遼 代 高 僧 非 濁 の 行 状 に 関 す る 資 料 考
︵ 一
︶
︱ ︱
『
奉 福 寺 仏 頂 尊 勝 陀 羅 尼 幢 記 ﹄ に つ い て
︱ ︱ 李
銘 敬
一 遼代
︵九
〇七
︱一 一二 五︶ の仏 教は
︑遼 の歴 代皇 帝の 尊崇 や国 の保 護の もと で盛 んに なり
︑特 に興 宗︵ 在位 は 一〇 三一
︱一
〇五 五︶ と道 宗︵ 在位 は一
〇五 五︱ 一一
〇一
︶の 両時 代に は︑ その 全盛 期を 迎え てお り︑ 房山 石経 の続 刻事 業や 契旦 大蔵 経の 刊行 など は国 家事 業と して 推進 され
︑仏 塔と 仏寺 も多 く営 造さ れた
︒現 在も 猶︑ 北京
︑ 天津
︑河 北︑ 山西
︑遼 寧︑ 内モ ンゴ ルな ど北 方各 地に は遼 代の 仏教 遺跡 が少 なか らず 残っ てい る︒ また
︑こ の興 宗と 道宗 の両 時代 は︑ 華厳 と密 教の ほか
︑律 宗︑ 浄土 宗︑ 唯識 宗︑ 倶舎 宗な ど諸 宗派 の仏 教教 学の 研究 で知 られ る高 僧が 輩出 し︑ 非濁
︵?
︱一
〇六 三︶ もそ の一 人で 当時 の律 宗と 浄土 宗の 宣教
・著 述な どで 活躍 し︑ 両皇 帝か
一一 九
ら共 に優 遇さ れた 高僧 であ る︒ 非濁 撰﹃ 三宝 感応 要略 録﹄
︵以 下﹃ 要略 録﹄ と略 す︶ とい う仏 教説 話集 は︑ 成立 後間 もな く日 本に 伝来 した よ うで
︑﹃ 弘文 荘待 賈書 目﹄ 著録 本︵ 所在 不明
︶︑ 金剛 寺本
︵上 巻の み︶
︑前 田家 本︵ 高山 寺旧 蔵︶
︑東 寺観 智院 本
︵抄 録︶ など 数種 の古 写本 が伝 存し てお り︑
﹃百 座法 談聞 書抄
﹄﹃ 言泉 集﹄
﹃薬 師﹄
﹃説 経才 学抄
﹄﹃ 普通 唱導 集﹄ な どの 仏教 布教 用資 料に 使用 され たり
﹃今 昔物 語集
﹄﹃ 私聚 百因 縁集
﹄﹃ 地蔵 菩薩 霊験 記﹄
﹃三 国伝 記﹄
﹃大 般若 経得 験記
﹄な どの 仏教 説話 集に 採話 され たり
︑﹃ 佚名 諸菩 薩感 応抄
﹄﹃ 三宝 感応 録並 日本 法華 伝指 示抄
﹄﹃ 弥勒 如来 感 応抄
﹄﹃ 真言 伝﹄
﹃醍 醐寺 焔魔 王堂 絵銘
﹄な どの 抄録 物・ 伝・ 絵銘 にも 利用 され たり して 広く 受容 され てい たこ と が判 明し てい る()
︒そ して
︑同 じく 非濁 撰﹃ 新編 随願 往生 集﹄ とい う往 生伝 も伝 わっ て︑ 東大 寺の 華厳 宗の 傑出 な 学僧 宗性
︵一 二〇 二︱ 一二 七八
︶自 筆の
﹃弥 勒如 来感 応指 示抄
﹄第 三︵ 文応 元年 筆︶ に︑ 本書 各巻 の弥 勒感 応説 話の 有無 を示 した 記事 が見 られ る︒ 後に は本 往生 伝か ら抄 出編 纂さ れた もの が︑ 桑門 戒珠 集﹃ 往生 浄土 伝﹄ と仮 託さ れて 日本 の僧 門な どに 大い に利 用さ れて きた こと も指 摘さ れて いる()
︒こ れら によ って
︑非 濁の 作品 が日 本仏 教及 び仏 教説 話文 学な どに 大き な影 響を 与え てい るこ とは 自明 であ る︒ しか し︑ こう した 作品 面の 広範 な受 容ぶ りと は正 反対 に︑ 従来 日本 での 非濁 その 人と その 行状 など に対 して の 知識 は意 外に 乏し かっ たの も事 実で ある
︒﹃ 新編 随願 往生 集﹄ だけ でな く︑
﹃要 略録
﹄か らも 多く の説 話を 抄録 し た宗 性の 当該 の抄 録作 品に は︑ 抄録 のた めに 利用 した 中国 の書 籍に つい て多 くそ の著 者名 を明 記し てい るに もか かわ らず
︑非 濁の 名前 は一 つも 出て いな い︒ この こと につ いて
︑塚 本善 隆氏 は︑
﹁平 安末 から 鎌倉 時代 へか けて は︑ 日本 の遼
・金 に対 する 知識 は極 めて 貧弱 であ った
﹂か また は﹁ 遼僧 非濁 では
︑引 証の 上に 宗学 的権 威が 少な
一二
〇
いか ら︑ 故意 に著 者名 を出 さな かっ たも のか もし れぬ
︒﹂ と推 測さ れて いる(#)
︒ 現存 の﹃ 要略 録﹄ 数種 の古 写本 のう ち︑ 前田 家本 の巻 中と 巻下 の内 題下 には
﹁釈 子非 獨︵ 濁︶ 撰﹂
︑金 剛寺 本 と観 智院 本と 慶安 三年 刊本 には
﹁宋 非濁 撰﹂ とあ る︒ しか し︑ 右に 挙げ た﹃ 要略 録﹄ 引用 の各 種類 の資 料に も非 濁の 名前 は一 切出 てい ない
︒こ うし た様 子か ら見 ると
︑遼 に対 する 知識 が不 足し てい るこ とが 事実 とし て首 肯さ れよ う︒ 仮託 の桑 門戒 珠編
﹃往 生浄 土伝
﹄が その 後そ のま ま流 布し てき たこ とも
︑こ の延 長線 上に 考え られ るの では ない か︒ この よう な事 情は
︑室 町時 代に もあ った
︒当 時の 臨済 僧の 瑞渓 周鳳
︵一 三九 一︱ 一四 七三
︶が 彼の 日記
﹃臥 雲日 件録 抜尤
﹄の 寛正 五年
︵一 四六 四︶ 八月 二十 一日 の条 には
︑ 三宝 感応 略録
︑今 日写 之︒ 凡予 刻楮 集抄 群書 之中 要者 也︑ 此三 宝録
︒︵ 中略
︶所 謂釈 子非 濁︑ 不詳 名字
︑果 何人 也︒ 其人 置而 不論
︑惟 令人 知三 宝感 応︑ 其益 豈曰 小也 哉($)
︒ とあ る︒ それ によ ると
︑周 鳳自 らが
﹃要 略録
﹄を 読ん だり 抄録 した りし たこ とと
︑本 書を
︑人 々に 三宝 感応 のこ とを 知ら しめ る重 要な 書と して 認識
︑重 宝し てい るこ とが 分か る︒ にも かか わら ず︑
﹁釈 子非 濁と いう もの は︑ その 名字 が詳 らか なら ず︑ 果た して 如何 なる 人な りや
﹂と
︑五 山文 学僧 の代 表格 であ る周 鳳で さえ も︑ 非濁 のこ とに 暗い ので ある
︒ 日本 と遼 との 交渉 に関 する 記事 は︑
﹃遼 史﹄ 本紀 第二 十五
・道 宗第 五に
︑
︵大 安七 年︶ 九月 丙申
︑還 上京
︒己 亥︑ 日本 国遣 鄭元
︑鄭 心及 僧応 範等 二十 八人 来貢
︒︵ 前略
︶︵ 大安 八年
︶ 九月 乙巳
︑駐 蹕藕 絲淀
︒丁 未︑ 日本 国遣 使来 貢(%)
︒ とあ り︑ 大安 七年
︵一
〇九 一︶ と八 年と
︑二 度に わた って 日本 から 直接 に遼 へ使 者を 遣わ した こと があ った
︒し
一二 一
かし
︑﹃ 百錬 抄﹄ 嘉保 元年
︵一
〇九 四︶ の記 事で 分か るよ うに
︑そ れは
︑太 宰権 帥藤 原伊 房が 国禁 を犯 して 僧明 範を 遼に 送っ て貨 物の 交易 をさ せた 事で あっ た(4)
︒こ のよ うに
︑当 時は
︑遼 との 正式 な文 化交 流な どが 皆無 の時 代 だっ たと 言え よう
︒ま た︑ 遼の 図書 を宋 に流 通さ せる こと が厳 禁さ れた(:) ため
︑宋 にお いて それ は流 布で きな かっ たの であ る︒ 義天
﹃大 覚国 師文 集﹄ 巻第 十一
﹁答 大宋 元炤 律師 書﹂ には
︑ 此間 亦有 新行 随願 往生 集一 部二 十巻
︑︵ 中略
︶続 当附 上(=)
︒ とあ るこ とか ら︑ 非濁 撰﹃ 新編 随願 往生 集﹄ は当 時の 宋に もな かっ たこ とが 知ら れる
︒こ れら によ って
︑当 時の 日本 では
︑遼 の知 識が いか にも 乏し かっ たこ とが
︑ほ ぼ推 定さ れる
︒ 非濁 につ いて の真 正面 な研 究は
︑塚 本善 隆氏 がそ の皮 切り であ った
︒塚 本氏 の論 文で は︑ 非濁 作品 の日 本へ の 伝存 とそ の影 響な どに つい て新 発見 の資 料を 駆使 して 綿密 な考 証を 行な われ てい る︒ その 前後 には
︑説 話文 学研 究領 域に おい て﹃ 今昔 物語 集﹄ 天竺 部と 震旦 部と の出 典研 究に 重き を置 いた
﹃要 略録
﹄研 究︑ また 本書 につ いて の構 造や 標題
︑古 写本 など 一連 の研 究が 見え た(P) が︑ 非濁 その 人に 関し ての 研究 は︑ まだ 少な かっ た︒ 塚本 氏の 論 文が 初め て非 濁の 行状 記に あた る﹃ 奉福 寺仏 頂尊 勝陀 羅尼 幢記
﹄︵ 以下 は石 幢記 と略 す︶ の所 存文 献を 指摘 し︑ また 一通 りの 解読 をも 示し てい る︒ その 後に は︑ 新出 の関 係史 料・ 思孝 撰﹃ 大蔵 教諸 仏菩 薩名 号集 序﹄ と結 びつ けて 試論 した 拙考 もあ る() が︑ 両史 料に つい ては 未解 明の 点が 残り
︑さ らに 詳細 な解 読が なさ れる べき だ︑ と常 に
10
考え てき た︒ ここ では
︑ひ とま ず両 史料 中の 石幢 記に つい て︑
﹃日 下旧 聞﹄ 以外 の所 引文 も紹 介し なが ら︑ これ まで の不 明な 点を 検討 して みた い︒
一二 二
二 石幢
記に 関し ての 記事 は︑ 幾つ かの 資料 に見 える
︒清
・朱 彝尊
︵一 六二 九︱ 一七
〇九
︶撰
﹃日 下旧 聞﹄
︵康 熙 二十 七年
・一 六八 八︶ 巻第 二十 一﹁ 郊坰
﹂に は︑ 周篔
︵一 六二 三︱ 一六 八七
︶撰
﹃析 津日 記﹄ にお ける 当石 幢記 の記 事を 以下 のよ うに 引用 して いる
︒ 広恩
寺︑ 遼之 奉福 寺也
︒在 白雲 観西 南︑ 地名 栗園
︒按 遼史 南京 有栗 園︑ 蕭韓 家奴 嘗典 之︑ 疑即 此地 也︒ 土 人目 寺為 三教 寺︑ 中有 石幢
︑題 曰守 司空 豳国 公中 書令 奉為 故太 尉大 師特 建仏 頂尊 勝陀 羅尼 幢記
講僧 真延 撰並 書︒ 末云 清寧 九年 歳次 癸卯 七月 庚子 朔十 三日 壬子 記︒ 幢南 有碑
︑正 統初 太監 僧保 銭安 立︒ 析津 日記()11 これ
によ ると
︑石 幢記 の所 在と 題名
︑撰 者︑ 撰述 時間 など が分 かる
︒そ して 石幢 記本 文に 見る 遼の 奉福 寺遺 跡 の所 在と 別名 など も明 らか にな る︒ 即ち
︑遼 の奉 福寺 とは
︑現 在の 広恩 寺で
︑白 雲観 の西 南に あり
︑土 地の 人が それ を三 教寺 と見 なし てい るの であ る︒
﹃日 下旧 聞﹄ 所引 の﹃ 析津 日記
﹄と いう 書物 は︑ 現在 は佚 書と なっ たら しい
︒撰 者の 周篔 は︑
﹃清 史列 伝・ 文苑 伝﹄ に伝 があ って
︑朱 彝尊 と交 遊関 係を 持つ 同郷 だっ た人 物で ある
︒ この 石幢 記著 録︑ そし て本 文収 録の 文献 は︑
﹃日 下旧 聞﹄ のほ か︑ 数種 に見 られ る︒ まず 幾種 かの 金石 録文 献 が挙 げら れる
︒清 孫星 衍︵ 一七 五三
︱一 八一 八︶ 撰﹃ 京畿 金石 考﹄
︵一 七九 二︶ 巻上
﹁順 天府
・大 興宛 平県
﹂に
一二 三
みた 当石 幢記 の記 事に は︑ 僧真 延撰
︑正 書︐ 清寧 九年 五月 立︐ 在広 恩寺()
︒
12
とあ る︒ そし て︑ 同氏 と邢 澍共 編︵ 一八
〇二
︶﹃ 寰宇 訪碑 録()
﹄に もほ ぼ同 様な 記事 が見 られ る︒ ただ
﹁清 寧九 年
13
五月 立﹂ が﹁ 清寧 九年
﹂と 変わ り︑
﹁在 広恩 寺﹂ との 文字 も削 除さ れて
﹁直 隷大 興﹂ とな るの であ る︒ 李鴻 章・ 黄彭 年編 纂﹃ 畿輔 通志()
﹄︵ 一八 八六
︶卷 第百 三十 八・ 金石 一・
﹁奉 福寺 造幢 記﹂ の注 文に
︑﹃ 析津 日記
﹄
14
と﹃ 京畿 金石 考﹄ と﹃ 寰宇 訪碑 録﹄ に見 た関 係記 事を 併せ て再 録し てい る︒ これ らに よっ て︑ 石幢 記の 撰文 は
﹁正 書﹂ いわ ば楷 書で 書か れて いる こと が明 らか にな る︒ また
︑同 時期 の﹃ 光緒 順天 府志
﹄︵ 一八 八六
︶卷 第百 二十 八﹃ 金石 志﹄
︵繆 荃孫 撰︶ には
︑﹁ 奉福 寺尊 勝経 幢﹂ の題 下に
︑割 注の 形で 次の よう な記 事が ある
︒ 存︒ 前経 後記
︑八 面刻
︒講 論︵ 僧︶ 真言
︵延 か︶ 撰記 并正 書︑ 清寧 九年 七月 十三 日︒ 在宛 平白 雲観 西広 恩寺()
︒
15
繆荃 孫︵ 一八 四四
︱一 九一 九︶ は︑ 清末 と民 国初 期の 金石 学で 著名 な学 者で
︑幼 少よ り金 石と 碑帖 を嗜 み︑ 翰 林院 編修 で﹃ 光緒 順天 府志
﹄編 纂に 携わ った 当時
︑京 畿周 辺の 碑銘 など を博 捜し
︑順 天や 易州
︑宣 化︑ 定州 など へ人 を遣 わし て碑 文を 拓本 させ たり して
︑入 手し たも のに 自ら 考証 を行 なっ たと いう
︒﹃ 府志
﹄巻 一二 七︱ 一三
〇所 収の
﹃金 石志
﹄を 見る と︑ 各碑 題下 にそ れぞ れ﹁ 存﹂ 或い は﹁ 佚﹂
︑﹁ 未見
﹂な どの 注を 附し てお り︑ さら に
﹁存
﹂と 付け たも のに つい て︑ 碑文 の撰 者や 書体
︑制 作年 代︑ 所在 場所 など の詳 細な 記事 を付 して いる
︒当 石幢 記に つい ては
︑﹁ 前経 後記
︑八 面刻
﹂と
︑碑 の前 半部 に陀 羅尼 経文
︑後 半部 に﹁ 非濁 行状 記﹂ を記 し︑ 石幢 八面 の面 々に 刻文 が施 され てい る︑ と別 文献 にあ まり 見ら れぬ ほど 詳し い記 事が 載っ てお り︑ 本人 がそ の石 幢を 実見
一二 四
した よう に思 われ る︒ しか し︑ 後に 同氏 編纂 の﹃ 遼文 存﹄
︵一 八九 六︶ 巻四 に収 めら れた 石幢 記文 の末 には
﹁拓 本﹂ とい う注 が付 き︑ また 当書 所附 の﹁ 遼金 石存 目﹂ にみ る﹁ 奉福 寺石 幢記
﹂の 題下 に︑ 僧真 延撰
︒正 書︒ 清寧 九年 五月
︒在 大興
︒拠 孫録()
︒
16
と注 記し てい る︒ この 記事 から 見れ ば︑ 石幢 記の 録文 と著 録は
︑そ れぞ れ﹁ 拓本
﹂と 孫星 衍著 述に 依拠 した もの で︑ 本人 は石 幢を 実見 して いな かっ たよ うで ある
︒
『日 下旧 聞﹄ 増補 版の
﹃欽 定日 下旧 聞考
﹄︵ 一七 七四
︶卷 第九 十五
﹁郊 垌﹂ にお ける
︑例 の﹃ 析津 日記
﹄記 事に 関し ての 増補 者の
﹁按 語﹂ では
︑ 今白 雲観 之西
︑土 人猶 呼三 教寺
︑遺 址已 廃︑ 遼之 石幢 浮図
︑明 之碑 記皆 不可 考()
︒
17
とあ り︑ 現在
︑白 雲観 の西 は︑ 土地 の人 は猶
︑三 教寺 と言 うも のの
︑奉 福寺 の遺 跡は すで に廃 れ︑ 遼の 石幢 もそ の南 にあ る明 朝の 石碑 もみ なそ の所 在が 分か らな くな って いる
︑と いう ので ある
︒﹃ 欽定 日下 旧聞 考﹄ は︑ 繆荃 孫﹃ 金石 考﹄ より 百年 ほど 前の 著述 であ り︑ その 増補 者の
﹁案 語﹂ が確 実な もの であ れば
︑石 幢は 孫星 衍と 繆荃 孫と の撰 述の 時に すで に亡 失し たは ずで ある
︒そ れな のに
︑何 故﹁ 存︑
︵前 略︶ 在宛 平白 雲観 西広 恩寺
﹂と 言う ので あろ うか
︒ど うも 上述 の金 石考 など にみ た記 事に は︑ 幾分 納得 し難 いと ころ があ る︒ また
︑清
・羅 福頤 編録 の﹃ 遼文 続拾
﹄︑ 黄任 恒編 録の
﹃遼 金石
﹄な どの 後出 資料 にも
︑当 石幢 記の 著録 記事 も 見え るが
︑新 たな 内容 はな いの で︑ ここ では 触れ ない こと にす る︒ 石幢 記本 文を 載せ てい る文 献は
︑管 見に よれ ば︑ おも に朱 彝尊
﹃日 下旧 聞﹄
︑智 朴﹃ 盤山 志﹄ と繆 荃孫
﹃遼 文 存﹄ との 三種 であ る︒
﹃日 下旧 聞﹄ の目 録に 付し た﹁ 日下 旧聞 抄撮 群書 目録
﹂に よる と︑ 本書 に収 録さ れた 千数
一二 五
百種 の資 料に は﹁ 碑幢 雑記 六十 通﹂ が含 まれ
︑そ の中 に﹁ 遼奉 福寺 石幢
﹂も 見ら れる
︒ま た︑ 本目 録中 に﹃ 盤山 志﹄ も見 える もの の︑ 撰者 は智 朴で はな くて 宋犖 と記 す︒ 宋犖 なら ば﹃ 盤山 志﹄ 序文 には 本人 所撰 の一 篇も 加わ る︒ それ らの 序文 から 当志 は最 終的 に王 士禛 と朱 尊彝 との 校訂 を得 て完 成し たも のと 分か る︒ だか ら︑ 朱彝 尊に とっ て﹃ 盤山 志﹄ と智 朴と のこ とは 当然 よく 知っ てい るは ずで ある
︒こ こで の﹃ 盤山 志﹄ とは
︑当 志巻 頭に 置か れて いる 宋犖 撰﹁ 盤山 志序
﹂を さす もの かも 知れ ない と思 う︒ 康熙 三十 年︵ 一六 九一
︶に 刊行 され た﹃ 盤山 志﹄ 巻第 二・
﹁人 物・ 高僧
﹂に は当 石幢 記本 文が 収録 され てい る()
︒但 し︑ その 収録 の依 拠資 料は 明示 され てい ない
︒
18
なお
︑﹃ 遼文 存﹄ では
︑既 述し たよ うに
︑そ れが
﹁拓 本﹂ によ るも のと 収録 本文 の末 に注 記し てい る︒ 三種 以外 の文 献は
︑大 抵こ の三 種に よっ たも ので ある
︒例 えば
︑清
・厲 鶚︵ 一六 九二
︱一 七五 二︶ 撰﹃ 遼史 拾 遺﹄ 巻十
・道 宗四
・﹁
︵大 康︶ 十年
︵一
〇八 四︶ 春正 月丙 午復 建南 京奉 福寺 浮図
﹂と いう 記事 の注 には
︑﹁ 朱彝 尊 日下 旧聞 載遼 奉福 寺仏 頂尊 勝陀 羅尼 石幢 記曰
﹂と いう ふう に﹃ 石幢 記﹄ 全文 を引 用し てい る()
︒清
・周 春︵ 一七 二
19
九︱ 一八 一五
︶撰
﹃増 訂遼 詩話
﹄︵ 一七 五九 年︶ 巻下
﹁僧 非濁
﹂の 項に
﹃石 幢記
﹄の 一部 を抜 粋し てお り︑ その 文末 に﹁ 盤山 志参 奉福 寺石 幢記
﹂と 割注 して いる()
︒喩 謙撰
﹃新 続高 僧伝()
﹄巻 第三 に﹁ 遼燕 京奉 福寺 沙門 釈非 濁
20
21
伝﹂ は見 える が︑ その 依拠 資料 は﹃ 盤山 志﹄ であ る︒ 現在
︑よ く利 用さ れて いる 陳述 輯校
﹃全 遼文()
﹄所 収の 石幢
22
記本 文は
︑﹃ 遼文 存﹄ によ るも ので
︑同 時に
﹃日 下旧 聞﹄ をも 参考 にし てい る︒ 向南 編﹃ 遼代 石刻 文編
﹄︵ 河北 教 育出 版社
︑一 九九 五年
︶は
︑﹃ 盤山 志﹄
﹃日 下旧 聞﹄
﹃遼 文存
﹄三 種に よっ てい る︒
﹃中 華大 典・ 文学 典・ 宋遼 金元 文学 分典()
﹄と
﹃全 遼金 文()
﹄所 収の それ は︑ とも に﹃ 全遼 文﹄ から 転録 され たも ので ある
︒
23
24
一二 六
三 ここ
では
︑ま ずは
﹃日 下旧 聞﹄ 所載 の石 幢記 を掲 示し て︑
﹃盤 山志
﹄と
﹃遼 文存
﹄所 載の 記事 など を参 照し な がら
︑検 討し てみ る︒ 遼佛
頂尊 勝陀 羅尼 幢記
① 京師 奉福 寺懺 悔主
︑崇 禄大 夫︑ 檢校 太尉
︑純 慧大 師之 息化 也︑ 附霊 塔之 巽位
︑ 樹佛 頂尊 勝陀 羅尼 幢︑ 廣丈 有尺
︒門 弟子 状師 實行
︐以 記為 請②
︒大 師諱 非濁
︑字 貞照
︑俗 姓張 氏︑ 其先 范 陽人
③︒ 重熙 初︐ 禮故 守太 師兼 侍中 圓融 國師 為師
④︒ 居無 何︑ 嬰脚 疾︑ 乃遯 匿盤 山︑ 敷課 于白 繖葢
︒毎 宴 坐誦 持︑ 常有 山神 敬侍
︑尋 克痊
⑤︒ 八年 冬︑ 有詔 赴闕
︑興 宗皇 帝賜 以紫 衣︒ 十八 年︑ 勅授 上京 管内 都僧 録︒ 秩満
︑授 燕京 管内 左街 僧録
⑥︒ 屬鼎 駕上 仙︑ 驛征 赴闕
︑今 上以 師受 眷先 朝︑ 乃恩 加崇 禄大 夫檢 校太 保︒ 次 年︑ 加檢 校太 傅︑ 太尉
⑦︒ 師搜 訪闕 章︑ 聿修 睿典
︑撰 往生 集二 十卷 進呈
︒上 嘉賛 久之
︑親 為帙 引︑ 尋命 龕 次入 藏⑧
︒清 寧六 年春
︑鑾 輿幸 燕︑ 回次 花林
︑師 侍坐 于殿
︑面 受燕 京管 内懺 悔主 菩薩 戒師
⑨︒ 明年 二月
︑ 設壇 于本 寺︑ 懺受 之徒
︑不 可勝 紀⑩
︒九 年四 月︑ 示疾
︑告 終于 竹林 寺︒ 即以 其年 五月
︑移 窆于 昌平 縣⑪
︒ 司空 豳國 公︑ 仰師 高躅
︑建 立寺 塔︑ 并營 是幢
︒庶 陵壑 有遷
︑而 音塵 不泯
⑫︒ 清寧 九年 五月
︑講 僧眞 延撰 并 書⑬()25
一二 七
以上 は﹃ 日下 旧聞
﹄所 載の 石幢 記全 文で あり
︑① はそ の題 名に あた るも ので ある が︑ それ につ いて
︑﹃ 盤山 志﹄ には
﹁真 延佛 頂尊 勝陀 羅尼 幢記
﹂︑
﹃遼 文存
﹄に は﹁ 非濁 禅師 実行 記﹂ とあ って
︑そ れぞ れ石 幢記 の撰 述者
︑内 容︑ 或い はそ の所 在か ら名 付け られ た仮 題で ある こと が分 かる
︒実 際︑ 石幢 記に は正 式な 題が ある らし く︑ それ は即 ち﹃ 析津 日記
﹄に 記さ れた
﹁題 曰守 司空 豳国 公中 書令 奉為 故太 尉大 師特 建仏 頂尊 勝陀 羅尼 幢記
講僧 真延 撰並 書﹂ とい うも ので ある
︒ ここ での
﹁守 司空 豳国 公中 書令
﹂に つい ては
︑従 来︑ 非濁 の記 事の みに 関心 を寄 せて いる ため か︑ これ に関 し ての まと もな 考察 は尚 行な われ てい ない のが 現状 であ る︒
﹃遼 史﹄ 巻八 十六
・列 伝第 十六 には その 伝記 があ り︑
﹁耶 律合 里只
﹂に 当た る人 物で ある
︒そ の伝 に︑ 耶律
合里 只︑ 字特 満︑ 六院 夷離 菫蒲 古只 之後
︒重 熙中
︑累 遷西 南面 招討 都監
︒充 宋国 生辰 使︑ 館于 白溝 驛︒ 宋宴 労︑ 優者 嘲蕭 恵河 西之 敗︒ 合里 只曰
︑﹁ 勝負 兵家 常事
︒我 嗣聖 皇帝 俘石 重貴
︑至 今興 中有 石家 寨︒ 恵 之一 敗︑ 何足 較哉
︒﹂ 宋人 慚服
︒帝 聞之 曰︑
﹁優 伶失 辞︑ 何可 傷両 国交 好︒
﹂鞭 二百
︑免 官︒ 清寧 初︑ 起為 懐化 軍節 度使
︒七 年︑ 入為 北院 大王
︑封 豳国 公︒ 歴遼 興軍 節度 使︑ 東北 路詳 穏︑ 加兼 侍中
︒致 仕︑ 卒︒ 合 里只 明達 勤恪
︑懐 柔有 道︒ 置諸 賓館 及西 辺営 田︑ 皆自 合里 只発 之()
︒
26
とあ る︒ すな わち
︑耶 律合 里只 とは
︑六 院︵ 南大 王院
︶夷 離菫 であ る蒲 古只 の子 孫で
︑重 熙︵ 一〇 三二
︱一
〇五 五︶ 年間
︑﹁ 西南 面招 討都 監﹂ に累 進︑ 一度
︑宋 の皇 帝の 誕生 日を 祝う ため に使 者と して 宋に 派遣 され た時 の失
一二 八
言で 免官 にさ れた が︑ 清寧
︵一
〇五 五︱ 一〇 六四
︶初 年︑ 再び
﹁懐 化軍 節度 使﹂ に起 用さ れ︑ 清寧 七年
︑上 京し て﹁ 北院 大王
﹂と なり
︑﹁ 豳国
︵甘 粛寧 縣一 帯︶ 公﹂ に封 じら れた
︒官 職に は﹁ 遼興 軍節 度使
﹂︑
﹁東 北路 詳穏
﹂︑
﹁兼 侍中
﹂を 歴任
︑退 官後
︑死 去︒ 性格 豪快
︑勤 勉で 懐柔 の術 あり
︑賓 館設 置︑ 西部 辺防 と屯 田な どの 主唱 者た る功 のあ る人 物と して 評価 され てい る︒ また 石幢 記題 名に は﹁ 守司 空﹂ と﹁ 中書 令﹂ とい った 肩書 も見 られ る︒ 遼で は北 面官 と南 面官 をそ れぞ れ置 いて 原住 民と 漢族 を分 治す る︒
﹁西 南面 招討 都監
﹂と
﹁東 北路 詳穏
﹂は 北面 辺防 官で
︑﹁ 懐化 軍節 度使
﹂と
﹁遼 興軍 節度 使﹂ は南 面方 州官 であ る︒ また
﹁北 院大 王﹂ とは 北面 朝官 にお ける
﹁北 南枢 密院
﹂﹁ 北南 宰相 府﹂ に次 ぐ第 三階 の長 官で あり
︑﹁ 中書 令﹂ とは 南面 朝官 にお ける
﹁三 師府
・三 公府
﹂ と﹁ 漢人 枢密 院﹂ に次 ぐ三 省の 中書 省長 官で
︑﹁ 侍中
﹂は 門下 省長 官で ある
︒つ まり
︑地 方の 治績 で中 央に 抜擢 され た高 官な ので ある
︒非 濁と の付 き合 いに 関し ては 未詳 であ るが
︑非 濁入 寂の 清寧 九年
︵一
〇六 三︶ は︑ 合里 只が 豳国 公に なっ た二 年後 にあ たっ て︑ 石幢 記末 尾に
﹁司 空豳 国公
︑仰 師高 躅︑ 建立 寺塔
︑并 営是 幢﹂ とあ るよ うに
︑豳 国公 は非 濁大 師の 高徳 を仰 ぐた めに 霊塔 を建 て︑ それ に併 せて 石幢 を営 んだ と︑ 石幢 営造 の経 緯は それ で明 らか にな るの であ る︒
「遼 興軍 節度 使﹂ は︑ 南京 道の
﹁平 州﹂
︵現 在河 北省 盧龍 縣︶ に置 かれ
︑二 州と 三県 を管 轄し
︑析 津府
︵現 在北 京市
︶の 近隣 にあ る︒ また 漢人 事務 管理 を行 なう 南面 官﹁ 中書 令﹂ も現 役中 であ るら しい
︒そ のよ うな 身分 をも つ空 豳国 公に とっ て︑ 仕事 上の 関係 から も︑ 同じ 南京 道で 燕京 管内 左街 僧録 を務 める 非濁 との 接触 を深 めた ので はな いか と推 測す る︒
②に おい て︑ 非濁 入寂 後︑ 霊塔 の巽 位︵ 東南 方角
︶に
︑広 さ一 丈一 尺ほ どの 仏頂 尊勝 陀羅 尼石 幢が 建立 され る︒
一二 九
その ため に︑ 門弟 たち が師 の行 状を 記述 しよ うと する とこ ろ︑ その 任を
︑弟 子の 真延 が申 し込 んだ
︑と 石幢 記撰 述の 縁起 が記 され てい る︒ 中に
︑非 濁一 生に わた る主 な肩 書が 網羅 的に 列挙 され てい る︒ 師の 一生 への 回顧 的意 思を 込め てい る撰 者真 延の 意図 がそ こか ら看 取さ れよ う︒ それ に沿 いな がら
︑次 の部 分で はそ の具 体的 な叙 述が 展開 され てい るの であ る︒
「純 慧大 師﹂ とい う称 号は いつ 賜っ たの か︑ 後出 文に はそ れが 紹介 され てい なか った が︑
﹃房 山石 経﹄ 所収 の重 熙二 十二 年︵ 一〇 五三
︶に 思孝 の撰 とな る﹃ 大蔵 教諸 仏菩 薩名 号集 序()
﹄に
﹁純 慧大 師沙 門非 濁﹂ とい う文 言が 見
27
られ るの で︑ この 時期 には すで にこ の称 号に なっ てい るこ とが 明ら かに なる わけ であ る︒
③は
︑非 濁の 俗名 と出 身地 の紹 介と なる
︒﹃ 遼史
﹄巻 四〇
・地 理志 第四 によ れば
︑﹁ 范陽
﹂と は︑ 南京
︵燕 京︶ 道に 置か れた 涿州 管轄 下の 四県 の一 つで ある 范陽 県を さす もの で︑
﹁本 漢涿 県︑ 唐武 徳中 改范 陽県
﹂と
︑元 は漢 の涿 県で
︑唐 武徳 年間 のこ ろ范 陽県 と改 まる
︒そ れは 現在 の河 北省 涿州 一帯 で︑ 北部 は北 京市 房山 区に 入っ たと ころ であ り︑ 雲居 寺と 房山 石経 でよ く知 られ てい る地 域で ある
︒
④以 後の 文言 では
︑時 間を 軸に して 非濁 一生 の行 状を 略記 して いる
︒ま ず④ では
︑興 宗皇 帝の 重熙
︵一
〇三 二
︱五 五︶ の初 め︑
﹁守 太師
﹂・
﹁兼 侍中
﹂に 就く 圓融 国師 に師 事し てい ると 述べ られ てい るが
︑圓 融は いつ 国師 と なっ たの か︑ 非濁 がど こで それ に師 事し はじ めた のか は明 らか でな いが
︑重 熙初 期に は師 弟関 係が すで に結 ばれ たこ と︑ また 石幢 記撰 述に あた る清 寧九 年の 時点 で圓 融が 寂滅 した こと
︑さ らに 圓融 は生 前に
﹁守 太師
﹂・
﹁兼 侍 中﹂
・﹁ 国師
﹂と して 大い に尊 崇さ れた 高僧 であ った
︑と いう こと など が確 認さ れる ので ある
︒な お︑ 圓融 国師 の こと は︑ 上述 の﹃ 名号 集序
﹄に も触 れら れて いる
︒そ れに よっ て︑ 重熙 二十 二年 以前
︑圓 融が 夙に 太師
・侍 中・
一三
〇
国師 とい う高 位を 一身 に備 えた 高僧 だっ たと 分か る︒ これ ほど 高位 の高 僧に 師事 する こと 自体 が︑ 非濁 の将 来に 繋が った こと の一 面が 推測 され る︒
⑤は 全て 三十 数字 の文 言だ が︑ 仏経 の霊 験譚 とし て実 に恰 好な 一短 篇で ある
︒即 ち︑ 圓融 国師 に師 事し た後
︑ 間も なく 足病 を患 った ため 盤山 に姿 を隠 して いる 非濁 は︑ 日課 とし て白 繖蓋 を修 行す るの であ るが
︑そ れを 静坐 誦持 する 度毎 に︑ 常に 山神 が現 前し て非 濁を 敬侍 する
︒こ うし て直 ぐ様 に足 疾が 治る
︑と いう 話︒ ここ での
﹁白 繖蓋
﹂と は︑
﹁白 傘蓋
﹂と も言 い︑ 漢訳 仏典 にお いて
︑そ の音 訳で は悉 怛多 鉢怛 羅︑ 意訳 では 白傘 蓋︑ 白傘 など と言 って
︑仏 徳が すべ てを 覆う とい う意 味で 使わ れて いる
︒ま た︑ 大仏 頂如 来放 光悉 怛多 鉢怛 囉陀 羅尼
︑大 仏頂 満行 首楞 厳陀 羅尼
︑首 楞厳 陀羅 尼︑ 大仏 頂如 来頂 髻白 傘蓋 陀羅 尼︑ 大仏 頂真 言︑ 首楞 厳呪
︑仏 頂呪
︑楞 厳呪 など とも 称し
︑﹃ 大仏 頂首 楞厳 経﹄ 巻七
﹁大 仏頂 如来 放光 悉怛 多缽 怛囉 菩薩 萬行 灌頂 部﹂ にそ れが 載っ てお り︑ その 題名 は﹁ 中印 度那 蘭陀 曼荼 羅灌 頂金 剛大 道場 神呪
﹂と いう
︒ この
﹁大 仏頂 白傘 蓋陀 羅尼
﹂に は種 々の 漢訳 があ り︑
﹃房 山石 経﹄ にお いて それ は頻 見さ れる
︒例 えば
︑
﹃大 仏頂 如来 密因 修證 了義 諸菩 薩萬 行首 楞厳 経﹄ 卷七
﹁仏 頂光 聚悉 怛多 般怛 羅祕 密伽 陀微 妙章 句﹂
︵大 唐天 竺沙 門 般剌 蜜帝 訳︑ 総て 四百 三十 九句
︑﹃ 房山 石経
﹄﹁ 詩﹂ 帙に 見る
︶︑ ﹃ 釈教 最上 乗秘 密蔵 羅陁 羅尼 集﹄ 巻第 二﹁ 大 仏頂 陁羅 尼﹂
︵唐 三藏 不空 訳︑ 上都 大安 国寺 伝密 教超 悟大 師賜 紫三 蔵沙 門行 琳集
︑総 て四 百八 十七 句︑
﹃房 山石 経﹄
﹁俊
﹂帙 にみ る︶
︑#
﹃一 切如 来白 傘蓋 大仏 頂陁 羅尼
﹄︵ 唐三 蔵沙 門不 空奉 詔訳
︑総 で四 百八 十一 句︑
﹃房 山石 経﹄
﹁感
﹂帙 に見 る︶
︑$
﹃一 切如 来白 傘蓋 大仏 頂陀 羅尼
﹄︵ 大契 丹国 師中 天竺 摩竭 陁国 三蔵 法師
慈賢 訳︑ 総て 五 百三 十六 句︑
﹃房 山石 経﹄
﹁丁
﹂帙 に見 る︶ など()
︒中 に︑ 契旦 国師 重訳 の一 種も 見ら れる
︒そ れら によ って 遼朝 に
28
一三 一
おい てこ の白 傘蓋 陀羅 尼が 大い に取 りあ げら れて いた 有様 が窺 われ る︒ これ は同 時に 非濁 の仏 教信 仰の 一端 をも 伺わ せる
︒義 天編
﹃新 編諸 宗教 蔵総 録﹄ に︑ 非濁 撰﹃ 首楞 厳経 玄賛 科﹄ 三巻
︵佚 失︶ と著 録し てい るが
︑こ の
﹁白 傘蓋 陀羅 尼﹂ に対 する 修持 のこ とは
︑著 述に も繋 がる 非濁 の仏 教教 学で の一 面を 呈示 して いる ので はな いか
︒ なお
︑﹁ 敷課 于白 繖蓋
﹂に 対し て︑
﹃盤 山志
﹄で は﹁ 敷課 大白 傘蓋
﹂と する
︒﹃ 大白 傘蓋 陀羅 尼経
﹄な らば
︑大 正蔵 第十 九冊 に二 種見 られ
︑
﹃仏 頂大 白傘 蓋陀 羅尼 経﹄
︵一 卷︑ 沙囉 巴訳
︶︑ ﹃ 大白 傘蓋 総持 陀羅 尼経
﹄︵ 一 巻︑ 真智 等訳
︶で ある
︒こ れら は︑ 元朝 にな って 初め てチ ベッ ト仏 教か ら漢 訳さ れた もの とさ れ︑ 梵語 本は ネ パー ルな どに も現 存す る︒ ただ し︑
﹃房 山石 経﹄ 所載 の事 情や
﹃大 白傘 蓋陀 羅尼 経﹄ 漢訳 時間 のこ と︑ そし て非 濁著 述の 関連 性な ど諸 方面 から 考え れば
︑こ こで は︑
﹃大 仏頂 首楞 厳経
﹄巻 七に 見る
﹁白 傘蓋
︵陀 羅尼
︶を 指し てい ると 見る べき だと 思う()
︒
29
白傘 蓋陀 羅尼 によ る霊 験譚 とし ては
︑南 宋・ 洪邁 撰﹃ 夷堅 志﹄ 補巻 第十 四・
﹁蜀 士白 傘蓋()
﹂︑ 馬純 撰﹃ 陶朱 新
30
録﹄
・﹁ 白傘 蓋呪()
﹂な どの 説話 が見 られ る︒ 前話 は蜀 のあ る官 吏登 用試 験に 合格 した 者が
︑吏 部へ 赴く 途中
︑道 に
31
迷っ て荒 野で 鬼を 祭る ため に人 を殺 す悪 党ら に遭 った とこ ろ︑ 白傘 蓋真 言を 誦す ると 助か った
︑と いう 話︒ その 話末 には
︑ 白傘 蓋呪 三千 一百 三十 字︑ 在諸 呪中 最為 難読
︑頗 與孔 雀明 王経 相似
︒僧 徒亦 罕誦 習︑ 故妖 魔外 道敬 畏之
︒白 傘蓋 真言
︑云 即楞 厳呪
︒ と︑ 白傘 蓋呪 は三 千一 百三 十字 で︑ 諸呪 中で 最も 難読 なも ので
︑頗 る孔 雀明 王経 に似 てお り︑ 僧徒 でさ えも それ を誦 習す るこ とが 稀な ので
︑妖 魔・ 外道 がそ れを 敬畏 する のだ
︒白 傘蓋 真言 とは
︑即 ち楞 厳呪 を云 う︑ とい うふ
一三 二
うに
︑白 傘蓋 真言 のこ とを 解説 する 口調 で︑ それ によ る霊 験の 有り 難さ を強 調す るの であ る︒ 後話 は郭 献可 の妻 高氏 が毎 日﹁ 白傘 蓋呪
﹂を 念呪 して 猫を 呪殺 した 云々
︑と いう 白傘 蓋真 言の 呪力 を語 る一 話で ある
︒真 言も 呪も みな 陀羅 尼の 漢訳 語で
︑仏 教に おけ る呪 の大 抵は 前話 の如 く︑ 善へ の霊 験と して 機能 させ られ てい る︒
⑤に あた る霊 験譚 は︑ 前者 に属 する 病気 治癒 霊験 譚で ある
︒こ こで もう 一つ 注目 すべ きに は︑ 白傘 蓋に よる 非濁 自身 が体 験し た霊 験譚 は︑ 幢記 題名 中の
﹁仏 頂尊 勝陀 羅尼
﹂と 巧く 対応 され
︑し かも それ を提 示す るこ とで 機能 して いる ので ある
︒ま た︑
﹁常 有山 神敬 侍﹂ とい う文 言も
︑﹃ 大仏 頂白 傘蓋 陀羅 尼﹄ に﹁ 若一 心誦 持此 呪︑ 則水 火諸 毒不 惧︑ 且可 蒙受 毗那 夜迦 諸悪 鬼之 守護
﹂と ある 傍線 部で 示し た文 句を 踏ま えた もの かと 考え られ る︒ 盤山 は遼 の南 京道 管轄 下の 薊州 に置 かれ
︑﹃ 遼史
﹄巻 六十 八・ 表第 六﹁ 遊幸 表﹂ によ ると
︑遼 太宗 は会 同三 年
︵九 四〇
︶﹁ 猟於 盤山
﹂︑ 聖宗 は統 和八 年︵ 九九
〇︶
﹁幸 盤山 諸寺
﹂と いう 記事 があ る︒ 当山 は現 在︑ 天津 市薊 県の 北部 に位 置し て︑ 北京 市の 東部 にあ たる
﹁京 東第 一山
﹂と 称さ れる
︒遼 代の 仏教 遺跡 が多 く残 され てい る仏 教名 山の 一つ に数 えら れて いる
︒二
〇一
〇年 三月
︑非 濁研 究の 一環 とし て盤 山へ の調 査を して みた とこ ろ︑ 遼の 統和 年間 建立 の﹃ 盤山 千像 祐唐 寺創 建講 堂碑
﹄︑ 古仏 舎利 塔な ど遼 の頃 修造 或い は再 建さ れた 寺や 石碑 が多 数現 存す るこ とが 分か った
︒非 濁が 隠遁 して 真言 を誦 持し てい た当 時の 盤山 の様 子を 彷彿 させ るよ うで ある
︒な お︑ 清・ 釈智 朴撰
﹃盤 山志
﹄と 蒋溥 等撰
﹃欽 定盤 山志
﹄な どの 専志 があ り︑ 歴代 皇帝 の遊 幸や 高僧
︑寺 院な どの 事も 多く 記載 され てい るの であ る︒
⑥⑦ では
︑④ に続 き︑ 重熙 年間 にお ける 非濁 の僧 官任 官な どの 事情 を縷 述し てい る︒ 即ち
︑重 熙八 年に は宮 廷 に召 され て興 宗皇 帝か ら紫 衣を 賜わ り︑ 同十 八年 には 上京 管内 都僧 録を 勅授 され てい る︒ 都僧 録の 任期 満了 後︑
一三 三
燕京 管内 左街 僧録 を授 与さ れた
︑と いう
︒﹁ 賜紫 衣﹂
︑い わゆ る﹁ 賜紫
﹂で ある が︑ 唐宋 時代 にお いて 三品 以上 の 任官 に紫 衣を 官服 とす るが
︑三 品以 下で 大功 績の あっ た者 或い は寵 臣な どに 賜紫 の詔 を出 すこ とも あっ た︒ 遼は 燕雲 十六 州獲 得後
︑そ れに 対す る支 配制 度は
︑北 方の 本拠 地に 置い た北 面官 とい う役 所と は切 り離 して
︑南 面官 とい う役 所を 置い た︒
﹃遼 史﹄ 百官 志に よれ ば︑ 南面 官制 度は
︑基 本的 に唐 の官 制を 踏襲 した もの で︑ 三師 府で は太 師︑ 太傅
︑太 保と いう 三師 を︑ 三公 府で は太 尉︑ 司徒
︑司 空と いう 三公 を置 き︑ 三師 と三 公と もに 正一 品官 であ る︒ 聖宗
・興 宗・ 道宗 の三 朝に おい て︑ 僧侶 を優 遇し
︑多 数の 高僧 に三 公・ 三師 を勅 授し たり
︑紫 衣な どを 賜っ たり した
︒﹃ 契丹 国志
﹄巻 第八 に﹁
︵興 宗︶ 尤重 浮図 法︑ 僧有 正拝 三公 三師 兼政 事令 者︑ 凡二 十人
﹂と ある の が︑ まさ しく この 事を 物語 る︒ 前述 の圓 融国 師が
﹁守 太師 兼侍 中﹂ であ った とい うこ とも これ で再 確認 され る︒
「上 京管 内都 僧録
﹂﹁ 燕京 管内 左街 僧録
﹂と もに 遼朝 の僧 官職 名で
︑僧 尼の 登録 や任 免を 管掌 した 官職 であ る︒ 僧録 制度 は賛 寧﹃ 大宋 僧史 略﹄ 巻中
﹁左 右街 僧録
﹂に よれ ば︑ 唐元 和元 年︵ 八〇 六︶
︵元 和二 年説 もあ る︶ に設 置さ れた のが 始ま りだ とい う︒
﹃遼 史﹄ 百官 志に はそ れに 該当 する 記録 は見 えな いも のの
︑﹃ 遼史
﹄巻 九・ 本紀 第 八﹁ 景宗
︵上
︶﹂ には
︑
︵保 寧六 年︶
︵九 七四
︶十 二月 戊子
︑以 沙門 昭敏 為三 京諸 道僧 尼都 総管
︑加 兼侍 中︒ とい う記 事が 載せ られ
︑﹃ 遼史
﹄に おけ る最 初の 僧録 に関 する 記録 とさ れる
︒そ の後 の記 録は
︑石 刻資 料な どに 多く みら れる
︒例 えば
︑﹁ 中京 管内 都僧 録崇 禄大 夫検 校太 傅演 妙大 師賜 紫沙 門﹂
﹁中 京管 内僧 録判 官謹 行大 師賜 紫﹂
︵﹃ 全遼 文﹄ 卷十 一﹁ 残碑 捐施 名銜
﹂︶
︑﹁ 前燕 京左 街僧 録判 官文 勝大 師﹂
︵同 巻九
︶﹁ 右街 僧録 判官 文勝 大師
﹂
︵同 巻十 一﹁ 涿州 涿鹿 山雲 居寺 続祕 蔵石 経塔 記﹂
︶︑
﹁未 久之 間︑ 奉勅 為燕 京ロ ロ僧 録﹂
︵同 巻十 一﹁ 燕京 永泰 寺崇
一三 四
禄大 夫検 校太 尉伝 菩薩 懺悔 正慧 大師 遺行 塔記
﹂︶
︑﹁ 邑人 前管 内左 街僧 録浄 慧大 師賜 紫沙 門裕 方︑ 邑人 前東 京管 内 僧録 詮論 大師 賜紫 沙門 裕企
﹂︵
﹃金 石萃
﹄卷 一五 三﹁
︵遼 燕京
︶戒 壇寺 陀羅 尼幢 并記
﹂︶ など であ る︒ 以上 の諸 資 料を 併せ て考 える と︑ 遼の 初期 には
︑嘗 て三 京諸 道に わた る﹁ 僧尼 総管
﹂の よう な任 官は あっ たが
︑後 には
︑上 京管 内︑ 中京 管内
︑東 京管 内︑ 南京 管内 など 各京 に僧 録官 を並 置す るよ うに なる と推 測さ れる
︒僧 録に は都 僧録
︑ 僧録
︑僧 録判 官な どが 含ま れる よう であ り︑ また 現在 所見 され るだ けの 資料 から は︑ 南京
︵燕 京︶ 管内 にお いて のみ 僧録 を﹁ 左右 街﹂ に付 けて 称す る︒ 非濁 が﹁ 上京 管内 都僧 録﹂ 任満 後︑
﹁燕 京管 内左 街僧 録﹂ に伝 任さ れる とい う記 事か らも
︑﹁ 燕京 管内 左街 僧録
﹂は 少な くと も﹁ 上京 管内 都僧 録﹂ より 低い クラ スの 僧官 でな いは ずだ と推 断さ れる
︒そ うな らば
︑燕 京に おけ る僧 官制 度は 他の 諸京 と多 少異 なっ た特 殊な 一面 を持 って いた ので はな いか と見 られ る︒
﹃遼 史﹄ 百官 志四
・南 面下
・南 面京 官に は︑ 遼有 五京
︑上 京為 皇都
︑凡 朝官
︑京 官皆 有之
︒余 四京 随宜 設官
︑為 制不 一︒ とあ る︒ 傍線 部で 示し てい るよ うに
︑上 京以 外の 各京 にお いて 官制 を適 宜に 設け て︑ その 規定 は統 一し ない
︑と いう 文言 から
︑こ のよ うな 推測 が許 され るか も知 れな い︒ 遼の 上京 は臨 潢府
︵現 在内 モン ゴル 巴林 左旗
︶に あり
︑非 濁は 重熙 八年
︑召 され て上 京へ 赴き
︑賜 紫の 栄誉 を 得た
︒そ の後
︑そ のま ま上 京に 残っ たの かど うか
︑幢 記に はそ れを 明か さず
︑同 十八 年︑ 上京 管内 都僧 録に なる まで の十 年間 は︑ どの よう な活 動を 行な った のか
︒ま た盤 山で の隠 遁修 行は
︑重 熙八 年ま で継 続し てい たの かど うか
︑そ れも 分か らな い︒ ただ
﹁有 詔赴 闕﹂ とい う文 言か らす れば
︑重 熙八 年の 時点 で上 京に は居 なか った こと は明 白で ある
︒そ して
︑上 京管 内都 僧録 の任 期は 何年 間で ある のか
︑そ れも はっ きり とは 分か らな い︒ 任期 満了
一三 五
後︑ 再び 燕京 に帰 還し て燕 京管 内左 街僧 録に なる
︒非 濁の これ まで の生 活軌 跡に は︑ 十数 年の 空白 を挟 んで いる が︑ 燕京 から 上京
︑そ の後 また 燕京 に戻 る︑ とい う輪 郭は 何と なく 素描 され る︒ なお
︑上 京任 官期 間の 具体 的な 活動 は︑ 既述 の思 孝撰
﹃大 蔵教 諸仏 菩薩 名号 集序
﹄に も記 述さ れて いる が︑ それ につ いて は次 回の 検討 に譲 るこ とに して
︑上 京か ら伝 任後 の非 濁は その 任地 燕京 でど のよ うな 活動 を展 開し たの であ ろう か︒ 幢記 の記 述を 順次 に追 究し てみ る︒ まず は﹁ 燕京 左街 僧録
﹂に つい て見 てみ たい
︒ 燕京 につ いて は︑
﹃遼 史﹄ 地理 志・ 一に 太宗 以皇 都為 上京
︑昇 幽州 為南 京︑ 改南 京 東京
︒︵ 略︶ 自唐 而晋
︑高 祖以 遼有 援立 之労
︑割 幽州 等十 六州 以献
︒太 宗昇 為南 京︑ 又曰 燕京
︒ 同・ 四に 坊市
︑廨 舎︑ 寺観
︑蓋 不勝 書︒ とあ る︒ それ によ れば
︑遼 太宗 の時 に︑ 晋唐 から 割譲 され た燕 雲十 六州 の幽 州が 南京 に昇 格す る︒ 南京 は燕 京と も言 い︑ 街坊
・店 舗・ 寺廟 など 数え られ ぬほ ど密 集し てい た遼 の大 都市 であ った
︒燕 京析 津府 は六 州と 十一 県を 管轄 し︑ 府の 所在 地が 幽都 であ る︒ 当時 の幽 都に つい ては
︑宋
・王 曾﹃ 上契 丹事
﹄に 自雄
州白 溝驛 渡河
︑四 十里 至新 城県
︑古 督亢 亭之 地︒ 又七 十里 至涿 州︒ 北渡 范水
︑劉 李河
︑六 十里 至良 郷県
︒ 渡盧 溝河
︑六 十里 至幽 州︑ 号燕 京︒ 子城 就羅 郭西 南為 之︒ 正南 曰啓 夏門
︑内 有元 和殿
︑東 門曰 宣和
︒城 中坊 閈皆 有楼
︒有 閔忠 寺︑ 本唐 太宗 為征 遼陣 亡将 士所 造︒ 又有 開泰 寺︑ 魏王 耶律 漢寧 造︒ 皆遣 朝使 遊観
︒南 門外
一三 六
有于 越王 廨︑ 為宴 集之 所︒
︑門 外永 平館
︑旧 名碣 石館
︑ 和後 易之
︒南 即桑 乾河
︒︵
﹃遼 史﹄ 地理 志四 所引
︶ とい
う記 事が ある
︒そ れに よれ ば︑ 良郷 県︵ 現在 北京 市房 山区
︶か ら盧 溝河 を渡 って 六十 里の 先で 幽都 に至 る︒ 子城
︵内 裏︶ は燕 京城 の西 南部 に築 かれ
︑そ の南 門は 啓夏 門と 言い
︑中 に元 和殿 があ り︑ 東門 は宣 和門 とい う︒ 燕京 城中 の街 道で ある 坊の 門す べて 門楼 が付 いて おり
︑閔
︵憫
︶忠 寺︑ 開泰 寺な どの 大寺 があ るな ど︑ 遼史 の記 述と 一致 した 様子 が伝 えら れて いる
︒ それ では
︑燕 京管 内左 街僧 録は
︑燕 京内 のど の区 域の 僧侶 事務 を管 理す るの か︒ これ まで の研 究で は︑ 左街 と 右街 を街 道名 と考 えて いる 論考 が見 られ る() が︑ これ は誤 認だ った こと をま ず明 確に して おか なけ れば なら ない
︒
32
左右 街僧 録制 度は 唐に 始ま り︑ 唐貞 元四 年︵ 七八 八︶
︐左 右街 大功 徳使
︑東 都功 徳使
︑修 功徳 使な どを 設置 して 僧尼 の僧 籍な どを 管理 する
︒元 和二 年︵ 八〇 七︶
︑左 右街 功德 使の 下に 僧録 司を 設置 して 僧録 など の僧 職を 置き
︑ 全国 寺院 と僧 尼籍 の管 理や 僧官 補任 など を事 務と して いる
︒遼 の僧 官制 度は 基本 的に 唐を 踏襲 した もの であ るの で︑ 左右 街僧 録の
﹁左 右街
﹂は 具体 的な 街で ない こと は明 白で ある
︒﹃ 北京 歴代 城坊 宮殿 苑囿
﹄そ の五
﹁遼 南京
︵燕 京︶ 城()
﹂に よれ ば︑ 遼聖 宗開 泰元 年︵ 一〇 一二
︶幽 都を 析津 府に
︑薊 北県 を析 津県 に︑ 幽都 県を 宛平 県に 改
33
めた が︵
﹃遼 史﹄ 巻十 五・ 聖宗 紀六
︑﹃ 遼史
﹄巻 四十
・地 理志 四・ 南京 道︶
︑宛 平県 は府 の西 部と 西部 郊外
︑析 津 県は その 東部 と東 部郊 外を 管轄 区と して いる ため
︑左 街僧 録は 東部 析津 県と その 郊外 にあ る寺 院を
︑右 街僧 録は 西部 幽都 県と その 郊外 にあ る寺 院を 管理 する
︒こ こで の左 街と 右街 とは
︑大 まか に析 津府 の東 城区 と西 城区 のよ うな 言い 方な のか も知 れな い︑ とい う︒ 更に
﹃僧 奉航 塔記
﹄︵
﹃全 遼文
﹄巻 十︶ にみ る﹁ 燕京 左街 駐蹕 寺﹂ の位 置
一三 七
につ いて
︑﹃ 順天 府志
﹄所 引﹃ 元一 統志
﹄に よっ て分 かる よう にそ れが 遼燕 京東 城垣 外三 里の 処に あっ て析 津県 内だ から
﹁左 街駐 蹕寺
﹂と 称す るの だ︑ とい った 例で その
﹁左 街﹂ の所 轄区 域の こと を証 明し てい るの であ る︒ この 説が 若し 成立 する とす れば
︑非 濁伝 任後 の僧 職は 析津 県一 帯の 寺院 事務 担当 職で あっ た︑ とい うこ とが 分か るは ずで ある
︒但 し︑ 燕京 析津 府は
︑析 津県 と宛 平県 を含 む十 一県 を直 轄す るほ か︑ それ 以外 の六 州︵ 十三 県︶ も管 轄し てい るの で︑ 燕京 管内 左街 僧録 の権 限と は︑ ただ 析津 県と その 郊外 のみ では なく
︑析 津県 とそ れ以 東の 燕京 管内 すべ ての 寺院 を管 理す る僧 官で なけ れば なら ない と思 う︒
⑪で 示さ れて いる よう に︑ 清寧 九年 に非 濁示 寂の 場所 は奉 福寺 では なく 竹林 寺で あっ た︒ それ も非 濁の
﹁燕 京 管内 左街 僧録
﹂と いう 任職 に関 係が ある かと 思う
︒竹 林寺 につ いて
︑﹃ 永楽 大典
﹄巻 四六 五〇 所引 の元 朝﹃ 一統 志﹄
︵巻 一︶ に 竹林 寺︑ 始于 遼道 宗清 寧八 年宋 楚国 大長 公主 以左 街顕 忠坊 之賜 第為 仏寺
︑賜 名竹 林︒
﹃日 下旧 聞考
﹄巻 十七 に 遼道 宗清 寧八 年楚 国大 長公 主捨 諸私 第剏 厥精 盧︑ 奉勅 以竹 林為 額﹂
︵﹃ 奉福 寺尊 勝陀 羅尼 幢﹄
︶ とあ り︑ それ らに よっ て︑ 竹林 寺は 燕京 左街 僧録 管轄 下に 置か れた 寺院 で︑ しか も遼 道宗 清寧 八年
︵一
〇六 二︶ に創 始さ れた
︑と いう こと が分 かる
︒よ って
︑非 濁が 燕京 管内 左街 僧録 を務 めた 役所 は竹 林寺 に置 かれ てい るの では ない かと 推断 され よう
︒ 明・ 呂原
﹃新 建法 林寺 記略
﹄に 宣武 門西 南二 里有 故址 焉︑ 耆老 相伝 其先 竹林 禅寺 也︒
︵前 略︶ 正統 中︑ 釈恵 灝訪 得其 地︒ 景泰 中︑ 司礼 太監
一三 八
興覚 満等 修之
︑請 於朝
︑得 賜今 額︒
︵後 略()
︶天 順三 年立
︒
34
とあ り︑ それ によ れば
︑宣 武門 外西 南二 里の 処に 故址 あり
︑耆 老の 相伝 では
︑以 前そ こが 竹林 禅寺 であ り︑
︵前 略︶ 正統
︵一 四三 六︱ 一四 四九
︶年 間︑ 釈恵 灝が 其の 地を 辿り 得て おり
︑景 泰︵ 一四 五〇
︱一 四五 七︶ 年中
︑司 礼太 監の 興覚 満な どが それ を修 復し て朝 廷に 請う て︑ 現在 の寺 額で ある
﹁法 林寺
﹂を 賜っ たと いう
︒ま た﹃ 欽定 日下 旧聞 考﹄ 巻五 十九
﹁城 市﹂ に︑ 竹林 寺︑ 景泰 中重 建︑ 易名 法林
︑在 筆管 衚衕
︑今 已廃 為菜 圃︑ 無寸 椽矣
︒有 明天 順中 翰林 学士 呂原 碑︑ 其塔 今無 可考
︒ と︑ 呂原 撰碑 の内 容に 言い 及し たう え︑ その 遺跡 は北 京の 筆管 衚衕 にあ り︑ 当時
︵清
・乾 隆三 十九 年︵ 一七 七 四︶ 奉勅 撰︶ それ がす でに 廃れ て菜 園と なり
︑寺 のも のと して は一 寸の 椽さ えも 残ら なく なり
︑し かも 明の ころ に樹 立さ れた 石碑 の碑 塔も 無く なっ たな どを 伝え てい る︒ なお
︑最 近の 学者 の考 証で は︑ 当時 の顕 忠坊 は現 在の 宣武 区下 斜街 にあ ると され るの であ る()
︒
35
四
③か ら⑥ まで が示 して いる 興宗 朝重 熙年 間に おけ る非 濁の 活動 に続 き︑
⑦で は︑ 興宗 が崩 じて
︵﹁ 鼎駕 上仙
﹂︶ 道宗 が王 位継 承後 のそ の事 蹟を 記述 して いる
︒﹃ 遼史
﹄巻 二十 一本 紀・ 道宗
︵一
︶に は︑
︵重 熙︶ 二十 四年 秋八 月己 丑︑ 興宗 崩︑ 即皇 帝位 於柩 前︒
︵略
︶辛 丑︑ 改元 清寧
︒︵ 略︶
︵九 月︶ 乙丑
︑賜 内
一三 九
外臣 僚爵 賞有 差︒ とあ る︒ それ によ ると
︑重 熙二 十四 年八 月に
︑興 宗皇 帝が 崩じ
︑道 宗は 直ぐ にそ の皇 位を 継ぎ
︑当 月に 清寧 の年 号と 改め た︒ そし て︑ 九月 に内 外の 臣僚 にそ れぞ れ違 った 爵賞 を賜 った
︒⑦ に記 述さ れて いる のは まさ にこ の事 を指 して いる ので ある
︒つ まり
︑﹁ 今上
﹂で ある 道宗 は︑
﹁先 朝﹂ であ る﹁ 興宗
﹂か ら優 渥な る待 遇を 受け た非 濁 に︑
﹁崇 禄大 夫﹂ と﹁ 検校 太保
﹂と の爵 賞を 恩賜 した
︒さ らに
︑翌 年そ れに 追加 して
﹁検 校太 傅︑ 太尉
﹂を 授け た︒ 太傅
・太 保は 三師
︑太 尉は 三府 に属 する 一品 官に あた り︑
﹁検 校﹂ はこ こで は恩 賜官 を意 味す るも ので あろ う︒ こう して 道宗 朝に なっ て非 濁は 最高 の名 誉を 恩賜 され た高 僧に なる わけ であ る︒
⑧は
︑非 濁の 撰述 した
﹃新 編随 願往 生集
﹄二 十巻 に関 して の記 事で ある
︒こ こで の﹁ 闕章
﹂と は﹁ 闕典
﹂と も 言い
︑こ れま でに 欠如 した り或 いは 散佚 した りし た仏 教典 籍と いう 意味 であ り︑
﹁睿 典﹂ とは 仏教 聖典
︑具 体的 に言 うと 二十 巻の
﹃往 生集
﹄を 指す もの であ る︒ それ は義 天﹃ 新編 諸宗 教蔵 総録
﹄巻 第二 と︑ 元・ 釈慶 吉祥 等編
﹃至 元法 宝勘 同総 録﹄ にそ れぞ れ著 録さ れて おり
︑遼 の仏 教界 で新 しく 生み 出さ れた 浄土 宗の 立派 な聖 典と して 道宗 から の嘉 賛を 得て しか も序 文ま でも 賜っ てい るの であ る︒ すで に拙 著で 指摘 した よう に︑ 石幢 記で は非 濁の 一生 にお ける 主な 事蹟 を時 間軸 の順 に展 開さ せて いる とい う性 質か ら考 える と︑
﹃新 編随 願往 生集
﹄は 清寧 六年 以前 に完 成し て︑ その 後す ぐに 契旦 大蔵 経に 収録 され たも のと 見ら れる
︒そ うで あれ ば︑ 本書 は塚 本氏 の指 摘し たよ うに
﹃要 略録
﹄か ら増 補し て形 成さ れた もの では なく
︑逆 に﹃ 要略 録﹄ はそ の一 部を 生か して 他の 資料 をも 採録 して
︑清 寧六 年以 後に 編纂 され たも ので なけ れば なら なく なる
︒
『新 編随 願往 生集
﹄に 関し ては
︑夙 に塚 本善 隆氏 の研 究で 広く 知ら れて いる よう に︑ 東大 寺宗 性上 人が それ を
一四
〇
利用 して その 一部 を抄 録し てい る︒ さら に偽 撰の 形で 日本 仏教 界に おい て広 く流 布し たの であ る︒ ただ し︑ 本書 その もの 及び それ と﹃ 要略 録﹄ との 関係 など につ いて は︑ 塚本 氏以 後︑ 新た な展 開は あま り見 られ ない まま で()
︑
36
今後 さら なる 研究 が期 待さ れる ので ある
︒ 遼の 皇帝 は季 節ご とに 狩猟 や避 暑な どの ため に好 適な 場所 へ行 く習 慣が あり
︑そ れは
﹁捺 鉢﹂ と呼 ばれ る︒ 季 節に よっ て異 なる 場所 へ行 幸す るの で︑
﹁四 季捺 鉢﹂ とも 呼ぶ
︒当 時︑ 南京 道に ある
﹁延 芳淀
﹂と
﹁華 林﹂
︑﹁ 天 柱﹂ は︑ 遼の 御苑 とし てよ く﹁ 捺鉢
﹂の 場所 とな って いた
︒﹃ 遼史
﹄巻 六十 八・ 表第 六﹁ 遊幸 表﹂ を見 ると
︑聖 宗時 代に は︑
﹁延 芳淀
﹂﹁ 華林
﹂﹁ 天柱
﹂は
︑春 捺鉢 の場 所と して しば しば 行幸 がな され てい た︒
﹁延 芳淀
﹂﹁ 華林
﹂
﹁天 柱﹂ につ いて は︑
﹃遼 史﹄ 地理 志四
・﹁ 南京 道﹂ にそ れぞ れの 記載 が見 られ る︒ 陰県
︒本 漢泉 山之 霍村 鎮︒ 遼毎 季春
︑弋 猟於 延芳 淀︒ 居民 成邑
︑就 城故
陰鎮
︑後 改為 県︒ 在京 東南 九十 里︒ 延芳 淀方 数百 里︑ 春時 鵝鶩 所聚
︑夏 秋多 菱芡
︒国 主春 猟︑ 衛士 皆衣 墨緑
︑各 持連 鎚︑ 鷹食
︑刺 鵝錐
︑列 水 次︑ 相去 五七 歩︒ 上風 撃鼓
︑驚 鵝稍 離水 面︒ 国主 親放 海東 青鶻 擒之
︒鵝 墜︑ 恐鶻 力不 勝︑ 在列 者以 佩錐 刺鵝
︑ 急取 其脳 飼鶻
︒得 頭鵝 者︐ 例賞 銀絹
︒国 主︑ 皇族
︑群 臣各 有分 地︒ 戸五 千︒ 順州
︑帰 化軍
︑中
︑刺 史︒ 秦上 谷︑ 漢范 陽︒ 北斉 帰徳 郡境
︒隋 開皇 中︑ 粟末 靺鞨 與高 麗戦 不勝
︑厥 稽部 長突 地稽 率八 部勝 兵数 千人
︑自 扶餘 城西 北挙 落内 附︑ 置順 州以 処之
︒唐 武徳 初改 燕州
︑会 昌中 改帰 順州
︑唐 末仍 為 順州
︒有 温渝 河︑ 白遂 河︒ 曹王 山︑ 曹操 嘗駐 軍于 此︒ 黍谷 山︑ 鄒衍 吹律 之地
︒南 有斉 長城
︒城 東北 有華 林︑ 天
一四 一