100年前の共立女子職業学校の生徒について : 佐藤 莚と残された刺繍作品から
著者名(日) 徳田 誠志
雑誌名 共立女子大学家政学部紀要
巻 60
ページ 31‑40
発行年 2014‑01
URL http://id.nii.ac.jp/1087/00002938/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
J~ 占':!J:
[ ‑ J : : ' 戸家政学部紀立 2
・! t l 6 0 ~J' ( 20 1 4 )
100 年前の共立女子職業学校の生徒について
さ と う ふ じ
一 佐藤慈と残された刺繍作品から ー
Abo u t
出e S t u d e n t o f K y o r i t s u Women's O c c u p a t i o n a l I n s t i t u t e a t 1 0 0 y e a r s ago
‑Fu j i SATO a n d h e r Emb r o i d e r y ‑ 徳
日1 誠 志
Masashi TOKUDA
はじめに
jUL 女子大学は
明治1 9( 1 8 8 6 )
11~ に共立女子職業学校として設立され、まもなく 1 3 0
年を迎えようとしている。 この I I U r 女性の 自立」と いう 1 1 1[念を制げ、布 l i l H ‑ ツ桁の地でわが国の女 子教育を担ってきた。
この場所は必末に 「恭子 i 訓所」 という、江戸幕府の教育
・研究機関が設位されて以降、本組織が今 F I の以京大学に進脱
していくように、学IH J
・教育.の' 1 ' 心地であ
った。さらにその後も
この近くには、 J Y J
治・専修大学等の j J j i 身となる教育機│
則が設立された。その紡娘 、
日本でも有数の大学街となり、大学ととも に発展したことによ
って、世界にも例を見ない
「
や 1 1 m 占 J F 街 J が形成されて、
今日に至っている。 まさに J Y J m 以降における大学術の
一角を、本学も占めてきたといえる
。さて
小杭では、1 0 0 年ほど J j i j にこの共立女子 l 絞業学校にわずかな足跡を成した一生徒の事跡 と、その手による刺繍作品を凡ていくこととし たい。そして大正時代における、本校の教育ーを 垣間見ていこう
。さらには、明治に生まれた人 物を取り巻く状況を見ながら、日本が近世から 近代へと移り変わっていく級子をたどっていく
ものである
。1 . 佐 J I 義経とその 1 1¥身地
-岐阜県益老~l日義老 11汀架笠一
佐 藤 悲 ( さ と う ふ じ
)は 、
明治3 7 ( 1 9 0 4 )
" 1 ‑ '
1月 2E I に誕生した。 この年は日銭戦すトが
:f'))発した年として Il~$;止されているが、明治維新後の
│二1 : 本においては、この 3 0 数年の 1 m に大 1 1
ノド帝凶悲法が発:1 J i され、あるいは不平等条約が
解消され、 一等I~Iへの|併段を一気に駆け上ろうとする時期であるともいえる
。そしてまたわが 1"1にとっては、常に Jj世 qlの)it3 がつきまとう~llr 雌の 2 0 世紀前半という時代の幕開けであるとも いえよう
。もちろん生まれたばかりの避にと
っては、そのようなことを知るまでもなか
った。さて、廷の父親は稀:i1(きぞう
)、母は綱
(つ勺 : ょ ・ t 1 佐厳重 E
兄血l i
下l i i l
イ'jyおが進(i,Y J
治4 0 , I F l 1 i 保影)
Jじ立 !J:・-f大学家政学部負~~・ ~~
6 0
サ( 2 0 1 4 )
な)といい、蓮は 7 人比弟の末っ子であった。
すなわち廷は稀逃が 5 0 践を過ぎてから授かっ た子であり、両殺、兄姉からさぞかわいがられ たであろう様子が、 I Y J
治4 0 " 1 : 頃に搬された写 点から窺う
ことができる(写点 1)。しかし蓮 にとっての故初の悲 しい / 1 ¥ )長引は、柿 i 造がlV J 治 3 9 年 1 1
月に他界したことである。荏にとっては物心が付く前であったと思われ、父親の愛情 を知ることなく成長した。 とはいえ年の離れた 長兄
・次兄
・姉とともに、まだ裕福であった実 家にあって、それほど不 n l J I することなく幼少 j 引を過ご
したと思われる
。続いて、避の出身地について記述を進めてい
こう。生家は、現在の岐阜県主主老郡益老11fT 巣笠 にあった。 養老といえば孝訂 ι l 、子の伝説を残し、
奈良I I , J 代の元号にもな
った 「益老の滝」が全│正│
的に名向いが、栗笠の地は紺斐川と牧悶川
・杭 瀬川の合流地点に近い、 I i:野郎にある
。後述するように
この架笠は、「梨笠協(くりがさみなと )
Jとよばれた河川交通の張所であり、佐藤家の室 長 業も
この河川交通を江戸時代以来管理、盟主将するものであった。今ではその而影を示すものは まったくないが、江戸時代には「波州三淡」の ーっとして大いに賑わった場所である
。この
j n f
J1 1 交通とその興亡については後述する
こととして、佐藤家の氏神であった「稲地神社」
と、その祭礼について述べていきたい。絹地神 社の祭事 ' l は大国主命
とするが、ご布 ' l 体は 1 9 1 7 台の
1 . Ui 2
相,¥1白神社例大祭(、 v
成2 4 " r : 1 0 J I
7 n 抗1~)神仏分自 1 1.政策によ
って、阿弥陀如来から御や' l 鏡 に変更している。i i 1
J;w:年代は、その記録を;j(
!, ' : :
.火災によって失っているため明らかではない
が、江戸時代の~;f1~~"'1:1 1 日 ( 1 7 1 6 ‑ 1 7 3 4 ) には説 化の地に鎮座していた
ことが知られている。この神社の祭礼はかつては 1 0 月 51 1 に定め られていたが、現在では 1 0 月の第 1 迎の
七・I I M l L I に執り行われている。祭礼にあた
っては太鼓やぐらが組まれ、大提灯
・切子灯能が境内 を 1 買い尽くさんばかりに仰げられる。 さらに布 ' l .
r l : の入口には紅燈簡や大のぼりが m ち、採笠集 古与のすべてが祭り
一色に彩られる(写点;2)
。この祭礼11寺にぷ納される獅子舞は、 II(~ 平1145
( 1 9 7 0 )
(,1::に岐阜県の JI~1!l~形文化財に指定されている。 そして
この獅チ舞の起源については、佐藤家の先祖であり徳川家雌の家臣であ
った「佐藤文三郎親定 J という人物が奉納させたも のである
と伝わる
。しかし「親定」なる人物は、
家系
│量
│によると幕末凶の分家筋に認められるも のの、徳川家 ! J i との│刈係は見いだせない。それ ゆえ
この獅子舞については、江戸年1 1 日の文化
・文政頃に始まり、巣笠協の繁栄と共に雌んにな
ったと考えられている。"この布地神社にポ納される御子舞は、 4 8 の 舛から構成される
。現不正ではそのすべてを舞うことはないようであるが、
伊勢神楽の流れを汲むものであり、。係業的なものが多い。 さらには それぞれの舞には、伊勢
・尾張諸J 也
j或の民主が 取り込まれており、このことからも巣笠の
j也に は河川交通を通じて峨々な情報が入ってきたこ
" i J , J '
3 絹地事Iltl:J~納獅{-舞(岐阜Y,tif(必然If~文化財・)100
年前の共立女子職業学校の生徒についてとをま11 ることができる(写J'~
3 ) 。
この祭礼や獅子舞 を、進が見 U rJしたという直 接の証拠は残っていない。 しかし佐藤家の氏神 線において、先制が五穀盟様、村内安全を祈願 して率納した祭りである以上、 E I を 厳 [ I かして見 ていた姿を1!.!像することは司.能であろう
。そしてまた、この祭りは架笠淡の繁栄を今に伝える、
I
l H I ‑ の証拠でもある
。2 . 共立火子 l 倣楽学校への進学と刺繍作品 このように佐藤廷は、幼少 l 時に父親と生死を 分かつものの、江戸 H 寺代以来のにぎやかさがま だ伐 っていた架笠の地で成長していった。生家 も去がであり、兄 l a l i に聞まれた生活は、 l 岐阜の I H 合 1 1 1 ) " であったとはいえ、交通の要 i f r であった ことから様々な的報ももたらされたであろう し、それなりに充尖したものであったと忠われ る 。
そして、荏の践したアルバムには
「束京共立 を受験にいく H 在大垣にて写す 1 3 歳」 と記載 された写l' i が 、
一葉添付されている(写真4 )
。荏は明治 3 7 年 ( 1 9 0 4 ) の生まれであるので、
数えの年齢が記されているとしたら、尋常小学 校の部粧を終えた大正 5 ( 1 9 1 6 )
年ということ になろう 。袴を身につけ、唇をぎゅっと結んで いる表情はこれから上京し、受験に臨むという
2H 工 4 f / i . J I 事 O i
13成(大i E5 { s
頃!ltt
彩)緊張感が伝わ
ってくる。また、右手に洋傘を持
っている安は、写兵川の小jl i H .であるかもしれ ないが、大 i E J O J のモダンなlj};を今 H に伝えてく れる。
この受験がどのようなものであったかは不明
であるが、 ;I!!~
~JT
.合絡したようであり、めでたく共立女子峨業学校に入学することとなった。こ の大正時代,j i j 2.1土
の学校生活の綿子を、r~l;
立女子学│盟百年史jから見ていこう 九
この H 。 針 l のわが国の状況は、 大正 3 ( 1 9 1 4 )
jl~に都 1 次世界大臓がヨーロッパ大陸を主 !j役
場として│制服し、 E I 本軍もドイツ常国が材' f
i拍を 保持していた
'i'lB 大陸
,‑"水省官山へ派兵してい
る。 国
I)~ においては大戦の直接的な路特はなか
ったものの、共立女子 l 険業学校では i 隊員生徒が 協力して掛 I l iJ袋を陸行 I f . . i l ( に献納したことが記録 に残されている。翌年に は、If ( j 巡皇太后の J J i l 御 により延滞 j されていた λIE 天阜以 J I 位の礼が執行 され、名尖共に大正I I
,y 代がスタートした。共立 においては大正 5 ( 1 9 1 6 ) 年に、手山村ーが校 長を退任し、 i 白川保全があとを継いだ。そして 鳩山恭子が校長補となり、の
ち大正1 1 ( 1 9 2 2 ) 年に校長となっている。 この よ う に 明 治 1 9
( 1 8 8 6 ) 年に創設されて以来 3 0 年を過ぎ、創設
に|刻わった第 1 次1It1~が引 ill し、第 2 世代となる崎山らが先頭に立っ て学校を牢引する H 寺代 が到米したといえよう 。さらには学校J[]地の拡 張や、寄宿舎の設 i 丘など学校としての体制が確 聞たるものとなった H 引 U J でもある。
このl 時 W J の共立女子 l 間業学校に学んだ生徒の 手記が f 百年史jに制 1 ) 配されているので、その
一部を引!日しておく に手記を践した人物は、
鈴木きゐ ( I E I 姓松下き江)であり、 ' Y J 治 3 1 ( 1 8 9 8 )
年の生まれである
。よって遊より 5 歳ほど年
上となるが、過ごした学校生前はほぼ同じよう
なものであったと考えられる。その手記によれ
ば主に学んだ科目は裁縫と刺繍であるが、その
合 1 1 日には算術・国間 ‑ J i ; き方など、通常の女学
校で教綬されていたものと同級の科目も
履修し
たようである 。そして生徒の級子 としては、 「
髪J七iL!A f大学家政学部紀~ 貿信
ω4 1
・( 2 0 1 4 )
勺,:}'L
5
佐藤進共立女チ聡~学校 2 年生(
大JF.71 1 '
頃抗i 彰)
は束髪に結い、縞、緋の着物に紫紺の持、 f 駄 胤きで通学し、(中略)お友述も迫く山 口県、
福岡県、三重県などから来られており、砕機本
当に一生懸命勉強されました。」と記している。この頃の遊の様子 を伝える 写真が、 1 枚残さ れている
(写真5 )
。この写兵の械には 「共立
二年生」と古かれたメモが m り付けられており、
下宿先となってい た姉 (柏測簾子)の子供 ( 遊 の捌) と
一緒に写っている。この姿は、まさに手記に記されている とおりの着物、 待望 5 であり、
1 年前 の上京時の写真よりは、少しだけ大人び
ち
: J
'L6
佐 必 楚 刺 繍 (i竹と1liJ)
J、
・ ~::t
‑
1・
, T a
法 こ
勺 : '
J'L7 1!i.藤進i l i l J
紛表面( i 共立 I T I 総本科依 t 義雄J )
た
表情に見える。また手記のとおり、 全国各地か
ら生徒が集まっており、定のような立場の生徒が結構在学していた
ことも窺える。進は*宿舎には人らず、鮒i の嫁ぎ先に下宿してい たよう である
。この下宿先がどこにあったかは不明で あるが、手記にあるように下駄履きで通学 して いたのであろうか。
さて、 この l 時期に荏の残した刺繍イ 1 : 日
1がある ので、それを見て いく
こととしたい (写真6 )
。刺舗は縦 4 1 . 5cm 、横 32.5cm の
j草紙に、竹と後 が表現されている
。この刺繍については、その 鑑定結決を後述するが、まず裏面に記された文 字に注目したい。写真に示 したように
(写真;7)、
刺細川紙の誕而左陥に 「共立 l:p音~本科佐j臨韮」と
記されている。
実は、この記述のみが佐藤進が、共立に在学
したことを示す 1 1 1 E
‑の証しである。それは先述した写立 ι こ付された
「共立に受験にいく際 J r 共
立二年生j云々という記述は、こ の写其が写さ
れた H 幸に記されたものではなく、珪の手元 にあ
った写兵を後日アルバムに整理 した際に、 同H 寺
に 1 ! ? き入れたようである。それは、すべて同 じ
市 , i 己 J ' I . . . が用いられており、 字体も同じである こ
とを級拠とする
。すなわちこのメモは廷の記憶に,JJ;づいているものであり、これを寝付け る資
1 OO { F l i i /
のj
色、i : ! f .
子稼業学校の1 ' : :
徒について科には欠けていると
言わざるを符ない。その
-
JJ 、 ~ilJ繍m 紙の哀に Ji かれた'何本は写真の般に添付されたメモの字体とは見な
っており、風化 H 介から判断しでも後世に記したもの
ではなく、まさに
この刺繍作品を制作したH
年点 で遊が記紋したものと判断した。もう 1 点付
け加えるならば l'll
,~11本科J という表記は、この1 1 寺代にギ 1 : 学
していた生徒しかなしえないと考 えている 。すなわち、 『 百年!
とjによれば、大 正時代に入
ってそれまでの 「巾科J I 乙利 J と いう表記から、 I l f ' 部 J I 乙部」に名称生誕した
とある 。そ
して 「本科 J とあるのは、この頃の 学則改正によって設けられた「専攻科 J や、大 正 7( 1 9 1 8 )
年に設位されたI ' , ' P P I . i l i 成科 J I 洗
補色染苧I . J 咋との述いを 示すために、それまで の「受験科」と称していたものを「水利 J と H 予
称したものと思われる
。
このような引~を助楽 し、 「共立 ' 1 ' 1 1 1 1 本科佐藤進 J という文す:は、娃
が在学 11与に自らの手で、自分の制作した ~ilJ繍の喪に 筆記したものである
と判断した。
なぜこの l . a:に拘泥するかといえば、維は後述 するとおり" . 進退学したようであり、邸主の共 立女子学幽の卒業者名簿
には掲載されていな い。仮に入学有名簿というものがあれば伝学を 確認できるのかもしれないが、入学者を記録し
た文ß~ は残されていないようであり、維が在学 したことを公に証明する資料は存在していない
勺,:..l'~
8 刺舗網 l
部 そ の1 (r竹見~J)
"山~9 刺繍調
1 1
部 そ の2 ( r
彼J )
W:
1)。それゆえこの刺繍作品と、その真に記述された文字の信組性が I I W
一、経と共立を結びつける接点という
ことになる。J J L 時点では、廷
が ~~ι にギ1:学
していたことを示す物 j,E として
は、この ~i'J 繍作品とその誕に記された 9 文字であるが、今後とも
!と資粍の探オ;は続けていきたいと与
・えている。
続いて、伐された ~ilJ鋪作品についてみていき
たい(,tI
:2 ) 。組 H ほ : 3 本の竹と 1
羽の雀であり、モチーフとしては伝統的なものであるとい える 。竹は 3本 J I l l かれており 、
「網 1 1 く短い竹(葉 あり) J ' i 太く長い竹(諜あり・政人りあり ) J ・
「太く
長い竹
(柴なし
)Jという榔成からなる。
幹と校については、緑もしくは此緑色の燃糸を
!日い、平舗によ
って抗く。諜と斑については、
緑もしくは部此色の燃糸に
よって、斜舗とす
る(写只 8 ) 。
殺については、灰・茶
・こ
げ1t~・
11 ・ 自の各色を J I J いる 。刺舗の技法は、
顕. # 1 .
)J~体から興にかけての部分を、刺
し繍で仕上げ、胴体か ら拠の縁取りはこげ茶色の平糸による純い繍で ある 。羽の全体は、部こげ茶色のと I L 糸による斜
舗とする(~
点 9) 。
くちばし・ II .Hの縁などの網 l l f i l l については、 くちばしが訓輔、日が平 輔 、 1 0 1 の縁が駒舗という技法を川いてイ1 : 上げて
いる。以上のように竹、雀の而表現には平 繍 ‑l
. l 鮒
,'・I p j 繍
・刺しi 舗を川い、線のポ J J L には駒繍・
綿繍~1; を)11
いている。
J t
、,'i.!J:・ F大学家政学部員~~ ~~ 60~}( 2 0 1 4 )
この刺繍作品が作られた純糾.については、よ く分からない。先の r ( j
'年史jに r u 殺された手
記によると「二年生のl 時の制作は額三枚に鶴 f 色 の紋紗だけでしたj とあることから、
「留l 三枚j のうちの一枚にあたるものかもしれない。二年 生とすれば 1 4 歳程度であり、今の ' 1 ' 学二年生
ということになるが、作tillの /IHI'~1決えについて の判断は読者諸氏にお任せしたい。
3 , f 注総家の J 歴史と: 棋士主協の栄杭盛点
先述したように佐藤雄の生家は岐阜以長名 ; I Q [ にあり、
「政州
三波J の一つであって、その ' 1 1
で1,i も版わった í~ 笠泌」
に位附した。ノド節では佐藤家の家系図をたどりながら、地方におけ る
一家肱の近世から近代への変遷を凡ていきたu 、 。
{反騰家には一巻の家系 l 京│が残されており、そ の¥ l 1 i J ' i i 佐藤家系小引」 と題された時文が起き れている(写真 1 0 ) 。その文末には、記述した
人物名として「君
山紙、I~秀主」とある。 この人物は l 己似離の藩士であり、制学者として後述す る 『 浪州向行記jの編纂にも│則わ
っている。生年は冗被 1 0 ( 1 6 9 7 ) 1 1 : であり、天 I Y I 3 ( 1 7 8 3 ) 年に没している 。序文を J F いた時 J U I は i i ' l 分は すでに 4 ・1,1'に述している」とあることから晩年 のことであり、 1 7 8 0 年前後と想定される 。こ のH 寺の佐藤家当主は
「光敬」であることが序文 に記されており、この人物は、天明 5 ( 1 7 8 5 ) 年に r : ι i I t 之郷大墳ノ郷比佐藤氏ノ単記j とい
う短文を伐している 。このことからも今1‑1に伝
J 6
同 市
Z 手守
び点 1 0 佐
t語 家系 1 ; < 1 1 f .
文「 伏 、 l 主 . l t l I I J 1 M
わる佐藤家系│誕│ の以本は、 1 8 世紀の末に作ら れたと与えられる。現イ E 1 'f1'f'の手元にあるもの は、この j 原本を J ! : 写したものであろうと与えら
れ、以後の記述は鑑(系凶には 「薙
[~J
とぷ Il~) が 、 1 I ( l 布18 ( 1 9 3 3 )年に早野宗太郎へ入持した ことを記している。恐らくは、進が錫 i ぐ際に新 しく』!?写し、以後に一文を j L 1 1 氾して J 守参したも のであろう 。
さて、 この系│ 耳│によれば、佐藤家は奥州燦以 氏を先祖 l とし、さ
らには藤原鎌足につながる系
l 挺│が記されている。 もっともこれは谷地の 「 佐
j 臨氏」が藤原氏を f l l とする
一例に過ぎず、そのい脳性は不I Y ] と, I わざるを伴ない。 よって n 体
的な記述を残す i 比初の人物は、鎌足から数えて 3 2 代ト│ と なる依 J 雌将 ¥ r . i親義と名来る人物であ
る。 この人物が民性村に lli 初に l~fÜ:
し、ぷ11:
1 4 ( 1 5 8 6 )年に亡くなったと記されている(.U
:3 )
。そして次代組成のH 寺、イ ' I ( . J 藤家の j 従史を J l t
る 1 ‑ ,で最も重悦された ' J i‑1fが、次のように記さ
れている。
それは;l; (1色元I,I~( 1 5 7 0 )年に織川日 民が似合義 j i t と i l 従
った際、浅井長政の哀切りにより i 持地に陥ったいわゆる f 金ヶ
崎の戦いJ に おいて、信長の文按に 1 1 ¥ j : l l f していた徳川家 b J i も 漸く脱したとされる 。 この時桁木谷を経て、美 濃へ退去 I I して きた氷山を佐藤家に迎え、さらに 船を / l I してその脱 / 1 ¥ を 援護したとある 。イ l ' i J 悠家 はこの逸話を作れとし、戦国時代末期 l から梨笠 に定住し、名工 ( : ' : i r
))を ~1: された土豪として艇を似ることとな
った。そして この佐 j 民家の繁栄をもたらした家業 が、克 i 笠淡の 1 ! 1 1 M2であった。先述したようにこ の巣電波は、市 f i l l f i 協 .
X~江淡とともに波州一:協と H 千 ばれている 。 これらの泌は指斐川とその文 流牧 1 1 1 川の合流地点近くに佼 i l l する
。この泌とは、河川交通の張所であるのだが、改めてこの 梨笠の場所を地│京"
ニで見てみよう
(凶 1 )
。こ の三淡を起点に比ると僻斐川を下る こと によ
って伊勢湾につながり、京海道と結びつく 。‑) J、
琵也湖畔の妙 I & ? : 発(,mイ E の,* ) J ; l 市)へは、その
距離から名称がつけられた i ) L . i l l 半 街 道 J によ
100
年前の共立女子職業学校の生徒について図1
r
栗笠湊J
位置図って結ぼれている九この朝妻湊は、琵琶湖の 舟速によって京・大坂への物流拠点となってい る(註 4 ) 。さらには北国街道(近江)の起点 として北陸方面への分岐点でもあり、このルー トによって日本海側と太平洋側を最短距離で結 ぶこととなる。この河川・湖上の水運を利用し た物流が盛んになる時期は近世初頭であって、
まさに佐藤家がこの栗笠を本拠とした時期と一 致している o この物流ルートによって、東日本 から京・大坂へは木曽材・茶・陶磁器がもたら され、一方、西からは油・炭・生綿が下り荷物 として江戸へ運ばれた九
このように近世初頭にあって、物流は内陸の 水運を利用することがもっとも安全かつ安価で あったことから、東日本と西日本、あるいは日 本海側と太平洋側、さらには東海道と東山道を 結ぶ交通及び物流の要所として、この三湊は大 いに栄えることとなった。その中でも栗笠湊が 最も繁栄し、この湊の問屋として差配していた 一族が佐藤家である。この佐藤家も本家の次郎 左衛門が湊問屋を務め、他にも代々与三郎や文 四郎を名乗る分家が存在したようであるが、一 族によって政治・経済・交通を取り仕切ってい たことが知られている o その一端を示す史料と
しては、尾張藩士であった樋口好古が 1 8 0 0 年 頃に記述した『濃州御行記』であるヘこの書 物はこの時期の尾張藩の地誌といってもよい が、その中にも湊の繁栄状況として「村にぎは しく豊穣の地なり」と記されている。そして栗 笠にある専了寺には、文化 1 2 ( 1 8 1 5 ) 年に描 かれた栗笠村の絵図が残されている。この絵図 には村の中央に幅 4 閑(約 7m) の道路があり、
その北側に佐藤家一族の屋敷が軒を連ねている 状況が描かれている。
栗笠湊は江戸期を通じて物流拠点として繁栄 し、さらには享保年間 ( 1 8 世紀前半)からは「六 斎市」として月に 6回の市が開催され、商業 も盛んになっていったことが知られている o ま た、前節で見たように福地神社に奉納された獅 子舞のような文化や情報も、様々な物資ととも に集まってきたものと思われる。
このように江戸時代、 2 0 0 年以上にわたって 尾張藩の庇護のもと繁栄した栗笠湊であるが、
幕末になって急速に衰退していく。その理由と
しては、物流が内陸輸送ではなく、大型船によ
って直接上方から江戸へ運ぶ航路が確立したこ
と、さらには牧田川の川底に土砂が堆積したこ
とによって船の運航に支障をきたし、その波深
J t
立火{,) . : ' ' f ‑
家政,(:l';s
紀止*m 60
・り( 2 0 1 4 )
~~川がかさんだことが指摘されている
。
さらに は西濃地J或の'1'心地である
大垣城下の「船町ï~J に、物流の拠点が移ったことがあげられる。ま た、明治維新とともに足以滞は削減し、その庇 設もなくなったことが以後のー態として、この 梨笠泌の衰退を決定づけたといえよう。この淡の衰退は、イ左
j
銭家にも大きな打取であ ったことは 1 1 1 1
追いなく、家業の哀.ilJはまさに家 の存亡に関わるものであった。 I Y 1 m 維新を迎え
た際の当主は、砦の祖父にあたる光ハであるが、彼 は 明 治
1 3( 1 8 8 0 ) { I : ‑
に 死 去 している。
その 後を、悲の父柿造が引き継ぐことになり、彼はI Y J
治の初めに波米し、氷点への進/ B
も│型!ったよ うであるが、淡I
IIl屋に変わる家業を!}llすことが で き ず 、 明 治39 ( 1 9 0 6 )
年に 死 去 す る。彼 の子 供 述、すな わち荏の兄島 i l は僧籍に入ったもの、
m
隊を志したもの、早│止したものなどさまざま であり、佐藤家を継ぎI J J
Jl'llを図る人物はついに 山なかった。今日栗笠の地には、佐藤家の J f I l
筋 を引く人物はまったく!首位していない。さらに は 「佐 藤J
を名のる家はすでになく、本家・ 分 家ともにすべて雌散してしまっている
。現 在、養 老 の 地 にl唯一残る佐藤家の痕跡は、
梨笠にほど近い場所に位位する
UH
弘子の墓地にある代々の墓石のみである(写真; 1 1 )
。この荘 稲ミ' J
は家肢を助けた親成の孫にあたる組重がl 抑
写真 1 1
佐藤家J,~J也(必老目f4 1 : 側、
子)肝 2 ( 1 6 5 6 ) { I ‑ :
に非られたことから、。' E J
臨家の 丹提寺となった。
この41:稲毛':1'1体がm.(E)!!~H: の ため、f l
f.J燦家の過去艇の布)!正などを確かめるこ とはできない。脱イ1 : 伐されている必碑銘を見る
la~ り、柿j立の父 j法にあたる J盗イ iが、やや庇れた 必地の‑f
(J
に確; a . できたのみである
。おわりに
小船では大正の初jめ頃、 J~ 、,'d(+~官業学校に
イ正学し、刺繍作品を伐した佐 j 牒娃について、 そ の生家と家来・であった栗笠淡の雌点をよ L てき
た。以後にまとめとして、症のその後を記して おきたい。廷 は J 七 立ム ー て
(‑1際業学校の 2{ド'1.:までは学校 に痕跡を残しているが、その後卒業者名簿には r, lìíj がJ~l服されていないことから、 この学年
を もって' 1 '
.ilJしたと伝えられている。r l '
.ilJの.JlI I
山 は詳らかではないが、F1首先となっていた!bi l
(脱 子)の夫(布l
湖 東(とう)あるいは刀と表記)が、スペイン 1 f ! L ! 邪によって死去したために下耐先を 失ったことがその.Jl I I J I J であるという
。たしかに大 正 7 ( 1 9 1 8 )
年か ら8 {f‑にかけて、.iui称ス ペイン)!li
L邪と呼ばれるインフルエンザが世界的
に大流行し、わが│正 │
においても3 9
万人とも48 万人ともいわれる必.y.'を出している。 H
制i
目的な経 緯 と し て は 悲 が 2 年生から 3 年生にかけて の
H制U J であり、 J を J 必の死が'
1'.ilJのきっかけにな
った可能性はあろう。いずれにせよ卒業お名簿
に名前が絞っていないことから'1'退したことは 間述いなく、避の w : ぃ学生生活は思わぬ終 1 3 を
迎えることとなった。この直後の廷の行動はよく分からないが、地 元に戻り働きながらりと非らしていたようであ
る。 そしてそのほを話取ったあと、系凶にある
ようにlI ( j
利8 ( 1 9 3 3 ) 年に、 I I !
野宗太郎の後主 として隙ぎ、抗は1 ,
!!JI' f となった。 そ の 後 1
男1 女 を も う け 、 先 J S の 子 を 併 せ て 29 J 2 ! t : の
長 n にあたっていた。 ところが京太郎は、Il R 和
1 6 ( 1 9 4 1 )
年に死去する。1 1
'1'戦争‑に突入して
いた I~~J U J であり
、さ ら に は 部 2 次世1:界大戦後
100
年前の共立女子職業学校の生徒についての混乱期をどうにかやり過ごしながら、育児と
その教育に明け暮れたことであろう。
波乱に満ちた半生を過ごしてきた蓮である が、昭和 3 0 年代以降は世の中の高度経済成長 期とともに安定した生活を過ごすこととなっ た。最晩年にはひ孫にも恵まれ、元号が平成と なった年に天寿を全うした。 8 5 歳であった。
晩年になっても、学生時代に身につけた刺繍や 水引を半ば趣味として、手を動かし続けていた。
そして、鳩山春子先生、あるいは葉子先生のこ とを口にしていたという。わずか 2 年足らず の学校生活であったが、その日々は青春時代の 思い出として貴重な時間であり、人間形成に大
きな影響を与えたことは間違いない。
改めて蓮の人生を振り返ると、 2歳で実父と 生死を分かち、義兄の死によって学生生活が中 断し、母を看取ったために晩婚となった後妻の 身も 1 0 年足らずで寡婦となるという、今から 見れば過酷な生涯のようにも思える。もちろん 当時の平均寿命を考えれば父も夫もことさら短 命というわけではないが、現在の長寿大国日本 においては考えられないような時代ともいえ る 。
進の人生は、ほぼ 2 0 世紀と重なっており、
明治から平成までを生き抜いた共立女子職業学 校に学んだ一生徒の生涯を通して、近代日本の 変遷を見通してきた。
追記
最後に、佐藤蓮と筆者の関係を明らかにして おきたい。この佐藤慈は、筆者から見ると母方 の祖母にあたる人物である o まもなく 2 7 回忌 を迎えようという時に、ましてや 1 0 0 年も前に 作った刺繍作品を再ぴ母校の先生の前に披涯す ることなど夢にも思っていないであろうロ赤面 することは間違いないのであるが、孫のしでか
したこととして、了承願うこととしよう。
筆者は平成 9年以来、本学家政学部の非常 勤講師を務めてきたが、祖母が共立女子学園に 一時在籍していたという話は聞いていた。その
ため卒業生名簿を閲覧したものの、祖母の名前 は見つけることができず、半信半疑のままであ った。ところが昨年、廷の実子にあたる筆者の 母が自らの「断捨離 J を兼ねて悲の遺品を整理 しており、その結果、刺繍作品と系図の存在を 知るところとなった。蓮の子供、すなわち母を 含めた 2 男 2 女は健在であるが、徐々に記憶 が薄れてきていることはやむを得ない。この残 された刺繍資料をもとに本学の教育を振り返る ことと、そして今は存在しない「佐藤家 J のフ
ァミリーヒストリーを今のうちにまとめたいと 思い、この一文を草することとした。創立 1 3 0 年を迎える共立学園関係者の皆様に、拙稿をご 高覧頂くことに感謝し、調筆したい。
【 註 】
註 1 佐藤進についての在学に関する書類 の有無については、共立女子大学図書館 及び、共立女子短期大学社会心理学研究 室助手赤羽光氏にご高配賜った o 記して 感謝申しあげる次第である。
註 2 佐藤廷の刺繍作品については共立女 子大学大学院家政学研究科修了生である 野尻久美子氏(現在、株式会社松鶴堂勤 務)より、ご教示賜った。記して感謝申
しあげる次第である。
註 3 佐藤家がこの「佐藤将監親義j を初 代として意識していたことの証左とし て、「光敬」が書き残した『志津之郷大 墳ノ郷及佐藤氏ノ暮記j に、「親義 J の
二百年遠忌に善教寺に供養塔を建立した ことが記されている。この石碑は、現在 も海津市南濃町志津にある普教寺境内に 現存している(写真 A) 。石碑の正面に は「鐙林院殿雲庵宗閑大居士」という親 義の戒名が刻まれており、右側面には「天 正十四年丙戊秋八月晦日 J という親義の 没年が記しである。天正 1 4( 1 5 8 6 ) 年は、
光敬が f 暑記j を記した天明 5 ( 1 7 8 5 )
年からちょうど 2 0 0 年前であり、この石
共立f,((‑J;.'戸家政学部最~~ ~お 60 り
( 2 014 )
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迎いないと 判断 で き る。そ し て 「親 義 」 の三百五十年.ihl忌にあ たる
U ( 1 手 11 1 0 ( 1 935 )
年には、 イ' 1 i .
必 家一 族が:ri僻の1 j i I
で 搬 影した'Es点が些のアJ レ
パ ム に 妓 さ れ て い る ( 写 真B)。この 写 真には娃の JBc' 次兄とともに、 ~y,f.教守 の 先代{主戦のO J i
を 認 め る こ と が で き る。 す な わ ち こ のI k y J
収までは、 佐j
峰秀《はどう に か 命J
IlRを保っているといえる。しかし な が らこの 後、第2
次世界 大 戦 と そ の勺・J'L
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25日微量~)後 の出 乱
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・を総て、さらには長川がI I H 手 1 1 2 0
~I~代に死亡するに至って佐藤家は完 全に点)!!し、この 石 碑につ い て も 忘 却 さ れたものと与・えられる。本イ 1
併 の 尖 見には、海i ‑
I!市教育委u
会目前 科 氏 、 な ら び に 普 教 寺 にご
I . . .
~né賜っ た。起して!占訓1 1 1
しあげる次第である。註 4
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の)lJ‑迎 については、F 記文 献
に詳しい。太川市下
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琵 琶 湖 の湖上 交 通‑‑,I i
代 か ら近│止までの)lJ‑述史‑J r
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