松 浦 家 文 書 の 戦 時 疎 開 に つ い て
話 し 手 松 浦 一 雄
聞 き 手 鈴 江 英 一
日時‑一九九八年五月八日
(金 )
午後二時より
(約一時間)場所・・・国文学研究資料館別館
会
議室話し手
・・・
松浦1姓氏(松浦武四郎よ‑五代目の子 孫 )
聞き手
・・
・鈴 江
英1(国文学研究資料鉛史料館教 授 )
同席‑舌
岡
栄美子(同情報閲覧室事務 官 )
[]()‑補足箇所
松浦家文番の戦時疎開について(松浦・鈴江)
史料館研究紀要第三〇号二九九九年)
︻目次︼1㌧戦時疎開間取の動機
二、関束大志災のとき
三、疎開の実行
四、疎開先での保存と再疎開
先.'戦後の移動'史料館への咋託
六、"マツウラ″か〝マツラ″か
一、戦時疎開聞取の動機
松浦武四郎翁 (松浦家文書 よ り)
鈴江「今わわおはざざ日 越いただてきましし 有り 難いうござま す。 私は史、 料 館に ま いまりし て 五 年にな
り ま す が、
ま つうら た けし ろう 以 前は 北海道 立文 書 館おたにまりし。 [ 北海 道に 居たにはとき ]
松浦武四郎翁は 幕末の 探 検 家、 北海 道の 名 付け 親と し て、
歴史 上 の 人 物て親いとしし 存 在でた史し。 料 館に来て 初めて 松浦武四 郎 文 書の 原 本見が出来たをることまし。 (‑ ) 史 料 館でお預かてい史るりし 料は、
約八百点の史 料が 二つのロ ッ カー の 中 に
納めれていすまら。
ま る せっ
今回、ぷ
松浦家文書の戟時 疎開のお聞ことをきようとし 計 画たのはし、 二 年ほど 前に
なまり すか、
丸 瀬 布町
(北海 道 ) あTtpは・ み のる か すお
の 秋 葉実んさ
( 松浦 武四 郎 研究家 )が来れてら' 松浦[1雄]1賭おんごてさとし 話たに、しとき 松浦 家 文 書の 峨 時 疎開 のこと が出 て、こ の 文 書を 今日ま で 伝そん努力があのか初めて知れたのがかけえることになたとさきっらっ'' で す。
一 度' 寄 託れたさ 松浦本人かお話お聞思ておたが、延延びんごままたをたいまびになさらとっきしとっりし' っ て いまし た。 今 年になていろいろごっ 連 絡て'し 松 浦んにさも 調 べていただき、
今
すが'最近、ほかにも史料の戦時疎開の話を聞くことがあります。日本郵船会社のこととか、史料管理学研修会のレ
ポITLに宮内庁書陵部史料の疎開をテ
ー
マにしたものもありまして、これは松浦家文書のことも早‑うかがって置かねばAJ思ったわけですO
そういうわけで'今日は戦時疎開のことを'お話いただくわけですが、その前にお話いただ‑松浦さんご自身のご
経歴からうかがいたいと思いますが'いかがでしょうか。」かんだごけんたけひこ松浦「はい。私は、昭和十年に東京の神田五軒町で生まれました。父が武彦'母がタミです。私は長男でした。十七きのうえの年に練成国民学校に入りまして'次の年'二年生の二学期の終わり頃に'栃木県の佐野に疎開し'植野国民学校に移
りました。昭和二十三年三月に小学校を卒業するまでそこにおりました。中学・高校・大学は東京です。当時、品川おおいきたはまがわわぐろ
区大井北浜川町に住んでいました。現在の目黒に移ったのは、昭和三十六年十月です。
大学は昭和三十五年に卒業しました。大学が英系で、味や香りに興味が有‑ましたので、最初に'英子材料問屋で
インスタントコーヒーを作る会社に入りました。ですけれども'そこは自由化で、工場の方が解散してしまったものそだですから辞めて、昭和三十七年に曽田香料という香料の会社に入りました。ほとんど研究部におりまして、新製品の
食品香料の配合割合を決める調合研究をやって'定年まで勤めました。ですからこういう歴史的な話は関心がなかっ
たというか、やっていた仕事とそうとうに維れているものですから[うまく話せないかも知れません]‑‑。」
鈴江「そうですか。そういうご経歴の中で'まあ、松浦家文書については、‑松浦武四郎翁の稿本とそれを木版に
した版本が中心と思いますけれどもIt私どもはどうも史料自体に日がいってしまって'松浦家ではどのようにし
て'武四郎翁の没後保存してきたかというあた‑のことは'ついつい見落としがちであったと反省もしておるのです
が、そのあたりのことからお話し下さいますでしょうか。
松浦家文書の耽時疎開について(松浦・鈴江)
史料館研究紀要第三〇号(一九九九年)二八
松浦武四郎翁のな‑なられた年代というのが'明治二十一年、一八八八年と思いますが'それからもう百年以上経
っているわけですね。」
松浦「百年ちょっとくらいになりますか。」
鈴江「そうですね。」
二、関東大震災のとき
松浦「たぷんこういった史料を散逸させないで、ちゃんと保管、保存といいますか'それをしなければいけないと思まごたったのはt武四郎から勘定して三代目に当たる孫太だろうと思うんですよ。」
鈴江「[孫太さんは]おじいさまに[当たる]‑。」
松浦「私の祖父に当たるわけですね。孫太というのは、"孫だ叶というので、武四郎が名付けて届出たんだそうです
よ。その祖父の孫太さんは、関東大震災に遭いまして[その経験から]trやはり史料の保存を相当きちんとやってお
かなければだめだ'ーそれも1個所じゃない方が良いだろう」と'祖母に言っていたそうです。祖母もそういうことが
頭にありまして'戦争が始まって疎開のことを考えたのだと思います0
いちじろう祖父の孫太さんは、大震災前はクロームメッキ工場をもっていました。震災後'メッキ事業を弟の一二郎さんに譲
り、自分はマ‑ケッIを作りますが、二年‑らいで辞めました。そこに三階建の家を建て乾物を主体にした食料品店
を始めました。孫太さんは'昭和九年に亡‑なっていますので、私はさきに申し上げましたように昭和十年の生まれ
なものですから、孫太さんを知らないのですが'関東大震災で武四郎の史料の保存を、相当強く考えていたであろう
と思うんですよ。それに自分で武四郎の字が読めるものですから、今の字に解読して原稿用紙に書いたものを残して
まして'それを出来るだけ出版して読んでいただこうという意図を持っていたと思うのです。
もりただし孫太さんが'武四郎の稿本を解読した原稿用紙が、ミカンの段ボール箱で三つあり、それが叔父の森正さんの家の
倉庫(蔵)に疎開してありました。昭和六十年頃、家の建て替えで蔵を撤去するときに出てきたので、送り返されて
きました。これは武四郎記念館で整理していただき、.現在まで二つの史料が出されています.孫太さんは、昭和四、
五年頃から亡‑なる迄、その作業を続けていたと聞いております。没後五十年の展示会も'はじめは孫太さんが企画(2)したのだと推測しています。出来るだけ、大勢の方々に武四郎のことを知っていただこうと考えていたようです。
太平洋戦争の前に、祖父がr武四郎の史料をちゃんと保管しないとだめだjと言っていたことを、松浦家では強く
意識しておりました。戦争になっての史料の疎開ということでは、松浦家としては武四郎のものは一切失わせないで、r全部なくさないようにしようOそれが命とイコールくらいの大切なものだJという気持ちがあったんですよ。」
鈴江「その定災の話ですけれど、震災の時に失われた史料があったのですか.」
なん松浦「武四郎の稿本だとかは失われていないんです。それは、私もはっきりわからないんですけれど、孫太さんが南さあぎぷ英文庫に見せたらしいんですね。南英文庫は紀州徳川家ですか、麻布のどこかにあった・・・・・・。大窪災に遭ったときは'
たまたま南葵文庫に置いてあったのだそうです。桧浦は、神田の五軒町におりまして、Iそのときはまだ違う町名わせだと思うんですけれど‑'蔵が焼け落ちたりなんかしました。荷物は、大八車に積んで'孫太の一番下の弟が早稲だすわ
田の諏訪に居るのでその家に運んだのだそうです。
その一番下の弟は、武四郎という同じ名前がついていましてね。その上、よく私なんかに、.‑私は"一雄〃なも
んですからね‑、r俺は、親父の名前を呼んでいるようで'おまえと話すのはいやなんだ」と言っていましたが‑
松浦家文苔の戦時疎開について(松浦・鈴江)二九
史料館研究紀要第三〇号二九九九年)
氏班甫i 三〇‑。」鈴江「あの
I
t松浦武四郎の跡を継いだ方が一雄さん。同じ名前でいらっしゃるのですね。」松浦「名前だけでなく、
字も同じなんです。〃武四郎〃の方は、四番目の孫が生
まれたときに一雄さんがつけたんだろうと思うんですけれど
も。その武四郎が新宿の早稲田の近‑の諏訪におりましたの
で、そこに行ったようです。あの‑らいはなれていると'地震の被害もそれほどでもなく、庭に出て
◇松浦孫太(明治十7年三月二日
〜
昭和九年四月十二日)◇
やゑ(〜大正七年八月三十日、旧姓金児)◇
あさ(明治二十年九月十三日〜 昭
和五十六年四月八日、大正十年十1月五口紙始、旧姓平野)◇
武彦(明治三十八年九月十三日〜
昭和二十五年七月二十日)◇
タミ(明治四十五年1月二十1日‑
平成七年二月二日'昭和八年五月二十日結納、旧姓正野)今生きている叔父'武彦の兄弟が四人いて、そのうちの1人の叔父と話したときに、r大詔災のときは、おれは頭
に瓦が落ちてきて怪孜をしてしまって、なにも出来なかったけれども、‑小学校四'五年の酌だったそうです‑
兄貴は一生懸命、荷物を出して持っていった」と言ってました。」
鈴江「そうすると、南英文雄に預けたおかげで、史料は助かったのですか。」
松浦「いや。大震災のときでも、武四郎の稿本なんかはもし[松浦に]あったとしたなら、いちばんの放優先で持山
して助けたんだろうと思います。こんどははかのものが失われていたと思いますけれど.尤も'荷恥で山していでも
ですね、途中で火が着いた‑したかもしれませんが。」
松浦家文番の戦時疎開について(松油・鈴江)
史料館研究紀要第三〇号(一九九九年) 鈴江「そうですか、その教訓が戦時疎開の時に良い影響を与えたんですね。」 三二
三 、 疎 開 の 実 行
松浦「たぶん'そうでしょうね。出来るだけ疎開したほうが良いと'孫太さんは亡くなっていますけれど、父だとか
あるいは祖母なんかは、東京で昭和十七年四月に空袋があり、強制疎開も始p{つたわけで、なんとしてでも、東京に
置いてお‑のは危ないだろうということを間違いな‑考えたと思うんですね。祖母は孫太のあれになるわけですけれ
ど。」
鈴江「奥様ですね」
松浦「そうです。あさといいます。ひらがなで〝あさ〃と書きます。ただ、孫太の子供達は武彦など四人いるんです
けれども、男の子ばか‑です。それは先妻の子供なんです。私ども祖母とよんでいるあさというのは'先妻のやゑさ
んが子供四人生んで亡‑なったものですから'その後妻に入ったひとです。後妻に入ったといっても大正十年に嫁に
来ているわけですから'震災にも松浦で遭っています。r震災はほんとうにひどいものだったJと言っていました。
しかし、保管を頼めるところがほかにないというので'母の方の祖父が、rそういうものは大事なもんなんだ、世
界に一つしか無いような大切なものなんだから、どんなことをしてでも守るJといって預かってくれることになりま
した。母は'タミといいますけれど、栃木県の佐野市、その当時は植野村といったかな'‑昭和十八年に佐野市に
なったのですが‑'そこの正野という家から孫太の子の武彦、私の父にですね、嫁に来ていました。母方のおじいし一うのきゆうへいさんが正野久平さんと申しますけれども、たぶん祖父の意向が相当強くあって、それで一番安全と思われる正野家の
蔵へ預かってあげると言って下さって'疎開したのだと思います。
武四郎の稿本の疎開は、たぶん昭和十七年の終わりか十八年の始めだと思うのです。私達は、正野家のことを本家
と言っていますけれども、本家の二階の表通りに面した部屋、八畳間が三つくらいありましたかねI'そこのどこ
かの部屋に積み上げていましてね、持っていったものは。史料の入れ物はほとんど全部茶箱でしたよ。茶箱になんて
言いますか'武四郎のものは全部、分かるようにしていました。結局、没後五十年のときに、五十年祭というのです
か'昭和十二年に上野松坂屋でやるとき、全部'番号やなんか付けたものですから、それをそのまま踏襲したのだと
思います。同じように書いて'パラフィン紙に包んでその上に、むかし小包なんかをこさえたときの'赤っぽい渋紙
に麻糸が入った紙で包んで、紐掛けしてそれからまた茶箱に入れて、それで全部'持って行ったのです。」
鈴江「茶箱の数はどのくらいなんでしょうね。いま史料館でお預かりしていますのは、ロッカーに入れていますが、
ロッカーに二つ分ありますね。」
松浦「ちょっと数は覚えていませんけれど'どの‑らいありましたかね、十和‑らいあ‑ましたかね。武四郎のもの
以外に、あとになってほんの少しですけれど祖母のものだとか、私ども子供達のおもちゃなんかもですね'茶箱に入
れたのでないかと思っています。生活用品などは箪笥に詰めて送っています。はじめ'佐野の正野の本家の二階へち
ょっとのあいだ置いて'その中から'整理し直して大事なものは、私の記憶では蔵の二階だと思うんです。戒の一番
安全な所に場所を作ってもらって[保存することにな‑ました︼。」
鈴江「そうですか。疎開する前には、五軒町とおっしゃいましたか。[史料は]その場所にあ‑ましたか。」
松浦「そうですね。」
鈴江「そうですか。疎開した先は、佐野‑。佐野さんのお宅は‑。」
松浦家文啓の戦時疎開について(松浦・鈴江)三三
史料館研究紀要第三〇号二九九九年)
松浦「佐野ですね。うちは、名前は正野といいます。正しい野原の野。」
鈴江「あ'正野さんO正野家はどういう場所なんでしょうかO農村の一軒家とか‑o」あそ松浦「佐野の'前の地名でいいますと'栃木県安蘇郡植野村というところで‑‑。」
鈴江「植野村‑。」 三四
正野家 (現 ・佐野市内) 松「植野村道一つ隔浦そのええ。'
てると、 そ の 当 時 は 安 蘇 郡 佐野町でいころとうと す町の。 行政 境 界 かほんら の 四 軒 か 離れたころでと、 村の1番町 側あに り まし て ね、
昔 の 街 道と た て ば やし い いま す か、
佐 野から ずっと
館 林に
行‑ 道に 画て'し 両 側に 自 分 の 家と か 家 作があた。隠ま‑し 居 所 がそ の 道 の 横の 奥に 有っ て、 道 の 前に 倉 庫があたま‑し。 私は隠ども 居 所を 借り て そ こ に 疎 開 をし て い た わ け で す ね。 正 野の 家いとう のは 抽と か 味 噌と
かを 製 造て、たまし 肥 料 も 商 売てとし やっ て おま‑し た。 その ほ か は 地 主で' 私ども も 1回、
農 家 の人 が お 米を 持てのるをっ‑ [見たまし ]あ。 のころ で す から 牛 車で すか'それに 積ん で 持っ てるく のを 見 て い た ん で す' 番 頭んがさ [ 差 配をていたましし ]もう。 戦 争中になていまたっし から、 そ んな に 昔みたいな 賑 や かはさ 無 い ん で す け れど、
な にし ろ 母 の 子
供
頭だとか'お店の人だとか[がいて、それを]入れたらご飯を食べる人が二十人くらい居たというから、相当大きい[家でした]‑‑。」
鈴江「はあ'それで、東京から佐野家までは'[史料を]どういう手段で運んだのでしょうか‑」/松浦「持って行ったのですか。たぷん汽車は使わなかったと思います。[手配したのは]たぶん'祖母か'正野の祖
父かどっちかだと思うんですよ。母が生きていればね、どういうふうに運んでどうしたかとl亨えるんだと思いますがo
私にはちょっと申し上げられません。すみませんけれども。」
鈴江「はあ、ただ汽車でないとおしゃったのはなにか‑。」
松浦「汽車だったらですね。まず'梱包しなければ送れなかったと思いますね。私が[正野の家に]行ったときは、[荷物が]先に着いたのか後に着いたのかはっきりしないのですけれど、着いてそんなに経たないで見たときは、茶
箱は厳重な梱包はされてはいなかったんですよ。ただ、豊が開かない程度に封がしてあ‑、横腹に第何号松浦武彦、あかさか片方の方に佐野市'あのころですと植野村、もう佐野市になっていたかな、佐野市赤坂正野久平段と昏いてあったの
です。たしかに正野久平段と書いたのを、私は小学校に入る前から見ていました。
そう書いてあ‑ますので、宛名書きが佐野市になっているのか'植野村になっているかですね。沓いてあるのを見
れば、だいたいいつ頃かということが分かります。佐野町から植野村も一緒になって佐野市に格上げになったのは、
昭和十八年の四月なんです。宛名古きである程度、いつ送ったかというのか、時期が分かると思うんです。それから(3)[差し出しが]千代田区と書いているか'神田区と番いているかですね。」
鈴江「そうですか。いずれに⊥ても戦争の‑‑。」
松浦「最中ですよ。」
松浦家文書の戦時疎開について(松浦・鈴江)
史料館研究紀要第三〇号(一九九九年)
鈴 江 「最 中 で す ね 。 そ れ も 末 期 に 近 い そ う い う 時 期 で す ね 。」
松 浦 「そ う だ と 思 い ま す 。 前 か ら 考 え て は い た ん で し ょ う が ' 整 理 が つ か な か っ た ん で す ね 。」
鈴 江 「松 浦 さ ん の お 考 え で す と ' 鉄 道 で な け れ ば 、 な に か 別 な 手 段 [が あ る ] と す れ ば 何 が 考 え ら れ ま す か 。」
松 浦 「ト ラ ッ ク だ と 思 う ん で す よ 。」
鈴 江 「ト ラ ッ ク [で す か ]。 」 ,
松 浦 「ほ か に ' ち ょ っ と な い と 思 う ん で す よ ね 。 ト ラ ッ ク を 頼 ん で 運 ん だ ん だ ろ う と 思 う ん で す よ 。 ま ず 武 四 郎 の 史
料 な ど [を 運 ん だ の ] tが 一 番 最 初 だ と 思 い ま す ね 。 私 ど も が 行 っ た の が 後 で す 。 行 っ て か ら で も ま だ 送 ら れ て き て い
ま し た 。 相 当 、 ,あ わ で て 送 っ た と み え て で す ね ' 必 要 な も の が す ご く 足 ‑ な く て 、 随 分 生 活 す る の に 困 っ た 記 憶 が あ
り ま す か ら 。 す ‑ な ‑ と も 武 四 郎 の も の だ け は 、 ま ず [送 る ] と い う こ と に な っ て い ま し た 0
私 が 疎 開 し た と き は 、 そ れ ら は い っ ぺ ん に お 蔵 に 全 部 い れ て い た わ け で は な く て で す ね ︻荷 物 を 座 敷 に 広 げ て あ っ
た ] 。 向 こ う も r武 四 郎 の も の だ け は 、 確 実 に 預 か っ て あ げ る よ 。 後 は 自 分 達 の も の は 、 手 で 持 っ て き て も い い し 、
送 っ て も い い J と 言 っ て ま し た 。 武 四 郎 の も の は と て も 手 で 持 っ て こ れ る よ う な 量 で は あ り ま せ ん 。 [そ れ で ] 私 は '
小 ラ ッ ク を 頼 ん だ の だ と 思 い ま す ね . ど う し て そ う い う こ と を 言 う か と い う と ' 祖 母 の お 茶 の 道 具 だ と か お 花 の 道 具
だ と か を ' な ん と か も う 一 回 運 ぶ の で ' ト ラ ッ ク を 頼 め た ん で す よ . ・そ れ を 全 部 ト ラ ッ ク に 積 め る よ う な か た ち に し
た の で す が ' [昭 和 ] 二 十 年 の 三 月 九 日 と い い ま す か 十 日 と い い ま す か ' あ の 大 空 襲 で 焼 け て し ま っ た わ け で す ね 。」
鈴 江 「あ あ そ う で す か 。 そ れ は も う 運 び 出 せ な か っ た の で す ね 。」
松 浦 「焼 け た と き は ' 出 せ な か っ た の で す 。 祖 母 は 一 人 で 神 田 五 軒 町 の 家 に お り ま し て で す ね ' も う 、 震 災 の と き の
こ と が 頭 に あ ‑ ま し た の で ね 。 パ リ パ リ と い う 音 で 焼 夷 弾 が 降 っ て き た ん だ そ う で す よ ' ・雨 み た い に 。 そ れ で も う こ
れはだめだと思って、一目散に上野の山に逃げたと[言うのです]。」
鈴江「そうですか。そうすると、史料自体も非常に危ういことだったわけですね。」
松浦「まあ'[大空襲までは]短くみても1年くらいのスパンはあったと思うんですね'時間的には.[相当時間]差
はあったと思うんですよ。[当時、]父は東京に居ました。あのころ戦争中ですから、資材を統制する統制会という時代がありまして、産業
機械統制会とかいうのがありました。整岩槻だとかそういう機械の会社を全部まとめて統制していまして、父の仕邸
は'戦争後すこしまでそこの仕事で、東京におって[していました]o祖母も東京にお‑ました。私は'母と一緒に[昭和]十九年の二月に'正野の本家、‑母の実家なんですけれど'私なんかは正野の本家'本家と言っているん
ですけれど‑、そこの隠居所に疎開しました。子供達と私の母とが疎開したわけです。」
鈴江「そのときは、一雄さんはお幾つでいらしやいますか‑。」
松浦「小学校の二年生ですね。二年生の三学期でした。」
四、疎開先での保存と再疎開
鈴江「しかし、その、良い疎開先があったということになりますね。」
松浦「母の'おじいさんがね、私の祖父にあたりますが、非常にそういうことに対して理解があったのです。これは
非常に大事なものなんだ、ということでお萩に[入れて‑れた]。
ふじさわし.4うのJr祖父には'虫干しをしなくてはいけないと'私は言われたですね。藤沢樟脳などを貿ってやりました。もう戦争末
松浦家文書の戦時疎開について(松浦・鈴江)三七
史料飽研究紀要第三〇号(一九九九年)三八
期で'ちゃんとしたものなんか手に入る状況ではなくなりつつあったのですけれども‑‑。たぶん、正野さんのおじ
いさんが手配して用意して‑れたんだろうと'私は推察しているんです。そうじゃないと'手に入るような状況では
なくなってましたからね。[祖父は︺食べることよりもそういったことを大事にするという考え方の人でした。私も
虫干しを'十月の‑‑」
鈴江「それは'佐野で‑」
松浦「佐野ですけれど。そう言われて'母と二人だけでしました。[祖父は]下の妹達なんかは'おまえたちは松浦
だけれどもいいんだと'一人ちゃんと手伝えばいいんだと言って'お蔵から出してきてくれましてね。十畳くらいの
客間でお軸やなんかを掛けたり[した]ですね。本を一箱持ってきて、一梱包ずつほどいて広げて、もしシミですか'
虫がいたら必ず殺すようにと[言われました]。す‑なくとも三時間、十時頃から二時くらいだと思いますけれどね。
そのぐらいの時間ですね'その間'虫がつかないように'来ないように気を付けろだとか言われましたね。いろんな
ことを言われましたよ。」
鈴江「それは'何日か〜。一日ですか‑。」
松浦「一日かなんかでは'とても出来なくて'何日かやったのでしょうけれども'私は学校の休みの日だけだったん
で'そんなにしなかったですけれども。母なんか三日'四日やっていたと思うんですよ。」
鈴江「疎開先で'そんなことがされていたわけなんですね。」
松浦「秋が多かったのですけれどね。十月の半ば頃ですね。夏に一回なんだったかわかりませんけれど、やったこと
があります。それは夏休み真っ最中で、なんでやったかというと、覚えていないんですけれどね。それ以外は秋です
けれど、非常に気候のいいときに[行った。]それで、絶対、陽に当てないようにと。で'[史料は︼お蔵ですから'
「正野家配置図」松浦家文官 は、道具蔵 に保存されてい (日本 住宅 整備 公 団 rまちとすまい1第40号、1 た。
992年9月刊 より転載) 小上の方窓があてほにさなとんっ
ど 真暗で当っ、 時は 懐 中 屯 灯 の 紀 花 池など 手入にまり せでかそれでんたしらへ 背 腰い中かそおらっと 持ち山てし
きて、‑箱をあけて、今日は、箱に書いてあるとおり
何
史料館研究紀要第三〇号(一九九九年)四〇
かを見て'そのあと広げるものは広げないとだめだろうといわれましたけれど、私は本を広げた記憶はないのですよ。
夏、やったときというのは'‑そのころ手袋なんか貴重品で布のものははあ‑ませんでしたから
‑
'手が汗をかいたらさわるなといわれましたけれどね。今だったら'テッシユにアルコールかなんかにつけてすっすっ拭きながら
出来るんですけれど、あのころはそんなのも無‑てずいぶん苦労して'広げたりなんかした記憶があるんですよ。な
にしろ大事なものだということは、松浦[で]というより、おじいさんに言われてですけれど。それが私自身には[印象が]強‑残っています。
で'戦後'だいぶ経っ、てから母から聞いたのですけれども'そこも、
‑
栃木県の佐野も‑中島飛行機の、い
ろんな中島関係の工場なんか出来ましてですね。それで、二十年春頃から爆撃にさらされる可能性が高くなってきておおた[おりました。]群馬県の太田とかは中島飛行機の本拠地で'新型の飛行機が出来るらしいというのがなんとなく入っわたらせてくると、それから三日くらいたって'ポカつとやられるんです。それから近いところに渡良瀬川が通っていますが、
その川の近くに照明弾が落ちましてね。昼みたいに明るくなるんですよね。燈火管制していますし'真っ暗な'そこ
へ爆弾が落っこちて来たんです。時限爆弾があっちこっちに落ちましてね。学校へ行‑のもすごく大変にな‑つつあ
ったんです。艦載機も来ていますしね。そういう爆撃のための飛行機も入ってきているというので'これはどうしよたぬまうもなくて、もう少し山の方ですね'佐野から見て北になりますかね、田沼町(安蘇都)というところがあ‑まして、とち・'Pとそこの栃本というところにですね'もう一皮、持っていった。武四郎の本だけと聞いていますけれどね。牛革に引か
せて[運んだようです。]たぶん牛車で一台か二台でしょう。それは夏になってといいますから、七月の終わり頃で
はなかったかと思いますけれどね。そこまで‑‑。」
鈴江「それは'何年ですか。」
松 浦 「 届 和 ]二 十 年 で す 。 四 年 生 の と きで す 。」
鈴 江 「 二 十 年に な っ て か らで す か 。」
松 浦 「二 十 年 の 五 月 頃 か ら 太田の 方に ' 敵 の 艦 載 機 も 来 ま す し ね ' 佐 野 の 方 も 危 な い 。 じ ゃ 再 度 持 っ て い こ う と [な
っ た よ う で す ] 。 私 は ' [二 十 年は ] 夏 休み は 十日 間 し か ' 八 月 の 十 1 日 か ら 八 月 の 二 十日 ま で し か な か っ た の で す よ 。
十 五 日の 日 は 出 て こい と 言 わ れ て 、 結 局 、 実 質 1 週 間 あ っ た か な か っ た か の 記 憶 な ん で す け れ ど ね o [私 は ' ほ か へ ] そ ん な の を 運 ん だ な ん て 全 然 知 ら な か っ たで す 。 戦 後 、 母 が ひょ い と 言 っ た の で す 。 栃 本 と い う
の は ' 母 の 1 番 上 の 姉 の 旦 那 さ ん が ' 正 野 の ' ‑ 本 家 と か 新 宅 な ど と 言 っ て ま し た け れ ど ‑ ' そ の 新 宅 を 作 り ま
して で す ね 、 そ の 旦 那 さ ん が そ の 田 沼 町 の 栃 本 か ら ' 桁 で 来てい る の で す 。 たぷ ん そ っ ち の 関 係 の 、 松 本 さ ん と お っ
し ゃ るの で す け れ ど ね 。 お じ い さ ん 、 正 好 久 平 さ ん が 、 な ん と か 話 を 全 部 つ けて 、 持 っ て 行 っ て く れ た の だろ う と 思
い ま す よ 。 栃 本 な ら 、 牛 車 で 運 ん で 佐 野 まで そ の 日の う ち に 帰 っ て 来 れ る 距 離 だ と 思 い ま す 。 も う そ の 頃に は 、 頼 め
る 男 の 人 もほ と ん ど い ま せ ん で し ょ う 。
そ れで ' 終 戦に な っ て ' も う 大 丈 夫 だ と い う の で ' ま た 、 持 っ て [帰 っ て ]' 正 野 の お 銭に 戻 し た と い う・ ・・・ ・・。 [そ
の 間 ] 二 か 月 位 で しょ うか 。」
鈴 江 「そ う で す か . お じ い き ま が 、 松 浦 武 四 郎 の 記 録 が 大 事 だ と い う ふ うに お っ し ゃ っ て い る の は ' 松 浦 翁 の 即 納 を
理 解 [して ]、 ご 存 知 で あ っ て 大 部 だ と い う [こ と を 言 っ て お ら れ たの で す か ]? 。」
松 浦 「そ う い う こ と で す ね 。 北 海 道 の ' た だ 名 前 を 付 け た だ けで は な い ん だ よ 、 と 言 う よ う な こ とで す ね 。」
鈴 江 「そ う で す か 。」
ほんごう
松 浦 「そ の 前 に ' たぶ ん 孫 太 さ ん と い ろ ん な 話 を さ れて い るの で しょ う 。 そ の こ ろ 松 浦 [家 ] は キ リス ー 故 で 、
本郷松浦家文古の職時疎開について(松浦・給江)四]
史料館研究紀要第三〇号(1九九九年)四二
ゆふち▲う
の弓町教会というところの信者でして'孫太さんは教会の役員をやっていたのです。佐野の教会の牧師さんの紹介で
母がお嫁に来たのです。[於浦と]母と結び付けたのはそういう関係です。正野久平さんという方も孫太と会ってで
すね'武四郎のことも知ったんだろうと、私は思います。[戦時中は]孫太さんも亡‑なっておりますし、[正野久平
さんは]お前に言わな‑ちゃいけないのは、自分だけと思ったんでしょうね。男[に]は言わなきやしょうがない'
というかたちで'rお前は全部聞いてきちんとやっておけ」というわけですね。すご‑言われたんですよ。」
鈴江「そういう背景もあるんですね。」
五 ㌧ 戦 後 の 移 動 、 史 料 館 へ の 寄 託
松浦「再疎開をやったというのは、多分佐野の本家のおじいさんが手配してやったのだと思います。私ども[昭和]おおいNちたちあいがわ二十三年に、また東京へ戻って来たのです。大井町の立会川というところですね。その当時の番地でいいますと北浜
川町千四十二番地だったかな。そこに家作が二軒残川ましてね。爆弾がすぐそばに落ちて'家は爆風で曲がっていた
のですけれど'なんとか1軒の方は人が住んでなYて'浮浪者に近いような人が居て'それをどかしてなんとか根太
を直して住んだのですね。
そこは仮にというつもりで入ったわけですけれど'仮というわけには行かな‑なって・・・‑Oというのは:父が結核
になって寝込んだものですから.それで亡‑なる直前溝で'そこで寝ていたという状況です。結局、どこかへ移ると
いうことが出来な‑なった。まあ、そのときは焼けた神田の土地は更地になっていましたので、そこへ戻るという気
持ちはあったことはあったのですけれど'そんなこともいっていられなくなってしまいました。
父が亡‑なったのは、昭和二十五年の七月二十日ですので、東京へ史料を疎開先から戻すことには、タッチしてい
ないのです。」
鈴江「そうすると、正野家から立会川のお宅ですか、そこへ持ってきたのですか。J
松浦「持ってきていたのです。ほんの少しの間ですけれどね。全てではなかったと思いますが'大体は持ってきまし
た。もう'こんな重いものを置いてお‑とまた二階が下がっちゃうよとか、言っておりましてね。たしかに、下がっ
てしまったのですね。それで'なんとかしなくちゃいけないと言うんで'祖母がものすごくバタバタ預かっていただ
ける所を探してやっていたのを覚えています。父が亡くなってからですけれどね。亡くなる前は、そんなことをやっ
ている余裕がなくて。
武四郎関係のものもほんの少しは持ってきたでしょうけれど。それは串の関係ですよ。当時は串を簡単に頼める状
況でな‑、また茶箱などを積めば、米を隠しているのではないかと臨検に会った。トラックにどれだけ税めるかって
いうことで、どれを持って来たか記憶にないですけれどね。」
鈴江「お父様が亡‑なられたときは、1雄さんはお幾つですか‑」
松浦「えーと'1五歳ですかo中学三年です。昭和二十五年ですから'十五歳ですね。」
鈴江「そうしますと、史料館に寄託をいただいたのは、えIと'正確なところをたどりますと、1九五四年度に寄託
と史料館の記録になっておりますから、昭和二十九年度ですね。」
松浦「二十九年ですね。」
鈴江「二十九年にな‑ますね。なにか'その辺のいきさつで[お話を]。」
松浦「二十七年頃からですね'これじゃ何とかしなくてはtということがたしかにあったんですけれど、わたしども
松浦家文啓の戦時疎開について(松浦・鈴江)
史料館研究紀要第三〇号(一九九九年)
の考え方からして、自分たちが食べられなくつても史料を売るっていう感覚は持っていなかったですね。二十九年は'
私は高校の三年生‑らいになっていますかね。ただ'[史料館の人に]もうちょっと前‑らいにお会いしているよう
な記憶があるのです。[私が]中学校じゃないことは間違いないですがね。それから'あと一、二年‑‑'一年半‑
らいは'父が死んで後片づけとかなんか、いろいろがたがたして祖母も困っていましたしね。はっきり申し上げても
う苦しんでました。祖母がだいたい外の仕事をして母が家の中の仕事っていうかたちでやって、ま、なんとか生き延
びてきたという状況だったわけです。」
鈴江「史料館が設立されてまもなくのことですね'寄託をいただいたのは。」
松浦「そうです。」えんとうたけし鈴江「たぶん遠藤武研究員が、なにか窓口になったというような話が伝わっておりますけれど!。」
松浦「私も遠藤先生にお会いして、それでもうお一人お会いしているような記憶があるのです。祖母が日記みたいに'
ぺろぺろの紙に今日誰に会ったとか'あれだけは欠かさず書いていました。祖母は、お茶だとか、お花だとか'そう
いったのをやっていまして、それを立会川の狭い中でもやっていたわけです。[それで苦しいなかでも]精神的なバ
ランスがとれたんだろうと思うんですけれどね。[日記みたいなものに]お茶だとか、お花だとかがあったとか'ほ
んとに一行‑らい書いていた。[史料館とのことももし書いて]いればですね'二十七年から三十年頃までの間を見
れば、何々先生にお会いしたということが、当然一行ぐらい[ずつ]'自分の心覚え程度の[もの]ですが、[書いて
あるはずです。いまの]目黒へ来るときには、持ってきているのですけれど'祖母が亡‑なるまでの間に'[それを]
一回整理してしまったのかどうか。ちょっと'はっきり覚えていないのですけれど。
で'[もう一人の]先生のお名前は分からないのです。遠藤先生だけは何回か、お見えいただいている。もうお一
方 は 、 お 会 い し て い る 記 憶 は 私 は あ る の で す け れ ど ' ど な た か は っ き り 覚 え て い な ‑ て 。 申 し 訳 な い の で す け れ ど 。」
鈴 江 「ま ' 史 料 館 を 信 頼 下 さ っ て ' お 預 け い た だ い た の だ ろ う と 思 い ま す け れ ど も 。 そ う で し た か 。」
松 浦 「 [史 料 館 で は ] r非 常 に 大 切 な 史 料 だ か ら 、 お 預 け い た だ け れ ば き ち ん と [管 理 し ま す ]L と 。 そ の ま ま に し て
お い た ら 虫 が 喰 う の が 分 か っ て い ま し た か ら 。 虫 干 し な ん て 口 で い う の は 簡 単 で す け れ ど ' も の す ご く 骨 の 折 れ る 仕
事 で す 。 ど ん ど ん 生 活 が 苦 し く な っ て い く ' さ び し い な か で や っ て い か ね ば な り ま せ ん の で ' と て も じ ゃ な い け れ ど [管 理 出 来 な い ]。 そ れ で [史 料 館 か ら は ] あ の 時 た し か 三 つ く ら い の 選 択 肢 を お っ し ゃ っ て い た だ い た の で な い か と
思 い ま す 。 そ れ で 、 「も し ' ほ ん と う に 失 礼 で す が 」 と ' た し か あ れ は 遠 藤 先 生 が お っ し ゃ っ た と 思 う ん で す け れ ど 、 r買 い 上 げ る こ と も 可 能 で す よ 」 と お っ し ゃ っ て い た だ い た こ と は 間 違 い な い で す よ 。 け れ ど 祖 母 が で す ね 、 r私 達 の
心 情 と し て お 買 い 上 げ い た だ ‑ の で は な ‑ て 、 お 預 か ‑ い た だ け な い で し ょ う か J と [言 っ た 。] r預 か ‑ で 結 構 だ 」
と [な っ た 。] そ の な か で ' 無 条 件 に 預 か る か と か 、 条 件 付 き の 潤 ‑ と か 、 ま た 選 択 肢 を お 話 い た だ い た 。 祖 母 と 母
と 、 私 も 話 し 合 っ た と い う 記 憶 も あ り ま す け れ ど 、 ま あ 最 終 的 に 、 ご 覧 い た だ ‑ 方 が ' ど う い う 方 で ど う い う こ と で
ご 研 究 に な っ て い る か ' ま る つ き ‑ 無 関 心 と い う の も お か し い L と い う の で 、 ご 覧 い た だ ‑ と き に 、 [あ ら か じ め ]
ご 連 絡 い た だ く と い う [条 件 に し た 。 史 料 館 で は ] 「そ れ は 結 構 で す 」 と い う お 話 だ っ た も の で し た か ら ね 。 [私 達 か
ら ] rそ う い う こ と を お 願 い で き ま す で し ょ う か J と い う よ う な お 話 を し た の を 覚 え て い ま す 。 そ れ か ら ず っ と 預 か
っ て い た だ い て い る わ け で す 。
た だ 、 そ の と き に 整 理 が つ か な い の で ' [史 料 館 が ] 「私 ど も で 、 整 理 し て あ げ ま す よ し と い う お 話 で し た 。」
鈴 江 「そ う な ん で す か 。 じ ゃ 寄 託 な き っ た と き に 寄 託 契 約 と い う の を 結 び ま す が 、 そ の と き の お 名 前 は 当 初 か ら 一 雄
さ ん で い ら し や つ た の で す か 。」
松浦家文書の戦時疎開について(松浦・鈴江)
史料館研究紀要第三〇号二九九九年)
松浦「そうです。私も一緒にこちらへ[来ました。]そのときは'現在のこの建物はな‑て随分まわりに古い[建物
があって]'これが三井家の文庫なんですよという'そういうところでたしかお話があった。ですけれどrきちんと
管理出来ますから、それはご安心下さい」ということだったのです。私どもも、物資はそのころは相当出回るように
聞取 り風景 樟脳粋ていれ例ばの純のなてたけど、えなをっきましも
、 [昭 和 ] 二 十 五 年いでは、ま‑ら 手にいれる のは 相当に 骨だたっし、 樟 脳 を 一 つ 一 つで すね、セロ ハでン 包んでいのるをーちとっょ 切てっ そ れ に 桜 紙いいまと すか、
京 紙いのでとう すかかもし日〜、 清 紡 の 漉 い た の が 一 番いいいでそんなのこをとうと1、 探 すいと う のは で す ね [難かたしっ。 ]昭にと‑ 和一九年か二十三ら 年‑ ら いま では、
普 通 の 者は 手に 入ま‑ せ ん でし た。
た ぶ ん 正野久 平 さ ん が、
いろ いろと 配 慮てし いた だ い て い た の ではな い かと 私 は 思う ので すけ れど ね。
」 鈴 江
「その 寄 託たは、だおなさときまっ 若かたのでっ
は な い の で しょ う か、
一九 五四 年'昭 和二十九 年ですおともう。 幾つになら れま し た‑。
」 松浦
「あ私ですかっ。' 十九になていまっ すけれど、 [
昭 和]二 十 九 年だまと だ 高 校です高。 校の三 年いだたかと‑らっ‑‑。 大 学に [行ていたかっ ]いずれてそのにしも‑ら‑‑、
い
す。そうだったですか、自分の記憶では、[昭和]二十七年か八年の記憶であったのですけれど。」
鈴江「ああそうでしたか。そうすると、閲覧利用される方が事前に松浦さんのところに'ご了解を得るというこのこ
とは、それでは当初から‑‑‑。」
松浦「当初からですよ。寄託の条件を'こういうこともいいですよ'ああいうことでもいいですよ、といろいろとご
教示がありましたので'それで祖母はですね、I祖母は1番長く関係があ‑ましたから、一番骨折ったので'愛着
があったんだろうと思うんですけれど‑、一応どういう方が研究をされているか知りたいと[なって'あのような
寄託の条件となった]。
上I)やJNけんとう[どんな方がどんな研究を、ということでは、]私個人として記憶に残っているのは'横山健堂先生がですね、昭
和十三年、
‑
私の記憶は昭和十三年ころまでしか戻れないのです‑たしかそのころから昭和十五年‑らいまでよ<わやJHどうじ●んかい‑[私どもの家へ]お見えになっていまして'十六年頃もお見えになっていました。[横山先生は]青山の同潤会のアパートにお住みになってですね。私は祖母と一緒に[お宅へ]昭和十五年頃に行った記憶があるのですよ。一回だ(4)けですがね。
そういうことで、お見えになっていたのは、その当時'‑昭和十年代の中頃では‑、横山先生‑らいしか、私
どもの自宅にはですね'いらっしゃらなかったと思うんです。くしろなかのごいちあとは'彫刻でいま釧路の公民館に建っていますが、あれは中野五一さんっていう方の作品ですけれどね。それも
やっぱり昭和十五年か六年の始めくらいかな。祖母と二人で中野さんのアトリエかなにかに'見に行った記憶がござ
います。それは中野さんっていう方は'松浦に買い取って貰いたいということがあってではないかと思います。ただ'
祖母がrとても松浦で買えるようなものじゃないと分かっていただ‑のには、大変だった」と言っていました。」
松浦家文雷の戦時疎開について(松柏・鈴江)四七
史料館研究紀要第三〇号(1九九九年)
鈴 江 「じ ゃ あ 史 料 館 が お 預 か り し て か ら 、 四 十 年 で す ね 。」
松 浦 「有 り 難 う ご ざ い ま す ' 本 当 に 。」
六 、 〟 マ ツ ウ ラ
″か 〟 マ ツ ラ
″か
鈴 江 「史 料 館 に と っ て も ' こ う い う 貴 重 な 史 料 を お 預 か り し て い る と い う こ と は 、 史 料 館 が 史 料 保 存 に 対 す る 一 定 の
役 割 を 果 た し て い る こ と に な り ま す 。 お 話 を 伺 っ て や は り 保 存 さ れ る 背 景 と い う も の が あ っ た ん だ な あ と い う こ と を 、
改 め て 伺 う こ と が 出 来 て 大 変 幸 せ で し た 。
あ の 、 最 近 ' 没 後 百 年 の 記 念 の シ ン ポ ジ ウ ム か な に か の 記 録 が 出 て い て ' そ の 中 で 、
"マ ツ ウ ラ
〟と 読 む の か 、
"マ
(
5 ) ツ ラ
〟と 読 む の か と い う こ と を .. 報 告 な き っ た 方 が お ら れ ま す け れ ど も 、 松 浦 家 で は 、 や は ‑
"マ ツ ウ ラ
〃で す か
〜o」松 浦 「え え 、
"マ ツ ウ ラ
〃で す よ ね 。
"マ ツ ラ
〃と よ ん で は い な い と 思 い ま す 。
〝マ ツ ラ
〃と 誰 も 言 っ て い ま せ ん し '
お
お ヤ ま し ん
ごま あ 、 あ の 方 な ん と い っ て ま し た か 。
大山晋吾さん と お っ し ゃ い ま し た か な 。」
鈴 江 「皇 学 館 大 挙 の 方 で す よ ね 。」
松 浦 、「 皇 学 館 大 挙 で す ね 。 だ い ぶ お 若 い と き か ら ず っ と 研 究 さ れ て い る よ う な ‑ ‑ 。」
鈴 江 「あ の か た が 、 卒 業 論 文 を 書 ‑ と き に 私 は お 会 い し た 記 憶 が ご ざ い ま す 。」
松 浦 「あ あ そ う で す か 。 私 も ' 北 海 道 で も っ て 一 回 お 会 い し て い ま す L t 私 の 自 宅 で も お 会 い し て る ん で ' 三 ' 四 回
く ら い お 会 い し て い る か も し れ ま せ ん 。 非 常 に ま じ め な ‑ ‑ 。」
鈴江
「え え 、 そ う で す ね 。」
松浦「非常にその細かいことまで、調べるんで、それがまあ研究なんでしょうが、私どもそれが分からなくてね。
そういうお問い合わせがいっぱいあったんですが、いまは大変申し訳ないけれど史料関係ですとこちらで、それから
もっとそれ以外の場合ですと、伊勢の武四郎記念館の方へ聞いて下さいとお願いしているのです。」
鈴江「今日は大変貴重なお話を伺いました。有り難うございました。」
松浦「とんでもない、有り維うございました。」[完]
註(‑)松浦武四郎(一八一八年‑一八八八年)は、伊勢国(≡
重県)一志郡銅川村(現'三雲町)に生まれる。若くし
て諸国の名跡'山岳をめぐっていたが'一八四五年より
蝦炎地(北海道)へ渡り包内を探検tr蝦i火日誌︼(初航
〜三航)、r竹四郎廻浦日誌Lr東西蝦夷山川地理取調日誌」
など多くの紀行、調査串を著す。明治維新後、政府の求
めにより蝦炎地に道名・国名を選定する際の意見番を上
申し、これにより「北海道」との命名がされた。ついで
開拓使判官となったが退官し、余生を全国遊歴と著述で
過ごし'七十1歳で没した。史料蝕には松浦武四郎の端
本、木版本八百七点が寄託されている。史料蝕ではこれ
松浦家文雷の戦時疎開について(松浦・鈴江) を「松浦家文む」として公開しているが、閲覧に当たっ
ては、串前に寄託者である松浦家の了承が必要である(r史料館収税史料総監」)0(2)没後五十年の展示会は'一九三九年(昭和十二)に、東
京松坂屋で開催された。松紺武凹郎記念餌は、]九九四
年七月、生地の三並県三宅町に開付した。また'松浦孫
太氏の解説本による出版は'佐藤山犬舶r竹凹郎H誌
按西屈従︼1
‑
三(1九九六年刊)、r竹凹郎日誌按北屈従J二九九七年刊)、いずれも松浦武川郎記念郎発行。(3)茶箱の拍むは次の通り。「栃木県佐野町赤坂正野久平梯火京都神山区五軒町
三八松浦武彦」
四九
史料館研究紀要第三〇号(一九九九年)
なお'現在'史料館で保管している茶箱は'六箱である。(4)横山健堂氏は、r松浦武四郎」(北海出版社、1九四四年
刊)の著者。 五〇
(5)シンポジウムの記録はtrシンポジウム松浦武四郎
‑ 北
への視覚IL(北海道出版企画センター'一九九
〇
年刊)0
補記
1、松浦家文番の戦時疎開については、秋幸美翻刻・編r松浦武四郎選集」第二巻「蝦夷山海図会」(北海道出版企画センター'一
九九七年十二月刊)の「はじめに」ニ
ー
三頁で若干触れられている。二'本稿は、次の日程で作成したもので
あ
る。なお'本箱とは別に、五月八日の録音テープと素稿及び編集経過資料は、史料館で別途保存している。
H一九九八年五月八日、聞取りを実施。
口
五月二十九日、素稿を完成、鈴江から枚浦1雄氏へ送付。白六月八日、史料館にて松浦氏と鈴江が点検、補足の聞き取りを行う。
榊六月二十九日、松浦氏提供史料と聞取りの補足を加え、第二稿を完成'再び松浦氏へ送付.
㈲七月七日'松浦氏より修正原稲を受領。同日'松浦氏が来館され若干の補足を聴取する。
閃七月九日、第三稿を完成。松浦氏へ再送付。
肘八月二十五日、松浦氏よ‑、正野家写真とも第三稿が返送、受領。完稲。
㈹八月三十1日'日本住宅都市整備公団広報課より、「正野家配置図」転載の許可をいただ‑0