幕 末 日本 とフ ランス第二 帝政 の政治 状況 1
〈論 説 〉
幕 末 日本 とフ ランス第 二帝=政の政 治 状 況
高 村 忠 成
1.は じ め に
2.第 二 帝 政 と徳 川 幕 府 3.日 仏 修 好 通 商 条 約 4.1862年 の 遣 欧 使 節
5,徳 川 昭 武 とパ リ 万 国 博 覧 会 6.結 語 一 幕 府 の 崩 壊 と帝 政 の 瓦 解
1.は じ め に
フ ラ ン ス の 第 二 帝 政(LeSecondEmpzre)期 は 、 日 本 で い う と徳 川 幕 府 の 末 期 に あ た っ て い る。 い な も う少 し正 確 に い う と、 徳 川 政 権 の 末 期 、 日 本 が 諸 外 国 か ら 開 国 を 迫 ら れ て 、 そ の 対 応 を め ぐ る 中 で 徳 川 幕 府 が 倒 れ 、 明 治 新 政 権 を 迎 え る 頃 が 、 フ ラ ン ス の ほ ぼ 第 二 帝 政 期 な の で あ る。 ル イ ・ナ ポ レ オ ン ・ボ ナ パ ル ト(LoinsNapoleonBonaparte)が 、 ク ー ・デ タ を 起 こ した1851年12 月 は 、 日本 で い う と嘉 永4年 に あ た る。 こ の 年 の1月 、 ア メ リ カ 船 が 中 浜 万 次 郎 ら を琉 球 に 送 還 し、 翌 嘉 永5(1852)年6月 に は 、 ロ シ ア 船 が 下 田 へ 日本 人 の 漂 流 民 を届 け に き た 。 同 年12月2日 、 フ ラ ン ス で は 、 ル イ ・ナ ポ レ オ ン ・ボ ナ パ ル トが 帝 政 を 宣 言 し、 皇 帝 ナ ポ レ オ ン 皿 世(NapoleonIII)と 名 乗 っ て 第 二 帝 政 が 開 幕 した 。
翌1853年 、 日本 の 元 号 で は 嘉 永6年 に あ た る が 、 そ の 年 の6月 、 ア メ リ カ の 東 イ ン ド艦 隊 司 令 長 官 ペ リ ー(Perry)が 、軍 艦4隻 を 率 い て 浦 賀 に 来 航 し 、 ア メ リカ 大 統 領 フ ィ ル モ ア(Fillmore、1800‑74)の 親 書 を 幕 府 に 持 参 した 。 し か
も、7月 に は 、 ロ シ ア の 極 東 艦 隊 司 令 長 官 プ チ ャ ー チ ン(EvfimiiVasilievich
Z 幕末 日本 とフラ ンス第二 帝政 の政治 状況
Putyatin、X503‑83)が 、 同 じ く軍 艦4隻 で 長 崎 に来 航 し、千 島 ・ 樺 太 の 国 境 確 定 と開 国 通 商 を 求 め て きた の で あ る。
この よ うに 、 フ ラ ン ス で ナ ポ レオ ンm世 に よ る第 二 帝 政 が 開 幕 した 頃 、 日本 で は、 徳 川 幕 府 が そ れ まで の 鎖 国政 策 を転 換 す る よ う に諸 外 国 か ら求 め られ て い た 。 幕 府 は結 局 、 外 国 との 一 定 の接 触 はや む な し と し、1854(安 政 元)年 に 入 る と、 次 々 と和 親 条 約 を結 ん で い っ た。 まず 、3月 に 日米 和 親 条 約 を 締 結 し て 下 田 と函 館 を 開 港 し、7月 に は 日英 和 親 条 約 で 長 崎 と函 館 を 開 い た。 続 い て 12月 に は 日露 和 親 条 約 を締 結 して 、 下 田 ・函 館 ・長 崎 を開 港 し、 翌1855(安 政 2)年12月 に は 日蘭 和 親 条 約 を結 ん だ の で あ る。 そ して 、 フ ラ ン ス とはや や 遅 れ て 、1858(安 政5)年10月9日 、 日仏 修 好 通 商 条 約 を締 結 した 。 これ らが 史
1?
上 よ く知 られ て い る安 政 五 ヵ国 条 約 とい わ れ る もの で あ る。
徳 川 幕 府 と して は、 この よ う に諸 外 国 との接 触 の 窓 口 を広 げ て い くが 、 しか し、 朝 廷 を は じ め西 南 雄 藩 らは それ を認 め よ う と しな か っ た 。 む し ろ外 国 との 対 決 姿 勢 を強 め 、 幕 府 に も諸 外 国 との 接 触 を抑 制 す る よ う に 求 め た の で あ る。
それ はや が て 尊 皇 捜 夷 運 動 へ と発 展 し、 幕 藩 体 制 に揺 さ ぶ りをか け て い っ た 。 こ う した 動 き に幕 府 も対 応 に 苦 慮 し、 や が て 一 旦 は欧 米 諸 国 との 間 で 締 結 した 条 約 の 内 容 を変 更 せ ざ る を え な くな っ た 。 す な わ ち、 開 市 開 港 の延 期 を諸 外 国
に要 請 す る に い た る の で あ る。
しか し、この よ うな煮 え切 ら な い 態 度 しか と りえ な い徳 川 幕 府 の 弱 腰 外 交 は 、 か え っ て 激 しい倒 幕 運 動 を招 く こ とに な り、っ い に1867(慶 応3>年10月14日 、 徳 川 慶 喜 は 大 政 奉 還 を奏 上 す る に い た り、 こ こ に260余 年 に わ た っ た 徳 川 幕 府
は、 そ の 政 権 に幕 を 引 くこ とに な っ た の で あ る。
一 方 、 徳 川 幕 府 との接 触 を強 め て い た フ ラ ンス 第 二 帝 政 も、 幕 府 崩 壊 の3年 後 、1870年9月 、普 仏 戦 争(LaguerreFranco‑allemand)で プ ロ シ ア に敗 北
して 互 解 した 。 第 二 帝 政 は 、 幕 末 の 日本 に お い て 、 と りわ け徳 川 幕 府 と親 密 で
あ っ た 。 弱 体 化 した 徳 川 幕 府 を 支 え た とい っ て も よい で あ ろ う。 幕 府 の 強 化 を
は か る こ とが 、 日本 の安 定 につ な が る と と もに フ ラ ン ス の 国 益 に も資 す る こ と
に な る と考 え た か らで あ る。 す な わ ち、 そ の極 東 政 策 の展 開 を 、 有 利 に推 進 で
き る と判 断 した の で あ る。結 局 、 この判 断 は誤 算 に 終 っ て し ま うわ け で あ るが 、
じつ は、 こ う した極 東 政 策 を推 進 す る背 後 で 、 第 二 帝 政 は も っ と深 刻 な 国 内 間
幕 末 日本 とフラ ンス第 二帝 政 の政 治状 況 3
題 を抱 えて い た 。 そ れ は 、 第 二 帝 政 自身 が 、 徳 川 幕 府 を支 え る ど こ ろ か 、 自 ら の政 権 基 盤 を弱 体 化 させ て い た の で あ る。
野 党 の攻 勢 に 直 面 して 、 第 二 帝 政 は専 制 帝 政 か ら 自 由 帝 政 へ 、 そ して議 会 帝
2)
政 へ とそ の政 治 体 制 を改 編 して い っ た 。 民 主 化 を進 め る こ とに よ り、 懸 命 に政 権 の延 命 策 を は か っ た の で あ る。 徳 川 幕 府 が 第 二 帝 政 との 接 触 を深 め て い くの は、 専 制 帝 政 か ら 自 由帝 政 に転 換 した 頃 で あ っ た 。 そ れ は ナ ポ レオ ンIII世 が 、 帝 政 期 の華 や か な 発 展 を 経 験 しな が ら も、 や が て 国 内 外 の施 策 上 の 失 敗 か ら、
野 党 の 台 頭 を招 き、 体 制 の 転 換 を 余 儀 な くされ て い た 時 期 に あ た っ て い た の で あ る。
本 稿 で は 、 こ う した 時 代 変 遷 を念 頭 に お きな が ら、 幕 末 日本 が 接 触 した 頃 の フ ラ ンス 第 二 帝 政 の政 治 状 況 を描 くこ とを 目的 と して い る。 と くに 、1862年 と 1867年 の2回 に わ た る遣 欧 使 節 の 頃 に 焦 点 が あ て られ て い る。 本 稿 が 示 して い る の は 、徳 川 幕 府 が 政 権 基 盤 の 強 化 の た め に 、 第 二 帝 政 に協 力 を仰 ぎ、 そ の 助 力 を あ て に した が 、 じつ は 当 の 第 二 帝 政 自身 が 、 そ の 政 権 の 土 台 を揺 が して お り、 強 力 な 支 援 が で き る状 況 に な か っ た 、 とい う こ とで あ る。 幕 末 日本 が 頼 り に した第 二 帝 政 は、 どの よ うな 政 治 状 況 に あ っ た の で あ ろ うか 、 そ の 実 情 を探 ろ う とい うの が 本 稿 の 主 題 で あ る。
2.第 二 帝 政 と徳 川 幕 府
第 二 帝 政 期 を ど う評 価 す るか とい う問 題 に つ い て は 、 これ まで さ ま ざ ま に論 じ られ て きた 。 それ は、 ル イ ・ナ ポ レオ ン ・ボ ナ パ ル トに よ る独 裁 体 制 期 で あ っ た とか 、 暗 黒 の 時 代 で あ る とか い う見 方 が 、 長 い 間 支 配 的 で あ っ た 。 い わ ゆ る 第 三 共 和 政 史 観 で あ る。 近 年 で は 、 この よ うな 見 方 とは逆 に 、 第 二 帝 政 期 は た ん な る専 制 、 独 裁 制 で は な い 。 む しろ 一 部 に は 民 主 的 な性 格 を有 し、 多 様 な 国 民 を統 合 す る原 理 と形 態 を も っ て い た との評 価 もあ る。 そ して 何 よ り も、 そ の よ う な政 治 体 制 の あ り方 か らだ け で は な く、 経 済 、 社 会 、 文 化 を も含 めて 、 総 合 的 な 観 点 か らみ て 、第 二 帝 政 期 を高 く評 価 す る動 き が あ る。こ う した 傾 向 は、
3)
と くに1990年 代 以 降 顕 著 で あ る とい え よ う。
事 実 第 二 帝 政 期 は 、 経 済 的 に大 き な発 展 を とげ た 時 期 で あ っ た 。 工 業 生 産 高
4 幕末 日本 とフ ランス第二 帝政 の政 治状況
は、 年 平 均2パ ー セ ン トか ら3パ ー セ ン トの 成 長 率 を示 し、 投 資 銀 行 や 預 金 と
4}
投 資 両 用 の 銀 行 も続 々 と創 設 され て い っ た 。 鉄 道 会 社 も設 立 され 、 鉄 道 網 は 、
「1850年 か ら56年 の 間 に延 長3083キ ロ メ ー トル か ら6280キ ロ メ ー トル へ と倍 増
らラ
した 」。技 術 革 新 が 進 ん で 、蒸 気 機 関 な ど新 しい 機 械 も次 々 と誕 生 した の で あ る。
と く に 、 第 二 帝 政 期 の 大 事 業 は、 パ リ 市 の あ る セ ー ヌ 県 知 事 オ ス マ ン (Haussmann、1809‑91年)男 爵 に よ るパ リ改 造 計 画 で あ っ た。 それ まで の 古 い路 地 に か わ っ て 、 エ トア ー ル 広 場 とナ シ オ ン広 場 か ら放 射 線 状 に広 い 通 りが 開 設 さ れ 、 パ リの 街 は一 新 した 。 ま さ に近 代 的 な花 の都 とい う形 容 に ふ さわ し
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い都 市 に な っ た の で あ る。
パ リの 改 造 は 思 わ ぬ 効 果 も招 い た 。 そ れ まで の 民 衆 蜂 起 に よ るバ リ ケ ー ド作 りが 不 可 能 に な っ た の で あ る。通 りの 幅 が あ ま りに も広 くな っ た た め 、バ リケ.̲.̲
ドを 構築 す る こ とや 、 デ モ に よ っ てR官 隊 の動 き を 阻 止 す る こ とが 、 で き な く な っ た 。 逆 に、 警 察 や 軍 隊 は 動 きや す くな り、 第 二 帝 政 期 に は、 こ う した こ と
7)
も要 因 の ひ とつ とな っ て 、 大 き な 民 衆 暴 動 は み られ な くな っ た の で あ る。
この よ う に発 展 を 続 け る第 二 帝 政 を誇 示 す るか の よ う に、1851年 ー ロ ン ドンで 開 催 され た 第 一 回 万 国 博 覧 会 は 、1855年 に第 二 回 を、 そ して1867年 に は第 四 回
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を そ れ ぞ れ パ リで 開催 した。 皇 帝 ナ ポ レオ ンm世 は、 万 国 博 覧 会 を巧 み に 利 用 し、各 国 か ら王 侯 貴 族 を含 む 多 数 の 来 賓 を 招 待 し、華 麗 な宮 廷 外 交 を展 開 して 、 自己 の 権 勢 を顕 示 した の で あ る。
こ う した 華 や か な 内政 面 と と も に 、 ナ ポ レオ ンm世 は外 交 面 に=おい て も、 果 敢 に そ の 政 策 を 推 進 した 。 彼 は 、 皇 帝 に就 任 す る直 前 、1852年10月9日 、 帝 政 とは ナ ポ レオ ン1世 の思 い 出 か ら、 戦 争 で は な い の か との 多 くの疑 問 に対 し、
「 帝 政 、 そ れ は平 和 で あ る」(11empire、C「estlapaix)と 断 言 した(ボ ル ド,.,....
で の 演 説)。 した が っ て 、あ か ら さ ま な好 戦 的 、侵 略 的 態 度 を とる こ とは で き な か っ た が 、 そ れ で も ヨー ロ ッパ に お け る フ ラ ンス の 威 信 を 回復 す る事 業 に は果
の
敢 に取 り組 ん で い った 。 と くに 、 伯 父 ナ ポ レオ ン1世 ほ どの軍 事 的 実 績 を もた な い彼 と して は、 海 外 市 場 の 開 拓 に よ っ て 、 フ ラ ンス に経 済 的 繁 栄 と富 を もた ら し、 自 己 の権 威 を粉 飾 す る必 要 性 に か られ た 。 そ の た め ナ ポ レ オ ンIII世 は 、
「 帝 政 、そ れ は平 和 で あ る」とい い な が ら、果 敢 な海 外 戦 略 を展 開 した の で あ る。
そ の 最 初 が 、1853年5月 か ら6月 、 ア ル ジ ェ リア の 東 カ ビ リ ア に兵 を進 め 、
幕末 日本 とフ ランス 第二 帝政 の政 治状 況 5
ま た 、 ニ ュ ー カ レ ドニ ア を 手 中 に 収 め た こ とで あ る 。 ま た 、 同 年10月 、 ク リ ミ ア 戦 争(CrimeanWar、1853‑56)が 始 ま る と、 フ ラ ン ス は イ ギ リ ス と 同 盟 し て トル コ を 助 け 、 『 ロ シ ア の 南 下 を くい と め た 。1856年3月 ま で 続 い た こ の 戦 争
に 、 ナ ポ レ オ ン 皿 世 は 勝 利 を え る こ と に 成 功 し た の で あ る 。
1858年 に 入 る と ナ ポ レ オ ン 皿 世 は 極 東 方 面 に も 派 兵 し、1858年5月31日 、 イ ギ リ ス 軍 と共 同 し て 中 国 の 天 津 を 占 領 した 。 同 年9月 に は 、 ス ペ イ ン と組 ん で
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べ トナ ム の ツー ラ ン(ダ ナ ン)に 軍 を送 り、 ペ トナ ム と交 戦 した 。10月 に は 、 日本 の 徳 川 幕 府 との 間 で 、 日仏 修 好 通 商 条 約 を締 結 した の で あ る。
ヨー ロ ッパ に お い て は、 ナ ポ レオ ン 皿 世 は、1859‑60年 、イ タ リァ統 一 戦 争 に 介 入 した 。1859年 、 サ ル デ ィニ ア 王 国 を支 援 して オ ー ス トリァ と北 イ タ リア の ソ ル フ ェ リー ノ で 戦 っ た の で あ る。こ こで は、完 全 な勝 利 とは い え な か っ た が 、 ヴ ィ ラ フ ラ ン カ の 講 和 に よ っ て 、 サ ル デ ィ ニ ァ王 国 は ロ ンバ ル デ ィー ア を獲 得 し、 以 後 の イ タ リア統 一 の 基 礎 を築 く こ とに な っ た 。
さ らに 、1861年 秋 に は 、 ナ ポ レオ ン 皿世 は メ キ シ コへ の 派 兵 を 決 定 した 。 メ キ シ コに フ ラ ン ス の 息 の か か っ た植 民 地 帝 国 を形 成 し よ う とい うの で あ る。 し
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か し、6年 か け た この 計 画 は 失 敗 に終 り、 そ の後 ナ ポ レオ ンIH世 は、1870年 の 普 仏 戦 争 で 敗 北 して 、 第 二 帝 政 は そ の幕 を閉 じ る こ とに な っ た の で あ る。
最 後 は 、 悲 劇 的 な結 末 で 終 った が 、 第 二 帝 政 期 は、 以 上 の べ て き た よ う に 、 内 政 面 で も外 交 面 で も、 一 時 は非 常 に華 や か な成 功 を 収 め た 。 い な 全 体 と して み た場 合 、 第 二 帝 政 は 、 フ ラ ンス の そ の 後 の政 治 的 、 経 済 的 発 展 の 土 台 を 築 い
I2)
た とい っ て も よ い で あ ろ う。
た だ 第 二 帝 政 期 を み る場 合 、 注 意 しな くて は な ら な い こ とは 、 そ の期 の 政 治 体 制 は、 一 貫 して 同 じで あ っ た とい うわ けで は な い とい う こ とで あ る。 第 二 帝 政 期 の 評 価 が 多様 に分 か れ る理 由 も こ こに あ る。 具 体 的 に は、 第 二 帝 政 期 は 、
3期 に分 け られ る。専 制 帝 政 期(1852年12月 一1860年11月)、 自 由 帝 政 期(1860 年ll月 一1869年9月)、 議 会 帝 政 期(1869年9月 一1870年9月)で あ る。
第 二 帝 政 は、 そ の 出発 の 頃 は専 制 的 な 性 格 が 強 か っ た が 、 や が て 野 党 勢 力 の
台頭 に よ り、 ナ ポ レオ ン皿 世 は そ の専 制 色 を薄 め て い っ た 。 専 制 か ら 自 由 帝 政
へ 、 そ して さ ら に議 会 帝 政 へ とそ の政 治 体 制 の 転 換 を は か った の で あ る。 す な
わ ち 、 第 二 帝 政 は帝 政 とい うひ とつ の 政 治 形 態 で は あ るが 、 そ の 内 実 は 多 様 な
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性 格 を 帯 び て い た 。 した が っ て 、 第 二 帝 政 期 を ひ と く く りに して 、 そ の 期 は独 裁 制 な い し専 制 で あ っ た とい う よ う な評 価 を下 す と、 あ る種 の誤 解 を招 い て し
ま う恐 れ が あ る。
l3)
第 二 帝 政 が 日本 との 接 触 を深 め て い くの は、1855年 か らで あ っ た と い え る。
同 年12月 、 琉 球 政 府 との 間 で 和 親 条 約 を 結 び 、1858年10月9日 、 徳 川 幕 府 との 問 で 日仏 修 好 通 商 条 約 を締 結 した 。 しか し、徳 川 幕 府 に とっ て 、 この よ う な外 国 との 接 触 は、 そ の 政 権 の根 底 を脅 か しか ね な い もの とな っ た 。 開 国 か 鎖 国 か を め ぐっ て 国 論 は2分 し、 それ はや が て 、 徳 川 幕 府 の 存 続 か それ と も断 絶 か を め ぐる 日本 の政 治 体 制 の あ り方 そ の もの を め ぐる議 論 に まで 発 展 して い った か
らで あ る。
幕 府 の 体 制 は確 か に 弱 体 化 して い た。 そ の体 制 を た て 直 し、 日本 の 国 制 の強 化 を は か る に は ど う した ら よい の で あ ろ うか 。 当 時 、 考 え られ た 方 法 は主 と し
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て3つ で あ っ た 。第1に 、徳 川 幕 府 の権 力 を強 化 す る こ と。第2に 、武 力 で も っ て 幕 府 を倒 し、 朝 廷 を 中心 とす る政 権 を樹 立 す る こ と。 第3に 、 大 政 奉 還 して 幕 府 の 専 制 を解 消 し連 邦 政 体 を築 くこ と、 で あ る。
徳 川 幕 府 は、 当初 当 然 の こ とな が ら第1の 方 法 を選 択 した 。 幕 府 の権 力 を 強 化 しな が ら、 同時 に、 諸 外 国 との 一 定 の 接 触 を はか る こ とはや む な し と した の で あ る。 これ に反 対 す る勢 力 に対 して は、 幕 府 は徹 底 的 な弾 圧 を も っ て の ぞ ん だ 。 い わ ゆ る 「 安 政 の 大 獄 」(安 政6、1859年)で あ る。
こ う した 激 動 の 中 で 、 幕 府 は そ の 体 制 強 化 の た め に、 フ ラ ンス 第 二 帝 政 に 助 力 を仰 い だ 。 なぜ 幕 府 は第 二 帝 政 の 力 を 当 て に した の で あ ろ うか 。 当 時 ア メ リ カ は、1861年 か ら4年 間 、南 北 戦 争(theCivilWar)に 突 入 した た め、 外 国 と の か か わ りを もつ 余 裕 は な か っ た 。 日本 に もっ とも接 近 を はか っ て い た の は イ ギ リス と フ ラ ンス で あ っ た 。
i5)
この2国 の 中 で 、 イ ギ リス は 日本 に 対 して 完 全 な 開 国 を要 求 して い た 。 そ の
た め幕 府 と して も、 イ ギ リス との 関 係 を強 化 す る と、 擁 夷 運 動 が 激 化 し、 幕 府
の体 制 は危 い もの に な る と考 え ざ るを え な か っ た。 そ こで 、 イ ギ リス の 要 求 を
回避 し、 擾 夷 の 気 勢 を殺 ぐに は、 幕 府 の路 線 を支 持 す る フ ラ ン ス に頼 る の が 得
策 で あ る との 意 見 が 幕 府 の 主 流 を 占 め る よ う に な っ た の で あ る。 こ う した 幕 府
内 の 親 仏 派 に は 、 勘 定 奉 行 小 栗 忠 順 、 目付 栗 本 鋤 雲 、 そ して 、 大 目付 兼 外 国 奉
幕 末 日本 とフラ ンス第 二帝政 の政 治状 況 7
行 山 口直 毅 らが い た 。
一 方 フ ラ ンス は、 な ぜ 徳 川 幕 府 を支 持 した の で あ ろ うか 。 第 二 帝 政 は 終 始 一
貫 して 徳 川 幕 府 を援 護 し、 そ の 体 制 の 強 化 に助 力 した 。 む し ろイ ギ リス は 、 後 に公 武 合 体 論 か ら武 力 倒 幕 へ と急 旋 回 して い く薩 長 両 藩 の 支 持 に 回 る の で あ る。 じつ は 、 英 仏 両 国 の幕 府 に対 す る対 応 の 差 は、 当 時 の 日本 の 政 治 状 況 を ど うみ るか とい う、 両 国 の情 勢 分 析 の 違 い に起 因 して い た
イ ギ リス の 総 領 事 オ ー ル コ ッ ク(Alcock、1809‑97)は 、 日本 の政 治 体 制 を
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次 の よ うに看 取 した 。 す な わ ち、 日本 に は幕 府 の 上 に朝 廷 が あ り、 そ の 朝 廷 が 撰 夷 派 で あ る、 と。 現 政 権 担 当 者 の上 に も うひ とつ の 最 高 権 威 が あ り、 そ の 態 度 が 変 らな い 限 り物 事 は進 展 しな い 、 とみ た の で あ る。 した が っ て イ ギ リス は、
後 に急 激 な 開 市 ・開 港 を求 め る こ とは控 え る よ う に な り、5年 間 そ れ を延 長 す る こ とに した 。
これ に対 して 、第 二 帝 政 の駐 日公 使 レオ ン ・'ロ ッ シ ュ(LeonRoches、1809
‑1901年)は 、そ の よ う に は 洞 察 しな か っ た 。徳 川 幕 府 が 過 去2百 数 十 年 間 に わ た って 統 冶 の 実 権 を握 り、 日本 を支 配 して きた こ と は事 実 で あ る。 そ の 実 績 に も とつ い て 、 幕 府 が 開 国 に踏 み 切 っ た か らに は、 幕 府 に加 勢 し助 力 す る の は 当 然 で あ る、 と考 え た の で あ る。 ロ ッシ ュ の この 判 断 の 背 景 に は、 もち ろ ん 第 二 帝 政 の 国 益 重 視 の 態 度 も働 い て い た 。 何 よ りも徳 川 幕 府 が 要 請 して き た 横 須 賀
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製 鉄 所 のX.̲.設や 日本 との貿 易 強 化 は、 第 二 帝 政 の 財 政 を潤 す もの に な る こ とは 問 違 い な か っ た し、 同 帝 政 の 有 力 な支 持 基 盤 で あ る ブル ジ ョア 階 層 の 利 に 叶 う
もの で あ る こ と は明 白で あ っ た か らで あ る。
この よ うに 第 二 帝 政 と徳 川 幕 府 は、 双 方 の 思 惑 や 利 害 が 一 致 し、 そ の 関 係 を 強 化 して い っ た 。 た だ 第 二 帝 政 に は、 イ ギ リス ほ ど複 眼 的 に物 事 を洞 察 す る力 は な か っ た とい え よ う。 徳 川 幕 府 へ の肩 入 れ は 、 第 二 帝 政 の予 想 に反 して 、 幕 府 の政 権 基 盤 の 強 化 に は つ な が らな か っ た の で あ る。
3.日 仏 修 好 通 商 条 約
ナ ポ レオ ンm世 の 外 交 政 策 に は2つ の 原 則 が あ っ た 。 そ れ は い ず れ も伯 父 で
あ るナ ポ レ オ ン1世 の 外 交 政 策 を反 省 して 樹 立 した も の で あ る。
8 幕末 日本 とフ ランス第二 帝政 の政 治状況
す な わ ち 、 第1に 、 す で に の べ た 「 帝 政 、 そ れ は平 和 で あ る」 とい う約 束 、 い な イ メ ー ジ を堅 持 す る こ とで あ っ た 。 伯 父 ナ ポ レオ ン1世 は偉 大 で は あ っ た が 、 あ ま りに も戦 闘 が 多 す ぎ た 。 そ の 戦 勝 は 光 輝 な 伝 統 とな っ て い るが 、 帝 政 が 崩 壊 して み る と、 戦 乱 に 明 け暮 れ た とい う印 象 は ぬ ぐい され な い 。 ナ ポ レオ ンm世 は 、 第0帝 政 の こ の残 津 を貴 重 な教 訓 と して 生 か す こ とを心 に誓 っ た 。 した が っ て 、 ヨー ロ ッパ 諸 国 との協 調 を で き る限 り保 ち な が ら、 「 帝 政 、そ れ は 平 和 で あ る 」 との 宣 言 を実 体 化 す る こ とに つ とめ た 。もち ろ ん だ か ら とい っ て 、 そ れ は 何 も しな い とい う こ とで は な い。 第 一 帝 政 が 崩 壊 し、1815年 以 降 フ ラ ン ス が 味 わ っ て きた 屈 辱 、 孤 立 、 国 土 の 削 減 な どの 辛 酸 は、 断 じて 払 拭 しな くて
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は な らな か っ た し、 フ ラ ンス の栄 光 は再 建 す る必 要 が あ っ た 。 そ の た め に、 ナ ポ レオ ン 皿世 は、 軍 事 力 の行 使 は な るべ く回 避 しつ つ 、 外 交 協 力 に よ っ て経 済 的 、 商 業 的 富 を?x得 しよ う と した の で あ る。
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第2に 、 過 度 な まで の 対 英 配 慮 で あ る。 い な も っ と正 確 に い え ば、 絶 対 に イ ギ リス とは 戦 わ な い、 イ ギ リス を敵 に 回 さな い とい う こ とで あ る。 彼 は それ を 2つ の 体 験 か ら身 に しみ て 感 じて い た 。 ひ とつ は、 伯 父 ナ ポ レオ ン1世 の 失 敗 は イ ギ リス を敵 に した こ とで あ り、 つ ね に イ ギ リス と覇 を競 い あ っ た こ とに あ る。 そ の た め最 後 は、 イ ギ リス に敗 北 し、 捕 虜 とな っ て流 刑 の 地 で51年 の 生 涯 を終 え た 。 この こ とは 、 ナ ポ レ オ ン 皿世 に とっ て 生 涯 にわ た る教 示 とな り、 身 に焼 きつ い て 残 っ た 。 も うひ とっ は、 彼 の 亡 命 生 活 中 の経 験 か らで あ る。 ナ ポ レオ ン1世 の 没 落 後 、 ボ ナ パ ル トー 族 は フ ラ ンス を追 わ れ た が 、 ル イ ・ナ ポ レ オ ン ・ボ ナ パ ル トも ヨー ロ ッパ 各 地 を転 々 と した 。 そ の 中 で も、 イ ギ リス で の 滞 在 は彼 に強 い 印 象 を与 え た 。 そ の 国 の 発 展 、 経 済 的 繁 栄 、 強 大 な軍 事 力 は彼 に ひ とつ の 指 針 を 残 した 。 す な わ ち、 イ ギ リス を絶 対 に敵 に しな い、 との教 訓 で あ る。
この2つ の 方 針 の も とに、 ナ ポ レオ ン7T世 は慎 重 か つ 大 胆 に対 外 活 動 を推 進
した 。1853年5月 に始 ま っ た ク リ ミ ァ戦 争 で は、 イ ギ リス と連 合 して ロ シ ア と
戦 い 、1858年 か ら60年 にか け て の ア ロ ー 戦 争(ArrowWar)で は 、 イ ギ リス と
組 ん で 中 国 の 広 州 、 天 津 、 北 京 へ と兵 を進 め た 。 しか し、 中 国 で は イ ギ リス の
利 権 と衝 突 す る こ とを避 け て 深 入 りせ ず 、 ナ ポ レオ ンm世 は む し ろ イ ン ドシ ナ
政 策 に力 を 入 れ た の で あ る。
幕末 日本 とフラ ンス第 二帝 政 の政 治状況 9
こ う した ナ ポ レオ ン 皿世 の 対 外 政 策 は、 も ち ろ ん す べ て 成 功 した わ け で は な い 。1859年 の イ タ リア統 一 戦 争 へ の加 担 や 、1861‑67年 の メ キ シ コ干 渉 政 策 は失 敗 に 終 っ た 。 と くに後 者 が 、 ナ ポ レオ ン 皿 世 の 施 政 に与 え た影 響 は大 き く、 皇 帝 の威 信 は大 き く揺 い だ の で あ る。
だ が ナ ポ レオ ン 皿世 は 、 ヨー ロ ッパ で は慎 重 に他 の 国 と協 調 行 動 を と りな が ら、 そ の 外 の ア フ リカ 、 ア ジ ア、 中南 米 方 面 で は、 大 胆 に活 動 を展 開 した 。 日 本 へ の 進 出 も そ の 一 端 で あ り、 第 二 帝 政 は、 ア メ リカ 、 イ ギ リス 、 オ ラ ン ダ 、
ロ シ ア な ど と とも に、 日本 との 通 商 を 求 め た の で あ る。1855年12月 、 フ ラ ン ス は琉 球 政 府 との 間 に和 親 条 約 を成 立 させ 、1858年10月9日 、 徳 川 幕 府 との 問 で 日仏 修 好 通 商 条 約 を締 結 した 。 こ こに 第 二 帝 政 は、 イ ン ドシ ナ か ら極 東 に 至 る 通 商 路 の拡 大 に成 功 を収 め た の で あ る。
1852年12月2日 、 皇 帝 に就 任 した ナ ポ レ オ ン 皿世 に とっ て 、1856年 頃 まで の 4年 間 は 、 その 権 力 の 絶 頂 期 に あ っ た 。 国 内経 済 の発 展 は順 調 で 、 ク リ ミア戦 争(1853‑56年)に 勝 利 し、1856年5月16日 に は男 子 が 誕 生 す るな ど慶 事 が 続 い た 。 しか もイ ン ドシ ナ か ら極 東 にか けて の 対 外 的 な進 出 も着 実 に発 展 を とげ て い た 。 日仏 修 好 通商 条 約 の 締 結 は、 専 制 帝 政 期 の威 容 を誇 示 す る象 徴 的 な 出 来 事 の ひ とつ で あ っ た とい っ て よ い で あ ろ う。
しか し、 そ れ は また 、 専 制 帝 政 の威 信 が 揺 らぎ始 め た 頃 に もあ た っ て い た 。 とい うの は、 強 固 な フ ラ ン ス 第 二 帝 政 も、1857年 頃 か ら そ の土 台 に罐 が 入 り始 め た か らで あ る。 そ の ひ とつ の き っ か け が 、1857年 の 立 法 院 選 挙 で あ っ た 。 立 法 院 は、 法 律 案 を 審 議 し票 決 す る議 院 で あ り、 そ の議 員 は普 通 選 挙 制 で 選 出 さ れ て い た 。 とは い っ て も、 立 法 院 で は政 府 案 に対 す る修 正 案 しか 出せ ず 、 実 質 的 に は、大 統 領 直 轄 の御 用 機 関 で あ る参 事 院(ConseildEtat)が 用 意 した 法 案 を票 決 す る権 限 しか な か っ た 。 そ の 立 場 は極 め て 脆 弱 だ った の で あ る。 だ が 、 た とえ 弱 い議 会 とは い え、 そ の 立 法 院 に1857年 の 選 挙 で 共 和 派 の 五 人 組(Les
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cinq)が 選 出 され 、政 府 に よ る選 挙 干 渉 に もか か わ らず 、反 政 府 派 の候 補 は66
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万5千 票 を獲i得 した 。 ナ ポ レ オ ンIII世 は こ の 数 字 に大 変 驚 い た が 、 そ れ だ け 専 制 帝 政 に 対 す る不 満 は 高 ま っ て い た の で あ る 。
さ ら に1858年 に は 皇 帝 暗 殺 未 遂 事 件 が 起 こ っ た 。 そ れ は 、1858年1月14日 、
イ タ リ ア 人 オ ル シ ニ(deF61ixOrsini、1819‑58)を 中 心 とす る4人 組 が 、 オ
zo 幕末 日本 とフランス第二 帝政 の政 治状況
ペ ラ座 の前 で ナ ポ レオ ン皿世 の乗 った馬車 に三 発 の爆弾 を投 げつ けた事件 で あ
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る。皇 帝 は無 事 で あ っ た が 、8名 の死 者 と156名 もの 負 傷 者 が で た 。オ ル シ ニ ら の 目 的 は 、 祖 国 イ タ リア の 統 一 を達 成 す る こ とに あ っ た 。 皇 帝 を倒 して フ ラ ン ス を共 和 政 に す れ ば 、 フ ラ ンス は イ タ リア の統 一 を助 け て くれ る で あ ろ う と期 待 した の で あ る。
この 事 件 は、 ナ ポ レオ ンII世 に2っ の意 味 で 影 響 を 与 えた 。 ひ とっ は、 帝 政 の 強 化 を は か るた め 、 反 政 府 派 に対 す る弾 圧 を強 め た こ とで あ る。1月28日 、 治安 体 制 を強 化 す るた め 軍 の 組 織 が 再 編 さ れ 、2月18日 に は治 安 維 持 法 が 制 定
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され た 。 これ に よ り、 皇 帝 に は容 疑 者 を裁 判 に か け る こ とな しに 、 投 獄 ・追 放 で き る権 限 が 与 え られ た 。 これ らの措 置 に よ り、 専 制 帝 政 は さ ら に そ の 専 制 色 を強 め る こ と に な った の で あ る。
も うひ とつ は、 オ ル シ ニ の 願 望 が 通 じ た の か 、 ナ ポ レオ ンm世 が イ タ リア統 一 運 動 に心 情 的 に傾 斜 した こ とで あ る 。 ボ ナ パ ル ト家 は 、 イ タ リア と関 係 が 深 か っ た し、ナ ポ レオ ンm世 も若 い 頃 は、イ タ リア統 一 運 動 に関 心 を もっ て い た 。 今 は カ トリ ッ ク派 の 支 持 を え るた め に、 法 王 を擁 護 して い るが 、 イ タ リアの 民 族 運 動 は、 彼 に とって 本 来 的 に は看 過 で き な い 問 題 で あ っ た 。 オ ル シ ニ に よ る 暗 殺 未 遂 行 為 は許 せ る もの で は な か っ た が 、 だ が そ の 事 件 は、 彼 に イ タ リア 民 族 に対 す る憐 患 の情 を 呼 び醒 ませ た の で あ る。
ナ ポ レオ ン皿 世 は、早 速 イ タ リ ア統 一 運 動 の 指 導 者 カ ブ ー ル(Cavour、1810
‑61)と 密 会 し、イ タ リァ統 一 を助 け るた め に、オ ー ス ト リア と戦 う とい う約 束 を した 。 こ こ に ナ ポ レオ ンIH世 は、 イ タ リア戦 争 に介 入 す る こ とに な り、 そ れ は ま た 、 専 制 帝 政 を動 揺 させ る糸 口 に な っ て い くの で あ る。
1858年6月 、 ナ ポ レ オ ン 皿世 は カ ブ...ル との 密 約 どお り、 オ ー ス ト リア との
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戦 争 に突 入 した 。 戦 況 は フ ラ ン ス に 有 利 で あ っ た が 、 ナ ポ レ オ ン 皿世 は1859年 7月11日 、 突 然 オ ー ス トリア皇 帝 との 問 で 和 平 予 備 条 約 を締 結 し、 戦 争 を打 ち 切 っ て しま っ た 。 そ の 理 由 に は 以 下 の こ とが 挙 げ られ る。
(1)新 しい 強 い 統 一 イ タ リア 国 家 の 出現 は 、 フ ラ ンス の安 全 保 障 上 好 ま し く な い こ と。
(2)オ ー ス トリア を過 度 に 弱 体 化 させ る こ とは 、 同 国 と覇 を 競 っ て い る プ ロ
シ ア を 強 化 して し ま う こ と。 これ も フ ラ ン ス の 安 全 保 障 を脅 か す こ とに な
幕末 日本 とフラ ンス第二 帝 政 の政治 状況 11
る。
(3)と くに イ ギ リス が 、 ナ ポ レオ ンIH世 が 勢 力 圏 を拡 大 し よ う と して い るの で は な い か と疑 い始 め た こ と。
(4)ナ ポ レ オ ン 皿世 自身 、 オ ー ス トリ ァ を 完 全 に 打 ち敗 か す こ とは 困 難 で あ る とい う こ とを 自覚 して い た こ と。 こ う した 理 由 か ら、 緒 戦 の勝 利 で 、 早 め に講 和 して お い た方 が す べ て にお い て 有 利 で あ る と、 ナ ポ レオ ンIII世 は 判 断 した の で あ る。
イ タ リア統 一 戦 争 へ の 参 加 は 、 この よ うに 当 初 は 、 ナ ポ レオ ン 皿世 に とっ て は 状 況 が 思 惑 通 りに進 展 して い くか の よ うに 思 え た 。 しか し、 それ は結 果 的 に は、 不 測 の 事 態 を 引 き起 こす こ とに な っ て し ま っ た 。 とい うの も、 ナ ポ レ オ ン 皿世 の予 想 しな か っ た こ とが起 こっ た か らで あ る。 イ タ リア 統v...争 へ の 介 入 は 、 民 族 主 義 を 支 援 す る共 和 派 を喜 ばせ 、 彼 に対 す る抵 抗 を 弱 め て 、 む しろ 帝 政 へ の 支 持 を強 め て い くか の よ うな 印 象 を与 え て い た 。 しか し、 そ の よ うな 方 向 に 向 か い なが ら も、 事 態 は急 変 した 。 とい うの は 、 統 一 運 動 が 進 行 す る の に とも な っ て 、ロ ー マ法 王 領 が 縮 小 して し ま っ た か らで あ る。これ に は、カ ト リ ッ ク派 が 激 怒 し、 イ タ リ ア統 一 運 動 を扇 動 した の は ナ ポ レオ ン皿 世 で あ る とい う
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こ とか ら、 同 派 は彼 へ の 支 持 を 弱 め始 め た の で あ る。
ナ ポ レオ ン 皿 世 は 、 あ らゆ る党 派 や 集 団 か らの 支 持 を え る とい う国 民 一 致 の 理 念 の うえ に 国 民 統 合 を果 た して い く とい う理 想 を掲 げ て い た が 、そ の 中 で も、
と くに カ トリ ッ ク派 は 有 力 な 支 持 基 盤 で あ っ た 。 正 統 王 党 派 や オ ル レ ア ン派 、 また 農 民 階 層 は 熱 心 な カ ト リ ッ ク信 徒 で あ っ た 。 な か ん ず く皇 妃 ウー ジ ェ ニ ー は 、敬 慶 な カ トリ ッ ク教 徒 で あ り、彼 女 を通 して もナ ポ レオ ン 皿 世 は、カ ト リ ッ ク派 を そ の 支 持 層 と して 引 きつ けて お い た の で あ る。
1857年 の共 和 派5人 組 の立 法 院 へ の 進 出 、1858年1月 の 皇 帝 暗 殺 未 遂 事 件 、
そ して 同 年6月 の イ タ リア統 一 戦 争 へ の参 加 。 これ らは、 発 足 以 来 順 調 に進 ん
で きた 第 二 帝 政 の 専 制 支 配 に大 き な転 換 を もた らす 事 件 で あ っ た 。1858年10月
の 日仏 修 好 通 商 条 約 は、 この よ うな専 制 帝 政 が 揺 ぎ始 め る頃 締 結 され た も の で
あ る。 も ち ろ ん徳 川 幕 府 は、 条 約 締 結 の相 手 国 が 、 こ の よ うな 内政 事 情 を 抱 え
て い る こ とな ど知 る 由 も な か っ た 。 他 の通 商 条 約 締 結 国 と同様 に 、 フ ラ ン ス も
ま た 、 強 大 な 西 欧 列 強 諸 国 の 一 員 と して 幕 府 の 目 に は 写 っ て い た の で あ る。
12 幕 末 日本 とフ ランス第二帝 政 の政 治状 況
4.X862年 の 遣 欧 使 節
ナ ポ レ オ ンm世 の イ タ リア統 一 戦 争 へ の介 入 は、 表 面 的 に は フ ラ ン ス の 勝 利 の よ う に思 え た が 、 実 質 的 に は彼 の 統 治 体 制 に 大 きな 打 撃 を 与 え た事 件 で あ っ た 。 国 内 的 に は、 カ トリ ッ ク派 の体 制 か らの 離 脱 を 招 き、 対 外 的 に は イ ギ リス の不 信 を買 う こ とに な っ た か らで あ る。 イ ギ リス は 、 ナ ポ レオ ン 皿世 が 対 外 的 に拡 大 を は か ろ う とす る意 図 を も っ て い るの で は な い か と、 疑 い 始 め た 。 対 英 配 慮 を 外 交 方 針 の基 軸 の ひ とっ に 掲 げ るナ ポ レオ ンIII世 に とっ て は 、 これ は 心 外 で あ っ た 。 彼 が イ タ リア統 一 戦 争 に 介 入 した の は フ ラ ンス の勢 力 圏 を 拡 大 す るた め で は な く、 あ くまで もイ タ リア と は縁 の 深 い ボ ナ パ ル ト家 の 一 員 と して の 心 情 の 発 露 か らで あ っ た 。 しか し、 結 果 と して イ ギ リス の 疑 惑 を 招 い た こ と は事 実 で あ り、ナ ポ レオ ン 皿 世 と して は 、そ の疑 惑 を 払 拭 しな け れ ば な らな か っ た 。
そ の 結 果 、 彼 は1860年1月25日 、 イ ギ リス との 間 に通 商 条 約(untrait6de
commerce)を 締 結 す る こ とに した 。強 力 な イ ギ リス 経 済 を前 に して 、 フ ラ ン ス は第 一 帝 政 以 来 保 護 貿 易 主 義 を と り、 フ ラ ン ス経 済 を守 っ て きた が 、 ナ ポ レ オ ンIH世 は そ の 方 針 を転 換 し、イ ギ リス資 本 主 義 の導 入 に踏 み 切 っ た の で あ る。
これ は 、 イ ギ リス に 対 す るひ とつ の宥 和 政 策 で あ っ た が 、 結 果 的 に は 「イ ギ リ ス で は フ ラ ン ス の 農 産 物 を安 価 で 購 入 で き、 フ ラ ン ス に お い て は イ ギ リス の 工
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業 製 品 を安 く手 に入 れ る こ とが 可 能 とな っ て 」、多 くの 両 国 国 民 に とっ て は満 足 す べ き も の の よ うに み え た 。 だ が 間 もな く、 この条 約 は フ ラ ン ス 国 内 に お け る 産 業 ブ ル ジ ョ ア 階 層 に と っ て は、 有 利 な もの で は な い とい う こ とが 判 明 して い っ た 。
とい う の も、安 価 な イ ギ リス の 工 業 製 品 を は じめ 、そ の 国 の商 品 の 流 入 に よ っ て 、 これ まで 国 家 に よ って 保 護 され て きた フ ラ ン ス の 製 品 が 大 き な打 撃 を受 け
る こ と に な っ た か らで あ る。 彼 ら は こ の 条 約 の 締 結 を 「 完 全 な 失 敗 」(un d6sastrenationaDと し、政 府 に対 して激 しい抗 議 活 動 を展 開 す る よ う に な っ
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た 。 こ こ に ナ ポ レ オ ン 皿 世 は 、 カ ト リ ッ ク 派 に 続 い て 、 産 業 ブ ル ジ ョ ア 階 層 ま
で も 敵 に 回 す こ と に な っ て し ま っ た の で あ る 。
幕 末 日本 とフラ ンス 第二 帝政 の政 治状 況 13
こ う した 状 況 の 中 で 、1862(文 久2)年4月7日 一一29日(往 路)、 同年9月22 日 一10月5日(復 路)、 ナ ポ レオ ン皿 世 は竹 内保 徳 を 中 心 とす る徳 川 幕 府 の 使 節 一 行 を フ ラ ン ス に迎 え入 れ た 。 い わ ゆ る文 久 の遣 欧使 節 団 で あ る。 この 使 節 団 一 行 は 、 フ ラ ンス 、 イ ギ リス 、 オ ラ ン ダ、 ロ シ ア、 ポ ル トガ ル な どに派 遣 され
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た も の で あ るが 、 そ の 目的 は 以 下 の 点 に あ っ た。
第1に 、1858(安 政5)年 の 安 政5ヵ 国条 約 な どの 締 結 に よ る開 市 開 港 を最 大 限 延 期 して も ら うた め の 交 渉 で あ った 。幕 府 は 、上 記 条 約 に よ って 、神 奈 川 、 長 崎 、 箱 館 の3港 を 開 き、 つ い で1860(万 延 元)年1月1日 に は 新 潟 、 続 い て 62(文 久)年1月1日 に は 江 戸 、63年1月1日 に は大 坂 と兵 庫 を そ れ ぞ れ 外 国 貿 易 の た め に開 港 す る こ とを約 束 した 。 しか し、 そ れ まで の極 度 に制 限 され て い た 長 崎 貿 易 か ら 自由 貿 易 へ の 転 換 は 、 経 済 界 に 大 き な 打 撃 を与 え た 。 生 糸 、 茶 、 海 産 物 な どの 輸 出 は相 次 ぎ、 そ の た め 、 これ ら を は じ め とす る一 般 の物 価 が 著 し く高 騰 した の で あ る。 そ の影 響 は、 武 士 や 一 般 庶 民 の生 活 を直 撃 し、 そ れ は や が て 広 汎 な 人 心 不 安 を招 きか ね な い状 況 に な っ た 。
通商 条 約 の 波 紋 は、 結 果 的 に 朝 廷 を 中 心 とす る擾 夷 、 反 幕 運 動 へ と拡 大 す る 恐 れ が あ り、 こ こ に幕 府 は 、開 市 開 港(江 戸 、大 坂 の 両 都 、新 潟 、兵 庫 の 両 港) の 延 期 を願 い 出 る こ とに した 。 す な わ ち 外 国 との 通 商 を制 限 す る こ とに よ っ て 経 済 の 安 定 を取 り戻 そ う と した の で あ る。 そ の た め幕 府 は 、 使 節 を 派 遣 し条 約 の締 結 国 で あ る フ ラ ンス 、イ ギ リス 、オ ラ ン ダ 、ロ シ ア そ して ポ ル トガ ル の5ヵ 国政 府 と開 市 開港 の 延 期 を交 渉 す る こ とに した 。 使 節 団 は、 そ の 承 認 を得 る と 同 時 に、代 償 につ い て も話 しあ っ て くる とい う重 い使 命 を帯 び て い た の で あ る。
第2に 、 西 欧諸 国 の政 府 組 織 や 礼 儀 習 慣 、 そ して 生 活 レベ ル な ど につ い て 鑑 察 して くる こ とで あ る。 じつ は、 この 遣 欧 使 節 の 派 遣 とい う問 題 は、 も と も と は 幕 府 の 発 案 で は な か っ た 。 正 確 に は イ ギ リ ス 公 使 オ ー ル コ ッ ク(Sir RutherfordAlcock)の 提 案 で あ り、 彼 が フ ラ ン ス 公 使 ド ゥ ・ベ ル ク ー ル
(DuchesnedeBellecourt)ら と と も に そ の筋 ・ 書 き を た て た の で あ る。 そ の 背 景 に は、 当時 の ア メ リカ とイ ギ リス ・フ ラ ン ス との 間 の 覇 権 競 争 とい う問 題 が
あ っ た 。
とい うの は、 幕 府 は1860(万 延 元)年 に ア メ リカ に新 見 豊 前 守 正 興 一 行 を遣
米 使 節 団 と して 派 遣 した が 、 そ の 時0行 は 、 ア メ リカ の文 化 、 文 物 の 発 展 に触
14 幕末 日本 とフラ ンス第 二帝政 の政 治状 況
れ て 驚 嘆 して 帰 国 した 。 ア メ リカ も ま た 、 イ ギ リス ・フ ラ ン ス に先 駆 け て 、 日 本 を と りこ も う と手 を 打 ち 、 開 市 開 港 延 期 問 題 に つ い て は 、 ア メ リカ は一 早 く
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ハ リス 公 使 の 斡 旋 で そ の 承 認 を決 め て い た の で あ る。
オ ー ル コ ッ ク とベ ル ク ー ル は 、 こ う した ア メ リカ と幕 府 の 関 係 をJ̀1念 し、 幕 府 の 関 心 を英 仏 両 国 に も引 きつ け よ う と した 。 そ の 結 果 が 、 遣 欧 使 節 団 の 派 遣 とな っ た 。 幕 府 に西 欧 文 明 の 進 ん だ 姿 を見 せ る こ とに よっ て 、 幕 府 の ア メ リカ 観 を一 変 させ よ う と した の で あ る。 幕 府 の遣 欧 使 節 の 背 景 に は、 この よ うな米 欧 間 の 力 関 係 を め ぐ る掛 け 引 き を も働 い て い た。
第3に 、ロ シ ア との間 で 、カ ラ フ トの 日露 境 界 を確 定 して くる こ とで あ っ た 。 1855(安 政2)年 の 日露 和 親 条 約 、1858(安 政5)年 の 同 修 好 通 商 条 約 で は 、 カ ラ フ トは 日露 両 国 人 の 雑 居 の 地 と され て い た が 、 日本 を と りま く国 際 関 係 の 変 化 は、こ の よ うな 曖 昧 な取 り極 め を許 さ な く して い た 。両 国 間 の 領 域 を、は っ き り と確 定 す る必 要 が で て き た の で あ る。そ の た め の交 渉 とい う任 務 が あ っ た。
この よ うな 目 的 を も っ て 、 遣 欧 使 節 団 は 結 成 され 、 それ は外 国 奉 行 兼 勘 定 奉 行 で あ る竹 内下 野 守 保 徳 を正 使 とす る38名 の メ ンバ ー か ら構 成 され て い た。 一 行 は、1862(文 久2)年1月21日 、 江 戸 を た ち 、1年 か け て 西 欧 を回 り、1863
(文 久3)年1月29日 、帰 国 した 。そ の 間 、第 二 帝 政 の パ リに滞 在 した の が 、1862 年4月7日 一29日(往 路)と 同 年9月22日 一10月5日(復 路)、 で あ っ た。
竹 内保 徳 ら幕 府 一 行 を受 け 入 れ た 頃 の 第 二 帝 政 は、 政 治 的 に大 き な局 面 に立 た され て い た 。 ナ ポ レオ ン 皿世 の 打 つ 手 が 次 々 と裏 目 に出 て 、 カ ト リッ ク派 を は じ め産 業 ブル ジ ョア階 層 が 体 制 か ら離 脱 しつ つ あ っ た の で あ る。 内政 面 で の 失 政 を埋 め 合 わ せ るか の よ う に、 ナ ポ レオ ンITT世 は イ ン ドシ ナ 方 面 へ の 進 出 に 力 を入 れ 、また1861年 か らは メ キ シ コ干 渉 に も乗 り出 して い た 。中南 米 地 域 に、
フ ラ ン ス の 一 大 経 済 圏 をつ くろ う との 計 画 で あ っ た 。 政 治 的 な 失 敗 を 、 経 済 的 な 繁 栄 で 償 還 しよ う と した の で あ る。
と同 時 に 、 ナ ポ レオ ンHI世 は 、 カ ト リ ッ ク派 と産 業 ブ ル ジ ョア 階 層 の体 制 へ
の 支 持 が 弱 ま っ て い る こ とを考 慮 し、 か つ 、 野 党 勢 力 が 台 頭 して き て い る こ と
を鑑 み て 、 そ の 支 持 基 盤 を思 い切 っ て 労 働 者 階 層 に まで 拡 大 す る こ とを 決 意 し
た 。 第 二 帝 政 時 、 ナ ポ レオ ン 正II世 の 当 初 の 産 業 政 策 は功 を奏 し、 フ ラ ン ス 経 済
は 好 調 な 伸 び を 示 して い た 。 そ れ に と も な っ て 、 労 働 者 階 層 も増 大 し、 彼 らの
幕 末 日本 とフ ランス第 二帝 政 の政 治状 況 15
政 治 的 な 発 言 権 も高 ま っ て い っ た 。 野 党 勢 力 の 台 頭 は、 一 部 に は、 この よ う な 労 働 者 階 層 の 伸 張 の結 果 で も あ った の で あ る。 彼 ら は、 帝 政 初 期 に お い て は 、 政 府 の 社 会 保 障 制 度 、 公 共 事 業 、 慈 善 事 業 、 社 会 政 策 な ど に依 存 して い た が 、 や が て 自分 た ち の 勢 力 が 強 くな り、 また 、 帝 政 の施 政 が 揺 らい で い く と、 自力 で 待 遇 の 改 善 に つ とめ る よ う に な っ た 。 そ れ は 、 活 発 な 労 働 運 動 の展 開 とな っ て 現 れ た の で あ る。
ナ ポ レオ ンHI世 は 、 この よ うな 労 働 者 た ち の 台 頭 に直 面 した 時 、 む し ろ そ の 力 を 利 用 す る こ とに した 。 す な わ ち、 彼 ら との 妥協 を は か り、 そ の支 持 を取 り つ け る こ とが 政 権 基 盤 の 強 化 につ なが る と考 え た の で あ る。 そ の た め の ひ とつ の 方 策 が 、1862年 の 秋 、ロ ン ドンで 開 催 され る万 国博 覧 会 に200人 の 労 働 者 の代 表 を 派 遣 す る こ とで あ っ た 。 労 働 者 た ち に、 産 業 や 文 明 の 発 展 の 様 子 を み て も
らい 、 彼 らが 労 働 に 打 ち込 む こ とに よ っ て 、 帝 政 の興 隆 が もた ら され る と、 ナ ポ レオ ンIII世 は読 ん だ の で あ る。 そ こに は、 労 働 者 代 表 を、 万 国 博 覧 会 へ 派 遣 す る こ とが 、帝 政 の 強 化 とな っ て は ね か え っ て くる との期 待 が 込 め られ て い た 。
だ が 、 結 果 は全 く逆 で あ っ た。 ロ ン ドン に渡 っ た 労 働 者 た ち が み た も の は 、 自 由 を謳 歌 しな が ら喜 々 と して 労 働 に励 み 、 産 業 の 興 隆 に貢 献 す る労 働 者 た ち の 姿 で あ っ た 。 イ ギ リス で は、1830‑40年 代 に チ ャ ー チ ス ト運 動(Chartist Movement)が 起 こ り、1850年 代 に は労 働 組 合 運 動 が 活 発 化 して い た 。1860年 代 に な る と労 働 組 合 と政 党 が 協 力 し合 い、 労 働 者 階 層 の 生 活 状 態 は格 段 と改 善
され て い た の で あ る。
そ れ に 比 べ る と、 フ ラ ンス の 労 働 者 階 層 の待 遇 改 善 は遅 れ て い た 。 ロ ン ドン の 万 国 博 覧 会 に 出 席 した 労 働 者 た ち は、 帰 国 す る や 否 や 、 政 府 に労 働 者 階 層 の
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生 活 環 境 や 労 働 条 件 の 改 善 を執 拗 に要 求 す る よ う に な っ た の で あ る。 こ う した 動 き に 抗 し きれ ず 、ナ ポ レオ ン皿世 は1864年5月 、「 結 社 権(droitder6union)
は 認 め な か っ た が 、 暴 行 を とも な わ な い限 りの 争 議 の た め の 団 結 権(droitde
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coalition)を 承 認 した 」。 こ こ に、1791年 以 来 の 労 働 者 の 団 結 ・罷 業 禁 止 法 は 、 条 件 付 き で は あ っ た が 、 は じ めて 変 更 され る こ とに な っ た の で あ る。
1862年4月 か ら9月 にか け て 、 幕 府 の 使 節 竹 内保 徳 一 行 が 、 第 二 帝 政 下 の パ リ に ナ ポ レオ ン 皿 世 を 訪 ね た 時 、 フ ラ ンス は この よ うな 状 況 に あ っ た 。1860年
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と61年 に ナ ポ レ オ ン 皿 世 は 自 由 主 義 的 な譲 歩 を行 な い、1862年 に は 労 働 者 階 層
16 幕 末 日本 とフ ラ ンス第 二帝政 の政 治状況
へ の 接 近 を は か っ た 。 こ う した ナ ポ レオ ンHI世 の 妥 協 策 に もか か わ らず 、 反 政 府 派 に よ る帝 政 へ の攻 撃 は、 そ の 勢 い を止 め る こ とは な か っ た の で あ る。
ナ ポ レオ ン 皿世 が この よ う な苦 境 に立 た され て い る こ と も知 らず 、 竹 内一 行 は 、1862(文 久2)年4月7日 、パ リの リ ヨ ン駅 に 到 着 した 。600室 も あ る宿 舎 の ル ー ヴ ル ・ホ テ ル(HδtelduLouvre)の 豪 華 さ に 驚 愕 し、 ホ テ ル の 前 の パ レ ・ロ ワ イ ヤ ル広 場 の 美 し さ に 目 を 見 張 っ た。 じつ にパ リは花 の 都 、 光 の都 で あ っ た 。 こ う した 驚 きが 続 く中、4月15日 、 竹 内保 徳 ら は ナ ポ レオ ン皿 世 に謁 見 し、 将 軍 か らの 国 書 を 手 渡 した 。 そ の 時 ナ ポ レオ ン皿 世 は 、 次 の よ うに の べ た とい う。「ヨー ロ ッパ 旅 行 の よ き想 い 出 と と も に、日本 と も っ と も友 好 的 な 関 係 を維 持 した い と願 っ て い る私 の 気 持 を もお 持 ち帰 りい た だ き た い もの だ と思
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い ます 」 と。
こ う した遣 欧 使 節 団 の 派 遣 目的 の成 果 は ど うか とい う と、 それ は す ぐに は 目 に見 え る もの とは な らな か っ た 。 か ろ う じて 、 カ ラ フ ト境 界 問 題 につ い て は、
一 応 の 結 論 は得 た が 、 残 りの2っ につ い て は時 間 が 必 要 で あ っ た 。 それ で も、
開 市 開 港 の延 期 問 題 に つ い て は 急 を要 し、 そ の た め 幕 府 は 、1864(元 治 元)年 、 横 浜 鎖 港 交 渉 の た め 、 使 節 池 田筑 後 守 一 行 を再 度 フ ラ ン ス に派 遣 す る こ とに な
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る の で あ る 。
5.徳 川 昭 武 とパ リ万 国 博 覧 会
竹 内保 徳 らの 遣 欧 使 節 一一行 が 帰 国 した 後 、1863年 に入 る と、 フ ラ ン ス で は 帝 政 に対 す る不 満 が 益 々 高 じて い っ た 。1863年5月 に は、 立 法 院 議 院 の 選 挙 が 予 定 され て い た が 、 そ の選 挙 を前 に して 、 「自 由連 合 」(Unionfiberas)が 結 成 さ れ た 。 そ れ は、 帝 政 に敵 意 を懐 く共 和 派 が 中心 とな り、 そ れ に 英 仏 通 商 条 約 に 不 満 を もつ 実 業 家 や イ タ リア統 一 戦 争 へ の 加 担 を不 服 とす るカ ト リ ッ ク派 な ど が加 わ っ たw.種 の 反 政 府 連 盟(unecoalition)で あ っ た 。正 統 王 党 派 や オ ル レ
ア ン派 な どの 姿 もそ こに は み られ た 。
た だ この 連 合 は、 それ ぞ れ の 立 場 か らナ ポ レオ ン 皿 世 の施 策 に不 満 を もつ よ
うに な っ た 、 い わ ゆ る不 平 分 子 の 集 合 体 で あ っ た の で 、 帝 政 を倒 した後 、 どの
よ うな 政 治 体 制 を樹 立 す る か とい う問 題 につ い て は計 画 が な か っ た 。そ れ で も、
幕 末 日本 とフ ランス第二 帝政 の政 治状 況 17
ナ ポ レオ ン 皿世 に とっ て は大 き な脅 威 で あ る こ と は事 実 で あ り、 そ の 不 安 は 、 1865年5月 の 立 法 院 選 挙 の 時 に 的 中 した 。政 府 公 認 候 補 の獲 得 票 数535万5000に 対 し、 野 党 は186万 、 議 席 数 は 与 党 が250、 野 党 が35と い う結 果 に な っ た の で あ
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る 。 野 党 の 得 票 数 は 、1857年 の そ れ を120万 票 近 く上 回 っ て い た 。 しか も 、 「自
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由 連 合 」 の 当 選 者 の うち 、 共 和 派 が19名 も入 っ て い た 。 じつ に この 選 挙 の 結 果 は 、野 党 一 「自 由連 合 」 の勝 利 で あ る とい っ て よ く、帝 政 の 立 場 は さ ら に 困 難 な もの に な っ た の で あ る。
選 挙 後 、 ナ ポ レオ ン皿 世 は 、6月23日 に勅 令 を 出 し、 無 任 所 大 臣 制 を廃 止 し て 国 務 大 臣(ministred1凱at)を 設 置 す る と発 表 した 。 これ は、 政 府 が 本 格 的 な 議 会 対 策 に乗 り出 した こ とを 意 味 した 。 た が それ と同 時 に、 そ こ に は 、 ナ ポ レオ ン皿 世 が 、 い つ で も国 務 大 臣 を通 して 、 議 員 、 と くに野 党 の そ の 声 を 聞 く 用 意 が あ る との 姿 勢 を 示 した もの で あ る とい う こ と も示 唆 され て い た 。 た ん な
る懐 柔 策 で は な く、 本 格 的 な 野 党 へ の 対 応 で あ っ た の で あ る。
1864年 に 入 る と、 前 述 の よ う に労 働 者 の 勢 力 も増 大 して きて 、彼 らの 団 結 権 を 認 め ざ る を え な くな っ た 。 こ う した動 向 に 心 労 も重 な っ て か 、1865年 頃 か ら、
ナ ポ レオ ン皿 世 の 体 調 が 勝 れ な くな っ た 。 腎 臓 と膀 胱 結 石 とい わ れ て い る が 、
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彼 は しぼ しぼ歩 行 、 睡 眠 、 食 事 に支 障 を きた す よ う に な っ た 。 体 力 の 衰 え は 気 力 の 喪 失 を 生 み 、ナ ポ レオ ン 皿 世 の 判 断 力 や 決 断 力 は 、日増 しに鈍 くな っ て い っ た の で あ る。
ナ ポ レオ ン 皿世 自身 の こ う した 肉体 的 、 精 神 的 衰 弱 の 間 隙 を つ くか の よ う に 表 面 化 して き た の が 、 政 府 内 部 の 抗 争 で あ っ た 。 そ れ は簡 潔 に い え ば 、 専 制 帝 政 を堅 持 す べ きか 、 そ れ と も野 党 各 派 の要 求 を受 け 入 れ て 、 自 由 帝 政 へ の 転 換
を さ ら に は か るべ きか 、 とい う帝 政 の 路 線 を め ぐ る争 い で あ っ た 。
前 者 を代 表 す る の が 、1863年 以 来 、国 務 大 臣 の 職 に あ るル エ ル(Rouher、1814
‑84)で あ っ た
39}。 彼 は ナ ポ レ オ ンIII世 に 忠 誠 を 尽 く し、 「 副 皇 帝 」(levice‑
empereur)と 渾 名 さ れ て い た 。 ル エ ル は 、 「1852年 の 体 制 は フ ラ ン ス に 大 変 相
ラ41)
応 しい も の で あ る」 と主 張 し、 「自 由 へ の譲 歩 は誤 っ た 結 果 を招 い て し ま う」 と 警 告 を発 した 。 ナ ポ レオ ン 皿 世 が 野 党 に 妥協 し、 次 々 と自 由主 義 的 な 改 革 を 打
ち 出 して い くの を、 苦 々 しい 思 い で み て い た の で あ る。
これ に対 して 、 後 者 を 代 表 す るの が エ ミー一ル ・オ リヴ ィ エ 偉mileOllivie、
18 幕 末 日本 とフ ランス第 二帝政 の政 治状 況
1825‑1913)で あ っ た 。彼 は も と も とは共 和 派 の5人 組 の 一 人 で あ った が 、だ ん だ ん共 和 派 か ら離 れ て 、 ナ ポ レオ ンIH世 に接 近 して い っ た 。 そ して 彼 に、 も し 帝 政 を維 持 した い な らば 、 自 由 主 義 的 な 改 革 を はか る以 外 に な い と進 言 した 。 オ リヴ ィエ は、 専 制 帝 政 を嫌 い 、 自 由主 義 的 な帝 政 を支 持 す る よ う に な っ て お り、そ の た め に共 和 派 か らは裏 切 り者(transfuge)と の 非 難 を浴 び て い た の で
42)
あ る。
1865年 頃 、立 法 院 の 中 に 「 第3党 」(leTiersparti)と よ ばれ る党 派 が誕 生 し た 。 この 派 は 、 中 道 派 と も呼 ぼ れ 、 反 王 党 派 と超 ボ ナパ ル ト派 の 中 間 の 立 場 に た って い た 。 す な わ ち、 帝 政 の 転 覆 は 好 まず 、 体 制 の漸 進 的 な 改 革 を 唱 え た の で あ る。 オ リヴ ィエ は、 この 派 の 一 員 で あ っ た が 、 持 ち 前 の 頭 の 切 れ と雄 弁 か ら、 や が て 同 派 の リー ダ ー の 一 人 とな っ て い っ た。 ナ ポ レオ ン皿 世 も次 第 に彼 を信 頼 す る よ う に な り、 オ リヴ ィエ の 進 言 や 忠 告 に従 っ て 、 帝 政 の 自 由 主 義 的 な転 換 を は か っ て い っ た の で あ る。
ル エ ル とオ リヴ ィエ は 当然 衝 突 した 。 ル エ ル は オ リヴ ィエ の こ とを 裏 切 りも
43)
の と詰 り、オ リ ヴ ィ エ は ル エ ル の こ と を 「 無 責 任 な 副 皇 帝 」(levice‑empereur
sansresponsabilit6)と 非 難 した 。 ナ ポ レ オ ンm世 は ル エ ル に 対 し て は 、 自 由 主 義 的 な 改 革 を嫌 悪 す る 素 振 り を 示 し、オ リ ヴ ィ エ に 対 し て は 、そ の 進 言 に 従 っ た 。 身 も心 も疲 れ 果 て て い た ナ ポ レ オ ン 皿 世 は 、 二 人 の 側 近 の 間 に あ っ て 、 揺
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れ 動 く..v..(amevacillante)の よ う で あ っ た 。 じ っ に 、 「1866年 か ら1869年 ま で の3年 間 は 、 ル エ ル とオ リ ヴ ィ エ の2人 の 問 の 確 執 に よ っ て フ ラ ン ス 政 府 が
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激 し く動 揺 した 」 の で あ る。
こ う した 政 府 部 内 で の抗 争 に流 され な が ら も、 ナ ポ レオ ンm世 と して は、 自 由主 義 的 な 改 革 の 方 向 に進 ま ざ る を え な か っ た 。 高 揚 す る反 政 府 派 の 動 き は 、 ナ ポ レ オ ン 皿世 に改 革 の退 歩 を許 さ な か っ た の で あ る。彼 は 、1867年1月19日 、 勅 令 を発 して 、 立 法 院 と元 老 院 の 議 員 に大 臣 に対 して 質 問 を す る権 利 一質 問権
(ledroitd̀interpeliation)を 認 め た 。 議 員 が 政 府 に 対 して 訊 問 して も よい と い う こ とを承 認 した の で あ る。 ま た 、1868年5月11日 に は 出 版 法(1aloisurla presse)を 公 布 し、事 前 の 許 可 な しで も出 版 を可 能 と し、 か つ 記 事 の 内容 に対
4&)
して 警 告 や 発 刊 停 止 な ど を 行 な わ な い と発 表 し た 。 続 い て6月10日 に は 、 一 部
制 限 は あ っ た が 、 集 会 の 自 由 を 認 め る 法 律(lalOiSUrlesreunions
幕末 日本 とフラ ンス第二 帝政 の政 治 状況19
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publiques)を 発 布 した 。
徳 川 幕 府 の竹 内保 徳 ら遣 欧 使 節 一 行 が フ ラ ンス を後 に した1862年 秋 以 降 、 第 二 帝 政 の政 治 状 況 は この よ うに激 し く変 動 した の で あ る。 一 方 、 日本 国 内 に お い て も、徳 川 幕 府 を揺 が す 動 き は や まず 、幕 藩 体 制 は存 亡 の危 機 に瀕 した 。1862 (文 久2)年 に は薩 摩 藩 に よ る公 武 合 体 策 が 提 唱 さ れ 、朝 廷 、幕 府 、諸 大 名 が0 体 とな っ て 、 下 級 武 士 らに よ る過 激 な尊 王 擁 夷 運 動 を くい とめ よ う とす る方 法 が 試 み られ た 。 幕 府 自 身 も、 参 勤 交 代 の 制 を3年 に1回 に 改 め る な ど、 幕 政 の 改 革 を は か っ た 。 しか し、 これ らは か え っ て 幕 府 の権 力 を 弱 め 、 西 南 雄 藩 の 力
を高 め る結 果 を招 い て し ま っ た の で あ る。
1863(文 久3)年 、 薩 英 戦 争 が 起 こ り、1864(元 治 元)年 、 イ ギ リス ・ア メ リカ ・フ ラ ンス ・オ ラ ン ダ 四 国 連 合 艦 隊 に よ る下 関 砲 撃 が 行 な わ れ た 。 こ う し た 中 で 、 外 国 の 力 を認 識 した 薩 摩 藩 と長 州 藩 が 開 国 に傾 く と と も に、1866(慶i 応2)年 連 合 す る こ とに な り、 そ の 力 は や が て 倒 幕 へ と注 が れ て い っ た 。 そ し て 、1867(慶 応3)年10月14日 、 将 軍 徳 川 慶 喜 は大 政 奉 還 を朝 廷 に願 い 出 て 、 そ れ は翌 日受 理 され た 。この よ うに して徳 川 幕 府 は、そ の260余 年 に わ た る歴 史 の 幕 を閉 じて い くが 、 こ う した 状 況 下 で 行 な わ れ た の が 、 将 軍 徳 川 慶 喜 の 弟 昭 武 一 行 の フ ラ ン ス訪 問 で あ っ た 。 そ れ は何 の た め に 、 い か に して な され た の で
あ ろか 。
第1に 、1867年4月1日 か らIl月3日 まで パ リで 開 か れ る第4回 万 国 博 覧 会 へ の 出席 で あ る。 ナ ポ レオ ン 皿世 は 、 前 述 した よ う に、 政 治 的 に は野 党 の 攻 撃 に あ っ て 、体 制 の 自 由 主 義 的 な転 換 を試 み て い くが 、 経 済 的 、 社 会 的 に は 繁 栄 と発 展 を はか ろ う と企 図 して い た 。 そ の結 果 、 フ ラ ン ス の 産 業 は興 隆 し、 パ リ の街 は オ ス マ ン知 事 の 手腕 も あ っ て 美 しい都 へ と変 貌 した 。ナ ポ レオ ン皿 世 は 、
こ う した 第 二 帝 政 の 隆 盛 ぶ りを 国 内外 に誇 示 し よ う と、 早 くか ら1867年 に 万 国 博 覧 会 をパ リで 開 催 す る こ とに決 め て い た 。 そ して 日本 に も1865(慶 応 元)年 、 駐 日公 使 レオ ン ・ロ ッシ ュ(LeonRoches)を 通 して 出 展 を 求 め て きた の で あ
る。
しか も、ナ ポ レオ ン皿 世 は博 覧 会 開 催 に あ わせ て 、各 国 の 王 侯 貴 族 を招 膀 し、
た が い を交 歓 させ る とい う こ と も計 画 した 。 そ れ に よ っ て 、 自分 の 権 勢 を 誇 示
す る場 と も し よ う と した の で あ る。 徳 川 幕 府 に も招 聰 の 旨 が 伝 え られ 、 慶 喜 は
20 幕末 日本 とフラ ンス第 二帝政 の政 治状況
自分 の 名 代 と して 弟 の 昭 武 を 派 遣 す る こ とに した 。昭 武 は ま だ14歳 で あ っ た が 、 慶 喜 は ナ ポ レオ ンHI世 の 皇 太 子 が10歳 で あ る こ とを考 え て 、 年 齢 的 に近 い 昭 武
を選 ん だ 。 そ うす る こ とに よ っ て 、 ナ ポ レオ ンHI世 を は じ め、 皇 帝 一 族 が 親 近
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感 を もっ で あ ろ う と思 っ た か らで あ る。
第2に 、 博 覧 会 後 に 昭 武 一 行 に通 商 条 約 締 結 国 を 回 っ て も らい 、 友 好 親 善 を 深 め よ う と した こ とで あ る。 これ に は、 倒 幕 運 動 が 高 ま る 中、 幕 府 の健 在 ぶ り
を欧 州 各 国 に 顕 示 し よ う との 狙 い も あ っ た 。
第3に 、 弟 昭 武 を幕 府 の近 代 化 政 策 の 中心 的 人 材 に育 成 し よ う との 意 図 で あ
る。 慶 喜 は 、 幕 府 の 諸 制 度 や 軍 隊 を 近 代 化 させ る こ とに熱 心 で あ っ た 。 で きれ ば 自 らが 欧 州 諸 国 に 出 向 い て 、 西 欧 の進 ん だ 制 度 や 文 物 を見 聞 した か っ た 。 し か し、 幕 府 存 亡 の 危 機 の 中 に あ っ て そ れ は不 可 能 で あ り、 や む な く弟 の 昭 武 を 派 遣 す る こ とに した 。 彼 に 十 分 勉 学 を させ よ う と した の で あ る。
慶 喜 の考 え で は、 昭 武 に は博 覧 会 後 もパ リ に残 っ て も らい 、3年 か ら5年 、 留 学 させ る予 定 で あ っ た 。 昭 武 を近 代 的 な 知 識 あふ れ る能 吏 に育 成 す る に は 、 そ れ 位 の年 月 は必 要 で あ っ た 。 しか も そ うす れ ば 、 第 二 帝 政 との 関 係 が 強 ま る で あ ろ う と も考 えた の で あ る。実 際 慶 喜 の 第 二 帝 政 へ の 関 心 は 高 く、「自 ら も西 周 に つ い て フ ラ ン ス語 を学 び 、 また 、 ナ ポ レオ ン 皿 世 か ら贈 られ た 軍 服 を着 用
し、 乗 馬 に も洋 鞍 を用 い る」 ほ どで あ っ た 。
か くして 徳 川 昭 武 一 行 は 、1867(慶 応3)年2月15日 、 横 浜 を 出 帆 し、4月 11日 、 パ リ に到 着 した 。 た だ ち に フ ラ ン ス政 府 との連 絡 や 博 覧 会 場 で の 出 品 物 の 展 示 な ど、 当初 の 目的 に沿 って 、 準 備 が 進 め られ た 。4月22日 、 慶 喜 か らの 国 書 の 写 を あ らか じめ 外 務 大 臣 に届 け、 ナ ポ レオ ン 皿世 との 謁 見 の連 絡 を ま っ た 。
4月28日 午 後2時 、 徳 川 昭 武 の 皇 帝 ナ ポ レオ ンHI世 に 対 す る謁 見 の 儀 式 が テ ユイ ル リー 宮 殿 で 行 な わ れ た 。席 上 ナ ポ レオ ンm世 は、「 両 国 親 睦 の 交 際 あ る、
君 主 の舎 弟 に面 接 す る を得 る は満 足 な り。 通 商 の 利 益 に よ り、 最 遠 隔 の 国 ま で
52)