内務省勧業寮の成立と勧農政策︵國︶三一
内務省勧業寮の成立と勧農政策
國 雄行
はじめに
明 治 維 新 を 実 現 し た 政 府 は︑ 国 力 を 増 進 す る た め に 基 幹 産 業 で あ る 農 業 の 改 良 に 着 手 し た︒ 明 治 四 年︵ 一 八 七 一 ︶ 八月︑大蔵省に勧農寮を設置し︑欧米農業を取り入れるとともに︑在来農法にも着目しながら事業を展開した︒しか し︑ 翌 五 年 一 〇 月︑ 財 政 難 の た め に 勧 農 寮 は お よ そ 一 年 で 廃 止 さ れ て し ま う の で あ る
︵1︶︒ 農 業 は 自 然 を 相 手 と す る だ けに︑その改良には時間と資金を要する︒したがって勧農政策を進めるためには︑政策を安定的に継続させることが 重要であり︑このためには強い政治力をもつ人物が政策の指揮をとることが必要である︒この条件が整ったのが明治 六年一一月の内務省の設置と大久保利通の内務卿就任であった︒
ところが︑開設後の内務省は︑勝田政治氏が指摘するように︑内乱外征︵佐賀の乱・台湾出兵︶や内在的理由︵未 成 熟 な 政 策 論 ︶ に よ り︑ 本 格 的 に 省 務 を 始 動 す る こ と が で き な か っ た
︵2︶︒ 本 稿 で 述 べ る よ う に︑ 内 務 省 に 置 か れ た 勧 業寮も大蔵省から引き継いだ勧業事業を持続させてはいたが︑財源確保に苦しみ新規事業にはなかなか着手できずに いたのである︒
さて︑石塚裕道氏は︑勧業寮が大蔵省から引き継いだ内藤新宿試験場の事業の中で︑最も重点が置かれたのは海外 諸国から輸入された洋種の果樹・穀菜の試植とそれらの各府県への配布であるとし︑この結果については津下剛氏の
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第四四五号 二〇一一年三月三二
説を引用して﹁在来種の改良よりも︑こうした洋種の無系統な直輸入は ほ とんどみるべき成果を収めず︑同試験機関 は八年後に廃止された﹂ と述べている
︵3︶︒また︑ ﹃茨城県農業史﹄ には︑ ﹁〝やみくもの勧農政策〟 を象徴しているものが︑ 外 国 種 苗 輸 入 配 布 政 策 ﹂ で あ り︑ ﹁ あ ら ゆ る 種 類︑ あ ら ゆ る 品 種 の 種 苗 が 無 選 択 に 輸 入 さ れ︑ 各 府 県 に 配 布︑ 試 作 を 勧奨されている﹂と記されている
︵4︶︒ 最近では勧農政策が欧米農業の直輸入であったとする右のような説の修正が進められている︒ 例えば勝部眞人氏は︑ 明治八年︑九年度における海外種苗の輸入量と各府県への国内外種苗の頒布量を示し︑場合によっては外国種以上の 国 内 種 苗 の 広 範 な 収 集・ 配 布 が 行 わ れ て い た 事 実 を 明 ら か に し︑ ﹁ 一 八 八 〇 年 代 後 半 に 至 る ま で の 時 期 に お い て︑ 欧 米農業であれ在来のものであれとにかく新しいものを試して︑それぞれの地域にとって有益なものを見出させていこ うとする政府側の姿勢を物語っているように思われる﹂と記している
︵5︶︒
本稿では以上の研究を踏まえて次の課題を設定する︒第一に勧業寮の設立経緯と設立後の予算等に着目し︑一等寮 と し て ス タ ー ト し た 勧 業 寮 の 実 態 を 明 ら か に す る︒ た だ し 紙 幅 の 都 合 か ら 明 治 八 年 中 頃 ま で を 対 象 と す る︒ 第 二 に︑ 勧業寮の重要事業であった植物試験︑ 外国種苗の頒布を分析し︑ これが欧米農業直輸入による無系統 ・ 闇雲な政策だっ たか検討するとともに︑国内外の農業調査を分析して勧業寮が欧米のみを重視していたのか検討する︒
一 大蔵省から内務省へ
1 明治六年の﹁勧農﹂構想の浮上
明治五年︵一八七二︶一〇月九日に﹁公費多端﹂という理由で大蔵省勧農寮が廃止された︒これに伴い勧農業務は 租税寮勧業課に引き継がれるとともに︑地方にも委託されるかたちとなった︒勧農寮廃止前日の八日に﹁定石代安石 代等改正﹂による増税が布告されたが︑地方委託の方法とは︑この増税分の約二割を地方の﹁勧業授産ノ要費﹂にす
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るというものであった︒しかし︑ これが下付されたのは︑ ﹃歳入歳出決算報告書﹄ をみる限り︑ 明治六〜七年においては︑ 山梨︑筑摩︑熊谷︑磐前の四県のみであった
︵6︶︒ 勧農寮は廃止されたが︑勧農構想が消え去ったわけではなかった︒そもそも大蔵大輔井上馨の勧農寮廃止の上申に 対し︑左院は﹁農業ハ素ヨリ本邦ノ要務タル論ヲ待タス︑而シテ頑固愚蒙ノ民︑旧習ニ拘泥シ各国耕牧ノ盛業ヲ知ラ サルヲ患ル久シ︑農学校ノ如キ︑牧畜ノ如キ︑之ヲ誘導シ︑之ヲ鼓舞シ︑駸々進歩セザルヘカラス﹂と勧農の重要性 を 述 べ て い た の で あ る
︵7︶︒ こ の 時 の 左 院 副 議 長 は 明 治 初 年 か ら 勧 農 の 重 要 性 を 訴 え て い た 伊 地 知 正 治 で あ り︑ 左 院 の 意見は伊地知の意向そのものであったのかもしれない︒ともあれ︑ 勧農政策を重要視する見解は政府に内在しており︑ 政府をとりまく状況が変われば︑勧農寮はいつでも復活する可能性があった︒その変化のきっかけとなったのは岩倉 使節団による外国農業の視察であろう︒使節団は﹁欧米でも賤業視されていた農業を︑政府︵国家︶が政策的に振興 をはかることによって成果をあげてきたと認識した﹂のである
︵8︶︒
使節団の成果は﹃米欧回覧実記﹄に詳しいが︑その他にも使節団の一員として欧米農業を視察した大蔵省七等出仕 阿 部 潜 の 報 告﹁ 勧 農 見 込 書 ﹂︵ 明 治 六 年 二 月 提 出 ︶ が あ る
︵9︶︒ 阿 部 は こ こ で︑ 欧 米 の﹁ 民 ハ 教 育 ニ 富 ミ 人 智 ノ 開 達 セ ル ニヨリ︑農事経済ニ敏ク︑且器械等ニ巧ミナルハ遠ク我民ノ上ニ有リ﹂と述べ︑日本において農学校の設置を主張し た︒ ま た︑ 欧 米 で は 勧 農 局 を 設 置 し て 農 事 改 良 に 着 手 し て い る た め 農 業 が 発 達 し︑ ﹁ 冨 国 強 兵 ノ 大 本 ヲ 興 起 ﹂ し て い る と 記 し た︒ さ ら に 日 本 農 業 に 必 要 な も の と し て︑ ① 農 事 に 関 す る 民 勢 取 調︑ ② 農 事 調 査 の た め 欧 米 へ の 官 員 派 遣︑ ③農業博覧会 ・ 農業博物館︑ ④農事を注意する官員︑ ⑤家畜医校︑ ⑥書物展覧場︵人口一〇〇〇人以上の村落に設置︶ ︑ ⑦農事布告︑⑧運輸交通網の整備の八策を提示した︒これらは︑①は物産取調︑②は勧業寮官員の欧米派遣︑③は共 進会・農業博物館︑④は農事通信員︑⑤は駒場農学校︑⑦は勧業報告の刊行と︑⑥⑧をのぞき︑若干性格が異なるも のもあるが内務省が勧業政策を担当した明治一三年までに ほぼ実現している︒これらが実現したのは阿部の提言が活 かされたというよりも︑ 欧米の農業事情を知る者たちが阿部と同様の見解をもち︑ これを実現に移したからであろう︒
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第四四五号 二〇一一年三月三四
例えば③共進会という名で実現した農業博覧会は︑ ﹃米欧回覧実記﹄ ︑ウィーン万国博のお雇い外国人ワグネルの報告 書︑ 松 方 正 義 の﹁ 勧 農 要 旨 ﹂ に も そ の 重 要 性 が 記 さ れ て い る の で あ る
︵10
︶
︒ 欧 米 農 業 を 視 察 し た 者 た ち が 日 本 に 必 要 で あると認識した制度︑技術等は︑ある程度共通していたのではないだろうか︒
勧農政策は︑税の増収をはかる大蔵省にとっても重要であった︒明治六年︑大蔵省租税権頭の松方正義は︑同省事 務 総 裁 の 大 隈 重 信 に 対 し︑ 国 家 の 富 強 を 実 現 す る た め に は︑ ﹁ 地 勢 ノ 便 宜 ヲ 詳 ニ シ︑ 民 心 ノ 帰 向 ヲ 察 シ 以 テ 農 卜 工 商 ト ヲ 講 習 奨 励 ス ル ニ ア リ ﹂ と し︑ こ の﹁ 講 習 奨 励 ﹂ に は 順 序 が あ り︑ ﹁ 其 地 力 ヨ リ 生 ス ル ノ 利 ヲ 以 テ 漸 次 ニ 工 商 ノ 鴻 利ニ及ホスノ術ヲ施スニ若カス﹂と述べ︑ まず﹁農﹂に着手することを提示した︒松方は︑ 生活の根本は衣食であり︑ 衣食の根本は勧農より生じると考え︑勧業政策の優先順位として農↓工商と捉えていたのである︒そして︑適地適作 を 進 め れ ば︑ ﹁ 其 鴻 益 経 年 ナ ラ ス シ テ 功 験 ヲ 見 ル ヘ シ︑ 此 レ 其 本 ヲ 務 ム ル モ ノ ニ シ テ 其 投 ス ル 処 ノ 資 本 僅 少 ナ リ ト 難 トモ︑其生スル所ノ利許多ナルヘシ︑其利許多ナレハ税額モ従テ増スヘシ﹂と︑勧農の帰結として税の増収の可能性 を述べた
︵11
︶
︒ 明 治 六 年 の 政 府 に は︑ 勧 農 政 策 を 重 視 す る セ ク タ ー︵ 左 院 ︶︑ 外 遊 経 験 者 の 勧 農 構 想︑ 勧 農 が 富 強 策 で あ る と と も に税の増収策でもあるという認識が存在し︑これらはいつでも︑当時進められていた内務省設立の動きと融合する可 能性をもっていたのである︒
2 伊地知正治と勧業寮の設立
内務省勧業寮の原型となったのは伊地知正治の勧農寮構想であった︒伊地知は︑すでに明治元年︵一八六八︶に欧 米農具導入を説き︑四年に﹁時務建言書﹂ ﹁勧農建言書︵勧農再言︶ ﹂を提出し︑欧米農法を取り入れた勧農政策の重 要性を建言した︒ ﹁勧農建言書︵勧農再言︶ ﹂では在来農法に注視しながら︑試験場︑農学校といった欧米の科学的な 農法を取り入れる旨を記している
︵12
︶
︒
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明治六年九月に岩倉使節団が帰国し︑ 征韓論政変を経て︑ 一一月一〇日に内務省の設置が布告された︒ 同二五日には︑ 左院の伊地知と松岡時敏︑ 参議の寺島宗則︑ 伊藤博文が正院制度取調御用掛となり︑ 内務省の機構が決められていく︒ こ の 際︑ 伊 地 知 の﹁ 内 務 省 職 制 私 考 草 案 ﹂︵ 以 下︑ 伊 地 知 草 案 ︶ が た た き 台 と な っ た よ う で あ る︒ 伊 地 知 草 案 で の 内 務省は︑本省︑戸籍寮︑勧農寮・出張所︑警保寮︑記録寮︑会計司で構成され︑省務の中心は戸籍︑勧農︑警保の三 寮で︑勧農を内政の軸としていた
︵13
︶
︒ 伊地知草案の﹁勧農寮并出張所﹂では︑大蔵省租税寮が勧農業務を担当している現状に不満を示し︑内務省に移管 す る こ と が 主 張 さ れ た︒ 左 院 は︑ 明 治 五 年 一 〇 月 に 大 蔵 省 勧 農 寮 が 廃 止 さ れ た 際 に︑ 勧 農 業 務 が﹁ 租 税 寮 ニ 合 併 ス ル ノ 議 ニ 至 テ ハ 尤 不 可 ナ リ︑ 如 何 ト ナ レ ハ 徴 租 苛 酷 ニ 陥 ル ハ 古 今 ノ 通 弊︑ 勧 農 ノ 寮 ヲ 別 ニ 設 ケ テ 其 根 本 ヲ 勧 ム ル ハ︑ 民 ヲ 愛 護 ス ル ユ ヱ ン ナ リ ﹂ と 述 べ︑ 税 務 を 管 理する租税寮の中に︑勧農業務が置かれることに不服を唱えていた
︵14
︶
︒ 伊 地 知 草 案 で は 勧 農 寮 業 務 の 概 要 と し て︑ ① 開 墾・ 耕 地 培 養・ 収 穫 等 の 便 宜 の 方 法 を 調 査 し て 布 達 す る︑ ② 獣 類・ 穀 類 種 子 の 頒 布︑ ③ 府 県 願 伺 の 評 議︑ ④ 欧 米 の 農 学 大 校 の よ う な 勧 農 寮 出 張 所 の 設 置︑ を 掲 げ た︒ さ ら に﹁ 出 張 勧 農 寮 ノ 法 方 ハ 別 ニ 取 調 ヘ 置 候 草 稿 御 座 候 ﹂ と 記されており︑別に詳細なプランが練られていたようである︒
こ の 勧 農
4寮 は 内 務 省 開 設 時 に は 勧 業
4寮 と し て 誕 生 す る︒ こ の 間 の 変 遷 を 表 1 に 示 し た︒ ま ず︑ 明 治 六 年 一 一 月 の 伊 地 知 草 案︵ 内 務 省 職 制 私 考 草 案 ︶ で は︑ 勧 農 寮 は 戸 籍 寮 の 次 に 記 さ れ て い る が 等 級 は 付 さ れ て い な い︒ 詳 細 な 日 付 が わ か ら な い の が 残 念 で あ る が︑ 一 一 〜 一 二 月頃に三等寮であった勧農寮は︑ 審議を重ねていくうちに翌年一月に二等寮の勧業寮となり︑ 確 定 時 に 一 等 寮 と な っ た︒ 勧 農 に 工 と 商 と い う 肉 付 け を し て 勧 業 寮 と し 一 等 寮 に 格 上 げ さ れ た の で あ る︒ こ こ に は︑ 農・ 工・ 商 を 総 合 的 に 勧 奨 す る 機 関 を 立 ち 上 げ て︑ 勧 業 殖 産 を 強 力
表 1 勧農寮から勧業寮への変遷
年 月
文書表題等
寮名
等級
6 年 11 月
内務省職制私考草案
勧農寮
―
↓
内務省所管六寮
勧農寮
3 等寮
7 年 1 月
原案
勧業寮
2 等寮
↓
変更確定案
勧業寮
1 等寮
典拠:『内務省史』第 3 巻 979 頁を元に作成。
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に推進しようとした大久保の意図があるのではないだろうか︒
勧農寮は︑ ﹁工﹂が含まれる勧業寮に変更されたため︑工部省の勧工部門が内務省に移管される可能性が浮上した︒ と こ ろ が︑ 当 の 工 部 省 勧 工 寮 は 一 一 月 一 九 日 に 同 省 制 作 寮 に 吸 収 さ れ る か た ち で 廃 止 さ れ て い た の で あ る
︵15
︶
︒ こ の 件 に関して柏原宏紀氏は︑工部卿伊藤博文が内務省の機構を決定する制度取調掛においてリーダーシップを発揮したこ と に よ り ︑ 内 務 省 設 置 に 際 し て ﹁ 工 部 省 は ︑ 実 質 的 に は ︑ 機 構 面 で も 管 轄 も 最 低 限 の 影 響 し か 受 け な か っ た ﹂ と 述 べ て い る
︵16
︶
︒ つ ま り︑ 伊 藤 は 制 度 取 調 掛 に 任 命 さ れ る 前 か ら 内 務 省 に 勧 業 寮 が 設 置 さ れ る 可 能 性 を 予 測 し て︑ 勧 工 寮 業務を製作寮に避難させたのではないだろうか︒
さて︑勧業寮をはじめ︑戸籍︑駅逓︑土木︑地理寮等︑内務省の大部分は大蔵省からの移管であったが︑大蔵省が これらの移管を口をくわえてみていたわけではなかった︒大蔵省租税寮には荒蕪地・山林︑蚕種原紙の売却代金等を 国庫に入れずに保蓄してきた勧業資本金があり︑これを勧業事業費にあてていた︒明治六年一二月︑大蔵卿大隈重信 は︑ 租 税 寮 勧 業 課 の 移 管 を 前 に︑ こ の 勧 業 資 本 金 を 国 庫 に 入 れ て し ま っ た の で あ る
︵17
︶
︒ 後 述 す る よ う に︑ こ れ が 内 務 省勧業事業を停滞させる要因となり︑勧業寮は勧業資本金を取り戻すために腐心するのである︒
3 勧業寮事務章程の公布
明 治 七 年︵ 一 八 七 四 ︶ 三 月 に 公 布 さ れ た 勧 業 寮 事 務 章 程︵ 全 二 七 条 ︶ を み て み よ う
︵18
︶
︒ 第 一 条 で は︑ ﹁ 勧 業 寮 ハ 全 国 農工商ノ諸業ヲ勧奨︑確実︑盛大ナラシムル事務ヲ管掌スル所ナリ﹂と宣言し︑勧業寮を農工商の総合的な勧奨機関 と し て 位 置 づ け た︒ 農 業 関 連 の 条 目 は︑ ① 農 家 に 有 益 な 珍 種 を 分 配 す る︵ 四 条 ︶︑ ② 農 業 学 校・ 勧 農 会 社 制 度 の 創 定 ︵八条︶ ︑③勧農方法の企図︵一二条︶ ︑④農業が不振な場合の原因調査︵一五条︶ ︑⑤食糧・種籾・農具代等の貸与方 法の立案︵一八条︶である︒農家への珍種分配や勧農会社制度創設︑農具貸与等︑具体的な施策を掲げて民業重視の 姿勢を示した︒
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工 業 関 連 の 条 目 は︑ ① 工 業 等 の 健 康 被 害 の 調 査︵ 九 条 ︶︑ ② 発 明 者 の 褒 賞︵ 一 〇 条 ︶︑ ③ 専 売 免 許 付 与︵ 一 一 条 ︶︑ ④工業が不振な場合の調査と対策の報告︵一七条︶である︒褒賞や専売特許等は工業奨励上︑重要であるが︑間接的 な保護・奨励策であり︑ここには︑どのような工業分野をどのように奨励したいのか記されていない︒ 商 業 関 連 の 条 目 は︑ ① 会 社 の 法 則 の 考 案︵ 一 三 条 ︶︑ ② 貿 易・ 商 業 が 衰 退 し た 場 合︑ そ の 原 因 の 調 査 と 振 起 方 法 の 考 案︵ 一 六 条 ︶︑ こ の 他︑ 第 二 条 に﹁ 諸 会 社 ヲ 勧 誘 シ︑ 益 全 国 天 造 人 造 ノ 諸 物 産 ヲ 拡 充 ス ル ヲ 図 ル ヘ シ ﹂ と あ り︑ 工 業関連の条目よりさらに具体的奨励方法を欠いている︒ 勧 業 寮 は 勧 農 寮 構 想 か ら 始 ま っ た た め︑ 農 業 関 連 の 条 目 に は 具 体 的 な 方 策 が 記 さ れ て い た が︑ 工・ 商 に 関 し て は︑ まだ詳細な奨励方法が検討されておらず︑間接的な奨励内容を記した条目の提示にとどまったのである︒ 内 務 省 の 殖 産 興 業 政 策 の 特 徴 は︑ 民 業 重 視 の 姿 勢 に あ る こ と は 間 違 い な い︒ 通 説 で は﹁ 殖 産 興 業 に 関 す る 建 議 書 ﹂ において︑従来の官業重視の工部省路線とちがい︑民業重視の姿勢が萌芽的にあらわれ︑翌年五月の﹁本省事業ノ目 的ヲ定ルノ儀﹂ で明確化されたと説明されている
︵19
︶
︒しかし︑ 民業奨励については︑ この事務章程ですでにその姿勢 ︵特 に農牧業重視︶が示されており︑大蔵省勧農寮時代にも府県に西洋種苗を頒布したり︑国産米・在来農具の調査︑勧 農 会 社︵ 開 農 社 ︶ の 設 立 許 可 等︑ 民 業 を 重 視 し て い た
︵20
︶
︒ さ ら に︑ 小 幡 圭 祐 氏 は 明 治 四 年 か ら 六 年 ま で の 大 蔵 省 の 勧 農政策が︑ ﹁﹁士民﹂による会社のもとで行われる民営事業に依存しつつ︑勧農寮︵租税寮︶はあくまで﹁保証﹂とし て 官 営 事 業 や 財 政 援 助 を 実 行 す る と い う 民 営 奨 励 方 針 を 基 調 と し た ﹂ こ と を 明 ら か に し て い る
︵21
︶
︒ こ れ ま で︑ 内 務 省 設立以前の勧農政策の研究が乏しかったため︑民業重視の姿勢は工部省による官業中心の勧業政策の反省をもとに内 務省期から始まったかのごとく説明されることが多い︒しかしながら︑この姿勢は内務省設置以前の大蔵省期にすで に始まっていたのである︒
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第四四五号 二〇一一年三月三八
二 勧業寮の予算とその実態
1 勧業寮の陣容
明治六年︵一八七三︶一一月二九日︑大久保が内務卿に就任し︑省内人事が進められた︒翌年一月︑勧業権頭には 河瀬秀治が抜擢された︒河瀬は武蔵︑ 小菅︑ 印旛︑ 群馬︑ 入間︑ 熊谷と知県事︑ 県令を歴任した地方行政のプロフェッ ショナルで︑熊谷県では開明県令として蚕糸業の改良や近代教育の発展に力を注いだ
︵22
︶
︒ 勧 業 助 に 任 命 さ れ た 古 谷 簡 一 は︑ 旧 幕 臣 で 慶 応 二 年︵ 一 八 六 六 ︶ に 函 館 奉 行 小 出 大 和 守 秀 実 に 随 い︵ 定 役 出 役 ︶︑ ロシアとの樺太国境交渉のためにサンクトペテルブルグに赴いた経歴がある︒維新後は︑会計官出納司権判事︑民部 省 通 商 大 佑︑ 大 蔵 省 租 税 権 助 等︑ 会 計・ 通 商 畑 を 歩 い て き た
︵23
︶
︒ 勧 業 寮 で は 工 務 を 担 当 し て 富 岡 製 糸 場 や 堺 紡 績 場 等 の業務に従事したが︑その経歴から商務をこなすことも期待されたのかもしれない 勧業権助に任命された岩山敬義︵直樹︶は明治四年からアメリカ︑ヨーロッパで農牧業に関する研修︑調査を行っ た経験をもち︑勧業寮で農務を担当した︒また友田清彦氏は﹁内務省職制私考草案﹂を作成した伊地知正治に勧農寮 の 情 報 を 提 供 し た の が 岩 山 で あ る と 推 察 し て い る
︵24
︶
︒ そ の ほ か 六 等 出 仕 に は︑ 幕 末 の パ リ 万 国 博︑ 明 治 六 年 の ウ ィ ー ン 万 国 博 に 参 加 し た 田 中 芳 男︵ 幕 末 の 開 成 所 で 香 港 の 白 菜 や オ ラ ン ダ の リ ン ゴ を 栽 培 し た 経 験 を も つ ︶︑ 七 等 出 仕 に は ウ ィ ー ン 万 国 博 に 際 し て ヨ ー ロ ッ パ で 蚕 糸 業 等 を 視 察 し︑ そ れ ら の 技 術 を 伝 習 し て き た 佐 々 木 長 淳 が 就 任 し た
︵25
︶
︒ 勧業寮は︑上層部に外国技術・情報を接収するために洋行経験者を配置し︑それを地方行政プロの河瀬が統率すると いう陣営をとっていた︒
2 明治七年三月の仮定額金の申請と勧業寮の実態
内務省は明治七年︵一八七四︶一月に省務を開始したので︑会計年度第七期︵明治七年一〜一二月︶の予算費目中
内務省勧業寮の成立と勧農政策︵國︶三九
に 内 務 省 の 項 目 は 存 在 し な か っ た︒ そ こ で︑ 七 年 一 月︑ 内 務 省 は 経 費 と し て︑ と り あ え ず 一 〇 万 円 と 洋 銀 二 〇 〇 〇 ド ル︵ お 雇 い 外 国 人 給 料 等︶を申請して許可を受けた︒予定では︑ その後︑ 内務省が定額金︵一 年 間 の 経 費 ︶ を 算 出 し て 申 請 し︑ 左 院 財 務 課 の 許 可 を 経 て︑ こ の 金 額 を 月 割 り で 受 け 取 る こ と と な っ て い た︒ し か し︑ 定 額 金 は な か な か 決 定 せ ず︑ よ う や く 三 月 三 一 日 に 仮 の 定 額 金 を 申 請 し た︒ 許 可 を 得 た 金 額は︑月額で常費︵内務省費︶が五万九五五二円 ・ 洋銀二四九四ドル︑ 国費が五万四六五五円 ・ 洋銀一〇三〇ドルとなっていた︒常費は月給︑ 旅 費 等︑ 国 費 は 勧 業 寮・ 駅 逓 寮 諸 費︑ 府 県 営 繕 費 で あ っ た︒ こ の う ち 勧 業 寮 諸 費 は 三 万 〇 二 四 一 円 に の ぼ り︑ 勧 業 事 業 が 重 要 視 さ れ て い た か の よ う に 見 え る
︵26
︶
︒ し か し︑ こ の 額 を 年 額 換 算 す る と 三 六 万 二 八 九 二 円 と な り︑ 第 六 期︵ 明 治 六 年 一 月 〜 一 二 月 ︶ に 勧 業 資 本 金 で ま か な わ れ た 大 蔵 省 の 勧 業 関 係 の 支 出 三 四 万 八 四 二 五 円 と 大 差 が な い の で あ る ︵ 表 2 ︶︒ し か も 第 六 期 勧 業 資 本 金 に は 富 岡 製 糸 場 諸 費 は 含 ま れ て お ら ず︑ こ れ は 別 途︑ 第 六 期 の 歳 出 費 目﹁ 勧 業 費 ﹂ 八 万 四 三 三 七 円 か ら 支 出されたと思われる
︵27
︶
︒ 仮 定 額 金 に よ り 当 面 の 内 務 省 経 費 の 月 額 が 定 ま っ た わ け で あ る が︑ 実 際 は︑ 前 月 か ら の 繰 越 金 等 の 調 整 が あ る た め︑ 表 3 の と お り︑ 月 毎 に 受 け 取 る 金 額 は 異 な っ て い た︒ こ の 後 も 内 務 省 は 繰 越 金 や 毎 月 の 過 不 足 を 計 算 し て 申 請 し︑ そ の 金 額 を 受 け 取 っ て お り ︑ こ の 状 況 は 明 治
表 2 第 6 〜 7 期勧業関係支出内訳 表 3 内務省経費 会計年度
内訳
第 6 期 勧業資本金
第 7 期 3 月 勧業寮諸費
明治 7 年
月 受取額
内藤新宿試験場他 42,782 36,000 1 100,000
富岡製糸場 ― 60,600 2 200,000
堺製糸場 ( 紡績場 ) 6,861 15,300 3 7,923
養蚕取締・蚕種原紙売捌他 134,367 250,992 4 114,207
勧業貸与金・繰替金 58,998 ― 5 47,046
上記以外の勧業諸費 85,633 ― 6 99,129
その他 19,787 ― 計 568,305
合 計 348,428 362,892
*円未満は切り捨て。洋銀は不掲載。
典拠:表 2「明治六年中勧業ノ諸費出方大蔵省協議上申」(『公文録』明治 7 年 10 月 内務省伺 6)。「本月分仮定額金御渡伺」(『公文録』明治 7 年 4 月内務省伺 2)。
表 3「本年仮定額費御渡伺」(『公文録』明治 7 年 8 月内務省伺 2)、より作成。
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第四四五号 二〇一一年三月四〇
八 年 度 の 会 計 年 度 が ス タ ー ト し た 後 の 明 治 八 年 八 月 頃 ま で 続 く の で あ る
︵28
︶
︒ 話を元に戻して第七期の勧業寮諸費から大蔵省と内務省の勧業政策を検討しよう︒表 2 において大蔵省期 ︵第六期︶ と内務省期︵第七期︶とを比較すると支出合計には大差がなく︑主要な費目も継承していることから︑内務省勧業寮 の予算は基本的に大蔵省の勧業政策を参考に決定されたものと思われる︒勧業寮費の中で目立つのは養蚕取締︵大総 代の旅費 ・ 月給等︶ ︑原紙売捌方︵各地の売捌所諸費︶ ︑他︵掃立原紙買上代︶二五万余円で︑第六期から ほぼ倍増し︑ 第七期全体の三割を占めている︒養蚕取締は大蔵省租税寮勧業課の主要業務で︑内務省設置後︑大久保も蚕種の粗製 濫 造 を 防 ぐ た め そ の 取 締 を 重 要 視 し て い た
︵29
︶
︒ こ の 結 果︑ 第 七 期 の 内 藤 新 宿 試 験 場 費 や 勧 業 諸 費 に し わ 寄 せ が 来 た の である︒これが内務省が開かれて一躍一等寮となった勧業寮の実態であり︑右に述べたようにこの状態は明治八年半 ばまで続いた︒つまり︑内務省勧業寮は︑開設から一年半の間︑新規事業に着手できず︑大蔵省から引き継いだ勧業 事業でさえ︑堺製糸場︵紡績場︶を除いて拡大することができなかったのである︒
仮定額金を申請した四日後の明治七年四月四日︑大久保の代理をつとめる木戸孝允内務卿が︑勧業経費の支払いに ついて上申した︒ここで問題となったのは︑明治六年中に大蔵省が着手した勧業事業費の支払いが残っていたことで ある︒木戸は︑勧業寮設置以前の勧業諸費は勧業資本金から支出されたこと︑六年一二月にその勧業資本金が出納寮 に入ってしまったことなどをあげ︑六年度以前の勧業諸費の支払残金は︑大蔵省が支払うべきであると上申したので あ る︒ 左 院 財 務 課 が 勧 業 寮 に 作 成 さ せ た 六 年 度 の 勧 業 関 係 の 仕 訳 書 に よ る と 勧 業 資 本 金 は 一 五 四 万 円 余 と な っ て い た
︵30
︶
︒ 明 治 七 年 六 月︑ こ の 件 に 決 着 が つ か な い ま ま︑ 河 瀬︑ 古 谷︑ 岩 山 が 連 名 で 大 久 保 に﹁ 勧 業 意 見 ﹂ を 提 出 し た
︵31
︶
︒ 意 見の前半では︑勧業業務の重要性︑緊急性を示し︑後半では﹁勧業事務ノ進歩ハ資金ノ多寡ニ応シ﹂ていることを強 調し︑勧業資本金の奪回を訴えたのである︒この意見書で河瀬等は︑常費と内藤新宿試験場 ・ 富岡製糸場 ・ 堺紡績所 ・ 養 蚕 取 締 関 係 費 用 を あ わ せ て﹁ 歳 額 ﹂ を 提 出 し た が︑ 左 院 財 務 課 に 節 減 を 迫 ま れ た こ と を 記 し︵ ﹁ 歳 額 ﹂ は 七 年 三 月
内務省勧業寮の成立と勧農政策︵國︶四一
の 仮 定 額 金 と 思 わ れ る ︶︑ こ の﹁ 歳 額 ﹂ は︑ わ ず か に 現 在 着 手 し て い る 事 業 を 概 算 し た だ け で︑ 新 規 の 事 業 費 は 入 っ ていないこと︑この額では︑今後︑何の事業も興すことができないうえ︑既設事業も成功を期待することができない と 訴 え た︒ そ し て︑ ﹁ 定 額 ﹂ の 他 に︑ さ ら に 一 〇 〇 万 円 の 下 付 を 要 求 し た い と い う の で あ る︒ こ の 一 〇 〇 万 円 の 出 所 としてあてにしたのが﹁勧業資本金︑百五拾余万円﹂であり︑この中から一〇〇万円を三年間に分けて下付してもら うという計画であった︒ 3 明治七年八月の仮定額金の増額申請 明治七年八月︑大久保は﹁内務省仮定額金経費概表﹂を提出し︑次のように述べた
︵32
︶
︒ ・・ ・・ 本 年 一 月 中︑ 当 省 御 設 置 有 之︑ 各 寮 司 之 儀 ハ 大 蔵︑ 工 部 両 省 よ り 分 附 相 成 候 儀 ニ 而︑ 事 務 之 費 金 年 額 之 高︑ 当 省 創 立 間 合 も 無 之 確 定 難 致 者 勿 論 ニ 候 得 共︑ 本 省 及 各 寮 司 仮 定 額 凡 積 を 以 取 調︑ 本 年 三 月 中 上 申 致︑ 右 仮 定 額 之 目 途 高︑ 月 割 ヲ 以 御 下 渡 之 儀 申 上︑ 月 々 大 蔵 省 ヨ リ 請 取 事 務 為 相 運 居 候 処︑ 六 月 ニ 至︑ 定 額 御 決 定 之 御 指 図 無 之 中︑ 事 務 着 手 ニ 付︑ 無 余 儀 廉 多 々 相 生 シ︑ 就 而 者 是 迄 閉 塞 渋 滞 之 事 業 等 夫 々 引 立 実 際 相 調 候 処︑ 半 年 試 検 之 概 算 ニ 而 者︑ 先 般 上 申 之 目 途 金 高 ニ 而 者︑ 迚 も 引 足 不 申 儀︑ 判 然 致 来候 ・・・・ 大 久 保 が 問 題 と し て い る の は︑ ﹁ 無 余 儀 廉 ﹂ に よ り﹁ 閉 塞 渋 滞 之 事 業 ﹂ が 発 生 し て い る こ と と︑ 三 月 に 申 請 し た 仮 定 額 金 で は︑ 事 業 を 進 め る う え で と て も 足 り な い こ と で あ る︒ そ こ で 大 久 保 は︑ 三 月 に 申 請 し た 額 を 大 幅 に 増 額 し︑ 新 た な 仮 定
表 4 内務省歳額 部 局 7 年 8 月
仮定額金 8 年 5 月 定額金 本 省 208,638 249,466 勧業寮 776,150 2,008,430 警保寮 39,545 40,018 戸籍寮 19,118 25,491 駅逓寮 393,522 642,601 土木寮 91,736 213,539 地理寮 83,880 287,508
測量司 76,615 ―
合 計 1,689,204 3,467,053
*円未満切り捨て。洋銀は不掲載。
典拠:「本年仮定額費御渡伺」(『公文録』
明治 7 年 8 月内務省伺 2)、「本省定額金 ノ儀伺」(『公文録』明治 8 年 6 月内務省 伺 2)、「本省事業ノ目的ヲ定ムルノ儀(「明 治八年定額金見込書」)」(『公文録』明治 8 年 10 月内務省伺 2)より作成。
人文学報
第四四五号 二〇一一年三月四二
額 金 と し て 約 一 七 〇 万 円 を 申 請 し た の で あ る︵ 表 4 の﹁ 七 年 八 月 仮 定 額 金 ﹂ の 欄 ︶︒ 明 治 七 年 一 月 〜 六 月 の 半 年 間 に 内務省に下付された金額は︑洋銀を除くと約五七万円である︵表 3 ︶︒これを年額換算すると約一一四万となるので︑ 大 久 保 は 八 月 仮 定 額 金 で 年 額 経 費 を 一 ・ 五 倍 に 見 積 も っ た こ と に な る︒ 内 訳 で 特 に 目 立 つ の が 勧 業 寮 の 七 七 万 円 余 で ある︒これは大久保が ﹁勧業︑ 地理両寮之如キハ追々 事 業 蕃 殖 之 見 込 有 之 候 間︑ 将 来 之 経 費 ヲ モ 相 加 ヘ 申 候 ﹂ と 述 べ て お り︑ 勧 業 寮 費 に﹁ 将 来 之 経 費 ﹂ が 組 み込まれたためである︒
次 に 勧 業 寮 の 歳 額 を 検 討 す る た め に 表 5 の﹁ 七 年 三月仮定額金﹂ と ﹁七年八月仮定額金﹂ を比較する︒ 三 月 仮 定 額 金 の﹁ 月 給・ 旅 費 他 ﹂ の 詳 細 は 不 明 の た め︑ こ れ を 八 月 仮 定 額 金 か ら 除 く と 六 七 万 四 六 〇 〇 円 と な り︑ 八 月 仮 定 額 金 は 三 月 仮 定 額 金 か ら ほ ぼ 倍 増したこととなる︒ 費目毎に比較すると堺製糸場 ︵紡 績 場 ︶ が 倍 増 し て い る 点 が 目 立 つ が︑ 最 大 の 増 額 要 因はやはり ﹁勧業資本金﹂ 約三〇万円の新設である︒ こ れ が︑ 大 久 保 の 述 べ た﹁ 将 来 之 経 費 ﹂ で︑ 前 述 し た河瀬等の意見を反映させたものである︒ 大 久 保 は こ の 上 申 の 後︑ 八 月 六 日 に 台 湾 出 兵 後 の 交 渉 の た め 横 浜 を 発 し た︒ 左 院 財 務 課 は 本 件 を 早 速 審議にかけるが︑ 申請額を ﹁過当﹂ として認めず︑ ﹁寧︑
表 5 内務省勧業寮(仮)定額金 費 目 7 年 3 月
仮定額金 7 年 8 月
仮定額金 8 年 5 月 内藤新宿出張所他 36,000 36,000 定額金 147,300
富岡製糸場 60,600 58,200 61,800
堺製糸場 ( 紡績場 ) 15,300 29,400 29,400 養蚕取締関係費 250,992 244,500 78,375
勧業資本金 306,500 1,000,000
月給・旅費他 不明 101,550 135,960
農事習学場 ( 駒場農学校 ) 64,800
工業試験諸費 50,000
工業習学場 45,000
商業試験諸費 50,000
商業習学場 45,000
房総牧場諸費 795
地方官委託費 300,000
合 計 362,892 776,150 2,008,430
*円未満切り捨て。洋銀は不掲載。
典拠:「本月分仮定額金御渡伺」(『公文録』明治 7 年 4 月内務省伺 2)、「本 年仮定額費御渡伺」(『公文録』明治 7 年 8 月内務省伺 2)、 「本省 事業ノ目的ヲ定ムルノ議(「明治八年定額金見込書」)」(『公文録』
明治 8 年 10 月内務省伺 2)より作成。
内務省勧業寮の成立と勧農政策︵國︶四三
仮ニも常額ヲ不被定シテ是迄ノ如ク月々見積ヲ以︑諸費ノ金額申立次第調査ノ上︑御下渡有之候ハヽ却テ穏当ノ費用 相立テ︑事業上ニも相叶可申と被存候﹂とし︑八月二〇日︑正式に不許可の指令が発せられた︒この時︑大久保はす でに上海の人であった︒ 内務省は︑これ以後も毎月︑経費見積書を作成して申請し︑許可を得てその金額を受け取るという煩雑な作業を繰 り返すこととなったのである︒月毎の申請は︑事務渋滞を引き起こすこと︑月毎に許可が下りるので費金の下付が遅 れて支払いが滞る可能性があること︑ そして何よりも大規模な計画が建てにくいというディメリットがある︒しかし︑ これを左院財務課や大蔵省側からみれば︑支出を抑制できるという大きなメリットになるのである︒内務省経費を毎 月申請させて﹁穏当ノ費用相立テ﹂るのが財務課のねらいであった︒ 財務課が増額を認めなかった大きな理由は︑八月一二日に︑太政官が院省使府県に発した節倹の達にあろう︒この 達は七月三一日の大隈重信の上申に応えたものである︒この上申で大隈は︑内変外事の非常事態の対処として︑官省 使 府 県 の 建 築・ 営 繕 費︵ 進 行 中 も 含 む ︶︑ 臨 時 費︑ 土 木 費︑ そ し て﹁ 勧 業 資 本 ノ 為 メ 新 ニ 人 民 ヘ 貸 付 等 ﹂ を 一 切 廃 止 す る と い っ た﹁ 非 常 ノ 節 倹 ﹂ を︑ ﹁ 厳 重 御 下 命 ﹂ し て く れ る よ う に 要 請 し た の で あ る
︵33
︶
︒ 大 蔵 卿 の 大 隈 が 勧 業 貸 付 金 を 不急の費用と位置づけた意味は大きい︒
さて︑木戸が明治七年四月に上申した︑第六期の勧業諸費・支払残金を大蔵省が支払うべきであるとの上申である が︑ 一 〇 月 に な っ て も ま だ 決 着 が つ か ず︑ ﹃ 公 文 録 ﹄ の 記 録 で は 同 月 二 〇 日 に︑ 財 務 課 に お い て 関 係 書 類 を 回 覧 す る 記録で終わっており︑どのように決着がついたのか不明である
︵34
︶
︒
4 大久保の帰国と明治八年の定額金の申請
明治七年︵一八七四︶一一月末︑台湾出兵の事後処理を終えた大久保が帰国した︒この後︑勧業寮は大久保不在の 間に棚上げにされた事業の巻き返しと︑新規事業の予算獲得に邁進していくのである︒
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第四四五号 二〇一一年三月四四
明治七年四月︑内務卿を兼務した木戸孝允が屑糸紡績所︵新町紡績所︶の設立を上申したが︑ ﹁当分見合置可申事﹂ と の 裁 定 と な っ た︒ そ こ で︑ 大 久 保 は 一 二 月 に 設 立 の 再 伺 を︑ 翌 八 年 三 月 に 再 三 伺 を 提 出 し︑ 予 算 を 勝 ち 取 っ た
︵35
︶
︒ また︑明治七年七月に大久保が﹁農務ノ本宗ヲ確立﹂するため︑家畜医︑耕耘・牧畜教師︑農家化学者︑耕耘・牧畜 の老練農夫を募集する旨を上申したが︑翌八年二月になっても何の指令も下りなかった︒そこで河瀬が﹁農業進歩之 基 礎 ニ シ テ 実 際 施 行 之 順 序 ニ 於 テ 一 大 事 之 儀 ニ 付︑ 至 急 御 許 允 相 成 候 様 致 度 ﹂ と 催 促 し た 結 果︑ 同 月 に 裁 可 さ れ た
︵36
︶
︒ さ ら に︑ 明 治 八 年 五 月 五 日 に 大 久 保 が 上 申 し た﹁ 牧 羊 開 業 ノ 儀 ニ 付 伺 ﹂ が 同 月 八 日 に︑ 同 年 一 〇 月 一 四 日 に 上 申 し 三 万 七 三 三 三 円 も の 牧 羊 地 買 上 費 を 計 上 し た 伺 が ︑ 同 月 一 八 日 に 許 可 さ れ た
︵37
︶
︒ ま た︑ 後 述 す る よ う に︑ 明 治 八 年 五 月以降︑勧業寮関係者の外国派遣が活発化するのである︒
そして︑大久保は明治八年五月二四日に︑前年八月に認められなかった定額金を増額し︑勧業寮の八年度予算とし て﹁ 明 治 八 年 定 額 金 見 込 書 ﹂︵ 以 下 ①︒ 本 書 の 申 請 額 は 表 5 ﹁ 八 年 五 月 定 額 金 ﹂ に 示 し た ︶ を 提 出 し た︒ 勝 田 政 治 氏 が明らかにしたように︑①とセットとなる文書として︑②﹁山林局設立ノ議ニ付伺﹂ ︑③無題の﹁伺い﹂ ︵各地方警察 設置伺︶ ︑④﹁海外直売ノ基業ヲ開クノ議﹂ ︑そしてこれら四件の総論として⑤﹁本省事業ノ目的ヲ定ムルノ議﹂が提 出された
︵38
︶
︒ ① は 勧 業 寮 の 八 年 度 予 算 案 で あ り︑ そ れ 以 外 の 寮 の 予 算 案 は 同 月 二 七 日 に﹁ 明 治 八 年 本 省 并 各 寮 定 額 金 取 調 牒 ﹂ と し て 提 出 さ れ た
︵39
︶
︒ 別 々 に 申 請 さ れ た 理 由 は︑ 表 4 の 八 年 五 月 の 欄 に 示 し た よ う に︑ 勧 業 寮 予 算 は 他 寮 と は 比 較 に な らない ほ ど突出しており︑それ相当の説明が必要であったからで︑その説明が⑤なのであろう︒⑤では緊要事業とし て︑①〜④に対応してⓐ樹芸・牧畜・農工商︑ⓑ山林保存︑樹木栽培︑ⓒ地方取締︑ⓓ海運の四点が掲げられ︑予算 増額や新規事業等の必要性が訴えられた︒これに対する回答は一〇月一九日に発令され︑ⓐⓑⓓの﹁三件ハ此程相達 候一週年間経費金ニ基キ尚事業ノ目途取調更ニ可伺出候﹂と︑五月一八日の太政官達︵一周年の収入・経費等の総額 を予算雛形にそって作成し大蔵省に送致する︶を利用して内務省に再考を促した︒ⓒは﹁行政警察ノ規則方法ハ不日
内務省勧業寮の成立と勧農政策︵國︶四五
何分ノ指令可及事﹂と発令され︑一二月に行政警察規則の改正が公布された
︵40
︶
︒ さ て︑ 永 井 秀 夫 氏 は︑ 大 久 保 が ① で 農 工 商 を 三 部 門 に 分 け て﹁ 農 ヲ 基 ト シ 工 商 之 ニ 応 シ ﹂ と 述 べ て い る こ と か ら︑ 内務省の殖産興業政策における大久保の意図・構想では﹁農牧業・農産加工工業が中心におかれるにいたったことを 知ることができる﹂と判断している
︵41
︶
︒果たしてこの判断は正しいのであろうか︒
勧業寮は︑当初︑勧農寮として構想されたため︑工商部門の事業は後れをとることとなった︒また︑工といっても 大蔵省から引き継いだ富岡製糸場や堺製糸場等︑農産加工業部門が中心であり︑鉄道︑船舶といった重工業部門は相 変 わ ら ず 工 部 省 の 所 管 で あ っ た︒ ﹁ 商 ﹂ に 関 す る 事 業 は と り わ け 進 ま ず︑ よ う や く ② に お い て 農 工 を 仲 介 す る 存 在 と して﹁商﹂の重要性が提示され︑ ﹁勧商事務ノ至急最重ナル所以﹂が説かれる始末であった︒⑤で﹁工業未タ挙ラス︑ 商法未タ盛ナラス﹂と嘆きながらも︑農業不振について記していない点も︑大久保が工商政策の後れを特に重視して いたことを裏付けるものである︒
工商の事業が進まなかったのは︑右の理由に加え︑内変外事と大久保の不在︑そして何よりも厳しい予算制限が要 因であった︒明治七年一月から①が書かれるまでの一年半の勧業寮は︑大蔵省から引き継いだ勧農業務を持続するし かなく︑ ﹁農ヲ基ト﹂ せざるをえなかったのである︒そこで大久保は︑ ﹁農﹂ に応じる ﹁工商﹂ の事業拡張を急務と考え︑ ﹁工 業試験諸費﹂ ﹁工業習学場諸費﹂ ﹁商業試験諸費﹂ ﹁商学試験場費﹂ ︵表 5 ︶を新設しようとしたのである︒つまり︑大 久 保 は ① に お い て︑ ﹁ 農 ﹂ に 応 じ て い な い﹁ 工 商 ﹂ の 予 算 を 獲 得 し て︑ 明 治 七 年 三 月 の 事 務 章 程 に あ る 農 工 商 三 業 の 総合的な奨励をめざしたのである︒①が書かれた時点で﹁農牧業・農産加工工業が中心におかれるにいたった﹂ので はなく︑大蔵省から勧業事業を引き継いだ時点︑すなわち勧業寮がスタートした時点で﹁農牧業・農産加工工業﹂中 心なのであった︒
また︑ ① ︵表 5 ﹁八年五月定額金﹂ ︶ では︑ 前年度に勧業費を圧迫していた ﹁養蚕取締関係費﹂ が三分の一に減少した︒ これは︑蚕種取締の変更により︑養蚕取締費と掃立原紙買上代がなくなり︑原紙売捌諸費のみとなったためで︑工商
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第四四五号 二〇一一年三月四六
関係費の新設を容易にした要因でもあろう︒
① の 目 玉 は 何 と い っ て も 勧 業 資 本 金 一 〇 〇 万 円 で あ る︒ 勧 業 寮 は 今 度 こ そ こ れ を 引 き だ し て 勧 業 費 と し て 使 用 し よ う と し た の で あ る︒ 大 久 保 は︑ 勧 業 資 本 金 に つ い て 農 工 商 を 勧 奨 す る 資 本 と し︑ 欧 米 動 植 物 の 購 入 や 農 具 改 良 費 等︑ 多 く の 使 途 を 掲 げ た が︑ 詳 細 な 費 目 は﹁ 実 際 着 手 ノ 方 法 ﹂ が 決 定 さ れ た後に明記するとした︒
さて︑ ①の勧業資本金の項には左の付箋が貼付されている︒ 本 文 御 許 可 ノ 上 ハ 現 ニ 伺 済 相 成 居 候︑ 屑 糸 器 械 諸 費 凡 金 拾 八 万 四 千 円 余︑ 牧 羊 場 開 業 費 用 ノ 内 凡 金 六 万 四 千 円︑ 其 他 商 業 勧 奨 諸 費 凡 金 参 拾 万 円︑ 毛 布 器 械 設 立 諸 費 凡 金 弐 拾 弐 万 円 等 ノ 類 ハ 勿 論︑ 其 外 民 力 ヲ 補 助 ス ル 費 用 等 モ都而本条金額ノ内ヨリ支出可致積ニ候事 大久保はすでに裁可を得ている新町紡績場費や下総牧羊場費を勧業資本金から支出することによって︑今まで勧業 資本金の復活を渋ってきた左院財務課と大蔵省に圧力をかけたのである︒
明治八年度の勧業寮経費︵決算額︶を表 6 に記した︒結果として①の申請額は大幅に削減された︒しかし︑第七期 歳出の﹁勧業費﹂三四万円余に比すれば一二万円余も増額され︑内藤新宿出張所他の経費は前年度の倍額となったの で あ る︵ 註
四四五三円が本寮諸経費の中に組み込まれていたが︑使途の詳細は不明である︒小額ながらも新規予算が認められた ウィーン万国博事務局の事業︵陶工︑染工︑玉工︑夜景写真術等の試験︶が勧業寮に移管された︒商業試験費として は 別 に 支 出 さ れ た︒ 工 業 習 学 場︑ 商 業 習 学 場 は 実 現 し な か っ た が︑ 工 業 試 験 費 と し て 内 山 下 町 試 験 場 費 が 獲 得 さ れ︑
27参 照 ︶︒ 勧 業 資 本 金 は 認 め ら れ な か っ た が︑ そ こ に 組 み 込 ま れ て い た 新 町 紡 績 場 や 下 総 牧 羊 場 等 の 費 用
表 6 明治 8 年度勧業寮経費
費 目 金 額
本寮諸経費 133,070
内藤新宿出張所他 73,968
富岡製糸場 67,151
堺製糸場(紡績場) 19,425
蚕種原紙売捌所 49,653
農事習学場 848
内山下町試験場 25,714
下総牧羊場 64,316
下総取香種畜場 20,324
安房嶺岡種畜場 436
新町紡績所 7,816
米国博覧会事務局 3,360
合 計 466,081
*円未満切り捨て。洋銀は不掲載。
典拠:『内務省年報・報告書』第 2 巻 151-166 頁より作成。
内務省勧業寮の成立と勧農政策︵國︶四七
こ と は 勧 業 寮 と し て 一 歩 前 進 し た こ と に な る︒ し か し︑ 工 商 拡 大 路 線 は 軌 道 に 乗 ら ず︑ ﹁ 農 ヲ 基 ト シ ﹂ し て い る 状 態 には変わりはなかった︒
三 勧業寮の勧農政策
1 内藤新宿出張所と植物試験
前章では事務章程や予算等から勧業寮の実態について究明したが︑本章では勧業寮の政策である植物試験︑外国種 苗の購求・頒布︑国内外の農業調査を分析し︑ ﹁はじめに﹂で掲げた課題に答えることにする︒
明治五年 ︵一八七二︶ 一二月に大蔵省が開設した内藤 新宿試験場は︑ 七年一月に内務省に移管され︑ 勧農政策 の中心機関となった︒ 六月には事業拡張のため試験場か ら出張所に格上げされ︑ 一〇月には所内に農業博物館が 設置されるなど拡充を続けていった
︵42
︶
︒ 発足当初の勧業寮は︑ なかなか新規事業に着手するこ とができなかったが︑ 限られた予算内において︑ 大蔵省 から引き継いだ植物試験を着実に進めていた︒ 表 8 に第 八期︵明治八年一〜六月︶から明治九年度まで︑ 勧業寮 農 務 課 が 管 理 す る 田 園 を 反 別 に 示 し た︵ ﹁ そ の 他 ﹂ に は 薬 草 園︑ 用 材 園︑ 各 見 本 園 が 含 ま れ る ︶︒ 第 八 期 か ら 八 年度に植物園の広さが倍増しており︑ これは八年度にお
表 8 勧業寮植物園反別(単位:反)
種 別 第 8 期 8 年度 9 年度
果 樹 園 69 127 149
牧 草 園 20 44 42
穀 菜 園 36 46 31
稲 田 ― 23 23
各用植物園 ― 21 21
そ の 他 13 18 35
合 計 138 279 301
表 9 勧業寮植物園の内外種
明治 8 年度 内 外 外種率
果 樹 園 76 398 84
牧 草 園 0 52 100
穀 菜 園 296 204 41 稲 田 121 0 0 各用植物園 125 23 16 合 計 618 種 677 種 52%
*反未満は切り捨て(合計値は原典と異なる)。
典拠:『内務省年報・報告書』第 2、3 巻より作成。
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第四四五号 二〇一一年三月四八
ける内藤新宿出張所費の増額に比例しているようである︒種別では何れの年度も果樹園が半数近くを占め︑その試験 に力が入れられていたことが判明する︒
表 9 に 明 治 八 年 度 の 各 植 物 園 の 外 国 種 比 率 を 示 し た
︵43
︶
︒ 果 樹 園 で は 内 国 種 七 六︑ 外 国 種 三 九 八︑ 合 計 四 七 四 種︑ 一 万 七 六 一 五 株 の 果 樹 が 植 え ら れ︑ 外 国 種 の 割 合 は 八 四 % と 圧 倒 的 で あ っ た︒ 果 樹 園 の 株 数 の 内 訳 は リ ン ゴ が 七四二八株と最も多く︑次がブドウ二九五四株である︒一方︑穀菜園では穀類・豆等が栽培され︑それらの外国種の 割合は四一 % と高くない︒明治八年度の植物園では︑果樹 ・ 牧草園︵合計一九一反︶の外国種の割合がかなり高いが︑ 穀菜園・稲田・各用植物園︵合計九〇反︶の割合は低く︑植物園全体の外国種の割合は五二 % である︒
次に果樹試験に力点が置かれた理由を検討する︒第一に果実の味の魅力である︒田中芳男は︑ 慶応三年︵一八六七︶ 一〇月にアメリカから送られてきたリンゴ について︑その﹁果実は見た所もよく味も良いので人々は驚きました︑こ ん な も の が 世 の 中 に あ る の か と い つ て 珍 し が つ た ﹂ と 述 懐 し て い る
︵44
︶
︒ ま た︑ 大 久 保 利 通 は 岩 倉 使 節 団 の 一 員 と し て 渡航中︑自宅で栽培するためにリン ゴ とブドウを送っている︒どのような意図か不明であるが︑内務省発足以前から 大久保が果樹に興味をもっていたことは確かである
︵45
︶
︒ 第二に︑明治四年九月に︑いわゆる﹁田畑勝手作の禁﹂が解かれ︑適地適作が奨励されたことである︒これを契機 に水稲生産の劣等地に適する商品作物が模索されることとなり
︵46
︶
︒その候補として果樹が選択された︒
第三に果樹のもつ価値の多様性である︒明治九年二月︑勧業寮が果樹試験を府県に依頼する際︑勧業寮七等出仕の 武 田 昌 次 が︑ ﹁ 菓 実 ノ 性 質 滋 味 適 応 ニ 依 テ 或 ハ 之 レ ヲ 砂 糖 漬 ト シ︑ 或 ハ 之 レ ヲ 酒 ニ 醸 造 シ 其 外 種 々 ノ 製 造 方︑ 人 為 ノ 巧妙ヲ尽シ︑ ・・・・ 将来︑其輸入ノ幾分ヲ減省シ反テ彼国へ輸出スルノ一品ニ供スヘキ﹂と述べているとおり︑果実は 生食の他に︑保存食や酒等にもなり︑多様な価値を生み出すのである
︵47
︶
︒
近世に作付けが米麦雑穀に制限されたのは飢饉対策でもあった︒明治になっても食糧保存は重要な課題であり︑内 藤新宿出張所では内外種の果樹をヨーロッパ製造法にならい砂糖漬にした︒その結果は﹁欧州精製ノ品ニハ比例シ難
内務省勧業寮の成立と勧農政策︵國︶四九
タ ケ レ ト モ︑ 如 此 シ テ 貯 蓄 ス レ ハ 寒 暑 ヲ 不 論︑ 数 年 間 ノ 久 シ キ 腐 敗 靡 爛 ノ 掛 念 ナ ク ﹂ 保 存 で き る こ と が わ か っ た︒ こ の 砂 糖 漬 は 府 県 に 頒 布 さ れ る こ と に な っ た
︵48
︶
︒ 勧 業 寮 は 果 樹 を 各 府 県 で 栽 培 さ せ る と と も に︑ 果 実 の 保 存 方 法 を 広 め︑ 将 来 的 に は輸出品として育成しようとしたのである︒
2 外国種苗の購入と頒布
明治八年度の外国種苗の購入先を表
浜 に 運 ぶ よ う に 要 請 し た
︵ヨ ー ク ま で は 船 便︑ こ こ か ら サ ン フ ラ ン シ ス コ ま で は 鉄 道︑ そ し て 再 度 船 便 で 横 か も し れ な い の で︑ 輸 送 ル ー ト は イ ン ド 洋 経 由 で は な く︑ マ ル セ ー ユ か ら ニ ュ ー ノ 流 通 モ 無 之︑ 熱 地 ヲ 数 日 航 海 候 ハ ヽ︑ 悠 然 萌 芽 ノ 上 ニ テ 速 ニ 腐 朽 ﹂ し て し ま う し よ う と し た︒ 岡 の 意 見 に 加 え︑ 田 中 芳 男 と 武 田 昌 次 が﹁ 生 木 ヲ 荷 造 リ 致 シ 空 気 培 植 候 ハ ヽ 一 層 有 益 ノ 事 ト 被 存 候 ニ 付︑ 輸 送 之 手 段 ヲ 不 顧 ﹂︑ フ ラ ン ス か ら 輸 入 米 国 ニ 不 如 ヵ 故 ニ 不 得 止 是 迄 米 国 ヨ リ 取 寄 来 候 得 共︑ 可 相 成 ハ 世 界 有 名 之 種 類 ヲ よ う と し た 際︑ 中 属 の 岡 毅 は︑ フ ラ ン ス の ブ ド ウ が 最 上 で は あ る が︑ ﹁ 輸 送 ノ 便︑ た よ う だ︒ 例 え ば︑ 勧 業 寮 が 明 治 九 年︵ 一 八 七 六 ︶ 二 月 に ブ ド ウ 苗 木 を 取 り 寄 せ て き た こ と が 考 え ら れ る︒ さ ら に 運 輸 上 の 都 合 と 地 理 的 要 因 も 大 き く 影 響 し て い る 理 由 と し て︑ 勧 業 寮 農 務 課 の リ ー ダ ー・ 岩 山 敬 義 が︑ ア メ リ カ で 農 業 修 行 を し が 清 国 に 渡 っ て 購 入 し て き た も の で あ る︵ 後 述 ︶︒ 購 入 先 が ア メ リ カ に 偏 っ て い 清 国 か ら 一 七 種 一 二 二 三 株 も の 果 樹 を 購 入 し て い る︒ こ れ ら の 果 樹 は 武 田 昌 次 等
10に掲げた︒ アメリカからの輸入が多いが︑
49
︶
︒ ま た︑ ア メ リ カ は ヨ ー ロ ッ パ に 比 し て 距 離 的 に 近 く︑
表 10 明治 8 年度 外国種苗の購求先・種数
種類 (単位等) 米 独 仏 豪 清 ジャワ
苗木 果樹 (株数) 50 (2,553) 17 (1,223)
各用植物(株数) 3 (117) 3 (70)
コーヒー(株数) 9(151)
幾那 (株数) 4 (60)
種子 用材 (袋) 13 (13) 204 (204)
牧草 (斤) 7 (2,582) 17 (17)
麦 (合) 4 (49,843)
甜菜 (合) 3(837)
典拠:『内務省年報・報告書』第 2 巻 21-23 頁より作成。
人文学報
第四四五号 二〇一一年三月五〇
運賃が安かったことも︑アメリカ偏重の理由の一つであろう︒
外 国 か ら 取 り 寄 せ ら れ︑ ﹁ 内 国 栽 培 法 ﹂ に よ り 育 て ら れ た 作 物 は 勧 業 寮 で 順 次 回 覧 に 供 さ れ た︒ 明 治 七 年 六 月 に 大 小麦類七品︑七月に穀菜類一五品︑八月に蔬菜果類一四品が回覧され︑その品質は本国のものと変わりないという報 告であった︒もちろん不作もあり︑八年八月には発芽しなかったオリーブや︑虫害により成熟しなかったブドウの例 が報告された
︵50
︶
︒ 勧業寮は内藤新宿における試験とともに︑各府県における試験栽培に力を入れていくのである︒明治七年から一八 年 ま で 内 外 の 果 樹・ 穀 菜 等 が 府 県 に 頒 布 さ れ た 数 量 は︑ 三 九 〇 石 余︑ 株 数 五 二 万 七 四 〇 〇 余 株 に 及 ん だ
︵51
︶
︒ こ の 頒 布 は目的別に次の①〜③に分けることができる︒
①日本各地において植物の適否を判断するために頒布
明治七年一〇月︑勧業寮は﹁国ニ依リ風土気候ノ差異アルヨリ︑自然適不適等モ有之︑其良否得失ニ至テハ︑一所 ノ試験ヲ以テ難相定﹂と考え︑東京以外の府県に外国種苗の試植を依頼することにした︒頒布された種類は大蔵省時 代より格段に多くなり︑ 一〇月の頒布時には果樹ではモモ︑ リン ゴ ︑ チェリー︑ ナシ︑ ブドウ等一二種︑ 穀菜は燕麦︑ トマト︑トウモロコシ︑甜菜等七種が頒布されることとなった︒勧業寮からの依頼に同意した府県は︑果樹について は耕耘数︑肥料︑季候︑旱雨の適否︑成長状況︑損傷︑果実の多寡・重量の七項目︑穀菜については土質︑肥料︑播 種・ 収 穫 の 月 日︑ 播 種 量︑ 収 穫 量︑ 温 度︑ 降 雨 量︑ 損 傷︑ 成 長 状 況 等︑ 一 四 項 目 を 報 告 す る こ と に な っ た
︵52
︶
︒ 勧 業 寮 は東京での試験をふまえ︑次の段階として各地における各植物の適性データの収集を始めたのである︒
試 験 結 果 は︑ 栃 木 県 の よ う に ブ ド ウ が 地 味 に 適 し て 繁 茂 し た の で︑ さ ら に 苗 を 四 〇 本︑ 要 求 し た 県 も あ る が
︵53
︶
︑ 従 来から説かれているように各地に定着した外国種苗は少なかったようである︒
②従来から同種を生産していた地域に頒布
明 治 八 年 二 月︑ 勧 業 寮 は︑ ﹁ 適 地 ニ 於 テ 試 植 候 ハ ヽ︑ 内 外 品 位 ノ 良 否 モ 瞭 然 ﹂ で あ る と 考 え︑ ア メ リ カ か ら 取 り 寄
内務省勧業寮の成立と勧農政策︵國︶五一
せた綿種︵アップランド綿と海島綿︶の試験を︑ 従来からの綿栽培地である愛知︑ 堺︑ 山口︑ 飾磨︑ 奈良︑ 栃木︑ 新治︑ 白川県に依頼した︒また栽培法については調査中であるので︑在来の方法で栽培し︑成育の景況を報告するように伝 えた︒結果は愛知県の報告に﹁不実ニテ其侭腐敗︑或ハ不苗芽分モ有之﹂とあるように各県でも概ね不良であった
︵54
︶
︒ また︑アメリカの煙草も︑豊岡県の煙草産地で試験された︒その結果は初年のために十分な試験ができず︑収穫の 多寡や品位の優劣があったが︑ ﹁何レモ適合可致ニ付︑漸次産殖之見込ニ有之候﹂という報告であった
︵55
︶
︒
③寒地・暖地栽培を意図して頒布近世から砂糖原料として栽培されている甘蔗は亜熱帯地方に適した作物であった︒このため︑勧業寮は寒地栽培を 目的として明治九年の春にフランスから甜菜︵ビート︶の種子を輸入し︑内藤新宿出張所と陸羽地方で試験栽培を行 い製糖を試みた︒根に塩分が多く含まれたため良好な結果を得られなかったが︑わずかに岩手県産の根には塩分が少 なく甘味があったという
︵56
︶
︒ 明治八年一〇月にはジャワからコーヒーの苗木を取り寄せ︑ この一部を琉球に送った︒那覇の内務省出張所の中録 ・ 河 原 田 盛 美 は︑ ﹁ 茄 菲 ハ 欧 米 諸 国 需 要 ノ 飲 料 ニ シ テ 交 易 最 大 ノ 物 品 タ ル コ ト ヲ 説 示 シ ﹂︑ 数 名 に 分 与 し て 試 植 さ せ た︒ また︑ 河原田は﹁当地ハ四時花実ヲ結ヒ候土地ニ付︑ 十一月ヨリ二月頃迄︑ 此地ノ菜蔬菓実類ヲ内地ニ運輸セシメハ︑ 内地人民ノ賞味スルノミナラス外客ノ賞美スル所トナル﹂と考え︑馬鈴薯やナス︑オリーブ等︑内外種の配布を勧業 寮 に 請 願 し た
︵57
︶
︒ 暖 地 栽 培 の 目 的 は︑ 暖 地 に 適 し た 作 物 を 育 て る だ け で は な く︑ 作 物 の 栽 培・ 収 穫 期 を ず ら し︑ 本 州 等の市場に野菜や果実が枯渇した時期をねらって︑それらを投入することであった︒
小笠原諸島でも﹁熱帯近傍ノ土地ニ相応致シ候植物試験﹂が実施されることとなった︒明治九年に海島綿が栽培さ れ︑地味に適応して良質な綿毛を採取したが︑内地の需要が少なかったうえ︑在来種より長毛であり︑綿弓を用いる ことができないなどの支障が重なり︑栽培は中止された
︵58
︶
︒
以上︑外国種苗の頒布方法を三つに大別した︒明治初期︑外国種苗のデータが ほ とんど存在しない状況では︑風土
人文学報
第四四五号 二〇一一年三月五二
に 応 じ た 植 物 の 系 統 的 な 導 入 は 不 可 能 で あ っ た︒ そ こ で 勧 業 寮 は 寒 暖 に よ る 適 性 を 考 慮 し た り︑ 日 本 に お け る 同 種 の 産 地 を 選 ぶ な ど︑ 一 定 の 方 針 を も っ て 頒 布 を 開 始 し た の で あ る︒ す く な く と も 闇 雲 に 頒 布 し た の で は な い ことだけは確かである︒
さ て︑ 本 稿 は 明 治 七 年 〜 九 年 の 勧 農 政 策 を 対 象 と し て お り︑ こ の 短 い 期 間 で 試 植 結 果 に つ い て 検 討 す る こ と は 不 可 能 で あ る た め︑ 外 国 種 苗 の 頒 布 が︑ 青 森 県 の リ ン ゴ 及 び 小 麦 以 外 は ほ と ん ど 定 着 し な か っ た と い う 通 説 に つ い て 異 論 を 提 示 す る こ と は で き な い︒ し か し な が ら︑ 西 村 卓 氏 が 指 摘 す る よ う に︑ こ の 頒 布 を 一 つ の 契 機 と し て︑ い く つ か の 県 で 植 物 試 験 場 等 が 設 立 さ れ た こ と︑ 在 地 に お け る 農 業 生 産 力 発 展 の 担 い 手 = 老 農 の 農 事 改 良 へ の 意 欲 を か き た て︑ 彼 ら の 眼 を 在 来 種 苗 の 取 り 寄 せ︑ 試 作 に よ る 稲 作 全 般にわたる改良へと向けさせたことは評価すべきであろう
︵59
︶
︒
3 外国農業調査の実施
外 国 種 苗 の 多 く は ア メ リ カ か ら 購 入 さ れ た が︑ 勧 業 寮 の 視 線 が ア メ リ カ だ け に 向 け ら れ て い た わ け で は な か っ た︒ 表
強い交渉とイギリス公使ウェードの調停により互換条約を締結した︒この後︑大久保は一一月三日に天津において李 明 治 七 年︵ 一 八 七 四 ︶ の 台 湾 出 兵 で 緊 張 が 高 ま っ た が︑ 大 久 保 利 通 の 粘 り 英 国 一︑ イ タ リ ア 一 で あ り︑ 清 に 注 目 さ れ て い た 事 実 が 判 明 す る︒ 清 と は について記した︒ 派遣回数は︑ 清国四︑ 米国三︑ インド一︑ オーストラリア一︑
11に 勧 業 寮 関 係 者 の 外 国 派 遣
表 11 勧業寮関係者の外国派遣
派遣先 年月(明治) 派遣者 業務
清 ① 8 年 5 月 武田昌次他 農業調査・動植物購入 ② 8 年 11 月 多田元吉他 茶業調査
印・清 ③ 9 年 4 月 多田元吉他 茶業調査 米・清 ④ 9 年 8 月 ジョーンズ他 牛馬羊購入
米 ⑤ 8 年 2 月 神鞭知常 勧業事務調査他 ⑥ 9 年 2 月 西郷従道他 フィラデルフィア万国博 豪 ⑦ 8 年 5 月 橋本正人他 メルボルン万国博 英 ⑧ 9 年 2 月 富田禎次郎 農学教師招聘 伊 ⑨ 9 年 5 月 佐々木長淳 養蚕万国公会
典拠:『明治前期勧農事蹟輯録』上巻、538-539 頁。「伊国ミラン養蚕会議ヘ官員 派遣ノ儀伺」(『公文録』明治 9 年 5 月内務省伺 3)。
内務省勧業寮の成立と勧農政策︵國︶五三
鴻章と会談した︒大久保が﹁雨降地固ノ俗語アリ︑此事アツテ却テ両国ノ幸ナラン﹂と述べた後︑話題が清に銅が不 足していることに移ると︑ 大久保は銅を供給する旨を申し出るとともに﹁就テハ我︑ 必貴国ニ求ムルノ品アラン︑ 然 ラ ハ 閣 下 ニ 書 ヲ 呈 シ ︑之 ヲ 求 メ ン ﹂ と 述 べ た ︒ す る と 李 は ﹁ 是 有 無 相 通 ス ル ノ 道 ニ シ テ 固 ヨ リ 所 望 ナ リ ﹂ と 返 答 し た
︵60
︶
︒ 大久保と李はこの会談で日清の貿易振興を確認したのである︒
表
された武田等は動植物を購入し︑これらは内藤新宿出張所で試験されるとともに︑各府県に貸与︑払い下げられた
︵まず︑天津︑山東等から羊や驢馬︑穀菜類︑ブドウ︑モモ等を調査し︑購入することを提言したのである︒清に派遣 いない有益な動植物が少なくないこと︑ 隣国なので日本と ﹁風土必適﹂ であることであった︒そして︑ 清は広大なので︑ 査の必要性について上申した︒その理由は︑日本の動植物の多くは清から伝わってきたものであるが︑まだ伝来して
11の①は清国農業の調査である︒右に述べたように清との危機を脱した大久保は︑翌年四月︑早速︑清の農業調
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︶
︒ ② は 清︑ ③ は 清・ イ ン ド 茶 業 の 調 査 で あ る︒ 明 治 八 年 一 〇 月︑ 大 久 保 は︑ ﹁ 欧 米 諸 国 ノ 求 需 ニ 応 シ ﹂ て 製 茶 の 盛 ん な清国の景況を調査するため勧業寮一〇等出仕の多田元吉を派遣した︒その後︑大久保は︑インドが中国・日本の茶 を圧制するために多数の蒸気器械を設置して奮励尽力しているという情報を得たため︑ 多田等をインドと清に派遣し︑ 製茶やその器械を調査させた︒多田は帰国後︑高知県に派遣され︑茶葉を採取して紅茶を試製するとともに︑有志の 者へ伝習を行った
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︒ ④は下総牧羊場の羊を購入するための派遣である
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︒ ⑤は直輸出の事前調査である︒明治七年一〇月︑大久保の代理をつとめた伊藤博文内務卿は︑国産品輸出と海外へ の出店は物産増殖のために不可欠であるが︑急に出店しても失敗すると考えた︒そこで︑まず︑アメリカにおける日 本茶・生糸等の評判を調査して報告させることにした︒伊藤は︑調査後に﹁精良適宜之貨物﹂を輸出すれば﹁自カラ 御国産之声価︑支那国ニ優リ可申者必然﹂であると考えた︒当面の目標は︑生糸・茶輸出のライ バ ル国である清に勝 つことであった︒神鞭は九年一月に米国商況視察報告書を提出している
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