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天皇の象徴的性格についての論理的考察

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

天皇の象徴的性格についての論理的考察

著者 今井 直重

雑誌名 奈良学芸大学紀要

8

1

ページ 83‑95

発行年 1959‑02‑15

URL http://hdl.handle.net/10105/4868

(2)

天皇の象徴的性格についての論理的考察

今  井  直  重

(−)

明治憲法における天皇は国家の統治権者として、また統治権の総轄者者として、主権の担荷者 であり、統治権の作用である立法権・行政権・司法権はすべて終局に於て天皇によって総携され ていた。議会は天皇の立法の単なる翼賛機関であり、内閣は天皇の行政の単なる輔弼機関であり、

裁判所は天皇の司法の代表機関に過ぎなかったのである。すべて国家の意思は主権の担荷者とし ての天皇によって決せられ、一切の統治活動は天皇によって総規されたのであった。統治権の所 在については天皇主権主義、統治権の行使については天皇総槽主義の原則が行われていた。天皇 は立憲君主として法治主義の原則に従って憲法の条規により国政を行ったのであるが、広汎なる 天皇大権を有し、緊急勅令を発し、非常大権を保有し、国家非常時においては国民の権利・自由 を制限して専制を行い得る地位にあった。これは神勅主義の根本規範によって実定化された明治 憲法として当然の規定であった。然し民主主義的な根本規範によって実定化された日本国憲法に おいては国民主権主義の原則により天皇は全く主権的地位より離れて象徴的地位におかれること

甘こなった。

明治憲法においては天皇を国の元首という語によって表現されていたのであるが、日本国憲法 においてはかかる権力的地位を想起せしめる語を避けて、天皇を権力的地位から離脱した姿にお いて表現せんとして象徴という語を用いたのである。この象徴の語によって統治権の総櫻者とし ての積極的権力的な天皇の姿が消失して消′転的・非権力的な天皇の姿が表現されるのである。一 般に象徴とは吾人の感覚を以て全体的に把握し難いものを或る具体的な姿を以て表現する場合に、

その姿を指していうのである。象徴という語が君主乃至は元首の地位を示す語として用いられて いるものには、日本国憲法と1931年英連邦会議において制定されたウェス」トミニ/スター法(Wesト minster Act)の前文と1947年のイタリア共和国憲法第87条がある。ウエストミンスター法の前 文においては英国王位はプリテソ諸連合国の成員の自由なる結合の象徴である」(The Crownis the symbolof the free association of the members of the British Commonwealth of Nations and theyareunitedby acommonallegiance to theCrowrn)とある。またイタリア 共和国憲法第87条においては「大統領は国の元首にして、国民の統一を表徴する」IIPresidente dellaRepubblica6ilcapodelloStatoe rappresental′unitえnazionale)と定める。

国家の象徴は無体的で抽象的な国家を有休的・具体的に表現することによって対外的に国家を 代表するものである。国家を具体的に表現するものに国旗・国章・国歌・国花等があるが、これ らはいづれも物質的であるか非人格的なるものである。国家を人格的に表現し、対外的に国家の

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表現代表たるものが国家の象徴である。従っていかなる国においても元首はすべて国家の象徴で あるが、その象徴的意義と同時に権力的地位にあるがために象徴的意義は潜在的であるというこ とができる。明治憲法における天皇も日本帝国の具体的表現として対外的に国家を代表し、且つ 意思的に国家意思を代表していたのである。日本国憲法においては顕在的な意思的な側面が除去 されたので潜在的象徴的無意思的な側面が表われて来たのである。意思的・権力的な側面が稀薄 になればなるほど象徴的な側面が濃厚に表われてくる。このことを英国国王の地位について見る

に、英国国王には二つの部分がある。一ほ実際政治に関与する部分(efficient part)であり、他 はかかる実際政治から離れた象徴的尊厳的な部分(dignified part)である。英国王は第一の機能 が次第に薄れて、第二の機能が濃化しつつある。英国王の役割は第二の部分におかれ、第一の機 能は第二の機能に依存するものである。君主国における君主の価値と権威と国民の信服は第一の 部分の機能よりも第二の部分の機能に存する。それ故に象徴的機能において寧ろ真の君主の意義 があり、真の君主の姿があらわれるのである。象徴的意義における君主を以て真の君主ではない

とする言説は君主を以てefficient partのみの機能を担当するものであると解するからである。

例えばウイルピイほ「元首が実質的に統治権を有することなく、単なる名目上君主の名称のみを 有する場合は君主の範疇より除外される。君主という名目のみを有して、実質上統治権の行使を 封ぜられている元首は真の意味における君主国の君主ではない。然し英国の諸制度が共和国の諸 制度に類似しているからとの理由により、英国の君主制の存在を抹殺する必要もなければ、否定 することもできない。英国の名目的君主はアメリカ合衆国の大統領の如く絶大なる権力を保有し ない。彼は統治権の実質上の行使を欠いている。名目上の君主はただ最高権力の影像だけを有す る」(WestelWoodburg Willougby,A studyinpoliticalphilosophy p.362〜3)とする。国家 の象徴としての天.皇ほ主権の担荷者であり統治権の総檻者であった権力的な地位から全く離れて 純粋な公共性に於て複合態としての国家を具体的に表現するものである。国家を具体的に表現代 表することによって、国の元首として対外的に国家を代表するものである。また国民統合の象徴 としての天皇は精神的・倫理的・歴史的な尊厳性・公共性・純粋性によって国民的・民族的意識 を統合し且つそれを表現するものである。特に我国は征服国家や契約国家と異り、民族の家族国 家として発展して来たのである。日本国は皇室を中心として国民全体が一大家族として発展した

拡皇室的家族国家である。ここに皇位における民族意識統合の意義が存在する。国民の統合は天 皇が国民のうちにおける内在性(immanence)を予想するものである。天皇は国民のうちにその

結合の中心として存在するのであって、征服国家における如くに君主が国民と対立し、国民と超 然関係にあるものではない。それ故に国民統合の象徴は普遍的・公共的な純粋性と全体性を必要

とする。かくの如き統合は権力による統治権の発動としての統制と区別されねばならない。それ は全く精神的な国民的・民族的意識であって、倫理的歴史的・尊厳なる国民的自覚の意識を具体 的に表現するものである。

天皇の内在性については反対論がある。即ち天皇は国家及び国民統合の象徴として一般国民と 特殊の地位にあり、しかも世襲の権利としてその地位を保有し、国民のうちから選ばれてその地 位に即くものではないから国民とその法律的地位を異にするという。(美濃部博士著日本国憲法 原論221真、同著憲法と主権1頁)然し国民統合の象徴たる天皇はすべての国民に内在している のであって、このすべての国民のうちに内在する天皇が国民統合の力を保有しているのである。

国民のうちに内在する統合力の表現が天皇である。天皇が単に国民の外に超然としているもので あるならば国民と何等関係のないものであって、国民統合の象徴であることはできない。また戎

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学者は人民と君主とは対立する概念であるから、新憲法における国民も民主主義の原理によって 天皇に対立するものであって、天皇はこの国民のうちから除外すべきであるとする。然しわが国 においては歴史的の事実として天皇と国民とが対立したことはなく、むしろ家族的な親愛の関係 にあったのである。フランス革命前のancien r6gime当時の絶対専制君主と人民との如き対立 関係にあったことがない。これをわが国の天皇と国民との関係に適用することは妥当ではない。

次に統合的国民について考察する。日本国の動的主権は統合的国民即ち国民全体に属するので あって決して個別国民に属しているものではない。ルソーのいう如く、国民の個別意思は個人的利 益に執着している意志であるから正当性の根拠ではあり得ない。またかかる意思が偶然に来合し てできる国民の集合意思も個別意思と同様に利己的なものであって正当性の根拠たることはでき ない。国民の総意である普遍意思はかかる個別意思や菓合意思と異なる常に公共の福祉を実現し ょうとする意思である。公共の福祉を目指す意思は常に正しい意思である。普遍意思は公共の福 祉と合致するが故に正しいのである。普遍意思は個別意思を排除した純粋に公共的な国民意思の 凝結したものである。それはまた国家意思である。国民統合の象徴としての天皇はこの国民の総 意を表現するものであって、ここに天皇の中立性・純粋性・公共性が表われている。普遍意思は 正義を表現するものである。国民主権とは正義主権である。国民主権とは個人主権や団体主権を 排除し、国民全体の正義主権を意味するのである。国民各人は法の理念たる正義の表現としての 総意によって規律されるのである。この総意を表現するものが国民統合の象徴としての天皇であ る。天皇は主権的・全体的・統一的国民の表現である。主権的国民は統治権者たる地イ立にあるが、

事実において統一的国民がかくの如き行為をなすことは不可能であるから、天皇が統一的国民を 表現して国民に代って(onbehalf of the people)国民の名に於て(inthename ofthepeople)

国事行為を行うのである。これが国民統合の象徴としての天皇の地位である。

(恒藤博士・季刊法律学10号46頁)

〔註〕

国民統合の象徴としての天皇の地位を図示すれば次の如くになる。

A,B.C…・‥個人を示す

a,b,C…‥・個人の個別性(利己性)を示す

P・…=A,B,C等すべての国民に共通な公共性・純粋性を表わす。

各人はA=Pa B=Pb Cニ=Pc となる。(これはPが人格の中核とし て各人の意思を構成して人格を形成している状態を表わすものである)

かくして国民の絵意は

AハBハC=(Pハa)へCPハ、b),、CPハCJ=Pn〔aへbハC〕

然るにa¢b如/.aハbハC=0

∴AへBハC=P 天皇はこのPを表現するものである。

それ故に君主の性格に二つの契機が存在する。一は君主の本体的側面即ち静態的・象徴的・非 権力的・尊厳的な側面であり、他は現象的側面、即ち動態的・作用的・権力的・俗世的側面であ る。一般には後者を以て君主の第一次的属性としているのであるが、私はこれと異なり、前者が 寧ろ君主の本質的第一次的属性であり、後者が第二次的属性であると考えるのが現実的には適当 であると考える。君主概念の歴史的発展過程を見ると絶対君主より制限君主(立憲君主)へ、東 に象徴君主(民主君主)へと発展している。この歴史的過程を見るときに象徴君主は君主として 最も君主性の稀薄なものであるというのではなく、寧ろ君主として最も発展した段階にあるとい うことができる。絶対君主は権力的契機の最も濃厚なものであって、象徴的契機の最も表面に顕

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あれないものである。制限君主はその権力的契機が制限されたがために、本質的な象徴的契機が 硝表面に表われてきている状態にある。象徴的君主にも種々の段階はあるが、一般に権力的契級の 排除によって象徴的契機が表出されている状態にある。権力的な絶対君主を以て典型的君主とし て概念を構成せんとすることは君主概念の歴史的発展を無視したものであるということができる。

権力的契概が濃厚であればあるほどそれだけ不敵な君主であると考えられる。この意味において 天皇は最も純粋な最も発展した段階に到達しているものである。同じく象徴君主としても英国の 象徴君主たる国王は憲法上は主権者であり大権を有するが、国権行使においては慣行上象徴的地 位に置かれ、国王は君臨すれども統治せざる(Thekingreignsbutdoesnotgovern)automaton 的君主であるとせられる。またベルギー型の象徴君主、即ち主権は国民に存するが、国王は立法 権をL司会と共同で行使し、また行政の首長として執行権を有しているが、慣行上象徴たる地イ立に ある。しかし最も徹底した象徴君主は日本型の象徴君主であって、主権が国民に存することはベ ルギー国王と同様であるが、天皇は全く国政に関与する権能がなく、形式的・儀礼的な限られた 国事行為のみを行うのである。無権力な君主は君主制廃止の一歩手前にあるが如くにも見られる のであるが、私は寧ろ君主制の歴史的発展段階において最終点に到達したものであると考える。

この段階の象徴君主は君主制としてほ最も進歩した、最も安全な、最も純粋な状態にあるのであ る。頁の君主の到達点は絶対君主や、これに対する民主主義との妥協地帯としての制限君主と歴 史的発展の段階を異にするあらゆる対立を超越した純粋公共的な無の立場にある象徴君主でなけ ればならない。絶対君主は国民から遊離した権力万能の君主であり、象徴君主(天皇)は国民の 総意の上に安住する純粋公共的な君主である。それ故に天皇の象徴的機能は権力的非合理的な君 主制から非権力的・合理的な君主制への発展を意味するものである。国民が理性的・自覚的・自 律的になるにつれて、非理性紺・権力的な君主制は維持され難くなり、君主の性格は次第に象徴 的に変質していくことは当然の歴史的進行である。かくして君主の地位は理性的国民によって認 証されねばならなくなる。それは君主に対する神秘約・倍仰的盲従は存在し得なくなるからであ る。しかしこれは決して君主の地位を危くするものでなく、むしろ国民の理性的確認によって安 泰にするものと考える。

〔註〕

民主的君主国家の典型として見られるものはベルギー王国である。その憲法第25条に「すべての権力は国 民に由来する。CTousles pouvoirs6manent de anation)権力はこの憲法の定めた方法匿よってこれ を行う」とある。それ故にベルギー国の主権の担荷者は日本と同様に国民全体であって、国民全体がすべ ての国家の権力の源泉である。即ちベルギー国は君主を有する民主国態の国家である。そして統治権の作 用はそれぞれの国家機関に分掌されている。立法権は英国と同様に国王と代議院と元老院によって共同し て行使される。第26条「立法権は国王・代議院・元老院が共同してこれを行う」第27条「立法権の三部門 ほいづれも法律の発案権を有する」両院で可決した法律は国王が裁可しなければ成立しないのであるが、

ベルギーではオランダの如く国王の拒否権が規定されていないので明治憲法下の天皇や英国の国王の如く 国会で可決された法律を有効ならしめるための形式的な裁可権が国王にあるのである。第69条「国王は法 律を裁可し、これを公布する」CLeRoisunctionne etpromulgueleslois)第29条「行政権はこの憲 法の規律するところに従い国王に属する」国王が行政権を行うに当っては国王の大臣の輔弼によるのであ って、国王の行政上の責任は大臣が負うのである。第64条「すべて国王の詔勅は責任ある大臣の副署がな ければ効力を有しない。大臣は副署行為の故にのみその責任を負う」また司法権は裁判所が国王の名にお いて行うのである。わが明治憲法第57条及びオランダ王国憲法第156条と同様に裁判所は国王の司法につ いての代表機関である。第30条「司法権は法院及び裁判所がこれを行う。すべて判決は国王の名でこれを

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行う」民主主義の原理に従って国権の源泉として国民全体をもって国権の担荷者と定め、国王以下の国家 機関は国民の委任に基いて国権の行使を担当するにすぎないのである。国王は形式上国民より委任された すべての統治権の作用を絵接するようであるが、その権限は委任されたもののみに限定され、それ以外の ものは行うことが許されないのである。第78条「国王はこの憲法及び憲法に基いて制定される特別の法律 が明文を以て附与する樟醇のみを有する」それ故に国王は国民からの委任梅しか有しない。著しく君主の 権力が制限されている。

References

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Adolf Dork,Der Souver丘nit耳tsbegriff von Bodin

bis zu Friedrich des Grosse.S.52ff

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中村哲、日本国憲法の構造.p.134以下.

伊藤博文、憲法義解.p.11以下.

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佐々木惣一、日本憲法論.P.188−9.

稲田正次、憲法提要.p.115−6.

註解日本国憲法上巻 p.52.以下.

(二)

日本国憲法第一条の「天皇は日本国の象徴であり国民統合の象徴である」という規定について 一般に天皇は日本国を具体的に表現しまた国民全体を具体的に表現していると解する。しかし何 故にかかる規定が条定されたかについては金森国務相は「天皇は国民のあこがれのまとであるか らである」といわれる。それについて和辻哲郎博士は「天皇は日本国を最もよく表現しているか らである」と述べておられるが、私は正しい考え方であると思う。これはライプニッツのモナド 論によって解釈するのがよいと思う。国家は国民・国土・自然物というそれぞれのモナドによっ

て構成されている。これらのモナドほそれぞれ国家を写す鏡であり、国家を表出している。天皇 も国民も日本国を写す生きた鏡であり、国家の表現者である。しかし国家を写すモナドには無数 の段階をなして、国家を表現し、その表現する明瞭さ完全さの程度によってより不完全な国家表 現者からより完全な国家表現者へと段唐をなしているのである。この国家表現者たるモナドの連 続律の極限にあるものが当然国家の表現者即ち国家の象徴であらねばならないのである。これに ついて和辻博士は「天皇は国民の一員であるということはいうまでもない。ただ天皇が他の成員 と異るところは他の何人も全体性を表現しないが、天皇はそれを表現する点にある」といわれる。

国家モナドの国家表現の完全不完全はそのモナドの品質によるのである。そのモナドの品質が歴 史的現実性において、その意思の純粋性・公共性において差別があり、悠久なる歴史的現実とし て何等不純な要素を混えない純粋意思のモナドが最高のモナドであり、完全に国家を表現するこ

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とができるのである。かかるモナドほ君主国においては君主であって、君主によって最もよく国 家が表現されるのである。日本国においては天皇が最も完全なる国家の表現者であって、このこ とが国民の総意によって確認され天皇は憲法上国家の表現者(象徴)として条定されたのである。

天皇が国家の象徴たることは天皇が国家を写す鏡として誰よりも純粋で完全なることによるもの である。

更に国家は領域を基盤とする国民の主権的統治団体であって悠久の過去より永劫の未来に存続 すべき団体人格であり、過去を背負い未来を李む歴史的現実である。過去を背負い未来を季む歴 史的現実たる国家を表現するには過去現在未来に亙っての歴史的な面をも表現し得るものでなけ ればならない。この点に関して天皇ほど歴史的実在としての日本国を完全に表現し得る者は他に 求めることができないのである。かくの如くに見るとき日本国憲法が天皇を以て国家の象徴とし て条足せることは正当であると考えられる。

次に天皇が国民統合の象徴であることの論理的根拠を探究しなければならない。日本国民は個 人としてはすべて特殊な存在である。然し国民個人は日本国民として普遍的な日本国民性をその 本質として具有している。これがなければ単なる個人であって真実なる日本国民ではあり得ない のである。すべて日本国民には日本国民としての国民性即ち日本国民全体的関連性(歴史的・文 化的・倫理的・民族的運命共同体の構成者)の自覚の意識が存在する。これは個人的な利己心を 離れた意識であって、かかる公共的な純粋意思が国民各自を結ぶ普遍性である。この普遍性によ って個人は日本国民たるの性格を具有するに至るのである。かかる普遍性の具有は個人によって 差異がある。かかる普遍性のみが純粋意思というべきものであって、かかる普遍的純粋意思(普 遍意思)のみを具有するのが天皇の姿である。普遍者としての天皇は国民各自のうちに内在して いる。天皇は国民各自のうちに純粋意思として内在することによって国民を統合することができ るのである。統合作用は国民各自のうちに内在することによってのみ可能になるのである。統合 の象徴としての天皇は統合体のみを象徴するものであって、統合作用を有するものではないとい われるが、私はかくは考えない。むしろ統合作用のある統合者こそ統合体を象徴することの正当 性の根拠としての意義を有するものである。国民を統合する作用のないものが国民統合の象徴た ることは妥当ではない。その統合は全く意思の純粋性と公共性という性格において可能である。

天皇意思の純粋性と公共性がすべての個別国民の意思に普遍的に内在する共通性として、これら を統一しこれを統合的に表現することができるのである。天皇が国民統合の象徴的人格者として 存在する理由は、かくの如くにその統合作用を当然に前提されているのである。ここに天皇を以て 国民統合の象徴として条足した憲法の規定の正当性が存在する。国民統合の象徴を静態的に見れ ば国民統合の表現であり、動態的に見れば国民統合の作用がそれのうちに看取され得るのである。

統合は一者が全体を合蓄して統一的一者たるところに集合と異るものがある。一者は全体性の 表現であり象徴である。神権的君主においては一一者を以て単なる全体の表現(象徴)たるに滴足 せず全体者そのものと考えたのである。君主の神格性や絶対性はかかる考へ方の表われである。

個体は個体として個別性を保持し、然も普遍性によって全体性を共有するものである。即ち個体 は個別的契機を含み乍ら特殊的制限を越えた普遍的契機によって普遍的な全体性を自覚するので ある。かくの如き全体性の認識は理性的人間の本質的属性である。天皇を見ることによって国家 を看取し、国民の統合体を看取することはすべて普遍的契機を媒介として可能である。かくして 天皇は国家及び国民統合の認識理由であるということができる。然し具体的現身天皇がかくの如 き象徴的機能を有することは天皇のイデアをそれ自身のうちに内在するからであって、具体的天

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皇を機縁として国民は現身天皇のうちに天皇イデアを看取し、それに象徴的機能を発見するので ある。即ち実在の天皇を機縁として理念の天皇を看取し、理念の天皇に於て国家や国民統一体を 見出すのである。

〔註〕

実在の要素はすべて全体性を含蓄していてかしも単純者である。天皇も国民と国家という実在の要素であ り、国家という全体性を含蓄していて、しかもそれ自身は単純者である。ここに単純者とは統一的(unit芭)

であって、集合(unaggr色ge)でないものである。それ故にそれは外延的・延長的なるものではなく、

含蓄的・内包的なるものである。実在を内包量的に解する立場においては全体と部分とは対立ではなく共 存的として認識される。全体が部分からではなく、全体にして部分、一にして多なるものと解されねばな らないのである。それは一のうちに多を、しかも無.唄なる多を含む性質能力を有するものとして、量的で はなく、質的なる一者でなければならないのである。それは外延的なる量に対する内包的な(intensif)

量である。それは一にしてそのうちに無限を含むもの、無限の内包を自己のうちに含む一者である。かか るモナドは外延的・空間的なるものではなく、内包的・時間的な統一者である。それはうちに簸唄を含む とともに過去全体と未来全体を表現する。それは簸唄なる全体を表出し表現する。単純実在のうちに多を 含みこれを表現する状態が象徴である。この表出性がモナドの属性である。この表出・表現がモナドの内 的作用である。モナドは或見地からの全体の表現・表出或は豪放である。全体がモナドにおいて表出され るという意味においてモナドは全体を含むのである。モナドそのものは無現的全体そのものではなく、無 限的全体の表現者である。しかしモナドの能力によってその表現に明唱がある。それぞれのモナドはその 能力に応じて異なる表現をしているのである。モナドの表出能力は段階的であり、連続竹である。モナド の以上の如き性質によって天皇モナドを解するとき、それは最も明瞭に日本国の全体性を表現するととも に、それのうちにあらゆる雑多を統一的に含蓄内包しているのである。国家のあらゆる雑多な要素を内包 的忙含蓄しているのである。また国民の統合者としてはあらゆる国民の意忍の多様里をその共通性によっ て統一してこれを自らのうちに内包的に含蓄しているのである。しかもこれら間者を時間的統一者として、

歴史的に過去における日本国も未来における日本国をも現在において統一的に含蓄して表現し、更に過去 における国民も未来における国民も現実における国民全体において統一的に含蓄してこれを表現している のである。かく見るとき天皇モナドの深い意義が看取されざるを得ないのである。

国民のうちに天皇を含むか否かの問題について種々議論が存在する。一般に国民とは国際人格 である国家の構成要素の一(人的要素)である。それ故に天皇も天皇以外の国民も国家の人的構成 要素であることにはかわりほない。勿論天皇と人民とが君主と臣民のと関係にあった時代には君 主と臣民とは峻別されたのであるが、現在天皇も臣民も国民として日本国構成の人的要素である。

英語のpeopleは君主国家たると民主国家たるとを問わず、すべて国家の人的要素を表現するた めに用いられている。peOpleはEmperorに対するSubjectを意味するものではない。Subjectは 国家権力の客体(被治者)の地位にあるものであるが、PeOPleは主権者の地イ立にあるものである。

peopleが主権者として統一的国民を表示する場合において、天皇はこの統一的国民を表現するの である。統一的国民の具体的表現者である天皇は国民から超絶しているのではなく国民に内在し ているのである。国民から超絶した天皇(国民超絶天皇)は国民のうちに含まれないが、国民に内 在する天皇(国民内在天皇)は国民のうちに含まれる。日本国憲法における国民主権は天皇を含め た国民全体(統一的国民)に主権が存することを意味するものである。日本帝国憲法から日本国憲 法への移行を以て国態の変革とされるが、君主国態から民主国態への変革を意味するのである。

しかしこの場合において注意を要するととは、君主国態から民主国態への変革において(1)1789年 のフラン∵ス革命や1917年のソヴェー「革命において見られるように全く君主主権を否定して、君

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主を殺敬して民主国態を成立せしめた場合と(2)日本国憲法における如く形式的には天皇の意思に より(実質的には連合国の意思により)君主の単独主権からこれを天皇を含んだ国民全体主権に拡 げられた場合である。この場合は天皇が主権を国民に移譲されたというよりも国民全体に拡大さ れたという方が正確である。これは革命によって君主主権を打倒して国民主権を確立した場合と 全く異るものである。天皇の独占主権を天皇を含んだ国民全体の共有主権に拡大されたのである。

天皇は国民のうちに含まないとするものが多い。その根拠は(1)君主と国民とは対立概念である から、国民のうちに君主を含めることは不合理であるとする。(2)天皇の地位は国民の総意による ゐであるから、自分の地位が自分をも含めた国民の総意にするということは不合理である。(3)国 民は法の前に平等であるが、天皇は国民と平等でなく幾多の特権を与えられているから、法の前

の平等の原則に反するとする。

(1)の点については、外国においては君主と人民とは対立概念であったが、わが国においては対 立概念ではなかった。天皇は個人ではなくして公人であった。天皇は国家を担荷する国家構成者

であった。従って天皇の人格のうちには国民をも包含していたのである。天皇は国家の法人格を 担荷する自然人であった。国民の語が君主と対立するということは対立概念としての言葉の上か

らの考察であって、我国の歴史的特殊性を無視した言説である。天皇は権力を以て人民を支配し たのではなく、人民のために人民を「しらす」統治をしたのである。国民という名称がかかる誤 解を招くならば佐々木博士の言われる如く国人でもよいのである。

(2)に対しては天皇の地位(国家の象徴であり国民統合の象徴である)が国民の総意に基くとい うことについては、天皇の二面性が考えられる。国会における金森国務相の答弁では公人として の天皇と個人としての天皇とに分ち、個人としての天皇は国民のうちに含まれるというのであっ た。私はこれを内在性と超越性として考えることができると思う。内在と超越とは相対概念であ って普遍的に内在することによってよくすべてのものから超越することができるのである。すべ てのものに内在しないものは超越するものではなく、それは超絶したものであって、すべてのも のに全く関係のないものである。天皇が国民統合の象徴であるという場合の国民は個別国民であ って、国民全体ではない。国民全体はすでに統一体として純粋なる単一体である。天皇は個別国 民の意識のうちに内在することによって、よく国民個人を統合することができるのである。個別 国民の意識に内在しないものは国民を統合することはできないのである。天皇という意識がすべ ての国民個人に内在していることによって、天皇は国民のうちに含まれている。日本国民精神・

民族意識が民族統合の象徴としての天皇制の形式を以て根本法のうちに表明されているのである。

(3)に対しは原則としては国民は平等であるが、この平等の意味は配分的平等と均分的平等とを 含めたものであって、必ずしも均分的平等のみではない。勿論刑法第二編第一章の皇室に対する 罪の不敬罪は違憲として削除されたことは天皇についても憲法の規定に従って国民平等の原則に 準拠して刑の量定をなすべきことを示すものであると考えられるが、他方刑法200条の尊属殺人 の重罪刑は違憲ではないとして残されており、最高裁判所の判決も合憲としているのは配分的正 義を認めたものである。国家の象徴であり、国民統合の象徴である地位に相当した特権は配分的 正義の上から当然認めらるべきものである。特に天皇の地位は国民統合の象徴としての地位であ るから、その純粋性と公共性の保持のために必要な特権は認められねばならないし(天皇は訴追 されない。皇室典範21条)またある種の権利はこれを行使されないのである。(天皇も選挙権を 有するのであるが、これを行使されないのである。天皇の純粋性と公共性から見て当然のことで ある。)

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(10)

〔註〕

尊属傷害致死罪重罰裁定の合憲性については昭和25年TO月11日最高裁判所大法廷の判決(昭25年あ292号)

憲法第十四条の法の下の平等の規定は人の価値がすべての人間について平等である。‥‥・・各人の年令・自 然的素質・職業・人と人との特別の関係等の事情を考慮して、道義・合目的性等の要請より適当な具体殉 規定をすることを妨げない。尊属傷害致死罪が一般の場合に比して重く罰せられるのは、法が子方親に対 する道徳的義務を特に重視したもので遺徳の要請にもとづく法による具体的規定に外ならない。また親子 関係は第十四条第一項において差別待遇の理由としてかかぐる社会的身分その他いづれの事由にも該当し

ない。

〔註〕

拡天皇主権ここ国民主権

国民内在天皇の主権が国民全体に拡大されて 国民全体に主権的意思を構成する権能が附与 されたのである。

この形態はわが国の如き自然的・血縁的・家 族的な国家にのみ見られるものであって、人 為的・非血縁的・井家族的・征服的・権力的 国家においては見られないものである。

ReferenSeS Jellinek,Allgemeine Staatslehre,S.472ff Otto Gierke,Das deutsche Genossenschaft

Bd.Ⅱ.S.41仔.

Austin,Lectures onJurisprudenceI.p.98ff.

Rousseau,Du Contrat Social.Libre Ⅱ.

Chapitrel.

渡辺宗太郎、.国民主権論.p.23以下 崖高朝雄、法学概論.p.49−50 原田剛、政治と倫理.p.183以下.

尾高朝雄、法の窮極にあるもの.p.55以下 宮沢俊義、憲法大意.p.1954−5.

佐藤巧、日本国憲法十二講.p.239一一40.

大石義雄、憲法.p.132以下.

下村寅太郎、ライプニッツ.p、199以下.

91

君主主権の否定==国民主権

君主が国民の外に超然として主権を独占する 君主主権を君主の否定によって、国民主権を 実現する。

革命によって君主制を廃止して生じた共和国 はすべてこの類型に属する。

(11)

Latta,Introduction to Monado土ogy p.30ff.

和辻哲郎、匡民統合の象徴.p.49以下.

木村常信、憲法講義案.p.49以下.

岡田亥之三郎、日本国憲法審議要録.p.140−47 尾高朝雄、国民主権と天皇制.p.122以下 鈴木安蔵、憲法原論.p.221.

田畑忍、憲法学原論.p.237−−8.

渡辺宗太郎、新憲法読本.p.4.6

(三)

全体と部分との関係において(1)部分のうちに共通のものがある場合に、その共通のものが全体 であるとせられる。(2)部分が全体の分化である場合に、部分が互に他の部分と協同して全体を構 成するとする。(1)の場合においては全体は常に表現された有の背後にあってそれを統一している ものである。国家において具体的個別的な国民の背後にあって、これをその共通性によって統一 しているものが国民の統合者であって、この統合者の具体的表現が国民統合の象徴(天皇)である。

(2)の場合においては全体はその各部分の特殊性の相互増補協合によって全体性を保持することが できるのである。国家において各職域の職能代表が集合して全体性を構成する場合にあてはまる。

更に全体のうちにおいて、部分相互の関係について見るに、全体のうちにある一つの部分が他 の部分を制御している場合がある。これには(a)君主が人民を制御している場合(b)貴族が他 の人民を制御している場合(C)ナチス・ファジスト官僚・軍閥等が他の人民を制御している場合 がある。即ち君主制的従属の原理の行われる場合である。

以上の全体と部分との関係において天皇と人民との関係は(1)の特殊的個人の普遍性による統一 の関係である。然してこの場合における統一についても東に問題が生じ得る。(1)統一が多の統一 である場合(2)統一がそれ自身のうちに一と多との両契機を含んでこれを統一している場合である。

(1)の場合には統一者は自己以外のものを統一するものである。君主が人民の統一者であるとい う場合に君主が人民のうちに含まれないのである。これはEinheit der Vielheitの関係である。

(2)の場合には統一者は自己と自己以外のものを統一するものである。統一者は他者と対立する 一者であるとともにまた一者と他者とを統一した統一者なのである。これを私は明治憲法下にお ける天皇と人民との関係において見ることができると思う。これはEinheit des Eins und der Vielheitの関係である。

以上の関係を天皇について私は次の如く解説を試みる。Einheit des Eins und der Vielheit における das Eins と die Vielheit とは質的に異る性質を有するものを示し、Einheit der VielheitにおいてはVielheitはEinsをそのうちに含んでいるのでTと多とが質的に同じ場合で ある。これを憲法上の天皇の地位について具体的に考案すると、天皇が神格を有していた明治憲 法下においてはdas Eins としての天皇とdie Vielheitとしての人民とがあって、それの全体 がEinheit des Eins und der Vielheitであったのである。しかしdasEinsとdieVielheitと が質的に異る場合にはそれの統一はあり得ないと考えられるのであるが、そのdas Eins がdie Vielheitの共通性をそれの本質とする場合にはdas Einsとdie VielheitのEinheitであるとと もにEinheit des Eins und der Vielhetの一契機を構成しているのである。即ち天皇は人民の 統一者であるとともに国民のうちに含まれているのである。しかし日本国憲法における天皇は人

(12)

問天皇として神格を放棄し、国民のうちにあり乍らしかも国民の統一者としてEinheit derViel−

heit をあらわしているのである。これが国民統合の象徴である。統一とは個別性・特殊性・異 質性を止揚し、対立を克服してより高次なる共通の概念の下に包摂することである。それ故に Einheit=Nation統一的国民(国民全体)のうちに天皇を含むのである。Einheitdes Einsund der VielheitにおけるVielheitのうちにはEinsは含まれないが、明治憲法下の天皇の場合には このEinsはEinheit der Vielheitであった。日本国憲法下の天皇の場合にはEinsはVielheit のうちに含まれしかもEinheit der・Vielheitなのである。神格を放棄した人間天皇ほ私人とし てはVielheitのうちにあり且つ国民統合の象徴として、Einheit der Vielheitを表現するので ある。

註 国民の意義は一義的ではなく種々な意義に用いられる。例えば憲法43条「両議院は全国民を代表する選 挙された議員でこれを組織する」(BothHousesshallconsistofelectedmernlers・rSpreSentatives Of aH the people)の国民は統一的国民を表わすものである。

A,B,Cは個別国民である。

轡/P Pは統一的国民である。PはA,B,Cの共通性である。PはA,B,Cの共通性に よってA,B,Cを統一する。

即ちP=AへBハC=Einheit天皇はこのEinheitを表現する。憲法第13条「す べて国民は個人として尊重される」Callof the people shallbe respected as individuals)第14条「すべて国民は法の下に平等であって・・・・・・」(allof the people are equalunder thelaw‥…・)における国民は個別国民を示すものである。国民のうちすべての個人、すべての国家の構 成員を表示する。これはEinzelheitを表わしている。Einzelheitの東集合がVielheitである。それ故 にVielheit=Menge der Einzelheitenということができる。

Vは個別国民のすべての集合体 A,B,Cは個別国民 tIは束集合を表わす

Ⅴ=iA,B,C)

この場合の個別国民のうちに天皇も一つのEinzelheitとして存在する。これが 私人としての天皇である。(国家の象徴・国民統合の象徴でない天皇である)

統一性CE)      総体性CT〕

轟(♭へC㊦丁=a)♭)C11

a,b.Cという部分の間に一つの共通なる要    a,b,C,d という部分を総括的全体のうち 素が含まれ。その共通の要素によって部分が     に補捉結合するときTという総体となる。

統一されている状態。特殊的個物に普遍的に    a,b,C,d という部分がその差別にも関せ 存する共通性が統一者である。      ず全体に綜合せられる状態である。

上図においてEはすべての個別国民に共通する公共意思を表示する。個別国民は自己の利益のみに執着す る個別意思と国民全体の利益を追求せんとする公共意志の両者を有する。今一般の意思の構造を見ると次 の如くなる。

93

(13)

Hり‥‥個人意思のうちに存する公共心 P……個人意思

G…・‥公共意思 P−G……個別意思 S‥‥‥一般人の意思

S=HU CPpG). H=GへP

∴S=t(Gハ、P)U(P−G)1

国民が教育が高く、理性的であればあるはどHは大きくなりP−Gは小さくなる。これに反する場合は Hは小さくなりP−Gは大きくなる。前者の場合の最も極端なる場合はP−G=0 となる場合である。

H=GハP.P=G./.H=P=G.

S=tCGへP)UCP−G))=IH、J(P−G))=HU0=H S=H=G この場合には個人意思と公共意思とが 全く同一でって、個人意思が利己心を喪失して、純粋に公共意思化しているのである。かかる意思を現実 の人間において求めるならばこれをモ塁に求めざるを得なくなるのである。国民の総意とはこの個別意思 を排除した公共意思たるHをいうのであって、このHの具体的表現が天皇であるということができる。

これについて参考となるのほルソーの普遍意思の理論である。これによると

A.B・・・・・・国民の個別意思(volont6particulidre)

AへB……国民の個別意思の共通の利己心即ち集合意思(volont色

de tous)

A\ノB・・‥・個別国民の利己心の限界(最小公倍数)

(A)B)C・・個別国民の純粋なる公共心、即ち普遍意思(volont6

g岳n岳rale)

AへB      (AUB)CへCA\ノB〕=0.(A\ノB)C4CA・一B)

普遍意思は個別意思を全く排除する純粋に公共的なる意思である。

またCA\JB)C=ACへBC 即ち酋遍意思は個別国民の意思のうちに存する公共的意思の積集合である。

次にA(Bは個別意思の利己心の積集合である集合意思である。

(A′、B)へCAへB)C=0 CAへB)声(AへB〕C 集合意思と非集合意思とは互に素である。

またCAへB)C=AUB 非集合意思は各個別意思の個別的利己心の和集合である。

ルソーによれば社会契約(憲法や法律の制定)によって個人の意思は普遍意思の構成にあずかる。それは 国民の総意であり、国家の意思である。普遍意思は常に正しい意思(volont6toujours droite)であり、

常に公共の福祉Cbien commun)を目指す意思である。これに反して国民各自の個別意思は個人の利害 に執着している意思であるから常に正しくない意思である。またかかる個別意息が利害関係によって偶然 に一致してできる集合意思は国民の真の総意ではない。個別意思と積集合である集合意思も個別意思と同 じく利己的な意思であって普遍意思の如く純粋(公共的非利己的)であり得ないのである。今日階級政党 の主張する階級的利己心のみに執着する意思は階級意眉であって国民の総意ではないから不純で利己的な る階級集合意思に列ならないのである。

References.

Rousseau,Du Contrat Social,LivreⅡ.chap.1.

Jellinek,Allgemeine Staatslehre s・406ff.

Laski,A Grammar of Politics p.44ff.

Thompson,Popular Sovereignty.p.48ff.

Bertrand,La Souverainet6.p.119ff

94

(14)

ibid,Du Pouvoir.p.123ff.

Cohen,Logik der reinen Erkenntnis.S.144ff.

Maciver,Modern State.p.193−6 松永材、ヘーゲルの哲学.p.274 金子武蔵、ヘーゲルの国家観.p.283−4 清宮四部、権力分立制の研究.p.208以下 尾崎繁雄、数学(第五革)集合論の部 牧野英一、新憲法と法律の社会化.p.41以下 田上穣治、憲法変説.p.17−8.

渡辺宗太郎、続憲法の基本間鬼.p.163.

柳沢義雄、憲法原論.p.45−6.

美濃部達吉、新憲法の基本原理.p.63・

参照

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