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もう一つの「学習社会」

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もう一つの「学習社会」

―変わることを学ぶ社会―

永 井 健 夫 はじめに

生涯学習政策が展開してゆくなか、特に10年代に入って以降、これからの日本社 会が実現すべき在り方を示す言葉として「生涯学習社会」が定着するようになった。

この言葉が現れる以前から、10年代後半に論じられ始めた「学習社会」

(learning society)

という考え方がある。では、前者は後者の修辞的な言い換えに過ぎず、本質 的には同等の概念と見なしうるものなのか。一見、互いに類似した言葉ではあるが、

「生涯学習社会」の名による施策は学習社会の議論や考え方を部分的・選択的に利用 しているだけの場合が多いようだ。生涯学習についての関心を社会的に広げたという 点では、「生涯学習社会」という用語の貢献は大きい。その一方、「学習社会」ではな く「生涯学習社会」が一般化する過程のなかで、学習社会をめぐる議論の多様性が見 失われてしまっているかもしれない。本稿では、こうした関心に基づく試論として、

学習社会は生涯学習の制度的環境の充実を求める考え方であるだけでなく、現代社会 の構成・機能に関する対案を探る議論でもあること――いわば「学習社会」のもう一 つの側面――を示してみたい。

学習社会論の始まりと広がり

学習社会を一義的に捉えることは困難であり、それはユートピア的理想を示す場合 もあれば、現代社会における現実的な特質を表す場合もある

(ジャービス, 2 0 0 1)

。その 意味するところや方向性は多様であるが、学習社会が議論されるようになったのは、

周知のとおり、18年に Hutchins, R. M. が『学習社会』

(Hutchins,1 9 6 8)

を著したこ とによる。その後、ユネスコの「教育開発国際委員会」による『生きるための学習』

[通称:フォール報告]

(Faure et al., 1 9 7 2)

、カーネギー高等教育委員会による『学習

−7 7−

(2)

社会をめざして』

(Carnegie Commission on Higher Education, 1 9 7 3)

などが続くほか、関 連する議論として Illich

(1 9 7 1)

による「脱学校化」の主張や OECD の教育研究革新 センターによる「リカレント教育

(recurrent education)

」の提起

(CERI/OECD, 1 9 7 3)

なども見られた。

この学習社会の考え方が日本で流布することに大きく貢献したものとして、『ラー ニング・ソサエティ』

(新井編, 1 9 7 9)

を挙げることができる。その冒頭の「概説」に おいては、従来の「教育投資論的思想」の転換を促すべく生涯教育論とともに登場し てきた考え方として学習社会論が位置づけられている。そして後続する各章で、

Hutchins やフォール報告など、生涯教育や学習社会に関する先行議論が紹介されて いる。他方、市川

(1 9 8 1)

は、生涯教育の基本論理である「教育機会の統合」を実体 化すると言われる学習社会について、その有効性に疑問を投げかけている。彼は、生 涯教育政策が要請される主要な社会的事由である「教育機会の実質的平等化」に着目 し、学習社会の名のもとに教育の責任が全社会に拡散され「生涯学校化の悪夢」に至 る危険を指摘している。この他、天野

(1 9 8 4)

は、産業社会の発展を支えてきた教育 制度に伴う諸問題

(試験と選抜、学歴主義、学歴社会、高学歴化など)

を分析するなかで、

高学歴化社会を学習社会として記述する。それとあわせて、学校教育を支配してきた

「効率の論理」を乗り越える方向に生涯学習化が進んでゆく学習社会の可能性につい て、合衆国やスウェーデンの事例を検討する形で考察している。

発端となった Huchins

(1 9 6 8)

の議論は、教育システムと社会的現実との間のギャッ プに対する懸念を動機とする。そして、人材

(manpower)

ではなく人間性

(manhood)

のための教育を可能にする社会を意味するものとして、彼は学習社会を唱えるので あった。その論考の中には、ユネスコで提起された「生涯教育」の議論への言及は見 られない。しかし、教育・学習のシステムが人間的福利や人類的困難に対して有効な ものとなるよう改革を求めている点に、生涯学習論と通底する同時代的な視座を見て 取れる。というよりむしろ、フォール報告が生涯教育と学習社会を教育改革の基本理 念に据えている点に示唆されるように

(Faure et al.,1 9 7 2, p. XXXiii)

、生涯学習論と学習 社会論は互いに等価的であるとさえ言えよう。両者の議論が展開され始めた10年代 から70年代は、科学的知識やテクノロジーの発達、余暇の増大、政治構造の変動、情 報化など、教育・学習の前提となる社会的・文化的諸条件の加速度的な変化・流動化 が顕著に現れて来る時期であった。やや乱暴に換言すれば、それは近代化と産業化が

−7 8−

(3)

もたらした矛盾と課題が、東西対立の深刻化と相まって、一段と複雑化してゆく歴史 的局面であった。その近代化と産業化を進めてきたのが社会的装置としての公教育制 度である。年少者を「学校」に囲い込む形で、しかも「選別」の作用を含ませながら 機能する制度は、Hutchins の言い方にならえば、「人間性のための教育」のみならず

「人材のための教育」という点でも限界に直面していた。つまり、10年代から70年 代は、教育制度が「教育」

(=人間的能力の形成)

の機能を十分に実現できないという ジレンマが強く意識されると同時に、諸個人の可能性を実現するものが制度的教育以 外に乏しい社会についての危機感が高まってゆく、そのような時期であったのだろ う。

つまり、現代社会の教育的閉塞状況が背景となって生成してきた議論であるという 点で、学習社会論と生涯学習論は同根であり、少なくとも、一方を欠いては互いに成 立しない関係にある。その点に着目するなら、「生涯学習社会」は「生涯学習」と「学 習社会」の緊密性を集約する概念として受け取ることができなくもない。しかしなが ら、この組み合わせ方は学習社会を一定のイメージに偏らせる恐れがある。その点に ついて検討する前に、日本の生涯学習政策の関連文書において「学習社会」と「生涯 学習社会」がどのように用いられてきたか、一瞥しておこう。

生涯学習政策における「生涯学習社会」

日本で最初に「学習社会」が公的な文書で用いられたのは19年のことで、それは 中央教育審議会の「生涯教育に関する小委員会報告」において「社会における多様な 教育・学習の機会を拡充することの必要性が高まっており、いわゆる学習社会の到来 が期待されている」と記された部分であるという

(新井, 1 9 9 0, p.8 1)

。その延長線上に あるのが11年の中教審答申

(中央教育審議会, 1 9 8 1)

であり、これは日本における本 格的な生涯教育・生涯学習の政策化の開始を象徴する文書として位置づけうる。そこ では、生涯にわたる学習とそれを総合的に支援する教育それぞれの重要性が論じられ た後で、学習社会について次のように言及されている:

また、我が国には、個人が人生の比較的早い時期に得た学歴を社会がややもすれ ば過大に評価する、いわゆる学歴偏重の社会的風潮があり、そのため過度の受験

−7 9−

(4)

競争をもたらすなど、教育はもとより社会の諸分野に種々のひずみを生じてい る。今後、このような傾向を改め、広く社会全体が生涯教育の考え方に立って、

人々の生涯を通ずる自己向上の努力を尊び、それを正当に評価する、いわゆる学 習社会の方向を目指すことが望まれる。

(第1章第1節「生涯教育について」 )

多様な教育・学習の機会に富み、社会や教育の歪が解消され、個人の努力が生涯に わたって尊重される社会――生涯学習政策が具体化され始めた当初、その政策が実現 すべき社会像としてこのように描かれていたのが学習社会であった。しかしその後、

「学習社会」という表現そのものは定着せず、その代わりに「生涯学習社会」という 用語が多用されてゆくようになる。近年の政策文書を見ると、その例は枚挙に暇が無 い。たとえば、16年度版の『我が国の文教施策』

(文部省編, 1 9 9 6)

では、その特集 の内容を示す副題に「生涯学習社会の課題と展望―進む多様化と高度化―」と掲げら れている。あるいは18年の生涯学習審議会答申

(生涯学習審議会, 1 9 9 8)

においては、

第2章第2節で「生涯学習社会の構築に向けた社会教育行政」と題して論じられてい る。地方自治体によるものも含め、10年代に出された生涯学習政策の関連文書にお いては、「学習社会」ではなく「生涯学習社会」の語が主流となっている。

この流れを辿ってゆくと11年の中教審答申

(中央教育審議会, 1 9 9 1)

や12年の生 涯学習審議会答申

(生涯学習審議会, 1 9 9 2)

に出会う。このうち、前者のなかで生涯学 習社会がどのように記述されているかを確認しておくと、次のとおりである。

学校教育が抱えている問題点を解決するためにも、社会のさまざまな教育・学習 システムが相互に連携を強化して、生涯のいつでも自由に学習機会を選択して学 ぶことができ、その成果を評価するような生涯学習社会を築いていくことが望ま れるのである。

(第Ⅰ部第3章 「生涯学習の視点」 )

この中教審答申においては、学校教育が抱える諸問題に解決を与えるものとしての 生涯学習社会という意味づけが基調になっており、生涯学習社会に向けての政策提言 も学校の活用と学習成果の評価といったテーマに焦点が置かれている。他方、生涯学 習審議会答申のなかで重点課題として掲げられているのは「リカレント教育」「ボラ ンティア活動」「青少年の学校外活動」「現代的課題に関する学習機会」などの推進・

−8 0−

(5)

充実であり、強いて言えば、非伝統的な教育領域に関わるテーマが中心である。こう した違いはさておき、生涯学習社会が「人々が、生涯のいつでも自由に学習機会を選 択して学ぶことができ、その成果が適切に評価されるような」社会

(第Ⅰ部3「豊かな 生涯学習社会を築いていくために」 )

として捉えられている点については、中教審の場合 と同様である。

本稿の目的は用語法が変わった時期を特定することではないが、もう少し遡って 0年代中盤に出された臨時教育審議会の答申を見ておこう。これまでの学校教育中 心の教育体系から「生涯教育体系への移行」の必要性を強く提唱したのが臨教審答申

(臨時教育審議会, 1 9 8 5, 1 9 8 6, 1 9 8 7a, 1 9 8 7b)

であり、そこでも「生涯学習社会」が多用さ れている。たとえば、15年の第一次答申において、 生涯を通ずる学習の機会が用 意されている「生涯学習社会」

(第Ⅰ部第4節

「生涯学習体系への移行」 )

、 個性的で 多様な生き方が尊重される生涯学習社会の建設

(第Ⅱ部2「生涯学習の組織化・体系化 と学歴社会の弊害の是正」 )

、 学歴偏重社会においては、「いつどこで学んだか」が個人 に対する評価として重視されるのに対して、生涯学習社会は、「なにをどれだけ学ん だか」を評価する社会である

(第Ⅲ部第1節「学歴社会の弊害の是正のために」 )

等々 と、各所で「生涯学習社会」が使われている。議論の経緯を整理している第二次答申 の一部分

(第Ⅰ部第5節「教育体系再編成の必要性」 )

、そして第三次答申にある 生涯 学習を可能にし,促進し得るような社会の制度と慣行を生みだす学習社会

(第5章第 3節「入学時期」 )

という記述を除き、各次の答申で用いられているのは「生涯学習社 会」が専らである。

ここで11年の中教審答申で言われた「学習社会」と11年の中教審答申で示され た「生涯学習社会」の意味内容を比較してみると、教育・学習の機会が豊かな社会と して、また学歴ではなく学んだことの成果が重んじられる社会として期待されている という点で、両者は一致している。11年の答申の考え方を踏まえる限りにおいて は、「学習社会」が「生涯学習」を重視する社会となることは明らかであり、「生涯学 習社会」は意味の重複を含む表現とも言える。この間、政策概念としてほぼ同一の内 容であるにもかかわらず、それぞれの用語の違いについて特に積極的な説明が示され ることなく「生涯学習社会」が定着してきたようだ。そして今日では、「生涯学習社 会の構築」が国の教育政策の重要課題として位置づけられ、その必要性と取り組み方 が次のように提起されている

(文部省編, 2 0 0 0, p.1 4 0)

−8 1−

(6)

いわゆる学歴社会の弊害を是正し、心の豊かさや生きがいのための学習意欲の増 大や、社会経済の変化への対応が求められている中、「人々が、生涯のいつでも、

自由に学習機会を選択して学ぶことができ、その成果が適切に評価される」よう な生涯学習社会の構築を目指して行くことは極めて重要な課題です。生涯学習社 会の構築が求められる背景と、そのための取組の一層の充実が必要な理由として は、

学歴社会の弊害の是正、

社会の成熟化に伴う学習需要の拡大、

社会・

経済の変化に対応するための学習の必要性などの点が指摘されています。これら の学習需要に的確に対応していくことは、学習者自身のキャリア向上のみなら ず、社会システムの基盤である人材育成につながるものであり、社会・経済の発 展に寄与するところが大きいものです。…

(中略)

…生涯学習社会を実現するた めの取組は、文部省や教育委員会はもとより、例えば職業能力の開発や社会福祉 等生涯学習に関する施策を行う各種行政機関や、民間の各種機関・団体等、様々 な主体によって多様な形態でなされています。これらの関係機関・団体間の連 携・協力体制を作り上げることにより、施策の総合的な取組を進めることが重要 です。

(文部省第1章第1節「生涯学習社会の必要」 )

要するに、「生涯学習社会」として目指されているのは、学校教育の他にも種々の 学習機会が整備・拡充され、学歴ではなく学習活動の成果が評価されるような社会的 在り方である。その中心目的が生涯にわたる職業能力の開発とその評価を請け負う体 制の確立というのであれば、それはむしろ「生涯能力開発社会」と呼ぶべきである。

その場合、Hutchins 流の学習社会論に依拠するなら、そうした人材開発志向の社会 体制はむしろ学習社会論が批判する対象である。そうでないとしても、日本の生涯学 習政策で提起される「生涯学習社会」――学習機会と評価制度が整備・拡充された社 会――は、「学習社会」の一つの現われ方に過ぎない。とはいえ、世間的な捉え方か らすれば「学習社会」という言い方は馴染みにくいのかもしれない。生涯学習が尊重 される社会という意味合いが強調される点では「生涯学習社会」のほうが実際的であ ろう。それでもなお、この用語は学習社会の考え方に含まれる多様な要素や論点を見 失わせる働きをしてしまっており、この点では「生涯学習社会」の語は問題性を含ん でいると言える。

−8 2−

(7)

学習社会の諸側面

それでは、学習社会の考え方はどのように多様なのであろうか。もう少し具体的 に、学習社会論の多様性について確認しておきたい。

Jarvis

(1 9 9 9)

は、 学習社会とは、我々が生きる社会の型を記述する隠喩である

(p.1 5 9)

と捉えたうえで、学習社会を「未来論としての学習社会

(the learning society as futuristic)

「学習市場としての学習社会

(the learning society as a learning market)

「反 省的社会としての学習社会

(the learning society as a reflexive society)

」という三つに類 別している。それによると、「未来論としての学習社会」とは、Hutchins, R. M. や Husén. T. あるいは Ranson, S. らによるもので、民主的・人間的価値が高度に実現す る方向へと学習機会が拡充された理想社会として描かれる。Jarvis によると、教育制 度の改革が成し遂げられてこそ実現される社会となっている点で、この種の学習社会 は「教育社会

(educative society)

」であるという。次に、「学習市場としての学習社会」

とは、現代の消費社会――欲するものが消費によって満たされ、広告が欲望の掘り起 こしに基づいている社会――のなかで、人々が「教育」から切り離された「学習」を 享受している状況を言う。そこでは、学習グループへの参加、パソコン、インターネッ トなど、多種多様の方法で学ぶことが可能であり、知識の生成が産業となっている。

最後に、「反省的社会としての学習社会」とは、社会が反省的となり、知識が確実で も恒久的でもなく流動的で相対的なものとなった現代的状況を意味する。この反省的 社会の基本様式は実験的方法

(experimentation)

であり、学習の必要に満ちた社会で あるが、その学習には未知のものに対処するという危険も含まれているという。

一方、Jarvis によって「未来論」の系統に位置づけられる Ranson も学習社会の多 面性について記述している。Ranson

(1 9 9 8)

によると、学習社会論は10年代の終わ りから10年代の始めと10年代の二つの時期に広がりが見られ、いずれの場合も変 化の時代を理解する方法として議論されたという。そして種々の論者たちの議論か ら、学習社会には次のような諸相が見出されるとされる:①「自らの現状と変化の様 式を学ぶ社会

(a society which learns about itself and how it is changing)

、②「学ぶ方法 を変えることを必要としている社会

(a society which needs to change the way it learns)

、③「全ての成員が学んでいる社会

(a society in which all its members are

−8 3−

(8)

learning)

、④「学習の条件を民主的に変化させることを学ぶ社会

(a society which learns to democratically change the conditions of learning)

論じられている内容を簡単に紹介しておくと、一番目のものは、学習が存続と繁栄 のための唯一の鍵となっている社会のことで、関連する議論の代表として Ranson は Schön, D. A. に注目する。Schön

(1 9 7 1)

は、安定状況の崩壊を乗り越えて存続してゆ くために社会は学び方を学ぶこと、つまり学習システム

(learning system)

を開発す ることによって自己変革してゆくべきと主張するのである。二番目のものは、学習を 提供する社会的制度や教育方法の改革に焦点を置く議論で、代表例として Husén, T.

が紹介されている。Husén

(1 9 7 4,cited)

は制度化された学校教育の問題を批判し、教 育参加機会の拡大、適切なテクノロジーの利用、教授法の個人化など、教育のシステ ム条件やその社会的位置づけに関する改革を求めたという。この Husén の主張につ いて Ranson は、学習社会を求めていながら学校と青少年の問題に絞られすぎている 点を批判する。この点で対比的であるのが三番目の「全ての成員が学んでいる社会」

としての学習社会である。これは学習が万人の全生涯に対して行き渡るような社会の ことで、Ranson は学校の官僚制を批判する Holt

(1 9 7 7, cited)

の「学習交換

(learning exchange)

」や Illich

(1 9 7 1)

の「学習の網

(learning web)

」などに言及している。彼は、

これらのラディカルな議論に最も反応したのが成人教育であり、成人教育者たちに よって「社会形成に資する形で学習を利用する学習者の社会」という学習社会観が展 開されてきたと指摘する。最後の四番目の議論は、学習社会と民主主義の結びつきを 主張するものである。Ranson は、変化の状況について学ぶ社会は学習の条件につい て学ばねばならず、その条件とは社会的で政治的なものであると捉える。そこで彼 は、教育改革は社会的・政治的なものであるとする Husén

(1 9 7 4)

と、政府が公共的 学習

(public learning)

を促す学習システムとなるよう提起する Schön

(1 9 7 1)

の議論 について検討する。そのうえで Ranson は、Habermas, J. や Dewey, J. その他の論者 に言及しながら、学習社会は多様な価値や利害の衝突を和解させる「学習する民主体 制」

(a learning democracy)

によってのみ生じうると主張し、学習社会が民主主義に基 礎づけられることを求めている。

大まかに言えば、Jarvis が着眼しているのは、それぞれの学習社会論が描く社会的 在り方の特徴である。一方、Ranson は、「学習社会」における「学習

(learning) 」

「社会

(society)

」の意味関係を問いながら整理していると言える。いずれにせよ、

−8 4−

(9)

両者の議論から、「学習社会」の考え方や議論は多様な側面から成ること、したがっ て「人々が、生涯のいつでも、自由に学習機会を選択して学ぶことができ、その成果 が適切に評価される」というだけの「生涯学習社会」は学習社会論が求めた答えの一 つに過ぎないこと、これらを見て取れよう。

変化を学ぶ学習社会

それでは、生涯学習論や学習社会論の本来的動機であった現代的な課題・危機の克 服というテーマに則して考えた場合、どのような意味での学習社会の議論を深めてゆ くべきなのか。言い換えれば、学習機会が整備され社会的人員配置の為の評価の方 法・制度が革新される社会を描く以外に、現代社会のどのような問題を問い、その解 を探ってゆくことが学習社会論として妥当なのか。

先に見たように、多様な側面を有する学習社会であるが、その議論を大別すると、

学習に関する諸制度の様式・配列に焦点を置く場合と、学習の社会構成的な機能に焦 点を置く場合に分けられそうだ。前者が探求しようとするのは制度論または形態論的 な意味での学習社会であり、後者の場合は機能論または認識論的な意味での学習社会 ということになろうか。これは便宜的な区分であり、この区分が成り立つとしても両 者は相互に排他的とはならないはずである。そうした条件に制約される批評にすぎな いが、日本の生涯学習政策のなかで示される「生涯学習社会」の議論には後者の視 点、つまり、どのように行われる学習がどのように社会を創りうるか、といった観点 が不足しているように思える。こうした捉え方の適否については更に詳しい検証を要 するものの、制度次元の改革が必ずしも社会の実質的変化を保証するわけではないと いう点は確かであろう。

もちろん、学習や雇用に関わる諸制度が改革されるなら、社会の様相はずいぶんと 変わってくる。しかし、 学習社会といい、新・産業社会といっても、総体社会をみ る視点が違うだけのことで、学習社会を裏返してみると新・産業社会に他ならなかっ たという事態が、十分予想される

(市川, 1 9 8 1, p.2 9 6)

といった懸念は無視できない。

ここに暗示されているように、教育・学習と能力評価をめぐる諸制度が改革され、労 働や余暇活動などの選択肢が増えたとろで、そのことが社会全体の機能的発展や人々 の生活の質的向上へと確実に帰結する必然性は無い。学習機会の選択肢が増えると

−8 5−

(10)

いっても、どのような機会がどのように用意され、それが如何なる社会的諸機能の変 化を生じさせうるのか?この点に関わる議論として、たとえば、Mezirow

(1 9 9 5)

次のような批判を挙げることができる。彼は 学習ニーズや学習機会が設定され社会 的地位上昇が構造化されるとき、官僚制資本主義社会が有する支配構造の権力と影響 力が決定的に重要となること を問題とし、 既存の諸制度が参加型民主主義と容易 に和解しがたいことは残念ながら明らかである。それらの制度を学習社会のニーズに 適合させなければならない

(p.6 7)

と主張している。すなわち、学習社会の名によっ て整備される種々の制度が結局は経済至上主義的に作用し、民主主義的価値や人々の 真の利益に逆らって機能することもありうるのである。そうならないとしても、制度 的拡充に偏った「学習社会」は、使いこなせるかどうか不確かな道具が並べ立てられ ている状況に等しい。社会的諸制度は、本来、その社会を維持・発展させるための道 具のようなものだろう。どのような道具を如何に並べるかという議論も重要である が、仕事場が産み出す効果を考えるうえで必要なのは、むしろ、道具をどのように使 い、どのように仕事の過程を進めてゆくかという次元での探求である。

以上のように考えるなら、学習社会論としては、学習社会を構成すべき制度や組織 をどのように機能させ、総体としての社会機能をどのように成り立たさせてゆくか、

といった観点からの考察が欠かせない。その先駆として特に注目したいのが、Ranson

(1 9 9 8)

も取り上げている Schön のBeyond the Stable State

(Schön,1 9 7 1)

である。こ の書では、学習論的な視点に立った社会システム論とでも呼ぶべき議論が展開されて いる。その内容の詳しい検討は別の機会に譲るが、議論の流れを掻い摘んで記してお くと、次のとおりである。

先ず Schön は、幾何級数的な勢いで変化する過程に置かれ、恒久的な安定状況

(stable state)

を望めないのが現代であると捉える。その状況に建設的に対応するに は、学習システム

(それ自身が継続的に変容しうるシステム)

となるような制度を開発し なければならない。しかし、社会の構造とその機能の間に不適合が生じても、力学的 保守主義

(dynamic conservatism)

という慣性が力強く働き、社会システムの変容には 至りにくい。かといって、その力の除去は破壊的な混乱を招きかねない。ゆえに学習 システムは、力学的保守主義が状況の変化を許容するような形で作用する必要があ る。その方法を考えるヒントとして Schön は企業の発展過程を検討する。そして、

分散型の経営、つまり企業を構成する諸要素のネットワークが創出されてゆくような

−8 6−

(11)

経営の在り方に注目する。また、19世紀後半から20世紀にかけての産業の拡大、共産 主義運動、および帝国主義の伸張、あるいは10年代から10年代にかけての社会運 動、等々を振り返りながら、技術や知識の革新が普及してゆく方法には「中心・周縁

(center-periphery)

」の関係に基づくパターン、並びにシステムの変容をとおしてのパ ターンがあることを提示する。これらの検討を経た後、Schön は「公共的学習

(public learning)

(≒社会的な問題の性質、原因、解決法についての継続的な探求)

に取り組む学習 システムとしての政府

( 「学習する政府(learning government) 」 )

という捉え方を示す。

そして、合衆国連邦政府による施策が安定状況を前提とした中心・周縁モデルとなり やすい点を批判する。加えて、政府に限らず、公共的学習が特定の組織に閉じ込めら れる傾向が一般的であることを指摘する。そのうえで、結論として、安定状況の喪失 への社会的対応としては、学習システムのネットワーク的な広がりが必要であること を主張する。そして最後に、社会の変化を理解するためには、合理・経験主義的な知 のモデルではなく、システム分析の視点と実存主義的な知の様式が有効であることを 論じて終わっている。

このように、Schön の議論は、社会総体における認識論的な過程に着目した社会シ ステム論となっている。また、「学習」という視点から社会構成の機能的な在り方を 問う社会理論となっているとも言えよう。実のところ、Ranson

(1 9 9 8)

は Schön を 学 習社会の最も偉大な理論家

(p.2)

と形容してその著述を取り上げるものの、上で見 た Schön

(1 9 7 1)

の記述のなかに「学習社会」の語は見当たらない。また、日本での 生涯学習関連の書物の場合、学習社会の解説のところで「定番」となっているのは Hutchins やフォール報告書などであり、Schön に言及されることはない。Ranson 自 身、学習社会について論じた以前の著書

(Ranson,1 9 9 4)

においては Schön を取り上 げていない。Schön

(1 9 7 1)

の議論は、学習社会が論じられ始められた時期のもので あるにもかかわらず、その文脈ではあまり注目されてこなかったようだ。翻って、そ のことは、先に述べた意味での機能論的・認識論的な学習社会論の不足を示唆してい る。日本でも専門知の生成や省察的学習に関する探求の文脈で注目される Schön の 議論であるが

(ex. 佐藤1 9 9 3;秋田1 9 9 6;永井,2 0 0 0,2 0 0 2)

、そこには学習社会論――特 に、社会の機能的な在り方や社会システムの認識論的次元に着目した議論――にとっ ても学ぶべき多くの示唆が含まれている。

−8 7−

(12)

おわりに

「生涯学習社会」という政策概念が定着してゆくなかで、「学習社会」は学習機会 と人員配置に関する社会的条件整備の次元で捉えられがちな傾向となり、その考え方 に含まれる多様な側面が見失われてしまった。学習社会の在り方を考え、実現してゆ くうえで、社会的諸制度や社会総体の機能的な在り方について問うことが必要であ り、それには Schön の社会システム論が有効な手がかりとなりそうだ。そこに期待 できるのは、「学習の社会」というより「学習する社会」としての「学習社会」を探 る議論である。その学習社会論は、単に制度や組織が整えられただけの社会ではな く、制度や組織

(そして社会)

の構成方法を人々が学習によって変化させてゆく社会 を展望するという意味で、構成論的で学習論的な学習社会論である。

引用・参照文献

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参照

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