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橘好一一一一一一

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192

小論はトーマス・マンが旧約のキリスト教神話に取材したヨーゼフ

四部作という彪大な叙事詩的作品をいかなる意図のもとに書いたのか

という彼の製作の動機と意図とに関するささやかな考察である︒この

動機をここでは仮りに外的誘因と内的誘因とに分けて考えてみること

にする︒外的誘因とは︑当時マンが置かれていた社会的政治的状況の

なかに求められるものであるが︑結局それはマンの内面的発展のファ

ーゼに交叉して来ざるを得ない︒凡そ芸術制作という孤独ないとなみ

においては︑作家の内面に熟して来るものだけが︑真に制作へのうな

がしとなるのであり︑外的誘因などというものは︑たとえあるにして

も︑作品完成のための決定的な要因となるものではないであろう︒し

かし︑ヨーゼフ小説のばあい︑ナチス時代という特異な状況に対して

なされたマンの発言が︑直接このロマーンに関係しているが故に︑こ

こでは先づナチス﹁神話﹂の本質について若干の考察を行った後︑マ

ンの内面的発展に沿って問題を進めてみたい︒

函︲聾扁闇屋によれば︑マンはハンガリーの神話学者嵐◇厨腎①ロ嵐に

あてた書翰のなかで︑次のように言っている︒﹁宗教史的なものおよ

び神話的なものに対する私の関心はずっと後年になってやっと目覚め

て来ました︒⁝⁝私が熱烈な関心を惹かれたのは神話と心理学との結

合ということです︒というのも﹃ファシストの莫迦者たち﹄の手から

トーマス・マンにおける神話的叙事詩の意図︵橘好一︶ kI1lマス●マンにおける神話的叙事詩の意図

神話を奪取するためには︑これが恰好の手段であることがよく分った

からです︒﹂①

そして当時マンは﹁血迷った紛争を起すうろたえた理論ぐ臼三員①

旨号F①言の目ぐ閂言同毎口函四目号︸が世に我物顔にはびこっている﹂

というゲーテの言葉を思い浮べていたのだ︑と加えている︒﹁ファシ

ストの莫迦者たちの手から神話を奪取する﹂という言葉には︑ローゼ

ンベルクによって﹁廿世紀の神話﹂を借称したドイツファンズムのイ

デオロギーと行状とに対する︑つまりよきドイツの伝統とヨーロッパ

のそれとがナチスの黒い影に蔽われて行きつつあった事態に対するマ

ンの深い憂慮と念りとが托されていた筈である︒しかし︑ヒトラー個

人の晒劣な心術が︑あれほど大きな︑破局的な力となり得たについて

は︑あの時点におけるヨーロッパ諸列強及ドイツ国民の形而上的形而

下的状況の中にも︑何かカタストロファールな因子があって︑それら

が消極的にもせよここに参与していることが考えられる︒マンはおそ

らくこの点をも考慮に入れつつ︑新しいモラルを求めて︑﹁ヨーゼフ

小説﹂を書いたと思われる︒そこにこの神話的小説の時代的意味があ

るのである︒

﹁ワイマル﹂から﹁ポツダム・ガルニゾン﹂への傾斜を容易にし

たもの︑つまり第一大戦の﹁戦後ドイツ﹂の︑ワイマル共和体制を

ファシズムの決定的勝利に委ねさせた要因は︑いろいろあげられる

だろう︒㈲ヴェルサイユ条約にあらわれている国際デモクラシー及国

橘好一

一一一一一

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︑︽1マス・マンにおける神話的叙事詩の意図︵橘好一︶

際資本主義の意識の未開化性︑つまり敗戦国ドイツに対する道義的不

寛客と過酷なそして謬まれる戦後政策及残存する列国の国家的利己主

義ロドイツ共産党の非妥協性と急進的革命主義と究極的政権独占慾

目ドイツ国民一般の意識の未開化性特に将軍︑旧軍人及旧支配階級の

ライヒ思想的硬直性と旧帝国への郷愁及偏狭な民族意識及び国家至上主義

の未払拭︑つまり彼らのオプスクラントな心の底に君主政治によって

●●⑥●

与えられた愚劣な偏見の数々が抜きがたく残ってをりそれが被征服者

コムプレックスと結びついたこと︑側ドイツ青年たちの理想主義と深

酷なロマンティクと英雄主義国そして即物的には︑一九一三一年の﹁超

インフーフチオーン国望罵崗冒建聟さ目︑一九二九年以後の世界経済恐

慌君①岸言罵の︒富津禺房①とつづく未層有の経済的混乱及それによ

る道義の頽廃とこれに対処する社会民主主義諸政党の無力と空転な

どが先・つ考えられる︒これらの諸要因が複雑に入りくんで戦後社会

に混沌且暗潅たる相貌を与え︑民主勢力の安定政権への道を塞ぎ︑

ドイツ共和国の健全な発展を妨害したのである︒一九一九年一月︑

ドイツ共産党のボイコットのもとに︑ドイツ史上はじめて満二十才以上の青年男女が選挙権を行使して︑憲法制定の国民集会のための

選挙が行われた︒このとき民主主義共和国に賛成した各政党は︑四分

の三の絶対多数を獲得した︑と報じられている︒しかし︑民主主義的

インフアンテイール意識の面からみていまだ小児的な国民に与え得る自由の限度というも

のはむづかしいものなのに相違ない︒第一大戦直後のドイツの混乱は

たしかに無制限にそして一挙に与えられた自由というものに発するの

かも知れぬ︒政情は不安であり社会は混乱した︒山師ヒトラーは一九

一九年︑ワイマル共和国誕生の年に︑早くも旧軍人たちと語らい︑数

人の仲間たちと︑政治的暴力団N・S.D・AoPを結成する︒政治

二四

主義的諸団体のテロルや暴力が日常事と化していたような社会状勢の

中で︑ナチスもまた非合法的な暴力的戦術を訓練した︒ヒトーフーはお

そらくコミンテルンの活動目標などはてんから理解しようとせず︑そ

れを毛嫌いしていたであろうが︑大衆煽動戦術としての革命主義的タ

クティク︑つまり︑赤色趣味︑旗幟海戦術甸四彦口のご日①の周斗争歌扇四日

頁房号儲デモ行進シ昌冒四3s︑シュプレヒコール︑テロル︑就中党

員の︑鉄の規律による軍隊的組織と訓練などを主としてここから学ん

だ︒

かくて︑彼のイデオロギーは︑コムニズムの全体主義を﹁民族﹂という

神話で置きかえた全体主義となる︒一九一三一年のミュンヘン暴動で州

政権を転覆のせとぎわまで持っていった彼の暴力の実績は︑ナチスの

①●

一種の実力に対する説得性を民衆の中に獲得したことはうなづける︒

そして︑一九一三年はまたフランスとベルギーによるドイツ領ルール

地方不法占領の年である︒この事件は﹁弱味につけ込む﹂という印象

をドイツ人一般に与えることによって︑ドイツ人の心に深酷な影響を

与えた︒民族の結集と力への要請とがドイツ人一般の中に強く拾頭し

て来る原因︑彼らが再び孤立主義と孤高主義とに赴く原因をそれは作

為した︒一ドルが四︑二兆マルクにも相当したとまで言われる函昌での

H宮津色感○口が︑﹁レンテン・マルク﹂の発行によって小康を得たと思

うと︑間もなく一九二九年に訪れて来た世界恐慌の大波を︑またもや

ドイツは最も深くかぶった︒一九一二一年︑失業人口六百万を算した窮

状のなかで︑民衆は自由よりもパンを求めて喘ぎ︑強大な実力による

新しい秩序を望んだ︒こういう人之の頭脳の昏迷に乗じてヒトーフーのプロパガンダとデマゴギーは成功する︒.九二九年以来︑ヒトーフー

の党は︑浮浪者︑不平家︑零落者の大衆運動となった︑しかしまたそ

れはオポルチニースト︑理想主義者︑山師たちの大衆運動ともなった

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のであった︒功妙にもヒトラは具体的な未来計画を明示しなかった︒

彼は︑正確に人々が聞きたがっていることを語ることこそ有利なのだ

ということをよく弁えていた︒⁝⁝人々をヒトラーの旗のもとに参じ

させたのは︑現状への不満だった︒民主主義共和国に対する︑諸政党

に対する︑戦勝国側の政策に対するそして社会的悲惨に対する不満だ

った︒数百万の人々が︑よりよき未来を望んでいた︒そして誰一人︑

ヒトラーほど確乎たる自信をもってそれを告げた者はなかった︒農民

には高価格を︑工業家たちには対労働組合斗争における支援を︑労働

者には生活の保証と賃金の上昇を︑元将校たちには戦士的栄誉を約束

する新しく偉大な国防軍を︑無数の国家主義者たちには︑憎むべきヴ

ェルサイユ条約の鉄鎖を断ちきるべき新しく偉大なドイツ帝国を︑彼

は約束した︒ナチのプロパガンダは︑ドイツ青年たちの理想主義︑ロマンティク及冒険慾︑つまり彼らの名誉慾の巴言冒甥盲巽と活動衝動

国①垂高屋岳の骨國信とにアピールすることによって︑とり分け強く青

年たちにはたらきかけた﹂②とW・ホーファーは言っている︒すべての

人々に︑一挙にしてすべての希望を与えたのである︒ナチ成功の秘密は︑たしかにここにあるのである︒国家社会主義ドイツ労働党z画威○国

巴8凰罵再胃言号昇のsの鈩吋冨詳の亀四再凰とは︑いかなる正当性を

もった政治理論を表す象徴的名称でもなく︑それはただ上トーフーのプ

ロパガンデイズムを象徴すれば足りた︒ドイツは運命的に支配民族国

①胃の向言貝四の①のであり征服民族であると言う彼の独断論的人種理論︑

戦斗共同体︻四日頁蝿日①旨の呂四津として成立すべき民族共同体として

の新ドイツ国家︑一切が国寓言の﹃への隷属と服従によって成立する指

導者国家︑そしてヨーロッパ﹁新秩序﹂への使命を担った第三帝国︑

それらの﹁神話﹂的理念はドイツ民衆の怨恨と偏見と憎悪と英雄主義

とロマンティクとに快く媚びた︒

トーマス︒マンにおける神話的叙事詩の意図︵橘好一︶ ヒトーフーの諸イデーは︑個人主義と自由主義と良心とを基調とする

西欧デモクーフシーの原理とは真向から対立するものであり︑ヨーロッ

パの伝統と良識とのなかでは︑かけらほどの値打ちもないのだった︒

にもかかわらず︑彼の力の讃美と︑尊大な大言壮語とは︑苦しみのド

ン底にあった民衆の生のなかにある無意識の沈澱物︑怨恨︑不平︑野

心︑総じて人間の劣等複合感情と権力意志とに火を点じたのである︒

ヒトラーの無意識︑つまり彼の怨恨と憎悪とは︑民衆の﹁無意識﹂の

強大なエネルギーを吸収し組織した︒そして︑民衆は︑やがて自由と

個性の厭殺となって自らの上に帰ってくるものを服従者の共謀によっ

て迎えた︒機は︑ヒトラーに熟し一九一二一年三月︑彼はベルリン郊外

ポッ.ダムのガルニゾン教会で勝利の祝祭をあげ︑つ︑ついて親衛隊の威

嚇のもとに議会で﹁国民及国家の難局打開を目的とする法律﹂と銘打

った援権法国禺日野写一碧括緒のの①言を通過ざせ完全にドイツの独裁権

を握る︒ユンカー出身の将軍大統領ヒンデンブルクが︑多年﹁ポヘミャの伍長﹂とよんで蔑視して来た男が︑いまや何者の制肘をも受けない夢のような権力者となり︑なくてドイツの民衆は﹁褐色の悪魔﹂た

ることを強いられ︑ひとしく恥ずべく侮蔑された﹁死の子﹂に転落す

る︒

アドルフ・ヒトーフーは︑もともと秒たる一小市民の子にすぎない︒

彼は一八八九年︑オーストリーのイン河畔の小邑ブラゥナゥ切目ロロ四口に︑収税吏である父の第三回目の結婚によって︑その第四子として生れ

た︒父の早逝が︑アドルフの上に暗い影を投げる︒彼は生来頭のいL

方の子だったらしいが︑小年時代の学校の成績は中位以上に出たこと

はなかった︒しかし︑彼は可なり高度の天分が与えられている声﹂とを

予感していた︒一九才のアドルフは︑画家を志してヴィーンに出る︒し

かし︑ヴィーンの翰林院美術学校嗣巨旨の冨丙且①且①言三一gは︑彼

二五

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トーマス・マンにおける神話的叙事詩の意図︵橘好一︶

の試験成績の劣悪さのために二度に亘って彼を拒絶する︒思い直して

志願した建築学校少尉o三誌再員の呂巳のも彼の志望を容れなかった︒

己むなく彼は︑一九一四年第一大戦の勃発まで︑ヴィーンにあって日

傭いをしたり︑ルンペン・ホーム○豆画︒こ○の①画の乱にあってごろごろ

しながら満されぬ夢に苛まれて無為の生活をする︒この無頼な失意の生活の中で︑彼は不規則だが︑かなり広範囲な雑読によって後年の彼

の反時代的且反人間的な思想と行動とを決定する擬似教養を身につけ

るのである︒

この間のヒトーフーの青春現象は︑芸術家志望の青年のそれとしてみ

るとぎ︑可なりありふれたものである︒生活の難渋ざ︑青春の怠惰と

悲しい無定形性︑定職忌避︑ほんとうはいったい何になるつもりで何

に成り得るのかという疑惑︑社会的I霊魂的ボエームの精神に深く根

︒ついている無為と徒食の悲しみ︑根本に高い気位を蔵し︑過大な自己

評価のゆえにまつとうな人が認めるような仕事を拒絶せざるを得ない

といった性格的偏癖︑何か定かならぬものの為に自らが保留されてあ

るのだというぼんやりとした予感︑余儀ないとぎ︑うっかりと口にで

も出そうものなら︑忽ち人々の失笑を買って了うだろうような不安な

夢と予感︑そしてそれらゆえのやましい良心︑世界に対する漠然たる

念りと革命的な業績への夢︑爆発的な代償要求嵐◎日君国の異さロの言嘩ロの︒

言自己正当化と自己誇示への執勘な要求︑世界が自らの前に鮠くの

を見たいと言う妄想11それはひとかどの芸術家なら誰でもが悩んだ

にちがいない青春の不安と震憾でありすべての未成の芸術家が耐え担

わねばならない︑ものであり︑内面的︑道徳的︑美的な苦行の対象とし

て昇華されるべきものなのである︒芸術志望者ヒトラーはしかし︑彼

自身の青春の生活にあった苦渋ざを自己認識と自己昇華という美的道

徳展望的的視野において受取る術を知らなかった︒ヴィーンの汚辱に 二一ハ

みちた貧民区と諸国人の混合体のなかで︑彼は直接に︑彼の内部のフ

ープストレーションにより︑世界と人間とに対する怨恨と偏見と猜疑と

復隻妄想だけをそだてたのである︒いわば﹁みにくいアヒルの子﹂の

青年ヒトーフーは遂に美しい白鳥にはならず︑逆に全ヨーロッパの民族

と大衆の運命にかかわる醜怪なバジリスク団四の罠巽と化していく︒一

九一四年の第一大戦の勃発は︑ヒトラーをルムペン生活から救い出し

た︒彼は直に志願して伝令兵となり︑祖国のための服務という意識の

もとに︑生れてはじめて与えられた正当な仕事に酔った︒大戦終結後

はバイエルンの首都ミュンヘンに出かけ︑﹁政治﹂による成功を夢み

る︒彼は元将校E・レーム︑R・ヘス︑H・ゲーリング︑Gシュトラ

ッサー及O・シュトーフッサ−︑それにA・ローゼンベルクなどの仲間

と語らってナチスをはじめる︒あとは︑突撃隊の傍︵津日日四三塁匡邑巴

及親征隊の史弊昌目の冨球里︶の暴力と低劣で平板だが大衆にアピール

する彼のものものしい弁舌とによって人々の良心を麻溥させプロイセ

ン的軍国主義を再組織することに成功しただけだ︒そして男なら誰にで目①言ロ胴も出来ること︑つまり﹁子供を作ることさえ出来なかった

﹂この男がまるで天才のように畏怖される存在となったのである︒

●●

彼が一つの鉄の戦斗共同体である第三帝国の拡大を夢みて︑ヨーロ

ッパに﹁新秩序﹂を作るという計画をほのめかした時︑人々は彼にナポレオン・ポナパルテを想起したという笑えぬエピソードさえあった

ようだ︒こういう現象に対して︑トーマス・マンは八国H且①H国三①H

vのなかで一種の警告をはなっている︒﹁ヘーゲルが﹃馬に乗った世

界積神﹄と呼んだ人物︑あの一切をとりしきる巨大な頭脳︑絶倫の業績能力︑革命の化身︑地中海沿岸諸国の古典主義の原型像として︑そ

の形姿を永久に人類の記憶に刻印したところの︑あの暴君に近いまで

の自由の招来者を︑このあわれむべき晴夫︑事実上の無能者にして第

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五級の﹃夢想家﹄おぞましい社会革命憎悪者︑気まぐれ者の卑劣なサ

ディスト兼復隻狂的破廉恥漢と同日に論ずることは︑不条理でありし

ぞけられるべきことだ﹂③と︒まさにヒトーフーの本質は一個の加虐的神

経症患者つまりサディストだった︒ボナパルテが当時ヨーロッパに一

つしかない生れたばかりの近代的共和国を擁護するために︑全ヨーロ

ッパの旧体制に対して己むなく挑まざるを得なかった人間開放のため

の悲劇的斗争に比べれば︑ヒトラーの戦争は単なる力の誇示のための/そして隷属を招来するための征服戦争であり︑反動の典型であり人間

に戦裸を与えるだけの復隻の悪魔のそれにすぎなかった︒レートラーの

政治の未開化性を憎悪することは︑今日の政治意識のなかでは容易な

ことだろう︒問題はヨーロッパ政治のあの時点でヒトーフーという人間

が神なき人間は獣であることが出来る︑という現代的人間の可能性の

極限を示した点にあった︒独裁者という形をとってあらわれた虐げら

れた男の巨大なニヒリズム−1といっても︑ヒトーフーには︑ニヒリズ

ムなどという冴えざえと意識されたものがあったかどうかは︑甚だ疑

フイークシヨンわしいし︑実は彼は自らの本能が作った虚構をただ衝動のままに実践

する外はなかったのだろうが︑結果はニヒリズムに酷似しており彼の自我本能衝動によってドイツ人のなかに組織化された体制を支える世

界観の中には︑結局神への畏敬と人間存在に対する畏敬の念が脱落し

ているのである︒﹁いかにも︑ヒトーフーは︑自ら神や摂理ということ

ばを︑しばしば好んで口にするが︑彼は底の底からの不信心者だった︒

それらは︑彼がその前にひざま・つぎ︑あるいは単に責任を感じた権威

だったことはいちどだってなかった︒それらは彼が自我中心的世界をわな形作るための係蹄シ冨局呂罵にすぎず︑彼の病的に昂進した自我意識による涜神の形式にすぎなかった﹂④とホーファーは言っている︒ヒ

トラーの﹁神﹂は︑けだし︑無限の自由を許された無敵の国家と民族

トーマス・マンにおける神話的叙事詩の意図︵橘好一︶ ﹁ヨーゼフ小説﹂でマンが神話のヒトラー的意味の訂正叉は反措定

をはかろうとする意図は以上によってほぼ明かになった︒ところで︑神

話は神話的世界形象︑つまり感性的な世界形象なしには成立しない︒

世界表象としての形象界を支えるものは人間の構想力であり︑構想力

は人間の外的内的体験から抽象された自然観や人間観を再び典型的形

象の中に投入するのである︒そうして出来た形象界は︑まさに一種の

フィクションであると見られるが︑その包含する宗教的Ⅱ倫理的真理

によって︑それは何よりもモーフーリッシ1に現にある人間の生に関興

二七

だった︒近代国家群の中にあって︑力の優位を保持するため︑彼は応用心理学︑優生学等を含めて︑現代の自然科学と技術の成果を重視し慧智の支えと自律性を喪った科学を組織の中で利用した︒ここにも︑ナチスによって露呈された現代の危機が顔をのぞかせている︒

一九三三年︑マンは西欧諸国への講演旅行の途次︑ナチスによって

ミュンヘンの居宅を占擦され︑そのまま﹁殆ど自発的に﹂悪しぎドイ

ツを離脱し亡命生活に入って行くがその後︑果敢な政治的発言を続々

とつづけることによって︑デモクーフシー陣営の結束と対ナチ決起を警

告し策励している︒そして西欧陣営は一九三九年九月ようやく対ナチ

宜戦を布告するが︑ナチの拾頭からその崩壊寸前の一九四三年にいた

るまで前後十六年を費して成った﹁ヨーゼフ・ロマーン﹂には︑ナチス的人間の存在様式に対する批判と警告とが︑海水に塩が融けこんで

いるようにとけこんでいるであろう︒いづれにしても︑それは︑いく

たの内在的危機をはらんだヨーロッパの現状のなかで︑高貴なヨーロ

ッパ的人間性の始源をあらためて確認するという仕事となる︒これが

おそらく︑﹁ファシストの莫迦者たちの手から神話を奪取する﹂という言葉の意味である︒

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(7)

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来るだろう︒ナフタは一個の宗教的コムニストであるが︑彼は無仮設

的な自然科学は人間の心を暗黒に導くものでしかないという考えに立

●●

つ︒精神を考慮しない自然科学は︑人間の救済を目的としないところ

の認識追求そのものである︒人間は科学の力を借りて︑人間の幸福を

進めるが︑一面において科学は人間に対して許すべからざる罪過をも

惹き起す可能性があり︑第一自然科学そのものは人間の罪過の問題な

どには無関心であるという内在的性質を持っている︒しかし︑真の認

識は人間の救済になければならない︒プーフトン哲学が他の如何なる哲

学よりも貴重視される所以は︑それが自然認識よりも︑自然の背后に

ある神の問題を認識の対象としているからである︒人間の始源的状態

として考えられる理想的状況︑つまりそこには国家もなく権力もなく︑支配も隷属も法律も罰則も︑そして一切の搾取もなく︑人間が直接

に神の子であり︑ただ愛と平等と平和とだけがあった状態をナフタは仮設する︒近代コムニズムは︑まさにこの考え方の復話であり︑彼の

努力はこの状態の奪回のために集中される︒国際労働階級が国際商人

階級や投機的階級に対して支配権を要求するのは11つまり今日の市

民的資本主義の腐敗に対して︑人道主義と坤の国家を唱導する世界無

産階級が大食的に提出している要求は︑キリスト教の長老たちのそれに等しいのである︒ナフタによれば来るべき革命の産物は﹁自由﹂な

んぞではない﹁自由﹂は︑資本主義制度発展の歴史の経過において︑

既にその役割りを果し終って︑いわばその新鮮性を喪い︑それ自身が

もはや極端な反動の段階にはいっているのである︒ナフタの忍耐のな

い︑非妥協的なそして非フモール的な精神主義は︑かくして次のごと

き結論に達する︒すなわち︑真に教育的なあらゆる団体は教育の目的

が奈辺にあるかということをよく心得ているのであって︑真の教育の

目的は︑絶対命令︑絶対服従︑紀律︑自我否定︑個性抑圧にあるという

トーマス・マンにおける神話的叙事詩の意図︵橘好一︶ ことこれである︒青年が自由を喜ぶなどと考えるのは不親切な誤解というものだ︒神の前なる真の自由に達するには︑﹁反動﹂という概念にびくびくしないようになることが最も必要であると︒かくてナフタは彼の仕事は地上に神の国を招来するためのテロルを捲き起すことだと喝破するにいたる︒ここにいたって︑彼の宗教的?善意は完全に政治そのものに従属し︑同時に完全に反動化し非人間化してしまうので

ある︒

ところで︑この宗教的コムニストに対立する今一人のイデオローグ

はロドヴィコ・ゼテムでリーニという理性と自由との信奉者である︒

彼によれば︑ヨーロッパ的原理は︑停滞と無為の安静というアジヤ的

原理に抗して︑つねに反抗︑批評︑革命の原理として動いて来た︒ョ

1ロッパ的世界は︑権利つまり正義と自由と叡智と激動的運動と進歩

の標式のもとにあるのだ︒ヨーロッパ的原理に内在する啓蒙の力によ

って︑人間の理性的完全性が嵐ちとられるとぎ︑市民的神聖同盟すな

わち世界共和国は実現するであろう︒彼の信奉する人文主義は結局政

治に帰着するのであって︑政治の理想とは︑人間を卑しめる一切のも

のに反抗することでなければならぬ︒デモクーフシーの政治は人間の幸

福︑現世的福祉︑思想の自由と生の歓びとを擁護して来た︒そして人

間の苦悩の殆ど総ては社会組織の欠陥に基くという環境主義に立つ彼

は︑人間の進歩に寄興するため﹁苦悩社会学﹂の○国三○四①号﹃F①臼①ロ

という百科辞典の編慕に心をくだいている︒それは人類を啓蒙し彼ら

を恐怖と忍従的無感覚とから開放する︑という意図に発する︒整理と

分類とは克服の第一歩であり︑真に恐るべきは正体不明の敵だからで

ある︒﹁苦悩社会学﹂は彪大な﹁社会病理学﹂の辞典となる筈であり

それは極めて個人的Ⅱ私的な苦悩から大きな集団の蔦藤︑すなわち階

級斗争や国家間の衝突に到るまで︑凡そ考へ得る一切の苦悩を列挙し

二九

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185

トーマス・マンにおける神話的叙事詩の意図︵橘好一︶

解剖する︒そして人類の尊厳性と幸福とを目ざして︑苦悩の原因を除

去することに有効適功と思われる総ゆる手段を提供しようとするもの

である︒lこれは文句のつけようのない理想的な企てであって︑進歩

派が思わずニャリとするような企画であると言える︒

ところで問題は︑いかなる思想にも自己擁護はあり︑それは反面い

かなるイデオロギーにも内在する一種の侵暑性と優位競争︑つまりま

たしても力の問題に通ずるという点にあるだろう︒それを象徴するよ

うにナフタとゼテムプリーニは︑事ある毎に理論斗争を繰返し︑二人

の緊張し切った感情の縛れは︑果ては決斗にまで進展する︒そしてナ

フタは遂に自らの頭蓋の中に自らのピストル弾丸を打ちこんで悲劇的

な終焉を遂げる︒マンは︑ここに二十世紀思想の潮流の行方を見極めており︑ここですでに二十世紀世界の紛争と危機とを暗い戯画として

先取していると言るえのである︒

ところで﹁魔の山﹂の主人公ハンス・カストプの周辺にあらわれる︒●●●●主要人物はここに述べた二人の政治主義的な頭脳的人間のほかに更に一人巨大な人物ペーパーコルンがあげられる︒彼はジャバにおけるコ

ーヒ栽培によって︑巨大の産をなした大金持で︑いわば金銭のもつ貴

族性とでもいうべきものを身につけた桁はづれな王者的風格の持主である︒彼は貴夫人的淫買婦︑といっても売淫の卑しさなどはみじんも

感じさせないマダム・ショーシャに伴はれている︒ドクター・ベレン

スに言わせると︑この貫録のあるペーパーコルンは︑ショーシャ夫人

によって何処かで拾はれてきたのである︒彼は金銭などは︑もはや人

生の問題ではないといった風情を示すが︑どういうものかカルタによ

る賭博では勝負は彼のひとりじめになり金は彼の方に流れるという仕

組になっている︒彼はまた言葉を吃るが︑吃りがちに表明する彼の生

の信条はこうだIl﹁生は女性である︒眼をなかば閉ぢ︑長々と寝そ

三○

くって男性的慾望と熱と力のすべてを要求するあの女性なるものであ

る︒﹂叉︑﹁人生にあって許すべからざる罪とは︑偉大で神聖で単純たまものでありのままなる天の寶を疎かにして洗錬されたものだけに耽溺する

ことだ︒健康で素朴なものが顧みられることの極めて稀な時代にあっ

ては益々そうである︒﹂かかるペーバーコルンにあっては精神的な要

素が肉体的な要素に分ち難く融けあっていて︑莫迦なのか捌口なのか

の区別すらつけ難いままに︑その存在はダイナミックな力そのものと

して外に現れ︑それだけで非常に積極的な生の価値そのものを感じさ

せる︒つまり︑文化的諸物は︑こういう﹁生﹂の要求そのものから生

み出されるのであり︑こういう﹁生﹂の為に存在しているのだという︑

人間の世俗的享楽主義的いとなみに対する一種根源的な前提を感じさ

せるのである︒まさしく︑これは︑﹁トニオ・クレーガー﹂にあらわれ︑トニオが反語的愛情で愛惜していた﹁生﹂の概念の完成した姿な

のだ︒そのペーパーコルンは︑彼が罹っている四日熱形のマラリヤの悪性の熱がひいたある日︑彼が逗留している国際サナトリウムの近傍

にある景勝地へ療養患者たちの一群を引具してピクニックに出かけるそこの耳を雲するばかりの水音を発している飛爆を背景に︑人々に

は聞えぬ言葉を王者的身ぶりを伴って吃りながら長々と喋るが帰来後

の自室で︑毒蛇コブラの歯に似せて作った精巧な注射器によって自ら

の躰に猛毒を注射して絶つ︒かくて言ってみればペーパーアルコンの

ヘドニズム生は資本主義の内実にある現実主義と世俗主義の歸結としての享楽主

義の末路を象徴する一つの戯画となる︒一方軽い肉体の疾患によっ

て妖しくアクセントをつけられた若く美しい肉体の持主ショーシャこ

そは生が死であり死が生である人間の地上的存在性をそのままに物語

る︒人間は生れた時から死につつある存在に相違ないが︑その生のは

かなさと可隣さは彼女によって集中的に表現されている︒世間の何処

(9)

184

にも生活の根を持たず︑ただ投げやりに資本主義社会が生み出した人

生の一フクシュァリーズと優雅と快楽をわたり歩くショーシャ︑彼女は

宙に浮び流れに流れる美しい仇花に似ている︒そして︑情熱とは人生

そのもののために生きることで︑経験とか自分を豊かにすることなん

かの為に生きるのは人生じやない︑という彼女の単純な発想︑それが

スケールの大きい単純明快な生の権化つまり﹁人物﹂ペーパーコルンを

つかんだのだ︒ペーパーコルンはしかし︑彼女とハンスカストルプと

ざきしおの間の心の交流の兆し︑二人のおいた弓o島①群に気付くことを機会に

生への意志を挫折させ死を選ぶのである︒﹁彼は棄権したのよ﹂Q①鴛

匡ロ①︑ぴ島&丘○口.という含蓄のあることばでマダム・ショーシャはこ

の﹁模範的な自殺﹂を評した︒

以上極めて簡単に要約した諸人物のアナロジーは世に確実に存在す

るだろう︒二十世紀は︑ある意味で︑人間像がさまざまな存在形式

になに分裂し︑それぞれの正当性を負いながら︑明かに一面性と内在的矛盾

と限界性とを示している時代である︒トーマスマンはかくの如きパースペクティブに立って新しい独自の人間像を求めねばならなかった︒

故にハンス・カストルプは彼らのうちの何れとも手をたづさえなかっ

た︒真執に徹し︑酸のように鋭く執勧な浸蝕力のある思考をもつナ

フタを彼は思想の淫蕩家と評し︑人文主義的進歩主義者ゼテリムーュの善意とオプテイミズムに好意を寄せつつも︑彼をお人よしの﹁

ヴイントポイテルほら吹きだ﹂と思う︒︵環境改善主義だけで人間の究極目的を達成出

来るか︑という疑念︒︶ショーシャ夫人の生活の自由と冒険と快楽と

無形式とは無秩序とは︑臂輸的に言えば﹁死﹂そのものにすぎないし

無論ペーパアコルンの生のエネルギーは︑マダム・ショーシャの﹁死﹂

的存在形式と抱き合うことによってしか成立しない︒盲目の意志︑自

我の発現形式は﹁力﹂の俗世的表現である金銭欲と異性まつり性慾の

トーマス・マンにおける神話的叙事詩の意図︵橘好一︶ 満足において最もてっとり早く︑見られるものだが︑ただそれだけではこれもまた空しいことだろう︒彼らには︑人間の実存性を深くほりさげ認識するところに生ずるところの宗教的敬虐というものが欠けているのである︒いわば彼らは現代における人間存在の﹁神なき悲惨﹂の中に陥ちこんでいる者たちにすぎなかった︒

ハンス・カストルプは︑ナフタとゼテムプリーニが︑互に批評的主

体として限りない縄張い争いを繰り返すのにうんざりし︑あらゆるイ

デオロギーやイズムの混沌たる斗争の世界を離脱して︑一日雪山の孤

独のなかに出かける︒そこで彼は︑恐ろしい血の饗宴を背後にして︑

つつましい教養と幸福の中でのヘーフス的明朗さの中にある太陽の子ら

を夢にみる︒ここで彼は人間の貴重さを悟るのだ︒恐ろしい獣性と理

性的善良という二律背反をふまえながら獣性をはるかに見下している

人間の影像を︒そして︑彼はいう﹁人間はどんな対立よりも尊いのだ︒

死よりも尊くあり︑死には貴重すぎるlこれが知性の自由というもの

である︒生よりも尊く︑生には貴重すぎるlこれが心の敬慶というも

のだ︒﹂⑤﹁愛は死に対立しており理性が死より強いのでなくてただ

愛だけが死より強いのである︒理性が善良な考えを与えるのではなく

ただ愛だけがそれを与えるのである︒﹂と︒⑥死とは︑ここでは一切の

ラデイカールなもの︑過度なもの︑非理性的なもの︑淫蕩的なものを

指す︒人間は理性的︑道徳的理想をふまえたままで︑兇悪に赴くこと

さえ出来るところの危険な深淵を孕んだ実存的存在だということ︑生

とはまさにそういうポテンッをはらんだ実存的人間のいとなみであるこのとき︑カストルプは︑あらためて︑﹁人間﹂を一切のイデオロ

ギーに優先させ︑たぶん︑ひたすらに神への関心と人間への愛とに充

たされた新しき人間を夢見︑それをホモ・デイとよぶ︒このようにマ

ンは﹁魔の山﹂の中で︑ハンス・カストルプに﹁神人﹂函○日○ご①お

一一一一

(10)

183

トーマス・マンにおける坤話的叙事詩の意図︵橘好一︶

夢を見させた︒それは人間に対する絶対の愛という困難なものをはら

んだ理想的人間の﹁夢﹂だった︒そして︑おそらく︑この﹁神人﹂とい

う新しい人間性の予感的映像が︑こんどは古代のオリエント世界を舞

台に﹁ヨーゼフとその兄弟たち﹂のなかで具体的形姿を展開しなけれ

ばならないのである︒

ヨーゼフ・ロマーンは旧約聖書創世記第二十七章︑信仰の父アプラ

ハムの子イサクのそのまた子で︑母レベカの奇計によって父から祝福

を編り取ったヤーコブの事蹟を物語る章にはじまり︑母一フェルの計ら

いによって同じく父から祝福を受けた少年ヨーゼフの苦難と成長の物

語全般に亘り創世紀終章第五十章にまでまたがっている︒この﹁限ら

れた﹂時間は︑物語の中でまた無限の外廷をもち︑創世記の発端をさ

かのぼり﹁無限﹂の彼方に消える︒

﹁私は宗教という言葉のもとに一種の畏敬︑深慮︑用心深い態度と

しての良心性︑恐曜日の言のとしての良心性︑然り︑結局世界精神の運

び罰侭ロロ胆に対する深い憂慮をこめた感情としてそれを了解している

﹂⑦というマンの云葉をシュトレスアウは紹介していているが︑マン

が多くの危機を孕んだ二十世紀のこの時期に特に創世紀神話にひかれ

て行ったのは﹁魔の山﹂の帰結としてもうなづける事である︒結局そ

れはマンの宗教への新しい開眼を示すものであろう︒いかにもここに

は畏敬がある︒先づ時間に対するそれがある︒ヨーゼフ・ローマン︑

正しく言えば百房○亨﹈○のg亨困○日四国の書き出しの部分をみよう︒

﹁過去という泉は深い︒その底は殆ど測り知れぬと言うべきだ︒もっ

ぱら人間の過去だけを論議の対象とするばあいにすらそう言える︑つ

まり正にここからこそ人間存在の始源︑歴史や文明の発展は︑深く探 一一一一一

れば探るほど︑遠く過去の暗閣のなかに分け入れば入るほど︑われわ

れが過去の中に沈めてゆく測深鍾は︑気も遠くなるほど思いきって繰り延べて行ってもついに底をつくということがないのであってそれを

測量するのが全く不可能だということが分って来るのである︒﹂吾わ

れが考える普通の﹁発端﹂は︑一定の社会や民族や宗教団体の特定の

伝承の実際上の発端にすぎないのであって︑極めて相対的な始源にすぎぬ︒吾々は唯物論的世界像の彼方に突如としてひらけて来る宇宙的

神秘に対する感動を想像出来るが︑そのような神秘を﹁時間﹂に関して

も理解出来ようだ︒真相は︑恐らく︑﹁永遠の今﹂ロロロ○四g①曽巨目あ

るいはロ巨冒oの冨邑のつまり①言の誌底のロ号の︺昇異が︑吾われの前にひ

らけているだけなのかも知れないのである︒人間存在のみがこの神的

な﹁永遠の今﹂の地上的投影を支える者である︑ということになるだ

ろう︒だがこれについては︑後にまた触れる機会があるであろう︒

﹁単純に個人Ⅱ特殊的もなの︑特殊的事例固目の罵呈つまり語の最

も広い意味において﹃市民的なもの﹄のすべてに対する好尚が︑ある

年齢になると消滅するのは︑たぶん一種の法則だろう︒そのかわりに

典型的なもの恒常人間的なものgの胃日日閂︲富①ロのo匡一号①永却回

帰的なもの含のぎ日の烏三尉号鼻①言①且①無時間的なもの︑gの

需壁○m①要するに神話的なものが関心の前景に現れて来るのだ﹂③と

マンは一九四八年の﹁新研究﹂にかいた︒たしかにマンは﹁魔の山﹂

を書き終える頃までは︑市民的Ⅱ特殊的なもののすべてに関心して来

たのである︒然し︑またそのなかにあって︑﹁プデンプロークス﹂の

トーマス︒プデンプロークのごとく︑ショーペンハウエルの意志形而

上学によって︑余りにも地上的Ⅱ市民的Ⅱ形而下的なる事象を突破し

て︑形而上学的なものに至ろうとする構えをも体験しているのである︒

だから︑恐らく﹁恒常人間的なもの︑恒常回帰的なもの︑無時間的な

(11)

182

もの︑要するに神話的なもの﹂に対する準備は既に徐食にマンの内部で

出来上っていたと言っていいのである︒﹁神話的なもの﹂という発想

の背後には︑シヨペンハウァーの﹁意志﹂形而上学やニイチェの﹁永

却回帰﹂の想界が準備的に影を落していることが察せられる︒いやそ

こにはプーフトンの﹁イデア﹂やカントの﹁物自体﹂さえも形をかえて

起想されているかも知れないのだ︒これらの諸観念はすべて現象の流

転を超えた彼方に﹁在る﹂と想定された﹁実在﹂だからである︒この

ようにして︑マンは︑いまや︑無時間的なもの︑﹁永遠の今﹂﹁永遠

の実在﹂の前に立つ︒

さて︑過去も未来も︑永遠の﹁今﹂として吾女にはたらきかけると

はどういうことであろうか︒過去が吾われにはたらきかけるというと

き︑過去は現にそこにあるものでなければならぬ︒過去は過ぎ去って

いまはないものとしてではなく︑今あるものとしてそこにあるからこ

そ︑はたらきかけることが出来るのである︒同じく︑未来に属するも

のもまた︑とにかくそれが予感され︑考慮されたものとして︑一たん

﹁過去﹂をくぐり抜けた上で︑吾女の上に何らかの働きかけを行うで

あろう︒一回的生の主体にとっては過去も未来もかかる意味で︑現在

性をもつのである︒人間が直面している現在は︑だから︑形式的に分

割された過去・現在・未来という時間の日常性の秩序を超えた︑別の

秩序のもとにある﹁現在﹂でなければならぬ︒というと︑これはただ

の﹁論理﹂のように聞えるが︑マンは︑実は真の実感をもってこれを

感じ取り︑彼の神話をこの論理のなかに置いているのである︒つまり

人間の神話的把握にあっては︑過去が現在に回帰し︑現在が未来に回

帰し未来は過去であり︑現在も過去であるということが起る︒過去は

常に現在のなかにあり︑また未来のなかにある︒これを簡単な言葉で

トーマス・マンにおける神話的叙事詩の意図︵橘好一︶ 言えば︑コスチュームつまり現象は変るが本質は常に同じだということであり︑過去は常に現在の中に影響しているばかりでなく︑それは永却の回帰だということである︒そして︑フロイトもまたここに真理を見出したのだ︒彼は人倫や自己を破壊するような人間の非行の源を説明するのに神話を持ちだすのは周知の事実だが︑フロイトこそは人間非行が永久に変ることのない人間の本質すなわち﹁意志﹂の抑圧とくげん苦患との作用であることをよく理解した人だった︒彼は太古無限の過去から存在して来た人間一般の﹁意志﹂つまり願望の蹉てつが︑霊魂の中へ沈澱させて行ったものにエス︑つまり﹁無意識﹂の名を与える︒彼の創見はまさにここにあると言えるのであって︑彼は先も見えない太古の人間に発生し︑人間の無意識界に沈澱し唾っている巨大な神話的集積物によって︑人間はつぎ動かされて来たし︑つぎ動かされているし︑つぎ動かされるだろうことを洞見したのである︒彼は人間のコムプレックスを神話的事例を手がかりにして解明し︑人間の無意識を意識へと媒介することによって︑破局を超えさせようとした︒マンが神話と心理学の結合に興味をもったというとぎ︑正に深層心理学の理論に見られるような意味あいで︑過去が現在に回帰するのを見ようとしたからに外ならないのではないだろうか︒マンもまた︑彼のヨーゼフ小説で人間が太古から演じて来たドーフマをありのままに想起し再現

●●

しつつ︑その中に︑自由なる人格と信仰の強さと愛とに浸された典型

的人間︑つまり﹁神の人﹂という理想像を追及しようとするのである

さて︑さしあたりここでは先ず愛の問題から考えて行こう︒

愛を先づエーロスという云葉で表してみよう︒エーロスがもともと

真実在︑あるいは真善美のイデアへの志向的情熱を意味するとすれば

一一一一一一

(12)

181

トーマス・マンにおける神話的叙事詩の意図︵橘好一︶

それは人間関係では両性の理想的合体の関係に移して考えてみること

も出来る︒このときエーロスは他者を理想的絶対的価値として求め︑

かくして低次のそしてむき出しの本能を純化しつつ他者のなかにひた

ぶるに没入しようとするであろう︒愛は単なる情念であることもあろ

うが︑それは︑実践を通して人間の心に通い合うものである︒こうい

う愛の理想的実現の様態は︑たとえば︑マンの﹁トリスタン﹂の中の

次のような描写に認められる︒﹁二つの力が︑二人の遠くはなれた者

が悩みと浄福の中に営々として近づいた末︑永遠と絶対とに向って︑

洸惚とした物狂ほしい慾望に燃えながら相抱いた⁝世の悩ましい迷誤ドウイヒダインマインをのがれ︑時空の束縛を脱して﹃汝﹄と﹃私﹄︑﹃汝がもの﹄と﹃我がもの﹄とは一つに融合して崇高なる法悦となった⁝⁝祥りも虞れもあこがれない穏やかな係恋︑崇高な︑悩みを知らぬ消滅︑無辺際のなかの至高

の夜あけ︑汝はイソルデ︑我はトリスタン︑否もはやトリスタンにも

あらず︑イソルデにはあらずl﹂⑨︒ここには︑二つの心霊の共感と共喜との﹁神話﹂的実現が語られている︒愛の原形はまさしくここにあ

るのであって︑人間の心の通いへの志向はすべてここに表現された境

地にあこがれるだろう︒だが現実には人は常にへだての中に投げ出さ

れているという意識の苦患の中にある︒そこには︑自我をめぐる執念

き慾念と悠意の錯迷がある︒愛は何という困難に逢着しなければならないのか︒トーマス・ブデンブロークが視諦したように︑人はつねに

﹁私﹂といった︑﹁私﹂という︑﹁私﹂と言うであろうところのもの

として︑同じくそれを力いつぱいに叫ぶ者らの中に生きねばならない

のである︒盲目の﹁意志﹂が個別化原理によって︑個々の﹁表象﹂と

して現れるところに生起するあらゆるエゴの苦患と確執︑そしてそれ

から生ずるさまざまなドヲマー人はまぎれもなくそして抜きがたく

この中にとらわれて存在する︒このような現実のなかにあって愛はど

三四

のような発現形態において登場するか︒人間一般へのエーロスは可能

か︒それは深い人間理解をふまえたところに発するフモールによって

する憎悪や怨恨からの脱却という形で現れねばならないのではなかろ

うか︒

話を﹁ヨーゼフ﹂小説にもどせば︑吾われはヨーゼフに於て︑憎悪

や怨恨のごとぎ︑いわば負の符号を持つ情熱が殆ど発現しないのを認

めないだろうか︒以下彼の心術にすこしだけふれてみる︒ヨーゼフの父ヤーコブは︑母レベカの世の母親らしい母情によって

父イサクから﹁祝福﹂と長子権︵家長権︶とを編り取り︑ヨーゼフは

また︑父ヤーコブの妻妾のうち彼の真に熱愛した正妻ラエルの子に生

れることによって他の異母兄たちに先んじて︑父の﹁祝福﹂を受ける︒

しかし﹁祝福﹂を受けるとは︑このばあい︑必ずしもはじめから世の幸

福を独占出来るということを意味しない︒むしろ︑それは神の試錬と

しての﹁苦難﹂のはじまりを意味するのである︒現にヤーコブは祝福を

受けたことによって︑長子エサウの恨みと憎悪を買い父母の住むカナ

ンの地と莫正な財産とを離れることになり︑アラム・ナハライムの地

に赴いて悪魔のごとぎ伯父ラバンの奴隷となりそれこそ理想型の婦人

として︑一目惚れの︑そして想愛の処女ラエルを妻にする迄の十四年

間をさんざんな目に会わねばならない︒このラエルとヤコブとの間に

第十一子として生れたヨーゼフはまた︑この父から祝福を受けること

によって︑長子ルベンをはじめ︑シメオン︑レビュダ︑イサッカル︑

ゼブルン︑ダン︑ナフタリ︑ガド︑アセルという一騎当千の乱暴者で

ある異母兄たちの嫉視と憎悪と迫害とを一心に引きうける身の上とな

る︒かくて﹁ヨーゼフは兄たちによってドタン地方の谷間にある古井

戸﹂つまり﹁塚穴﹂に投げこまれ三日三晩のあいだ文字通りに﹁死﹂を

体験するが︑偶然イシマェル人の隊商によって見出され︑エジプトに

(13)

180

連れて行かれた後︑ここで奴隷として売られる︒其処で彼のつかえた

待衛長ポテバルの妻に恋慕された彼は︑彼女の排みを拒絶したかど

で︑逆に女の怨念を買い︑ョ−ゼフの方から︑ポテパルの妻を口説

き言い寄ったという虚構の罪におとし込まれ牢獄につながれる︒この

ようにヨーゼフは﹁祝福﹂によって二回も﹁塚穴﹂乃至は﹁死﹂の中

に閉ぢこめられるのである︒勿論︑父ヤーコブにとっては愛児ヨーゼ

フの失蹉は号泣に値し身も細るような深い悲しみではあるが︑これと

ても︑もとわと言えば祝福をだまし取ったことが原因なのである︒こ

こで大切なことは︑ヨーゼフが恐るべき絶望の状態にあって希望を喪

わないという点である︒ヨーゼフは︑いかなる事件の渦中にあっても

﹁太古に形造られた原型が絶返される﹂という信条をいつも保って

いた︒彼は兄たちによって袋叩きにされ︑ラエルの身につけていたとこ

あやぎぬろの︑そしてまた祝福の象徴であるところの采衣をずたずたに引き裂

かれて︑自らは古井戸に投げこまれるという恐怖の経過の裡にも︑叉

兄たちの狂気のように殺到する襲撃を受け︑不安と死の危険がぎりぎ

りに殺到する中で︑彼は︑ほんとうは何が起っているかを見るために

目を見聞いていた︒古井戸の中に投げこまれるという現実の境位を前

にして︑彼は太古から愉らずに行われている星晨の下降と上昇を思い

そこに﹁死﹂と﹁復活﹂の象徴を見︑そして考える︒自分が赤き殺人者ども

によって引き裂かれ死の中に奪いとられて行くことは︑彼の父ヤーコ

ブにとっては︑ヤーコブ自身が︑愛児イサクを神により犠牲として要

求されたアブラハムとなることであり︑采衣が兄たちによって引き裂

かれ仔山羊の血に浸されてヨーゼフの死の証しとしてヤーコプの前に

持出されるであろうことは︑アプラムのばあい蟠祭としての仔山羊の

血が︑息子イサクの血の代りをしたことと符合することになる⁝そし

トーマス︒マンにおける神話的叙事詩の意図︵橘好一︶ てこのような循環は無限に繰返されて来たのだ︒ヨーゼフは曽てエリェゼルに聞かされたことがあった︒世界運行の大循環のひとつひとつは︑四十三万二千年を包含し世界経過はこの大循環のくり返しである従って世界経過は﹁生の更新﹂と呼ばれ︑また﹁過去の繰返し﹂とも﹁永遠の反復﹂とも言われるのである︒この世界経過の名称は﹁オラム﹂すなわち﹁エオーン﹂であり︑神はこのエオーンの主であり︑幾エオーンを通じて生きて来たハイ・オラムである︵秒たる一天球︑地球は既にいくつの悶巳富国8月旨を閲しているのだろうか︒︶その神は人間の心にオラムを与えた︒すなわち︑エオーンを考え︑考えることによってある意味でエオーンの支配者である人間は︑大コスモスをうつす小コスモスである︒従って人間もまたコスモスの主であり︑人間でありつつ神たることが出来るのだ︒かくてョゼフもまた神なのだ︒つまり引き裂かれたヨーゼフは引き裂かれた神である︒井戸つまり﹁塚穴﹂に投げられた神である︒彼はまさしくこういう二重的存在の自覚のなかにあった︒そしてこの二重的存在の自覚こそヨーゼフの生活を導く主要な確信だった︒﹁二重のものの統一︑回転するものの現在化︑上と下とが位置をかえるという可能性従って一方が他に変化し︑神々は人間に︑そして人間は神々になり得る﹂⑩と言う確信︑そして﹁現世は生動的な世界であると同時に正義の世界でなければならない︑という矛盾は神の偉大さそのもののなかに含まれている︒活動的な神は不善である︑あるいは何よりも善であるというばかりでなく同時に悪でもあるのだ︒神の活動は悪をも包含していて︑それでいて神聖であり︑神聖を要求すもるのだ︒﹂⑪かかる洞察のもとに︑ヨーゼフは︑いわばヨブの誠実をもって存在の重さに耐える︒こういう人間の状況こそ﹁信仰﹂というものであろう︒ヨーゼフは太古からの無

(14)

179

トーマス・マンにおける神話的叙事詩の意図︵橘好ご

終の法則が自らの上にも現に繰返されているのを信ずる︒この繰返し

は︑また自然が彼を助けて︑彼の堪えがたい状態から希望を捨てない

彼を助け出すためのはからいともみえて来た︒生命は最後まで自然な

ものである︒そして﹁死﹂を棲家とするという観念の中には再現や復

活の観念が既に含まれているのだった︒I生身の人間には︑にわかに

測りがたい神の意志とはからいとを以上のごとく観じ信ずることによ

ってヨーゼフは苦難を超えた︒現実とは簡単にかわすことの出来ない

否定しようもなく冷静なものであり︑それはただ直面し耐えるより外

ないものである︒そしてョJゼフをして耐えきらせたのは︑彼の信仰

の純粋さとユーモアとであろう︒﹁フモールは事態を二つの側面から

みるのではなく︑事情によっては︑多元的な側面から見渡すことの出

来る能力︑事態を言わば八方万遍なく日ロ︒属日見渡すことの出来る能

力を前提とする﹂⑫とシュトレサウは言っているがヨーゼフはまさし

く彼の知見と信仰とによって偏見なき立場から事態を見︑事態の意味

を解釈し︑非感傷的な余裕を得たのである︒これはヨーゼフのフモー

ルの一面であり︑ヨーゼフを語るマンその人のフモールであると言っ

てもいいであろう︒そして﹁祝福﹂とは以上のべてきたような了解の

もとに︑神を観じ神に著き︑究極目的としての神の希望と正義とを見定

ることであろう︒ヨーゼフはヨヂプトにあって賢明な夢卜いや穀物の

管理策の功によって宰相となり富の寓胃○口つまり﹁養う人﹂同目弊冨胃となる︒そして昔日︑彼を迫害し︑彼に死の恐怖を強制した邪悪な兄

たち今は恐怖が自らのものとなった兄たちに対してヨーゼフは言う︑

﹁パラオの権力を︑ただそれが私のものであるというだけの理由で使

って井戸の底に落された三日間の痛い目の復隻をすることで︑神がと

りなされたよきはからいを再び穀してしまうとでも言うのか︒笑わし

てはいない︒権力をもつからと言って︑それを正義と分別にさからっ 一一ヱハ

て使う男は笑われ者ではないか︒たとえ今日世の笑い者にならなくて

も︑未来にはきっと笑われるのだ︒そして私は未来に期待をかける者

なのだ︒安心して睡るがいい﹂と︒⑬

トーマス・マンの広大且つ深遠な世界洞察から生れてくるフモール

と微笑とからは善意と寛容と宥恕への祈りのようなものが測盈として

われわれに迫る︒フモールは︑善であると同時に悪でもある生︑この

永却の回帰を底の底から諦視するところに生ずる余裕とゆるしの感情

であり︑ここから︑万人の生の和解に対する讃歌がうたわれねばなら

ないのである︒フモールもまた大いなる愛の一発現形式ならば︑トー

マス︒マンはこのようにして強く人間への愛と畏敬を語ったのであり︑

それは現代の諸努力の過熱をさます清涼済ともなるのである︒

吾々はここで︑また再びヒトラーのドイツを思い出すのである︒ワ

ルター︒ホーファーのナチス年国僅言呉座骨のz異さ邑巴8凰巴豚日易

によれば︑﹁ヨーゼフ﹂小説発表の年︑一九四三年一月三十一容︑ス

ターリングラードの戦斗は︑ドイツの敗北によって終局している︒悪魔に遇かれフモールと善意とを喪ってザハリヒな力そのものと化した

ナチスの壊滅は︑そこからはじまった︒思えばナチスの政治は︑現代ヨーロッパに内在するところの︑力と正義とを同一化しようとする傾向の最もラデイカールな︑そしてむき出しな表現に終った︒近代科学

の成果と国家の全能とへの過当な信仰が︑人間の内部に抜きがたく存

在する暗い非合理的なもののエネルギーと結合するとき︑いかなる怪

物が出現するかを︑それは吾われに示した︒そのナチスは︑まさしく

もう一つの力の前に屈し壊滅していったが︑この時ほどはっきりと︑

力なしには正義は実現され得ない︑という印象がつきつけられた時も

なかった︒しかし︑力が依然として正義実現の前提となることを止め

ないならば︑異なれるイデオロギーを踏まえて冒険的に対立する国家

(15)

177

①②⑧例⑤⑥例⑧⑧⑩伽⑫⑬⑭

HermannStresau:ThomasMannundseinWerkS、160

WalterHofr:DerNationalsozialissmusDokumentel933‑1945S、13 Th.Mann:BruderHitlerin>AltesundNeues<S、58‑593

WalterHofer:ibid.S、17

Th.Maun:ZauberbergS.453(G.B.Fischerl956) Th.Man:Zauberberg.S.453(G、B.Fissherl956)

HermannStresau:ThowasMaunundseinWerkS、173 HermannStresau:ThomasMannundseinWerkS.153

Th.Mann:SamtlicheErzahlungeuS.192‑194(S.FischerVerlagl962) Th.Mann:JosePhundseineBriider.S581(S・FischerVer]a9.1962)

トーマス・マンにおける神話的叙事詩の意図︵橘好二

Th・Mann:JosephundseineBIiiderS、429

HermannStresau:ThomasMannuudseinWerkS、170

Th・Mann:JosephundseineBriider.S、1821

F・Lion:ThomasMann.S.144

一 一 一

参照

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