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陸掲南の交際論と政治像︵下︶

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陸掲南の交際論と政治像︵下︶

     目次

    はじめに

    第一章交際論の形成と政治像

     第一節結合とその課題       \

     第二節個人間交際と内政

     第三節国の間の交際と外政 ︵以上前号︶

    第二章.交際論の展開と政治像の変貌  ︵以下本号︶

     第一節 対外論における展開㎡

     第二節内政論における展開      ︑     −

     第三節交際論と政治像の行方

︑   おわりに      

        陸掲南.の交際論と政治像︵下︶         ︐      −    ︵都法四十四1︐一︶㍉二九七

(2)

二九八

第二章交際論の展開と政治像の変貌

 本章は︑前章で析出した陸掲南の交際論と政治像が︑日清戦争以降にいかなる展開と変容を見せたかを考察する︒

この時期は日本が本格的な大陸進出を開始するばかりでなく︑東アジアにおける列強の利権獲得競争が激化する時代

にあたる︒そのため︑掲南の議論に占める対外論および国際関係論の割合が増大し︑内政論も対外論との関連の下で        ユ  論じられることが多くなり︑本章の叙述もそれが中心となる︒そこではじめに︑掲南の対外論・国際関係論を分析す

る大まかな枠組を提示しておきたい︒

 まず︑交際と交際以外の関係︵非交際︶を区別しておく必要がある︒前章で述べたように︑国の間の交際は︑自国

だけでなく相手国もそれぞれ固有の文化をもつという点において世界文明の進歩という究極目標の前に対等の価値を

もつものとして承認し合うことを通じて獲得される相互尊重によって︑はじめて成立するとされる︒そのため︑こう

した関係に合致しないものはすべて交際という範疇には入らないであろう︒たとえば﹁弱肉強食﹂や﹁強者の権利﹂

といったことばで表現される︑弱小国の犠牲の上に成立する強国の利益を承認する議論がそれである︒ただし︑ある

国との交際を維持するために他の国を犠牲にする︵つまり交際相手として尊重しない︶ことも起こりうる︒

 次に︑国際関係に影響を及ぼす力を三つの類型に分類しておく︒前章の終わりで﹁現実力﹂に言及したが︑本章で

はこれをさらに軍事力と経済力に分節化する︒さらに︑これらと対比されていた﹁無形高尚の力﹂があった︒三つの

力はある目的を達成するための手段としても利用されるが︑その獲得自体が目的となることもある︒手段として利用

されるにとどまるか自己目的化するかは︑行使主体とその意図︑状況などによって左右されると考えられるが︑個々

(3)

    の力そのものに内在する相対的に独自な属性︵以下ではこれを力の論理と呼ぶ︶も大きな要因となる︒たとえば︑経済

    一力は経済的利益の最大化をめざす傾向が強く︑他の目的に役立つのは副次的な効果でしかない︒したがって︑経済力

    に主に依拠する場合には︑自国の利益をそこなうような行動に対しては抵抗力が働く︒軍事力の手段としての価値は

    それがコントロールされる程度によるが︑強制力である以上︑交際における相互尊重をもたらす可能性は低い︒﹁無

    形高尚の力﹂は自国文化への自負から生ずるものであり︑それゆえ他国文化の価値対等性の承認と尊重を帰結すると

 r  いうのが掲南の﹁国民主義﹂であった︒それぞれの論理からいえば︑交際論にとって最も好ましいのは﹁無形高尚の            力﹂であり︑次に経済力であり︑最も相容れないのが軍事力ということになろう︒

     力を行使する主体は単一ではなく︑主に政府と国民の二つに分けることができる︒ただし︑道義や道理などの非物

・  @ 質的な力は︑国内においても国外においても主に輿論どいう発現形態をとることによって現実化するとされる︒つま

    り︑この力に関していえば︑ある国の国民のみに限定するのは不適切であろう︒また︑政府間の外交は必ずしも常に

     いずれかの力を背景とし︑その論理にしたがって行われるわけではないが︑そうした場合についてはその都度指摘す

    ることとしたい︒

     以上はあくまでも分析のための枠組であり︑いくつかの限定が必要となる︒国際関係の様態︑力︑主体という各次

    元内の諸類型は理念型として提示したものであって︑それぞれの間に無数のバリエーションがありべ掲南の議論がい

    ずれかの類型に完全に収敏してしまうわけではない︒また︑複数の要素が同時に言及されることもある︵主体の問題︑

     は特にそうであろう︶︒その場合︑彼が相対的にどれに重点をおいているか︑そして相互の影響関係をいかに把握して

     いるかが検討されなければならない︒

      ある類型は別の次元の特定の類型と一定の親和性を有しているが︑その関係は排他的でも不変でもない︒たとえば︑

  ︑ ﹁   陸掲南の交際論と政治像︵下︶       ︵都法四十四ー一︶︑二九九     

(4)

      三〇〇

前章で検討した﹃国際論﹄は交際と﹁無形高尚の力﹂︑非交際関係と﹁現実力﹂の結びつきを強調し︑前者へのコミッ

トメントを日本の﹁国命﹂と把握したものであった︒しかし後にみるように︑経済上の相互依存関係が交際の基盤と

されることもある︒そればかりでなく︑政府による軍事力の行使によって国の間の交際を確保しようとすることも不

可能ではない︒       

 したがって︑ある特定の状況に対してなされた主張において︑掲南が各次元のどの類型に相対的に重点をおき︑類

型間の関連のうちからいかなる対応策を構想したかをそれぞれの時点において考察し︑それがいかなる意図のもとに

何をめざしてなされたのかを確定していく作業が必要となる︒そしてそれを彼の交際論と政治像という全体の枠組の

なかに位置つけ︑議論の変遷とそれがもつ意味を明らかにしようとするのが本章の目的で窪・

第一節対外論における展開

  日清戦争と朝鮮

 第六議会で対外硬派と第二次伊藤内閣が熾烈な攻防を繰り広げていたころ︑朝鮮半島では東学党が蜂起し︑南部一

帯を席巻しつつあった︵甲午農民戦争︶︒明治二七年五月三一日︑朝鮮国王高宗は蓑世凱に清軍派遣を要請し︑これに

対抗して六月二日に日本も混成一個旅団の派遣を閣議決定した︒掲南はただちに派兵に賛成し︑事態が日清戦争へ発

展した後も一貫して政府の対外政策を支持することになる︒

 彼は当初から︑派兵が清に対抗する目的を有していたことを承認する︒なぜなら﹁韓廷の清兵に依頼し清兵の韓地

に運動することは︑是れ直に清の勢力を高麗半島に偏重ならしむるもの﹂であり︑もはや﹁東洋均勢上坐視すべきの

秋鼻﹂ざるからであった﹇④五三五﹈︒また︑派兵した以上は居留民の保護だけでなく﹁利益及威力を図る鐵﹂が

(5)

 必要であるとする﹇④五三八﹈︒そして日清交戦以後は︑清国の野蛮性や東洋平和の維持など︑さまざまな議論によっ

 て戦争の正当化を試みている︒それはおそらく︑﹁和戦の利害を講究するに連あらずして︑唯だ国の一致を得たる其

 の事実を歓迎し﹂たためと思われる﹇三〇年﹁軍政と議会﹂⑤六三六﹈︒ただし︑その中で最も強調され継続的に主張さ

 れた派兵・戦争眉的は︑朝鮮の独立であった︒清による朝鮮の属国視が朝鮮の独立を危うくするものと捉えられ︑清

 の干渉を途絶して朝鮮の独立を確保することに日本の行動を弁証する最大の理由を見出していたのである︒それゆえ︑

 日本の勝利が確定し中国分割すら主張されていた二八年二月の時点で︑掲南は以下のように述べることができた︒

   国に文野あるは猶ほ国に盛衰あるが如きのみ︒文明の国必ずしも初より文明なるに非ず︑野蛮の国亦た必ずしも野蛮に終らん

   や︒凡そ建て︑一国を為す者は盛衰文野の差ありと錐ども︑皆な人類普通の能力を有せざるは莫し︒文なる者は之を存せよ︑ −

   野なる者は之を亡ぼせよとは抑ミ誰が命ずる所ぞ︒故に帝国は朝鮮国の独立を扶けんと決せり︒而して清国をば亡ぼさんと言

   ふ者何の理由に出つるか︒文野を以てすれば清は朝鮮よりも文明なり︒野を亡ぼして文を存せよとの西言に従はんと欲せば宜

   しく朝鮮をば扶けざるべし︒而して帝国の敢て之を扶くる所以は道自ら其の中に在り︒必ずしも文野の別を問はず︒﹇﹁清国に       

   諭すの議﹂⑤四五﹈

 結局のところ︑日清戦争は中華秩序にもとつく﹁清国の国是﹂︵‖朝鮮属国化︶が﹁全く我が帝国と相反﹂したために

 発生したのである︒このように︑掲南にとって朝鮮独立がもつ意味は︑清の朝鮮属国化政策を排し︑東アジアに相互

︐尊重を基盤とする国際関係を確立することにあった︒       ・

  ただ・し︑掲南の朝鮮独立扶植論にはもう一つ別の意図が付随していた︒それは朝鮮を﹁日本海の門扉﹂とみなし︑

 日本の独立確保のため列強に対しても独立可能な方を朝鮮につけさせ︑独立国として維持するというものである﹇④

 五四三﹈︒ここに︑戦争と並行して進められていた日本主導の朝鮮内政改革︵甲午改革︶を支持してゆく根拠があった︒

    陸掲南の交際論と政治像︵下︶   .       .︵都法四十四ー一︶ 三〇一

(6)

      三〇二

 もっとも︑掲南は甲午改革に対して全面的な賛意を有していたわけではない︒改革を通じて日本が追求したのは︑        朝鮮を保護国化することだったとされる︒それは︑日本の関与と保護の下に朝鮮の独立を強固にしようとする彼の主

張と重なる面がある︒しかし掲南の朝鮮独立扶植論は︑朝鮮を永久に日本の保護下に置くものではなかった︒彼が改

革の最大目的としたのは﹁重もに内乱に対し其の自治力を構成せしむる﹂ことであり︑﹁鴨緑江辺井に半島西岸に日        本帝国の軍隊を常に容受﹂しなければならないのは︑﹁朝鮮に自衛力あるに至るまで﹂としている﹇④六四一−六四二﹈︒

また︑政府顧問や警官・武官への日本人採用を要求してはいるが︑ただ﹁大綱﹂を﹁勧告﹂すれば﹁我れの朝鮮政府

に対する任務は麦に一段落を告﹂げるのであって︑﹁﹃独立の保否﹄は之を朝鮮官民の責任に帰し︑我れ直接の責任を

負ふべからず﹂と言う︒なぜなら﹁朝鮮亦た一の主権国なれば﹂である︒さらに掲南は﹁我が軍隊及び我が商民に特

別の便宜を与ふる﹂ことを韓廷に求めるが︑借款供与への言及はなく︑経済的従属化をめざしていたわけではないと

思われる︒少なくとも︑適切な誘導さえあれば朝鮮が自力で独立を維持していくことは十分可能と判断していたこと      ︵7︶ は間違いない︒

 もちろんこれだけでは︑実際に朝鮮が独立可能な力を身につけたときに日本が手を引くことを主張したかどうかを

判断することはできない︒しかし︑甲午改革の挫折とロシアの勢力拡大とによって︑彼の議論の行方を見定める機会

は失われたのである︒

 日清戦争期の掲南の対朝鮮論は︑以上のように交際の確立と日本の利益︵‖独立︶という二つの異なる動機を有し

ていた︒そして朝鮮独立のための改革が圧倒的な軍事力を背景とした日本の介入によって遂行されるとしたことは︑

早くも﹁無形高尚の力﹂を放棄せざるを得ない状況の到来と︑内治干渉を否定する﹁国民主義﹂からの逸脱を示して

いたということができよう︒

(7)

   ﹁北守南進﹂論       ︑

 では︑日清戦後の東アジア国際秩序とそこでの日本の進路に関し︑掲南はいかなる構想を抱いていたのであろうか︒

.二七年一〇月の﹁外政策﹂を中心に見てゆくことにしたい︒

 この論説でまず注目されるのは︑総論部分で﹁国際に於ける政事上及軍事上の向背は︑夫の通商航海に係る尋常の

.交際と必ずしも相ひ関せざる﹂と述べ︑政府間の交際を意味する﹁政治の関係﹂と国民間の交際を指す﹁通商の関係﹂

とを区別していることである﹇④六一二八﹈︒﹁通商の関係﹂はいずれの国民とも﹁均一に保つべき﹂だが︑﹁政治の関係﹂

は国の向背によって﹁交親の厚薄﹂を免れないという︒ただし︑﹁政治の関係﹂における親疎は﹁和戦の謂﹂ではな

い︒通商上の﹁尋常の交際﹂が保たれる以上︑﹁政治の関係﹂での対立は戦争にまで発展することばないからである︒

  ﹁外政策﹂で掲南が考察しようとしたのは︑戦争後に日本が﹁政治の関係﹂においてどのような﹁厚薄﹂をつけて・

°いくかということであった︒この﹁政策の向背﹂は︑基本的に主義と利益の異同によって決定される﹇④六四〇﹈︒そ

して日本の利益は﹁或は海より或は陸より東洋を侵略する﹂ことにはなく︑その主義も﹁或は商権を以て或は兵力を

以て東洋に専横を逞ふする﹂.ことではない︒むしろ二二強国の侵略専権を防逼する﹂のが日本の任務であり︑﹁徒

らに物質上の勢力のみに誇らずして人文の弘布を目的とする国﹂︑﹁東洋の民をして今世紀文化の沢を蒙らしめんと欲

し而して其の半開人民の無智に乗ずる専恣の所為を抑制せんと欲する国﹂との交親を厚くすべきであるという︒

 彼によれば︑﹁北方に於て防守的なるべく南方に於て進取的なるべ﹂きことが﹁帝国自然の向背﹂であり﹇④六四二﹈︑

日本の利益は﹁支那の南部に於ける海陸﹂での貿易交通にある﹇④六四三﹈︒そして﹁此の方面に於て充分なる保護力       ︵8︶ 即ち﹃威力﹄を駐め置﹂くために︑台湾占領の必要を示唆する︒これは日本人保護のためだけではなく︑中国南部に

通商航海上﹁専制力を駐むる﹂イギリスに対抗して通商関係を拡大する必要が考慮されていたからでもあった︒

   陸掲南の交際論と政治像︵下︶       ︐      ︵都法四十四ー一︶ 三〇三

(8)

       三〇四

 そして日本の主義は︑いうまでもなく東アジアにおける交際の確立にある︒これに対立する国として想定されてい

たのは︑おそらくイギリスであった︒掲南が別の論説でアヘン政策を取り上げて﹁東洋に在る英人は歴史上既に文明

人として疑ある﹂三一月﹁東洋の英国人﹂④六五八﹈と述べているように︑﹁東洋に専横を逞ふする﹂国に該当するの

がイギリスであることは想像に難くない︒逆に北方においては︑朝鮮の独立とシベリア鉄道を﹁亜欧間の国際的公路

に転用﹂することが﹁東洋に於ける永久平和の基礎と為る﹂と述べるなど︑宥和的な姿勢がきわだっている﹇④六四

二﹈︒以後彼は一貫して日露善隣を主張し︑シベリア鉄道よりもイギリス東洋艦隊の危険性をくり返し強調したので

ある﹇④六三九・⑤一二五﹈︒       ︑

 こうして掲南は︑南方においては政治・軍事によって﹁進取﹂をめざし︑北方においては政治上の交親を保つとい

う﹁政治の関係﹂における﹁北守南進﹂論を主張したのである︒これは︑利益の上でも主義の上でも日本と対立する

というイギリス認識を媒介として︑利益の拡大と交際の確立という使命とを結びつけたものであった︒そのため︑北︑

方に対してはロシアとの善隣を維持し︑朝鮮の独立を確保することによって﹁防守的﹂であることが要請される︒た

だ注意すべきことは︑その際に利益追求だけでなく交際の確立までが﹁政治の関係﹂における問題として把握されて

いることである︒すなわち︑それは主として政府の政治的・軍事的行動によって達成されるべきものとされたのであっ

た︒﹁北守南進﹂論を二つの関係に即していいかえれば︑南方では政治と軍事によって通商を促進するのに対し︑北

方では両者の関係が切断され︑政治においても通商においてもそれぞれ交親を深めるものと捉えることができる︒

  軍備拡張批判

 ﹁北守南進﹂論にとって最初の試練となったのは︑二八年四月の三国干渉である︒掲南は︑遼東半島を割取し干渉

を招いた責任が伊藤内閣にあるという﹁責任論﹂を主張し︑東京日日新聞︵政府の﹁御用新聞﹂とされていた︶の朝比

(9)

奈知泉との間で激しい論争を展開した︵責任論争︶︒彼が﹁責任論﹂にこだわったのは︑非責任論がロシアに対する国

民の敵憶心を高め︵臥薪嘗胆というスローガンはまさにそのあらわれであった︶︑ロシアを想定した急激な陸軍拡張をもた

らすとともに日露善隣にもとつく﹁北守﹂論を危うくするからであった︒そのため彼は︑国内における責任追及と同

時に︑﹁露西亜贔屓の評を甘んじ﹂﹇⑤二五九﹈て日露善隣を主張し続けたのである﹇⑤一二五・二〇八・二四〇﹈︒掲南

は甲午改革挫折後も日本単独の朝鮮独立扶植に固執していたが﹇⑤二六二﹈︑露館播遷︵二九年二月︶によって日本の

代わりに白シアの影響力が増大すると︑﹁日露裁力以て朝鮮の独立を助くるの策﹂によってロシアとの衝突を回避し

つつ朝鮮の独立を維持させようとした﹇⑤三三二﹈︒この路線は小村・ウェーバー協定︵二九年五月︶と山県ゴロバノ  ・        ︵9︶      フ協定︵二九年六月︶によって一定程度実現することになる︒

 興味深いことに︑﹁責任論﹂を否定して軍拡を推進しつつあった伊藤内閣・自由党を批判する過程を通じて︑︑掲南

の議論は﹁国命説﹂に再び接近していくことになる︒二八年九月の﹁均勢談﹂において彼は︑﹁偏重を嫌らふは自然

の本意にして偏重を救くふは人類の真道﹂であり﹁文明の大旨﹂であるとする﹇⑤∴九三﹈︒﹁偏重﹂とは﹁弱肉強食﹂

﹁優勝劣敗﹂を意味する︒そして﹁偏重﹂.を救うこと︑すなわち﹁強を挫き弱を扶くる﹂という﹁侠﹂﹁仁﹂を行うこ

とを﹁天職﹂とするものこそ国にほかならない︒国の﹁天職﹂は︑個人の間においても国の間においても﹁偏重﹂を

救い︑強弱の間に﹁平和﹂︑それもコ方が他方を兼併するに由りての平和﹂ではなく︑﹁二勢力の調和に由りて成立

する平和﹂を保つことであった﹇⑤一九五﹈︒      ︑ ︑

 ここでの﹁均勢﹂が︑朝鮮派兵の理由とされた朝鮮における清との﹁均勢﹂とは異なることは明らかである︒後者

は勢力の均衡を意味し︑軍事力の増強によつて達成されるものであった︒しかし﹁文明﹂としての﹁均勢﹂は︑強と

弱という力の不均衡を前提とした上で︑弱国に対する強国の﹁暴﹂が抑止されている状態を指している︒つまりこの

   陸掲南の交際論と政治像︵下︶       ︵都法四十四ー一︶ 三〇五

(10)

       ︐         三〇六

﹁均勢﹂論は︑優越的な軍事力・経済力によって弱者から利益を引き出すものでも︑ある国との勢力均衡を保つため

に他の国を犠牲にするものでもない︒さらにそれは自国の物質的な利益になるという観点から弁証されたわけでもな

かった︒﹁均勢﹂それ自体が価値を帯びていたからである︵以下ではこれを﹁文明としての均勢﹂論と呼ぶ︶︒

 国の間で﹁均勢﹂にもとつく平和を維持するために掲南が選んだ方法は︑﹁弱国は之を扶け︑敗国は之を済ひ︑而

して暴国の蚕食狼呑は成るべく穏和の手段もて之を摯﹂すことであった﹇二八年﹁西比利亜鉄道﹂⑤一二=︒そこで彼

が注目するのは︑スエズ運河やシベリア鉄道など世界的な交通機関の発達である︒﹁文明の利器﹂は今や﹁殆ど国々

民々の近接交親を促がしつ\あ﹂る︒そして政府︑自由党など﹁肉食の徒﹂が口にする﹁開国進取﹂とは本来︑﹁強

に阿諌して弱を凌礫するの謂にあらず︑自衛特立を保ちつs夫の人類統一の大勢に向ひて進むの謂﹂である︒それゆ

え﹁専ら自国の利益のみを標準として︑而して世界人類の交通に最便を与ふべき事業をも肯て有害視し︑之を妨げん

為に反て東洋の平和を乱だすの傾ある挙動は︑之を遠け﹂なければならない﹇⑤一二五﹈︒ところが彼らはこうした

﹁理想﹂をもたず︑交通の進展によって国の間の交親が深まるという﹁実勢﹂に通じていない︒そのため﹁嘗胆臥薪﹂

を言い︑﹁軍備拡張の急﹂を絶叫するのである﹇二八年﹁軍備拡張の声﹂⑤一八〇﹈︒伊藤内閣が立案した戦後経営計画       ︵10︶ は事実上︑償金と軍事公債の発行による約三億円という巨額の軍備拡張を主内容とするものであった︒軍備拡張計画

は二期に分割され︑第一期計画は第九議会︵二八年一二月二五日招集︑二九年三月二八日閉会︶において︑第二期計画も

第一〇議会︵二九年一二月二一百招集︑三〇年三月二四日閉会︶において政府案のまま承認された︒

 日清戦争中から掲南は戦争後の軍備拡張を予期しており﹇④五八四・六一九・六二三﹈︑特に海軍については﹁我の

海軍に力を用ゐたる︑国富の程度に於ては業に既に勉めたりと謂ふ可く︑其極に達したりと謂ふも亦不可なきなり﹂

としながら︑イギリス東洋艦隊の二倍の海軍力を保持すべきことを主張していた﹇二七年一二月﹁戦艦隊及商船隊﹂④

(11)

七〇二ー七〇三﹈︒これは︑前述したように︑南進にともなってイギリスとの衝突が不可避と考えられていたからであ       ︵H︶  る︒しかし︑二八年後半から徐々に軍備拡張に否定的な論説が目立ってくるようになる︒海軍拡張を支持したのは︑

管見の限り二八年九月の﹁今後の対外方針﹂が最後である﹇⑤二〇八﹈︒そこで︑軍事力認識の変化という観点から掲

南の軍備拡張批判の特徴をまとめておきたい︒

  まず目につくのが︑拡張が日本の経済力に比して過大であるという主張である︒﹁軍備拡張は国の歳入と相ひ適応

 すべき程度に在るべく︑又た国の歳入は民力を態らす無きの程度に止るべき﹂というのが掲南の原則的立場であった

 ﹇二八年七月﹁政論の激変﹂⑤一五七﹈︒歳出に占める軍備拡張費の割合が増大すれば︑軍備の活用に必要な施設のため         ︵12︶  の財源確保すら困難となり﹇⑤四二五﹈︑.通商航海の発達を促進することもできなくなる︒また歳出超過のために増税

案が第九議会に提出されると︑﹁斯の如く最下級人民の快楽を殺ぎ︑︐又た人情の忍ぶ可からざるをも忍びて︑尚ほ且

 つ戦後の経営を行はざるべからずとせば︑其の所謂戦後の経営なるものは︑果して国家の安危隆替に関する焦眉の急

務に属するや否や﹂という問いを発している﹇⑤三〇三﹈︒こうして軍備拡張計画の実行は︑財政と民間経済を圧迫し︑

彼の対外論の中心であった通商航海上の進為を阻害するものと位置づけられたのである︒そのため︑軍事力主導によ

 る通商航海の伸張という﹁南進﹂論は後景に退いていつた︒これは︑南方においても﹁北守﹂と同じ方針に傾いてい

 たことを意味している︒      °

  同時に︑軍備の目的が国の﹁進取﹂から国の防備へ変化する︒

   兵力不足なるが故に遼東を還附せりとの弁護は︑軍備拡張せば遼東を復取せんとの意義を含む者ぞ︒深憂を抱く者が当時早く  ・

   此の弁護説に反対し︑従つて此の拡張論にも反対せしは︑本と四彊防禦の不備を知ればなり︒﹇二八年一〇月﹁対外方針の説﹂

   ⑤二二二﹈

︐︑  ︐陸掲南の交際論と政治像︵下︶       ︵都法四十四ー一︶ 三〇七

(12)

      三〇八

﹁深憂を抱く者﹂に掲南自身が含まれていることは明らかである︒もっともこの論説では︑﹁四彊防禦﹂を完備した        ロ  あと﹁進取﹂のための軍拡を行うという含みが残されているが︑実際に拡張が進行するにつれて︑﹁軍備の事たるや

本と国家の凶変に備ふるのみ︑而かも民力を吸収して平和文明の業を妨ぐること少からず﹂と﹁防禦﹂目的への限定

が明確になってくる﹇三〇年一月﹁懐旧談新﹂⑤六五四﹈︒そして︑三〇年末には次のような立場に到達する︒

  吾輩は縦ひ財政に余︐裕あるも︑軍備費の成るべく少なからんことを祈る者なり︒吾輩は侵略的軍備に反対す︒攻勢的防備とや

  らいふ今の軍備拡張にも固より反対せんと欲す︒吾輩は先づ速かに島帝国の門培を固くせんことを主張すべし︒﹇三〇年一二

  月﹁軍備緊縮の解︵再び︶﹂⑤六四四﹈

掲南によれば︑﹁七師団の陸軍と十万噸の海軍﹂という拡張前の軍備でも︑﹁猶ほ以て帝国の四周を守るに難からざ﹂

るのである﹇﹁東洋近勢と軍備﹂⑤六三八﹈︒

 ﹁四境の防備﹂が﹁毫も国の向背の決と関係な﹂いとすれば﹇二八年一〇月﹁対露の方針﹂⑤二四〇﹈︑国の﹁対外進

為﹂は軍事力以外の手段によってなされることになるであろう︒掲南は﹁軍備を以て国威を張﹂るよりも﹁文明平和

の事業を以て国光を放つ﹂ことを望み﹇﹁懐旧談新﹂⑤六五四﹈︑具体策として万国大博覧会の開設や池辺三山︵鉄昆詣︶

が提案した﹁東洋第一の図書館及び博物館﹂の建設を主張した﹇二九年四月﹁戦後経営の闘典﹂⑤三四五﹈︒これらは

﹁教育及び学術に関する施設にして一個人の業に任かし難きもの︑凡そ国民の精神上に渉りて目前の利益と相ひ遠か

るもの﹂とされ︑自国の物質的・直接的利益への執着が戒められていることも注目に値する﹇⑤三四六﹈︒

 また︑軍拡が他国の政策に及ぼす影響も考慮される︒日本の軍拡は﹁中外をして益ミ不安の念を抱かしむ﹂﹇⑤三

四七﹈ため︑列強の軍事力増強を促して際限のない軍備競争に陥るであろう﹇二九年一〇月﹁軍備拡張論者﹂⑤四二四﹈︒        ロ  こうして軍拡は日清戦争によって東アジアにもたらされた﹁武装平和﹂の流行を拡大させ︑﹁文明平和の事業﹂の有

(13)

   効性をそこなうのである︒もし戦後経営が﹁平和的事業﹂を中心とするものであれば︑﹁三億万円の償金を挙げて第

   二の戦争を準備す﹂るという誤解を正し﹇⑤三四七﹈︑国の間の交親を深めることができる︒その結果として成立する

   であろう日露善隣は︑﹁露勢の南進を防ぐ﹂という﹁対露方針より来れる﹂今の軍備拡張の意味を失わせるのである

   ﹇三〇年一〇月﹁露勢南進に対する帝国の態度﹂⑨四九〇﹈︒交親の進展をみずからの対外論の基礎としつつあった掲南は︑

   日本の軍拡によってこの傾向が逆転することを恐れたのであった︒ところが︑この後すぐに東アジアは列強の利権獲

︐  得競争の舞台となってゆく︒

     ﹁支那保全﹂論

.   三〇年=月︑ドイッは宣教師殺害を口実として青島を占領し︑翌年三月には膠州湾を租借した︒同月ロシアが旅        入15︶    順と大連を租借し︑対抗してイギリスも威海衛を租借する︒こうした情勢は中国分割の危機が現実化したものと受け

   とめられ︑日本国内においても分割論と保全論との間で活発な議論が展開された︵伊藤一九九四第二章参照︶︒その中        ︵16︶    で掲南は明確に保全論の立場をとり︑国内の分割論と列強の動向とをきびしく批判したのである︒

    掲南の﹁支那保全﹂論は︑前述七た﹁文明としての均勢﹂論に由来する︒彼は東アジアにおける列強の行動を﹁各

   ミ﹃均勢﹄を名として人の土地を割き取り︑復た東亜に国する者を眼中に置﹂いていないと把握し三=年四月﹁均

   勢論﹂⑥五六﹈︑その正当化が﹁異人種の国は寛に文明世界の国たるを得べからず︑之を遇するに普通の交際法を以て

   するは寧ろ世界文明の大道に反す︒荷も機会あらば其土を削り其の民を抑へ︑以て吾等白人種国の支配下に置くを要

   す﹂という主張によってなされでいることを指摘する﹇﹁欧人対外の主張﹂⑥五八﹈︒弱小国を﹁犠牲﹂にするこの﹁欧

       ト    洲列強﹂の﹁﹃均勢﹄の談﹂﹇⑥五六﹈に対置されたのが︑文野の差を度外視して朝鮮の独立を助けた日清戦争の目的

   としての﹁均勢﹂であり︑その究極的な根拠もまた﹁自然﹂であった︒

      陸掲南の交際論と政治像︵下︶      ︵都法四十四丁一︶ 三〇九      ︑

(14)

      三一〇

    ﹁各国民を隔離﹂する﹁地理上の障碍﹂は︑﹁人類の諸団﹂をして﹁各ミ格段なる進歩を作さしめ︑此の地球上の処々

   に国民的特性を構成﹂した﹇三一年二月﹁世界文明の障碍﹂⑥二三﹈︒しかし交通器具の進歩はようやくこの障碍を排除

   し︑﹁今や世界は殆ど万国比隣の有様を現﹂じ︑﹁文化の交換亦た著しきを致﹂している︒そのため掲南は︑﹁東西人

   文の党に融和﹂して﹁物質上及び精神上︑世界各国民の間に於て最も深密なる一の﹃利害的聯帯﹄﹂が成立し︑﹁最も

   博大なる意義﹂における﹁文明進歩﹂︑つまり﹁人類一致﹂の域に至ることを確信しているという︒これは︑各国民

   が固有の文化を保持しつつ啓発し合うことが世界文明の進歩につながるという交際論のモティーフの再現である︒交

   際論は︑日清戦争後の状況においては﹁文明としての均勢﹂論によって主張されたのである︒

   ︒ところが︑﹁国民の自負心を過度に煽動して︑他の国民を凌辱するの風習﹂を生ぜしめる﹁政事家の功利心﹂とい

   う﹁人為的障碍﹂はいまだに取り除かれていない︒それはとりわけ﹁彼れ文明国民と自称する欧洲列国が︑他洲の国

   民に対して最も甚し﹂く︑﹁或は宗教の異同を以て︑或は人種の異同を以て︑他洲の格段なる進歩をも無視﹂すると

・  いう﹁世界大進歩の原則に反する﹂行動をとっている︒かつて掲南が条約改正を主張し欧化政策を批判したのも︑こ

   の﹁人為的障碍﹂を排除するためであったという︒なぜなら︑﹁自暴自棄して他に吸収せらる︑は︑世界の進歩を大

   成するの道に非﹂ざるからである﹇⑥二四﹈︒

    自然は国民的特性や固有の文化だけでなく︑国に﹁尽くすべきの天職﹂を与えた﹇三一年一月﹁政界漫言﹂⑥=二︒

   海洋国や大陸国︑強に誇る国や富を街う国︑中立国や平和国など﹁国各ミ其の傾向を異にするは︑是れ﹁自然﹂の命

   令に服従するもの﹂である︒ただし︑他国民を抑圧するのはあくまでも﹁人為的障碍﹂である︒﹁﹁自然﹂の法﹂は国

   際の競争も﹁亦た多少其の主義に於て﹂するものとさせ︑﹁強弱大小相ひ懸隔するも︑国各く其の分を守りて︑故な

   く相ひ侵さゴ﹂らしあるのである﹇⑥一二ー一三﹈︒その媒介となるのが︑﹁天下の公議﹂であった︒﹁強大国が檀に弱

(15)

小国を侵さゴる﹂のは︑﹁天下の公議を揮る﹂からである︒したがって︑﹁国際の競争を﹁自然﹂の法に従はしめん為

めには︑世界の交通を機敏にして︑天下の公議を発育するの必要ある﹂とされる︒

 このように︑中国分割の危機に際して交際確立の必要が﹁正義﹂や﹁道理﹂︑﹁道義﹂などの名において強い規範性

を帯びて主張された︒それは﹁自然﹂や世界文明の進歩に合致しているので正しく\正しいゆえに﹁天下の公議﹂と

なり︑自己を実現する力を備えているのである︒﹁無形高尚の力﹂への信頼と依存は︑ここに至って最高潮に達した        ロ  といえるだろう︒もちろん︑﹁列国の野蛮的行動に対する為めには︑此の所謂る実力を有用とする﹂と︑﹁兵力及び金         か﹂もあわせて利用されるとしている三二年四月﹁真正の文明国﹂⑥六一⊥ハニ﹈︒←かし︑﹁真正の文明国﹂は﹁実力

余りありと難ども︑檀に之を他邦に加へ﹂ず︑﹁実力足らずと錐ども︑不義に向ひて反抗する﹂のであった︒

ただし掲南は︑﹁東亜問題﹂の根源を﹁清国の未だ今世紀に対して﹃国﹄たるを得ざること﹂に求め︑﹁内治大制の

革新﹂を列国と共に﹁脅迫﹂し︑﹁聴かざれば列国の同意を得て直接に此の革新を仕遂ぐる﹂ことを主張して

馳﹇三年五月﹁支那内治の革新を促がすべきの議﹂⑥七四←五﹈・朝鮮の場合と同じく︑﹁独立扶植﹂は中国の﹁主権

の自由﹂に優先する︒交際論は﹁国民主義﹂との連関を稀薄にし︑逆に内治干渉を積極的に容認するものとなってい

たのである︒

 掲南が﹁不幸にして列国各ミ其の目前の利害のみを見て真に永久の平和を思はず︑却つて東亜大陸の禍乱を促がし

支那帝国の自新をば暗に不利とするもの\如し﹂と述べていることを考えれば﹇⑥七四﹈︑少なくとも東アジアにお

いては日本が﹁自然の法﹂に最も近い﹁天職﹂をもつ国と考えられていたことは明らかであろう︒では︑日本にそう

した﹁天職﹂を遂行する条件は存在していたのだろうかρ       ・

      /

陸掲南の交際論と政治像︵下︶       ︵都法四十四ー一︶ 三一一

(16)

三一二

第二節内政論における展開

  戦後経営批判と政治像

 すでに述べたように︑日清戦争の際に掲南は﹁国の一致﹂を歓迎していたが︵たとえば④六四五︶︑やがて第二次伊        れ  藤内閣・自由党と対立を深めていくことになる︒それは︑政策上の不一致と政治像の相違からくるものであった︒

 第一章で︑掲南は﹁国の進歩﹂のために﹁積極主義﹂を支持する一方︑国家の干渉を﹁社交的制裁﹂の及ばない範

囲で個人の自由を守り交際を確保することに限定し︑圧制を防止しようとしていたことを明らかにした︒前者の契機

に関し︑彼は日清戦争中から﹁兵政外政﹂より﹁爾余の庶政﹂を重視し﹇④六八六﹈︑戦争後には﹁実業社会﹂が﹁活

気を見はす﹂ための一時的な﹁行政機関の膨液﹂を許容していた﹇⑤一二八﹈︒しかし行政の現状は﹁確廃﹂している

とされ﹇④六九七・⑤九・一二九﹈︑財政危機の深刻化とともに行政整理の要求が強まってくる︒

 後者の展開は︑国の場合と同じく﹁文明としての均勢﹂論によってなされることになった︒国の間だけでなく個人

の間においても﹁自然は偏重を嫌﹂い︑政府と議会は﹁強者の弱者を呑瞳することを防ぐのみならず︑進みて弱者を

扶植する﹂ことによって﹁偏重﹂を救う﹁天職﹂を担っていると言う﹇﹁均勢談﹂⑤一九三−一九四﹈︒掲南によれば︑

﹁国家は社会主義の把持者﹂なのである︒彼の﹁社会主義﹂は︑国家によって強者の﹁暴﹂を抑制するだけでなく︑       の  弱者を積極的に救済する﹁国家的社会主義﹂であった︒国家による救貧について︑以前は﹁或は社会の自治に向つて

国家の干渉を予ふる為め︑人類相救養するの徳義心は︑一変して国法上の義務心と化し去る﹂危険性があるので︑

﹁貧民救助の如きも︑若し行ふを得べくんば︑願くば社会自然の徳義心に依りて行ひたきものなり﹂と否定的であっ

たが﹇二三年﹁窮民救助法﹂②七七二﹈︑﹁中外の交渉亦た固有の淳厚を変ずる﹂ため︑﹁慈恵的事業︑亦た制度法規を以

て之を約するの必要を見る﹂に至ったのである﹇三〇年二月﹁慈恵救済の賜金﹂⑤四九九﹈︒では︑自由と自治という課

(17)

題は置き去りにされてしまったのであろうか︒

 ﹁国家的社会主義﹂は︑﹁国家の本分は唯だ中外の治安を保つに在るのみ︑社会経済は宜しく之を個人に放任すべし﹂

とする﹁自由論派﹂とまさしく相反するものである﹇三〇年三月﹁国家的社会主義﹂⑤五二二﹈︒これはかつて﹁自由主

義如何﹂において︑﹁自由主義の単行﹂がもたらす危険が指摘されたことと軌を一にしている︒﹁強者の権利は自由主

義の認むる所にあらざる﹂とすれば﹇二八年=月﹁伊藤板垣の両雄﹂⑤二五〇﹈︑﹁文明としての均勢﹂論は﹁自由主義

如何﹂における﹁自由主義の真相﹂と同じく︑強者の﹁暴﹂から弱者の自由を保護するものであったと解釈できよう︒

また彼は﹁凡そ社会の事は公私互に相ひ済くふ︒国家之を為して弊ある者は個人之を為すと同時に︑個人の力及ばざ ︑る者は国家乃ち之に当る﹂と述べており︑自治の尊重も変わらずに存在していた﹇⑤五二二﹈︒したがって問題は︑

﹁国家的社会主義﹂を主張せざるを得ないまでに自治が破壊されてしまっていることにあったのである︵次節参照︶︒

 掲南が﹁国家的社会主義﹂を﹁軍人官吏貴族富豪の利益を保護する為めに干渉を旨と﹂する﹁藩閥党の﹃国家主義﹄﹂

と区別していたことは﹇⑤五二二﹈︑国民全体a利益を達成する営みという彼の政治像の連続性を物語る︒藩閥や自由

党の言う﹁国家主義﹂は︑﹁政府の権勢を尚ぶ﹂ものにすぎない﹇二九年﹁国家主義の濫用﹂⑤三一二五﹈︒彼らは﹁政府

 の権勢を殺ぐの傾きあるものは︑乃ち﹃国家﹄の名の下に一切之を排除せんと欲し︑従つて政府の権勢に利あるもの

 は︑縦令ひ人民の康福安寧に害あるも︑亦た﹃国家﹄の名の下に之を断行しつ︑あ﹂る︒問題となるのは﹁国家﹂の

内実である︒﹁国家は政府人民の両者を含むものなるを︑今の国家国家といふ者の所謂る国家は︑﹃人民﹄を取除きて        そ  の国家なり﹂︒掲南はこれを﹁国家主義の濫用﹂と呼び︑﹁真の国家主義を抱く者は︑升が匡済者之して人民の休戚

を専ら講究し︑世の所謂る個人主義をも再び喚び起すの必要ある﹂と断じた︒

  戦争前から関係を深めていた伊藤内閣と自由党は︑二八年一一月に提携宣言を発表し︑協力して戦後経営を遂行す     陸魏の交際論と菖像︵下︶        ︵都法四+四⊥︶三三

(18)

       三一四

る体制を着々と整えていた︒そして第九議会に提出された明治二九年度予算案は︑わずかな修正のみで自由党と国民

協会の賛成により衆議院を通過した︒

 伊藤内閣と自由党の提携は︑﹁薩長政府が吏党の多数を占めて践雇﹂するという﹃原政﹄で掲南が危惧した事態を

第九議会で現実のものとした︒しかし﹁進歩主義者﹂が言うように﹁議院に多数を制する内閣は信任あるの内閣﹂で

あり﹁立憲政体上最も正当なるの内閣﹂であるとすれば︑﹁伊藤内閣の昨今は洵に信任ありて正当なるの内閣﹂とせ

ざるを得ないのである﹇二九年三月﹁帝国議会の閉場﹂⑤三三六⊥二三七﹈︒しかし彼は次のように述べる︒

  吾輩必ずしも斯る内閣を正当視せず︒寧ろ多数を得ざるの内閣をこそ正当視せん︒何となれば︑多数を得ざる内閣は議院を憧

  りて自ら檀恣を戒むるものなればなり︒

自由党への否定的評価は︑その主義ではなく伊藤内閣を﹁過度に信用﹂し﹇四月﹁内閣信任の過度︵?︶﹂⑤三四三﹈︑       シ       ﹁政府の牛馬走﹂﹇﹁戦後経営の善後策﹂⑤三四三﹈に甘んじている態度に由来するものであった︒掲南の政治像の関鍵は

人民と議会に対する内閣の責任を重視する責任内閣論であり︑それは議員ないし政党が国民の利益の実質的内容とそ

の実現方法として宣言した主義︵これへの支持を訴えて選挙で多数を獲得したことは︑それが輿論にかなっていたことを意味

する︶から内閣の﹁政績﹂を吟味することで担保される︒多数党が主義を捨てて内閣との接近から利益を得ることの

みを考えて盲従するようになると︑内閣はいかなる結果にも責任を問われることはなくなり︑その行動を輿論と合致

させる力は失われ︑政治の目的である国民の利益に反する政策を阻止することはできなくなるであろう︒政党が内閣

を支持するのは︑それを通じて自己の主義を実現できると信用した場合に限られるべきであり︑その際も主義に反す

るような行いを正し︑主義の実現が不可能と判断されれば支持を撤回するのが本来のあり方である︒﹁内閣信任の過

重﹂つまり主義の実現という要件を課さない無批判的な信用は︑﹁立憲を変じて専制に回へす﹂のである﹇⑤三四二﹈︒

(19)

 そこで掲南は︑﹁議員の信任を問ふ﹂ことを﹁国民に撤﹂するとともに︑進歩党に期待をかけていく﹇⑤三四三﹈︒

進歩党は改進党や革新党などの対外硬派が結成した政党で︑彼らは第五議会以来対外問題に関し掲南と近く︑内政論

でもその年来の主張である民力休養論は必ずしも彼の与するところではなかったが︑軍拡による財政膨張という不健       ︵23︶ 全な現状ではその有効性を承認したのである﹇⑤三四四﹈︒さらに︑責任論争において革新党と改進党が﹁責任主義を

持し﹂ていたことも影響していたと思われる﹇二九年七月﹁吾が立憲政記略﹂⑤三八八﹈ρ責任問題は﹁責任内閣論に基

きて建てられたるもの﹂であり︑第九議会で自由党・国民協会等の﹁非責任派が勝利を占めたるは︑吾が立憲政史上

決して好事跡にあら﹂ざるとされた︒これはまさに自由党の盲従の一事例であり︑進歩党による責任内閣の実現を掲

南は望んでいく︒現状において最も責任内閣の実をあげることができるのは政党内閣だったからである︒

 そもそも﹁政府にして克く立憲政体を遵守するの徳義あらば︑政党内閣亦た其の必要を見﹂ない﹇二九年五月﹁藩

閥政及党派政﹂⑤三五七﹈︒しかし︑﹁政府の責任に関しては唯だ君主の命を侯ち︑人民の負担に関しては必ず議会の罪

に帰す﹂ような﹁立憲政体の濫用﹂が行われている以上︑政党内閣の必要が言われるのは当然である﹇⑤三五七⊥二

五八﹈︒もちろん︑﹁政党内閣にして猶ほ且つ口を大権に籍り︑以て責任を曖昧にするが如きあらば︑其の弊や実に言

ふべからじ﹂と付け加えるのも忘れていない︒

 したがって︑掲南が直ちに内閣・議会間の抑制と均衡を重視する立場に移行したとみなすのは早計であろう︒進歩

党と提携した第二次松方内閣に彼は限定的ながらも支持を与え︑第一〇議会で伊藤内閣の計画をほぼ踏襲した明治三

〇年度予算案がわずかな削減のみで進歩党などによって可決された後も︑それは撤回されなかったのである︒その理

由は︑掲南が内閣施政方針の原案起草に関与し︑内閣責任︑新聞紙条例改正︑行財政の健全化などの主張がある程度       ︵24︶ 反映されたということばかりでなく︑進歩党との提携が主義の合致にもとづき︑この施政方針を事実上の政策協定と

   陸掲南の交際論と政治像︵下︶        ・     ・         ︵都法四十四ー一︶ 三一五

(20)

三一六

するものだったからでもある︒それは両者に注意を促す次の一節に明らかである︒

  内閣の善良及強固は︑閣僚其人の価値と施政方針の如何とに因らずんばあらず︒内閣が多数党の援助あるを侍みて自己の価値

  を忘る︑は固より非なり︒同時に多数党亦た内閣に味方するを努めて︑其の施政方針の如何を忘る︑が如きは最も非なり︒

  ﹇三〇年一月﹁多数党と内閣﹂⑤四九四﹈        ︵25︶ ﹁主義方針の相ひ合はざるより来る﹂松方内閣と進歩党の提携断絶︵三〇年一〇月︶を︑﹁近数年来の政界に珍らしき        ︵26︶ 快心の出来事なり﹂としたのもそのためであった﹇三〇年一一月﹁政客の去就と社会﹂⑤六二七﹈︒

 松方は次年度の財政整理を言明して三〇年度予算を成立させたため︑内閣は﹁次年度の財政整理といへる大責任﹂

﹇⑤五九九﹈を負ったと掲南は考えていた︒ところが三一年度予算案は︑二千万円以上の歳入不足を地租増徴によって

補うものであった︒﹁人民負担の耐へ難き﹂と﹁今日の財政すら既に過大に失して︑為めに官民の腐敗を増長せしめ﹂

ているという認識から増税に反対する掲南は︑軍備費削減によって歳入不足を補填することを主張し﹇⑤六三二﹈︑進

歩党と同じく松方内閣への支持を撤回したのである﹇⑤六一二七﹈︒

 財政難にもかかわらず軍備拡張計画が見直されることがなかった理由を︑彼は藩閥の﹁武断専制的臭味﹂と軍部大

臣を武官に限定する慣行とに見出した︒藩閥には文武の二派があるが︑武断派だけでなく文治派もいったん﹁閥外       ︵27︶ 勢力﹂が勃興すると︑武断派に依頼して﹁専制﹂的に軍部の利益と政権独占を守ってきた﹇三〇年=月﹁軍政と議会﹂

⑤六三三ー六一二八﹈︒しかもそれは︑﹁国家の能事は単だ軍備拡張の一天張にて能く済ふ可しと為し︑之を望て突進す        ︵28︶ るの一途あるのみ﹂の﹁軍人大臣﹂しか軍部大臣に就任させないことによって担保されている﹇二九年一一月﹁如何に

して翼望を実にせん欺﹂⑤四四二﹈︒そこで掲南は︑﹁何人と錐も陸海軍大臣に任ずることを得るの途を開﹂くことを要

求するとともに︑藩閥批判と軍拡批判を結合させる︒﹁軍備の拡張と称すと難ども︑其の実は唯だ武権の拡張のみ﹂

(21)

であり﹇⑤六四四﹈︑﹁今日に在り︑軍備拡張に賛成するは武断専制に賛成するものにして︑別言すれば︑藩閥種族の.

根抵を培養するもの﹂なのである﹇⑤六一二七﹈︒前節でこの時期の掲南が軍事力を防備目的に限定していたことを見た

が︑それは輿論を顧慮しない藩閥政府によっては積極的な軍事力の行使をコントロールして国民の利益に結びつける

のは不可能であり︑軍拡は藩閥と軍部みずからの利益を図る方便と化していると認識されたからでもあった︒

  対外論と内政論の接合

 第二次松方内閣に続いて登場した第三次伊藤内閣は︑政党の支持を取りつけることができないまま成立した︵一一=    へ

年一月一二日︶︒こうして日本は︑−中国分割の危機を藩閥内閣の下で迎えることになったのである︒

 掲南は新内閣にも﹁東洋に於ける平和の主張者と為れ﹂﹇⑥七﹈と述べていたが︑藩閥内閣を﹁唯だ威福を張﹂り

﹁戦争の準備を主とする﹂﹇⑥五﹈ものとする以上︑﹁文明としての均勢﹂の実現を主に政党に求めたのは自然であっ

た︒それを彼は交際論から基礎づけようと試みる︒前章で掲南の交際論には国と人との類似性を強調する特徴があつ

たことを指摘したが︑ここでも同様の論理があらわれる︒︐国と同様︑﹁自然﹂ば人をして﹁各ミ其の思想の傾きに応

じて天職を尽くさしむる﹂が︑政界においてそれは﹁思想の傾向より来る﹂主義により結合した政党間の競争となる

三=年一月﹁政界漫言﹂⑥一二ー一四﹈︒そしてこれも国の間と同じく︑﹁政党の競争を正当ならしめん為﹂つまり主義

ある党争にはコ国の輿論を健全に﹂することが必要である︒彼によれば︑今の政党が本来の主義に回帰することは

必然的に戦後経営を推進する藩閥と対決することを意味した︒﹁内治に自由平等を認むる者︑必ず外政には平和を認

     ︵29︶ めざる可らず﹂とすれば︑進歩党も自由党も﹁進歩主義又は自由主義と相反する戦後大経営﹂に反対すべきであり︑

かつて両党を支持した輿論もこれに賛同するであろう︒彼が﹁挙国一致を唱へんよりは寧ろ主義ある党争を望まん﹂

と言うとき︑そこには正当︑な党争だけでなく藩閥への対抗も含意されており︑さらに自己の戦後経営批判が健全な輿

   陸掲南の交際論と政治像︵下︶        ︑      ︵都法四十四ー一︶ 三一七      ︑

(22)

三一八

論たる資格を備えていることを弁証しようとしていたのである︒

 掲南の当面の目標は地租増徴を阻止することにあり﹇⑥七九・八〇﹈︑第一二議会で地租増徴法案が否決されたこと

でそれは一応達成された︵直後に議会は解散された︶︒ところが事態は彼の思惑をこえて進行していく︒法案否決に至

る過程で進歩党と自由党が接近し︑解散後に合同して憲政党を結党する一方︑伊藤はみずからの新党計画が頓挫した

ことによって地租増徴の可能性を失い︑辞職して憲政党に政権を譲ったのである︒

 合同気運の高まりに対して﹁非増税を離れては藩閥政府を朴すの策なく政党内閣を見るの期なく︑従て大合同大聯

盟の存立すべき謂れなし﹂﹇⑥八六﹈と増租反対をテコに政党内閣の実現をめざしていた掲南も︑結党直後に憲政党

の組閣が現実味を帯びるとその性急さを危ぶみはじめる︒その主な理由は総選挙前であり︑﹁党員の結合﹂がまだ堅

固でなく︑﹁党外の信用﹂も不充分で︑﹁内治外交に関する党中の意見﹂も確定していないことなどであった﹇⑥九〇ー

九一﹈︒主義の実行を信用された多数党が政権を担当するというこれまでの彼の立場からすれば当然の主張であろう︒

 三一年六月三〇日︑日本最初の政党内閣である第一次大隈内閣が成立した︒掲南はそれを歓迎しつつも憂慮を隠そ

うとしなかった︒

  憲政党内閣の失敗−軽率なる引受けに由りての失敗1は︑直ちに憲政党其の物の信用に関するのみならず︑凡そ一切の

  政党なるものは其れが為めに皆な信用を失ひ︑従つて政党内閣の到底我が政界に成立せしむべからずとの大誤解を朝野に抱か

  しめん︒此の誤解は同時に藩閥種族を蘇生せしめ︑所謂る超然内閣党は土を捲き再び来り︑我が政界は復た非政党派の押領す

  る所と為らんの恐なしとせず︒三二年七月三日﹁憲政党の前途﹂⑥九二﹈

その欠点を補うために彼が提案したのは︑党の結合を保持すること﹇⑥九二﹈と︑﹁政党内閣の活動を敏捷に﹂する

だめに﹁藩閥党の守将﹂を排除し︑留任した桂太郎陸相・西郷従道海相ら藩閥的﹁武権との均衡を作﹂り︑行政刷新

(23)

      れ       を行うという三つの理由から事務官と知事を﹁更任﹂することであった﹇﹁政党内閣と事務官﹂⑥九三﹈︒

      不完全ながらもともかく政党内閣が成立したことは︑掲南の対外論にとって追い風となるはずであった︒交通機関

     の発達によって世界各国民の間における物質上・精神上の﹁利害的聯帯﹂が成立しつつあり︑他国への抑圧は国民の    ・

︑   利益から遊離七た﹁政事家の功利心﹂﹇⑥二三﹈﹁国権を弄するの名利家﹂﹇⑨四九九﹈によって引き起こされていると      彼は考えていた︒したがって国民の意思を対外行動の上に反映させることができれば︑おのずから﹁文明としての均

     勢﹂が実現するはずだったからである︒

      しかし︑掲南の不安は的中した︒共和演説事件で辞任した尾崎行雄文相の後継問題を機に旧進歩党系と旧自由党系

     との軋礫が表面化し︑憲政党はわずか四か月あまりで分裂︵一〇月二九日︶︑同時に大隈内閣も崩壊したのである︒そ

     の後に成立したのはこれも彼の予想通り政党人を排除した第二次山県内閣であった︒それにもかかわらず︑政党内閣

     を確立しようとする姿勢が変化することはなかった︒それは︑政党内閣への期待が現実の政党および政党内閣に対す

     る批判を伴っていたからである︒

       政党内閣論       ゜

      大隈内閣に対する掲南の評価で注目されるのは︑上述の他に内閣が﹁唯だ人気あるのみ︑未だ信用ありとはいふべ

     からず﹂とされたことである﹇⑥九七ー九八﹈︒政党内閣は﹁人気を得て成り人気を失ひて敗る︑もの﹂で︑﹁内閣と

     しては極めて卑俗なる内閣﹂である︒人気にかなうとは﹁俗受け悪しからずとの謂﹂であり︑内閣はまず﹁然る可ら

     ざる人物﹂の登用を中止して人気の維持につとめなければならない︒しかし政党内閣に信用は不要なわけではなく︑

   ︐ 用の謂に似たるも︑信用は道理より来るに反して︑人気は感情より来るものなるが故に︑信用は人気を伴ふべきも︑       グレデツト ㌔  @  大隈内閣がその基盤を信用を伴わない人気から人気を伴う信用へと移すべきことも言われている︒﹁ぷユ︐︐気とは信

        陸掲南の交際論と政治像︵下︶     .       ︐ ︵都法四十四−一︶ 三一九

(24)

       三二〇

人気必ずしも信用を伴はざる場合なきにあら﹂ぎるが︑大隈内閣は﹁此の人気に乗じて以て善政を行はゴ︑信用を得

ることも亦た難からざる﹂とされる︒この論説は直接には人気の維持を説いたものであって︑信用が言及される理由

を明確に読み取ることはむずかしいが︑おそらくは人気のみを基盤とする政党内閣は不安定であって︑﹁善政﹂とい        ぬ  う実績を積み重ねることで道理にかなうこと証明し︑人気を伴う信用を獲得することが必要ということであろう︒

 これは彼本来の立場である責任内閣論から来るものであったと思われる︒責任内閣を最もよく実現できるのが政党       お  内閣であるとされていたことはすでに述べた︒しかし両者の結びつきは自明ではない︒第二次伊藤内閣のように多数

党と結託した﹁無責任内閣﹂も存在していたからである︒そこでは内閣に対する政党の信用と政党ないし議会に対す

る内閣の責任が焦点になっていた︒しかし︑現在問題となっている国民の信用と国民に対する責任まで考慮されなけ

れば議論の全体を把握することはできない︒そこでまず政党内閣が必要とされる理由を改めて見てみたい︒

  政党内閣なるものは必ずしも無上の政習にあらずといふも︑時の内閣が議院と一致するを得て無障磯に政を行ふの道を求むれ

  ば︑所謂る政党内閣を馴致するの外復た好方便あらざるを見る︒賢宰名相の出でざるや既に二十余年︑敢て自ら政事家と称す

  る者は今や皆な信用なく︑国民多数の景仰を受けて真に輔弼の任を完うすることは容易に期すべからず︒乃ち党派の力を籍り

  て若干期の間僅に其の政案を行はんことは︑窮策たるを免れざるも︑政界今後に処する一方便なり︒立憲政体なるものは実に

  此の窮策を認めて創立し且つ運行するものなり︒三=年九月﹁憲政党の無規律﹂⑥一三二﹈

この文章を︑藩閥内閣の無責任・政党内閣の﹁有責任﹂という前提のもとで整理すると︑以下のようにまとめること

ができる︒﹁閥族なる私党﹂﹇⑥六﹈は﹁武権﹂と﹁君寵﹂によって政権を維持できたため︑国民の支持を基盤とし国

民に対し責任を負う必要は少ない︒しかし立憲政体を採用したことで予算や新規立法には議会の承認が不可欠となり︑

彼らは詔勅や解散︑政府党育成などさまざまな手段を用いてそれを取りつけようとする﹇⑥一二八﹈︒それに最も成功

(25)

したのが︑自由党を﹁牛馬走﹂とした第二次伊藤内閣であった︒しかし︑以上の試みは掲南の承認するところではな

い︒彼の政治像は︑主義として掲げたものを実行し︑それを実行できなかった場合には責任を取って退くであろうこ

とを国民に信用された人物・集団が政権を担当することによって︑はじめて政治により国民全体の利益を達成するこ

とができるとするものであった︒それには何よりもまず国民の信用にもとづき国民に責任を負う内閣が必要である︒

しかしその実現には国民の機関である議会と政党の存在が不可欠であった︒国民の輿論は自己を貫徹する制度上の保

障をもたないため︑国民がその意思を効果的に実現するには選挙で選出した議員を通して行う以外にないからである︒   一

そしてそれは内閣と議会の多数を一致させることで達成される︒これこそ議会にも権力を付与した立憲政体が本来予

定していた姿なのである︒

 では︑政党内閣は第二次伊藤内閣とどう異なるのか︒少し後になるが︑﹁政党内閣は議会に多数の党与を有するも

の︑謂なりとせば︑斯る内閣の傍に在る議会は政府に対して牽制の用を作すべき無く︑︑寧ろ政府の欲する所に追従せ

んのみ﹂と説く者に対し︑掲南は反論して次のように言う︒

  所謂る政党内閣は信用ある政党の支持に因りて立つものなれば︑其の主義政綱已に輿論の賛成を得て行為皆な政綱の範囲内に

  在り︑若し一歩其の範囲の外に出つれば︑議院の党与と錐ども之を弁護するの義務なし︑豊に牽制せらるべきの放恣あらんや︒

  ﹇三三年二月﹁本期議会の閉場﹂⑥四四三﹈    ︐

掲南の政党内閣論は︑政党が国民の信用と国民に対する責任の媒介となることによって︑放恣を抑制し国民の利益を

実現しうる手だてをその裡に内在させていたのである︒しかし彼によれば︑日本では﹁称して政党内閣と日ふべきも

のは未だ曾て之れあるを見﹂ない︒その確立は将来の課題とされたのである︒もっとも山県内閣の成立によって掲南

はふたたび藩閥との対決を迫られていたので︑政党内閣を擁護する一方で藩閥内閣を批判するという両面作戦をとる

   陸掲南の交際論と政治像︵下︶       −       ︵都法四十四ー一︶ 三二一

参照

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