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本邦古代黍作考 : 栽培の由来

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(1)

本邦古代黍作考 : 栽培の由来

その他のタイトル Study of Common Millet (Panicum miliaceum, Linne) in Ancient Japan

著者 鋳方 貞亮

雑誌名 關西大學經済論集

巻 1

号 3‑4

ページ 34‑54

発行年 1951‑10‑15

URL http://hdl.handle.net/10112/15874

(2)

学上では

P a n i c e a m

ほ黍︑粟類を︑そして

S o r g h u n

は蜀黍類を指すーー

( K e g c h r o s )  

( S o r g h u m )  

ウンゲル

( U n g e r )

は︑古代埃及の植物種の中に︒^ーークム︒ミリアセウム が如何たるものであったか︑

この禾本科植物の栽培は︑欧洲の南部埃及及び亜細亜では前史時代に行はれてゐた°希朧人はケグクロス

の名の下に︑羅馬人はミリウム

( M i l i u m )

の名の下に︑その植物に就いて語ってゐる°石器時代

の瑞西の水辺杖工居人は黍を大いに利用してゐた°伊太利のヴァレゼ湖の湖上住居の遺蹄に於てもまたそれは見

出された︒その他の場所ではとの古い時代の標本は見出されてゐないから︑羅典語の著述家逹によって挙げら

れ︑ゴール︑︒^ノーーア並びにその他の國々の住民によつて食料とされてゐた︒^ーーカム

を知ることは不可能である︒ーー'訳者︑加茂氏註によれば︑植物

( 1 )  

アルフォンズ︒ド︒カンドルによれば︑

( P a n i c u m   m i l i a c e u m )  

栽 培 の 由 来

本 邦 古 代 黍 作 考

( P a n i c u m )  

叉はゾルガ

(3)

リンネーは印度にそれが生育してゐると去つてゐる︒そして大抵の斯逍の著者逹はこのことを繰り返してゐ

本邦古代黍作考 てゴール人の支配の終り頃に西方へ偲播された様に見える︒

一 五

(K

os

ja

ej

b)

 

親近種たる︒^ニクム︒ミリアセウムであるか或は蜀黍

(V

re

eh

ib

  , h

ed

a)

 

である てゐる︒が然し彼はその積極的な証拠を有つてゐた様にはえ見たい︒なぜかと一云ふと︑彼はその記念物又は素描も又は墓穴の中で見出ざれたその稲子をも挙げたかったからである︒メソボタミア︑印度及び支那に於てその栽培が古いことの物質的証拠は存在してゐない︒この最後の國に就いては︑毎年盛大な儀式に於て皇帝逹が蒔いた五穀の中の一つである黍

(S hu ) が ︑

かを知るに就いてほ疑問が起る︒茄然し黍

S(

hu

)

といふ語の意味が変化しそして以前には恐らく蜀黍が播稲さ

れた様に見える︒

英印植物学者逹は︑現代のヒンヅ1名並びにベンガル名であるチーナ

(W or ga )

とが全く別のものであるとは去へ︑ウーヌー

(U no o)

(C he en a)

 とテリンガ名であるヴォル

並びにヴリヒプ︒ヘダ

が然し埃及で使用されてゐるドクン

(D ko hn )

. ‑ ¥ . 1

そしてアラビアにはコスヂェヂプ

(S

or

gh

o)

 

といふ二つのサンスクリット名をこの穂の名だとしてゐる︒これらのサンスクリット名が箕正のものであるとす

れば︑それらは︑印度でその栽培が古いことを指示してゐる︒そのヘプライ名もベルベル名も知られてゐない︒

のアラビア名

がある°欧洲語に於けるその名には変化がある0希騰語と羅典語に於けるその二つの名の他に︑露西亜語並びに

ボーランド語の内に保たれてゐるプロソ

(P

ro

so

)

といふ古いスラヴ名とソラ

(S

or

a)

といふリトワ=ーア名があ

る︒そのケ

J L ト名茄欠けてゐることは注目すべきである︒この植物種は︑特に東部欧洲で栽培されてゐた︒そし

(4)

d e b o u r )  

本邦古代黍作考

と蜀黍

( P a n i c u m

‑ P a n i c u m   m i l i

a o e   , 

(L

e 

る︒が然し英印植物学者逹は常にそれを栽培されてゐるものとして挙げてゐる︒それは日本の植物帯にはない︒

支那の北部で︑ドゥ0バンジュ

( D e B u n g e )

はそれがただ栽培されてゐるのを見た︒そしてマキシモウィッチ

0 且

m o w i c z )

は︑ウスリ1河附近の畑の傍や支那人の居住所近くの地域でそれを見た︒

らしさは充分にある︒ それはアルクイ︑ レーデプール

西伯利亜並に中央露西亜では殆んで自生であり且コーカサスの南部及び

クリシュ國では自生である︒この後者の地域に就いては︑彼はホーヘンナッケル

( H o h e n a c k e r )

を引用してゐ

る︒が然し後者はそれが﹁殆んど自生である﹂︑と去つてゐる︒それがクルクリ1人の︒^ンを供給してゐるクリ

ミア半島では︑それがあちこちで殆んど自生してゐるのが見出されてゐる︒このUとは︑佛蘭西の南部︑伊太利

及び填國でも同様に生じてゐる︒それは希朧では自生してゐない︒そしてペルシャ叉はシリアでそれを見出した

人はゐない0フォアスカル

( F o r s k a l )

及びドリルは埃及でそれを挙げた︒が然しアッシP

( A

h e

r s o n )

はこのことを認めてゐない0そしてフォアスカルはアラビアでそれを挙げてゐる︒

この植物は︑古代埃及以来︑曝々栽培された結果︑これらの地方で帰化したと去つても差支ない0

その自生的な性質はその他の場所では非常に疑はしいから︑その原産地が埃及︑アラビアであるといふことの確

現在︑黍の原産地については未だ明確なことは判らぬらしい

0加茂儀一氏によれぼ︑

um

であることは最近確定されてゐる︒郎ちヴァヴィロフによると黍

0

n i c u m m i l i a c e u m )   i t a l i c u n i )

の多様態の中心地は本質的には蒙古︑満洲︑日本︑支那の所謂東部︑

中央の亜西亜であって︑前者の植

. . 

, ,

(5)

栽 培 の 由 来

Pa

ni

 

i t a l i c u m

・  

一 七

物種は更に西方ではボ^ラ・トルキスクンに於て︑後者はトルキスクン及びボ^ラを経てペルシャ︒アフガーースタン

に於ては更に大きい形態の畳富さが示されてゐる︒従つてこれらの雄方に夫々の故郷を見るべきである0黍の野生形

態は知られていない﹂とあるが︑植物遣側学的に植物の多檄態の中心池が原産地であるとすれば︑ド︒カンドル説は 覆へされることになる︒たゞ︑植物学者でない筆者は之等に対して何等植物学的批判を為し得な

̲ s . o

尚︑加茂氏の訳

( 2 )  

註﹁黍とそして次に述べる栗とは︑埃及︑セム族の古代文化廣には欠けてゐる︒その代

bに此処では稗属

( P a n i c

u ︑

P .   f r u m e n t a c e u m  

Q

祖型と看傲されてゐる﹂を掲げておきたい︒

P . c o l o n ¥ ! m

が木乃伊の腸の中から見出された︒これは今日では埃及の雅草であって︑今日でも論東印

度で栽城されてゐる︒

( 1 )

栽培植物の起源︑栽培の初期の時代並びに側播の主なる諸事実より見たる栽培植籾種の研究︑第五章踵子のために栽培され

( 2 )

右書︑加茂儀l

蜀黍を

P an i

c

i t a l i c u n i

日本書紀は︑巻第一︑四軸出生の段︑第十一の一害において︑保食紳の顧の上に粟︑眼の中に牌︑腹の中に稲︑陰

の中に麦︑大豆および小豆添生じたことを︑また︑古事記はその上奉において︑大氣津比賣紳の二つの目に稲︑1

一 っ

の写に栗︑鼻に小豆︑陰に麦︑尻に大豆が生じたことを述べてゐる︒右の紳話に対する歴史的嘩解の仕方については

従来︑展々述べた通りであるが︑

本邦古代黍作考 ︵例へば︑本邦古代小豆考︒社会経済史学︒第十五巻︒第二号>両者共に︑黍に関

(6)

とあるのであって︑古事記との異ひは︑彼が大氣津姫︑此が大御食都姫を五穀生成の母体としている点だけである︒

従つて︑白石が保食軸︵筆者註︑保食軸は日本害紀の場合である︶︒と記したこと︑及び栗︑黍が胸に生じたとして

︵古事記もまた旧事紀も粟は二つの耳に生じたと述べている︶白石自身の誤謬か︑それとも︑異本に拠

った結果であったと見なければならない︒︵私はこのような異本を知らない︶

筆者が知りたいことは︑本邦の所謂農業紳話に関するかぎり︑そこに黍を見出し得ないといふ点である︒

4でわれわれは︑何故に﹁農業紳話﹂といふものが発生したかを考へるぺきであろう︒

そもそも紳話といふものは人間の﹁文化的所産﹂であるが︑それが発生するためには︑必すそこに何等かの物質的

基礎がなくてはならない︒そして︑端的に言へば︑物質的基礎とは︑経済的根拠を意味する°経済生活が不安定であ

る場合︑そこに﹁文化的所産﹂が発生することは極めて稀であると思ふ0

於二芽生粟︑於鼻生小豆︑於陰生麦︑於尻生大豆︑

本邦古代黍作考

しては一言も費してはいない︒

(I ) 

たゞ新井白石は︑大著﹁東雅﹂︑穀蔵第十三︑粟ア^︑黍キヒの條で﹁旧事紀に︑粟黍は保食紳の胸より生しと見

( 2 )  

ぇ﹂ると記してゐるが︑先代旧事本紀︵國史大系本︶には次のように黍に関しては記載を欠いている0試みに抜率す

︵前略︶乃共逐降之時︑乞食物於中窒御食都姫紳突︑大御食都姫紳︑自鼻口尻取出穏々味物而︑穂々業具而奉進

之時︑素睾鳴尊立伺其態︑為稿而奉進︑因殺其大御食都姫軸︑其所殺之紳於身生物者︑於頭生謡︑於二目生稲種︑

これを歴史的に観た場合︑われわ

(7)

思ふに︑紳話が発生するのは︑人々が自己を反省する余裕を有するに至った時であろう︒何となれば︑自己の出自 を︑そしてまた︑彼等の現実の生活を反省して初めてそれらの由来を知らうとする感惰︑思考が湧き出るからであ

る︒こ上に初めて︑彼等の祖先を語る必要にせまられ︑そしてまた︑現実の生活に関する諸現象の説明を必要とする

に至る︒しかし︑そこには説明し得ぬ多くの事柄があったであらう︒紳の実在を信じていた彼等が︑それら困難な説

明を紳の名によつて行ったことは︑如何にも当然ではあるまいか°換言すれば︑軸話は彼等の腰史であって.人々は る ︒

特に︑食生活が人々の生活の全部であった古い時代に於いて︑右の説は当て彼まると考へる0人々の個体維持本能

ー—食欲ーーは、彼等をして常に食檄獲得に専念せしめ、また、食糧豊富な場合には、他の本能1穂族維持ーー・に

馳りたてられ︑或は惰眠を貪るといふのが事実ではなかったか︒民族学的諸資料はこのような事実を推定せしめると

さて︑経済的余裕は︑ーーlたとひそれが短期間︑そして不連続的なものであったにせよ︑ーー・それが経続するとき︑

何等かの所謂文化的所産︑或は精紳的所産を生み出したと考へる︒而して︑それら所産の永い年月に亘る集積が︑や

がては一連の所開原始文化といふものを構成するに至ったと見るのは筆者の誤りであらうか︒

管見によれば︑この間に︑如何に断片的であっても︑それらのものは側承されつ

4

1

永い年月の経過の間に変

化、変形されるのが一般であるがー—生長するのである°絵画、彫刻、塑像を初め、卜1テム。クプ1等が出現す

本邦古代黍作考 れは直ちにその理由を了解し得ると思ふのであるが︑

(8)

二斗︑小豆一斗`各当粟一斗︑皆輿田租︑同牧畢・ 凡一位以下︑及百姓雑色人等︑皆取戸栗以為義倉︑

( 8 )  

更に︑.賦役令の養倉に関する規定を観れば︑ 本邦古代黍作考

上中戸一石六斗︑ これによつて初めて森羅万象に対する満足な解答を有ったとも言へよう︒

上下戸一石二斗︑中上戸 本論に返るが︑それならば︑何故に黍は︑稲︑粟︑麦︑大豆︑小豆︑稗︵日本害紀のみ︶と同槻の取扱ひを受けなかったのであらうか︒前述のように︑本邦の所謂農業紳話の何処にも黍の記述は見出されない︒この事実ーー黍の生成に関する記載は農業紳話の中に含まれていないー—鳥は、次の推論を可能ならしめるであろう。

日本書紀あるひは古事記に見える﹁農業紳話﹂発生の当時︑まだ黍は人々の間に栽培されていなかったといふこと

である︒若し︑この軸話発生の時期に︑黍が人々によって栽培されていたのであったならば︑

外すべくともなかったと思ふ︒ ことさらに黍のみを除

石︑中中戸八斗︑中下戸六斗︑下上戸四斗︑下中戸二斗︑下下戸一斗︑若稲二斗︑大麦一斗五升︑小麦二斗︑大豆

とあって︑こ上にもわれわれは黍に関する記載を見出すことは出来ない︒元来︑義倉の穀物は︑粟を以て納入する

ことを原則とした︒にも拘らす︑こょに稲︑大麦︑小麦︑大豆︑小豆等の代納を規定したのは何故であったであらう

か°恐らく︑粟のみを納入するように限定した場合︑あまりにも未納多く︑到底︑義倉本来の機能を発揮し得なかつ

( 4 )  

たからにちがひない0右の事情は︑霊亀元年冬十月の詔によっても推察することが出来る︒

國家隆泰︑要在富民︑富民之本︑務従貨食︑故男勤耕転︑女脩紙織︑家有衣食之饒︑人生廉恥之心︑刑錯之化俊興

(9)

太平之風可致︑凡蕨吏民登不勤敷︑今諸國百姓未盛産術︑唯趣水沢之種︑不知陸田之利︑或遭務羊︑更無余穀︑秋稼

若槌︑多致餓修︑口此乃非唯百姓憾瀕︑固由國司不存数導︑宜令個姓兼穂麦禾︑男夫一人二段︑凡栗之為物︑支久不

敗︑於諸穀中︑最是梢好︑宜以此朕遍告天下︑盛力耕種︑莫失時候︑自余雑穀︑任力課之︑若有百姓輸粟轄詔者醐之︑

右の主旨は陸田作物栽培の奨励にあるが︑最後に稲の代納を認めている0代納の規定はこ4に初まると思ふが︑ー

養老令の規定によれば︑稲の他大麦︑小麦︑大豆︑小豆の代納を︑前述のように一定の率を定めて認めているーーー︑

それは如何にも粟だけの牧納では目的を果

L

得なかったからに他ならない︒

それにも拘らナ︑令に黍を除外しているのは何故であらうか︒およそ︑代替納入の穀物を定めるためには︑それら

の穀物が現実に栽培されてゐることを︑先づ第一の條件としなければならない︒大麦︑小麦︑大豆︑小豆等が掲げら

それらの穀物が︑当時すでに粟と共に一般民衆の間に栽培されていたからであって︑若し︑そうでなか

ったならば︑粟と詔との代替率を定めることだけで充分であった筈である︒こょに管見は︑当時に於いても︑黍は一

般庶民の間に殆ど栽培されていなかった︑即ちたとひ栽培されていたとしても︑前述の諸穀物に比して︑栽培の数量

が極めて少なかった︑それでこそ︑令は黍に関する代替李を定めなかったのであると考へる︒

このように眺めるとき︑われわれは黍の栽培に関する何等の手掛りを見出し得ない︒

醐つて眼を万葉集に轄ナれば︑われわれはそこに二つのキどに関する歌を発見する︒

生女王の歌である︒

本邦古代黍作考

一は作主未詳であり︑他は丹

(10)

本邦古代黍作考

ナ シ ナ ツ メ キ

` ニ ア ハ ツ ギ

^ フ ク ズ ノ

と チ モ ア ハ ム ト ア フ ヒ ハ ナ サ ク

u5)

右は作主不詳の歌であるが︑千蔭の解によれば︑

k

︵筆者註︒村田春海︶梨の実のなるを始にて︑それより棗実なり︒さて黍を蒔き︑其れに次ぎて栗を蒔

くと言ふ意に言へるなり︒この句は君に逢ひ継ぎと言ふ意を籠め︑

料に言へるなるべしと言へり

とあるが︑春海の説に従へぼ︑

たと見なければならない︒しかし︑ ^フ葛は後と言はん料に言ひ︑葵は逢ふと言ふ

この作者は現実に黍を栽培していたか︑少くとも黍の栽培に関する知識を有つてい

06 ) 

この歌には次の附記がある︒

右歌一首偲一云︑有右兵衛︵姓名未詳︶︑多能歌作之藝也︑干時府家備設酒食︑饗宴府官人等︑於是饂食盛之皆用荷

葉︑諸人酒園歌舞絡駅︑乃誘兵衛

lk

︑関其荷葉而作歌者︑登時応声作斯歌也

右の引用によれば︑この歌は右兵衛府に属する一人の兵衛ーー心仮の姓名は詳かでないーー・が宴会の席上︑所望され

4に食物を盛った蓮の葉を見て︑即座に作った︑いはゞ︑即興詩とでもいふべきものであった︒而して︑この兵

衛某が黍についてある程度の知識を有していたであらうことは一云ふまでもないが︑

の知識を有つていなけ杉ぼ︑この即興詩を珊会することは困難ではなからうか︒特に︑

程のものであったことを思ふとき︑一層その感を深くする︒ この席に居合せた官人等も︑

歌を諒解出来る程度の黍に関する知識をもつていたと見るのは︑果して筆者の行き過ぎであらうか︒多少なりとも黍

この歌が万葉集に採録される

(11)

本邦古代黍作考 更に︑兵衛の出自を検することによって︑黍と関係のあった人々を見きわめてみたい︒

( 7 )  

職員令︑左兵衛府︵右兵衛府准之︶の條を緋けば

大尉一人︑少尉一人

番長四人︑兵衛四百人︑使部三十人︑直丁二人︑

とあり︑兵衛の註に﹁選叙令に︑叙舎人史生兵衛︑並以八考為限︒また車防令に︑内六位以下八位以上の嫡子の中

等を兵衛とし︑郡司子弟の弓馬に便なる者をも兵衛とする制有て︑考選にも預れば︑衛士には等しからぬ上品の者

也﹂とあるように︑兵衛採用の資格は略々定つていたのであって︑黍と関係ありそうな一般農民層の子弟等は︑それ

に該当しそうも無い°臆測することが許されるならば︑郡司の子弟等は︑黍栽培の実際を見ている可能性が強いか

ら︑そのような出自の兵衛によって詠まれたと解することが出来るかと思ふ︒

いづれにせよ︑

が問題となるが︑兵衛府設置の時代から︑万葉集編纂の時代まで︑即ち︑八批紀初めから八批紀中頃までの間に︑

の歌が作られたことは確かである︒換言すれば︑遅くともこの時代には︑黍が栽培されていたと見て差支えないと思 医師一人

この歌が詠まれた頃以前に黍作の存在が知られていたことは︑肯定すべきであらう︒たゞその時代 大志一人︑少志一人 佐一人 督一人

(12)

本邦古代黍作考

他の歌は﹁丹生女王贈太宰帥大伴卿歌二首﹂

品哀究が定和寺衝餌諏

ヤ メ パ ス ペ ナ シ ス キ ス ク バ ラ ム

便

( 8 )  

の中の一首である︒

右の歌の﹁古備能酒﹂については古来二つの解釈がある︒ーは黍を原料として隈造した酒と解するものであり︑他

( 8 )  

は吉備國の酒といふ意に解する0鹿持雅澄の解釈によれば︑

袖中抄に︑万葉抄には︑黍にても酒をつくるといへり︑とあるこれなり︑今も土佐國の山里にては︑もはら黍に

て酒をかめり︑其性最醇厚し︑古も黍にて造りしならむ︑

ませしことも見えたり︑古よb粟黍の類にて︑酒を造りしことしられたり︑二には︑吉備國にて隅る酒か︑庭訓往

来にも︑備後酒見え︑今批にも︑備後三原酒とて名物とせ

b

( 6 )  

とあるが︑橘千蔭の説によれば︑

︵前略︶キビノ酒は吉備の國より出だせる酒なるべし︑或説︑から國の陶淵明が偲を引きて︑黍にて作れる酒を言

ふなら人と言へど︑吾國にて然る事も聞えす︑ ふ ︒

︵中略︶古今著聞集に︑伊豆國奥島にて︑鬼に栗酒をの

太宰帥︑大伴旅人は天干二年に京に喚びかへされて大納言を授けられ︑また太宰府へ赴任しているが︑この歌が天

C 10 )  

平二年の丹生女王作であるならば︑旅人が九州から滞洛の途次吉備國で当國の酒を土産に持ち婦ったと見ることが出

(13)

来るであらう︒しかしこの見解を主張するこの為には︑吉備國が当時酒の醸造において秀でていた証拠が必要である が︑そうした資料は一っも発見し得ない︒

勿論︑当時から平安朝時代にかけて︑能登鮎︑隠岐腹︑東鰈等のように︑特に旭名を附して産物を呼ぶ習慣があっ たことを想へぼ︑吉備酒が︑吉備國の所謂名産であったと考へ得る可能性はあるわけである︒

他方︑吉備酒をもつて︑黍を原料とした酒であったとする解釈も亦成立すると思ふ︒この歌の後段に﹁やめばすべ

(8 ) 

なしぬきすたばなむ﹂とあるが︑千蔭はこの句と歌の大意を次のように解している︒すたはち︑

スキ ス

﹁貰簑は主殿式︑三年一請貰簑一枚とあるにて︑筈を編みて盟の上にかけて︑水の散らぬ用意にする物なるを︑こ

Lは酒に酔病みて︑嘔吐する料にせんと言ふなり︑此歌は帥卿の許より︑女王へ酒を贈られたるに答へて︑戯れに詠

める歌なり︑酔ひて病めばすべなきに貫簑をも賜はらんと乞ふなり﹂と解するとき︑強い黍酒を想像することは容易

このように解釈すれば︑当然︑黍を栽培していた筈である︒而して︑

肯定したわれわれはこ上に挙げた吉備酒が黍酒であっても差支えないと思ふ︒

︵近枇は兎も角として︶

︵前述のように雅澄は︑今も土佐國の山里にては︑もはら黍にて酒をかめり︑性最醇厚し︑といつてい 本邦古代黍作考

﹁姓名未詳﹂の前の歌によつて︑黍の栽培を それならば︑黍は我茄國原生のものを奈良朝時代に至って初めてわれわれの祖先等が栽培したものであらう

か︒それとも外國から輸入して初めて栽培するに至った穀物であらうか︒

(14)

釈天料 七寺索蘭盆供養料

(U ) 

大炊寮

釈羹祭料

( 13 )  

大膳︵下︶

釈食十一座

(12) 大膳︵上︶

C 11  

大学寮

本邦古代黍作考

先づ︑われわれは︑古くから稲︑粟等が栽培されていたにも拘らナ︑何故に黍が栽培されるに至らなかったかに着 目しなければならない︒和︑粟等を食物とし︑そして栽培していた人々が︑若し︑原生の黍娑一発見した場合︑果して それを雑草として放つて置いたであらうか°恐らく︑稲︑粟等と同様に食糧として栽培したと思ふのは筆者独りであ らうか︒このように考へただけでも︑黍が本邦原産の植物であるとはいへないと思ふ︒

また︑延喜式︵時代が下り過ぎるかも知れないが︑本式が遡つて貞観︑弘仁式の内容を含んでいることは︑本式の

序ーー藤原時翌記—ーによつて明かであらうし、弘仁式が前代のしきたりに基準を置いていることを思ふ時、この式

が決して延喜年間のみに関するものでないことが了解されよう︶を瞥見するに︑黍関係の記述は左記の蓮り極めて少

(15)

右の中︑大炊寮までは全て大陸輸入の行事である︒内膳司の諸節︵正月三節︑五月五日節︑七月七日節︑力月九日

節︶はこれ亦大陸輸入のものであるから︑供御月料がそれにならつても不思議はあるまい︒主水司の聖紳寺七種御粥

料に黍を用ゐたことは︑それが大陸関係の式であると考へられる以上︑別に怪むべきではないが︑践詐大常会斎七穂

御粥に黍を加へている点及び︑斎宮寮の新嘗料に黍を用ゐている点は如何に観るべきであらうか°臆澗することが許

本邦古代黍作考 供新常料 聖軸寺七種御粥料

S17) 紳祇︵斎宮寮︶

供御月料

( 16 )  

主水司 正月最勝王経斎会料諸節供御料

践昨大常会解斎七種御粥料

正月三節料 七寺孟蘭盆米

(15) 内膳司

(16)

本邦古代黍作考

容されるならば︑それを大陸文化輸入に伴ふ一種の模倣と見たい︒特に︑四時祭における新呼旨料に供する穀物とし

( 1 8 )  

て︑稲及び粟のみを用ゐていたことを思ふとき︑1ー'儀式として︑斎宮寮の新嘗よりも︑四時祭の新嘗の方が逝かに

その由来が古いことは論を侯たないであらうー'ー管見が必すしも不当でないことが諒解されるであらう︒

黍が本邦原生の植物では無く︑従つて輸入の穀物であったならぼ︑それは何処から︑そして︑何時頃︑輸入された

南方から粛されたとする資料は文献的︑にもまた考古学的にも存在しない︒五泄紀中頃南部支那との交渉が可成り頻

繁に行はれていたと思はれるが︑黍の輸入を推定せしめるような資料は存在しない︒

そこで眼を朝鮮半島から支那北部へ向けなければならないが︑朝鮮半島南部に於いては︑黍作を行ったと考え得ら

( 19 )  

れるような資料は︑これまた考古学的にも︑文献的にも発見することは不可能であった︒それならば︑支那に於ては

如何︒試みに︑古来︑称へられている五穀︑六穀或は九穀を見るに殆ど凡て黍を数へてい忍6Lにおいて吾々は加

$ 21 )  

籐繁博士の説に茸.を傾けよう︒

偕て百畝の田にはどんな穀物が作られたかといふに主として黍粟等陸田作物であったことは︑先秦の諸害に風黍

稜の二者を穀物の敢主要なものとして挙げたこと︑党舜時代の農官を后概と呼んだという侮説のあること︑穀物の

紳を稜竺云ひ︑土地の帥と共に社稜として祀ったことなどを見ても首肯される︒稜は今の高梁である︒ ものであらうか︒

あるかに就いて漢以来異綸が多いが︑今清の程瑶田の九穀考に従って高梁と解した︒以下穀名の解釈は総べて九穀

考に拠る︶尚匠詩に就いて見るに小雅楚茨に楚楚者茨︑言抽其棘︑自昔我何為︑我祇黍稜︑我黍典典︑我喪靱粟︑

(17)

と去ひ甫田に 今適南畝︑或転或軒︑黍喪蒜谷翠︑仮介仮止︑悉我馨士

レ レ

菱々良相︑傲載南畝︑播厭百穀︑実函斯活︑或来胆女︑載筐及営︑其餓維黍︑其笠維糾︑其縛斯趙︑以庸荼蓼︑

荼蓼朽止︑黍稜茂止︑穫之栢栢︑積之栗栗︑

き云ふなど︑何れも黍喪の盛に種蔵されたことを示して居る︒又︑大雅生民には 誕降嘉種︑維栢維胚︑維棄維芭︑恒之拒胚︑是穫是畝︑恒之稟芭︑是任是負︑以帰肇祀︑

1

胚一秤二米也︑稟赤苗也︑芭白苗也

朱子集侮日︑拒黒黍一胚二来者也︑稟赤梁粟也︑芭白梁粟也︶

︵毛偲日︑拒黒黍也︑

とあって︑拒胚は倶に黍の類︑稟芭は粟の類である︒郎ち周人は此等の穀物を天の降した嘉種として尊重したので 右の引用によるとき︑われわれは北`ンナにおける黍作が如何に盛であったかを肯定せざるを得ないであらう︒とこ

ろが問題は︑本邦と北シナとの結び癌きである︒また︑更に困難な問題は︑黍を輸入或は舶載したという記載を全く 発見し得ないことである︒そこで一応︑拙稿の筆を掘くが︑若し憶測することが評されるならば︑先づ第一に遣陪使 によって宗された北シナと本邦との交通路であるが︑それは朝鮮半島南部西部を航海しつょ渤海に入り︑次いで陸路 長安に到ったと解せられることである︒このような交通路が六批紀末から七泄紀初めにかけて既に開けていたとすれ

本邦古代黍作考

我倉既盈︑我痩維偉

(18)

本邦古代黍作考

ば黍を船中の食糧として携えていても︑そこに些かの不思議は感ぜられない︒また︑延喜式によれば︑儀式的に黍を

用うる場合︑それが︵儀式︶大陸輸入のものであったことは︑該穀物が大陸輸入のそれであったであらうことを想像

させる°更に︑文献的に︑黍栽培の下限をバ批紀初め乃至八批紀中頃に比定したことは︑恰も右の二つの事情と背反

しないのである︒詳細は後考に侯ちたい︒

たゞ右に述べたことは︑あくまで︱つの憶測であって︑充分な史料に基いていないことをお断りしておく︒

( 1 )

東雅︒巻之十三︒穀裁第十

j︱ ︱

見朋已氏の設をとれば︑

︵平凡社︑大百科事典>﹁先代旧事紀といふを略して﹁旧事紀﹂といひ刊本十巻五冊ある︒﹁國史 大系﹂第七巻に輯録せらる

0

巻首に蘇我馬子等が勅を奉じて修撰したといふ序文を載せ︑﹁稗皇系図﹂一巻

c今欠けて側はら

﹁帥祗本紀﹂﹁天稗本紀﹂﹁地甑本紀﹂﹁天孫本`紀﹂﹁皇孫本紀﹂﹁天皇本紀﹂﹁稗里本紀﹂﹁帝泉本紀﹂

﹁國造本紀﹂の十巻がある0

この馬子の序文がある上に文体も頗る古風を帯びてゐるから︑推古天皇の朝に馬子が聖徳太子等

と共に勅を奉じて撰修したといふ國史の一部が即ちこの書であらうといはれてゐたが︑多田義俊︵筆者註︑︱‑^九八ーー̲︱七

五0國学者︑紳逍学者︑癖津國大阪の人︶は﹁旧事紀個撰考﹂を著はし︑本書を以て後人の侮作となし︑たゞ﹁國造本紀﹂

のみは取るべきものであるといつてゐる

0

本居宜長は﹁古事記﹂と﹁書紀﹂とを取り合せて編輯したものであるといつてゐ

0

今日は一披に﹁國造本紀﹂のみは拠りどころあって編纂したものと認められ︑他は個書と目せられてゐるが︑栗田博士は その第五巻たる﹁天孫本紀﹂中︑尾張連︑杓部連の世次を記したものは︑いづれの書にもなく︑また新たに作った説とも思は

れないので︒何か拠るところあって作った書であらうとて︑その考証を著はして﹁物部氏纂紀﹂﹁尾張氏纂紀﹂の二書とし この書は︑多田義俊が﹁旧事紀侶撰考﹂を著はして以突

( 2 )

先代旧事紀︒巻ニ・紳祗本紀

﹁國造本紀﹂以外は後世の侮作であると一披.に考へられている0

(19)

( 1 1 )

延喜式︒巻

1 1

( 1 0 )

前褐﹁万葉集年表﹂

( 7 )

職員令第二︵捩注令義解校本巻一一︶ た°しかし大体﹁國造本紀﹂のみが信ずべきものであらうといふ説に一致してゐる︒

( 3 )

三浦周行︒瀧川政次郎両博士共編﹁定本令集解繹義﹂

尚畜関根正直博士畜和田英松博士︑田辺勝哉氏監修︑

凡一位以下及百姓雑色人等︑皆瑕戸栗以為義倉︑上上戸二石︑上中戸一石六斗︑上下戸一石二斗︑中上戸一石.中中戸八斗 中下戸六斗︑下●戸四斗︑下中戸一一斗︑下下戸一斗︑若稲二束︑大麦一斗五升︑小麦二斗︑大豆︱︱斗︑小豆

1斗︑各当粟一斗

皆奥田餌同時牧畢

の註に︑﹁二束︑京本二斗に作る︒今古本に従ふ︒一束の稲を粟にして︑一斗を得る故に︑即下に羞粟

l沖とあるが︑稲二束

のこと也﹂とあるが︑これは恐らく誤りであらう︒義倉納入のための主たる穀物が粟︵アハ︶であり︑こ

4には粟を納入する

代りに他.の穀物を以てする場合の代替率を規定しているのであるから︑粟はアハであってモミでは無い°束稲を籾にするため の註繹だとすれば全く見当違ひであって︑こんな不見識な文言を挿入するべくもない︒

( 4 )

続日本紀・巻第七

( 5 )

橘千蔭﹁万葉集略解﹂

e )

土屋文明氏編﹁万葉集年表﹂

( 8 )

前掲﹁万葉集略解﹂万葉集巻四

(9)

万葉集古義•第八

( 1 2 )

+

本邦古代黍作考 ︵日本古典全集︶第七°万葉集巻十六 ﹁模注令義解校本﹂・巻四.賦役令第十には︑

(20)

本邦古代黍作考

( 1 3 )

+

(14)

l

+

( 1 5

)

+

( 1 6

)同式︒巻四十

(19) 拙稿「古代に於ける南朝鮮の農耕」(社会経済史学•第八巻•第四号)

七世紀中葉︑百済滅亡最後の拠点であった忠清南逍︑扶余︑扶蘇山城の軍倉趾から検出された穀拐は︑稲︑麦︑栗︑大豆︑

小豆︑蒋麦であった0この中にも黍は見出されない0また︑文献的にみた場合︑栗`麦"大豆︑小豆"稲等を栽培していたこ

とは確かに認め得られるが︒黍に関するかぎり︑そこに一筐ての賓料さ︵発見することが出来なかった︒

( 2 0 )松本洪氏﹁支那二於ケル義倉及祗倉︑四民生活︑耕地制度︑穀物ノ名称ノ研究﹂︒四編︑穀物名称ク研究︑

CH

本米穀協会︑

·………••其ノ五穀テ言フヤ.呂氏春秋ノ月令ニハ、

︵筆者註︑漢書︑食貨志も同様である︶

チ挙ゲ︑鄭玄ハ之ニヨ拠リテ周乳ノ疾臀二注シクリ°是ヨリ荀子︑史記︑商書等チ註繹シクル者^多ク之二従ヘリ0

F

瑯玄ハ又周脱ノ職方氏二各地方ノ土質二適

Kル五穀ノ名称チ注シテ

稲.黍稜e麦︑寂

チ挙ゲ︑孟子ノ趙岐ノ註︑准南子ノ高誘ノ註等之二従ヘル者モ亦少カラズ0而シテ管子ノ地員篇二^

黍.旋︑寂︑麦︑稲 ]

( 1 8 )延喜式・紳祗二︒四時祭下

( 1 7 )

同式・巻五

(21)

︸ナセリ 麦︑稲︑寂麻禾チ挙ゲクリ°其ノ六穀テ説クヤ︑鄭玄ハ周乱ノ膀夫ノ下二注シテ

徐、黍~稜、梁、麦.芥瓜

ト日ヒ︑小宗伯G

周乱ノ春官二属シ︑國ノ紳位テ建ツルチなル官︶二注シテハ

黍︑稜︑稲︑梁︑麦︑需瓜

ト日へ>︒徐ハ稲卜同物異名ナレベニ者ハ全ク相同ジ︑菰ハ菰ノ実ナリト云フ︑其ノ九穀チ言フヤ鄭衆が周證ノ大宰二注シ

チ挙ゲクルモ鄭玄ハ之二従ハ中スシテ

t改メクリ︒蓋シ鄭玄こ茂卜稼トチ同種卜認メ︑麦ノ大小テ掘卜不鈷トノ相違ノヽヽヽト為シタル者ノ如シ︑菰チ加ヘクルハ実ニ

鄭玄二始レリ︑北^ノ他酉陽雑姐二が九穀チ挙ゲテ

l

トナシ"麦ノ大小チ分チ︑豆チ一

1一種トナシタリ︑農桑輯要︵元ノ官撰︶ニハ

本邦古代黍作考 チ数へ︑初学記二載セクル越ノ計然ノ諒=二 チ挙ゲ逸周書ニハ

(22)

本邦古代黍作考 右の中︑黍を数へていないのは︑初学記所牧P計然の説だけであるが︑この説が最も古く︑且つ︑計然が越王︑勾践に仕ヘた人であって~従つて越國(今の浙江省紹興縣の地)に居住していたことを思へば、彼が黍を除外した事猜も想像出きるので

はないか︒.彼は︑稜さへもその中に数へなかった︒

( 2 1 )加菌繁博士著﹁支那古田制の研究﹂

第二章︑孟子其他の古書に見えた耕地及宅地の制度︑第二節耕地︑第一項周代に於ける耕地の分配

稿

西

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