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ロシア・ビザンツ條約とその背景

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

ロシア・ビザンツ條約とその背景

著者 石戸谷 重郎

雑誌名 奈良学芸大学紀要

4

3

ページ 95‑107

発行年 1955‑03‑19

URL http://hdl.handle.net/10105/5019

(2)

ロシア・ビザンツ催約とその背景 石 戸 谷 重郎

1

とiに「ロシア・ビザンツ条約」(Russo‑Byzantine Treati占s, Die russisch‑byzantinische Vertr云ge)というのix、西洋史‑flxのよびならわしに従ったのであって、ロシアの醇史象たち の問では帝政時代以東現在にいたるまで、 「ノト‑シとギ7)シア人との条約」 (Dogovorui Rusi s grekami)とよばれているものである。条約という名から想像されるような単なる外交上の

一一: ¥、∴、・‑  こ∴ここて、 I'I代蝣・蝣. "'"・正'(∴F.・!i‑ 、  下、 ^‑蝣蝣蝣.蝣i.‑i'::「: ・vf.' ;: y.

3Fぺ

るものである Grekovの言葉に従えば、この条約は「その軍要性において全く例タト的な史料」

:fk

であり、rl極めて賢軍な、且癒兜的客観性をもったドクメント」である。しかしながらわが国では、

寡邦の醸り、この条約は昏BiJな注意の対象となったことがないばかりでなく、ロシア古代史を論 する場倉にも殆どこれをffl印していないようである。その理由としては、わが国のロシア史学に 多大の貫徹をなした除柑吉太郎氏の邦訳「ロシテ年代記」に条約の‑4く文が訳出されていないこ

(3)       .(4)

と、原典に容易に接することが出来ないこと、たとえ原典を入手しても苗代スラヴ語の難しさも

m.

手伝って条約に音味のわかり難いところが多いこと、などがあげられるであろう。

w. 7' l二y.‑ い u壬′∴.二、滴J".、'・・'. T、 ′rl/r‑  7"JT.こて:.ご丁  ′1‑那:、・L∴*‑:‑二、 ∴Jl.

では史料としてひろく利用されていると共に,、他方ではその史料的倍憩性について長い間諭等さ

Jサi .'.∴一、、 、 .>.1こ   Tl*‑C、 ;:i.ir:/'・.‑.一・.・v‑:rr.vて:¥.fc 、 (音ト  = ・ '7̀て'1,¥f,こt二・、

が問題にされているかを紹介し、あわせて条約成立の背景について若干の考察をしようとする本 論が、わが国ロシア史学に、些かなりとも寄与する所があれば章であるL.

詳  (7) \'.D.Gretov: 1くIevsltaia Rusi, 1953. str. 122.

細) Tam zhe. str. 294

(3)ド汁IJ土大lmi訳・" n iア・f‑!V:二日 昭fii21*T?、 I三:'」3‑4"fi.・

(4)筆者の制ffi Lた原典は次の3種であるo a.I‑.は共に大理図胃館所蔵。

a・ I‑・rentievsiaia Letopisi. SPB. 1846. (古文献学会版ロシア年代記全黄第1巻) u. Livovskaia T^etopisi・ SPB. 1910. (古文献学会版T.シア年代記全寮第2(倦), c. M.D.Pr細lko、・: Troitsnk砧in Le蒔pisi. rekonstruktsiia teksta. hI ‑ 1,. 195O (rサ)次の英訳、独訳は共に条約を訳出しているが、筆者未見o

Cross, S・11, tr. The Russian Primary Chronicle. Cambridge, Mass., Harvard u一一iversity

◆      ( 95)

(3)

Press.1930.(1953年に新版が出ている) Tiautmannlibers.DieNestorehronik.IS唱1.

次の3背は部分的ではあるが、ドイツ語およひ現代TTシア譜に訳して条約を引用してあり、筆者 の参考になった。

Goetz,LK.DasR脚isheEecht.Bd.I.Stuttgart.1910.(GoeUは条約のドイツ語訳として Ewers,J.Ph.G.のDasaltesteReeht【lerBusseninaeinergesehichtlicliellEntwicklung dargestellt,Dorpat1820によっており、時にWgerChroniqueelite<leNestorを参照している) M.V.1jevchenko:Rusiko‑bizantiiskiedogovJmi.i)17i911gg.(BizantiiskiiVremennikV]9fサ2) (W.下翻こLevchenkoとして引,耶)

GitermannV:GeぅchicliteRus弓IamlH.Bd.I.Hamburg1946.(巻末のQllollentexte.)

2

さて一口に「ロシア・ビザンツ条約」といっても、巽は907年、911年、944年、971年の4つ

I‑'蝣1:‑'.¥!;蝣指す.一Lこ、蝣h.サ:さl:':V ‑・蝣t.t'、摘八.t∴.*・*.ニ・V‑‑,v:‑*‑′T,ヒ・II‑ft.*こも の名をとって、オt/‑グの条約(907と911)、イ‑ゴ1)の条約(944)、スヴサトスラフの条約

(971)という風に呼ばれることも多い。そしてわれわれが,これらの条約の内容を知り得るのは、

ギr'">lXI

".p.",̲7'十f^'ljh).I...Iこ;'/*;こ..、L:∴,‑.・こIV:r';‑'・蝣'>"i'X,ミニ!rこ,,!‑>蝣

<Ir・'二日:LL‑..l‑li‑・:l.,+二、‑I:I/り.:‑蝣・";:*斗・潤す「lji!"i;こせ.な・j:、1.、}'∴J,し<<:<a

+.CL・きi:".し‑AV、:い:・lL'ノで:>'>Lf‑、I:のIio.'蝣Vl;‑"・!:i‑.fiit>;'>二ffc.ll.:サJffcftji:どし‑jXに伝:.こ られているかを、ごく大まかにのべておきたい。

(6)(7)

伝説的な色彩を首足できない1)ユー1)ツク(Riurik;に対して、稜々の問題はあるにしても とにかく異本の人物とされているオレ‑グ(Oleg879‑911)は、ノダゴロドとキーエフとを 統一し、また東スラヴ語族の多くを征月足してキーエフ・ロシア(キーエフ国家)の濃礎を建設し たL'ぺ・t'Zt'

‑、r./ノ寸レ一一、、∴907'・二:9111.ニーJコ'I*,こ*‑,+'‑二¥>>γ、I.‑li*.‑r<i‑j‑trf.r;‑rこfl;

えばビザンツ帝国と条約を結んだ、というのが原初年代記のしるすところであるoこの2つの条

約!∴与蝣tfJSiL.I/二蝣Ifllw‑'U一二一てい<j‑'みな!蝣>寸、・蝣・蝣蝣・f]',1,1こくI..W.‑.∴、ZnJ川丁年∴蝣'*f^約 は、オレーゲがコンスタンチノープル(原初年代記では、つねにツア1)グラード)に連征し、糠

が完杢な勝利を占めた後に、コンスタンチノープルの町から「僅かばかり退いて」(Otstupiv maolotgradu)いわゞ武力的圧迫をビザンツ側に直接に感ぜしめながら結ばせたものであり、

条約の内容はもっぱら通商に関する事項に限られている(後述参照)。そして重体としてロシア flilj.二f∩之.二も・:!り1'i・tV‑約声紋>''i)L'y<二で∴蝣'‑・、寸I‑I‑;蝣;〕!1"'J.二 使節を派遣して結ばせたものであり、「キ.]スト教徒とルーシとの間」のr友好」(Liubovi)

(4)

千:ニi.ォ;・'IIl'・蠎*

I∴.‑1."';蝣蝣・‑蝣'・

‑i蝣:.'・.、・‑㌔rI;‥,・・‑I'‥9"iT、[!I'

するとき、攻の2点が注目される。(1)911年の条約は9〇7年のそれとちがって過疎に関する

二.'Jp‑fi*一合モIか、‑,i一・:K.bI'‑ォtごこい・.)、Il的一蝣1"代記o誉、.チ,:r.‑‑V')7"'、、'1̲':LTl冊r&い甘T,刑法 上の諸規定や、ビザンツ帝国に動拷す/:'ノ7・‑シ人の退倭や負債についでの瀬扱い増発をT.にして

(8)いる。従って当然のことながら、(2)9〇7年の条約の内容で911年の条約にくりかえされてい

るものは全くないo

このようにオL,‑グ.I,ま内容の全く相異る2つの条約を机々の時に結んだことになっているのyT.

対し(原初年代記によれば)、I)ユー1)ックの千イーゴリ(Igori)(913‑945)の結んだ条 l'・′;‑'‑:′㌻∴、一十I‑'・・.二1∴'、ナ・・蝣.i‑J''l・‑*,"!''・「''V‑.T∴I

中で昇も体裁の備った、貴も詳しい尊のである。それIニロシア例が完全な敗北に終った941年の 遠征の後、「投撃を望んで」(khctiamstitisia)企てられた達征をビザンツ側が、和平交渉 CvOによって阻止しようとしで締結にいたったもJJ)である。

イ‑ゴリの死後政治上の等旅は、その妃オ‑1)ガ(Olica)(945‑966)にあったが、やがで 自ら等権を握ったイ‑ゴ17の子スヴヤトスラフ(Sviatoslav)(965‑972)は、ロシア・ビザ

ンツ・ボルガル三国間の複聯な・rk年関係の結果、971年',こビザンツと条約を結んでいる。この条 的はオレ‑やイ〜ゴ1)の屯のとは内容を‑,変Lで、通商や刑法に関する規定!∃重く見られず、領 土保全の事項をふくむ和牛の条約に.終っている.

註(6)リユーリツタの伝説性と実在性の問題については、拙稿「古代ロシア史におけるワ.)ヤー グ人」(票良学芸大学際要3巻3号)<n3・4節及びそこに引田されている文献参照。

(7)VernadSky:Ancientlもussh.1052pp.359.336

(.q本稿にbLさては、I.ll1.:r!i4‑j「柑こふく.羊サ:;'‑‑;.‑.tf.‑fs:ES!"‑‑‑いて∴∴王 とんど言及することがてきなかったL,「ノt‑シの技に従って」(tのrusskomuza‑;onu)とい うことばがしばしば使われており、役の/i‑スカヤ・ブラーヴガと共に古代Tlシアの法律研 究には見のがすことの出来ないものであるCcetz:DasrussisclleRCcht.Bd.1.ド.234以 下に特に論せられているC,

(0)イ‑ゴリ(つ条的締謡の年については、045年説(Kulisl‑t>r,Vasilicv,Gitenuanilら)と 944年説とがあるQrekovに焦って944年をとったKievbkaiaRusi.山.457‑8参照o

PJnklatova:IstoriiaSSSK.をはCォ>OcherkilstoriiSSSR(1953),Istoriiakuliturui drevneiRusi(1951)などみな944年をとっている0

3

原初年代記に伝えられる以上のロシア・ビザンツ条約は果して実際に結ばれたものであろうかO

(5)

ニォ‑サt一・・こ!:二・!<n>∵、V.V)午ftZ.‑!..;:,‑*.n‑':い':Pu"蝣*.て㌻・‑V:'."O、A*:w駅>¥1:

質から考えれば、それはGrekovらのいうように客観的な史薄であるべきであり、何よりも侶

・,V!V‑.'・‑蝣':I.、'・巳1I.、.'"^∴.!蝣・':蝣'.:"蝣、,;・*";㌔..ざt}yナ.壬こ・・'.‑..'‑>;・"ラ‑r!mT′:.!巳 記が、特にそのはじめの部分において、そのまiに史料として璃いられないことについては、海

:gd:外でもわが国でも既に指摘されている。4っの条約のうちイ‑ゴリ条約(944)とスヴヤトラフ の条約(971)fcついては、ビザンツ側の史料にも言及があって、問題にされていない。之に戊

い 、寸し‑‑*・・.2∴一、‑K'J∴、lニー∴・・・].iviii'Ki'i'jた言'・・‑':.""‑j;二Hが一二昌机.:し、た、,、た、

J'、し¥*.'・*冬蝣st^'ぶこい:軒。、.、L・:。蝣・,蝣蝣;:‑onT′l・'トM'J.二つ、.、こ、</¥サー't‑iC茶系ミ蝣'7!ミTn ばれたかどうかさえもなお問題になっている。

的丁′.7、、‑ici.,'.‑.、.二・>;‑ii:・く,‑':X*>,二!tftt!;fLiil‑ri*い一一/'‑ナL一一**・サコ:‑く'/ンT・ノーフ'L .1二拝礼*:fT‑V:Lli‑∴二、I‑・・/>;‑im<ii:.‑'∴題sw、V:・:'一蝣・‑T.V:Uこ.・l::二‥サー/V:いる。f'f'・・"j::打‑j*

チr,f・;・:V:丁一!・‑.こ七、・、.:十寺∴!‑、‑ftT‑!t'一Fim:11ヾVA:、iff‑‑LIl'j‑ff:.'*‑こた、.、、‑.‥さ.1寸‑'̲Il・*。。ち (サ<>

yr!i、ここ'';>";;,::.><・こ∴トiツ)、十I*.

r.*∴‑‑7V.̲J√t.、・二I三績・v;‑.;;'.':、‑・;,‑.‑し‑

ツェル(Schloezer)(1735‑1809)は、オレ‑グのコンスタンチノープル遠征とその条約を香 (lの(13)

:i二し/:',<)''}'''、てi.‑>t‑∩‑・ンTL‑J'‑1†・,:;iて1̲LL‑、い.‑r..'1;i・∴(.∴「!:y.礼:,‑‑,>言ミさ.

にシ‑レ‑ツェ,Lのいう如く、907年の遠征については相手のビザシツ側に直接的な典拠は見出

'蝣‑.<、、'・てJl、・:∴,!:・!・/,‑.二、二;¥、蝣tw':':‑,'i.¥二;・二s‑;y:蝣:;,:蝣礼∵!!・!..!二':.<.rtftj;;':*/'J:でたいi二 しても、とにかく遠征が行われたという瓶史的事実に基いた記事であろうという考えは、また当

然のことであり、この紬こ従って、オレ‑グの遠征と条約を肯定しようZ:する努力が、特にロシ U4)ア人の学者たちの問になされたoそして19世紀牛ば、ウスペンスキィ(F.I.Uspenskii)の注目 したPseudo‑Symeonの年代記は、叔近アメl)カのロシア史家、ジェンキンス(Jenkins)に CIS)<ォ)

よっで再び新しく取上げられたoジェンキンスによれば、TheContinuerofTheophanesは、

901年のTI!.1‑いi‑:‑・・こ.1/よ;,l、!‑'P:一・一こ‑'.?.蝣い、/.'IV.1.‑・・蝣l::i.‑J:‑トサ・、.1).

中に通過した地名を列挙しているO一方Pseudo‑Sgmmeonもその地名を列挙しているが、た

∴、‑:'I‑Vi.」:二・I.、・‑1''lせ.I‑:・、ナー・:I,二v.'..r‑,i∴、,.ニヤ '*.'!'、了蝣.vff:蝣蝣!蝣.】・(.'l・、E 料によっているのではないかと推測している。このサラセシ潅軍に関係した地名の列挙の攻に、

Pseudo‑Symeonはもう一つの地名群を列挙している。しかもこの笥二の地名群はその順序がま さに古代に怠けるルーシからコシスタンチノーブjLへの正常駈路と一致するのである。かくて、

ジェンキンスは「Pseudo‑Symeonの第‑の地名列挙の背後には904年のサラセシ人の攻車の スト‑1)イがあった。算二の列挙の背後にも何かあるのでl,ユないか。」という間を出し、それこ

そ十し一一^iiiil.‑C.i.";:すTni、.tこヤ蝣‑'..‑.‑‑li:こ1‑I,、り、}':'礼て蝣/V.い二蔓二ぎニサj,,irL

(6)

ia屈s*

・"^'・・*r】こ)tこ. ,‑・̲ ¥、I‑こ.こ  、L fI‑/こlL:呈.当館'*1111・'.・'lIVヾ ・I ¥、i'"Iし、'こ・・'" '"'。

原初年代記におけるオレ‑グの‑Jンスタンチノープル遠征の記事は、キリスト教の立場から書か れたVC,おいが強く、 7L/‑シの行ったという、養磨な行為の記述には異教徒/こ対する憎しみと恐れ

.‑::;‑.! "蝣.;:・.^.‑ト、 =∴・jet/: Hi''・ : ‑. '、・,ピー・'・ I‑I'蝣1.'l∴iサv;;‑ ‑.、しり. 、い∴了cii.;.^、E.1ト'

られて凍ていることについてォ、現代ロシアのビザシツ史研究の代表者の一人、レフチェシコ (Levchenko)の指摘しているところであるO しかしながらオレ‑グが遠征を行ったというこ とだけは(907年に、ということは別として)事実と見てよいのではあるまいか.重く虚偽のこ とを、原初年代記の作者が作為したという想像は余程の根拠がない限り葺担うべきであり、ビザ

(17)

シツ側に確証のあるアスコリドとジーA‑のコシスクシチノーブル遠征をはじめ、古代ロシアとど

・If',ツとの)=・、、、恥un'jl蝣'蝣K":.‑..?.‑I.、‑:、 ‑i. ‑ォ"'i‑ " I‑ナ、:J!MiJ.!V:∴ナ・: ;、こ蝣・蝣:.<・<蝣蝣∴、 ‑ V‑

‑エフIロシアの国家的統一の基礎をつくったオレ‑グだけが、ビザシツ達征を試みず、またオ

ー.I‑机「如くl二"i I :.蝣;・・蝣;蝣'」:叫‑;¥'V^.A‑il 二.=ごな:、い.・さ∴主.・'こ いi'vi' ‑̀蝣fl't"."心‑',V;

iであったとは思われないOキェフ国家の当初にあってはその関心はまさに遠征の形をとってあ らわれたものである。

(】8)

すし‑・v>;;ill二'.‑.'"I ‑ォi二ii'j ;ミ こ1."* '‥  こら∴、 ;‑し、・・i.'lT>二!二:蝣;?・>:.‑L vAt.*ォ*‑.i. r1 ′′:

ことは極めであり得べきことであるC,イ‑すすやスヅヤトスラフの条約が何れも遠征との関係に おいて実現されたことに思いをいたすべきである。約一半世紀前のアスコ1)ドとジー}L,の遠征が条

(19)

約を結んだかどうかは問葛があるが、大きな国家的背景をもつにいたったオレ‑グの随代とは区 糾して考えられるべきである。

ところでオレ‑グの2つの条約のうち、リO7年の条約は年代記には重文でなくで、その断片が 伝えられているに過ぎない 911年の条約は既述の如く条約としての体裁を備えているのみなら ず、その末尾にft、 6420年9月2日という日附まで明記されている。イ‑ゴリの条約とオレ一

一の.モ[蝣'蝣'':∴:'"'I';;判.‑.:'蝣・/こ蝣'; Ik蝣 バ<蝣'>':‑.:'"・y x、 :y.".、二・/,!)1了 ・・Kt'Iが、イ‑ :・!・;'一 1‑10

条的をもとにして年代記作者がつくり上げたのではないかとの顔も患こるが、これについては、

既にオブノールスキィ(Obnorskii)が言語学的な研究によって、両者がそれぞれ別個のもので

C2I)

あること諭証したO そして早くウィルケンCWilken)が注目し、ワシー1)エフ,レフチェンコ らによって支持されているように、ビザンツ側の史料に間接的な言及が見出されるのである。

(空望)

即ちスヴIrトスラフの父が「以醇に誓約された条約」を破ったというが、このスヴヤトスラフの 父とはまさにイ‑ゴ1)で走り、イ‑ゴ1)によって破られたという「以蹄に誓約された条約」は、

イ‑ゴ1)の以前、つまり1)オレ‑グの時代に結ばれた条約以外にはあり得ない 90'年の条約に

(7)

・一・.、∴工fi.‑ril‑r.Il・1‑'・**.*>f?こ]i蝣:し.A.一一しH.1、.と**」蝣∴1、のt'.l一

・'‑:蝣;・'、ミた';こ丁でT‑'Ki'Vぐ・コ'>*.'‑'H 斗・̀:1・‑‑'!fこ'<蝣:''<' :蝣'蝣'z'

蝣:二・わ、:・トt二己.I.蝣*:‑j?:二

するにしても、911年の条約ではその事文に、「単.にFf頭のみでなく、史書T,より、またわれわ れの信仰と授yc毎って武器を以てするかたい善い.′こよって(kliato二utverdoiu)」ということが しるされている。

かくてシュレ‑ツェル以下少からぬ学者たちの主張したオレ‑グは一変も条約を結んだことが ないという寅張は、今日では支持されないものとなっており、少くとも911年には条約締結の 事等があったと民らるべきであるOそれならば907年の条約はどうであろうか。しばしばのべ て華たように907年1C条約が結ばれたという事:tついては、なお冷断を葺担えなければならな

(US〜、・、:‑K‑.':蝣'蝣、‑.''蝣I>音′!.?k917㌦':‑r∴‑JI."ち.こ夢∴ノJニーI亨、9「j'ト'‡′j<さ・5f持て 907年の条約,C.収録されたものとは考え難い。たしかに907年の条約は944年を条約と輝似し

ており薯復している。'しかし詳細に検討して見ると944年のものにはない内容も亦907年の条 約に含まれているO例えば、メシャ‑チナ(Meshachina)、叉はメシャ‑チノェ(Mesha‑

chinつe)とよばれていたものについてであるが、これにルーシ人がコシスタシチノープルに滞 一一・.、、、蝣*c'\'V'蝣>い・・蝣*i'i㌔.∴I.‑:Aft:'・:'、niy.¥∵''1二的て::.'ti・Lp∴

ヤーチノェを支給するという規定yc終っているが、907年の条約で払、その期間を6ケ月とする こと、その品目はパン、ぶどう酒、肉、魚、野菜であることが明記されている。このことは944

;蝣.ii、i).:'・'(こt'1"‑:ト、.一・‑A"i‑‑‑;・・';ニー1.*蝣*.・Ji/:一三+.い・、9・「II;';^,二お、.、一一:.'、壮・。

慣習となっていて、細部まで規定する必要がなかったからであろうo現代ソヴェ‑ト史学では、

<・一・ォ

!I:17一:蝣tVi"・mI:蝣ノ・V‑''i'蝣、、叶‑j・、<!/:i十¥‑(T.i.峠l:、I.I(」?.蝣:、n:‑¥i∴‑' コhj:・ftr‑'J"'1′・ト/:ゴ・'・亡.・'‖I"'.i:し."..(・!耳f.;・‥n'

蝣・.::::‑:/・..蝣、二';すてり,''Tf'::':㍗L・、が、消し・::†onT

'fの条約の内容を、年代記編纂者の作為とは見たいで、オレ‑グの条約であり、経って当時の史 料として見ることを'タるしている。ロシア以外のロシア史家、ビザシツ史家も多くは同様の立場 にたつてい・jlo

聾するK.'

fC.原初年代記VC収録されているロシア・ビザシツ問の諸条約はそれぞれ、オレ‑グの

蝣¥iL1‑Jり・i.上r*・'/ヤ¥‑^"・"・'r'時代'結.!'iこ:‑t:t′I・i"J,v^:tミ∴‑'J.!>、あせり蝣V‑.'蝣 これらを10‑HJ二紀ンこおけるロシア・ビザシツ関係の、そしてまたロンアの政治・社会経済の貴賓な 史料として取扱うことが地米よう。

註(10)I‑evchen叫よ、たとえば、9O7年の記事について、条約本文のみか唯一一つの信頼に足る史 料で、他はギリシアの資料をかりたものtCある、とさえいっているoLc、chenko.sもr.IKI.

4七く11)A.G.Muunr:AnOutlineofMoLIernRussim土iconography.1938‑p‑8‑ll

(8)

(]2) August I‑ullwig vO一一Schliizer : Nestor, Ri‑ssischo AnnaTen J糾r'・

(13) Soloviev ; Istoriia Rossii s (ire、蝣neishikh vremen. Sergeevichi : Lektsiia i isledovall二e po

istorii russkogo plava. 1883.

(141 Krug : Kritischer Versuch血AufMarung der Bixmtini酔hen Chronologie. 1810.

Pogodin : 0 dogovorath russkikh k‑liazhei Oleg.i, Igoria i Svi.itoSIava s gretami. 1<ussk.

Istorich. S!ormk. T.I. 1838.

(15) Jenkins. The Supposed Russian Attack on Constanもinoj‑lt>, evidence of the Pseudo‑

symeon. ̀̀Ftl‑α蝣ulum". July. 1949.

(1G) Theoph. <ユont. lib. Vr cap. 20 eil. Bonn 1838. p.307.

(17) A.A‑Vasilie′ The Russian Attack on Constantinoi心in R仙The medieval A<iUlemy of Anleri(m. 1040. (以下単にVasilievとして引用)

(18)オレ‑ '/の遠征はVe.nad弓ky : Kievan Russia, Vasiliev, History of llyzantu‑c E1‑‑Pill., O.strogorsky : G叫hiolite des Byzantiniscl en Reicl‑L・S等においてもhistorical factとされ、

今日では、ほぼ定説になってしろOべ;しギ‑のGvegoivビ<^'‑一時否定論をLl‑なえjこカこ0寸ho・

gorskyによって論破された.

(19) Grekov, Prisellkov, Platonov, V.isilie.1らくま条約がおったことをを述べていl:が.,限糾す 蝣Mく.寸J二‑*nt:こよ・‑てi7‑.‑A¥こてさii^i‑;津F,Jfci>こIL,

(20) Baratsu : Kritiko‑sra,.nU'lierinui analiz dogovorov Rnsi s Bizantiei. 1910.

(21) S.P. Ol norskii: Fazuik ̀logovoro√ rus与kikli s gr(,k・11‑‑i. (Sb. lazuik i mui㍗lilenie Vt‑Ⅶ) Httfl.

(22) Leon'只Direつ11i汀Istorm・ lib VI‑ can. 10. ed. Bonn 1828.

(2?.)悶Iaklimuto/ : Neskol】kJ zamechanii o dogovoiuk'l q giokami Olegi i Jgoria. 191w.

(24) T‑evchenkiに特にこれを寺張しているO上掲論文参照。

(2f>) Geiman. Plavo i Sud. (Istoriia kulituiui. 1951.)

ソV'ェ‑トの大学、中学の教科讃:は何れもこの立場をとっている0

4

われわU:う*rサ:'‑ア・ピーD‑i.・ソ一策的:こif.口せざ蝣:>',」絹 いのH.、ロシア・?;代史におけ 一肌V‑Jた

・・'"蝣(l'.、:!>'一日!、'こ. ‑:∴! ・・こ, .サ.‑ ∴   ‑.:i‑  ∴ミ.‥1‑‑ ・.こ:.・て・ !・r一寸‥ '',.:.'..

とイ‑ゴリの条約とIj援多の興味ある問題を、われわれrL̲穣供する。この論考のはじめにそれら のごく大まかな輪廓だけは述べておいたが、より詳細に内容を検討しながら、条約を要請するに いたったキ‑エフ・ロシアの社会経済ンこ説き及ぼしたいと思う。

.'..'.'.蝣蝣IiftH∴ ∴,tJ∴t‑,∫.!∴.* V蝣*・'ト.チ.o:こいことは.オーl)カ・イ‑3 >l∴‑v‑*t t∴e ‑i.こ

(101)

(9)

赴きそこで貿易するビザンツ人について述べているのではなくて、もっぱらビザンツにおける、ル ーシ人について規定していることである。之は一般に容認されているビザンツの対外貿易の滑極 (竺6)性を、対ルーシについて雄弁に物語っているものであるが、少くとも10世紀に関する限り、ルー シは特別な横極性を以て対ビザンツ貿易にのぞんでいたのである。既に若干ふれたように、コソ

ーサV;'・′一一・.,・l∴、一二、I:lご11*.・サ蝣、',I∴:一二I.は、・二.'蝣"・',[i・‑い・:L主、二:TTl│'‥*‑ftV‑:'‑*

れていたoオレ‑グの条約(907年)によれば、(1)メシャ‑チナとして6ケ月の間パン、ぶ 'u' >!:'、、肉、;'.;i、‑Jt・一・‑.ここ∴、、○・I.:をLI‑VL;ir、・3>?副1.,̲あざ'.‑' 蝣蝣'‑"'.、t描、

綱、<?;ts、V.^<∴哲!蝣‑*.蝣・*‑!∴十:∴ナ∩I.'い'∴・蝣:・.'・!".'Ft:こ.∴∴(・;.i'i".';n;^;'蝣蝣;、.t.

すに」(neplatiachemuita)貿易を行い得る規定があったことである。ビザンツ帝国の対外 貿易は国家の軍要な財源であり、高い関税障壁がもうけられていたのであって、11世紀末にベネ mt.チア商人に̲対して無関税の貿易をゆるすYcいたるまで、このルーシに対するが如きことはなかつ 蝣^*・'サて・:言、>:fWr・

i‑v、、>j.'r汁:I::'.‑.:>ない。・∴‑・∴・T・た骨 ∴‑∴','I二i"・」‑‑o^;」

に.vノー/:f:‑'二iI'*・'T>'Mサ・亡.‑てI*.‑∴、.、・' ぜ1‑I‑*・、、の二相Er:tf‑/W::r>'‑::US‑・こ

拝で1サs'1・i"!.;ナ';・:u;午.V.i.ユ駐Il.∴ .!三・''J.̲一蝣*伝:∴: >‑i‑い唱、蝣.''1:症./‑;‑rSS蝣・蝣&嗣I'I'J i/:r.i│.*蝣‑.,‑:ナt>で.'.i‑'.'こ‑V‑こ、;"';i、y‑‑..・∴・ ・:ヒ・肯.一蝣i‑j'gr.'‑s,'したもI)てこと.'.,rj。

イ一日・'"1ミ*'!∴/‑‑'*一蝣㍉二・ミ‑・;'.'.""'蝣{千・:/い緋し二∴・‑:、J・、言・.二サ‑tミ:しさ.ILす、

また軍要な無関税貿の規定もなくなって来ている。

ところでノレ‑シ人はコシスクシチノープルにおいて、特権を保障されたと共に、租らの行動に

VN..ち::iii‑:lLも・如.‑.r>;こ・二、;、L:・・‑‑iv;乍蝣i':<:蝣一・:蝣ヽ「III/.∴‑.一転・トが、i.し‑、r・イ‑

ゴ1)の両条約仁君叔されるのである。>V‑シの守るべき制約的規定というのは、オレーグの条約 (90'年)によれば、(1)商用以外の目的で(bezkupei)ビザンツに釆たルーシ人には、メ

シャ‑チノ‑は支給されない(2)ルーシ人はビザンツにおいて、暴虐行為(pakosti907, e‑s)bezchiniia944)を行わない(3)ルーシ人はすべて聖ママ寺院に(usviatogoMamui) 留する(4)ビザンツ側にその名をすべて登録される(.5)コンスクシチノープル入城は、

唯一つの門から、ビザシツの役人と共K.(stsarevuimmuzhem)、武器を携行せずに、また 50人以下の組をもってする(muzh50)イ‑ゴI)の条約にあいても以上のcn‑c5)の

規定はくりかえされているが、更にもう1つの制限が追加されている.即ち(6)し‑シ人は聖 ママ寺院において地名し‑i:はならないことである。}L‑シ人が受けたこれらの制約は、それ以蹄

;¥i:¥、:′1‑'‑':、̲てy..‑..r./:い、しばし・::">.iWj‑'.¥1∴、、tti即L‑n‑i/二こ.:才も明Sfc.tllこL:::

vlるo従つ‑こルーシの特極を認めたにかiわらす、このような制約を規定し得たことはまたビザ シツ側にとっても一つの成功であったと見らるべきであろう。しかしくり返して言うが、横も注 (102)

(10)

意すべきことは、 10世紀苗字において、なお)i/‑シ人の対ビザシツ貿易が、このような規定を相 手国に必要とさせた程に武器商人的・掠奪貿易的性格を有していたことであるO

註 (26) Lewis, A.R. :ざaval Power and Trade in the meしIiterranean A.D. 500‑1100.

1951.p.156.

(27) Kuibakov : Torgoblia i torgovuie puti (Istoriia kuliturui drevnei Iもusi) str. 340. (以下 単にKuibユkov として引用)

(28)貿易において外国商人を郊外に滞在させることは、ホザール人の場合にも例がある。

Kulischer : IstoriiユrllS‑kogo n.irodogo kho∠hiaistva. 3025. str. 31.また聖ママ寺院がル‑

シ人の逗苗場所と定められたのは、 9雅紀半ばであるとする説もある Vasiliev. P. 2:!3. J.

Pargoire : St. mamユb, le quartier russe de Cフon一舶utinople. (Echos d′orient耳‑1M8)

5

‑体両国の問には何が貿易の対象となっていたのであろうか、条約そのもの按、これについて 多くを語って!,まいない。しかし原初年代記はルーシが何をビザシツにのぞんでいたか、また何を

ビザンツに与えようとしていたか、についての推測を可能ならしめる0

オレ‑グが、コンスタンチノープル藻征に成功しての帰路に持ち帰ったといわれる「黄金 (zlata) 、絹織物(pavoloki) 、果実(ovosjhi) 、酒Cvina) ,および模様につきのあらゆる 刺繍(vshiakiia uzoroche!a)」は晩にルーシがビザシツに求めていたものを予想させる 941

・.;・・・!:  ‑  卜川が、9! I'二Il". '蝣・∴;.征‑二言!・'・!     い    さ'.'‑*・t .'

チ"・' /:rv‑、 'I',,*.'.r'i一卜 .・I ′:し  こ:・、丁が. I こ*. T‑'べ・Ar:".・"」こ †‑:rI)ト

ゥルジーナ(Durzhina,親兵隊)にはかったOこの時和平に賛成したドゥルジ‑ナは「敬わず して金と鉄と織物を得るであろうCne bivsheshia imati zlato i srebro i pavoroki)」と答 ぇ、結局イ‑ゴ.)もこれに賛成したのであるが、このドウルジーナの答えの中に、われわれは、

iLiiL ・'蝣'.i;:‑‑1.1‑.‑. Il;I:†U.二サ.‑.V,‑*:.・て∴てこ:ち :、 iミ、 rn、 ㍉ヰ fftf'‑.V.  二r‑ ‑・,‑^lI<・i'l・

:・二.,十一H J .・'.I.'・て'/=紐、 fこ・,r.し 、吋.V」'‑ヤ'・ノ二蝣v 蝣蝣'・ 。i7"の.訓.!7f二   二い

たこと欧述の如し)がビザンツ皇帝より滑られたものは、 「多くの賜物(darui mnogi)、金、

および銀、絹織物、および様々の什器(s.sudui razlichinuiia) 」であり、スヴヤトスラフが

.I.I V・*>‑^げ‑l一二仕':・'‑<蝣11.1、).1こ・‑ lこしたy.)>、 I.I‑I‑ ‑̲ ・・川!∴こ.・v二LvIC;・、∴・‑,二I‑I二.トいlン

r 、・/一寸∴‑.',蝣!‑>:蝣::、 fllttlF如、 W.i一:∴ ご・∴びり二 .IJI.‑J‑‑'.);蝣.‑ I.  ‑¥ミ.二・りI・‑'.、・ノ ・・い?‑フ"‑"・u

r'̲ィ  .‑)蝣;・‑7‑7こ もIJlこ、 :I ‑ニ <'SW、‡I  ノI‑ I L‑>)蝣こ い′し一一&ftl :̲'‑i:'iデ.∴、・i,o Vv

に上述の諸品目はルーシがビザシツより輸入したものの主要なものをふくんでいるのであるが、

(103)

(11)

絹練物K‑その中特Lこ耳要な品目であったにちがLv,ない,,押紙物について1まイ‑ゴ17の条約に「各 々のルーシ人J?50ブラ‑トとクで10‑12の絹轍物を貴い得る」と規定され/こいるo 各々の ルーシ人ということは即ち貿易の量の制限を設けたのであって、これもオレ‑グの条約にはなく、

イ‑ゴT)にいたって、はじめてあらわれる制限なのであるが、との規定!まビザシツにとっても絹 織物が貴賓なものであったことを示して‑いる。周知の如く養蚕の法がはじめて、ヨーロッパに伝 えられたのは、ビザシツ帝国においてであり、商業とエ登に国家の独占を原則としていたビザン

(雪9)

ツで、この絹撒物の生産と販売とは特h=国家の統制が輯罫であったのであるC,このような.た'こル

I. !武ど]t'∴ttvT;㌧1;s:・. ::・‑∴   一  一:∴:、 ・: I 、∴   蝣: I、∴・.「∴.・.∴・ォ'蝣 NI)一一つがLLvA'蝣‑'いるよう.‑こ',"、わ.U‑lo

ここ.チ.て、 ‑K‑・l ‑シ‑,!)"ビザ  二品りL'したも(う:::>rc;;..,‑r、づた うかo こし・‑>iT;こづい一蝣‑1i古代

ロシアの鐸済、その特産物に   も介せ考慮さるべきである。原初年代記において衷初に労え る苗代ロシアの産物は859年粂下の「自りすの皮」 (be了a vevel二tSa)であり、茨スラグ人の ポl)ヤー‑=ン族、ヴヤチチ放、セーヴェ7L族は、南方から良人し‑こ彼bを支配したホザール人に

こ.('<蝣ォ:uL L‑;.M‑こ.Y:・二い+. r.伝:こrv<「∵、.,すし *j'し'\時代.こたつ‑LrI、 ‑'"<!1‑I:‑‑V.‑r. 、l枚を山二

股し、坤bがそれまてホサーノL人に払,:Cいた苛をやめさせたというか、その茸とはこの自り すの哩であったycちがいない.,またオレ‑グがドレダリヤ‑ン族を征服した時純が課した茸は

「黒猫の皮一一枚ずつ」 (po chsrne kune)であった。かくて毛皮は早くからF,シアの特産であ ったのであり、ルースカヤ・プラ‑ヴダに患いても、毛乾が賞藤の役割をなしていたことが知ら

m>:

れ、ビザン、ゾ貿易にあたってぜノこれが取出されたことは充分予想し得ることである。毛皮をふく

y‑    =・ォ.*;t・・!.L‑こ‑. :ト 工       :・すさも・ ∴‑∴.r; 、・.h l'・*・'*

ろうO即ち、イ‑ゴリがビザシツとの和平を確認した時、*;ま、ビザンツの使者に「獣皮、放れ

(30

い、および蝋を与えて(ogarivとkoroiu i cheliadi二u i voskom、)」帰らせたのであっTec上述 オーl)ガのビザシツ訪問についての記事は、ビザシツぜ亦、ルーシに求めているものがあったこ とを示しているo即ちオー7)ガがキェフに帰着した後ビザシツ皇帝は使者を流して言わせている、

「我は汝に多くの贈物を与えた。しかして汝はルーシに帰って後、多くの贈物を、奴れい、蝋、

し¥Vl\

獣肢、 30びLT助太刀の放士しvoiv pcmoshch)をおくり届けるであろう」と。同じような引用 が軍なるが、もう一つの例をあげ抽ま、 oきのスヴヤトスラフがペレヤスラグに住まうとした時、

ルーシからの物資として「獣皮、蝋、一毛肢患よび放れい」をあげている。

以上の引用によっでわれわれが知り碍たことは古代ロシアとビザシツ確固との問にどのような 物賓が交流したか'JCついてばかりではないo注目すべきe‑,とは両国の問に贈物、叉は掠零という

). 1こi'':二:'.'.U ∴ 、 い二1.∴・''::  .・  ::,1・‑1'、∴  ∴: ‥∩ I̲ 二IJl I..・∴.蝣.JFi.'.‑‑ォ'c'

(104)

(12)

君乃至は交野階級(ノL‑シにあってL'二、クエヤージ及びドrンノtジーナ)の間に行われ‑こいるので あるo然るにロシア・ビザシソ条称CLは商菅という形で肝こ裾ているoこL,)問題を旦う少し5K‑え て行くことにするC

条約には商業に関係した言葉として、度もしばしば見えるのH:ゴースチ、ゴースチェ(gosti, gostie)である.オレ‑グの9〇7年の条紗こI∃∴ゴースチにメシャ‑チナを支給すると規定さ

:ォ蝣サ

れ、 911年の条約にはブースチェが、拙い、を失ったときのJ:!5i」があり、 944年のイ‑ゴリの条

(.3)

約yr・なると、ゴースチは条約締結の際使節団の中に数多く入っており、しかか机吏節が金のペチ

(SB)

ャーチ(pechati)を持っていたのに対し、ゴースチは、銀・7)それをもつtJいたOゴースチは、現

;." '''  :・・1:‑∴ニ ー ‥ 、、V一 一・       ‥ 、 I・‑ '  ‑

年代記、及びキーエフ年代記では、筆者の検討した限りでfif吏用例'X余り見あたらない。寮初年

、. ・ミI ‑‑"、Jl∴ 。 . ‑1、',' ' ' ‑".一  ・ ・蝣'"i'r"‑: ‥  、・(蝣・ ・.‑ '・'∴ ・'

いたアスコリドとジールに対し、その部下をし こ「われらはゴースチで、オレ‑グおよび侯の子 イ‑ゴI)のもとから、ギリシアへ行く途中である」といわせている部分だけであるO このゴース

蝣tfj 、昔Ii ‑こ̲;.、:i'・こ̲I: : '蝣1S丁で、、.'‑‑,.)..て、この言葉し叫‑1蝣;I‑1しノウIJ U l‑ t:L'Tこ蝣tflll.!.‑‑こ?‑ !'、

更にキーエフをもr与領してキーエフ暫宏紘一の基礎をつくった、オレ‑グとその部下Iたちが、ビ ザシツlて往来する商人としてのべbILている点に注目しなければならないoたとえこのような言 葉二人 ∴、:と..‑P‑H蛸己、.〕i‑LT・当時こ言ih.H:'二のて)Jないにしこも、 こic:‑T∴/‑‑%‑T‑‑ !‑';lジー

cォo

ン‑ク(商人‑敬重隊員)というキーエフ・ロシアの社会経済K.とって、見のがすことの出場な い軍要な苛等がひそA'Cレ、ると甲.われる,,であるかbこそ原初年代記はその後においてゴースチ の行う貿易につい‑L:のべていないのであるOクこヤージ(侯)とその部下たるドゥノLジーナの掠 奪、贈物として述べているのではあるまいか。

ところでゴースチはキー17年代記LTおいては1174年、患よび1175年の条に何れも商人として 用いら々い:̲Lいるが、 「拡美本ルースカヤ・プラ‑ヴダ」に、ゴスボード(gospog)とあるのは 明らかにゴースチの誤りであり、 ‑'rれは外国からの商人ではなく、ロシアの商人の意tC用いられ

(37)

‑∴、∵hil:ち  : I‑′      、:、 .>・''‑ '.一一‥・J:¥.:  ‥‑∴一 一.'・:蝣・'.‑ i‑:c'.、

12世紀頃から商人という特別な階級が侯や親兵隊と朋Il個のものとして独立L/こ棄ているのでは ."5るまいかO

このゴースチの外、条約では時にクペ‑ツ、クプツイ Ckuptsui)というI見代ロシア語語の商 人もHJJで来ろ。しかし大切なこと!'.‑;ゴースチ、クプツイが単にビザシツとの貿易に捉苓したとい うばかりでなく、使節(sli, sluij と共こ保的締糖ンこ際して、ビザシツ側との交渉に参加してい ることである。この事は条約が単に政治的な意味ばかりではなく、むしろ経折目勺な問題に畢点を

(13)

38

おいたのではないかということを考えさせるに足りよう。通商に関する規定を重くふくまないス ヴヤトスラーフの条約の締結に際して‑、ゴースチが参加している形せきがないことk:も注目すべ きであるe

まさしく商人であるべきゴースチが、さきに注意をうながしたように、武器の携行を禁止され たり、 50人以上の組を以て、コンスタンチノープルに入場することを禁止されたりしたのは、碑 らが同時に、また武装商人であったことを意味するが、この武装商人とはこまた実に侯の親兵険と して、キーエフ・ロシアの政治的寒椿をにぎっていた支配階級に属する人々であった。イ‑ゴ1) に進言して、 r敬わずして金と銀と絹織物を得る」と和平をすiめたドウルジーナこそ、条約に いうところのゴースチ、クプツイであったのであるo

ルーシよりの輸出品としてあげた毛皮、蝋などの苗代ロシアの特産物は、これらドゥ)Lジーナ

(39) 那ft‑lfe.二.t ;'、 f<U ."tit.‑:* 、      ̲'、.・一二.・: :.'.蝣一・'.∴I・I.' .*二も.‑∴'‑ '‑‑*.*:∩ ∫:

奴jH、∴ '.ナ・・,;;‑y│.:.‑.;^ノj:V‑ii:服  し、 汁 ‑]∴.二 ・‑1‑」i:f! ∴r>.二*‑‑ t‑ '''!:?Flv‑W.言.ll∴∴替 るものであり、生産力の充分IC発達していない当時のロシアにとっては労働力として用うるより

もむしろビザシツに輸出した方が有利であったものであるoルイバコフは「11億紀半ばまでは、

、‑IllI

外国商業は支配階級自らの仕事であった」と嫉べている。この11世:紀半ばというたのは1043年が、

ルーシのビザシツ遠征の故後の年であったことを考慮に入れていると思われるが、少くともオレ

ーーp、、・ †‑:J'り ‑MtrL K'ニ∴・ I ‑∴1;:'・・'.蝣.1*'・蝣‑V・*'.、  .I 、く.トI.!,;'蝣;i‑;∴!∴1甘‑iJと:'iL ;l:

事であったことは、これまで述べて来たところから言い得るであろう。イ‑ゴリの条約には、ビ ザシツに欲するだけの給をおくり得たのも、またどれだけの舷をおくったかを文者で通知するの も、すべてキーエフ候の穐利であり、義持であることがしるされているO国家間の貿易であるに しても、対ビザシツ貿易の黄頂点にたったのが他ならぬキーエフ侯であったことに注目すべきで

(41)

ある。そしてイ‑ゴ1)の条約締結には、さきにのべたゴースチ、即ち商人の外に、イ〜ゴl)白身 の使節はいうまでもなく、その妻、息子、場、およびイ‑ゴリの支配下にある多くのクエヤージ (侯)がそれぞれの使節をおくっているのは、要するに支配階級のすべてが、ビザシツ貿易に大 きな関心をよせていた証拠とも見られよう。

11催紀以後ようやくルーシの対ビザシツ貿易がふるわなくなって蘇るのは、ビザシツの対外貿 易の凋落も原因しているが、それまで外国貿易に異常な関心をよせていた支配階級が土地所有者 としての道を歩むにいたったからであろうo

要するにロシア・ビザシツ条約、特にオレーグとイ‑ゴリの条約は10甘:紀のキエフ国家成立当 初における支配階級の武装商人的性格が首景となって成立したものであるO

(14)

琵 (29) Levぐhenko, str. 1仰!. Lewis, p. 176‑ Euibakov. str. 338 (30) KliuohovSkii : Kurs russkoi istorii. gl. 13.

(31)奴れい賀易については Kuibakov, str. 820‑322.

条約では、奴れいの値段は「指織物2つ」に換算されているO

(32)ビザンツ帝国がル‑シより傭兵を欲していたことについては、前掲拙稿参照OなおVasiliPV は911年以前にこの協定があったとしている Vasiliev, p.232.

(33) Goetz. I氾1. 8. 】37.

(34) 944年の条約では、 kupt:qui (商人)ともよばれ、少くとも24人の名は確認される0号た Kon舶ntitius Porphyrogenitudによれは、オ‑リガがコンスタ,/ナノ‑ブルを訪開したとき には43人の商人が参加している (Grekov: Kievskaia Rusi, stv. 299‑300)

(3.">)これが何を意味するかは明らかでない Gtekov, str. ]32‑133.

(30)この考え方は現代ソヴェ‑ト史学にも見られる Ruibakov, str. 366.

(37) M.I. Tikhomirov : Posobie cilia Izucliieniia Kusskoi Plavgui‑ J953. str. i桐‑99‑

(38) Gtekoi,, str 286.

(39) Panklatova : Istorria SSKR.1953. str.41‑12.

(40) Euibakov, str. 366.

(41) Grekov, stx. 308.

0955年1月23日)

〔追記〕本稿印刷中に、 The Russian Pri marcz Chronicle (本稿註C5)参照)を最近入手された清水陛 夫氏よ'L‑借覧する機会を与えられた.,条的本文の解釈について.極めて有益であるが、本稿に引 宵されている限りでは、撃者の考えと大きなくいちがいはないので本稿には手をふれ寸においた。

Q9r,r>年3月・5日)

(107)

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