Truman Capote
とインターテクスチュアリティ— Breakfast at Tiffany’s
を中心に―本合 陽
はじめに
Truman Capoteの作品で最初に読んだのは “Miriam”
でした。短編作品を扱う授業で使う題材として読んだのです。多くの方が文学の授 業として、英語の授業の副読本として、使ってこられたのではないかと 思います。読んで私が感じたのは、カポーティの Mrs. H. T. Miller に 対する深い同情というか愛情というか、ミラー夫人を見つめる優しい作 者の目でした。テクストの背後にある、作者のミラー夫人を優しく見守り たいという視線、意思と言っても良いかもしれません。しかし、そのよう な点に触れている批評は、私の不勉強もありますが、お目にかかった ことがないように思います。なぜだろうと考えてきましたが、2014年に出 版された Thomas Fahy の
Understanding Truman Capote
を読み、少 し分かったように思います。フェイは、カポーティの批評の主流はニュークリティシズムと伝記批評 であり、カポーティの作品を “sociopolitical concerns” の視点から見る ことを阻害してきたと述べます。その上で、 “daylight” と “nocturnal”
という二つのスタイルのあいだで揺れているという見解が、1958年に
Paul Levine
によって提出され、 Ihab Hassan が “the nocturnal style”と “the daylight style” という言葉を1961年に発表した論文で定着させ、
それが続いてきていると説明します。私も大昔、Other Voices, Other
Rooms
について論文を書きましたが、最初に読んだ論文の一つがハッサンのものだったと覚えています。
スタイルを分類すること自体が悪いわけではありませんが、分類した ところで、私が感じたカポーティの Mrs. Miller に対する愛情を説明す ることはできません。 “nocturnal” であると言ったところで、テクストが読 者に投げかける視線、私はテクストと作者の間の距離感、スタンスの問 題に関わるように思っていますが、そういった点はまったく解明されな いからです。私はこの点において、 フェイが主張する “sociopolitical
concerns”
はカポーティ作品を読み解く上でとても重要なのじゃないかEssays and Studies in British & American Literature 66 (2020), 1-22. ©Akira Hongo
と思います。私自身はフェイを読むまで、 “sociopolitical” という言葉 で考えてはいませんでしたが、時代的な背景とカポーティの生き方とが 作品を解釈する上で、大きく関係していると思ってきました。作者の問 題を持ち出すことに異論がある方もいらっしゃると思うのですが、テクス トに対する作者の向き合い方が、ある種のトーンというか、読者に与え る印象に影響すると思うのです。私は以前からそういった問題を「隠蔽」
と「解放」というキーワードで考えようと思ってきました。まだ十分に論理 的な整理ができていませんが、テクストを書くことで作者自身の何かが
「解放」される場合と、テクストを書くことが作者自身の何かを「隠蔽」す る場合があって、その二つがテクストと読者との関係にも影響するので はないかという仮説です。
カポーティは幼いころから自分のセクシュアリティに違和感を持って いましたし、小柄で可愛い顔をしていることで同級生にいじめられたり もしていたようです。その上、母はその点を庇ってくれないどころか、矯 正しようと躍起になっていました。母は結局、亡くなるまでカポーティの セクシュアリティを認めようとしなかったそうですが、一方で本人はノー マン・メイラーが驚愕したくらい、同性愛を隠そうとはしていませんでし た。わざと目に見えるようにしていた節すらあります。メイラーがカポー ティと一緒に、カポーティが当時住んでいたアパートの近くの、ブルック リンのアイリッシュバーに入ったとき、カポーティがまるで “a beautiful
little faggot prince”
のように気取って歩くので、たむろしている連中と一騒動あるのではとメイラーは怯え、その結果、自分をさらして生きる 勇気をカポーティが持っていることに衝撃をうけたということです(Long
n.pag.)。こうしたカポーティの生き方は “camp”
という言葉を使って考えたくなりますが、彼の作品もまた “camp” 表象として考えることがで きるのではないかと思うのです。
“Miriam”
についてもう少し説明しておきます。ご存知の通り、夫に先立たれ、経済的には苦労のない Mrs. H. T. Miller は誰とも付き合わ ず 一 人寂 しく 平凡 な毎日を過 ごしていま すが 、ある 雪の 降る 日 、
Miriam
と名のる少女と出会い、その後徐々に少女によって日常をかき乱されていきます。困り果てた夫人が同じアパートの住人に助けを求 めたところ、ミリアムは存在しないという事実を突きつけられることになり ます。一人部屋に戻った夫人は、ミリアムに出会って自分が失っていた のは Mrs. H. T. Miller というアイデンティティであったと認識します。そ
うすると再び、ミリアムが登場するというところで終わる作品です。
ミリアムは明らかに Mrs. H. T. Miller のダブルで、夫人のファースト・
ネームが Miriam であることを考えると、夫人の心の中で抑圧されて いるもう一人の自分と思えますが、彼女が Mrs. H. T. Miller という夫の 名前で自分をアイデンティファイすることがこの作品の重要なポイント であるといえます。
夫人がタバコを吸う場面がありますが、出版時の1945年の時点が作 品の現在と仮定し、その時点でミラー夫人が60歳であるということは、
ジャズエイジの1920年代に夫人は30代、恐らくこの時期にタバコを覚 えたのでしょう。と言うことは夫人は結婚する前、遅まきながらフラッパ ーに憧れた世代かもしれません。彼女の中にはミリアムのように振る舞 いたい自分がいる。しかし、結婚という縛りが彼女にそういった振る舞 いを認めさせない。作中のミリアムのように振る舞いたい自分がもう一 人の自分として成長してしまう。しかし折角目覚めかけたその自分を怖 いと思って夫人は押し殺してしまうわけです。
例えば “A Rose for Emily”の場合、作者 William Faulkner がエミリ ーを哀れだと思い、だからバラを手向ける、それがタイトルの意味だと わざわざ言わないと(Cited in Gwynn 32)、そういった気持ちが伝わらな いように思えます。高村光太郎の智恵子抄みたいに、狂っていくのを 観察しているといった印象を読者に、少なくともわたしに与えます。しか しそれと異なり、カポーティはミラー夫人に対し、Mrs. H. T. Miller にこ だわるから結果としてミリアムに取りつかれるんだよ、自分の中のミリア ムを認めなさいよと、読む読者も含めて背中を押してくれる、そういった 登場人物に対する愛情を感じます。
越智博美は、その著『カポーティ』の中で、文学批評におけるカポー ティの位置のなさを指摘した上で、以下のように記します。
もしかするとカポーティの本は私にとっては大切に棚におきながら も仕事の対象にしない本なのかもしれない。論じるとなると「客観 的に見つめる」目を持たなければならないと、少なくともわたしは 思い込んでいる。でも、カポーティはわたしに作品を客観的に見 ることをさせてくれないのだ。その作品は、わたしにとって、美しく て、哀しくて、痛い。そんなふうに切り込んでくる。
(越智 5)
越智もカポーティの登場人物への愛情を感じていたのではないでしょ うか。こんな風に読者が感じるということは、作者カポーティの作品に対 する向き合い方がテクストにも反映して、読者に伝わるということはので はないかなと思えるからです。
Other Voices, Other Rooms から In Cold Blood へ
カポーティが最初の小説、Other Voices, Other Rooms を出版したの が1948年1月。ほとんど同じタイミングで Gore Vidal の
The City and
the Pillar
が出版されています。そしてその1948年は、キンゼイ報告男性版が出版された年でもあります。第二次大戦時、兵役に就く男性に
“Are you homosexual?”
と尋ね、肯定する答であれば兵士になれない(Miller 231)、そんな時代の直後です。主要な港町にゲイバーが発達
したのは、そんな経緯と関わってもいたそうです。さらに、第二次大戦 後、帰国した兵士たちが家庭生活を築く課程で、大戦時にはあった性 的に自由な雰囲気も失われていったようです。カポーティとヴィダルの 友人で、イギリスから帰化した Christopher Isherwood がアメリカに来てA Single Man (1964)
を出しますが、その中で、1945年、46年の頃のロ サンジェルス近郊にあった性的に自由な雰囲気が、第二次大戦後に 帰国した兵士達が家庭を築いていく過程で失われていった様子を描 いています(18-19)。第二次大戦時、およびその直後の時代はある意 味で性的な自由を求める雰囲気があったのでしょう。かたや二冊の小 説を出し、ヘミングウェイの後を継ぐのではと嘱望されたヴィダル、かた や短編で大きく注目されていたカポーティ。二人の若手のゲイの作家 が、奇しくも同じタイミングで同性愛を主題とする作品を出版したのは あながち偶然とはいえないでしょう。カポーティとヴィダルは1945年にアナイス・ニンが主催したパーティで 出会ったそうです(Clarke n.pag)。ヴィダルは『都市と柱』を1946年に執 筆したそうですから、証拠は見つかっていませんが、二人が出会った 頃、構想をカポーティに話していないとは言えません。カポーティが書 き か け で あ っ た
Summer Crossing
を 引 き 出 し に し ま い 、“Excitement―a variety of creative coma”
に圧倒され、『遠い声、遠い 部屋』の執筆を始めたのは、ニューヨークでの仕事を辞め、1944年に幼いころ世話になった田舎に行った折のことであると、エッセー、 “A
Voice from a Cloud”
に記しています(617-18)。Gerald Clarke の伝記 でも、カポーティ自身のこの言葉以上の証拠はないようですから、『遠 い声、遠い部屋』の執筆の本当の動機はカポーティ自身が語っている とおりなのか、『都市と柱』を構想していたヴィダルへのライバル心では なかったかと、ちょっと疑いたくなります。ヴィダルといえば、出会って最初の頃こそカポーティと仲良くしていま したが、二人が冒険を犯して上記二作品を発表した頃から犬猿の仲と なったのは有名です。そもそもがこの二つの作品に関する評価が二人 の不仲の原因となっていると思われます。ヴィダルの作品はあまり評価 されず、一方カポーティの作品は大きく注目を集めました。出版直後、
そんな二人が双方、相手を傷つける言葉をテネシー・ウィリアムズのア パートでぶつけ合ったようです。ヴィダルはカポーティに、プロットをマ ッカラーズとウェルティからとっただろうとなじり、カポーティはそれなら 君は『デイリーニュース』から盗んだじゃないかと言い返したそうです。
カポーティは言い合いの原因をおぼえていないが、それ以降、二人は 友人でなくなったと言っています(Clarke n.pag.)。そもそも二人が、もし くは二人の出版社が、同じタイミングで同性愛を主題にする若手注目 作家の作品の競演を狙った可能性もあるのではないでしょうか。
ヴィダルは1969年の
Playboy
誌のインタビューで、「カポーティは書 くことで有名になりたかっただけなんだ。だから流行っている作家の作 品を真似た。『遠い声、遠い部屋』はカーソン・マッカラーズから盗んで いるし、『ティファニーで朝食を』の場合、イシャーウッドの「サリー・ボウ ルズ」を拉致した。要は彼にはまったくオリジナリティがないってこと。そ れでルポルタージュに転じた。創造力のない輩に相応しい領域で、興 味深い仕事を始めた。いわば自分のヴォイスを見つけたんだね、それ が彼にとって書くことだったわけだ。」(Grobel 130)とヴィダルが言うよう に、カポーティがある意味、アイディアを他の作家の作品から頂いてい るのは事実と思えます。そのあたりは後ほど考えることになると思いま すが、なぜここでこのくだりを紹介したかというと、『遠い声、遠い部屋』の最後の部分を書きあぐねていた頃、カポーティがイシャーウッドと会 っているのですが、作品の最終場面に登場する言葉がイシャーウッド の作品の言葉を意識しているとしか思えないからです。
『遠い声、遠い部屋』の最後、主人公の少年ジョエルは本当の自分に
気づきます。本当の自分はランドルフという、同性への愛を胸に秘め、
時折女装する男性と同じであると気付き、それまではどこか拒否してい たランドフルを受け入れることができるようになるのですが、自分を受け 入れたジョエルをテクストはこのように描きます。最終の段落の書き出し です。
His mind was absolutely clear. He was like a camera waiting for its subject to enter focus.
(OVOR 234-35)
アメリカに渡ってくる前のイシャーウッドの代表作、Goodbye to Berlin
(1939)
の、 “A Berlin Diary (Autumn 1030)” と題された最初の章、冒 頭二つ目のパラグラフにこのように書かれています。I am a camera with its shutter open, quite passive, recording, not thinking. Recording the man shaving at the window opposite and the woman in the kimono washing her hair. Some day, all this will have to be developed, carefully printed, fixed.
(Goodbye to Berlin 9)
このパッセージは、語り手である私、クリストファーはカメラとしてただ 記録するだけだという語りのスタンスを告げています。写るもの、すなわ ち語り手が語ることの意味を「考えない」。一方でカポーティは、作品に アンデルセンの「雪の女王」を持ち込み、語られる内容と語りの関係を 明確にしています。つまり、主人公ジョエル少年の目は雪の女王がま いた氷の鏡の破片がささり歪んで見えていたが、その歪みがなくなった ことにより、ありのまま見ることができるようになったことが示され、ジョエ ルの視線の変化が問題として提示されます。もちろん文脈としては異 なるのですが、一方はカメラの比喩を最初に置く、もう一方はカメラの 比喩を最後に据えていて、カポーティがイシャーウッドの目論見を理解 して、それを逆手にとっていると考えると、色々つじつまが合います。
父が失踪し、母が亡くなった後、伯母の家に身を寄せていたジョエル 少年を、父を騙り引き取るランドルフという男性は、「アドバイス、頭では 分かるが心はね。愛は地理を持たず、境界もない。(中略)人の自然さ
に宿る愛は自然で美しい。」(OVOR 151)という、いわば同性愛を肯定 する考えをジョエルに教える人物です。しかしその実、彼は、その愛に よって傷つき、田舎の屋敷に籠もり、片思いの男性に向け届くあてのな い手紙をただ書き、世界各地の郵便局宛てに送り、恋に落ちたとき女 装していたため時折女装をする、そんな男性です。ジョエルは作品の 最後、先ほど引用したすぐ前で、 “‘I am me . . . I am Joel, we are the
same people.” (230)と叫び声をあげます。ジョエルは自分が何ものであ
るか、そしてそれが分かった上で、ランドルフと自分とが同じであるとい う、彼の自己認識を示します。その後、雲が晴れ、太陽が出てくると、“Mr. Sansom was the sun.” (234)
と、それまで怖れていた父のことも理 解します。そういったことを受けて、ジョエルの目は澄んだカメラのレン ズとなり、被写体を待つわけです。ランドルフと同じであると思うジョエ ルは、自分とランドルフのジェンダーとセクシュアリティをあるがままに 受け入れることができるようになるでしょう。父のことを認識したということ は、父の期待する人物像を勝手に自分で作りあげ、その結果、世間の ジェンダー観を内面化し、そのジェンダーに沿わない自分に不安を感 じていたと自ら認識する、そういったことが作品で暗示されているので す。男らしい男は女を愛すると思われていますから、ジェンダーはセク シュアリティの問題も含むことをひと言、つけ加えておきます。“Miriam”
でも述べたとおり、ランドルフとジョエルと、二人を含めある意味ではフリークのように描かれる登場人物に対し、作者の目は突き 放すのではなく、少なくともジョエルの成長を見守る視線で描かれてい ます。作品中、様々な人物をフリークのように描き出すジョエルの視線 は、澄み切ったカメラのレンズではなく、雪の女王の鏡の破片で歪んで 見えているという設定であったわけですから、作者自身がこの作品を書 き終わった時点で世間の規範からズレる人物をフリークとして、異物と して扱う位置にいないことは確かでしょう。
次に、カポーティの代表作とみなされることの多い、In Cold Blood に ついても少し触れておきたいと思います。『冷血』はカポーティ自身、
“Nonfiction Novel”
と銘打ち、大々的に宣伝したことで、それまでの作品とは異なるものであると考えられてきました。先ほど紹介した引用で ヴィダルは、「カポーティはルポルタージュに転じた。創造力のない輩 には相応しい領域で、興味深い作品を書き始めた。いわば自分のヴォ イスを見つけたのだ」と言っていましたが、さて、この点はどうでしょう。
これに対応するかのように、カポーティがヴィダルについて次のように 言っています。
He has no interior sensitivity—he can’t put himself into someone else’s place—and except for Myra Breckinridge, he never really found his voice. Anybody could have written Julian or Burr.
(Clarke n.pag.)
特に、「他の人の気持ちになってみることができない」と言っているのは 注目に値します。カポーティにとって「他の人の気持ちになってみるこ と」が、ものを書く際に重要であることを物語っているのですから。この ことこそがカポーティのテクストに、作者の視線を感じる大きな理由であ ると思われます。
クラッター一家殺害を新聞で知り、取材を開始したカポーティが、
Perry Smith
との出遭いの予感をどこまで感じていたかを言うことはできませんが、スミスに対する共感こそがノンフィクション・ノベルとしての
『冷血』の評価と繋がるでしょう。現在の目で読むと、その共感がテクス トにおいてちょっと違和感を感じさせるように思えます。ラスト近く、処刑 が決まりそうなるあたりから、作者とおぼしき声が直接介入してきます。
スミスはセクシュアリティに関わることを隠し、その一方で “masculine”
であらねばならないと思い込み、それ故にディック・ヒッコックを信頼し ていました。しかし、ヒッコックが男らしくないとわかり幻滅し、それがスミ スによる一家殺害につながるという論理を作品は読者に与えますが、
そういったストーリーを生きざるを得ないスミスに対する過度の共感が、
中盤まで作品をドライブする三人称視点と齟齬を来すのではないかと 私には思えます。その意味で、この作品は、カポーティの登場人物に 対する愛情が足を引っ張る作品であると思えなくもありません。
Breakfast at Tiffany’s の Holly と語り手
さて、ここから
Breakfast at Tiffany’s
に話を移します。今回の話の中 心に『ティファニーで朝食を』を持ってきたのは、2012年暮れに出版し た『絨毯の下絵』の続編として、20世紀のゲイ作家達のテクストのインタ ーテクスチュアルな関係を探るプロジェクトを始めており、その一環として、イシャーウッドの “Sally Bowls” を含めた
Goodbye to Berlin
との 関係を念頭に、 『ティファニーで朝食を』を論じたいと考えているから です。最近読んだある『ティファニーで朝食を』を論じた論文に、ちょっ と違和感を覚えたことも、自分の考えを整理しておきたいという気持ち の後押しをしてくれました。その論文の書き出しの段落にこんな風にあります。
冷戦期のアメリカにおいて、同性愛は共産主義と同様に「ノーマ ル」で「健全」な社会に対する脅威とみなされた。『ティファニー』出 版の前年にソ連を訪れたカポーティが冷戦をめぐる力学に無自覚 ではいられなかったであろうことを思えば、この作風の変化は、こ れまで自身のホモセクシュアリティを秘匿することのなかった作家 が社会的抑圧に屈したかのような印象を与える。
(萩埜 39)
この論文の主旨は、
決して明示的には描かれない語り手のセクシュアリティを隠された ものとして暴き出す解釈行為は、異性愛主義にとって「危険」で
「抑圧すべきもの」としてのホモセクシュアリティを実体化してしまう 点において、むしろ本作を通じてカポーティが攪乱しようと試みる 社会規範を再強化するものであるように思われる。本論は従来の 批評において副次的な位置に留まってきた語り手の分析を中心 とするが、その際、彼のセクシュアリティを同定するのではなく、作 中人物としての彼のふるまい、そして物語の語り手=作者としての 彼のふるまいがどのような解釈の可能性を生み出しているのかを 考察する。それによって『ティファニー』が冷戦体制下の規範的物 語を批判的に書き換えるすぐれた文学作品となっていることを明 らかにしたい。
(萩埜 40)
ということです。「冷戦体制下の規範的物語を批判的に書き換えるすぐ れた文学作品となっている」という評価はわたしも諸手を挙げて賛成し たいのですが、ホリー自身が誰でもよいから付き合いたい人はと言って
名を挙げる三人の中に、グレタ・ガルボを挙げ、さらに、「人は男であれ 女であれ結婚できるべきだ」と言う、そういったホリーには一切触れるこ となく語り手を論じる点に強い違和感を覚えます。たとえ、語り手の「セ クシュアリティを同定する」解釈を問題にするとしてもです。
少し時代が遡りますが、『遠い声、遠い部屋』を書く少し前の1946年、
当時有名であった批評家トリリング夫妻に出遭い、ライオネル・トリリン グが出した E. M. フォースターに関する評伝についてカポーティが、
なぜフォースターはホモセクシュアルなのにそれを書かないのかと質 問したそうです。はぐらかすトリリングにカポーティは食い下がっていき ます。すると、トリリングは最後には、「そのことは私に関わると思えなか ったのだ。私は興味がなかった」と逃げます。カポーティは将来出版さ
れる
Maurice (1971)
を持ち出しますが、それでもトリリングは逃げ続けます(Plimpton 70-71)。このエピソードから分かるように、カポーティにと ってホモセクシュアリティは大きなテーマであり、それとどのように向き 合うかが作家としての彼にとって、大きな問題であったと思われます。
しかし、先の論文著者の言葉を引用すれば、「核家族を理想的なイメ ージとして称揚した冷戦期アメリカにおけるホモフォビア」(萩埜 41)の はびこる時代であったわけで、いくらカポーティでも、脳天気に同性愛 を描けないのは当然でしょう。同性愛が危険視されるようになった、そ の時代背景を受け、カポーティが『遠い声、遠い部屋』とは作戦を変え、
テクストとして読まれるものは、受け入れられる形で描くしかない、その ために様々な工夫を凝らし、ホリーという人物を造形し、彼女との関係 において語り手自身が背後から浮き上がる、そんなテクストを生み出し、
その結果として「冷戦体制下の規範的物語を批判的に書き換えるすぐ れた文学作品となっている」と私は考えます。高野泰志の、「冷戦という きわめて政治的な状況において、「非政治性」を主張すること自体が政 治的営為なのである。我々はこのカポーティの姿勢を政治に対する無 関心と解釈するのではなく、冷戦期におけるきわめて政治的な発言と してみなすべきなのである。」(334)という指摘は的を得ているでしょう。1 冷戦期のアメリカは、Fahy が指摘するように、「この[アメリカの家庭を
1 ただし、高野は『ティファニー』も含め、「「異常」を囲い込み、排除する様 を描くことによって、カポーティ作品は逆説的に規範を支持してしまってい る」(327)と論じている。
重んじる]イデオロギーを拒絶する人、またはこのイデオロギーに反逆 する人、特に独身女性(ずっと一人でいる女性)と同性愛者に永続性 のある場所を与えることを拒否した」(n.pag.)わけですから。
高野も述べるように、『ティファニー』を表層的な作品と評価する向き は多いようです。イシャーウッドの『さよならベルリン』がナチズムの台頭 を背景に政治的な状況を映し出すのに対して、『ティファニー』は、確 かにそういった時代背景に関心がないように見えます。例えば、戦意を 鼓舞するパレードが通るニューヨーク五番街を描きながら、語り手もホリ ーもまったく意に介さない様子が語られるからです(Tiffany’s 253-54)。
そのようなわけで、表層的であることをむしろ評価しようとする批評すら あるくらいです。2 しかし、この作品を最初に出版しようとした
Harper’s
Bazaar
が出版を断念し、1962年の映画では、語り手とホリーの恋愛物語に変質 させ てしま う時代背 景を考えれば 、フェイの 言うように 、
“sociopolitical”
な関心がこの作品の重要なポイントなのであるのは確かでしょう。声高に戦争反対を叫ぶことはしませんが、よく読めば戦争 を肯定しているとも思えないテクストになっています。
テクストの持つ政治性を、まずは主人公のホリーについて考えるとこ ろから始めましょう。ホリーは1940年代という時代を考えると破格な存在 です。その破格さは多岐にわたります。
一つ目として、いわゆる「ファミリー」や「ホーム」幻想からはみ出す考 えを持っている側面に注目します。それを表す一つは、ホリーが郵便 受けのネームカードが示す “Miss Holiday Golightly, Traveling” (232) にある “traveling” という言葉が象徴する生活様式です。拾った猫との 関係を語り手に説明するとき、猫も自分も “independent” であり、お互 いに “belong” する関係ではないから名前をつけないのだと言います
(246)。例えばホリーを妻と思っている Doc Goligtly
が、 Lulamae—名 前を変える前のホリーの名前です—は彼女の夫と子供とともに home に belong していると言います (260)。ドックが世間を代表すると考え れば、夫と妻と子供とで家族を形成し、家族の住むホームに “belong”する、それが当たり前の時代です。ホリーの生き方は、まずはそういっ
2 テクストの “superficiality” をむしろ評価しようとする論文として、Bede Scott, “On Superficiality: Truman Capote and the Ceremony of Style.” を 挙げることができる。
た核家族的な価値観を否定します。イシャーウッドの『シングル・マン』
を例に出して述べたように、1940年代よりもむしろ冷戦期、アメリカは
「ファミリー」や「ホーム」を男女関係の基盤に据えるようになります。先 ほど紹介した論文の著者も指摘してくれていたとおり、同性愛はその価 値観に対する敵であるとして、共産主義と一緒くたにして批判の対象 にされました。従って、ホリーの生き方は、語り手が彼女と過ごした1940 年代よりも、作品が出版された1950年代後半において、より意味を持 つことになります。フェイが指摘してくれているように、キンゼイ報告女 性版が1953年に出版され、家庭的な女性像、貞淑な妻といった女性 像がいかに嘘であるか、現実が暴露されたことも背景として考えるとより 理解しやすくなります。
ホリーはまた、性革命や女性解放運動を先取りするかのような考え方 を持っています。もっとも印象的なのは、モデルをしており、後に、ホリ ーの信奉者の一人であった金持ち、Rusty Trowler と結婚する Mag
Wildwood
との会話に見られるものです。ホリーのアパートに同居するようになったマグと以下の会話をします。
“. . . I’m sure that's the n-n-normal attitude."
"It may be normal, darling; but I'd rather be natural." Holly paused in the process of reddening the rest of the cat's whiskers.
"Listen. If you can't remember, try leaving the lights on."
"Please understand me. Holly. I'm a very- very-very conventional person."
"Oh, balls. What's wrong with a decent look at a guy you like?
Men are beautiful, a lot of them are, José is, and if you don't even want to look at him, well, I'd say he's getting a pretty cold plate of macaroni."
(251-52)
二人の会話はセックスに及びますが、セックスの詳細を覚えていない のが「ノーマル」であるというマグに対し、ホリーは「ナチュラル」でありた いと言います。そのためセックスの時に灯りをつけたままにすればよい と言い、「因習的」なのでそのようなことはできないと主張するマグに食 い下がり、セックスの時の男性は美しいものだと述べます。性というもの
を秘匿すべきとする考え方に対し、性革命以降のような考え方を述べ ているわけです。ちなみに、この二人の話は語り手が聞き耳を立て、訊 いた記録であることに注目しておいてもよいでしょう。
ホリーは性に対して奔放です。気に入った男性がいれば、性的な関 係を持つことを厭うことはありません。そもそも語り手と親しくすることに なったきっかけは、部屋に連れ込んだ男性が噛みつくので、それから 逃れるために非常階段に身を隠し、気持ちよさそうにしている語り手を 見て、つい声をかけたことからでした。従って、自分がセックスをしたい と思う男性とセックスをすることに躊躇はありません。かといって、ホリー はヘテロノーマティヴな考え方を支持するわけではないのですが、この 点は語り手との絡みで、後で考えましょう。
あと三つつけ加えれば、ホリーは戦争に対して肯定的な意見を持っ ていません。父が偉大な兵士であったために彫像が作られた、そのこ とを誇りとし、自分たち、国に残っているもののために第二次大戦で戦 う男性達をアメリカ人として誇りに思うと言うマグに対し、自分の弟も戦 争に行っているが、「勇敢であればあるほどバカだって言うけどね」
(250)と言います。戦争のために兵士として働くことを評価する考えを持
っていないことは明らかでしょう。また、ホリーは自分の欲望に従うため、方針転換をすることも厭わない面があります。弟フレッドの死の知らせ を聞き、ひどく取り乱しますが、その後落ち着くと、ホセと生活を始め、
家事にいそしみます。語り手からすれば、「まったく突然のホリーらしく ない家事への熱狂」 (266)を示すのですが、ホリーにとって男性と暮ら し家事を行う生活も、いわば選択肢の一つでしかないわけです。ある 生き方を否定するのではなく、どんな生き方も肯定する。これしかない と思うのではないという意味で、ホリーの生き方は当時のジェンダー規 範を裏切るものです。ただ、ホリーの作る料理がとても家庭的と思えな いものばかりである点は、作者の遊び心を感じますが。いわゆる家庭の 主婦に収まるようなたまではないのでしょう。そしてもうひとつは、麻薬 密売を幇助したとして逮捕されたあとのホリーの振る舞いです。
ホリーは知り合いの助けで保釈されますが、麻薬密売の黒幕である サリー・トマトに対する不利な証言をするのを避けるために、アメリカに 戻れなくなる危険を冒して国外に逃亡します。幼いころからの不安、つ まりホリーが “the mean red”、または “the fat woman” と名づけるもの に捕まったとしても、サリーに不利な証言はしないと言い放ちます。サリ
ーは友達であるからだという論理なのです。ホリーは世間の価値観を 内面化していない、もしくは内面化することを拒否しています。
さて、語り手について考えましょう。まずは語り手がホリーに対して抱く 感情をおさえておきたいと思います。
最初にホリーを見かけたのは、夜中に男を連れ帰宅したときのことで す。騒がしいのでどんな様子かと覗き見する語り手は、ホリーのヒップ に手をかけている男を目にします。「道徳的というより美的に不適切に 思える」(233)という反応は、女性に関心を持っている男の反応とは思え ません。その後、ホリーに関心を持った語り手は、ホリーの捨てるものを 覗き見することまでします。あることをきっかけに親しくなったあと、連絡 をくれないことに「不自然な憤り」を感じます(240)。自分に憤る権利など ないと思うから「不自然な」わけですが、次の点を考えると不自然とも言 えません。
ラスティが結婚するという新聞の見出しを見て、相手がホリーであると 思った語り手は電車にひかれてしまいたいと思います。そして、自分は ホリーを愛しているのかと自問し、愛していると結論づけます。ただその 愛は、「私の母に仕えていた年配の黒人料理人や、配達するのについ て回っても良いと言ってくれた郵便屋さん」といった人達への愛と同じ だと思います。そういった類の関係でも嫉妬を生むのだと述べていま す(264)。恋愛関係でなくても独占欲は生じるものであり、独占欲を感じ る以上、嫉妬します。語り手は一方でホリーへの愛を口にしますが、も う一方でその愛はいわゆる恋愛感情ではないとわざわざ注をつけてい るわけです。
マグとホセ、ラスティと一緒の、四人での旅行から日焼けして帰ってき て、裸のホリーに語り手が油を塗ってやる場面がありますが、その場面 の描写にも二人の間にエロティックな欲望があるニュアンスはまったく 感じられません。保釈され高飛びする前に語り手はホリーと会いますが、
ホリーは今まで自分が「独特の才能」に頼って生きてきたが、保釈の状 態ではそれを活かすことができないと語り手に説明します(278)。その 折、“Cookie” (かわいこちゃん)と女の子に呼びかけるときに用いる言 葉を使ってホリーは語り手に呼びかけています。しかし語り手はそれに 対して何の反応も示しません。つまり、それは彼を苛立たせることでは
ないのです。3 ここまで述べれば、ホリーに対して少なくとも、いわゆる 意味での異性愛的恋愛感情を語り手が抱いていないことは確認できた と思います。
その前提に立って、ホリーがいかに語り手の人生に大きな影響を与 えているかを、三つのエピソードを用いて示したいと思います。多少大 げさな言い方をすれば、語り手はホリーによって三度、命を救われてい ます。
ひとつ目は文字通り命の恩人である点です。ホリーに誘われ語り手 は乗馬に行きます。黒人の少年に脅かされ、馬が怯えて走り出します。
身重の体でホリーは彼を救出するのです。結果としてホリーは流産して しまいますが、自分の体のことを考えずに語り手を助ける行為は、語り 手に何を教えたでしょうか。
次にもっと具体的に何を教えたかわかる点を説明します。ひとつは彼 の作家としての生き方を方向付ける発言をしたこと。もうひとつはどんな ジェンダーやセクシュアリティも許容し、ひいては語り手のセクシュアリ ティに対する考え方に決定的な影響を与えたと思われる発言です。
雑誌に掲載された語り手の作品を、ホリーが O.J. Berman というハリ ウッドのエイジェントに話したところ、売れる題材ではないと言われ、自 分も同感であると語り手に言って、その上で語り手に、「金を儲けたいと 思わないのか」と尋ねます。そんなつもりはなかったと言う語り手に、作 品からそんな印象を受ける。しかし、あのような高価な鳥かごを欲しいと 思う「金のかかる想像力」を持っているなら、金を儲ける方法を考える方 が良いと、ズバッと言われてしまいます(258)。
その少し前、クリスマスの折に語り手は、欲しいと思っていると以前ホ リーに見せたことのあった鳥かごをプレゼントされました 。ホリーは
“cage”
に生きものが入っているのを見るのは嫌だから、鳥を飼わないと約束させられた上でのプレゼントでした。しかし今紹介したやりとりの 後、腹を立てた語り手はこの鳥かごを突き返す目的でホリーの部屋の 前に置いておきます。ところが次の日、ゴミ捨て場に鳥かごが捨ててあ
3 Pugh は語り手が自分の過去を語るときに口にする “Nancy’s Landing”
という架空の地名に注目している。 “Nancy” が “an effeminate man, especially a passive homosexual” を意味するので、 “’Nancy’s Landing,’
serves as Capote’s code phrase for a gay resort” (52) と論じている。
るのに気がつき、語り手は鳥かごを回収し、あろうことかその後、どこへ 行くときも旅先に携えて言ったと語っています。つまり、語り手はホリー の言ったことを正しいと認めたわけです。認めたからこそ、鳥かごをどこ に行くにも携え、自分の生き方の指針としていると考えられます。ホリー の生き方を受け継いだかのように、語り手も traveling の状態をその生 き方としている点にも注目しておきましょう。
もうひとつは弟が亡くなり、ホセのためにかいがいしく食事の準備をし たりしているホリーを訪れた語り手に、自分の生き方を娼婦のように思う 人がいるかもしれないが、自分はそうは思わない、好きになった男とし かセックスをしないとホリーは話した後、ホセへの愛は「私にとって初め ての本物もロマンス」(267) だと言って、次のように続けます。
If I were free to choose from everybody alive, just snap my fingers and say come here you, I wouldn't pick José. Nehru, he's nearer the mark. Wendell Wilkie. I'd settle for Garbo any day. Why not? A person ought to be able to marry men or women or―listen, if you came to me and said you wanted to hitch up with Man o' War, I'd respect your feeling. No, I'm serious. Love should be allowed. I'm all for it.
(267-78)
ある意味、こそっとではありますが、誰でも好きになれるとすればと言 いだし、三人の名前を挙げ、その中に女優グレタ・ガルボの名前を含 めます。男であろうが女であろうが、たとえ人でなくても語り手の選んだ 相手を尊重するというわけですから、ホリーは同性愛を含め、異性愛規 範から外れるどのような愛でも良いという主張を行っているのです。
このエピソードに対して語り手がどのような反応を示したかは書かれ ていません。しかしそれは書く必要がないことです。「愛に地理はなく、
境などない」(OVOR 151)と言ったのは『遠い声、遠い部屋』のランドル フでしたが、まったく反論することなくホリーの意見を語り手はここに書 き残します。語り手が語るホリーの言葉はパフォーマティヴに働くので す。発話することで語り手の人生においてその言葉は実体化します。
そしてさらに言えば、パフォーマティヴに読者の心に残ります。もちろん、
残したくない読者は別でしょうけれど。
つまり、ホリーを語る語り手の語りはある意味でジュディス・バトラーが 言う意味でのパフォーマンスです。冷戦期の「ファミリー」や「ホーム」至 上主義的な考えを、キンゼイが報告する現実があるからこそというべき か、強制しようとする言説がはびこる時代であって、その背景において、
クィアな姿勢を肯定しようとするポリティカルなパフォーマンスとして機 能します。そして、そのパフォーマンスが一旦行われると、パフォーマ ティヴに、つまり運動として作用することになるのです。
Fahy
が『遠い声、遠い部屋』を論じる際、 “freakishness” にこだわります。その時代においてフリークとみなされる、規範を外れるものたち が存在したからです。そういった規範に立ち向かう意味で、クィアセオリ ーが後に登場することになりますが、クィアセオリーなどが登場するず っと前から、その規範に対して用いられた対抗手段がありました。
“camp”
です。「キャンプ」という言葉を批評の世界で流通させたのは Susan Sontag の “Notes on ‘Camp’” と思われます。 “artificiality” や “theatricality”
などをキーワードにキャンプを定義しようとする論文ですが、発表され たのは1964年です。ソンタグが論文冒頭で、イシャーウッドが
The World in the Evening
という小説で2ページほどにわたり説明している 以外、それまで印刷されて説明されているものはないと書いています(n.pag.)。イシャーウッドのこの小説は1954年に出版されているので、カ
ポーティが目にした可能性もあるでしょう。こんな風に書いてあります。You see, true High Camp always has an underlying seriousness. You can’t camp about something you don’t take seriously. You’re not making fun of it; you’re making fun out of it. You’re expressing what’s basically serious to you in terms of fun and artifice and elegance.
(125)
ホモセクシュアルの少年がピクチャー・ハットをかぶり毛皮のボアを身 につけて、マレーネ・ディートリヒの振りをしているのもキャンプですが、
それは “Low Camp” であって、 “High Camp” と称すべきキャンプも あるといって説明しているくだりです。軽い表面的なことを描き、ただ楽 しんでいるように見せながら、そのじつ、まじめなことを表現している。ま
さにカポーティが『ティファニー』でやっていることではないでしょうか。
ここでもうひとつ、キャンプについての定義を引用しておきます。これ は1994年に出版された
The Politics and Poetics of Camp
のイントロダ クションからの引用です。「キャンプ」とは、クィアなアイデンティティが形 成される過程において、「抑圧され否定されている対抗的な批判」とし て立ち現れるものなのです。As practiced by these contemporary groups, Camp is both political and critical. . . . These writers suggest that Camp is not simply a
“style” or “sensibility” as is conventionally accepted. Rather, what emerges is a suppressed and denied oppositional critique embodied in the signifying practices that processually constitute queer identities.
(Meyer 1)
最後に——“Sally Bowls” と比べて
イシャーウッドを持ち出したところで、 “Sally Bowls” を最後に少し考 えておきたいと思います。
「サリー・ボウルズ」を含む『さよならベルリン』は1939年に出版されて います。ワイマールの時代のドイツは様々な自由を謳歌しました。ベル リンはその中心地でした。性的な意味でも恐らく中世以降のヨーロッパ で初めて自由であった時代ではないでしょうか。ゲイの人権を守るため に果敢な運動を展開したマグヌス・ヒルシェフェルト博士も当時のベル リンで活動していました。その時代も終わりを告げ、次第にナチズムの 影が忍び寄る、そういった時代を背景に描かれる物語です。その中の 一編として収められた「サリー・ボウルズ」は、一見、そういった時代と無 関係に生きるサリーを主人公とする作品です。イシャーウッド自身の名 前を冠する語り手と、キャバレで歌う歌手であり、 “gold digger”、つまり、
男をたらし込んで金品を巻き上げる女性との友情を描く作品で、性的 な奔放さや無計画さなど、ホリーと共通する特徴を主人公のサリーは 持っており、語り手のサリーに対する態度もホリーに対する語り手と通じ るものがあります。さらに、最後に妊娠するが流産するというトピックまで 共有するとあれば、イシャーウッドのサリー・ボウルズをカポーティは「誘
拐した」 とヴィダルに言われても仕方ないかもしれません。Truman
Capote Encyclopedia
を書いた Robert L. Gale が、Booke Allen が『テ ィファニー』はイシャーウッドの「サリー・ボウルズ」のほぼ真似であると 言ったけれど、それは間違っていると書いてはいます。しかし、間違っ ているとは言えないかもしれません。ただし、カポーティの場合、アイデ ィアは「誘拐」したかもしれませんが、それをいかに自分のものとして取 りこむか、その芸は本物です。そこに彼の真骨頂があると私は考えます。アダプテーションの才能と言っても良いかもしれません。それを考える ときに、最初に引用したカメラの比喩を思い出す必要があります。
イシャーウッドは、語り手はカメラのように「記録するだけで何も考えな い」、「いつかこれらすべては現像され、注意深く焼き付けられ、定着さ れる」と書いていますが、『さよならベルリン』のテクストに潜ませた語り 手自身の同性愛の体験は、変形され秘匿されているため、すなわち作 品からの言葉を用いて言い換えれば、「記録するだけで何も考えない」
語りであるため、1976年に
Christopher and His Kind
という一種の自 伝により、「現像され、注意深く焼き付けられ、定着される」必要がありま した。イシャーウッドは自伝として自分の作品のアダプテーションを行っ ていると言ってもよいでしょう。作者自身の体験と作中でそれがどのよう に改変されているのか、その仕組みが解説される必要があったのです。それに対してカポーティの『ティファニー』は、ジョエルが物語の最後に 到達した状態、つまり澄み切ったカメラの目を持ってみれば、何が描か れているか、私が今まで述べてきたように明らかでしょう。もちろん、読 みたくない人にはホリーの性的奔放さ、特に異性愛的な意味において の奔放さしか見えないのでしょうけれど。ホモフォヴィアにつながる異性 愛主義を内面化していることが、氷の女王の鏡の破片が目に刺さって いたジョエルによって表象されていたことを、ここで思い出しても良いで しょう。
Christopher Isherwood Encyclopedia
を書いた David Garrett Izzo は、「サリー・ボウルズ」という作品も、主人公サリーと読者の距離の取り方 の問題がキャンプである、つまりジェンダー役割が冷笑的なパロディと 芝居がかったスタイルで扱われていると論じていますが
(144)、むしろ
『ティファニー』にこそ当てははる言葉ではないでしょうか。
イシャーウッドの「サリー・ボウルズ」を含む『さよならベルリン』は、自 由であったワイマールの時代が終わり、迫り来るナチスを感じさせる作
品です。ただ一方で、同性愛の問題は十分に表現されているとは言え ません。『クリストファーとその同類』を書くことで「現像」される必要があ ったわけですから。
今まで名前を挙げてきたイシャーウッドにしろヴィダルにしろ、カポー ティはもちろんですが、母との問題を抱えていました。イシャーウッドが
『さよならベルリン』を書いたとき、まだ彼の母は存命でした。一方で、
『ティファニー』を書いたとき、カポーティの母はすでに亡くなっていまし た。『遠い声、遠い部屋』を出版した当時、作品は自伝的ではないと言 っていたが、それは「許せない自己欺瞞」で、実は「悪魔払いをする試 みだった」と述べています(Capote, “Voice” 616)。そのあたりの事情を、
テクストに潜んでいる母の存在と絡め、私は以前論じたことがあります が、4 『ティファニー』というテクストは、いわば「悪魔払い」をした後の作 品なわけですから、語り手が自分の同性愛を自己肯定するのを描く、
つまりはカポーティが母によってずっと否定されてきた自分の肯定であ ったと読むことも可能でしょう。
作者を切り離しても、『ティファニーで朝食を』は本当の自分を肯定で きない、自分の本当の欲望を表に出すことができない語り手が、実は 時代精神を逆なでする振る舞い満載のホリーから勇気をもらい、時代 精神に逆らうことができる自分を見つけた自己肯定の物語と読むことが できます。そういった自己を実現していなければ、そもそもホリーの物 語を書くことはできないでしょう。さきほどパフォーマティヴにと言ったの は、こういったことを指しています。なかなかそういった内容に気がつか れることがないほどの名作なのです。
ノーマン・メイラーが、「カポーティは私たちの世代の最も完璧な作家 だ。どの一語、どのリズムを取っても、最上の文章を書いている。『ティ ファニーで朝食を』は一語たりとも変えることができない、小さいけれど 古典になる作品だ。」(Grobel 14)と評していますが、文字通りに受け取 りたいと思います。
カポーティの作品に溢れる優しさは、良くも悪くも作者自身の自己肯 定の願望をどのように体現するか、テクストにすることでどのように解放 するかということに端を発していると思います。社会的に見て弱者という
4 Akira Hongo, “Gerda Coming Out of the Cave: A Study of Other Voices, Other Rooms.” を参照。
か、社会の規範から外れる人に対する優しさが、一種裏返しの過激な キャンプのパフォーマンスによって覆い隠されているように、彼のテクス トもキャンプのパフォーマンスと見れば、その背後にある優しさに気が つくことができるのではないでしょうか。
最後にひと言付け加えておけば、カポーティはヴィダルとの罵り合い の際、ヴィダルは「心の中を見る感受性を持っていない。他の人の位 置に自分を置くことができない」と言っていたのを思い出したいと思い ます。ただ
Myra Breckinridge
は別で、この作品では自分のヴォイス を見つけていると、前に紹介したようにカポーティは言っています。女性への性転換を主題とし、まさに「キャンプ」を主題とする作品。今 後、Tennessee Williams や James Baldwin も加え、彼らゲイ作家相互 の、そしてお互いのテクストが刺激し合う様を、もう少し研究してみようと 思っています。
謝辞
この原稿は、2019年9月7日に西南学院大学で行われた九州アメリカ 文学会9月例会での講演原稿を元に加筆修正したものである。発表の 機会を与えて下さった九州アメリカ文学会の皆さまに、この場を借りて お礼を述べたい。
また本研究は
JSPS
科研費JP16K02508
の助成を受けたものであ る。Works Cited
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