わが国における「世界史」理論の歴史(1)
一羽仁五郎の世界史理論一
有 田 嘉 伸*
(昭和62年10月31日受瑠)
A Historical Study on the Theory of World Historyり in Japan(1)
一The Theory of Goro HANI一 Yoshinobu ARITA
(Received October31,1987)
1.はじめに
わが国において,社会科に科目「世界史」が成立したのは,第2次世界大戦後の1949年 であった。戦前の中等学校における外国史の教育は,西洋史的な色彩の濃厚な万国史に始 まったが,1894年,・那珂通世による科目「東洋史」の設置の提唱がきっかけとなり,1902 年の中学校教授要目によって, 外国史は「東洋史」「西洋史」の2科目に分けて行われるよ
うになった。その後,大正デモクラシー期に,東京高等師範学校の斎藤斐章らによって,
「東洋史」と「西洋史」を融合して「世界史」とする構想が提唱され,附属中学校におい て一時実施もされたが,外国史教育の主流とはならなかった。1930年代以降の昭和ファシ ズム期に入ると,歴史教育は国史偏重に陥り,外国史は国史を明らかにするためにすぎぬ 外国史となり,皇国民練成のための道具と化していった(1)。
以上のように, 戦前における外国史は,研究も教育も,東洋史と西洋史の2つに区分さ れて行われできたため,世界史的な把握や研究はほとんど行われなかった。もっとも,戦 前においても,世界史と名づけた書物の出版がいくらかあったが,それらの多くは,歴史 哲学的な書物であったり(2》,西洋史中心の書物であったり(3),あるいは,日本の侵略と世界 支配を正当化する書物(4》のタイトルに用いられていた。そうしたなかで,1949年に成立し,
現在も社会科の科目として存在する「世界史」の構成理論の先駆とみなしうるのが,羽仁 五郎の「世界史の可能性と必然性」(1929)という論文である(5)。この論文は,同年,『転形 期の歴史学』(鉄塔書院,1929)という書物に収録,出版された。同書は,1933年以後出版
*長崎大学教育学部社会科教育教室
2 長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第11号
を禁止されていたが,1946年中央公論社より再刊された。本稿では,『転形期の歴史学』を 中心として,羽仁五郎の歴史理論と世界史理論を考察する。
2、論文の背景
『転形期の歴史学』には,「世界史の可能性と必然性」など6つの論文が収録されている が,それらはいずれも,1928年から1929年にかけて書かれ,雑誌に発表されたものである。
1929年といえば,ニューヨークのウォール街の株式の大暴落をきっかけとして,世界恐慌 が始まった年である。しかし,日本では,この恐慌が波及してくる前に,第1次世界大戦 直後の戦後恐慌があり,さらに1923年の関東大震災後の震災恐慌に加えて,1927年には金 融恐慌がお導?ていた。このような連続しておこる恐慌のなかで,労働争議・小作争議が 激化していた。羽仁五郎はこのような状況下で日本史の研究と科学的歴史理論の確立に努 め,これらの諸論文を発表したのである。それらのうち,直接世界史の理論について論じ たのは,r世界史の可能性と必然性」及びr唯物史観ζ発展段階の理論」の2論文である が,6つの論文は互いに密接な関連をもち,理論的な流れをもっているので,以下諸論文 に即して,羽仁五郎の歴史理論と世界史理論を検討する。
3.羽仁五郎の歴史理論
先ず,「反歴史主義批判」(6)では,19世紀に完成した文献学的歴史に反対して登場した文化 史的歴史と精神主義的歴史を,ともに批判する。文献学的歴史は,歴史の全体把握をあと
まわしにして,ただテキストの文献学的批判に終始した点と,歴史の確実性は相対的確実 さにしか過ぎないという歴史の確実性の偏狭な解釈の2点から批判され,かわって,文化 史的歴史や精神主義的歴史が登場してきた。
ところが,政治史に偏っていた文献学的歴史を批判し,政治・経済・宗教・美術など人
間生活の各部分を網羅し,その全体を対象とすべきだとした文化史的歴史は,その領域の
拡大の故に外的・内的無限性をもつようになりー,浅薄で,総合的関連のないものになって
いった。そうしたなかで,芸術的総合によって全歴史性の総合的把握を主張するものも出
てきたが,羽仁五郎は,芸術的総合は芸術であづて歴史ではないとし,こうして,文化史
的歴史を反歴史主義として批判する(7)。次に,総合原理を精神に求めるのが精神主義的歴史
である。精神的なものとは,人格・祖先・郷国を愛する心であり,ず特にとりたてて他に類
のない個別的なものを尊重する心である。精神主義的歴史の先駆に教会史があるが,神の
かわりに人格が,神の国のかわりに祖国がおかれた現在の精神主義的歴史は,人格主義的
傾向をもつとともに国民主義的・特殊主義的歴史に陥ってしまった。以上のように,文化
史的歴史は自らの総合の問題に衝突し,精神主義的歴史は自らの原理の問題に困難をみい
だし,両者ともそこに非歴的看ものをひきいれて反歴史主義に陥っている。では我々は文
献学的歴史に復帰すべきか,それとも新しい歴史的存在への転回をはかるべきか。羽仁五
郎は主張する。文献学的歴史は,19世紀のドイツ及びこれと共通する時代や場所において
は歴史性を主張することができ,存在理由があった。・しかし,今や文献学的歴史は有機的
成長を果たし,その時を生き終わった。したがって,我々は新しい歴史的存在へ転回する
必要があり,その歴史は,可能なる仕方において歴史性をみたすのみでなく,その根底に
おいて・「生および学問の現代的構造」の上に立ち,必然なる仕方において歴史性をみたす
ものでなければならない,と。この主張が,羽仁五郎の理論展開の最も根本的なものであ
る。
次に,「事実の選択と解釈一生の存在構造と史観一」(8)では,上記の「新しい歴史的存 在」というのを受けて,それでは「生の現代的構造」の上に立つとはどういうことかを,
事実の選択と解釈の関係を通して明らかにしようとする。
人間は,人問的原理によって事実を選択し,さらに,かれの特定な存在の現実によ,うて 特定な事実を選択する。その場合,事実というのは,一定の解釈を待って選択される。い いかえれば,事実の選択と事実の解釈は連帯していて,それぞれ別々ではない。さらにい えば,事実の一定の選択によって事実の一定の解釈がなされ,一方,その事実の一定の解 釈から事実の一定の選択が行われて,事実が集積してい く。そして,事実の集積の構造を 決定するのは歴史性であるから,事実はつねに現代的構造をもつ。したがって,歴史の領 域で新しい事実が提出されるのは,それによって詩や考証の新材料が見出されて,史的記 念物の保存が普及されるためではな、く,存在の現代的構造が新しい事実の選択となってあ らわれ,新たなる解釈を要求するからである。このように,事実の選択と事実の解釈の矛 盾の統一は,現代的存在構造に立つことにおいてのみ可能である。人間は有限的存在であ るが,かれ自身その無力と有限的存在の現実を確認し,その現実を全体的存在と交渉せし めることによって救済されることができる。現代において,極度の無力と有限的,非人問 的存在であることを強いられているのはプロレタリアートであり,そのことを理論的に意 識したプ白レタリアートのみが,その状態から解放されようとして,生の現代的構造を認 識し,解釈するこどができる。したがって,生の現代的構造の上に立つということは,プ
ロレタリアートの立場に立つことである,と羽仁五郎は主張するのである。
第3番目の「歴史学の方向および方向転換」(9)は,雑誌に未発表の論文で,『転形期の歴史 学』が編集される時に新しく執筆され,第3番目におかれたものである。この論文では,
従来の歴史学を検討・批判していくことによって,我々が目ざすべき新しい歴史学の方向 を探っているが,それはまた,プロレタリアートの立場に立つ歴史学の必要を再確認する ものである。 一
羽仁五郎はまず,啓蒙主義と相対主義を批判する。啓蒙主義は,それ自身に価値や真理 自体を見,自らを絶対的なものと主張する。したがって,啓蒙主義に至るまでの歴史や,
同時代に現れたまた現れているあらゆる学問形態を非価値,非真理として無視し,破壊し,
裁いていく。故に啓蒙主義は本質的に学問の歴史的必然を理解しないものである。また,
相対主義はどうかというと,それは,価値・真理とその現象形態というものの二者をそれ ぞれ孤立させて考える。しかし,現在をもその過去と同様なもの,並列されるべきものと する公平さそのものに欠陥があるのであり,ここでは,進歩は仮りの慰めにすぎないとさ れる。したがって,相対主義も本質的に学問の歴史を理解することはできない。
では近代歴史学とはどのような、ものであろうか。羽仁五郎は,それはブルジョア的社会 の性格によって規定されたブルジョア的歴史学である,という。それは,前期においては 人文主義に対する訂正として現れ,後期になると啓蒙主義に対する反作用の性格をもつよ
うになった。理 代歴史学は,その成立時,「人類」「世界∫「統一的確実」「全体的連関」の
4 長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第11号
把握をめざした。それは,ブルジョアジーの興隆期の,現実的社会関係に矛盾が激化して いなかった時代には,歴史観を間われることなく,純粋な学間的完成をめざして,現実を 離れて普遍妥当的に主張することができた。しかし,やがて,ブルジョアジーとしての発 展の終局に達し,現実的社会関係における矛盾が激化するようになると,本来現実批判的 であることにおいて生きてきた近代歴史学は,それがブルジョアジーに反逆することを悼 み,現実批判的であることを禁じ,本来の方向を転換した。即ち,現在または正しくは動 的将来的現在と関係ない過去,または静的過去を研究することをもって歴史学であるとし たのである。その結果,近代歴史学は客観的現実的基盤を失い,公共の関心を失ってしま うとともに,学問としての建設性積極的生産性を失い,青年歴史学生を古文書館や記録庫 に閉じ込め,精神的老衰状態に陥らせてしまった6ここにおいて,最初にめざされた「世 界」「全体的連関」把握の方向は,現実からの逃避,全体からの逃避の方向に転換してしまっ たのである。しかし,近代歴史学が,世界性,社会性,統一的確実性への方向を示したこ とは評価できるのであるから,その本来の方向を確かにするためには,新たなる現実的基 盤に立つ必要がある。それは,現存社会の一切の非人間的な生活条件の止揚によって,即 ちプロレタリア的全体的解放によって実現されなければならない,と羽仁五郎はいうので
ある。
第4番目の「個別的特殊性の幻想」(10)においては,民族及び文化の特殊性の問題を論じ,
歴史科学において何が特殊性をもつかについて,いくっかの理論を批判・検討している。
先ず民族の特殊性の問題については,ヘルマン・レヴィ(HermamLevy)の説を取り上 げている。レヴィは,第1次世界大戦後のアメリカの発展の原因をアメリカ的生産方法を 採用したアメリカの民族的特殊性におく主張に対し,2つの問題点を指摘している。第1
には,民族の特殊性の主張は,自民族の性格擁護のために他民族的努力を排撃する民族特 殊論的防禦主義に堕する恐れがあること,第2に,民族の特殊性に経済的なもののみに関 する性質を強制することによりその性格を破壊してしまうことである。レヴィは,民族の 特性が経済的諸要求と衝突することなく維持されるのは芸術であるという,その点で文化 の特殊性に信頼をおいている。しかし,羽仁五郎は,経済関係と文化との連関を無視でき ないとし,また,文化の特殊性の問題について,リッケルト(Heinrich Rickert)などの 主張を検討する。リッケルトは,文化価値が個別特殊性として歴史的概念構成の原理をな すと主張した。しかし,ここにおける価値は,神秘的主観主義的にのみ理解されたもので あって,この主張では,あらゆる建設的・実践的な科学にとって不可欠な法則性が全く拒 否されてしまっているのである。また,リッケルト以前のヨーロッパにおいて,例えば,
テーヌ(H.A.Taine)やフンボルト(A.Humboldt)は,文化個性と自然個性を等置し た特殊個別的文化価値を主張しているが,それは一種の自然崇拝教にほかならない。さら に,これらの理論から発展して,人種論や環境論も出てきたが,人種論は厳密な学問的規 定にたえることができるとは考えられない。また,環境論においても,環境は,地理的環 境も社会的環境も,人間を通して,即ち一定の社会的状態を通してその社会の成員に影響 を与えるのである。以上の分析から,1羽仁五郎は,歴史科学における特殊性とは,一定の 社会状態の特殊性であり,社会の発展段階の特殊性であると主張する。その故に,伝記や り
地方文化誌,国民史,文献的研究とは異なる一般理論史学の可能性もあるとして,世界史
的方法を示唆しているのである。
4.羽仁五郎の世界史理論
羽仁五郎は,以下の2論文で,これまで明らかにしてきた新しい歴史における方法,.即 ち世界史的方法について論じ,さらに,発展段階の概念について歴史的に分析していく。,
先ず,「世界史の可能性と必然性一エイチ・ヂイ・ウェルス批判 」(11)では,H.G.ウェ ルズ(Wells)著,佐野学・北川三郎訳『世界文化史大系』(1921)をめぐって,専門の歴 史家やマルクス主義者はこれを黙殺したにもかかわらず,大衆はこぞっでこれを読んでい
るのはなぜかということを論じ,それは,本書が世界史たらんとしていることによること を看取した。ところが,従来の批評家や専門家は,次のような理由から世界史の可能性を 否定し,本書をも黙殺してしまったのである。第1に,史料の過多,複雑,ぼう大さによ
る世界史の組織不可能ということであり,第2に,世界史的関連そのものの欠如の故に世 界史は不可能とする説である。これらの説に対し,羽仁五郎は次のように批判する。先ず 第1の点については,世界史が否定されるほど史科がぼう大であるということは,個別史 においても史料がぼう大であるということであり,個別史を不可能にするとともに,歴史 学そのものを否定することになる。そして,具体的な存在は必要にして十分な存在であり,
具体的な史料はつねに必要にして十分な史料である。故に,歴史的に認識しようとするも のには,つねに必要にして十分な史料が与えられるのだと羽仁五郎はいう。第2の点につ いては,そのように批判する人々が,唯一の可能にして必然的な歴史とする国民史や地理 的風土史観に対して,羽仁五郎は批判する。国民史に対しては,国家問の戦争の頻発など によって国民性そのものが不変ではないとし,また,地理的風土史観については,特に和 辻哲郎の『風土』にみられる考え方を批判する。和辻哲郎は,風土による文化の特殊性が 歴史の原理であると主張するのであるが,これは,すでに第4論文で否定した,民族と文 化の特殊性を前提として自らの支配を正当化しようとする帝国主義的国民史であり,反動 性そのものであると批判する。もしも,世界史的関連が欠如しているから世界史は不可能 だとするのなら,国民史や特殊領域史も不可能になる。なぜなら,あらゆる個人や地方団 体と交渉をつけたという個人や地方団体があるはずがないからである。世界史にとって唯 一あるのは,世界人が世界人であることにおいて有する交渉,即ち世界的交渉である。こ の交渉は,民族移動とか,戦争とか,外交,文化の影響などとは別のものである。日本の 音楽家は音楽家であることにおいてバッハやべ一トーベンとの交渉に生き,日本のプロレ
タリアートは世界人としてレーニンに対して密接な交渉を有するのである。
以上のように,羽仁五郎は,世界史の可能性を否定する2つの主張を批判し,ウェルズ の著書を,世界史の可能性を説くものとして評価しているが,次の3点において批判もし ている。第1に,世界史の端初があやふやであること。決定こそ断じて必要なのであり,
我々が世界人であるのは,我々の積極的行動性,社会的発展的な存在のゆえである。第2 に,歴史的変革や時代発展についての明確な分析・理解を行っていないこと。歴史を,端 初と終結と,また生成とそして没落との契機において,発展と変革との必然において理解 することが世界史家の正しい任務である。第3に,現代に対しても決定を避けていること。
「革命なき改良」の主張や「ユートピア」の描述は反動的性格を有する。結局,羽仁五郎
が主張する世界史の方法は,唯物史観による世界史,具体的にはマルクス(K.Marx)の
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『経済学批判』やエンゲルス(F.Engels)の『家族・私有財産および国家の起源』に示さ れている発展段階理論によらねばならないと結論している。
最後に,「唯物史観と発展段階の理論」(12)では,第4,第5論文で主張された発展段階理 論をクルト=ブライジヒ(K.Breysig)の主張に即して論じている。
ブライジヒは,世界史的連関理解の可能性について,先ず3つの説を述べ宅いる。第1 は,時間的年代的秩序による方法で,これは,一民族,一国家の個別史にはよいが,いく つかの民族の連関理解のための方法としては混乱がおきる。第2は,空間的秩序による方 法で,これは,第1の「時代」史観が顧慮しえなかったまたは切り離した事件を連関させ うる長所があるが,他方では,連関したものを切り離してしまう欠点がある。第3は,種 族による方法で,これは,先住地と移住地の区別や未開民族と成熟民族の混同などの問題 がおこる。以上3つの方法は,かつて,一定の時代と社会においては妥当な方法であった が,今や第4の方法,即ち発展段階説による方法こそが世界史の理論たるべきものである。
羽仁五郎はここで,ポリビオス(Polybios),アウグスティヌス(Augustinus),ヴィコ
(Vico),ブライジヒなどの発展段階説を検討し,それらの不十分さを指摘しながら,歴史 の現在性を理解することによってのみ歴史の全体性および発展性をとらえることができる とする。そして,羽仁五郎は最終的に,次のように唯物史観的発展段階説の理論の確立を 行う。その方法は,第1に,我々の現在を現実的に分析しかつ批判しつつ全歴史的発展を 必然的かつ客観的に理解する。第2に,経済的関係をもって政治的・法律的・宗教的・文 学的・芸術的等の歴史現象の全体的構造を顕わにする基礎的終局的機構として理解する。
そして第3に,経済的関係の歴史的弁証法的発展の特質にしたがって歴史発展段階を規定 する。このような発展段階の理論こそ世界史学の原理論たるべきだと主張するのである。
5.おわりに
羽仁五郎は,日本における科学的歴史学,マルクス主義歴史学の歴史理論の開拓者であ るといわれ,その歴史理論は歴史教育理論とも深く結びついている点にひとつの特色が あった。その彼が,すでに戦前,しかも1929年に世界史の可能性と必要性を主張したこと は重要な意味をもっている。しかし,世界大恐慌の波及と日本の軍国主義化・ファシズム 化が進むなかで,その主張は無惨にも押しつぶされてしまった。しかし,彼の理論は,そ の後の世界史理論の発展に大きな影響を及ぼし,特にマルクス主義の立場に立つ歴史家に とっては,羽仁五郎の提唱をいかに受けとめ,発展させていくかが重要な課題となった。
戦後になって,歴史学研究会は1949年の大会で「世界史の基本法則」をテーマとして取 り上げたし(13),1950年代の井上清の主張(14)や1960年代の遠山茂樹の世界史理論(15)も,羽仁 ノ 五郎の理論の発展として現れた側面がある。しかし,歴史学研究会は,1949年に社会科の 科目として設けられた「世界史」の構成については議論しなかったし,また,その後も,
マルクス主義の理論に忠実な「世界史」教科書は執筆されなかった。それは,やがて作ら れた学習指導要領(16)や教科書検定制度とも関係する問題であるが,理論とその具体化の問 題は,現在でもなお存在する古くて新しい問題である。科目「世界史」の成立とともに,
「世界史」をいかに構成すべきかという議論は非常に活発化するが,戦後の「世界史」理
論については,また稿を改めて検討したい。
・王侮侮﹂
(1)戦前の外国史教育の歴史については,満井隆行著『外国史の教育』(葵書房,1966),山本一成著「世 界史の構成に関する史的考察(1)(2)」(『歴史と地理』「世界史の研究」Nα80,81,山川出版社,1974)
などを参照。
(2)例えば,樺俊雄著「世界史の哲学」(同著『歴史的意識』,育英書院,1943)など。
(3〉例えば,坂口昂著『概観世界史潮』(岩波書店,1920)など。
(4)例えば,高山岩男著『世界史の哲学』(岩波書店,1942)など。
(5)羽仁五郎の世界史理論を,日本における世界史理論の先駆として注目した論文に,土井正興著「世 界史再構成の課題」(永原慶二・山口啓二監修『現代歴史学の課題,上』,青木書店,1971,土井正興 著『世界史の認識と民衆』,吉川弘文館,1976に再収)がある。なお,本稿における羽仁五郎の論文の 引用は,『羽仁五郎歴史論著作集第1巻』(青木書店,1967)によった。
(6〉『羽仁五郎歴史論著作集 第1巻』 P32〜P45
(7)これは,「歴史は芸術であり,信仰であり,歴史を生かすものは人の霊魂の力である」と主張した平 泉澄の考え方を批判したものである。
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