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小 林 多 喜 二 と 『不 在 地 主 』 の ころ

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3ヱ

小 林 多 喜 二 と 『不 在 地 主 』 の ころ

は じ め に

1四 ・一 六 事 件 2銀 行 で 3佐 々 木 妙 二 4大 月 源 二 5昭 和4年 の状 況 6瀧 子 との 再 会 7多 喜 二 の か か わ り 8『 中 央 公 論 』 と 9テ ー マ の 由 来 10文 学 の大 衆 化 11執

12西 野 の 批 評 13雨 宮 と多 喜 二 14そ の 後

は じ め に

こ れ は,小 林 多 喜 二 伝(33)で あ る 。

1四 ・一 六 事 件

間 検 挙 が 行 わ れ た 。

倉 田 稔

1928年 の3・15事 件 後,個 々 に 共 産 党 逮 捕 が 行 わ れ て い た が,8月 に も 中 3・15と 翌 年 の4・16と の 中 間 と い う 意 味 で あ る 。

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32 第101輯

1929年4月16日 に,再 び 日本 共 産 党 の 全 国 一 斉 の検 挙 が あ った 。 前 年 の 三 ・一 五 事 件 で 日本 共 産 党 との 闘 い は終 わ っ た と 特 高 は考 え た。 しか し ま た党 が 伸 び た 。そ れ で 警 察 は 二 度 目 の全 国 検 挙 を行 な っ た。そ れ に ま た,三 ・ 一 五 で 取 り逃 が した 中央 委 員 を根 こ そ ぎ捕 ま えた い と,特 高 は考 え た 。 掴 ま え るべ き 中央 委 員 は,市 川 正 一,佐 野 学,鍋 山 貞 親,三 田村 四 郎 で あ った 。

菊 池 克 己(東 京 地 方 オ ル ガ ナ イ ザ ー)が 捕 ま り,東 京 と指 導 党 組 織 を警 察 に 喋 り,そ れ に よ っ て 間庭 末 吉 ω らが 捕 まっ た 。 間 庭 は党 員 名 簿 な ど を もっ て い た の で 全 国 党 員 が 判 明 し た。 これ で 特 高 は4月16日,全 国検 挙 を行 な っ た 。 間 庭 は,ソ 連 に い た 時 の見 聞 で,そ れ を真 似 て党 員 証 を発 行 した 。 これ を市 川 正 一 に批 判 さ れ て 回 収 した 。 そ して焼 却 せ よ と言 わ れ た が,そ し な か った 。 そ れ を警 察 で 喋 った 。

間庭 の 供 述 書 に よ る と,小 樽 で は党 員6人 で,「 松 本 利 三,風 間六 三,小 川 万 助,佐 藤 稔,島 田 正 策 の5人 は党 員 に ま ち が い な い と思 い ます が,他 の1 人 は,森,松 本,河 村,山 口 の うち だ れ で あ るか 記 憶 が あ りませ ん 。」とあ る。

纐 纈 文 書 で は,「[小 樽 地 区]オ ル(2)森良 玄,風 間 六 三,松 本 和 蔵 ほ か 」 と あ る。

三 ・一 五 の検 挙 は 大 ざ っ ぱだ っ た が,四 ・一 六 は ち が った 。 特 高 体 制 は 三 ・一 五 とは格 段 に強 化 さ れ,み ん な 日本 共 産 党 の こ と を勉 強 し て この 日 に 臨 ん だ 。 そ の上,特 高 は,党 員 名 簿,入 党 推 薦 状,党 員 証 な ど の決 定 的 物 証 を入 手 して い た。 彼 ら は綿 密 な 計 画 をた て た 。 最 高 幹 部 を絶 対 に捕 ま え,共 産 党 が 二 度 と立 ち 直 れ な い よ う に す る,そ の た め検 挙 者 の取 調 べ が き つ く な っ て もか まわ な い,と 。

松 阪 に よれ ば,こ うで あ る。

四 ・一 六 事 件 と は,そ[昭 和 三 年]の 翌 年 の 昭和 四 年 の 四 月 一 六 日に,や は り一 斉 検 挙 を や った 。 これ は,前 の検 挙 の後 に,党 を破 壊 され た 共 産 党 の 残 党 が 党 の再 建 運 動 を や っ て 組 織 をや り直 そ う と した 。 これ を一 斉 に検 挙 し た の が 四 ・一 六 事 件 … … 。(3)

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小林 多 喜 二 と 『不 在 地 主』 の こ ろ 33

警 察 は,1928年3月15日 事 件 で,千 数 百 人 も捕 ま えた が,党 の 重 要 部 を検 挙 し て い な い こ とが わ か っ た。 三 ・一 五 事 件 の 直 後,中 央 委 員 中 尾勝 男 が 捕 ま り,警 察 は彼 の暗 号 に よ る党 員 名 簿 を押 収 した 。 暗 号 はす ぐ解 読 され,党 の 全 容 が 分 か った 。 そ して 地 下 組 織 の 大 物 の ほ とん ど を取 り逃 が して い る こ

とが 知 れ た 。 そ こで警 察 は,渡 辺 政 之 輔,鍋 山貞 親,佐 野 学,三 田村 四郎, 国領 伍 一 郎,市 川,福 本 和 夫 らの幹 部 を追 う こ とに した 。 山本 懸 三,難 波 英 夫 は,モ ス ク ワへ 逃 れ た 。佐 野,市 川 は,モ ス ク ワの コ ミ ンテ ル ンへ 行 った 。

7月 末 に福 本 が,8月 初 に 河 合 悦 三 が 捕 ま っ た 。渡 辺 と鍋 山 は上 海 へ 行 っ た 。 10月3日 に国 領 が 捕 ま り,10月6日 に渡 辺 が 自殺 した 。さ て,市 川 と間 庭 末 吉 が10日 に帰 国 した 。1929年3月 に鍋 山 が 帰 国 した 。決 定 的 な こ とは,前 出 の よ う に3月18日 に間 庭 が 逮 捕 され た こ とで あ る。手 製 の 暗 号 の党 員 名 簿 な どが 発 見,押 収 され た 。 彼 は捕 ま っ て,全 部 暗 号 か ら本 名 を翻 訳 して し ま っ た 。 こ う し て 四 ・一 六 全 国 大 検 挙 が 可 能 とな った の で あ る。 そ して700名 捕 ま った 。 これ は同 日 だ け の 数 字 で は な い 。「四 ・一 六 事 件 で は地 下 共 産 党 の 大 物 が ほ とん ど捕 ま っ た 。 そ の点 地 上 の 党 員 の み を逮 捕 した 三 ・一 五 事 件 よ り も は るか に 四 ・一一六 の ほ うが 重 要 とい わ な けれ ぼ な らな い 。 た だ三 ・一 五 の名 が 世 間 に 高 か った の は,最 初 の共 産 党 大 検 挙 とい う衝 撃 が 強 か っ た た め で あ る。」(4)

治 安 維 持 法 が1928年6月29日 に 改 正 さ れ て い た の で,四 ・一 六 は,三 一 五 に く らべ て,検 挙 が や りや す か った 。 全 国 的 に は,4・16事 件 の 後,市 川 正 一 が4月26日 に,鍋 山 貞 親,三 田村 四 郎 が4月29日 に,6月14日 に佐 野 学 が 上 海 で,検 挙 され た 。 こ う して 共 産 党 幹 部 が ほ ぼ根 こ そ ぎ捕 ま った 。 四 ・一 六 の方 が 三 ・一 五 よ りも意 義 が 大 きか っ た 。 この 日だ けで 捕 ま った も の は 全 国 で 約700名 だ っ た 。

そ の 後1929年7月15日 に,田 中清 玄 と佐 野 博 が 中央 ビ ュー ロー を再 建 し た 。 佐 野 は ソ連 か ら帰 っ た ばか りだ っ た 。 「武 装 共 産 党 」とい わ れ る時 代 が 始 まっ た 。 これ が1年 聞 続 くの で あ る 。 一 方8月,宮 本 顕 治 が 「敗 北 の文 学 」 を 発 表 す る。1930年1月 に,和 歌 山 県 で 日本 共 産 党 再 建 大 会 が 開 か れ て,

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ビ ュ ー ロ ー が 作 ら れ た 。

第101輯

四 ・一 六 で 捕 ま っ た 小 樽 の 運 動 家 は,次 ぎ で あ る 。

風 間 六 三1907‑,特 要,4・16に 連 座 。1933年2月 全 協 小 樽 地 区 協 議 会 準 備 会 を 結 成 。

佐 藤 稔1910‑,思 想 要 注 意 共 産 主 義 。4・16に 連 座 。 島 田 勇4・16に 連 座 。

島 田 清 作1901‑,1928年1月 当 時,労 農 党 根 室 支 部 支 部 長 。4・16に 連 座 。 小 樽 で も活 動 。 北 海 道 オ ル グ 。

島 田 正 策1901‑,4・16に 連 座 。 札 幌 に 移 り活 動 。 三 菱 石 炭 か ら保 険 外 交 員 へ 。、1937年 検 挙 さ る 。

広 川 広 司1905‑,北 海 道 。4・16に 連 座 。 古 物 商 。 全 日本 無 産 者 青 年 同 盟 小 樽 支 局 員 。

松 本 和 三1906‑,静 岡 。 全 日 本 無 産 者 青 年 同 盟 小 樽 支 部 員 。3・15に 連 座 。 4・16に 連 座 。

良 玄1907‑,野 付 牛 。 野 付 牛 中 学 卒 。 小 樽=・樺 太 ・福 島 で 活 動 。4・

16に 連 座 。

(地 名 は,出 身 地 。)(5)

島 田正 策 は回 想 す る。

「4月16日 とい え ば 私 が 青 森 ・大 湊 の 出 張 先 か ら小 樽=の職 場(三 菱 鉱 業 北 海 道 売 炭 所)に 帰 っ た ば か りの 時 で あ る。匿 名 の 電 話 が あ り,け げ ん に 思 っ て 受 話 器 を とる と,小 林 多 喜 二 か らだ った 。早 口 の跳 ね る よ うな 声 で,「島 田!

お 前 か,あ あ,無 事 で よか っ た!共 産 党 の 検 挙 が 始 ま っ た ぞ 。 お 互 い 身 辺 に注 意 を し よ う」

ぼ くは 小 林 多 喜 二 よ り一 足 先 に入 党 の 申 し込 み を し て い た 。 小 林 も入 党 を 希 望 して い た が,か れ は文 学 的 才 能 が あ る こ とか ら,入 党 よ り文 学 的 活 動 の 方 が 効 果 的 との党 の判 断 か ら承 認 さ れ て い なか っ た 」

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小 林 多 喜二 と 『不在 地 主 』 の ころ 35

小 林 か らの 電 話 を受 け て か ら4日 後,4月20日 朝6時,小 樽 市 入 船 町 に あ っ た 島 田 の家 は,5人 の特 高 警 察 官 の 急 襲 を受 けた 。

妻 と寝 て い た ら ドン ドン と戸 をた た く音 が す る の で,私 が で る と,『 お 前 が 島 田 か,水 上 警 察 まで こい 』 とい い,連 行 さ れ,留 置 場 に放 り こ まれ た 。 ふ と壁 を見 る と,い ぜ ん の留 置 者 の落 書 きで し ょ う。 『共 産 党 バ ンザ ー イ』と 書 か れ て あ っ て ね 。 私 も勇 気 づ け て くれ ま した」。

島 田 が 入 党 を決 意 した の は1929年2月 で あ る。当時,東 京 か ら杉 本 文 雄 が 党 再 建 の オ ル グ に きた 。 これ と呼 応 し,小 樽 合 同 労働 組 合 の 活 動 家 森 良 玄 が 島 田 に入 党 を勧 め た 。

私 の 検 挙 は,私 に入 党 を勧 めた 森 良 玄 が,拷 問 にた い す る恐 怖 か ら私 の 名 前 を しゃ べ った か らで あ っ た … … 後 に森 をた だ す と,党 中央 事 務 局 に 間庭 末 吉 とい う記 録 摩 が お り,そ の 記 録 に 島 田 の名 前 が あ っ た か ら 『隠 し きれ な か っ た 』 とい っ て い た。 私 は拷 問 の さ な か に 『こ の ま まい く と,殺 され る か も し れ な い』 と 恐 怖 を感 じた 。 ふ と小 林 に い わ れ た 『い ま党 に 必 要 な の は,捕 ま っ て も口 を割 らな い 天 野 屋 利 兵 衛 の よ う な人 だ』 の 言 葉 を 思 い 出 し,必 死 に党 の秘 密 を守 ろ う と した が,… … あ ま りの ひ ど さ に天 野 屋 利 兵 衛 に な り切 れ ず,取 調 べ の 中 で 小 林 多 喜 二 との 関 係 まで しゃ べ っ て し まっ た … … 。 後 に 出 獄 した と き に小 林 に す ま な い こ とを した と思 い続 けた … … 」

島 田 は 「私 は小 林 に,自 分 が弱 か っ た と謝 罪 し ま した 。 小 林 は意 に介 さな い とい っ た ふ う に,『 島 田,今 後 が ん ばれ よ』 と激 励 して くれ た ん で す 。」

島 田 が,出 獄 後,就 〕職 で,運 動 はや る気 か と聞 か れ て,「 執 行 猶 予 の五 年 間 はや らな い 」と答 え,だ め に な っ た。 多 喜 二 は笑 っ て,「 俺 な ら運 動 な ん か や ら ん と答 え る よ」 とい って,島 田 の 融 通 の きか な さ を批 判 した 。

こ うい うわ けで,小 樽 で は4日 遅 れ て 島 田正 策 も連 座 した 。そ の11月,懲 役2年,執 行 猶 予5年 で 釈 放 され た 。 嶋 田 は,検 挙 前 に小 樽 か ら札 幌 に す で に移 り住 ん で いた 妻 の 家 族 と,生 活 す る こ と に な っ た 。2,3カ 月 過 ぎ て, た ま た ま 日本 生 命 保 険 会 社 の新 聞 広 告 で外 交 員 に応 募 す る と,簡 単 に入 社 で きた 。2月 の 初 め こ ろで あ る。

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36 第101輯

日本 生 命 に就 職 して か ら,出 獄 後 初 め て,小 樽 の若 竹 町 に多 喜 二 を訪 ね, 話 が っ き な い で,多 喜 二 を札 幌 まで 連 れ て きて,島 田 の 南6条 西9丁 目 の家 に泊 ま っ て も ら っ た。 家 が 狭 い の で 多 喜 二 は 自分 か ら押 入 で 寝 た。

多 喜 二 は 言 った 。 検 挙 され て,強 が りを い って 長 い 間 拘 置 さ れ る よ り,度 を越 さ な い程 度 に頭 を下 げ て帰 っ た 方 が よい,と 。

島 田 は後 で 知 った が,多 喜 二 も四 ・一 六 で検 挙 さ れ,「 蟹 工 船 」の献 上 品 で 不 敬 罪 に 問 わ れ よ う と した の を,そ の 時 は 「悪 か った 」 とい っ て 釈 放 さ れ た 。」(6)詳し く言 え ば,こ うで あ る。 一 二 月,多 喜 二 は 島 田 に,「 蟹 工 船 」の不 敬 罪 一 献 上 品 に石 ころ,の 文 一 に問 わ れ,取 調 べ を受 けた 話 をす る 。「ど う し て も悪 か っ た とい わ せ よ う と仕 向 られ て,結 局,悪 か っ た とい っ て,や っ と 帰 され た 。 無 理 に強 が り をす る必 要 は な い。」 と言 った 。

そ れ か ら多 喜 二 は,島 田 に,日 本 生 命 に就 職 した こ と につ い て 「大 資 本 の 手 伝 い をす る の か 」 と,厳 し い批 判 を した 。

翌 日,4丁 目の 維 新 堂 の 前 を通 っ て,店 外 の 台 の上 に 並 べ られ て い た 多 喜 二 の 「暴 風 雨 警 報 」 と林 房 雄 の 本 を見 た 。 嶋 田 が 「ど うだ」 と聞 い た ら,「 あ ま り売 れ て い な い 。 林[房 雄]は 作 家 同 盟 の規 約 に背 い て 了 解 を得 な い で 出 版 した ん だ,金 に負 け た ん だ,け しか らん」,と 言 っ て い た。

そ れ か ら駅 前 を ま っ す ぐ に行 き,北2条 西3丁 目 に 曲 が って 「ネ ヴ ォ」 に 行 っ た 。 島 田 は 始 め て で あ った 。 多 喜 二 は 島 田 を待 たせ て,中 に入 っ た 。 や

が て 出 て き て,札 幌 駅 で別 れ た 。 多 喜 二 と最 後 の 別 れ で あ った 。

多 喜 二 は 「ネ ヴ ォ」につ い て は何 も話 さな か っ た 。 雪 の 少 な い 年 で あ っ て, この 時 雪 が 少 し も なか っ た 。(7)

島 田 は言 う。 多 喜 二 の手 紙 は,た くさ ん あ っ た が,四 ・一 六 事 件 で捕 ま っ た 時 に,同 僚 に あ ず け て お い た と こ ろ,そ の友 達 も つ か まっ て,そ の 時焼 い て,全 部 な くした 。 島 田 が獄 中 に い た 時 も,二 ・三 枚 葉 書 を貰 った が,そ れ も見 つ か らな い 。 「外 で は運 動 が 非 常 に す す んで い る」とい う意 味 の こ とだ っ た 。

伊 藤 整 は言 う。 昭 和 四 年 は … … 日本 の 左 翼 文 学 の 興 隆 期 に続 く危 機 に あ

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小林 多喜 二 と 『不 在 地 主 』 の こ ろ 37

た っ て い た … …(8)私 の か つ て の 上 級 生 小 林 多 喜 二 は,左 翼 文 学 の 「希 望 」 か ら ほ と ん ど 政 治 の 「殉 教 者 」 に な りか か っ て い た 。(9)

1929年1月 に,多 喜 二 は,「 と き ど き 特 高 刑 事 に お び や か さ れ て い る 。銀 行 も 長 い こ と は な い と は 思 っ て い る 。」 と,手 紙 で 書 く。

1929年4月20日,家 宅 捜 査 さ れ,多 喜 二 は 拘 引 さ れ た 。 だ が す ぐ帰 れ た 。

2銀 行 で

多 喜 二 が 作 家 と して認 め られ 始 めた と き,銀 行 員 と し て勤 め な が ら知 名 の 作 家 で あ る こ と に,銀 行 は難 色 を示 し て い る とい う話 を[小 樽 高 商 の 教 授]

糸 魚 川 は誰 か らか 聞 い た 。 特 高 に追 い ま わ され 初 め た 頃,妙 見 川 筋 で ポ ッカ リ彼 に会 っ た 。 青 ぶ くれ の した 元 気 の な い顔 を して い た 。 「ど うだ い?」 と聞 い た ら 「駄 目で す 」 とい う よ うな意 味 の返 事 を した 。(10)

仁 木 さ ん[多 喜 二 の家 の 隣 人]に よ る と,多 喜 二 と同 じ く神(か み)さ とい う人 が い た 。 じ ん,と も言 わ れ た 。 赤 とい わ れ,警 察 に引 っ 張 られ た。

多 喜 二 が 拓 銀 支 店 在 任 中,彼 と机 を並 べ て 仕 事 を し,「 不 在 地 主 」の 原 稿 整 理 を一 切 手 伝 っ て や っ た織 田 ム メ子(昭 和40年 で,71歳)が い る。 織 田 は, 行 員 と し て調 査 課 に勤 め て い た 。 多 喜 二 よ り六 つ 上 で,一 度 離 婚 して い た 。 多 喜 二 とは一 年 足 らず,同 じ課 に な った 。 隣 の 机 だ っ た 。 ひ そ か な行 動 を行 内 で た だ 一 人 知 り,昼 休 み に喫 茶 店 で 書 き つ づ け る多 喜 二 の行 動 を上 役 に し ら さ な い よ うか ば っ た。 そ して 「不 在 地 主 」 を清 書 した 。

織 田 は言 う。 多 喜 二 は そ の ころ 「不 在 地 主 」 を書 い て お り,上 司 に見 られ な い よ う に苦 慮 して い た が,「私 は書 籍 や 文 書 を積 み重 ね て 見 られ な い よ うに 計 っ た 。

彼 女 は原 稿 整 理 を 自宅 に 持 ち帰 っ て 行 な っ た 。 多 喜 二 は2カ 月 で書 き上 げ た 。 大 急 ぎ の仕 事 だ っ た こ とが わ か る。 そ れ が 出 来 上 が っ た 時,中 央 公 論 社 か ら多 喜 二 に 原 稿 料 五 百 円 也 が 送 られ て き た 。 これ を彼 は全 額 母 の名 義 に し て定 期 預 金 に した 。 そ して 織 田 女 に は,丸 井 か ら態 々 錦 紗 の 反 物 を 買 って 御 礼 に贈 っ た の で あ っ た。 彼 女 は そ れ を羽 織 に して 大 切 に保 存 し て い る。

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38 第101輯

多 喜 二 は 「人 は本 を作 るが,本 は また 人 を作 る もの だ 」 と し ょっ ち ゅ う彼 女 に 口癖 の よ う に言 い聞 か せ,次 か ら次 と本 を貸 して くれ た 。 彼 女 に とっ て は,い ず れ も難 解 な も の ば か りな の で,意 味 の分 か ら な い 当 時 の 新 語 や か た か な文 字 を ノ ー トに書 き抜 い て,多 喜 二 に説 明 を 乞 う こ とに して い た。 そ の 度 に彼 は 自 らペ ン を とっ て そ の ノー トに言 葉 の意 味 をや さ し く説 い て書 き入 れ て くれ た 。 こ う した ノ ー トも数 冊 に 及 んだ 。 彼 女 は これ も大 切 に保 存 して い る。

大 野 ・高 商 教 授 は言 う。

小 林 は ま こ とに天 分 に恵 まれ た 青 年 で あ っ て,文 学 的 素 質 の み な らず,絵 に も,音 楽 に も,同 じ程 度 の 素 質 が あ っ た 。 そ して それ は彼 自身 も意 識 して お り,一 時 は この三 つ の方 向 の 何 れ に進 む べ き か に 迷 った の で あ っ た が,結 局 は文 学 を選 ん だ。そ の 理 由 と して 織 田女 に語 っ た と こ ろ は,「文 学 は一 番 金 が か か らな いか ら」 だ っ た そ うで あ る。 も し彼 が絵 や 音 楽 に 志 を立 て て い た な ら全 く違 った 小 林 多 喜 二 が 生 まれ て い た で あ ろ う。(11)

拓 銀 で の 多 喜 二 の 同 僚 に,柴 田 徳 秋 が い た 。 彼 は多 喜 二 か ら そ の発 表 され た 小 説 を 貰 った し,一 部 分 は送 っ て も ら った 。 そ れ を大 事 に と って お い た 。 また 多 喜 二 にか ん す る新 聞 記 事 や,文 学 雑 誌 を切 り抜 い て,ス ク ラ ップ 帳 を 作 っ て い た 。 この ス ク ラ ップ 帳 は終 生 大 事 に保 管 して い た の だ った 。(12)

多 喜 二 はひ ょ う きん だ っ た 。 因 藤 荘 助 は云 う。

昭 和 四 年 の 夏 だ っ た と思 う。 そ の こ ろ貯 金 支 局 の 事 務 員 で あ った 僕 は友 人 のKと 二 人 で 拓 殖 銀 行 に勤 め て い る多 喜 二 の と こ ろ に,「 戦 旗 」… … を受 取 り に行 っ た こ とが あ る。 ち ょ う ど銀 行 も仕 事 を し ま う とこ ろ で忙 が し そ うだ っ た が,小 が らな多 喜 二 は い か に も快 活 に 素 ぼ しつ こい 動 作 で窓 口の 行 員 達 の 間 を,片 手 に書 類 をふ りま わ しな が ら,あ つ ち こつ ち 指 図 で もす る よ うに か け ま わ つ て い た。 ぼ く らを み る と笑 顔 で 「小 使 室 で待 つ て て くれ 」とい っ た 。 そ こで 裏 口か らだ れ も い な い 小 使 室 ら しい と ころ で 待 つ て い る と,間 もな く 多 喜 二 はや つ て きた が 「ち よつ と電 話 をか け る か ら」 とそ この壁 に と りつ け て あ る電 話 機 に 向 つ て,元 気 な 大 声 で電 話 をか け は じ めた 。 す る とそ の 時,

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小 林 多 喜 二 と 『不 在地 主 』 の ころ 39

給 仕 か 事 務 員 か,和 服 の 若 い女 が や は り電 話 をか け に よつ て き て 多 喜 二 の側 に 終 わ る の を待 つ 姿 勢 で立 つ て い た が,相 手 が 出 る の を 待 つ て い る多 喜 二 は そ の 女 に何 か 冗 談 を い 〉か け た か と思 う と,片 手 を の ば して 受 話 機 を女 の耳 に あ て が う よ う に した。 女 は笑 い な が らの け ぞ っ て体 を 引 い た 。 小 真 面 目 な 官 庁 の 雇 員 で あ る ぼ く ら は そ ん な 多 喜 二 を 目 を丸 く して な が め て い た も の だ 。(13)

同 級 生 ・桜 井 は言 う。

左 翼 作 家 と して 名 を な して か ら も私 に対 して は一 度 も思 想 的 な話 題 や 呼 掛 け を した こ と はな か つ た。 所 詮 度 しが た き 自 由 主 義 者 と見 た の で あ ろ う。 し か し学 校 で も新 聞 社 で も私 の 後 輩 で あ った 寺 田行 雄 が 左 翼 に走 っ た の は多 喜 二 の 指 導 と影 響 が 相 当 あ っ た と今 で も思 っ て い る。(14)

及 川 清 先 生[小 樽 在 住]の 叔 母 は,多 喜 二 と と もに拓 銀 に勤 め て い た が, よ く 「多 喜 二 も普 通 の一 人 の 男 よ」 と言 っ て い た 。(15)これ は重 大 な 指 摘 で あ る 。

伊 藤 整 は こ う聞 い て い る。 彼 は知 人 の 間 で は,銀 行 員 と し て も勤 勉 で 有 能 な の で,銀 行 で は彼 の思 想 傾 向 が 分 か っ て い な が らや め させ な い とい う噂 で あ っ た 。(16)

3佐 々 木 妙 二

佐 々 木 妙 二 は,1903年,秋 田 県 生 まれ で あ る。 多 喜 二 は,高 商 で 「一 学 年 上 だ った 。 校 友 会 雑 誌 の編 集 を一 緒 にや り ま した 。」(17)「上 級 生 多 喜 二 の 酷 評 が くや し くて 意 固 地 に短 歌 を つ く り続 け た」。(18)

佐 々 木 が 「胸 をわ ず ら って 二 年 休 学 し て,学 校 に も どっ た ら多 喜 二 は卒 業 して い ま した が 。 私 が,秋 田 師 範 で教 師 を して い た と こ ろ多 喜 二 が 訪 ね て き た 。 彼 は 『不 在 地 主 』 を書 い て い る とい っ て い ま し た か ら昭 和 四 年(一 九 二 九 年)ご ろ で はな いか と思 い ま す 。 そ の と きお 前 の歌 は だ めだ とい わ れ た の で す 。 そ の 言葉 が 今 に な っ て も頭 に 残 っ て い ます 。 そ れ か ら私 の歌 は変 わ っ て きた 。 多 喜 二 に い わ れ た 言 葉 で一 生 を通 して きた 気 が し ます 。」

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40 第101輯

九 〇 歳 の私 に上 級 生 多 喜 二 が 居 る 『君 の生 き方 は そ れ で い い の か』

身 に こ た え て 多 喜 二 を わ か り は じ め た 時,教 員 の 私 の首 が 切 られ た」。

佐 々 木 は,七 十 九 歳 ま で 医者 を開 業 して い た。 新 日本 歌 人 協 会 代 表 幹 事,現 代 歌 人 協 会 名 誉 会 員 とな っ た 。 お もな歌 集 は,『 火 芯 』 『限 りな く』 『生 』 『 の ち』,評 論 集 に,『 現 代 語 短 歌 へ の道 』 『現 代 語 短 歌 読 本 』 な どが あ る。 『 主 文 学 』1992年 新 年 号 に 「上 級 生 ・多 喜 二 」 とい う歌 十 首 を発 表 した 。

4大 月 源 二

多 喜 二 の 親 友 ・大 月 源 二 は,1904(明 治37)年,函 館 に生 まれ た。1908年, 4歳 で,父 の 事 業 の都 合 で,小 樽 の色 内 町 へ,引 越 した 。多 喜 二 と似 て い る。

大 月 は小 樽 で 稲 穂 小 学 校 に通 い,全 学 年 全 甲で あ っ た 。 そ して 小 樽 中学 で 過 ご した 。

同 一 の 学 年 が 小 林 多 喜 二 だ っ た 。

「一 九 一 六(大 正 五)年 四 月 に 多 喜 二 は小 樽 商 業 に,私 は小 樽 中 学 に入 学 し た 。 ま もな く二 人 は 水 彩 画 を描 く こ とで知 り合 うの だ が,登 校 の 時 な ど よ く す れ ち が った 。 汐 見 台 の 樽 中 の 近 くの坂 の 上 か ら,顔 を まっ す ぐに あ げ て, 白い カバ ン を掛 け た 撫 で 肩 を ゆ っ く り振 りなが ら降 りて くる小 柄 の 色 白 の 少 年 一 そ れ が 多 喜 二 だ っ た。」

坂 の 多 い小 樽=の町,当 時 は まだ バ ス も な く,時 間 の な い と き は跳 ぶ よ う に して 歩 か ね ば な らな い こ と,狭 い 道 路 に大 量 の積 雪,舗 装 の な い 雪 どけ の 泥 ん こ道,樽 商 と高 商 へ 向 か う緑 町 の 「地 獄 坂 」一 これ ら客 観 的 条 件 が 彼 の情 熱 的 な気 性 に反 映 し,か れ 独 得 の歩 きぶ り とな った もの と思 う。」(「多 喜 二 と 私 」)

小 樽 中 に は 白潮 会,庁 商 に は小 羊 会 が あ った 。 校 外 に発 表 の場 が あ り,互 い に観 客 と な っ た 。

大 月 は,小 樽 中学2年 で,「 文 章 世 界 」 に コマ 絵 を応 募 し,入 選 す る。

小 樽 中 学3年 の こ ろか ら,三 浦 鮮 治 の小 樽 洋 画 研 究 所 に通 っ た 。 そ して 画

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小 林 多 喜 二 と 『不 在地 主 』 の こ ろ 4.Z

家 へ の 決 意 を 固 めた 。 水 彩 画 の多 喜 二 と運 命 的 出 合 い を す る。

そ の 間,伯 父 の い る ウ ラ ジオ ス トッ クへ 旅 行 で 行 っ た こ とが あ る。 父 が 亡 くな った 。 そ の 後 は,そ の伯 父 に東 京 美 術 学 校 卒 業 ま で学 費 を出 して 貰 う こ とに な った 。

小 樽 中5年 の 時,同 級 の 武 田 逞 らが 『群 像 』を発 刊 し,誌 名 は大 月 が つ け, 時 々 表 紙 絵 を描 き,詩 も発 表 した 。

大 月 は,1921年 に,美 校 入 学 に失 敗 し,小 樽 の 川 端 美 術 学 校 に通 っ た 。翌 1922年 に東 京 美 術 学 校 に入 学 し,藤 島 教 室 に属 した 。同 期 に猪 熊 弦 一 郎,小 磯 良 平 な どが い た 。 この 間,ま た ウ ラ ジオ ス トク旅 行 を した こ とが あ る。 夏 休 み に は小 樽 に帰 って き た。 多 喜 二 に も もち ろ ん 会 っ た。

1923年 に,松 山 文 雄 と交遊 が 始 ま り,1924年 に須 山 計 一 と知 っ た 。 1924年,小 樽 に三 浦 鮮 治 を中 心 と して 太 地 社 が 結 成 され た 。小 樽 洋 画研 究 所 の発 展 的 解 消 で あ る。 大 月 が 名 付 け た 。

1925年 の夏,美 校 四 年 の 大 月 が,小 樽 の 北 海 製 缶 工 場 を モ チ ー フ に して 油 絵 を描 い て い た色 内 の,義 兄 の 家 に,多 喜 二 は訪 ね て き た 。(「小 林 多 喜 二 と の つ きあ い 」)こ れ は 「製 缶 工 場 と若 者 」 で,第1回 道 展 に 出 品 した 。

1927年,山 東 出 兵 が な され た 年,大 月 は美 校 を卒 業 した 。 卒 業 製 作 に 「 し い生 活 」 をだ した 。 思 想 的傾 向 を もっ た 作 品が 美 校 の卒 業 製 作 に現 れ た の は初 め て で あ っ た 。大 月 は,卒 業 後,す ぐに プ ロ レ タ リア 美 術 運 動 に入 った 。 島 崎 や,小 樽 出身 の稲 垣 小 五 郎(目 黒 生)ら と,「 赤 道 社 」,つ ま りマ ル ク ス 主 義 的 美術 集 団 を結 成 した 。 これ は数 カ 月 で 解 消 し,日 本 プ ロ レ タ リア 美術 連 盟 美 術 部(AR,プ ロ芸)に,全 員 で加 入 し た 。AR部 長 は橋 浦 泰 雄 だ った 。

彼 らは,プ ロ レ タ リア 美 術 を め ざす1925年 結 成 の 『造 型 美 術 協 会 』一 岡 本 唐 貴 な どが 属 す る 一 で な く,プ ロ芸 を選 ん だ の だ 。

東 京 で 大 月 は,恵 まれ た 伯 父 の 家 に い た が,プ ロ芸 の事 務 所 の 二 階 に移 っ た 。 そ こ は多 喜 二 も訪 ね た 「合 宿 事 務 所 」 だ っ た。 小 説 家 中野 重 治,鹿 地 亘 は じめ,十 数 人 と起 居 を共 に す る。そ の後,大 月 は本 所 柳 島 の ア パ ー トへ 移 っ た 。

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1928年 に,労 働 農 民 党 選 挙 ポ ス タ ー を か い た 。 そ の3・15検 挙 で,25日 勾 留 され,特 高 の 激 し い拷 問 を受 け た 。

この1928年,多 喜 二 が上 京 し て5月 に,大 月 に会 い,二 人 で 語 り合 っ た 。 (拙稿 「「東 倶 知 安 行 」 を書 い た こ ろ」 参 照)多 喜 二 は,「 善 作 に会 っ た らね,

源 ち ゃ ん近 頃 東 京 で跳 ね て 歩 い て い る』と言 っ た ん で,お れ腹 が 立 っ て,腹 が 立 っ て … … 」 と言 う。

大 月 が 書 く。「善 作 とい うの は私 の 少 年 時 代 の 絵 の先 輩 で あ り,多 喜 二 が 中 央 の文 学 雑 誌 に投 書 した コ マ絵 の 先 輩 で あ る 中村 善 作 氏 の こ とで あ る。 多 喜 二 は 自分 の こ との よ う に腹 を立 て た の だ ろ う。 私 も一 瞬 「跳 ね て 歩 い て 」 に ひ っ か か った が,美 校 生 後 期 以 来 の私 の は げ しい 「転 換 」 の諸 相 が,善 作 氏 の 遠 くか ら見 た 眼 に は 「跳 ね て 歩 く」 よ う に見 え た の か も しれ な い と苦 笑 し た 。」(「多 喜 二 と私 」)

大 月 は,上 京 した 多 喜 二 が,「 合 宿 事 務 所 」の大 月 を訪 ね,久 しぶ りに語 り 合 っ た1928年5月 の こ と を,「 も と も と美 術 と文 学 との接 点 の 上 に形 成 され た 二 人 の 友 情 は,い まや さ らに 政 治 へ の競 っ て が これ に重 な る こ とで 新 し く 築 き直 さ れ る こ とに な った 。」と書 く。(「小 林 多 喜 二 と の つ きあ い 」)「政 治上 の 接 点 」 と は,二 人 が プ ロ レ タ リ ア解 放 運 動 に 同 じ よ う に加 わ っ て い る こ と

を確 認 し合 って い る 言 葉 で あ る。

多 喜 二 が 大 月 を訪 ね た の も単 に幼 な じみ の 懐 か し さか らで は な く,大 月 が 同 じ道 を 歩 み 始 め,彼 の 住 ん で い る と こ ろが 若 い プ ロ レ タ リア芸 術 家 た ち の

合 宿 事 務 所 」 に な っ て い る こ とを知 って い て,訪 ね た の だ った 。(19) 蔵 原 惟 人 の 「プ ロ レタ リア ・リア リズ ム へ の道 」(『戦 旗 』1928・5)論 が 出 て,多 喜 二 も大 月 も影 響 を受 けた 。

大 月 は,多 喜 二 の 「一 九 二 八 ・三 ・一 五 」 の挿 絵 を描 い た 。 そ の後,「 蟹 工 船 」(『戦 旗 』)の 挿 絵 を もか き,「 蟹 工 船 」 単 行 本 改 訂 普 及 版 の装 丁 を した。

1929年,山 本 宣 治(20)の遺 骸 が 横 た え られ た 東 京 ・神 田 の 旅 館 に か けつ け て,コ ンテ で ス ケ ッチ し,こ れ は,「 同 志 山本 宣 治 死 顔 ス ケ ッチ 」(『戦 旗 』4 月)と して 発 表 さ れ た 。 また,本 郷 の仏 教 青 年 会 館 で の 山 宣 の葬 儀 を,代 表

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小林 多 喜 二 と 『不 在 地 主』 の こ ろ 43

「告 別 」 で 描 い た 。

矢 部 友 衛 も,山 宣 争 議 を,「 労 働 葬 」 で 描 い た 。

大 月 は,1929年1月,ナ ッ プ 中 央 協 議 員 と な っ た 。4月 に,AR(=日 本 プ ロ レ タ リ ア 美 術 連 盟 美 術 部,プ ロ 芸)と 「造 型 」 と の 合 同 大 会 が あ り,「 日本 プ ロ レ タ リ ア 美 術 家 同 盟 」と な り,大 月 は そ の 中 央 委 員 と な っ た 。1930年 に, 大 月 は,検 束 ・留 置 さ れ た 。(21)

5昭 和4年 の状 況

1929年 は,前 出 の4・16事 件 が 行 わ れ た 。7月 に浜 口 内 閣 が 成 立 し,多 の汚 職 ・疑 獄 事 件 が 発 生 した 。 一 方,日 本 で は,金 解 禁,っ ま り金 本 位 制 復 帰 が な され た 。 水 野 成 夫,南 喜 一 ら の第1次 集 団転 向 が 起 きた 。10月 に は世 界 大 恐 慌 が 起 きた 。

1929年5月 に発 売 さ れ た 「東 京 行 進 曲 」は,40万 枚 売 れ,空 前 の大 ヒ ッ ト 曲 に な った 。 佐 藤 千 代 子 が 歌 った 。 『キ ング 』 に連 載 され た 菊 池 寛 の原 作 で, 溝 口健 二 監 督 が映 画 化 し,西 条 八 十 作 詞 ・中 山晋 平 作 曲 で あ る。 この 歌 か ら 時 代 が 変 わ っ た。

昔 恋 しい 銀 座 の柳 仇 な年 増 を誰 が 知 ろ ジ ャ ズ で お どっ て リキ ュ ル で 更 け て あ け れ や ダ ンサ ァの な み だ あ め

佐 藤 は,小 樽 出 身(1897,明 治43年 一1968,昭 和43年)で,稲 穂 町 に 生 ま れ た 。 庁 立 小 樽=高 女 を 卒 業 し,東 京 音 楽 学 校 に 進 学 し,ク ラ シ ッ ク を 学 ん だ 。 中 山 晋 平 に 見 出 さ れ,「 船 頭 小 唄 」,そ の 後,昭 和7年 「涙 の 渡 り 鳥 」,

「旅 の つ ぼ く ろ 」な ど を 歌 っ た。 ラ ジ オ 歌 手 第1号 で あ り,流 行 歌 の 黄 金 時 代 の 立 て 役 者 と な っ た 。(22)その 後,ミ ラ ノ へ 留 学 し,本 来 の ク ラ シ ッ ク へ 戻 っ た 。

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6瀧 子 との 再 会

そ の 半 年 後,1927年5月28日,田 口瀧 子 は小 野 病 院 か ら姿 を消 した 。そ の 理 由 は,多 喜 二 が瀧 の 男 性 関係 を知 り詰 問 し た こ とで あ る。 ヤ マ キ屋 の 息 子 との こ とだ っ た。(23)瀧子 は まず室 蘭 へ 行 き,ま もな く札 幌 へ 行 き,そ の後2年 ぶ りで小 樽 に戻 り,中 央 ホ テ ル で(24)働い た 。1929年5月14日 に多 喜 二 は2 年 ぶ りに 滝 と会 え た 。 こ の2年 間,多 喜 二 は全 く滝 子 と会 え な か っ た の だ 。

多 喜 二 と滝 子 は独 立 し た人 格 と して,そ れ 以 来 時 々 会 っ た 。

小 樽 の 中央 ホ テ ル で働 い て い た 田 口 は,経 営 者 か ら も信 頼 され,収 入 も よ か った が,し か し彼 女 は将 来 独 立 性 の あ る技 術 を 身 につ け る こ と を望 ん で い た 。 そ れ は一 つ に は,貧 しい,弟 や 妹 た ち の 支 え に な る用 意 で も あ っ た が, また 多 喜 二 と と もに暮 ら し て い くひ そか な 心 構 え で も あ った 。 彼 女 は多 喜 二 と相 談 して,東 京 で洋 髪 の学 校 に入 学 す る こ とを きめ,月 づ きの収 入 の な か か ら東 京 行 きの 費 用 を積 み立 て て い た 。」(25)

7多 喜 二 の か か わ り

小 林 多 喜 二 は,磯 野 小 作 争 議(26)を小 説 「不 在 地 主 」 で描 い た 。

小 林 多 喜 二 は この争 議 事 件 に,ど う い う態 度 で い た だ ろ うか 。 も ち ろ ん文 学 修 行 が 最 大 の 関 心 事 で あ っ た。 彼 はす で に1924(大 正13)年3月 に小 樽 高 商 を卒 業 し,北 海 道 拓 殖 銀 行 に就 職 し て い た 。 だ か ら卒 業 後 ち ょ う ど3年

で,こ の事 件 に会 っ た。

彼 は3月14日 の 地 主 糾 弾 の 第2回 目の 演 説 会 に行 こ う と した 。彼 は 日記 に 書 い て い る 。

磯 野 進 の 小 作 争 議 の演 説 を聞 こ う と して 行 っ て み た と ころ,何 十 人 とい う 巡 査 が 表 に居 り,入 場 を拒 絶 し て い る。 外 で は沢 山 の人 達 が 立 ち去 りも し な い で,興 奮 し,官 憲 とブ ル ジ ョア の横 暴 を な ら し て い た 。 一 労 働 者 の よ う な もの ・口 か ら 『搾 取 』 な ど とい う言 葉 が 常 識 の よ う に 出 て い た 。 時 代 が 進 ん だ こ とを思 っ た 。 皆 目覚 め て い る の だ 。 自分 も興 奮 して帰 って き た」(27)

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小 林 多 喜二 と 『不在 地 主 』 の ごろ 45

そ の 後 か れ は,北 海 タ イ ム ス 小 樽 支 社 に勤 め て い た寺 田行 雄 の紹 介 で,争 議 の 中 心 的 指 導 者 の1人 だ っ た 武 内清 の 求 め に 応 じ て会 い,彼 の依 頼 を受 け

て,拓 殖 銀 行 で収 集 で き る磯 野 側 の情 報 を提 供 す る役 を 引 き受 け た。(28) 彼 は,小 作 人 代 表 伴 や 阿 部 に会 っ て いた 。

昭 和2年 に な る と,多 喜 二 は 小 樽 の労 働 組 合 とつ な が りを もつ 。大 正14年 の10月 に,小 樽 高 商 で 軍 事 教 練 反対 闘 争 を や っ て,庁 商 ・高 商 と もに 多 喜 二

よ り一 期 下 の寺 田行 雄 の紹 介 で,彼 は,労 農 派 の 理 論 家 の 古 川 友 一 と知 り, そ ん な 関 係 で 小 樽 の組 合 と もっ な が りが で き た 。当時 の 小 樽 合 同労 働 組 合 は, 武 内清 一 昭 和23年10月 に死 ん だ 一 が 指 導 して い て,3月 に は小 樽 の 不 在 地 主 磯 野 進 の下 富 良 野 農 場 で 小 作 争 議 が 起 こる と,こ れ を応 援 した 。

多 喜 二 は島 田正 策 に会 う と,

「タ ベ 稲 穂 町 の 説 教 所 で 小 作 争 議 の 演 説 会 をや っ て い た聴 き に き た労 働 者 が 一 杯 あ ふ れ て,そ こ え警 官 が 並 び 物 凄 か った 。弁 士 が 一 言 し ゃ べ る とす ぐ, 中 止 を命 じ,次 の弁 士 が そ の続 き を しゃ べ る とい っ た 具 合 で,農 民 の 問題 に あ ん な に動 員 され るん だ か ら矢 張 り労 働 者 は ち が っ た もの だ」 とい っ た 。(29)

8『 中 央 公 論 』 と

雨 宮 庸 蔵 は,明 治36(1903)年,山 梨 県生 ま れ で,昭 和3年9月,中 央 公 論 社 に入 社 した 。 昭 和4年7月,雑 誌 『中 央 公 論 』 編 集 長 とな り,名 編 集 長 と し て知 られ,と く に谷 崎 潤 一 郎 の 数 々 の名 作 を送 り出 し た。昭和13年,『 央 公 論 』 が 石 川 達 三 の 「生 き て い る兵 隊 」 掲 載 の か どで 発 禁 とな った 責 任

を と り,退 社 した 。 雨 宮 は述 べ る。

中 央 公 論 は,と もか く論 説 欄 に して も中 間 記 事 に して も創 作 欄 に し て も根 本 的 に変 え な くて は な ら な い と痛 感 し て,そ れ とな く編 集 会 議 の時 に,(雨 宮 は)言 っ た 。 この 際 中央 公 論 は 時代 を先 取 りした よ うな もの を,と もか く論 文 で も創 作 で もい い,と もか く載 っ け て み る必 要 が あ る と痛 感 して,当 時 プ ロ レ タ リア小 説 が 時 代 の脚 光 を浴 び て い た よ う な時 だ っ た か ら,こ れ を一 つ

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利 用 して 見 よ う と,思 った 。

そ の と き,プ ロ レタ リア小 説 と して とに か く取 り上 げ る値 打 ち の あ る もの は,二 つ しか な い。 そ れ は徳 永 直(30)と小 林 多 喜 二,こ の 二 人 だ けが い わ ゆ る プ ロ レ タ リア 小 説 と して 見 ど こ ろが あ る,利 用 す る に 足 りる と,確 信 し た。

しか し,そ れ で は ど ち らを採 っ た らい い の か 。 す で に徳 永 は 長 編 「太 陽 の な い街 」 に よ っ て 時代 の脚 光 を浴 び て い る。 ドイ ツ 語 に ま で翻 訳 され る。

海 外 に まで 知 られ て い る。 しか し徳 永 君 は こ の小 説 を書 くた め に持 ち合 わ せ て い た 材 料 は,ほ とん ど使 っ て し ま っ た と,私 は思 っ た 。 だ か ら,徳 永 君 は これ 以 上 小 説 を書 く に し て も,そ の と きの残 りの材 料 を使 っ て短 編 で も書 く よ りほ か は な い と思 っ た 。 だ か ら,こ れ か ら取 り上 げ る と した ら小林 多 喜 二 君 よ りほ か は な い と思 った 。

小 林 君 の 方 は,や は り子 供 の と き に非 常 に貧 しか っ た こ とか ら,自 らは作 家 を希 望 しな が ら も,そ の題 材 は労 働 者 な り農 民 な り,と もか く貧 し い人 々 か ら材 料 を採 った と思 う。

しか し小 林 多 喜 二 を採 る こ とで は,そ こ に二 つ の私 の 標 準 が あ った 。 そ れ は第 一 に小 林 君 は単 な る プ ロ レタ リア作 家 で は な い 。 こ の人 は も と も と作 家 希 望 で あ る。 作 家 と して と もか く大 成 し よ う とい う野 心 に燃 え て い る。 た ま た ま貧 乏 で あ った た め に,プ ロ レ タ リア小 説 に こだ わ って い る,と 思 っ た 。 つ ま り この人 は作 家 を も と も と希 望 して い た こ と,そ れ が一 つ の 力 で あ った 。

そ し て この 作 家 志 願 とい う点 が,私 が 小 林 君 を 時代 先 取 りの場 合 の 中央 公 論 の 候 補 者 とし て あ げた い こ とだ が,も う一 つ,同 時 に私 は彼 が 決 し て共 産 党 員 で は な い とい う こ とを確 認 した 。 共 産 党 員 で あ れ ぼ,私 は い か に彼 が作 家 志 望 の念 願 を燃 や して い る人 で あ っ た と し て も,中 央 公 論 で大 々 的 に採 用 す る こ と は し な い。 何 故 な らば 彼 の 小 説 を取 っ た場 合 に,中 央 公 論 と して は これ に対 して 原 稿 料 を払 うわ けだ が,も し共 産 党 員 で あ る な ら ば,小 林 君 に 渡 っ た 原稿 料 は あ るい は そ の ま ま共 産 党 の 方 に流 れ るか も しれ な い 。 そ うす る と,中 央 公 論 は共 産 党 の シ ンパ で あ る とい う誤 解 を受 け る。(31)そうい う点 を警 戒 し,私 は小 林 君 が 根 っ か らの作 家 志 望 で あ る こ と と,断 じて 共 産 党 員

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小 林 多 喜二 と 『不 在 地主 』 の こ ろ 47

で は な い こ と を確 認 した う えで,小 林 君 に長 編 小 説 を頼 む こ とを,編 集 会 議 の と き に提 案 した 。

小 林 君 に頼 む に して も,そ の長 編 小 説 は 中央 公 論 の創 作 欄 を そ れ に よ っ て 埋 め て もい い くら い の覚 悟 を し て,頼 んだ ら ど うか と,思 った 。 これ に よ っ て 時代 の先 取 りをす る,と い う念 願 は達 せ られ る。 そ れ は 中央 公 論 が 起 死 回生,よ っ て これ か ら言 論 界 に雄 飛 す る一 つ の 足 場 に な る と,信 じた 。

編 集 長 な どか ら した ら,せ っ か く谷 崎 潤 一 郎(32)さん か らの 原 稿 は 来 て い る,そ れ も 「三 人 法 師 」 の 半 分 が きて,後 の半 分 はや が て来 る こ とに な っ て い る。 これ に よ って 中央 公 論 の 長 編 創 作 欄 を飾 る こ とは 当 然 の こ とで あ り, そ れ に編 集 長 た ち が 執 着 を燃 や す こ と は,中 央 公 論 の 伝 統 と し て は王 道 で あ る。 しか し今,実 は私 は そ う し て は い られ な い 。 そ し て ど うせ 小 林 君 の 小 説 だ か ら,題 材 は 労働 者,農 民 な どを一 方 に置 い て,一 方 に は資 本 家,銀 行, 金 融 資本 家,地 主 とい う もの を置 く こ と に な るの で,作 品 と し て は一 般 の 興 味 を 引 くよ うな こ と は 出来 な い か も しれ な い。 しか し時 代 の 先 取 りを す る意 味 で は こ う し た題 材 も仕 方 な い,こ れ は一 応 目 をつ む っ て い た だ か な くて は

な らな い 。 そ して これ をぜ ひ に と思 っ て 皆 さ ん に お 願 い した 。

そ の と き社 長(嶋 中)は,よ し,ひ とつ や っ て み よ う じ ゃな い か,と い う 発 言 が あ った 。 これ を聞 い た編 集 長 は ま った くび っ く り して,普 段 か らの 思 い も欝 積 し て い た の で し ょ う,そ れ は ま る で ア ク ロバ ッ ト編 集 で あ る,と は っ き り言 っ た 。 こ れ に対 して 嶋 中 さ ん は まっ た く怒 っ て し ま っ た。 握 り拳 を 握 っ て,よ し,そ れ な ら雨 宮 君 を編 集 長 にす る,と 言 い 出 した 。 私 もび っ く り した。 他 の先 輩 た ち もび っ く り した で し ょ う。 そ れ で 私 は社 長 に,私 は そ ん な こ とで 小 林 君 を一 生 懸 命 推 薦 して い るわ け で は な い,私 が編 集 の責 任 者 に な る と い う こ と は ま っ た く思 い も よ らな い こ とで,そ ん な こ と は もち ろん 考 え て い な い の で,ど うか そ の と ころ は誤 解 の な い よ う に くれ ぐれ もお願 い し ます と い っ て,そ の と ころ は一 応 収 ま った が,編 集 長 と して は,ど う して も谷 崎 さ ん の 「三 人 法 師 」 に こだ わ っ て お り,小 林 君 み た い な若 造 に そ う し た 創 作 覧 を埋 め て まで も長 編 小 説 を書 か せ る こ とは ま った く思 い も よ らぬ こ

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とだ っ た 。

もち ろ ん,そ の 文 章 に お い て も,文 芸 と して の 作 品 に お い て も小 林 君 の も の が谷 崎 さ ん に遠 く及 ぼ な い とい う こ と は,私 に も解 っ て い る。 充 分 承 知 し て い る。 そ して お そ ら く小 林 君 と して,そ の題 材 とし て は労 働 者,農 民,地 主,資 本 家 とい う と こ ろ を代 表 と して筆 を進 め るの で し ょ うが,こ れ は 大 目 に見 な け ら ば な らな い。 小 林 君 の,労 働 者 農 民 と資 本 家 地 主 と い う 関係 につ い て の社 会 的 分 析 は恐 ら く精 ち を極 め る と思 うが,し か し これ は小 説 の 本 道 で は な い,こ うい った もの は社 会 経 済 評 論 家 の手 に委 ね る こ とで あ り,小 説 の 作 品 と して の本 道 で は な い,そ の こ と も私 は充 分 に承 知 した 上 で,こ れ を 小 林 君 に頼 も う と して い る 。

注 意 しな けれ ぼ な ら な い こ と は,小 林 君 が そ う した 労働 者,農 民,資 本 家, 地 主 を描 い た 場 合 に,そ の普 遍 的 な人 間性 が しっ か り据 え られ て,そ れ が 極 め て正 確 な 正 しい表 現 で 文 章 に され る か ど う か,さ らに そ の文 章 は願 わ くぼ 美 し い文 章 で な け れ ぼ な らな い 。 この 点 を私 は十 分 注 意 して そ の 作 品 が 出 来 上 が っ た場 合 に は,批 判 的 に 見 よ う と思 う。 これ が 十 分 に 出来 て い な い よ う で あ っ た ら,作 品 と し て の値 打 ち は な い の で,や め る よ りほ か は な い,そ れ く らい の 覚 悟 で 私 は臨 ん で い る。 この こ と は小 林 君 に も し も頼 む と した ら, 十 分 に念 を押 して お か な け れ ば な らな い,と い う こ と も考 えて い る。

し か し,い ず れ に し て も,小 林 君 を採 用 す る,登 用 す る こ と 自体 が,し も長 編 小 説 で これ を雑 誌 に載 せ る こ と は,ま こ と に冒 険 で は あ る。 だ か ら私 は これ が 文 芸 作 品 と して 果 して 承 諾 で き るか ど うか,つ ま り普 遍 的 人 間性 を 正 確 に捉 え られ,そ して そ れ が で き れ ぼ 美 し い文 章 に よ っ て表 現 され る こ と が で き るか ど うか,ま こ とに我 々 谷 崎 さ ん の 文 章 な り,島 崎 藤 村 の文 章 な り, あ る い は志 賀 直 哉 の 文 章 な り に親 し ん で,そ れ を高 く評 価 して い る も の に とっ て は,小 林 君 の作 品 を大 きな スペ ー ス を割 い て 載 っ け る こ と は ま こ と に 乱 暴 で あ るか と思 う。 そ うい う風 に見 られ て も仕 方 な い 。

しか し と もか く中 央 公 論 は こ う い っ た 時 勢 で と もか く時 代 の 波 を切 っ て こ れ を乗 り越 え て願 わ くぼ リー ドし て い か ね ば な らな い 。 そ の た め に は先 ず 時

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小 林 多 喜二 と 『不在 地 主 』 の ころ 49

代 の 先 取 りを す る こ とが 絶 対 に必 要 で あ り,そ の 意 味 で こ こ に小 林 多 喜 二 君 の長 編 小 説 を採 って み よ う とい う こ と に な っ た の で,そ の へ ん は ど うぞ編 集 長 だ け に ご理 解 を願 い た い 。 も し成 功 で き な か っ た ら,ど うす る つ も りか と 問 わ れ れ ば ま こ と に困 る の で す が,私 の 注 文 通 りに 小 林 君 が や っ て くれ るな らば十 分 時 代 の先 取 りを して,そ して 中 央 公 論 が起 死 回 生,こ の ま まで は中 央 公 論 は眠 っ て し ま う よ り他 はな い の で,必 死 に願 っ て い る。

私 は この 場 合,小 林 君 に し っか り こち らの 旨 を含 ん で も らっ て や っ て も らっ た ら,彼 に で きな い こ と はな い と思 う。 作 品 が 文 芸 作 品 と して 十 分 成 功 す る か ど うか,こ れ はで き た作 品 を採 っ て み な け ら ばわ か らな い が,私 は 彼 は十 分 に や っ て の け られ る の で はな い か と思 う。 と もか く彼 は作 家 と して の 大 作 家 と して 成 功 した い とい う野 心 が あ り,こ れ は は っ き り して い る。 だ か ら「不 在 地 主 」,後 に で きた 題 名 だ が,そ うい う長 編 小 説 を書 く場 合 に十 分 に 心 得 て い るの で は な い か 。 ま た 志 賀 直 哉 に 心 酔 して い る点 か ら見 て も,非 常 に文 章 に苦 心 し て そ の 出 来 上 が りを一 生 懸 命 考 え て や って くれ るの で は な い か 。

しか し,そ れ に して も頼 む と き に は十 分 そ の 辺 を くれ ぐれ も念 を押 して私 は頼 みた い 。そ れ が 作 品 と して 出 来 上 が った 場 合 に成 功 して い な い とす れ ぼ, 何 度 で も書 き直 しを して 貰 え ば い い し,そ れ が あ ん ま り年 月 が か か る こ とが あ った ら,そ の と きは 考 え て もい い 。 … …私 の 想 像 と して は,こ れ が 成 功 し た場 合 に は 中央 公 論 の 声 価 は一 段 と跳 ね 上 が り,部 数 も十 分 期 待 で き る の で

はな い か。 ・… ・

そ し て私 は皆 さ ん の 非 常 な懸 念 もあ っ た が,社 長 か らの 勇 断 もあ り,小 林 君 に原 稿 を頼 む こ とに した 。 中央 公 論 と して は ま こ とに 破 天 荒 な もの で,君

も し っか りや っ て も らい た い,と 私 は くれ ぐれ もい い た い 。 … …

小 林 君 か ら は,も う必 死 の原 稿 を持 っ て ご期 待 に沿 い た い と思 い ます,と い う返 事 は貰 い ま した 。… … あ とは小 林 君 の 原 稿 を待 つ だ け の こ とに な っ た, 小 林 君 は期 日 を問 違 い な く締 切 に 間 に合 う よ う に,そ の 原 稿 は送 っ て よ こ し

ま した 。 枚 数 を こち らで い っ た よ う に,き ち ん と守 り,そ し て そ の 態 度 は,

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50 第101輯

私 は手 紙 を見 て,実 は安 心 して い た 。 そ し て期 日通 りに小 林 君 か ら原 稿 が 届 い た 。 … …(33)

9テ ー マ の 由 来

中央 公 論 か ら原 稿 依 頼 が あ っ た と き,多 喜 二 は 武 田 逞 に,「 防 雪 林 」とい う 題 は ど うだ と,相 談 を もち か けた 。 何 も読 ませ な い で 聞 か れ て も,と 武 田 は 思 っ た 。 そ れ で,「 自然 主 義 的 で,古 い題 だ ね 。」 「ち ょっ と古 く さい な あ」っ て 言 っ た 。

考 え込 ん で い た 多 喜 二 は,「 じゃ,不 在 地 主 とい う題 は ど うだ。」 とい う。

不 在 地 主 とい う言 葉 は,武 田 は ま っ た くの 初 耳 で,そ の時 は何 の こ とや らわ か らな か った け れ ど,「 う ん,こ れ は い い。立 派 な題 だ,と にか く科 学 的 で 新 し い よ。不 在 地 主 に し ろ よ」。「そ うか,そ うす るか,じ ゃ不 在 地 主 に決 め る。」

そ れ か ら武 田 は 多 喜 二 に一 席 講 義 され た 。

多 喜 二 は,す で に 「防 雪 林 」 を書 い て い た は ず で あ る。 これ と同 じ題 名 に し よ う と初 め考 えて い た の だ ろ う。

10文 学 の 大 衆 化

藤 橋 は 言 う。 あ れ は い つ だ っ た か,雪 の 降 る 中,1時 か2時 ま で ビ ヤ ホ ー ル か で,多 喜 二 ら と飲 ん で い た 。 武 田 が,「 プ ロ レ タ リア 新 内 を や る の か 」, と言 う 。 そ れ で 藤 橋 が 調 子 に 乗 っ て,「 プ ロ レ タ リア 浪 花 節 で も書 け ぼ い い ん で な い か 」,と 言 っ た ら,多 喜 二 は,「 そ う か な あ 」,と 考 え こ ん で た 。 そ し て そ の ま ま 帰 っ て い っ た 。 ま じ め だ な あ,と 藤 橋 は 言 う。 あ の こ ろ,新 内 の 家 元,岡 本 文 弥 が,プ ロ レ タ リ ア 新 内 を や っ て い た 。 そ れ で 藤 橋 が ひ っ か け た 。(34)

こ の こ ろ,プ ロ レ タ リ ア 文 学 の 陣 営 で は 文 学 の 大 衆 化 と い う 課 題 が 出 さ れ て い た 。 多 喜 二 も こ れ を 具 体 化 し よ う と し た 。 『不 在 地 主 』に は そ の 努 力 の あ

と が あ る 。

参照

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