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経営学経営学

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(1)

(2)

」 ら

~

(3)

四︑経蛍における非公式社会構造とその第三次元的意義

(4)

わたくしはさきに本誌第六十四号に沿いて﹁経営の存立とその三クの対内構造﹂と一試う問題をとりあげ︑経営の

実体は観点を異にすることによクて価値構造的友もの︑技術構造的なもの︑社会構造的なものとして把握するとと

ができるとともに︑乙れら三つの構造は︑経営経済の下位概念として経済的に統合され友ければならない乙とを指

摘した︒そしてその際乙れら三クの構造のうち順序としてまや︑価値構造と技術構造とにつき分析するととろがあ

った︒経営の社会構造の問題は︑今日の学界に九点いてはすでに常識化し︑陳腐に属する問題であるが︑とれら三ク

の構造の理論的なそしてまた歴史的な相関関係をうかがい︑経営経済的な統合を知ると云う結論に辿わりつくため︑

一応わたくし友りに経営の社会構造を分析する乙ととした︒

さて︑きわめてプリミチヴ怠考方によれば︑通常経営は物的要素と人的要素とより成る組織体であるとされてい

る︒しかしながらかくのごとき見解は物的要素と人的要素とを同一平面においてみる前提から出発しているのであ

って︑必やしも正しい見解であるとすることはできない︒けだし人的要素は二応物的要素とひとしく︑経営を構成

する要素であり友がら︑偽それ自体に主体的な自覚性と自律性を有するものであり︑乙の点を無t保しては経営の実

休を正しく認識する乙とはできたいからである︒従クていまかかる現代的紅白覚において経営を観察するも仏らば︑

結局経営とは物的諸要素によクて媒介され︑結合され及がらも倫それらを駆使してゆく多数の人間と人間との組織

休であるとみねば訟らないであろう︒現に経営には各種各様の技能と熟練とを持づた多数の労働者が︑

(5)

O

具︑機械︑設備と取組んで各穣の作業活動を営んでおり︑さらに組長︑係長など第一線の監督者がこれらを指導監

督しているし︑また事務所に沿いては多数の事務員が日常の業務を処理し︑管理職員が乙れを管理しているし︑ま

た多数の専門技術者たちはそれぞれに認せられた改善工夫を研究し︑経営者は経営の方策樹立︑意志決定︑経営の

指揮︑調整に当クている︒しかも重要注乙とは乙れら各人の活動は決して単独孤立的に行われているものでか仏く︑

多数の主体的な人間

ll

構成員相互の聞に各種の関聯を保ちながら営まれていると一式う乙とである︒経営とはかか

る意味で︑所詮は主体的友経営構成員によクて相互関係的に営まれている諸活動の統一体に外ならないと一五えるで

しかるにかくのごとき意味で多数の主体的た人間と人間とによって相互関係的に営まれている経営諸活動も︑そ

れは決して無秩序のものでありえ十︑そ乙には一定の統一性と持続性と反覆性とが存在し怠ければならない乙とは

一式うまでも友い︒経営の社会構造論とはかくて︑経営を以て単なる価値または生産力としての人聞ではなく︑主体

的事仏人格としての人間と人間とによって構成せられている社会的構成体とみ︑社会学的な概念︑方法︑原理を援用

ζとによクてそれを分析し︑以て経営諸活動を基礎ずけ︑秩序ヂけている経営構造主﹁社会的﹂に明らかにせ

んとするものである︒

しからば乙の場合︑

とか﹁社会的﹂と云う乙とは一体いかなる意味を有する乙とであろう

か︒乙の点に関しν

q﹃ ︿

lガーは世ヒ凡そ社会的︵

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と称せられる各種の場合をあげているのである

Z

︵ 註

1しかし社会学的た規定を以てするならば︑それは結局︑人間と人間とがその行為︑思惟︑感情にクい

て﹁様式関聯的﹂に相交渉し関係し合っている場合ならば︑それはいクでも社会的と呼ばるべきものと一式わねばな

(6)

らたいであろう︒以下若干乙の点を詳述しよう︒

まや第一に社会怠いしは社会的なものは人間と人間とが相交渉すると乙ろに成立するものであるから︑その前提

として人間と人間との﹁接触﹂が原理的に必要な乙とは一式うまでもないと乙ろであろう︒勿論乙の場合接触とは直

後対商的訟もののみに限る必要はない︒間接的に︑精神的あるいは知的に接触する乙とがあれば︑それも矢張り︑

一つの経営を機縁として人間と人間とが相接触しているととが前

援であクて︑その接触が日k顔を会わす職場の同僚間たると︑いまだ一面識もない社長と一従業員との聞に沿ける

たると︑それは問うところではたい︒

しかし及がら第二に単に多数の人間と人間とが相接触していると云う事実だけからは︑直ちに社会ないし社会的

なものは成立し難いのであクて︑そ乙にはかかる媛触を前提としながらも︑さらに乙れを越えた︑もクと持続的︑

本質的汝関係が存在してい友ければならない︒乙の場合ジムメルは乙れを﹁心的相互作用﹂に求めた︒しかし訟が

らわれわれを以てする友らば︑かかる心的相互作用と云うがごとき内面的︑主観的なもののみの存在を以てしては

客観的及社会泣いしは社会的猿ものの成立は認め難いとせねばならたい︒すなわち心的相互作用があるにしても︑

そとにはとれを表現すべきもっと客観的︑具体的にして︑しかも積極的︑相互肯定的なものが存在しなければなら

も広い︒さきにわれわれが﹁行為︑思惟︑感情についての様式﹂と呼んだものがすなわち乙れである︒エミ

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ユルケイムは乙れを社会的事物︵円

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h ととと称し︑

社会学独自の研究対象怒りとした︒

︵ 註

2

しからば一云うと乙ろの行為︑思惟︑感情の様式すたわち社会的事物とは︑より具体的には一体何を意味するので

あるか︒それは人聞が社会的に他の人間と相交渉し関係するとき︑その行為︑思惟︑感情が必十従わ友ければなら

(7)

−窓い強制力︑拘束力を持った客観的紅型式︵

m V 2 2

乙である︒とれをまや行為の様式について顧みるならば︑そ3

れはさらに二クのものに分けて考えるととができる︒一つは職階的様式であり︑二つは具体的な伺kの行動の様式

である︒ま十人聞が人間と行為的に交渉する場合︑実践的には︑それは個kの具体的﹁行動﹂を通じて関係するの

であるが︑しかしかかる行動は一見それが考えられているごとく︑決して単なる個人的街勤では友く︑それは彼が

自ら属する集団社会の一員として分業的に相一当している職能︑機能の実現としてぐある︒換言すれば社会的なもの

が成立すると乙ろでは︑どこでも︑その構成員たるものの担当する役割︵問︒円︒︶機能︑職能の範囲が定型的に定め

られているのであって︑彼が行うととろの行為︑行動はい十れも︑かく定められた機能︑職能の範囲以外のもの︑

または以とのものに出る乙とは詐されていたい︒

またとうした機能︑職能には通常乙れが実現を可能ならしむべき権限︑責任事仏るものが随伴し︑それが大小︑強

弱によって︑命令者と服従者︑企画者と実行者と一五うがごとき経営社会的た地位

︵ 印 g

EC

が成立せしめられてい

る︒われわれはとの職能と地位にクいての定型化を併せて職階的様式と称し︑行為の様式の一部をなすものと考え

るととができる︒けだし職能にしても地位にしても︑それは結局何等かの行為をなさしめるための定型であり︑そ

れ自体を自己目的とした画餅ではありえないからである︒換言すればそれから発する行為関係に秩序あらしめるた

めの様式と考えられなければたらないからである︒しかしいやれにもせよ人間と人間とが持続的に接触を続けてゆ

︿と云う事態が存在すれば︑そ乙にはかくのごとき職階的様式が成立し︑それが各人の行為を規定してゆくととは

次に人間の行為は具体的︑実践的には個Kの﹁行動﹂を必要とするものであるが︑これらの行動を行うに当って

(8)

も︑それぞれの安品川関係により︑そとには行動そのものについて各種の様式︑いわゆる行動の様式MMW

拝 ︒

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宮町恒三︒吋︶たるものが成立しているものである︒しかして今かかる行動の様式には集団社会内部に沿いて構成員と

構成員とが相安渉する場合のそれと︑構成昌が対外的に他の集団社会またはその構成員と突渉する場合の様式との

二つあるが︑いやれにもせよかかる様式は構成自の日常個Aの行動を実践的に拘束し︑それに従わか仏いときは集団

社会主的排斤または脱落せざるを得たい結果を生やるものである︒例えば経営内部において会計係はすでにして会

計係と一式う一定の機能︑地位の様式に土ってその行為を規定せられたがら︑個Kの行動については事務処理規定︑

従業員規則猿戸﹂に上って拘束をろけている︒全党一般労働者は職長に対し︑職長は工場長に対し何等かの行動に出

でんとするとき︑彼等はそれぞれに沿いて機能的︑地位的に行為の規定をうけたk︑さらにいくつもの行動の様式

に土って物東されているのである︒またとれを対外的に云う友らば︑従業員は︑外来者すゑわち他の経営またはそ

の構成員に従業員として応対するとき︑そとにもまた個々の行動について従わ怠ければたら友い無数の行動の様式

があるととは容易に看取しろるととろである︒否︑社会学的に止り広︿一式う友らぼ︑一般桂会を秩序やけている法

律︑経済︑宗教︑道徳︑教育友どあらゆる制度︑風俗︑習慣友どがあって︑とれらがいやれも各人の個kの行動の

様式を成立せしめている︒

第二にわれわれ人間ψ他の人聞と相交渉するのは必やしも行為関聯的た場合のみでなく︑思惟関聯的にも安渉す

る場合がある︒ととに恩惟とはわれわれ人聞がものを見︑ものを考える場合の精神的働きに外怒ら友いが︑われわ

れ人間の生活が決して瞬間的︑衝動的訟ものではも仏く︑瞬間と瞬間とを連ね︑原因の次には結果を考え︑また︑ょ

H J 宜向き目的をめざしてたえやその実現に努力してゆくものでちる以ヒ︑かくのごとき思惟作用が常に伴うととは当

(9)

然である︒しかして︑かくのごとき思惟はその結果として多︿の場合行為を伴い︑行為として現われるものである

が︑しかし思惟関聯とはかくのごとき行為に現われる以前す友わち思惟の世界のみにおいてすでに入閣が他の人間

ム﹂関聯するとムしである︒しかしてかくのごとき思惟関聯に沿いても︑それが一見考えられるごとく個人独自のもの

ι︿︑そとにはいくつもの思惟の様式が成立していて︑その様式に従って相互に人間と人間とは安渉しているの

である︒通常︑原理︑論理︑主義︑理念︑信条︑価俄友左と呼ばれるものはとれである︒しかるにかくのごとき恩

惟の様式もそれは常に必やしも絶対普偏的たものでは汝︿︑多︿はそれらを成立せしめている集団社会の特殊性に

基︿ものが多い︒たとえば例のハ11ド・グループは従来経営に沿いては・コスTの論理や能率の論理が支配的で

あった止しているが︑との場合それは終管社会︑特に終営者集団における思惟の様式を指摘しているものに外放ら

ゑい︒す汝わち経営者集団には労働者と具ったとろした論理1|思慢の様式があり︑彼等が経営約一及事象を見︑あ

るいは判断するLCきは常にとの思慢の様式に従って︑とれを行っているととを示しているものである︒叉労働者と

︿に彼等が労働組合左一式ろ組織集団の一目たる場合には彼等特有の信念︑理念︑またはイデオロギーがあり︑事の

善悪︑優劣にづいての社会的評価の慈準︑様式︑社会的価佑判術の体系を持っているものである︒かくて経営者に

せよ労働者にせよ彼等には特有の思惟の様式があり︑彼等がものを見︑ものを考えるときは︑いつでもかかる様式

に従ってそれを行ろのであり︑かかる様式に従わたいときはその集団社会より排斥または脱落せざるをえない関係

におかれているe

第三に人間と人間との安渉︑関係は︑また感情的にも行われるものである︒例えば沿互に尊敬し合ったり︑意気

投合し合ったりする者同志が仲間を結成したり︑単に同僚間に名声︑賞讃をかちえんがために行動したり︑あるい

(10)

K下聞に依恰最演や情実関係が成立したりするがごとき︑いやれも人聞が感情的に相関聯する相場合である︒ま

たガードナ1

1

17はその箸﹁産業に長ける人間関係﹂の中でコムミユニケ級者よシヨシの事を論じ︑凡そK

わ下級車唱えの命令には誇張的に﹁権威﹂の衣が着せられて伝えられたり︑下級者上旬色級者えの報告にはありのま

までは友︿︑多くの場合︑事実を漉過してヒ申されたりする場合が多いととを指摘しているが︑とれらの場合もい

ゃれも人聞が感情的に相焚湾関係するととの一例である︒

︵ 註

3さらに労働者が︑自らの生存権や労働権を主張

し︑先任格を唱えるがど正雪場合︑その深底には廿荒木的人権の自覚以kに人間的友感情が強︿働いている場合も決

して少くはない︒

しかり︑感情とは︑理論的には理知や論理を超越したものでちるとされたがら︑現実的には深︿人間的な基本欲

求に連るものであり︑それは単ゑる付属的精神作用では友い︒従って人間と人間企が相交渉する場合︑常に必やし

も理性的に関聯せや︑感情的に突ると一去っても︑その乙と自体は否定すべからざる事実であり︑われわれはとれを

無視し去るととはでき友い.

しかるにレスリスパ11︑ヂイツクソγも指摘するごとく︵註4元来かかる感情は﹁社会的真空︵印︒

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B︶の中に存在するものではゑく︑その持主たる人間の過去の生立ち︑経験︑ならびに現在の社会的環境の中

に存存するものであるから︑特定の集団にはそれ特有の感情の様式が矢張り成立するものである︒従ってある一つ

の特定事実に同様に直商した場合があっても︑それに対してお互に懐く感情は︑その人kの属する集団社会の如何

によって異ってくるのである︒すたわちある集団の人kはその事実を感情的に好ましいと思うにも拘わらや︑他の

集団に属する人Aはその事実を感情的に好ましからやと考えるととがありうる︒しかし︑との場合との相違はい十

(11)

れが王し︿て︑いやれが誤りであると云ろ問題ではない・それぞれその人々の属する集団社会の感情の様式が具る

にすぎないのである︒

︵ 註

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−印山田

さて以とわれわれは社会一ないしは社会的怒るものの成立契機としての行為︑思惟︑感情の様式がいかなるもので

あるかを詳述したのであるが︑しからばかくのごとき様式は一体いかたる意味に沿いて社会的なるものを成立せし

める契機とたっているのであろうか︒そして︑それらがやがて社会構造を形成せしめていると云うのはいかなる意

味に−おいてであろうか︒−ま宇前者の問題については︑われわれは以下次のごとき四つの意味を指摘する乙とができ

︵一︶それは本源的には人間個人の本性に出発したものでありながら︑結局は人間個人にとって外十代的た性質を

有するものであるの

行為︑思惟︑旅情の様式す友わちヂユルケイムのいわゆる社会的事物が一休いかにして生成し︑またどとにその

生成の某盤があるかにづいてはいろいろの学説が存するのであるが︑最も古くより主張せられていたものはオ1

(12)

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γ1の主張する個人心理学説とも称すべきものである︒彼等に従えば︑人間個人乙そは結

局究極の実在であり︑それは社会に先行するものである︒それ故に一切の社会現象したがってはまた社会的事物は

人間個人が主り完全にその太性︑人間性を拡犬発展せしめるために意識的目的々につくった創造物である︒かかる

意味に沿いて社会的事物生成の基一燃は結局︑内在的に人間個人にありと云うべく︑人間個人の意識を心理学的に分析

してさえゆけば一明の科会的事物は演律的に説明が可能と怒ってくるものでるると説くのである︒なるほど一切の

社会現象は人間の世界の出来事であり︑それは結局人聞を措いては理解できないものである︒従って一切の行為︑

思惟︑感情の様式友ども人間と人間とが相結合︑安渉せんとする場合︑自己の意を充し︑相手方の意に沿わんとす

る心理作用の湖似性から一生成され︑それが客観性︑普偏性をかちえた場合に一定の様式になるのであると理解され

怠ければたちも仏いかも知れね︒しかしながらかくのごとき考方のみを以てしては社会的事物||行為︑思惟︑感情

の様式が人間個人に対して強制ヵ︑拘束力を以て臨んでくるとか︑社会的友るものは個人の単怒る算術的総和より

は大であるとか︑個人は突替︑滅亡しても社会の生命は依然として︑存続してゆくと云ったよう友事実を説明する

問題は行為︑思惟︑感情の様式生成の本源が人間にあり︑それは人間世界の出来事であるとしても︑彼等が相互

に相結合し焚渉せんとする場合にのみかかる様式が成立するものであると云う事実である︒逆に云うも仏らばとの結

合︑焚渉︑なかりせば︑個々パラパラに存在するいかに多くの人間個人の特質︑人間性の類似点を単に抽象化したと

乙ろで決して社会的事物||行為︑思惟︑感情の様式の生成は説明されないと云うととである︒われわれはとの事

実を重視するととを忘れてはゑらない︒か︿考えて︿るたらばヂユルグイムも強調するごとく︹註5行為︑思惟

(13)

感情の様式生成の基盤はむしろとの結合︑突渉関係と云う事実の中にあるものとみ怠ければ友らないとともに︑乙

A円安碑仰にどってその中に生成される一明の様式は︑パラパラた人間個人の心理作用の類似性とは臭り︑それと

種を異にする性質のもの正解さ友ければもたら友い︒とれあだかも各種の元素がいろいろの仕方によって結合し化合

する場合︑そとにはとの結合化合に主って単位元素左は異る性質の物質が生成されるのと規を一にする︒しかして

かくして生成された行為︑思惟︑感情の様式が結合焚池山関係的に各人を強制し統一やけるととによって︑やがてそ

とに一つの集問粍々を成立せしめてゆ︿のである︒かかる意味に−おいて行為︑思惟︑感情の様式は人間個人にとク

ては︑外本的たものである正一式ろベ︿︑人間伺人の本性︑人間性︑人間的特質をいかに心理学的に令析していって

もただそれ丈では充令にとれを説明しづくすととのできゑい趨個人的な事実とみたければならない︒

勿論か︿のご土︿精ム円安湾関係を強調し︑行為︑思惟︑感情の様式の超個人性︑外十忙性を主張せんP

ととで特に凶煮したければた九友い一事がある︒それは一一部論者の考えているごとく︑ぁ・まりに結合焚渉関係を強

調する結果︑人間の現存す忙を結局かかる無数の関係の網の結目たるにすぎ念いとし︑人間個人を関係概念の中に解

抽出し会ってし全う止か︑あるいは行為︑思惟︑感情の様式の超個人性︑外在性を強調するあまり︑人間個人の主体

的存存を焦却して︑とれら組問様式に工って他律的に動かされるロボットにすぎないと考えてしまう誤ちにおちいク

てはたら念い正一式ろと曹とである︒従ってとのあやまちを犯さないためには︑われわれはあくまでも結合突渉関係と

は主体的念人間の結ム円安鴻関係であり︑全休的注入間の本性︑特質︑心理は︑との結合焚湾関係を通じて行為︑思

惟︑感情の様式に授影されてゆ︿ものであると止を訳めるとともに︑しかも備かくのご左き人間個人の心理は行為

思惟︑感情の様式の生時間に左つてはあくまでも素材的友ものであり︑それが行為︑思惟︑感情の様式にまで客観化

(14)

されるためには︑結合交渉関係と云う社会的原動カがそれに加工を施さ友ければなら友いものである左一式う事実を

識別しなければたらないのである︒

会一︶それは構成員各人に対しては一種の強制力︑拘束力を以て臨んでくるものである・

すゑわち︑若しその集問粧会の構成員にして︑その集団特有の行為︑思惟︑感情の様式に従わぎる在者は︑彼は

集開株会に沿いて非難されるか︑あるいは有形無形の損害刑罰をうけるとととゑり︑彼にしていやしくもその集団

Eろしでもとれらの様式に従って行為し︑思惟し︑感得し

怠ければたら放︿みなるのである︒たとえば︑われわれはその集団社会特有の法︑道徳︑風俗︑習慣及戸﹂種々なる様

式があ旬︑それに従わ扱いと空は︑それはいかゑる結果を招来するか︑常に休験を通じてよくとれを知る止とろで

ある︒全たわれわれの経済生活は必やしも現在の経済制度に従って︑とれを営ま・?とも︑ある程度まで乙れを行い

ろるととろであるが︑しかし強いてそれに従わゑかった場合︑そとにはいかなる損害︑苦痛がもたらされるもので

あるかは容易に推察できる

zt

勿論集団社会的な︑かかる様式の持つ拘束力︑強制カは常に必やしも構成員によって感得せられ︑意識されてい

るものとは限九一段い︒す友わち︑かかる様式そのものに︑構成員が個人として同和し同感している場合には︑むし

ろかかる栴束力は殆んE感ビてい友いであろう︒しかしかかる場合といえEも集団社会的様式は決してその拘束力

を失つてはいないのであって︑その証拠には一度かかる様式のいやれか一つに︑従わないととがあっ党場合︑拘束

力はただちにその抵抗を示して︿るととによっても容易に知りうるととろである︒とれあだかもわれわれが空気の

重さを感じていな︿とも空気には依然として重さが存在するのと規を一にするものと云わねば訟らゑい︒︷註6

(15)

。 。

かくて集団社会を構成する人間の行為︑思惟︑感情にはその集団特有の共通性が存在するのは︑かかる様式の持

つ拘束力︑強制カが各人の行為︑思惟︑感情の中に屈折してゆ︿結果であクて︑決して個人心理学派の主張するご

と︿構成員各人の個人的心理に共通性が存するためでゑい乙曹とを知らねば友らね︒また構成員各人の行為︑思惟︑

感情のすべてを︑かくのごとく集団社会的様式によって他律的に拘束︑規定されたものと解するととは︑すでに述

ベたるがごとく人間個人の主体性を忘却し︑人聞を様式︑制度のロボツtに化する危険性をはらむものであるが︑

しかし︑それにも拘わら十集団社会的諮様式の持つ拘束力︑強制カは意外に犬友るものがあり︑われわれが一見そ

れは純伺人的注意欲︑心理に出発した行為であり︑思惟であり︑感情であると考えている場合でも︑具さにそれを

検討してゆけば︑意外にも集団社会的な交渉関聯において︑そうしているものである乙とを知りうる場合が多いの

三一︶それは構成員に対しその集団社会えの帰属感︑協同感を与えるものである︒

前述のごとく集団社会的諸様式は︑その構成員に対し外在的︑客観的たものとして︑常に拘束力︑強制力を以て

臨んでくるものであるが︑しかし︑それはかかる威圧的危性質以外には何ものをも持ってい友いと云うととを意味

するものではたい.もしかかる様式が︑真に構成員の個人的本性に合致し︑共感を呼び沿とす程のものである場合

には︑かかる様式の存在すると一式うとと︑かかる様式に従うと一五ろとと自休に構成員個人除︑むしろ喜びを感じ︑

自らがかかる集団社会の一員たるととに誇りを持つに至るものである︒居心地のよい︑従ってまたその集団社会の

一員たるととに喜びを感じうるようた例は決して皆無ではたい︒またその集団社会の誇様式が真に自己の本性︑意

欲に合致するときは︑その構成員はたとえ他の構成員がみていない遼隔の土地に行った上うな場合でも︑単独であ

(16)

りたがら︑その集団社会の様式K従って行動し︑思惟し︑感得し︑むしろそれに心の満足を感じうる様泳場合もあ

り︑その人は孤独でありたがら同時に社会的でもありうるのである︒偉大なるもの︑優れたるものえの帰属感は人

聞の本性であり︑その心に安定をもたらすものであるからである︒

そして︑これらの帰属感はやがて︑また同時にその集団社会えの協力感︑忠誠心えと発展してゆ︿︑その結果そ

の集団社会全体の力は単なる個人の力の算術的総和以Kのものとなりえてゆくのである︒乙れを構成員個人の立場

よりみるたらば︑彼はかかる様式を通じて当該集団社会に帰属する乙とにより︑彼が単独に持っている人格や能力

以とのものを発揮しうる乙とになるのであるeコモシズは乙れを組織過程を通じての部分と全体との関係として強

調

7︵ 註

かくて集団社会における行為︑思惟︑感情の諾様式はその拘束力が感ぜられる場合と否とをとわや︑構成員を互

に団結せしめ協働せしめる強い紐帯のよう及働きをなしているものであり︑一式わば︑それはソ

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︵ 註

8

︵四︶それは構成員には均衡と安定とを与え︑集団社会には秩序と持続とを保障するものである︒

すでに触れたるがごとく︑人間の現存在はその個体としての存在のみにあるのではなく︑他の人問︑集団との無

数の関係︑つ友がり︑係わりにおいであるものである乙とは否定できない︒従クて今もしかくのごとき無数の関係

が︑たえや変化動揺し︑一刻として予断を許さ友い状態にあるとするならば︑人間個人の生活︑生存には全くその

均衡と安定とを見出し難いとととも仏る︒しかるに今かくのごとき無数の関係において︑個人が行為し︑思惟し︑感

得するに当って︑そ乙に一定の様式が存在すると云うことは︑個人の生存に一定の均衡と安定とを与える乙ととな

(17)

る︒何故一ならば︑かかる様式はその集団社会における各個人の地位︑機能︑権限︑責任︑価偵をおのやから定め︑

決して他を犯す乙となきを保障しているから︑集団構成員としての各人は相互関係的には均衡状態にありうるから

である︒響織的に云うたらばあちらの幹︑乙ちらの枚との諸関係において力の均衡の保たれている巣の中心にある

蜘妹の存在は︑構造的に均衡の真只中にあるものとみる乙とができるからである︒またかかる関係に沿いて個人が

行動し︑思惟し︑感得する場合︑そ乙に何人もが遵守し泣ければならたい一定の様式が存在すると云う乙とは︑自

との様式に従クて行動し︑思惟し︑感得した場合︑そ乙には相手方からいかなる行動︑思惟︑感情の結果が

期待できるかを予測する乙とができるから︑構成員各人は集団社会的な相互依存を実現し︑その安定を確保する乙

とができるからである︒コモンズの言葉をかりて云うならば︑各人は相手方の怒意や圧迫から解放される乙ととた

︵ 註

9その力︑能率を最大に発悔しうるための佼も玄要なる前挺条件たる安定を集団社会的に確保しうるこ

とと怠るからである︒

いま︑との乙とをもクと具体的に一不すならば︑それは職場における一機械工にクいても︑また設高経営者にづい

ても等しく一民える乙とであって︑例えば機械工ならば︑職場における彼の地位︑機能︑権限︑責任︑価値は自ら定

められ︑臼常の活動様式はルlチナイズドされているから︑彼にとクては直徒︑間接に自らが仕事上関係を有する

原料係︑修繕係︑検夜係︑さては主級者たる職長︑課長からいかなる行動が期待されうるかが予測でき︑その職場

に治ける自らの存在に均衡と安定とを見出しえてゆくのである︒

次にかくのごとく集団社会内に常規化された行為︑出品惟︑感情の様式があると一五うととを︑集団社会そのものの

立場より観察する怒らば︑それは集団社会そのものに秩序と持続とを保障している乙とを意味する︒けだしかかる

(18)

様式には前述のごとく特有の拘束力があクて構成員の怒意を許さ歩︑またかかる様式があれば乙そ各人はそれに基

いて個Kの行動を常規化し︑持続的︑反覆的にとれを行ってゆくことができるから︑必然的に集団社会そのものの

持続性は保障されてゆくからである︒否それのみではない︑一元来組織とか集団社会と一五うものは一旦それが成立す

ると自己目的化し︑集団そのものの生命︑存続を維持するためには︑その成立の契機怯なクている一切の様式その

ものを必死の力を以て維持せしめんと努力するものなのである︒

さて以主われわれは第一節において一般論的に集団社会が成立するためには︑その契機としてそ乙に先歩行為︑

思惟︑感情の様式が客観的に生成されていなければならないことを説き︑その場合の行為︑思惟︑感情の様式とは

具体的に何を意味するかを明かにすると共に︑第二節にむいて︑凡そとうした行為︑思惟︑感情の様式が契機とし

ていかなる意味において集団社会を成立せしめているものであるかを吟味した︒

しからば次にかかる様式は︑さらにいかたる意味において集団社会の構造︑社会構造を形成せしめているのであ

ろうか︒との問題に答えるためには︑われわれはま十社会構造そのものの意味を明かにしておかかばならない︒周

知のごとく現代社会学の常識によれば社会とは単なる個人の集合でもなく︑又個人に先行︑超越して存在する有機

体でもも仏い︒それは一般的には主体的な人間と人間とが秩序的︑統一的に相結合交渉する関係の総体であると一云う

ように関係概念的に理解せられている︒しかるに︑かくのごとき﹁相結合交渉する関係の総体﹂はソシオメT1

的にダイナミックたものとして︑とれをとらえる乙ともできるが︑他面また︑乙れら無数の諸関係がスタチツF

構造として内面的にいかに統一的︑戸カニズム的に組立てられ︑構成せられているかと一五う風に観察する乙ともで

きる︒一式うまうもたく社会構造とはとの後者の立場に立クものである︒

O

(19)

= 一 O

しかるに繰返し述べたるがごとく︑かくのごとき相結合交渉する関係の一ク一クを定型的に規律するものは行為

思惟︑感情の様式であクた︒従クて無数の﹁相結合交渉する関係﹂のメカエズム的な構造を吟味せんとする乙とは

結局その一ク一クの関係を規律している様式相互間のメカニズム的な関係を問うととによクて解答がえられるとと

か︿てまや第一に集団社会の成立していると乙ろでは現実的には︑すでに行為の様式︑思惟の様式︑感情の様式

と一五うように各種の様式が存在しており︑且クたとえば行為の様式だけにクいてみても︑その中には無数のものが

ある︒しかのみなら歩︑とれら各種無数の様式相互間には緊密取関係があって決してバラバラのものとみる乙とは

できたい︒たとえば︑ある思惟の様式の成立している集団社会ではそれに即応した行為の様式や感情の様式があり

その集団社会特有の様式類型を示しているが︑また︑かかる場合︑思惟の様式が何等かの意味に沿いて変化すれば

それは︑やがて︑その集団の行為の様式の変化を促がしてゆくであろうし︑また︑その逆の場合もありうる︒

否︑さらに︑より突進んで考察する怒らば︑とれら一行為︑思惟︑感情の三つの様式の構造関係は単に平面的た相

互依存の関係と云うよりも︑立体的な支持関係にあると見られないとともない︒すなわち︑行為の様式には思惟の

様式が先行してそれを支え吃おり︑さらに乙の思惟の様式には感情の様式が先行して︑それを支えていると云う関

係さえも現実的には否定尽きも仏いのである︒けだし人間の行為は何等恥の意味において思惟の結果であり︑まや理

念︑信念.主義︑価値判断があって︑ζれが具体的な行為に現われるものであるからである︒また忠惟の様式に先行

して感情の様式が︑それを支えていると云うのは︑われわれ人間の思惟はつとめて感情をさけ︑合理的︑客観的な

ものたらんと努力しクつも︑意外に多くの場合において︑一見客観的にみえる思惟が人間的な感情や欲求から発露

(20)

したものであり︑客観的及思惟の衣をきせられた主観的危感情︑欲求の表現であクたりする場合があるからであ

る︒いわゆる﹁必要の論理﹂と称するものがとれである︒従クて︑さらにかくのごとき思惟の様式によって支えら

れている行為の様式は︑それがいかにも論理的︑理想的に見える場合でも結局掘下げれば﹁感情から出発している

行為﹂であると云うととがしばしばありうるからである︒

しかるに今かくのごとく︑様式の構造関係に沿いて︑行為の様式よりも思惟の様式が︑思惟の様式よりも感情の

様式が︑より根強く︑深く下土

pk

のものを支えていると云うととは︑われわれが社会構造の発展変化と一式う乙と

を考察する場合の重要なる鍵を提供するのす伝わち︑乙れら三種の様式にはかくのごとき立体的た必然関係がある

のであるから︑行為の様式は一応短期間的に変化することはあっても︑これに比し思惟の様式はさほど簡単には変

化せ示︑さらに乙の思惟の様式がたとえ変化するととがあクても︑感情の様式はきわめて根強く長期間にしか変化

し怠いと云う事実を説明するものである︒

い守れにもせよ以主のごとく集団社会にゐける無数の行為︑思惟︑感情の様式には総体的にそれ自体すでに戸力

一一ズム的訟ものを持ち︑構造を形成しているものである︒従ってとれら様式の一ク一クによクて規律せられている

集団社会的た結合交渉関係の総休はかかる様式を紐帯としてまた一つの全体的な構造︑すなわち社会構造を形成し

ているととは否定すべくも及いと乙ろであろう︒

︵ 設

5

1

= 一 O

(21)

すなわち個々の意識が与えられると一五う条件のみで以充万でない︒さらにこれらの繭品叫伊崎合し.化合しなければならぬ︒殊にある積の様式において化合しなければならね︒社会の生命は突にこの化合の結呆でるり︑従って社会の生

命を説明するものは︑との化合であるo個々の心は互に浸透し︑互に合同することによって︑一つの存在物を生ずる︒

o故にこの存在物内

に生起する諸事実を︑直接決定する諸原因は右の社会的個性内に求むべきであって︑決してその構成単位内に求むべきものではない︒集凶は孤立的なる諸構成員と全く具る方法で︑行動し︑思惟し︑感得するものである﹂︹田辺秀利訳︑

前掲書二四一頁l

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混 同 さて以上のごとく一般論的に社会構造とは一クの集団社会において行為︑思惟︑感情の様式によって秩序ナけら

れている人間と人間との関係︑ならびに乙れらの諸関係がさらに全体としていかに統一的︑機構的に形成せられて いるか︑その組立かたを問うととを意味するものである︒しからばかくのごとき社会構造は︑われわれ当函の課題

たる経営に沿いては具体的︑現実的にいかに形成せられているのであるうか︒

周知のごとく︑との問題については︑

すでにアヌリカにむいてハーバード・グループを中心に詳細なる研究が行

(22)

われ︑戦後わが国にも紹介されて今日学界の常識となっている︒乙の派の研究によれば経営の社会構造は大別して

ごっのものにすることができる︒

1

lガニゼイシヨシJ

ω

EN 25 ロ ︶

であり︑もう一

つはインホ1マル・オ1ガニゼイシヨン

ωE NR 5

1

1ガニゼ

イシヨンとは経営目的を有効的に実現するため経営者によって︑人為的︑合目的に構成せられた社会崎造であり︑

イシホ1マル・ォ1ガ一一ゼイシヨンとは︑それ自体としては何等かの目的を持つとしても経営目的とは関聯なく︑

経営構成員相互聞に形成せられている社会構造である︒論者によクては前者を﹁外制組織﹂︑後者を﹁白成組織﹂

と釈しているものがある︑その意図はインホlマル・オガニゼイシヨンは経営構成員自体によってその間に自ら形

成せられている社会構造であるに対し︑ホl

1ガニゼイシヨジとは構成員自体にとっては外部より︵経営

者より︶制定せられている社会椛造であると云う意味を強調せんとするにあるものと解せられるが︑しかし労働者

たどを中心とした人間関係的な研究的立場からは︑かくのごとく﹁外制﹂と一式う意味を強調する必要はあるが︑経

営学的な立場からはやはり経営目的関聯的であるかどうかと一式う乙とを区別する意味において︑前者を正規的︑す

危わち公式社会構造︑後者を非正規的︑すなわち非公式社会構造と考えた方がより適切ではないかと息われる︒

しからば︑云うととろの径営の公式社会椛造とは具体的にはいかなる構造を持っているか︒いまとれをハIl

F−グループの介析によら示︑われわれがさきに説明した集団社会の構造原理によって説明すれば︑次のごとく分

析することができる︒

まや第一に公式社会構造に訟ける行為の様式であるが︑経営はきわめて実践的及活動の統一休であるからその社

会構造の殆んど犬部分は︑との行為の様式によって構成せられているものとみることができる︒すなわち経営に治

O

(23)

l¥ 

いては︑その目的を実現するためには︑たえ歩無数の経営活動を実行してゆかなければならないのであるが︑かか

る活動は決して無秩序︑無定型に行われているものではなく︑まや調達︑生産︑販売︑労務︑財務など︑いわゆる

過程的職能が横に分化せられ︑乙れらの執行を企画し指導するための管理職能が縦に分化され︑全体として学者の

いわゆる﹁職能構造﹂が形成せられている︒また乙れらの職能を遂行するためには必十やそれ相応の権利︑義務︑

責任が伴わ怠ければゑらないのであるが︑との犬小︑強弱は訟の歩から地位の構造を形成せしめている︒そして経

営構成員が乙のい宇れかの地位において︑いやれかの職能を担当し他と交渉活動する場合には︑必やそζに定型化

されている地位︑職能の様式に従わねば友らや︑その範囲以外または以上のととはできないように秩序やけられて

いるのである︒われわれのいわんとする﹁職階的様式﹂なるものが乙れであり︑経営の実際においては︑乙れらは

職制−または組織図表において明示されている︒

しかし訟がら経営における行為の様式は術右のごとき職階の様式のみにつきるものではない︒そとにはさらに社

規︑社則︑就業規則︑事務処理規定など各種の社内法が明文化されてゐり︑とれらはいやれも経営構成員が従業員

として個kの活動を行うに当り準拠すべき﹁行動的様式﹂を示してゐる︒勿論経営の公式社会構造における行為の

様式は必やしも︑そのすべてが明文化されているものとは限らない︑それはまたその経営における慣例︑慣行︑道

徳律の形において存在している場合も少く友い︒しかし︑そのいやれにもせよ乙れらすべての行動の様式は経営同

的との関聯に沿いて形成せられているものである点においては何等異ると乙るは友い︒

しからば︑第二に経︑営の公式社会構造に沿いて︑われわれの云う思惟の様式はいかなる現実的形態をとってあら

われているか︒すでにのぺたるがごとく思惟の様式とは︑ものを見︑ものを考える乙とを通じて︑人間と人間とが

参照

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