、一 良品開市 ) 、釜井卓
三氏 ( 愛大旧制 二 期 - KH 院問問問、 一 集品開いド ) 、古川縞氏(愛大旧制 二 期 -
ku院凹 三 如
、二
佐川間草 ) 、小田 啓 二 氏
へ愛大旧制 二
期・
ルnu院山間期
、凹集鉄事 )
、小林 一 夫氏 ( 愛大旧制 二 期 ・ 占院回同期、 一 日集執乍 ) 、松 山間的氏
(愛大旧制
一二期 - hd 院四 五 期、 二 集執乍 ) 、川原 寅夫氏(愛大旧制四期 ・ 持院凶五期、
二集執詩)、鈴木康 雄氏(愛大旧制四期 ・ 占院四六期、
一ニ 集執唯 ) 愛ト八-
M十 以外 で、特に伊膝忠久蔵氏(
KH 院凶 O 期、 ご 集執筆)、日賢見
2 7 7ソ 7
レソト'!ll..Y(Jol.(i'i~.主k"i:と愛知人ヴ:a の端払に ill,わ
Jて
氏(川院内 O
問 、-一一集執市)にご円以州場いただきました
。日野泌氏は「 A 院 ・
仁海・川本||わがこころの記
」を脱 一制されて松なく入院され
、第二 一 換を病 床 で
千にし刊行を点 んでドさいましたが
、盟 一 九九六年のぷ永眠されました。 紙耐をかりで 心 からお悔やみを
山中しヒげます
。報 道 関係佐では
、毛井正勝氏(制 U 新 聞名古屋本社編集 委日
:・当時
、二
集・間保執本)
、福川哲夫氏( N HK 名占 凶欣送センター役組制作ディレクター
:当時
、一ニ 集執銃)
、小野じい介氏(川本経済新聞名占庄支社記者:
・当時、凶佐川例 市)とご協
刀をいただきました
。乍内からは
、勝目佳久数 段(文学部
、一 佐川間唯)
、加々美光行教授(現
代中国予知長
、間集以憎い)に参加していただきました
。また、米・カリフォ ルニア大小バ ー クレー校訪問教授の林文川先生の台湾 『 聯
九円以 』 相似レポート「上海
川文忠院と愛知大学
」(J-民) の紺ぷは、今泉潤太郎教授(現代小同学部 ・ 川文作院記念 センター委 U 長)
にお願いしました
。紙耐に川文什一什院 h vi 時の VHr 点を挿入し
、時代背はのイメー
ジアy
プと読みやすくすることに心掛けました
。掲載写点 の多くは厄友会所必の
い米民同文什げ院作則のアルバムより転 紋させていただきました
。写山
一パ提供とキャプションについ
ては、同文什一川院記念
センタ
ー委員
・福友会幹#
’の川以来掛子 郎
・小崎品業両氏のご援助を受けました
。『 ブックレット束恒同文汗院大学と愛知大学 』 第一応
「は
じめに」 で寸この附
fは
、京毘川文乃院大学記念センター の発足
を朋に
、愛知大学の学生をはじめ若い世代に、 『 幻 の名門校 』 と 言 われて久しく
、愛知大学の生みの親でもあっ た東亜
川文件院大学を知り
、愛知大学との関わりの認識を
1 . .
1
J丈,’1 院,!己念 m2 s 深めていた
だくことを期待して
刊行した」と 記述しまし
た
。学 内店 店での 購 読
ホ
U
間集合わせて五万附
うち市 販附数は約一万術 、版 元のいハ
。どで、愛大生に泣透がはかられました 発行部数は 一 集
1。法学部 文学部のゼミのサブテキス とし
て利
川トされるな
、代小 川学部、
同日百七 位 P Z J ながら 現「
、」『 判C ヲ令
、} L
中
出版のこ尽力で、東海地方中心に全同の主要
計店で版売 されました
。中間附係
huHで知られる東方円店の雑誌 『 点方
」で、九凶年 一 川 第二県が 「 いま評判の小向関係 KH
」ベスト テンの第 二
位、現年に部
一」的対が 一 位にランクされる栄作・&を 受けました会同の公共図引館
、高校凶
品川川 町 等々への待問 も行いました
。東亜同文章院大学と
霊知大学
読者から寄せられた感想文
『
ブックレ
yト東亜
川文 A 院大学と愛知大学
』刊 行と共 に全凶から 三 五 O 過の「読者時却はがき 」 が寄せられ
、版 一江の六
中山版が驚く松の反特を呼びました( 『 川文乃院記 念報 』 各サに 拘 赦)谷杭者は
、川文川院卒業生
、川ご地峡、 愛大川窓生
、教育問係督
、学生の父
円、在学生と 一 般市民
の方々です。少し長くなりますが数通引用致します。 「建学の精神と歴史の重みについて改めて知ることが出 来ました。長男が法学部に在学中。父の長兄は東亜川丈在日 院生として上海に留学していたと子供のころ聞かされまし た。残念ながら、満州に於いて昭和十年頃死亡しています ので、詳しいことは知りませんでしたが、この本で亡き伯 父を偲ぶことが山来たように思います。中国との関係に於 いて、素晴らしい信頼関係が続き、いつまでも友好的交流 が出来るよう祈ります」 (名古屋・同体職員 O さん・五五十 4l 当時:・以下川じ) 「私の長兄は東亜川文存院卒、また孫二人が愛大在学、 さらに三男も愛大卒であるごとく、愛大が好き。そして、 私大らしい善い校風があることを本汗により知った」 (西春日井郡・ N さん・八四才) 「『不幸な時代の古春の記録』に特に感動。戦争中、反 戦の学生たちは、同大学の真の誇るべき英傑であると思い ます。同大学の教授でしたがこの記録ほど詳しくは知りま せんでした」 (両宮市・大学名誉教授 S さん・九四才) 「かつて在学した者として懐かしい限りです。日中事変 の際、やむなく軍に協力し川文書院の名を似つけました。 それが残念でなりません。本来計院はけ山中友好を目指して いたのですから、何とも残念です」 (名古屋市中村民・高校教員
Mさん・六四才) 「東亜同文書院卒業生として、大変嬉しい発刊でした。 と川時に愛知大学への特別な愛着心が沸いてきました準母 校的な気持ちでいっぱいです。母校なき今となっては:・」 (大阪府・大学教員 K さん・七四才)
「 H 中友川町のための抗重な記録です。ますます愛知大学 が東亜川文 A 院の伝統を継がれんことを L (阿日市・ N さん・七一- J
)「私の通っている大学でありながら、知らずにきたこと がたくさん書いあり、改めて愛大の歴史と愛大の良さを発 見した感じです」 (名東区・学生 H さん・二一一才) 「亡き夫の学び卒業した両校、夫の生前耳にした事柄や 言葉が魁り、また知らなかった事もここで知り、今更にこ の両校に学ぶ、」とのできた犬の誇りを認識することが山来 ました L (町川市・ N さん・六一九十 4 ) 「とても内科のある良い本だと思いました。我々の附代 の一世代前の経史と伝統と言うものを感じました。小川と 日本の立派な教材です。地
4応の大学であるので、強く興味 を持ち何回も読みました」 (知多郡・会社員 S さん・四四土) 「私は同文書院四二一期生です。このたびの第二集素晴ら しい出来です。各執筆者の中同への愛情が行間から読み取 れ、国を越えたヒューマニズムに思わず口頭が熱くなるこ ともしばしば:・。中国で暮らし、中国の体臭がしみた書院 生ならではの名文です。「凶際的教養と視野」を目指す愛 知大学生、特に中凶官学体験者の発表を期待しています。 この立派なブックレットが末永く存続するためにも是非お 願いします」 (岐阜県・自公業 T さん・ L ハ九才)
2 9
プァクレ y ト『従事~,”l 文,er 院大学と・愛知大γ:』の編集に挽わって「第一
集・ 第 二 集 ・
第三保持説
。半此紀に及ぶ歴史と比ハ
に、戦前
、戦中
、戦後にわたって活縦してきたこの学校の 服史は、そのまま H 木の近代史に残る貴重な記録であり
、又、
過去のぼ
史を反省する
ことは、即ち未来の飛蹴を裏
付けるものである
。心に残る 三 部作として後世に伝えたい」 (名古匡市緑区 ・ 元大学教員 K
さん・七 八才)
測量 大同
学玄玄
円言語 m唾 f
世に広がった 「東亜同文 書 院」 事川高山
・=E(
『 プ
γクレット来班川文川院大学と愛知大学 ・ 第 一 集 』 を刊行したのは九
一一一年十川
。以降、 『
第一集
』九問年
二一円、『 節 三 集 』 九 κ 年十川
、『 都内集 』 九六年卜
一川です
。時 あたかも、九四年は学徒出陣ぃ札十川年 、九 百年は戦後一札十 同年、九六年は愛知大学創 ι 五十問年との節 U のときでし
た。「同文注院記念センター
L設置
、そして『 第一集』の刊 行以来、東亜同文書院についての報道は愛大の関わりを合 めて、制日、
中日、読売の各紙をはじめ、日経、毎日、
日本と中国、東海日々、京愛知、雑誌 で
は『 財界 』
、『 日刊ア
ジア』
、海外では台湾の 「 聯合報 」 にも柑松されました
。さらに、
NH
K稔令テレビの山五分特別持組 「 上海 ・ 幻の
名門校 1 京市此
川文内院生の軌跡から 」 の肱送、 N
HKラジオ日本 「
小川の大地を断んだ日本人学生たち 」二 日間与 一 時間の海外向け政送も行われました
。愛知大学例文- h 十同年をはさんで、 二 年半年の 聞に五八
Mの械道が展開されました 。一 つの大学が、しかも半世紀 を経てこのようにマスコミで報道されることは、全く希布 なことで街ります
。東随 一 同文占院ならではのことと 一一一
一口えます。こうした中で 、京 市一同文
A院は再許制され
、愛知大学 の一校史的存在についての付会認識も広がりました (
日刊紙 は地元小部版 小心
の抑制道 )。
「 同文升院記念センター 」 開設の記念講械で花を添えて 下さった尾崎秀樹日本
ペンクラブ会・ hk ( 当時)は
、日経新
聞(
九一一z・十・ 二 王)で「ム
ハ汚から引き儲げ学生であった ねは、愛知大学への転校を希望したが、理科系だったため 断念した思い山がある
。京一政同文川院は ( 中略 ) 学川の白 山を符ぷ学胤のもとに
、H
中友好提携の人材を養成してき
た。その挫学の精神は愛知大学に引き継がれている 。」 と 得制されました
。また、巾凶の知日派の絞 一長老
、Mm 平 化中国日本友好協 会 長は愛知大学創立五十周年記念講淡で 「 愛知大学は今年、 創立五十周年ですけれど愛知 大学の前 身、上海同文芥院の
!”l文