【論文】
美術という空間、 美術教育、 そしてエロス
ASp a c eo fA r t ,A r tE d u c a t i on,a n dE r o s
㊨‑ 佐藤哲夫
sat oTe t s uo
Ⅰ
はじめに現行の美術教育 というものが、衰弱 した無力なもの と して意識 され るのは、歪 んだ意識 なのであろうか。 ま た、美術教育に関係する場所で、 しばしばもや もや とし た不全感 に包 まれて しまうのは、病的なことなのだろう か。 この もどか しい抑馨的な気分が、いったい どこか ら 来 るのかを突 き止めることか ら始めるのが、主題 にアプ
ローチする場合の適切 な順序だ という気がする。
するとこの感 じは、美術教育 に関する根源的な問い、
「美術 とは何か」 ということと 「美術教育 はどうあるべ きか」 ということに向けての問いが、意識的にか無意識 的にか、様々な場で、あらか じめ消去 されているように 感 じられてしまうという経験 に、由来することがわかる のである。そして、反省 してみると、自分 も特定の状況 における主体 となって、そうした問いを、自らあらか じ め消去 している場合があるのに気づ く。その こともま た、抑圧感 につながっているのである。
この ことの意味は、われわれの社会的なコミュニケー ション空間の中には、美術教育 その もの を語 り合 える
「場」(トポス)は、 もはや存在 しな くなって しまってい るということである。そこに向かって、言葉 を繰 り出そ うとして も、何故か溶暗 して消 えて しまった り、あらぬ 方向にカーブを描いて しまって、けっして届かない とい
うことなのである。
美術 と美術教育の根源 を巡 る問いの空間が閉 ざされ、
言葉が極度に滞 るのに引 き替 え、そこを既定の こととし て飛び越 えた美術教育 の言説 は、なめ らか な言葉使 い で、自在 に論理 をあやつることがで きる。 しか しその自 然 さこそが胡散臭いのではないか。自然であるというこ とは、現実に即 していることの指標なのか、あるいは逆 に現実 に触れ損 なっていることの証拠 なのか熟考 され なければならないだろう.‑
さしあたって、問題 にすべ き二つの現実があると言 っ
ておきたい。一つは、目の前の今 日の子 どもに、何 をど のように教 えた らよいのか、 どういう指導をすべ きなの か ということがわか らず、悩んでいる多数の教師がいる という現実である。 こうした人たちの悩みは、学習や制 作意欲の欠落 した子を、 どうするか ということであった り、絵 をどうやって描いた らいいかわか らない、何 も思 いつかない、描 けない、 という子 をどうするか というこ とであった りする。 また、アニメ風の型にはまった表現 や、画面の角に小 さくしか描 けない ということ、 どう見 て もゴ ミにしか見 えない制作物が生み出されることを、
気に病んでいる教師 もいる。 ここで問題 なのは、欠落 し ているものは、本当に自らが信 じているような、指導力 や指導技術の不足 ということなのか、あるいは、そこに 解決を求めることが、唯一の状況の打開策であるとおの ず と考 えて しまうような、彼 らの思考の枠組みの方なの か ということである。
もう一つの現実 とは、「いじめ
」
「不登校」
「少年犯罪」な どを きっか け として、 これ ほ ど、「学 校」や 「子 ど も」、「教育」 ということに、国民的関心が注がれている 中で、なぜかその関心 は、「美術教育」へ とは向かって行 かない ということである。美術教育 は、従来か ら続いて いる‑教科 という枠に閉 じられ、今 日のこうした教育問 題の関心事の埼外におかれている。 こうした ことが、 ご く自然なこととして、人び とに、なんら違和感 を感 じさ せないのだ とすれば、そういった感覚 こそが、美術教育 が生みだ し、育ててきた ものだ ということに、な りはし ないだろうか ということである。
しか し、「美術」や 「美術教育」の根源 を問 うという言 い方をすると、実体論的思考や、言葉に関する形而上学 に捕 らえられているのではないか といった嫌疑がか け られるか もしれない。 ここで、「芸術」や 「美術教育」と いう言葉が、何かの真理 を、最終的に指 し示す と信 じて いるわけではない。 しか し、だか らといって、何かを言 い当てようとして言葉 を繰 り出す試みが、端か らむなし
上越教育大学美術教育研究誌「美と育」a
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良 educationno.41998◆ ‑
9いことだ と言い切れるもので もない。イーグル トンも指 摘 しているように、そうした発話が、力動的な現実社会 に向けての、実践的な行為 としてなされるならば、意味 は、抽象的な言語空間の中で、遠か らずナンセンスへ と 発散 して しまうのではな く、ベク トル として、なにが し かの求心的な力を持ちうると思 うか らである(1)0
この小論の目論見 も、 こうした問いか け とい う実践 の、 ささやかな一部 となることである。そして、以下の 内容 を一言で要約するならば、「美術教育 =美術実践」と いう認識 に立 った上で、それが、 ここで問題 にしている 失われた 「場」の回復 ということを意味 し、 また、「エロ ス的なコミュニケーション空間」その もので もあるとい う主張である。
ⅠⅠ 「美術」のイデオロギー
1
「美術」への三つの関わ り方美術教育の根源 を問うことは、「美術」とは何かを問う ことと、到底切 り離 して考 えるわけには行かない。「子 ど もの美術」 というものが どんな ものか とい うことよ り も、「美術」そのものが問われなければならない。
美術 について考えようとすると、二つの側面があるこ とに気づ く。一つは 「制度 としての美術」 とい う側面。
もう一つは、「美術 とは何かを問 う芸術実践」という側面 である。そしてこの二つは、対立 しなが ら、互いを規定 し合って もいる。美術館、大学、美術団体、美術市場な どが関わる人為的な形式が 「美術制度」であるが、「制度 としての美術」は、イデオロギーに関わ り、作品の形態 や価値 についての歴史的形成物である。「日本画」や 「西 洋画
」
という言い方に、見やすい形で露呈 しているが、こうした区分のされ方を、自然なもの としか感 じさせな いならば、それは言葉や制度の物象化 と、イデオロギー 的な効果のためであろう。「美術」や 「芸術」という、そ れ自体つ くられた ものである言葉の存在が、超歴史的に 通用する概念的な内実を保証するかのような、幻覚的な 効果を生み出すようになって くるのである。
人 と、 このような 「美術」や 「芸術」の間には、 どの ような関係が取 り結ばれているのだろうか。問題提起の ために、あえて極端な単純化 を施 して模式化すれば、三 つの関係のタイプに分 けられ るように思われ る。それ は、三角形の全体を、水平に分割 している三つの層 とし てイメージすることができる。その一番上の層を占める 第一の類型は、
「
「美術」を模索 している人」である。 こ10 ‑ ◆上越教育大学美術教育研究誌 「美と育」a
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a educationno.
41998れはまた、必然的に、「美術」を可視化 し、批判 し、相対 化する人で もある。本論の趣 旨を具現するかのような、
「美術 という空間」を開 く主体であ り、われわれがそう あ りたい と、願 うところの ものである。三角形が表現 し ているように、現状では、 この類型の人は最 も少数であ る。第二の類型は、
「
「美術」という概念を信 じている人」である。 この類型は、「美術制度」や「制度 としての美術」
に最 も深い関わ りがある。 したがって、われわれ研究者 や美術教師、専門美術家や美術行政者などの占める割合 の高い類型である
。
社会の中で、公的な美術の価値体系 をつ くりだし、それを教育活動を通 して、普及 させる役 割 を果た しているのが、 この類型である。最後の第三の 類型は、「殊更には何 も信 じていない人」という類型であ る。ごく普通の一般の人や子 どもの占める割合が、高い と想像 される類型である。いうまで もな く、現実には、ある人が この三つの類型 の どれかに、完全に収 まってしまうということは少ない であろう。 また、一つ一つの類型には、バ リエーション があ り得 る。そうした意味で、 このモデルはあまりに単 純で、静的に過 ぎるように思われるか もしれない。 しか し、あえて このように、三層構造で表現することによっ て、美術 に関 して常に二値論理で捉える悪癖か ら、距離 を取 ることができるのである。ここで二億論理 というの は、全体世界は、「美術」という円の内 と、その外 より成 り、人はその どちらかに所属すると見なす思考法のこと である。 また、悪名高 さピラミッド状の表現についてい えば、それは直接的には、単に面積が、その類型に属す る数の多寡の関係 を、うまく表示するか らということで しかない。 しか し、 これにさらに情報 を付加 して、三層 目の上に二層 目が乗 っているのを、社会的 ヒエラルキー の表現 とすることもできる。 また、第一の類型が、三角 形の頂点の位置を占めているのは、これは一種のアイロ ニーの表現であ り、現実社会の既存の ヒエラルキーを相 対化 し、組み替 えようとする思想の、優越性 を示そうと
しているといっておきたい。
2
「美術」への弱い関与最 も多数派であると思われる、第三の 「殊更には何 も 信 じていない人」という類型は、「美術」への弱い関与 と いうあ り方を示 している。その中には、単に美術 に疎遠 であるという人がいるだろう。 しか し、決 してそういう わけではな く、絵 を描いた り、 ものをつ くった り見た り するのが好 きで、美術 に親 しんでいる人 も、多 くここに
属 している。 これ らの人は、「美術」の概念には、強 くは こだわ らず、 また縛 られず、か といって積極的な相対主 義者や思想の平等論者、アナーキス ト、ニ ヒリス トとい うわけで もな く、その場 その場でそう思われるというこ とと、そう感 じるということ (それが本当に 「自分」の 思いや感 じなのか とい うことに も拘泥 しない)に した がって、「美術」に 「弱 く」関わるのである。 この ことに は、われわれが 日本人であるということも、関係 してい ると思われる。長い年月に渡 る伝統の中で培われ、ほと ん ど血肉化 している、それ故 にしぶ とく根強い心性 とい うべ きものである。加藤周一は、日本文化の特質 を、「現 世主義
」
「現在主義」
「集団主義」 として的確 に要約 して いる(2)。「現世主義」とは、宗教的には、何 に対 して も神 を認める、アニ ミズム的信仰体系を基礎 としなが ら、 日 常的な現世 を唯一の現実 として、彼岸や超越的な第二の 現実を認めない ということである。「現在主義」とは、過 去はもはやな くな り (したがって 「水 に流す」 ことがで きる)、未来 はまだない(
「明 日は明 日の風が吹 く」 )とい
う意識の中で、あるのは現在だけであるとすることであ る。 これは歴史意識の不在 ということであ り、 また、別 な面 としては、 日常生活 における実際的な態度 となる。加藤 はまた、 この ことか ら、 日本の芸術の特質 として、
現在 の感覚的経験がすべてである とす る傾 向を導 き出 して もいる。「集団主義」というのは、ムラ共同体への所 属感 を、すべての価値の中で最 も重要な価値 とする態度 である。「現世主義」により、超越的な根拠 は否定 される ので、ムラの論理や倫理が最終根拠 ということになって しまう。それ故、世界 エムラの内部 にあ くまで とどま̲ろ うとするかぎりは、個人が全体 に対立 して、自ら正 しい と信 じる主張 を貫 き通す ことは、原理的には、で きない のである。
また、実感や感性が、観念や思想 を導 くとみなされ、
しか も両者 は不可分 と考 えられているので、実感 にか なった自然的な観念以外の観念や思想 には、重 きを置か な くなる。そうした ものに捕 らわれるのは、その こと自 体が、本来的に望 ましくない、人間の誤 ったあ り方だ と されがちである。 ところで 「美術」や 「芸術」 というの は、 日常生活の中でため らいな く使 えるほ ど自然化 し、
それ自体 を実感や感性で把握できるほど、われわれの肉 に食い込んでいる言葉ではない。 したがって 「美術」の 概念にも、弱い関与 しか持ち得ないのである。 しか しそ の ことが、 この立場の強みで もある。肉体や実感か ら遊 離 した観念 は、確たる実体がないので、それに捕 らわれ るということがない。日本的ポス トモダンは昔か らあっ
て、いつで も常にモダニズムを凌駕 しっづけてきた とい う話で もあろう。商業主義社会やテクノロジー化 を追求 する産業社会 において、 これ まで、 もっとも高い適応性 を示 してきた類型であることも見逃せない。数の多 きと いうことに止 まらず、 こうした特質か らこの類型は、現 在の ところもっとも手強い立場であるといえよう
。
3
「美術」信仰第二の
「
「美術」という概念 を信 じている人」という類 型は、日本文化の近代化の推進力 となるべ く生 まれてき た類型であ り、学校、マスコミ、その他あらゆる回路 を 通 して、第三の類型に属す人たちへの、啓蒙 と教育活動 に携わってきた。そして,教育 を受けた り啓蒙 された人 が、 この類型へ と移行 して、 この過程 を再生産するので ある。 しか し、 このような近代主義者が、先 に見たよう な日本文化の伝統的な側面か ら、自由であるというわけ ではない。それ どころか、伝統的な思考様式は、そのネ ガティヴな側面だけをとどめて、密かに 「美術」
信仰の 下支 えとなっているのである。この類型において、「美術」や 「芸術」は、一種信仰の 対象である。 これ らはカテゴリー自体 としては、一点の 揺 るぎもない完全なもの とみなされるのである。「美術」
は、実体 として存在 している。ある作品は、制作 された 結果、美術 となった りならなかった りすることはあって も、特定の個物 としての作品が、芸術であるか否かは、
あ らか じめ決定 されている。その ように見 な されてい る。美術のカテゴリーの存在 は疑い得ない もの とされる 一方で、「美術」が何であるかをいうことは、必ず しも積 極的には規定 されない。むしろ、無意識的な判断力が働 いて、規定 は避 けられるのが普通である。 この ことか ら 来 るあいまいさが、「美術」はカテゴリーではない という ことの証明になっているようにも思われるが、規定 しな いのは、わざわざそうしないだけであって、口にしな く て も 「美術」が何かは判 っているとい う風が装われ る。
明白なことは、いまや世界中に美術館や美術作品や美術 学校があるとい うことであ り、美術家 という人がいて、
美術商は作品を売買 し、美術史家が、それについての本 を書いているということである。これ らの ことは
、
「美術」というのが、カテゴリーであ り、 まともな概念であるこ とを示唆 している。美術作品 という特異な価値 を持つ制 作物 によって構成 された、こうした外延があるのは確実 なのだか ら、内包 を殊更規定 しな くて も、内包 自体の存 在 は確実に保証 されているとみなされるのである。
上越教育大学美術教育研究誌 「美と育」art良 educationno.41998
◆ ‑
11この安心の保証 に支 えられて、今度は、美術 について のあらゆる言説が可能 となる。それ らはすべて 「美術
」
の批判ではな く、賛美であ り、神秘体験や救済 をもたら す教訓噺であ り、敬度 さを誇示するための信仰告白であ る。言葉を紡 ぐことであれ、制作であれ、その他の行為 であれ、 こうした実践は、「美術」に近づいてい く道であ り、それ自体で正 しく、なおかつ価値があるとされるの である。 こうして形成 された美術圏の内部 においてはい
もはや信仰 の中心 にある 「美術
」
とは何か とい う問い は、意味 をなさな くなる。そこには外部がないか らであ る。これに対 して、散文的な日常世界が、美術圏の外部 に あたるのではないだろうか という問いは、 もっともであ るように思われる。非 日常 として美術 を捉 えるのは、理 に適 っているように思われるか らである。 しか し、 どん な宗教 も、近代化の中では世俗化 してい くように、美術 に対する問いを失い、空無化 した 「美術」を信仰する行 為のあ り方は、日常世界の一部 として繰 り込 まれたあり 方である。すなわち 「美術」信仰 と 「美術」の慣習化、
既成事実化による自然化である。美術館 は、確かにオフィ スや家庭や競技場やデパー トとは異なった空間である。
しか し、オフィスも競技場 も、ひ とつひ とつが他 とは違っ た空間である。それ らの集合によって日常世界 は構成 さ れているのであ り、美術館 もその点において何 ら変わ り がないといえる。われわれの日常世界は、今やインター ネットの検索サービスのカテゴリー ・メニューそのまま に、「仕事」、「政 治 ・経済」、「ショッピング」、「スポー ツ」、そして 「アー ト」や 「娯楽・趣味」などの集合体な のである。
したがって、「美術」の信仰 という態度は、 リス トのそ こにマーカーで赤 く線を引 くということ、日常世界 を構 成する 「美術」 というカテゴリーに、アクセン トを置 く
ということで しかない。美術圏の内部では、 しばしばそ れが、見通せないほど深淵であった り、 この世 を超越 し た もののごとく語 られることがあって も、そのような言 説で彩 られているのが、 日常世界の中の 「美術」 という カテゴリーの、特徴であるということにすぎないのであ る。「スポーツ」は興奮 と感動の言説 に支配 され、「ショッ ピング」には浮 き立つような楽 しさの言説で彩 られてい る。 これが、現代 におけるわれわれの日常世界なのであ る。
こうして見ると、先に見た、「美術」に対する弱い関与 と 「美術」信仰のあ り方は、マーカーで線が引かれてい るか、いないかの差 ということになるのか もしれない。
1 2
→ 上越教育大学美術教育研究誌 「美と育ja r t 良e duc a t i onn o . 41 998
弱い関与のあ り方は、本来的には、末だ (美術)をカテ ゴ リー化 し実体化 していない ことを意味 しているはず である。 しか し、情報規格化 されたわれわれの日常世界 においては、すでにしっ らえられた もの として、あとは 実際に経験 してみるだけというあ り方で、目の前に置か れている。そこに目を向けさせ、「美術」という実体 に気 づかせ、美術圏に引 き込むのは、「美術」信仰の伝道者達 である。
これ らのことか らわかることは、制度 としての「美術」
は、その信仰 と、現代社会の情報的に規格化 されたあ り 方の、両面か ら支 えられることによって、現実感 を獲得
しているということである。それがヴァーチャルなもの であって も、そこに外部がない以上、文字通 りの現実 と いうことになって しまうのである。
4
(美術)への問い逆説的ではあるが、 このようにして、「美術」というカ テゴリーが、現実世界の中で、確かなもの として確立 さ れて行 くにしたがって、第一の類型に必要な、(美術)そ の ものを問 う、問いの空間は反対 に閉ざされてい く
。
美 術 とは何かを問 うことは、刺身の妻に似て、本質には影 響 しない、単に体裁 を整 えるための、飾 りもの として以 上の意義を、持たな くなる。 また問いかけがなされた として も、それ らは、素早 くマスメディアが多用するよう な、様々な決 まり文句で絡め取 られてしまう。それ らは 呪文のごとく、繰 り返 されることで、麻痔の快感 と説得 的効能 を発揮する。
しか しこうした ことも、すべて 「美術」 という枠組み を信 じる信仰の実践 と、その結果なのであ り、普段 に再 生産 され続 けることの、持続の内に生 じている事態であ ることは、十分 に認識 してお く必要がある。 したがっ て、(美術)への問いの空間を開 こうとする とい うこと は、それ自体が別の実践 として、「美術」信仰の実践 に対 立するということを、意味するはずである。「美術」信仰 の外部でお こなわれる問いの実践
。
それ こそ芸術実践そ の もの というべ きものだが、それは何 よりもまず、「美術」への懐疑 としてあるはずの ものである。
「美術」への懐疑 は、「美術」というものが、世界に実 体 として存在 しているとされていることに対 して、それ に非現実の疑いをかけるということである。「美術」は効 果 として、社会的に機能 しているという点では、「ヴァー チャルな現実」、「事実上の現実」 と見なす ことはできる か もしれない。 しか しその ことは、それが決 して リア リ
ティーそのものであるということまで も、意味するわけ ではない。こうした思考にささえられた懐疑のまなざし は、今 日の 「美術」を構成 している、三つの契機に向け られる。
Ⅲ 作品の概念
1
「美術」の三契機今 日の 「美術」を構成 している三つの契機 とは、すな わち作者 (または受容者)という 「主体」 と、対象 となる
「
作品」あるいは客体 ということ、そしてそれ らを取 り 巻 き、またそれ らを含み込んでいる環境世界 としての「社 会」の三つである。最 も流布 している、一般の美術理解 のあり方を、この三つの側面に関 して、再び極端に単純 化 して しまえば、以下の三つに要約で きると思われ る。第一 は、美術 の作品 とは、作者 の気持 ち、思 い、思 想、感情の表現 された ものであるという、理解のされ方 である。ロマン主義や表現主義理論 に近 い理解 といえ る。「作品は人な り」という考 え方 も含 まれよう。 この考 え方は、 どうやって主体 と作品の間で、ある種の等価変 換が可能になるか とか、作品の価値 とは、人格や感情の 価値のことなのか といったような疑尚を呼び起 こすが、
三つの中で も最 もポピュラーな見方である。
この見方には、西欧近代において発見 された り、 また 特 に強調 されるようになった人間中心主義的見方の輸 入であるという側面 と、水墨画に見 られるような精神性 の表現の、中国か らの輸入 という側面 と、 もともと主客 二元論に立たない日本古来の伝統的な意識の、複雑なア マルガムであるということは、念頭に置いてお く必要が ある。
第二は、美術 を作品のみに限定 して捉えるとらえ方で ある。作品は、「作 られたもの」である。そのものは、美 的に、あるいは意義深いや り方で特殊 に組織 されてお り、合 目的に組み合わされている点においては、機械 と 同じである。あるいは、心理学的にいえば、いわば精妙 に調合された漢方薬のようなもので、各成分の調和の と れた相乗効果により、われわれの感覚や神経組織に、直 接に働 きかけるように工夫されているのである。フォー マ リズムやモダニズムに関連するような理解である。 も ちろん、本来 これ らには、「作品」の超越性や否定 として の社会的意味があるが、それ らは了解 され受容 されてい るわけではないので、あえて除外 してお く。また、日本 美術の中で最 も大 きな成果を生んできた と思われる、工
芸 と装飾的伝統を支えてきた意識 も、やはりここに含め て、見ることができるように思われる。
第三は、作品は、社会、あるいは外的世界 を表す もの とするとらえ方である。広 くリア リズムや自然主義一般 に関連する理解のあ り方である。外的世界を特に現実の 社会 ということに焦点化 した場合には、クールベなどの 狭義の リア リズムや社会主義 リア リズムの理論 に関連 するような方向性 を持 って くる。この第三は近代の日本 において、上記の第‑の見方が台頭 して来るまでは、圧 倒的に支持 された見方であった といえよう。写実主義的 傾向は、特にギ リシア ・ローマ以来の西洋の伝統の内に 顕著であるが、外的世界の表現 というこの第三の とらえ 方は、対象 と取 り違えるほどそっくりであることを目指 す方向性にのみ、限定されるわけではない。対象の‑特 質な り性格な り関係に焦点をあてて、それのみに注 目す るという方向がある。
さらには、対象の象徴的表現 というあり方をも、 ここ に含めて考 えれば、何 を実在 とするか ということについ ての世界観の形態によっては、狭い意味での写実主義や 自然主義の枠を遥かに超 え出て、目にはみえない外的な 諸々の存在 をも、紙や石の上に、写 しとり再現できると いうことになる。 また、さらに 「もの (道具)の制作」
や 「デザイン」 ということまで も含めて考 えれば、外的 世界 との関連の中に、それ らの ものの存在意義はあるの であ り、 ここに属す るとらえ方 ということになるだろ う
。
長い歴史のスパンで見た ときには、 この第三の とら え方は、人類の誕生 と共 に始 まる原初の活動に根 ざし、世界の至 る所で脈々 と続 いて きた捉 えかたであるとも いいうる。
しか しなが ら、今 日のわれわれの美術観 ということで いえば、やはりリア リズム(広義)を中心において見るの が妥当であろう.
2
「作品」の解体今 日われわれが、ごく自然に取 ってしまう、 こうした
「美術」の とらえ方に、すべて共通 しているのは、最終 的にはそれが、「作品」というものに収赦 させ られている ということである。作品その もののみを見 ようとする、
第二の場合はいわず もがな、第一の主体や、第三の外的 世界 との関連で見る場合 も、原理的には、 まず 「作品」
があらねばならない。三つの見方の違いは、その後で初 めて問題になって くることである。それ らの異同は、「作 品」の根拠や内容は何であるか という疑問に対する、異
上越教育大学美術教育研究誌 「美と育Ja
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13なった答 えであると考 えられるか らである。制作 という 行為 において も、動機が三つの契機のうちの どこにあっ て も、 目指 されるものは 「作品」なのである。逆にいえ ば、これ ら三つの動機のさらに底の動機 は、「作品をつ く ること」であると思われるのである。その限 りでは、「美 術 二作品」 と考 えられているということになる。
作品は、絵画や彫刻のように (これ らのジャンルを中 心化する意図はないが)、普通には物的な形態 を取 ってい る。 ものは、はっきりした境界によって、周 りの空間や 他の ものか ら隔て られ、そこにそれ として存在 してい る。 しか しそれだけでは、それは、 もの‑即 日として存 在 しているということであって、美術の作品 とはならな い。作品になるのは、 ものがそうした孤立か ら抜け出し て、何 らかの運動を始めた り、何かを語 り始めた りする ことにおいてである。そうした意味で、作品は言葉であ る。 このことは、作品が、 ものでな くなるということで はな く、 ものが、沈黙を語 ることも含めて、何事かを語
り始めるということである。
ここで、 ものは、何事かを語 り始めるとき、作品にな るとした。 また、 ものは、即 日か ら抜け出すことにおい て、何かを語 り始めるとも述べた。 しか し、少 し綿密に 考えれば、 ものがただ単に、自己同一的に静止 して存在 しているという事態は、きわめて特殊な知覚体験 におい て、例外的にあ り得るだけだ ということがわかる。通常 は、 ものは、常に何か他の ものや空間 との関係において 存在 している。それをその もの として知覚す るために は、周 りや別なもの との違いが必要だか らである。 もっ とも低 レベルの、神経生理学的な話 しか らいっても、わ れわれは差異 しか知覚できない。ニューロンは差異にし か反応 しないか らである。
したがって、 ものは、常に既に何かを語 っているとも いえる。それがそう思われないならば、それは、語 りの 同一的反復が、語 りの差異を消 し、語 り自体が知覚 され ないか らであろう。 しか し、われわれの注意 を引 くもの は、すべて、何かを語 っているといえる。 また、なにも 語 っていないと思われるようなもの も、そこに注意を向 ければ、語 り始める。 ここで、「注意」ということが新た に出て くるが、それについては後で考察するとして、以 上の考察の範囲内においては、もの と作品の間に明確な 区別 は設定 されないということになる。
ものには、山や川、花や石 ころなどの自然物 と、人間 が手 を加 えてつ くりだ した、建物、道具、田畑、機械、
美術作品などの、人工物がある。人工物 はすべて、何 ら かの目的のために、つ くられた ものである。美術作品
14 ‑‑◆ 上越教育大学美術教育研究誌 r美と育」a
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a educationno.41998は、美的な目的のためにつ くられている点で、他の自然 物や人工物 と、はっきり区別 されるといえるだろうか。
これ も決 して明確 とはいえない。なぜなら「美的な目的」
とは何かは、はっきりしないか らである。道具は 「道具 的な目的」のためにつ くられ、田畑や建物や機械 につい ても同様だ といえないだろうか。 したがって 「美的」 と いうことが、「美術」の同語反復ではな く、別な言葉や概 念 に置 き換 えて用い られているのでない限 り、それ を もって、明確な区別の指標 とすることはできない。さら にまた、石 ころのような自然物 も、それを道具 として用 いることができるの と同様 に、花や田園、斧や建築物 も
「美的」なもの として意識することができるということ もある。
こうしてみると、 ごく自然に、われわれが 「作品」 と 呼び慣わ しているものは、何か しら特別の磁場の中で、
初 めて実在の印象 となって感受 されて くるものであっ て、その磁場 を離れては、自律的に存在 しえないもので はないか と思われて くるのである。そして、その磁場が 何か といえば、 とりあえずそれは、制度化 された限 りで の造形言語による言説空間だ というしかない。
3
テクス トとしての作品この制度化 された言説空間は、造形言語 におけるラン グの、その また特殊な一部 とみなすべ きものである。す なわち、それは、特定のイデオロギー的な言説の空間で ある。 ここでイデオロギー的 という意味は、それが、美 術家な り美術専門家な り美術愛好者 といった、一般人 と 区別 される集団の、正統化 と利害に関わった ものだ とい うことである。そして これ まで、 この ことが啓蒙的な身 振 りや、教育の根拠 として利用 されてきたのである。
しか し、造形言語のラングのレベル、表層 としての造 形言語、一般にリテラシー というときに意識 されている 部分でさえ、すでに指摘 したように、限定 された「作品」
の規定を超 えて、あらゆる場面で用いられていることが 観察 される。作品以外の至 る所にいわば、作品性が偏在
しているといえるのである。
また、美術の作品が、何かを語 るものであ り、したがっ て何かを意味 しているとするならば、その意味は、 これ もすでに触れたように、その もの としての作品内だけで は発生 し得ない。意味が まず第一の原理 として差異であ るということは、構造主義言語学が強調 してきた通 りで ある。た とえばある俳句は、十語に満たない単語で構成 されているが、 もし日本語全体 の語桑が その十語だ け
だったならば、その俳句による意味作用は、 きわめて限 定 され、ほとんど意味がな くなってしまうのは明 らかで ある。出現 したある単語は、ある単語群の中か ら、あえ て選び とられたものだが、その単語の意味作用は、押 し のけられた、別な一連の単語 との関係において働いてい るか らである。同 じく、絵画 に、われわれが見 る意味 も、意識的にしろ無意識的にしろ、そこに描かれなかっ た もの との関係においてあるといえる。それは具象や抽 象 ということには、いささか も限定 されることな く、あ らゆる側面、すなわち、ジャンルか ら図像、形象、主 題、手法、技法、構図、線質や色彩や素材、大 きさ等の
すべてに当てはまる原則である。
ところで差異には、類似 と相違 という両面があること に、注目しておかなければならない。 これは同じ一つの 事態を示す、二つの言葉であって、相反する関係ではな い。相違のない類似 も、類似 を前提 しない相違 もあ り得 ない。 したがって、類似 も差異なのである。メタファー が成 り立つのは、二つが類似 しているか らだが、それ と 同時に、二つのものが同一ではないか らで もある。全 く 同一ならば、それは二つではな く一つになって しまう。
これらのことはまた、誰かによって生みだされた、独 立 した作品 と思われているものも、実は過去の別の誰か による別の作品を、類似性 と相違性によって、内に含み 込んでいるということでもある。
こうした諸々のことから、作品はむしろ 「テクス ト」
として、あるいは 「見る=読む」 ことの可能な 「生成 さ れたもの」として、
「
「作品」ではない作品」、「
「作品」概 念の解体 された作品」 として理解 される必要があるのである。
Ⅳ
主体の概念1 注意する主体 と無意識
作品 (‑テクス ト)は、自己の内部では決 して閉 じ得 ず、限界の不明な外部 と関わることで、意味を生成する のだ とすれば、作品が何事かを語る、その語 りは、作者 や受容者である主体の注意のあり方によって、多様であ り得 る。外部 との潜在的な関係が無限なのだ とすれば、
何 を見るか、 どんな語 りを聞 くかは、主体が何に注 目す るか、ざわめきの中から何を聞 き取 るか という、主体の 注意に大 きく関わることになる。作品の意味が何か、作 品が何であるか ということは、作品を見る、読む主体が どのようなものであるか ということと切 り離す ことが
できないのである。
しか し主体 もまた、ある意味では作品 と同じく、 もは や、単純でそれ以上の分析 を要 しないもの とは、見なし 得な くなっているといえる。デカル ト的なコギ トの明証 性 と明噺性 に、懐疑の目を向けた先駆者の一人がフロイ トであるが、彼の精神分析学は、単なる神経症の治療理 論に止 まるものではない。人間主体の本質 と、精神 とい う心的存在の一筋縄では行かない性格 を、何 とか可視化 し、言改らしようとする、知の限界に向けての果敢な冒険 の試みである。
フロイ トが明 らかにしたことは、近代において考えら れ、前提 されてきた人間あるいは主体観が、虚構である ということである。主体である私 とは、私のはっきりし た意識 と、信頼するに足 りる理性、そして混 じりけのな い、純粋な自由意志のことであると見なされてきた。た しかに、意識は混濁 し、理性が曇 り、意志が鈍ることが ある。 しか しそれは、その分だけ、物質的な諸力 といっ た、私でないものの浸食によって、私がいわば縮小する ということであって、いささか も、私そのものが変質す るということではない。そのように見なされてきた。
よく知 られているように、フロイ トは 「無意識」の概 念を提唱 した。われわれの精神には、意識することので きない広大なヲトー意識の領域があるということである。
このことが、なぜわれわれの主体概念を脅かすことにな るのか。意識が暗が りの中に落ち込み、意識でな くなっ た領域が無意識ならば、そうした領域は主体概念から逸 脱 しているのだか ら、精神の外部 と同 じく、主体 とは、
何の関わ りもない ということになるのではないか。
もしも無意識 というのが、単に意識の及ばない領域 と いうだけならば、その とお りであるといえる。 しか し、
無意識の概念は、そうした消極的なものではない。フロ イ トは、意識の現象を観察 し考察する中で、意識は、根 拠 を自己の内に持 っていないことに気づき、意識の外に あって、意識を決定 しているものを、無意識 と名付けた のである。た とえば、言い間違いや聞き違いなどは、明 噺な意識 とその意識の欠如だけか らは説明がつかない。
なぜなら、当人は単なる過ちとしてしか意識 していな く ても、分析によって、 まるで私の中にもう一人の私がい るかのように、表層のコンテクス トとは異なった、意図 や意味の連鎖が取 り出されて来るか らである。だが この 比峰は、あまりに不用意で危険である。私は二つの人格 なのではなく、私自身が、私であって私でない、 という ことなのである。あるいは、私は私を知 らない、 という ことである。
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良 educationno.41998◆
‑ 15また、私は私 として、ずっと自己同一性 を保 っている と信 じている。 これは、私の記憶が保持 されていること によって、初めて成 り立つ ものである。 もし、記隙が消 されてしまえば、私は、私にとって も、見知 らぬ人になっ て しまうだろう
。
しか し、こうした自己同一性 の基礎 と しての記憶の保存 も、実は、信用できないことが明 らか にされた。 クライアン トが語 る幼少の記憶 は、変形 さ れ、編集 され、事実に合わない、 しばしばねつ造 され も のであることがわかった。そして、むしろこれは、人の 常態なのである。私は、あるが ままの自分 とい うよ り、物語 を生 きているというべ きか もしれない。連綿 と続 く 同一の自己 というの も、そうした物語の一つ ということ になるであろう
。
2
一次過程人間は、生 まれて間 もない内は、自己認識 としての意 識 は、 まだ持 っていない。 自分 と母親、自分 と世界 は、
まだ未分化 なままである。論理 も道徳 もまだない。 こ の、心的装置の、未だ組織化 されていない領域 を、後期 のフロイ トは、「エス
( da s E s ) 」
と呼んだが、エスはい うまで もな く、無意識に由来するものである。 このよう に、何の分別 も備 えていないエスは、 しか し、本能的な 欲求 と、てんでばらばらな方向の定 まらない衝動、エネ ルギーの混沌 とした相場、あるいは大海 である。エス は、「快感原則」によって支配 されている。
すなわち、緊 張によって発生する不快 を、願望充足によって取 り除 く とい うことである。空腹 を覚 えれば、乳 を吸お うとす る。乳が飲めれば、緊張が解消 され、それが 快である。しか し乳がなければ、あたか も乳 を吸っているように、
口だけ動か して、幻覚を持 とうとする。そして、 このこ とによっても、快 を得ることができる。 このようなとき 働いている、心的動 きの道筋 を指 して 「一次過程」 と呼 んでいる。
赤ん坊の中で生起するイメージや表象は、外界の認識 として、方向づけられているのではな く、 この ように、
欲求や、 また性本能 を表 し、それを充足 させることに向 けられているのである。フロイ トによれば、エスの中に おける欲動のエネルギーは、様々なイメージや表象に注
ぎ込 まれる。これを「備給」あるいは「カテクシス
( c a t he x‑
i s )
」というが、一次過程は、 こうしたエネルギーが様々 なイメージに配分 され、備給 されるプロセスの ことであ る。思考 とは、イメージ操作 ということにはかならない か ら、 この一次過程 は、意味作用の過程で もあ り、一つ16 → 上越教育大学美術教育研究誌「美と育」a
r t
a educationno.
41998の思考の形態だ ということもできるであろう。この快感 原則による思考 は、時間や空間のカテゴリー も存在 しな い中で、「圧縮」と 「置 き換 え」により、恐 るべ き自由さ で もって、イメージを融合 し、互いに入れ替わ り、代理
しあう。 このことこそが、われわれが、何かを創造する ことができることの秘密である。
フランスの哲学者アランは、魔法使いなどが登場する お とぎ話の、実在性 に言及 した ことがある。お とぎ話 は、荒唐無稽であるにも関わ らず、そこにある種の真実 を感 じてしまうのは、そうした世界は、いわばわれわれ の故郷であって、物心が まだつかない内には、われわれ は、みんなそこに住んでいたか らだ というのである。人 が動物に変身 した り、突然あるものが消えて、別のもの が現れた りといったお とぎの世界は、母親の庇護の下に 存在 した世界 に通 じている。「快感原則」が 「現実原則」
と背反 し合 うようになる前の、自我がいまだ十分には形 成 されていない、一次過程の心的現実に通 じているので
ある。
3
自我快感原則 による一次過程は、欲 していることを、素早 く見つけだ して、与 えて くれる母親のいない ところで は、適応性 は低 くなる。そのような外界では、魔法使い の身振 りは、あまり有効性 を持たない。 このようなこと か ら、エス と外界の仲立ちとして、新たにエスか ら自我 が形成 されて くると考 えられている。この自我の活動の 原則が、「現実原則」である. これは、内的な欲求の方で はな く、外的世界の諸事実や物の方に対 して、適応する ことで、満足 を得 ようとす る とい うことである。そ し て、 こうした現実原則に則 った、自我における心的機能 のあ り方が 「二次過程」である。二次過程 は、時間 と空 間の形式を受け入れ、文法 と形式論理に従 う。われわれ が、理性や知性 と呼ぶ もの、 また、われわれが、知覚、
認識、思考の名において、普通、意識 し意味 していると ころの もの、それが この二次過程である。
フロイ トは、自我は、一次過程 を 「抑圧」することか ら生 まれて くるとした
(
「一次的抑圧」あるいは 「原始抑 圧」)
。一次過程 と二次過程 は、適応形式 として正反対の 性格 を持 ってお り、そのままの形で同時に両立できない 以上、 これは当然である。 しか し、それで、エスにおけ る一次過程その ものが、消え去 るわけではない.それ ど ころか、自我 は簡単にJエスや超 自我に、飲み込 まれて しまう危険を常にはらんでいるか弱い もので しかない。われわれの常識では、自我 は統治す る君主 といったイ メージであるが、それは自我が、そう信 じたい ところの もので しかない. こうした一次過程の浸潤や圧迫 に対 し て、自我が自らを守 ろうとする対応のしくみが、「抑圧
」 (
「二次的抑圧」あるいは「固有抑圧」)
「退行」
「反動形成」「投影
」
「取 り消 し」などの 「防衛機制」である。 この防 衛機制 によって、われわれの自我の意識の、首尾一貫 し た外見が、かろうじて保たれているのである。Ⅴ 主体 一 作品 一 社会の相互浸透 としての美術
1
夢 というテクス トわれわれの精神 とい う心的装置の、 こうした多層性 が、作品の語 るものを問題 にするわれわれに、何 を意味 することになるのか。 この間題 に、興味深 く、重要な示 唆を与 えて くれるのが、「夢」 という現象である。
夢の注 目すべ き特徴 は、いかに突飛で、奇想天外なよ うであって も、少な くともそれを見ている間は、圧倒的 な リア リティーを感 じさせるということである。奇妙で あって も、その奇妙 さに リア リティーがある。 しか し、
目覚 めて、自我の支配力が回復 され る と、その リア リ ティーは急速 に消 え、夢 自体 もぼんや りとかすみ、違い 目の出来事の ように忘れ去 られてい く。ただ しこの と き、夢に注 目し、意識 をうまく集中すれば、夢 は、思い 出 した り、書 きとめた りすることができる。そうして得 られた ものが、夢 の 「顕在的内容
」
である。 フロイ ト は、夢の内容 は、それに止 まるものではな く、「顕在的内 容」の背後 には、夢の 「潜在的内容」がある と考 えた。これは、夢の顕在的内容 を、分析 し、解釈することでは じめて発見 され るものである。 この夢 の潜在的 な内容 は、われわれの欲望 に関わ り、 これは、エスの一次過程 に由来するものである。 し▲たがって、時間や空間の形式 にとらわれない、備給 されたイメージの、融合 と連鎖そ の ものであるといえる。 このエスか らの欲動の突 き上 げ に対 して、自我が己を守 るために、上 に見た自我の防衛 機制が働 き、夢 は、言語的な形式の二次過程 において、
顕在的内容へ と作 り変 えられるのである。 この一次過程 の夢の潜在的内容が、検閲 され、圧縮や置 き換 えによっ て、二次過程の夢の顕在的内容へ と翻訳 されることが、
「夢作業」であ り、そのちょうど逆の操作が、「夢の解釈」
ということになる。
夢のテクス トが語 っていることを聞 くということ、 こ の解釈 という作業は、 しか し決 して単純なものではあ り
得ない。なぜなら、 これは逆の翻訳だ として も、潜在的 内容は、すでに見たように、通常の言語ではな くイメー ジとして、顕在的内容 とは、全 く異なる形式で存在 して いるか らである。さらにいえば、 この 「存在 している」
という言い方 も、修辞的な妥当性 しかない。無意識の存 在 は、常に、想定 されているだけなのである。確かにフ ロイ トの、「エス‑ 自我「超 自我」(後期)、あるいは、「無 意識⊥前意識二意識」 (前期)というのは局所論的な説明 で、実在性 を臭わせはする。 しか し、フロイ ト自身、無 意識 自体 を、直接 それ として観察 した り、把握 した り、
意識 した りすることはできない と、繰 り返 し述べている のであ り、 これ らの局所論 も、心的過程の経済論的説明 と並ぶ、ひ とつの説明なのだ ということを忘れてはなら ない。
夢の解釈 によって、「父親 に愛 されたい」という無意識 の願望が読み とられた として も、それはわれわれの意識 によって、無意識や潜在的内容の、認識可能な等価物 と して、あ くまで想定 された ものであって、 どこまで行 っ て も、意識 による解釈で しかない という限界 は、つきま とうのである。
ここで、先 に夢作業 と夢 の解釈 は、方向性 を逆 に し た、同 じ操作だ と述べたことに戻 ってみたい。そうする と、夢作業 というのは、検閲や抑圧 による変形や翻訳操 作 という方法 を用いた、自我が行 う、一次過程である夢 の潜在内容の、「解釈」だ とも言 えるのではないだろう か。 もしそうだ とすれ ば、逆 に、夢 の分析 による解釈 は、分析 というもう一つの翻訳操作 を使 った、無意識の 夢 を創作する、夢作業 として考 えることができるか もし れない。 この ことは、つ くることと解釈することは、厳 密にいえば、同 じであることを示唆するのである。
この ことは、 さらに、夢の意味が 「多元決定」されて いることとも、深 く関わっている。夢 は、様々な葛藤や 欲望 を、同時に表現 しているのが、普通であるというこ とである。 これは一次過程の本質的な特徴か ら、直接出 て くることであ り、あるイメージは、同時に、相異なっ た欲望の対象 とな り、欲動エネルギーの加算的備給 を受 けうるのである。 また、 リビドー と自我の各発達段階で の願望 は、層的に積み重なって保存 されていると見なさ れるので、解釈の水準の取 り方によって も、当然意味が 変わる。ある夢 を、その日の出来事 と関連づけて解釈す ることがで きる一方で、幼時の体験 を巡 る物語 として読 むこともできる。 さらに根源的なことをいえば、他人の 夢の中に、自分の夢 を読むことも恐 らく可能であ り、解 釈の可能性の深い秘密 も、そこにあると思われるのであ
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