アジア概念、ヘーゲル『精神現象学』に拠って (1)
アジア概念、ヘーゲル
『精神現象学』に拠って (1)
川 田 俊 昭
アジアは概念である。アジアは概念(観念)として在る アジアは一つの方法(論理 体系)に拠る。
従って又,その内容が(ある形式のうちに )規定せられるやり方(順序・段階,過 程)によっては,アジアは,夫々,(たとえ一般的性格の主張はあろうとも)その実, 特 殊的なものとしての規定(そして,内容)を有するのである。
しかしながら,その手続き方が,論理的・形式的な常套(所謂 普遍妥当性 , 客観 性 )に依拠する限りにおいて,正当な,即ち一般的な主張の権利(1.カントの所謂)
を有する。
たとえば,K.A.ウィットフォーゲルのアジア概念が,結果的に,如何に多くの批難を 蒙る(批判を必要とする,無論いまどきの愚劣・低劣きわまるイデオロギー的批判の如き は論外である)が如き規定(内容)を有するとも,それはそれ,それ自体としては(主観 的には,主観的確信としては),ともかく,我々における正当な お客さん なのである。
この点,特に我国の社会科学者において誤解多きところであるが 〈批判〉における 問題は,その規定,その内容如何(殊に,その一寸した変更・修正,小手先の作業)でな く(と言うのは,それらにおけるプロとしての認識主体一部自身の自明としての習熟に より,少くともそれら自体におけるミスは先づ考えられぬが故に),彼が全体として何を 意識したか,或は如何なるヴィジョン(理論的・歴史的意識J.A.シュムペーターの所 謂)に拠ったかという そのスタートにおける,彼の(問題に関わる)視点。視角,彼 の所謂「変数」の選択C選び方 でなく)そのものの妥当性(「明確性」・「一般性」,J.
M.ケインズの所謂),……惹いてはその程度(客観的なレベル,論理としての 諸段階 をもつ),が問われるのである。
たとえば,ケインズが,その『雇用・利子及び貨幣の一般理論』「序文」の冒頭におい て,(弁証法的論理をもって,主体的に)次の如く言うその意味するところも,その実,
那辺に存する。
「本書は,主として私の仲間である経済学者達に呼び掛けようとするものである。……
本書の主たる目的は,理論上の困難な諸問題を取扱うことにあって,……その理由は,も
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し古典派経済学が誤っているとするならば,その誤謬は,理論的一貫性logical consisten−
cyに著しく留意して構成された上部構造のうちに見出さるべきではなく,その諸前提〔理 論の〕が明確性と一般性とに欠けている点に見出さるべきであるからである。それ故に,
私は経済学下達を,彼等の基礎的な想定の若干を批判的に再吟味するように説得しようと 思うのであるが,私のそういう目的は,高度に抽象的な議論と,従って又,多くの論争と を以ってすることなくしては,達成することが出来ない。……本書を作り上げることは,
著者にとっては長い間の逃れようとする闘い 思惟と表現との習慣的な方式modesか ら逃れようとする闘い であったが,大部分の読者にとっても,もし著者の読者への強 襲にして功を奏するならば,本書を読むことは同じ闘いとならなければならない。……困 難は,新しい観念ideasにあるのではなく,大部分の我々と同じように教育されて来た人 々の心の隅々にまで拡がっている古い観念からの脱却にあるd
真理としての概念を獲得するための一〈批判〉というものの真面目・凄絶さを真に理解し た一人の(経済)学者が,ここに居る。J.N。ケインズという方法論者(シュムペーターの 称賛せる如き,優れた)をその父親にもつに相応しい,彼の真骨頂の窺われる行文である。
くちさき
言葉(口頭)ばかりの,次元の低い・曖昧模糊たる 論理実証主義 , 弁証法 (相共
きまりもんく
に教条なるところの)の往行ずる我国……亜流の 集団 には,到底,感知・感得し得ぬ 卓見が,そこにはある。
近時,科学(学問Wissenschaft)の初歩・第一歩(所謂 科学以前 ;前提)ともいうべく 現象論(G.W. F.ヘーゲルの所謂「現象学」,仏教に謂う 唯識論 か),認識論(「論
理学」)の欠如が及ぼす我々における惨状,我々における災厄こそ,呪われてあれり( 80.4控)
「諸々の学問は,哲学のない論証を用いて思う儘に振舞ってみても,哲学がなければ,
生命も精神も真理も自分の中に持つことは出来ないd (ヘーゲル『精神現象学』序論)
アジアは概念である(ヨリ正しくは,アジアは概念であるべきである) ということ の意味するところは,決して簡単ではない。
ヘーゲル『精神現象学』(G.W. F. Hege1:Phanomenologie des Geists,1807.)に,
我々は,その問題の解(のヒント)を求めることが出来る。
アジアは概念として在る,ということは,換言すれば,アジアは一つの学(一つの体 系)の対象として在り得る,ということ,即ち,そこに一つの アジア学 が可能である,
ということの証左に他ならない。
しかしながら,可能(性)は飽迄可能性であって,しかも,その論議の端緒にあって既
にその可能性が著しく狭められてあったこと,いわば,その最初から,その実現が約束さ
れ,自明・明瞭であったわけではない。
それでは,学としての アジア学 ,概念としてのアジアを可能とする条件は,何であ
るのか。
ヘーゲルの『精神現象学』に関わる周知の・有名なエピソードとして 同著が初めて 公刊された時,その扉にSystem der Wissenschaft von G. W. F. Hegelとあり,その下 にErster Tei1, die Phanomenologie des Geistsと書かれていたこと,「現象学」が「学 の体系」の「第1部」であったこと,しかもEinleitungの前にも扉があって, Erster Teil, Wissenschaft der Erfahrung des Bewusstseinsとレ・う表題がついていること 一般には後者は初版についていたと言われていること……が,時に,問題にされている。
(所謂「タイトル問題」。)
『精神現象学』の邦訳者の一人,樫山欽四郎氏は,この点につき,同「解題」(河出書 房新社版,昭和48年)において,次のように述べている。
「……『第1部』というのが,何を指しているのかはっきりしない。扉の第1部と同じ 意味なのか,『現象学』の中の第1部なのか,わからない。と言うのは,『現象学』の中に は,第2部という項目はどこにもないからである。そこでもし,扉の『第1部』と後の
『第1部』とが同じ意味だとすれば,一方が『精神現象学』となっているのに,他方が
『意識の経験の学』となっている理由が,問題になるd
本稿の立場からすれば,この問題は必ずしも不明・不明瞭なこととはならない。
それが如何なる対象にせよ,我々はその最初(スタート)から,学を,概念を,問題に し得るわけではない。(既成・出来合の概念・体系をしか問題にし得ない 亜流として の我国の不毛の学問的状況における如きは,又別問題である。)
我々は,最初から 精神 の高みにおいて一対象を問題にし得るわけではなく,(前述
コ しか
せる如く)その可能性において然あるのみである。
我々における最初の出発は, 意識 においてである。 ・
意識 が 精神 の高みに登り得るか否かは,ただ可能性(結果としては必然性,必
ンステム
然的な体系・全体としての)においてである。
加えて, 精神 の潤みは又,その絶頂・完成(絶対的な)であるかもしれぬし,或は 又,一つの過程(後半,更に登り詰め得る)であるかもしれぬ可能性(甚だ余裕ある,選 択のきく)においてである,かもしれぬ,という問題をも残す。(その場合,一般的な学 以前に関わる「現象学」と学以後に関わる「論理学」との境域・境界をどこに置くかとい う問題は,その何れにヨリ強調を置くかという問題と共に,文字通り極めて微妙な問題と いな
なることは,確かに否めない。)
よって,樫山氏が次のように述べざるを得ない事情も,本稿の立場(と言うより,ヘー
ゲル自身の立場)にとっては,(少くとも,基本的に言って)奇妙でも,不思議でも,或
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は矛盾,「混乱」……でも何でもない 自明・理の当然,ということになる。
樫山氏の言う。
「……ラッソン第3版には,『第1部,意識の経験の学』とは別に,更に1頁前に,1.
Wissenschaft der Phanomenologieという表題だけを掲げた頁が挿入してある。これら のことを思い合せると,表題に関してヘーゲル自身が混乱していたのではないかという疑 いが起ってくる。そこで,これについて諸家の間で,最初は『意識の経験の学』という表 題の書物を書こうとして出発したが,途中で内容が変り,『精神の現象の学』を思いつき,
最後に『精神現象学』となったのではないか,ということが言われているd
而して,このことは,本稿の立場からすれば,「最初は『意識の経験の学』という表題 の書物を書こうとして出発した」と言うより,むしろ,我々の認識過程として,その最初 は(ヨリ厳密には,その導く・展開の過程を含む全体の前半が),「意識の経験の学」なの
である。
筆者の謂う。
「我々における最初の出発は, 意識 においてであるd ヘーゲルの言り。
「真理は全体である。……全体とは,自らの展開を通じて,自らを完成する実在のこと に他ならないd(『精神現象学』序論)
それを,哲学について体験(哲学的思索)で示し得た人 それこそ,ヘーゲルその人 に他ならぬ。(ヘーゲルの斯かる固有のやり方,たとえば,彼の『哲学史講義』における 所謂「ずらして組合せる技法」については,拙稿「経済学説史の方法 経済学の現状に ついての批判と展望のための(補遺)」,経営と経済,第63巻第2号,参。)
「絶対者は本質的には結果であり,終りに至って初めて,自ら真に在る通りのものとな るd(ヘーゲル『精神現象学』序論)
一つの認識一つの概念の形成 それが一朝一夕に成るものでないことは,自明とさ え言い切って差支えない,のではないか。ヘーゲルの『精神現象学』の成立(弁証法的成 立,必然的な)は,まさしく,その一典型(可能性,諸契機Momentによって媒介され
る)である。( 意識 から始まる 筆者自身の「現象学」の簡単なスケッチについては,
拙稿「前掲論文(2)」,前掲雑誌,第62巻第1号,参。)
如上の考慮の下に,或は斯かる前提の上においてこそ,樫山氏の次の記述(本稿の如上 の立場からすれば,氏自身その意味するところを真に自覚的に把握し得ていない と見
られるところの)は,それ自体,説得力を有するものとして,その総全部を,正しく解釈
し得る。
即ち。
「……『緒論Einleitung』の前に『意識の経験の学』という扉のようなものがあるのは,
初めて原稿を印刷に出す時に,この内容のものを書く心算であったこと,又ここから始 まっていたことを意味するというのである。が,出来上った『現象学』では,『緒論』の 前に別に『序論Vorrede』がつけられ,『意識の経験の学』より以上の内容(精神,宗教
〔但し,理性的宗教 筆者〕,絶対知)が含まれている。そこで,初めには,『緒論』以 下の僅かの部分が印刷に廻され,後を書き続けている内に,気が変って〔?〕『意識の経 験の学』より広い内容のものを付け加えることになったのではないか。そのため出来上っ た全体に対し新たに『序論』を書き,そこで『精神の現象学の学』となり,出版の時の扉 で更に変って『精神現象学』となったのではないかという解釈が出てくる。これらのこと から,一般に,次の二つのことが考えられている。初めこの書に取り掛った時には,『精 神現象学』という構想は,まだ纏っていなかったこと,更に『序論』は,全体が書き上げ られた後で,この書全体の立場を説明し,次に発表する心算の『論理学』との関連を念頭 において書かれたことの二つである。……『現象学』はヘーゲルにとって,その哲学的発展 の歴史を公にする道であったのであって,完全な体系〔それ自体・一般的な意味での,静 的〕を示すものではなく,むしろ経て来た道〔としての,いわば過程としての体系,動的〕
を示すものであるd(傍点筆者)
ともあれ,我々が斯かる表題自体の問題から離れたとしても,ヘーゲルにおける概念
(学的概念,「学の体系System der Wissenschaft」)が,そのスタートにおいては, 意 識 (感覚的確信,知覚,悟性)のうちに捉えられ,一定段階を経ることによって,やが て, 精神 (理性)の高みに昇り得た結果のものであることを,我々は改めて確認し得る のである。
我々のアジア概念においても,全く同様である。(因みに, 経済政策原理 は筆者の担 当科目の一つであるが,筆者は「政策」を「ヨリ意識的な行為」と規定している。)
我々の インテリ の頭脳における内容物よろしく
「何の意味もなく集めたもの〔感覚的・偶然的なもの〕は,ただの掻き寄せに過ぎない。
人と物との間に心〔こころ〕が通うようになるのがよい蒐集である。そのためには,美し い物〔真・善・美 我々の場合は,一般的なもの・真理〕を選ぶこと,そして,集める 物に統一〔体系〕を持たせ,きちんと整理すること,……理想〔目的〕……d
これは某大衆・短篇小説中の一節である。我々が,そしてヘーゲルが考えていたことも,
斯かるイメージの将外に,さほど出るものではない。むしろ,基本的には,同じであると さえ言ってよい。
「彼も人なり,我も人なり,ではないかd(J.G.フィヒテ『人間の使命』)
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「私の考えは,体系そのものが叙述された時に初めて,是認されざるを得なくなるよう なものである。そういう私の考えによれば,大切なことは,真理を実体Substanzとして だけ〔B.d.スピノザにおける如く〕ではなく,主体Subjektとしても理解し,表現す るということである。……生きた実体は,実際には主体〔内的〕であるような存在である。
…… タ体は,自己自身を措定する運動〔自己運動Sdbstbewegung〕,自己が他者となる ことを自己自身と媒介〔自己媒介〕する働きである限りでのみ,実際に現実であるような 存在である。〔加えて, 矛盾(否定) を考慮するヘーゲルの場合,特徴的なこととして 〕実体は主体としては,純粋で単純な否定性である。であるからこそ,単純なものを 二つに引き離す,つまり対立させて二重なものとする。この二重作用が,二つのものの無関 心な違いと対立〔所謂 自己疎外 〕を更に否定する。真理とは,このように自己を回復す る相等性〔自己回復〕,もしくは早手において自己自身へと復帰〔自己還帰〕すること,に 他ならないのであって,本源的な統一そのもの,つまり直接的な統一そのもの〔カント,フィ ヒテ,……F.W.J.v.シェリングにおける如き〕ではない。真理とは,自己自身が生成〔自 己形成・自己展開〕することであり,自らの終りを自らの目的として前提し,始まりとし,
それが実現され終りに達した時に初めて現実であるような,円環Kreisであるd(ヘーゲ ル『精神現象学』序論。筆者における 認識の円環的発展図については,前掲論文,参。)
「自己運動……自己自身のうちに運動の源泉をもつ,内的な必然的な運動。ヘーゲルの 弁証法の思想を継承し,弁証法的唯物論では自己運動の源泉は事物〔精神でなく〕に内在 する矛盾であると考えるd(広辞苑)
「矛盾は,あらゆる運動と生命性の根源であるd(ヘーゲル『大論理学』)
一つの概念が,従って又同じことであるが 一つの学Wissenschaftが,可能である 根拠は何であるか。
ヘーゲル,殊に『精神現象学』において,一つの学,即ち彼の哲学は何であるか。
意識 自己意識 意識の自己展開(展開Entwicklung)……,それ自体が,そのま ま,概念,乃至学でないことは明らかである。自己運動……自己形成,自己展開,自己還 帰が,学の次元に高められ得ることによって,その揚句,それが可能となるのである。
主体における自己形成一教養Bildung,殊に哲学・歴史的なものを中心とする教養。
一個人に限定された意味での教養も……。
「教養……単なる学殖・多識とは異なり,一定の文化理想〔目的〕を体得し,それに準 じてあらゆる個人的精神能力の統一的・創造的発達を,身につけていること。その内容は,
時代や民族の文化理念の変遷〔歴史〕に応じて異なるd(広辞苑)
斯くて,一見,脱線するようであるが(その実,本稿において既に自明の事柄であるが)
一ここで,更に一つのヒントがプラスされる。概念,乃至学は,宿命(必然)として,
段階・歴史をもつ 歴史的であること,これである。
樫山氏は訳書『精神現象学』「解説」において,次のように言う。
「……自己形成が,それを果した人の,人間としての『大きさ』や『深さ』によって,
一時代や一民族や一個人やを超えて『世界大』のものであるとしたら,それを語ること自 体が,重要な意味をもってくる……。……哲学はやはり,意識の自己展開を措いて,人間 の自己形成を措いて,別にあるわけではない。それでもやはり,自己形成が学の場に高め られなければ,哲学ではない。人間の自己形成の過程と言えば,人間の歴史である。……
個人のそういう体験が,そのまま学なのだろうか。……学というからには,個人というよ うなことを離れて,普遍的でなければならないからである。……そう考えてくると,意識 の展開や自己形成が,同時に学でなければならないということの中には,三つのことが含 まれていると言っていい。それは,個人と人間一般と学である。……哲学は学である……。
…… サれは先ず何よりも体系でなければならない。・・…・個人が自己形成を行うこと,歴史 が展開すること,しかも同時にそのことが,哲学という学の場で語られねばならないこと,
この三つが一つに組合され,統一ある全体となって展開されるというようなことは,容易 ならぬ難事だと言わねばならない。……そのためには,個人の自己形成は個人であると共 に,人類大のもの,世界的なものでなければならない。又歴史は人類の歴史であって,同 時に,個人の自己形成に通じているものでなければならない。つまり,その歴史において,
同時に個人の『こころ』にじかに響いてくるものでなければならない。そして同時に,そ れは,哲学的体系として組立てられていなければならないd
樫山氏のそれに照応すべく,筆者は,以前,(別々の2篇において,夫々)次のように 書いた。
「……概念は体系として在る……。……換言すれば,概念は(真理として)体系あって の概念である。…… ヘーゲル,彼はそれを歴史の視角,即ち 哲学的歴史,歴史哲 学 の視点より発展させたd(拙稿「アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合(1)」,東 南アジア研究年報,第22集。)
「……個性(個別性)なくして世界はあり得ない。斯かる場合,その個性は,その精神 的含蓄,乃至その精神そのものが,〔一個人,〕一国家,一領域に止まらず世界全体を,し かも,(少くとも)その一時代を支配し得るという意味において,(語弊なくば )個性 は,ヨリ強力な・優越した精神(の存在,必然)ということが出来よう。たとえば,マッ クス・ウェーバーが次のように言った時,彼は斯かる精神的優越(その役割・機能)を,
一個性〔一個人〕としての 天才 に託したのである。即ち,曰く。『科学的な天才が研 究対象に関わらせる価値は,一つの時代全体の「見方」を規定する。』……世界に通ずる 普遍性・客観性(としての民族性,個性)……d(「前掲論文(2)」,前掲雑誌,第23集。)
樫山氏によれば,『精神現象学』について,それが何を語ろうとしたのであるかという
問題に対する答えとして,たとえば,次のような二つの考えがあると言う。
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「一方には,最も低い単純な意識から,最も高い複雑な意識に至るまでの,全意識の展 開を説いたものだ,とする考えがある。又一方には,意識を通じての人間の自己形成を,
段階的に語ったものであり,その意味で教養を通じて人間が完全な意味で人間になること を,説いたものだとする考えがある。だからそれは,ゲーテの『ファウスト』に比すべき もの,ベートーヴェンの『第九交響楽』に比すべきもの,だと言われ得るd
このような考えが,(基本的に言って)如何に的を外れたものであるか と言うより,
むしろ,(木を見て森を見ざるところの)如何に局所的・小乗的な見解であるか,が批判 されねばならぬ。
我々にとって大事なのは,『精神現象学』自体が我々自身にとって何であるかを問う前 に,少くとも,それがヘーゲルの哲学にとって何であったのか,而して後,ヘーゲルの哲 学が全体として我々自身にとって何であるか,が問い直さなければならぬ。
加えて,『精神現象学』自体が我々自身にとって何であるかを問う際に,同時にその間 の基底に,予め,我々の世界そのものについての その全体としての問が用意されてい なければならないのである。
まして,ゲーテ,ベートーヴェンを云々するが如きは,比喩としてはともかく,実際は,
問題の本質を逸した荒唐無稽の考えと称する外ない。
ヘーゲルの『精神現象学』 それは端的に言って,何より,一つの認識,一つの概念,
一つの学(学問,科学)の成立の経緯・道程・条件(学以前,一般的に言って)そのもの を問うたものである。(そのことは同時に,ヘーゲルによる彼以前の一切の哲学・哲学史 に対する反省 否定・限定としての批判が行われることを前提する。)
と同時に,可能(性,学の成立・学以後の)としてのその一つの完成(即ち,ヘーゲル 哲学の創成,完成)を,文字通り一つの典型(模範)として,示したものに他ならぬ。
(と言うのは,ヘーゲルにおける完成そのもの,完成の典型として,他にも『エンチュク ロペディー』その他があるからである。)
従って又,たとえば,W。 Marx:Hegels Phanomenologie des Geistes, Die Bestim−
mung ihrer ldee in,,Vorrede und Einleitung ,1971.(邦訳『ヘーゲルの精神現象学』,
本稿同様「序論」乃至「緒論」を重視しているところの)においても,頻繁な問題提起の 一サンプルとされている如く 「『精神現象学』において,我々が取扱うものが徹頭徹尾
『意識の経験の学』であるのか,それとも『精神現象学』であるのか,乃至は,夫々は著 作の一部に対して妥当するものに過ぎないのか,それとも二つながらにして著作の全体に 対して妥当するものなのか」,と問うことは,本稿の立場からしては,むしろ,ナンセン
スとさえ称したいところである。
同じことは,樫山氏も問題にしているところの他の(実は,同巧異曲であるところの)
「精神現象学は『緒論』であるのかどうか,いかなる意味で『緒論』であるのか,『予
備学』(ガブラー)の意味においてか,『知の発生』(ヒンリヒス)の意味においてか,そ
れとも更に別の意味においてか,又精神現象学がそうであり得るためには『学』の形式を とらざるを得ないものであるかどうか,そしてそれは何故であるか,といった問題……そ の理念に即して絶対的で自己完結的な体系が,一般的に言って,『緒論』 もしかしたら 体系に属さないもの を許容するものであるかどうか,そしてもしも許容するとしたら,
この時ヘーゲルが意図した意味において,或は又,一般的な意味において『緒論』は一体 如何なる機能をもち得るものなのか,といった問題……『精神現象学』は,統一的に構成 し抜かれたところの著作であるのか,それともこの著作をヘーゲルは執筆中においてさえ 構想や分節化に関して変更しているのではないか,テキストは初めから終りまで一義的な
ものであるのか,それともテキストを通して 全く相違した第二の発端に基づいて もう一つ別のテキストが見出されるのではないか,……といった問題」……等々……につ いても全く同様である。
「今日,国際的にヘーゲル哲学研究,殊に『精神現象学』研究は盛んである」(W.マル クス『前掲書』,訳者「解説」)と言われるが,所謂 ヘーゲル研究家 (自分の考えよりヘ ーゲル,ヘーゲルより ヘーゲル業 というべきその職業・集団の利害が大切である 要するにヘーゲルの精神とは最も縁遠いところの)が,このような極めて相対的・些細な問 題で,しかも決定的なキー(主要問題解決の)を握らんとしているのは,我々をただ困惑
と混迷に陥れるのみである。
而して,本稿の立場上,真の問題として問題にしたいところは,就中,これらの考えの 殆どが,『精神現象学』が学以前(ヘーゲル固有の意義での,一般的な意味では勿論)の ものである可能性,「緒論」である可能性を,不当に不利に取扱おうとしていることにあ
る。
換言すれば,「現象学」(の本性,機能)そのものに対する偏見,曲解,これである。
「知が学であるという内的必然性は,知の本性のうちに在る。そして,この点について の満足な説明こそ,哲学そのものの叙述に他ならないd(ヘーゲル『精神現象学』序論)
現象学なくして学はない,どころか,学そのもの,乃至学の真の根拠は,現象学にこそ
ある。
現象学こそが,学の成立(の必然)を(更には成立以後をも),語り得るのである。
むしろ,現象学の問題そのものが,学(哲学)の問題でさえある。
現象学は哲学である。
言うまでもなく 学は決して,その初めから学であり得るわけではない。(パリは初 めから,パリではない。フランス人よ,傲るなかれ。)
而して,亜流における現象学(乃至現象論)の軽視こそが,従来,学の根拠 ひいて
は,学そのものを,甚しい場合は危殆(危機)に瀕せしめてきたのである。
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無論,このことが,大・小程度の差はあれ,学の活性化を計るべく批判(反省)そのも のを封ぜしめることは,言うまでもない。
もっとも,哲学における斯かる好ましからざる傾向は,他の分野 たとえば経済学に おいても,看過し難い一般的な事態としてある。
一例として,J.A.シュムペーターの『理論経済学の本質と主要内容』 その文字通 りの本質を逸したこれまでの軽薄な諸議論,そのすべてが,ヘーゲル『精神現象学』につ いての評価に関わる諸議論と同様,相併行するものである。(この項,拙稿「経済学説史 の方法 経済学の現状についての批判と展望のための(4)」,経営と経済,第62巻第3
号,参。)
の
シュムペーターの『経済発展の理論』からすれば,確かに『本質』はその緒論(所謂
「予備学」)的役割を担うものであろう。(シュムペーター自身,『発展』においてはそれ を認めている。)しかし,反面,『本質』においては,『本質』それ自体,一つの完成された 著書であること,更に重要なことは,『本質』なくして『発展』はあり得なかったことが,
殊更に,強調・考慮さるべきであろう。
そして,斯かるシュムペーターの『本質』以上に,ヘーゲルの『精神現象学』が完成度 の高い著書であること一「現象学」が基礎・基底・基盤(少くとも足掛り)となって可 能であるところの後の諸著書にそのまま連続し得るものであることを,我々は改めて確認 すべきであろう。
アジアは概念である。アジアは概念であってこそ,学の対象であり得る しアジア学 といったものも可能である。
樫山氏も,同氏訳『精神現象学』「解説」(「解題」に次ぐ)で,(ヘーゲルに倣い)次の よつに言つ。
「……哲学は厳密な意味で学でなければならない……。……哲学が学であるということ は,概念においてのみ,その現存の場を得るということである。つまり,真理は,概念の 場として展開し得る時にのみ,学たり得ると言うのであるd
「真理は概念においてのみ,その現存の場をもつべきであるd(ヘーゲル『精神現象学』
序論)
しかしながら,概念は直ちに(即自的に)概念であるわけではない。現象学(現象論)
の媒介(対自・向自を含む)によって段階的に,即ち,結局において 初めて概念が可 能となるのである。論理一論理学も,その揚句に漸く可能となる。
仮に,一方,ヘーゲル『論理学』,『エンチュクロペディー』,他方,『精神現象学』とが、
分たれ得るものとすれば,まさに,この点においてである。(前者においては,その最初
はじめ ことは
から 『太初に言〔ロゴス,概念〕あり』,である。)
従って又,樫山氏も言う。
「……ヘーゲル自身は,どのように考えたのであろうか。……普通,概念と言えば,諸 々の個別態を抽象した一般的なものとされている。その意味で,抽象の結果,それだけで 固定された一般者という意味である。……だが,ヘーゲルの言う概念はそれとは違う。
…… ゙しろ,そういう意味での概念を一契機〔特殊〕として,内に含んだものの意味であ るd
通常(の意味)の概念における如き,(本稿の最初での筆者の語法をもってすれば あ 内容 と 規定 C 形式 )との間の離反・懸隔(悪しきカント主義)は,絶えず批判
(否定)され,克服され,埋められねばならぬ。而して,不確定な,乃至不確定と考えら れる要素は,すべて拒絶されねばならぬ。
即ち,そこでは結局, 内容 と 規定 とは,一致しなければならぬ。そしてこその,
概念である。(即ち,概念=実在。)
「自らの存在において自らの概念であるという,存在するもののこの本性のうちにこそ,
一般に論理的必然性が存立するということが在るd(ヘーゲル『前掲書』序論)
我々の学は,通常我々(凡庸な)が予想する如き 単に我々の偏頭,或は又単なる感 性・悟性によって,いわば(半ば,実際的には),恣意的・偶然的に確保されるといった
もの(不確定的・相対的なもの),では決してない。
むしろ,その実,我々における内的必然性(知の,存在の)は,(第一級の知性に窺わ れる如く)それ自体絶対的なものである(と,筆者は考える)。
無論,その究極においても又,絶対的である。
しかし,そこに至る道程(過程)は,如何に長く,困難な 遠すぎた橋 であるか。
「教養の長い途……精神が知に達するための豊かで深い運動……d
「このような,学一般の,つまり知の生成こそ,精神現象学が述べるものである。初め
コ エセインテリ
に在る通りの知,つまり無媒介な精神〔たとえば,亜流・凡庸における場合〕は,精神の ないもの,感覚的意識である。本来の知に成るためには,言い換えれば,学の純粋な概念 そのものであるよう……知は,長い道程を通り抜けなければならないd
「……我々は,この道程の長きに耐えなければならない。と言うのは,この道程の契機 のどれもが,必然であるからである。……我々は,どの契機にも足を止めねばならない。
と言うのは,各々の契機は,夫々個的な纒まった形態をとっているからであり,各契機の 規定が一つの全体〔絶対的・自己完結的体系〕として,つまり,具体的なものとして,或 はその規定の固有の姿における全体として考察される限りでのみ,各契機は絶対的なもの
と考えられるからであるd(ヘーゲル『前掲書』序論)
そのためには,我々の主体としての 意識 は,意識(ヘーゲル『精神現象学』の所謂
「感覚的確信」,「知覚」,「前生」)を超え,確たる理性,即ち 精神 へと,発展,転化
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せねばならぬ。
と同時に,(単なる)表象から(確実な)実体・存在の深みへと,究められねばならぬ。
も
……個人,即ち我々自身(自己)によって。自己を普遍(性)へと高める努力・所謂
「意識的な努力」(シュムペーター)……(主体性),ヘーゲルの所謂「自己意識」によって。
絶対知・絶対者へと至る 我々の中におけるごく少数者,……偉大なる個人,個性
(天才,ヘーゲルの所謂「英雄」,筆者の所謂「百年に一人或はせいぜい二人か三人とい った」),その本領の発揮されるのも,まさにこの過程,斯かる意義においてである。
意識 から 精神 への(急峻,長く・困難な)階梯を登り得る特別の個人……。
もっとも,ヘーゲルは(同問題に関わる彼の『哲学史』「序論」における言及と同様),
むしろ逆説的に,次のように言う。
「……精神の一般性が非常に強まり,当然のことながら,個別性がそれだけどうでもい いものになっており,又一般性がその全き広がりと,形成された豊かな内容を固執し,こ れを求めている時代には,精神の仕事のすべてにわたって,個人の働きに関ってくる分け 前は,僅かでしかあり得ない。そこで個人は,学の性質からいって既にそうなっているよ うに,一層忘れられざるを得ない。なるほど個人は,自分に出来るものになり,自分に出 来ることをしなければならないにしても,個人に求められるところは一層少くならざるを 得ない。又個人も自ら多くを期待したり,自分のために多くを求めたりしてはならないd
(『精神現象学』序論,結論。)
再言しよう。誤解されてはならない。ここで要請されているのは個人も個人,世界全体
(客観的な)をも覆う偉なる個人 ヘーゲルの所謂「世界史的個人」なのである。
もちろん,就中,今様の 独断と偏見 に満ちたプチな凡庸 その低次元・特殊な主 張としての唯我論・独断論の類と混清されることが,厳に戒めらるべきこと,言うを侯た
ない。
閑話休題。
他方,樫山氏は,筆者同様(正しくは,ヘーゲル同様) 形式 と 内容 の語を用い つつ,些か比喩的に,次のよっに言っ。
「ヘーゲルの言う概念とは,表象乃至よく知られたものから思惟されたものへ,更にこ のものから概念へという道程〔筆者の所謂「過程」,弁証法的な〕を,その中に含んでい る・・:…。……表象から思惟へというのは,普通,悟陛〔自然的・自然科学的な,カントの 所謂〕の立場において行われることである。だから,ヘーゲルの言う概念とは,この悟性 の立場を一契機としてはいるが,それを超え,それを含んだもの〔ヨリー般的な〕である。
もともと,悟性は,抽象作用をするものである。ということは,分割〔或は,分析〕とか
固定とかいうことを行うことであり,その結果生きたものとしての定在Daseinが,その
生命を奪われ,否定され,死んだものとされてしまうことを意味する。そこで,悟性を一
契機とするということは,悟性の殺してしまったものを,そのまま捨てて顧みないのでは
なく,それを尚且つ生かす道はないかと,考えた結果なのである。普通の場合は,悟性の この固定面(形式)をそのまま真と認めて,それから先に進まない。が,それが定在の死 であると見るところがら,その死(否定)を見つめて,それを乗り超えて,逆に生かす道 はないかと考えているわけである。『精神は,否定的なものにまざまざと直面し,これを よく見ることによってのみ,絶対分裂の中に自己を見出す威力である』……。否定的であ るのは,例えば,形式を形式として固定〔分離独立か〕させるため,形式が内容と分離 し,分裂に陥ってしまうことからくる。そういう悟性による形式の固定を,その逆の面で ある内容との関聯において,生かしていく途はないかと考えるわけである。だから,内容 を否定して形式を固定させることから,この否定を避けずに,この否定を通って,形式と 共に内容を生かし,復活させる途〔概念→実在〕はないかと,考えるわけであるd
カント的なものとヘーゲルとの比較 カントとヘーゲル両者の比較・対照について,
「体系」という視点から,筆者は先に,次のように書いた。
即ち。
「近代的意味における体系(の問題) それは周知の如く,1.カントによって提起 された。『(近代的な意味における)学問の古典的定義は,周知の如くイマヌエル・カント が与えた。即ち,彼は,原理によって整えられたる認識の全体として,これを形式的に規 定したのである。学問は如何なるものでも一カントによればそれ自体として,一つの体 系である。それは,諸々の原理によって立てられなければならぬ。それは,いわばそれ自
コ コ ロ む
身のために存する建物である。』…… ヘーゲル,彼はそれを歴史の視角,即ち 哲学 的歴史,歴史哲学 の視点より発展させた。 新たな整序(如上の諸条件を極度に集約 させたところの,しかも 矛盾 を体系に持ち込む独創によって)を行った。〔カントよ りの前進 ヨリ一般的なものの希求,乃至カントの改革。〕そこでは〔行き着くところ,
結局において〕〈概念(観念)=実在〉でさえある。〔 一つの(主観的,近代的主観の)
形而上学の主張。〕『ドイツ観念論哲学はヘーゲルの手で最後の体系的な形をとった。……
そく
ヘーゲル観念論は〔全体としての〕世界を〔即〕一つの体系と見ようとする試みである。』
一…『ヘーゲルは〔カントを超え〕体系的な思惟を絶対化した 「真理が存在する真の姿 は体系的思惟たり得るのみ」,と。』(「アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合(1)」,
東南アジア研究年報,第22集。傍点は今回追加。)
ヘーゲルが『精神現象学』「序論」(「緒論」と本論を書き終えた最後に書いたもの 実質上の結論とも,本論としての彼の学説の当然導くべく学説・学説史要ともとられるも の)において,スピノザ,フィヒテ,……シェリングなどと共に,カントをも批判せざる を得なかった所以である。
ヘーゲルは,同書において,まさしくカントを超克せんとした(か,超克した)。即ち,
ヘーゲルにおける彼固有・独自の哲学・「哲学的思索」(殊に「現象学」,哲学の諸前提を
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問題とする・ 哲学の哲学 であるところの)新しい創成・主張が,彼以前の古い哲学諸 派全体(哲学史, 古典 )に対する批判(反省,ヘーゲル哲学への発展の内的必然性)と
して結果した,と言うべきである。(同様のものとして たとえば経済学,殊にマルク ス,ケインズにおける「古典派」の定義,批判の方法を想起せよ。)
本稿の以上の叙述(ヘーゲル『精神現象学』の哲学的立場の位置と意義についての)よ りして ヘーゲルが,その『精神現象学』「序論」において,彼以前の哲学諸派,就中,
近世哲学史上の三つの代表的な哲学諸派(スピノザ派の実体哲学,カント派の自我哲学,
シェリング派の同一哲学)に対して如何なる批判(対決)を行ったかは,(それら三つの 哲学に関する最小限の予備的知識さえあれば)全く自然な意味で自から明らかと言わねば
ならない。
以上における筆者の立場からして,(樫山氏のそれより)はるかに都合よく,且つ要領 がよいと思われる 許萬元氏の『精神現象学』についての紹介(『哲学の世界』,高峯一 愚監修)を,(筆者の若干の註をまじえ)援用しよう。次の如くである。
「ヘーゲルによれば……三つの立場は,近世哲学史上の基本的な3段階〔過程,歴史的 な〕をなしている。これらの三つの立場に対して,ヘーゲルは次の様な欠陥を見出した。
第1のスピノザの実体論には,思考する人間〔主観主体〕の優越性が正当に位置づけら れていない。第2のカント派の自我哲学においては,なるほど思考する人間の立場が中心 に据えられてはいるが,しかし,その思考〔形式〕は客観的実在である物自体〔内容,実 体〕から分離されたため,無内容な先天的形式主義に陥っている。そこで第3のシェリン
グ派の同一哲学においては,主観と客観との同一性の立場が真理として打出されたが,し かし,その真理は,恰も『ピストルから弾丸が発射されるように』芸術的直観〔理性,概 念によってではなく〕によって端的〔無段階,無発展一静的〕に把握されるものと見倣さ れ,哲学は芸術へ変えられてしまった。 以上が近世哲学史上の三大潮流に対するヘー ゲルの批判の要点であるが,これらの批判的克服の問題に対応して,〔自明ながら 〕 ヘーゲル自身の次の様な三つの積極的な解答〔その実,ヘーゲル学説自体の創成をもって
したところの〕が定式化された。第1に,スピノザ主義を克服するためには,絶対者は単 に実体ではなく,同時に主体でもある,と見倣さなければならない。つまり唯一絶対者た る実体(同一性)は静的実体ではなく,むしろ自己を世界(区別)として措定し,更にそ の世界(区別)に埋没せずに自分自身に戻ってくる〔自己還帰〕,という動的な主体でな ければならない。人類の精神の発展は,世界の中で絶対者は捉えてゆくものであり,従っ て,それ自身,絶対者への還帰〔肯定〕という意義をもつ。……こうして,思考する人間 の優越性も真に基礎づけられ得る,とヘーゲルは主張する。事実,ヘーゲルの『精神現象 学』は,絶対者の知識にまで向上してゆく人間の意識〔主観正しくは主観一客観〕の発 展を論述したものである。第2に,カント主義を克服するためには,ヘーゲルに従えば,
意識の発展が主客相即的なものと見倣されなければならない。つまり,意識とはもともと
何ものかについての意識として,常に対象との関係を含んでいる。だから,意識の発展に は,主観の発展のみでなく客観的な物自体の展開も又含まれている。……要は,絶対的他 者において自己との同一性を認識する,という点にある。〔所謂,概念=実在。〕これによ って,内容を欠いた空虚な先天的形式主義は克服される。第3に,シェリング派の芸術的 直観主義に対してヘーゲルは,『真理の現存する真の形態は学問的体系をおいて他にない』
という命題をもって答えている。真理とは端初と過程とを自己のうちに集約した全体であ って,これは厳重な学的〔理性的〕体系をもってしか表現されない。過程〔段階,世界に おける絶対に至る〕を抜きにして結果だけを直観しようとしても,決して真理は捉えられ はしない。過程の必然的結果としてのみ真理は把握されるのである。……」
「体系なしに哲学するということがあるとしても,それは何ら学的なものではあり得な いd(ヘーゲル『エンチュクロペディー』)
筆者は,ここで,前に援:顕した次の言葉(研究年報,第22集)を,今一度,繰り返そう。
即ち
「ドイツ観念論哲学はヘーゲルの手で最後の体系的な形をとった。……ヘーゲル観念論 は世界を一つの体系と見ようとする試みであるd(B.ラッセル『西洋の智恵』)
「ヘーゲルは体系的な思惟を絶対化した 『真理が存在する真の姿は体系的思惟たり 得るのみ』,とd(H.ワーゲンフユール『経済学における体系的思考』)
「真理が現に存在する本当の形態は,真理の学的体系を措いて他にはあり得ない。」(ヘ ーゲル『精神現象学』序論)
斯様にして,即ち以上の如くして,『精神現象学』において確保された概念(体系),乃 至そのプロセスを前提とすること,更に『論理学』,『エンチュクロペディー』……等におい て補足・補正,完成すること,而して後,今後は,たとえば,アジア概念を文字通り歴史
(的現実・時代)における概念,即ち 歴史哲学 として展開するのが(即ち,内的論 理の展開一歴史),まさしく,ヘーゲル『歴史哲学』その他における主要課題となる。
その確実さの保証は 周り1 それこそ,一に,我々の精神現象学(の到達)が,予 め「真実の知」,即ち真理(絶対知)に基づいて機能していたか否か(換言すれば,〈批判〉
は,真に,確実に,厳密に 概念的に,なされた否か)に,懸かっている。
我々は,(先づ)我々自身をよく知り,(従って)同時に我々の素材をよく知ることによ
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って(のみ),真に知ることが出来る。
くら き
『さらば何を食ひ,何を飲み,何を著んとて思ひ煩ふな。……まつ神の国と神の義とを すべ
求めよ,さらば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。』
而して,それを逆手にとったのが, 他ならぬK.マルクスである。
彼の謂う。
「人間は・…・・自己の外の自然に働きかけて,それを変えるように,同時に自己自身の本 性を変えるのであるd(『資本論』)
83. 9. 29 〔未完〕