小 特 集 《 近 世 播 磨 国 小 藩 ・ 福 本 池 田 家 領 の 研 究 》
この小特集は福本藩領研究会の活動成果の一部である。同研究会は2010年度に採択された文部科学省科学研究費補助金(基盤研究C)「畿内近国小藩領における大庄屋機能の研究
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播州福本藩領鵜野金兵衛家の活動を中心にー」(研究代表者今井修平 研究課題番号22520697)による研究調査活動のために組織されたものである。メンバーは今井修平と、分担研究者の村田路人氏、東谷智氏、志村洋氏、鎌谷かおる氏と研究協力者の郡山志保氏、竹国よしみ氏で、すでに数度にわたる神河町域の文書調査のほか、鳥取県立博物館、日本城郭研究センター、国立国文学資料館史料館、高砂市史編さん室で史料収集を行い、研究会、研究報告会をおこなっている。現在は各自の専門分野ごとに研究を深めつつある。今回はその成果の一部を中間報告の意味で、『神女大史学』に発表するものである。播 州 福 本 藩 領 の 成 立 と 地 域 社 会
今 井 修 平
はじめに
本論文は播州福本藩領の成立過程を明らかにすると同時に、小規模な大名領という存在が近世の地域社会の在り方にいかなる意義を有したのかを考察しようとするものである。
近世幕藩制社会において播磨国は五畿内に隣接する畿内近国として位置づけられ、複数の大名領、旗本領、幕府領からなる非領国地域として幕府の広域支配下に置かれていた。しかしながら摂津・河内・和泉にくらべると研究は立ち遅れており、畿内非領国論のなかで播磨が取り上げられることはあまり無かった。近年は自治体史編さんの進展により近世の状況が明らかになってきてはいるが、播磨国としての地域的特質が論じられるところには至っていない。一方、非領国研究においては幕府の広域支配の面に加えて封建社会の本質、すなわち個別領主による所領支配のあり方についても研究が進展している。その点で摂河泉に比べて大名領の占める割合が大きい播磨国は非領国研究で見逃されがちであった領主支配の要素を重視しつつ国家的広域的支配にも配慮した研究を深めることのできる対象でもある。それゆえ本稿では播州福本藩池田家領を素材に、小「大名領」として地域的に纏まった領主支配を受けていたことが如何なる地域的特質に繋がったのか考察するとともに、播磨国全体を畿内非領国研究のなかに組み込むための論点を提示したい。
1 福本藩の成立とその領域
福本藩は寛文三年(一六六三)に池田政直の入封によって播磨国神東郡福本村に陣屋を置く一万石の小大名として成立した。その後、同六年(一六六六)に政直が病没し、実子がいなかったためその所領は二人の弟に分知され、次弟の政武が福本藩の陣屋を中心に七千石を相続し、もう一人の弟、政済が屋形三千石を知行することになった。それゆえ一万石の小「大名」であった福本藩池田家は「旗本」となり、厳密には「藩」では無くなったが、本家として福本領七千石を継いだ政武は参勤交代をする「交代寄合」として大名に準ずる扱いをうけた。支配領域の村々も変更なく福本藩領三六カ村は福本池田家領二五カ村、屋形池田家領一〇カ村、相給一カ村に分けられたものの、領域としての纏まりは維持された。その後、貞享四年(一六八七)政武が死去すると長男政森が六千石を相続し、次男正親が上 (
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吉富村など四か村千石を分知された。その結果かつての福本藩領一万石は交代寄合席旗本の福本池田家六千石、旗本の屋形池田家三千石、旗本の吉富池田家一千石に分かれて所領支配が行われることになり、幕末までその状態が続いた。しかし領域としての纏まりは維持されていた。元禄期の領域村々を地図で示したものが図1である。ただし地図の範囲には含まれていないが瀬戸内に面した港津機能を持つ印南郡曽根村が福本池田家領として存在する。 (
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図1
明治維新後の慶応四年(一八六八)六月になって福本池田家は宗家に当たる鳥取藩池田家より四五〇〇石の廩米の配当を得て一万五〇〇余の石高を有する大名として「諸侯」の列に加わることを維新政府に認められた。ここにおいて再び福本池田家は福本藩となり、明治二年(一八六九)の版籍奉還では藩主の池田徳 のります潤が福本藩知事になった。しかし明治三年になって徳潤自身の希望によって福本藩は鳥取藩に帰属することになり、明治四年七月の廃藩置県後は旧福本藩領が一時的に鳥取県の飛び地となった。この鳥取県飛び地の範囲には屋形池田家、吉富池田家領も含まれている。その後同年一一月二日から姫路県、同九日から飾磨県となり明治九年の府県統廃合によって兵庫県の所属となった。このような特異な経緯をへて近世の福本藩領域は、現在の兵庫県神崎郡神河町の全域と市川町の一部、飛び地の印南郡曽根村は高砂市の一部となっている。より厳密に言えば、飛び地領の曽根村を除いた福本池田家領と吉富池田家領の全域が現在の神河町を構成し、屋形池田家領が市川町に含まれているということである。それではこの福本藩の領域は播磨国全体のなかでどのような位置をしめており、福本藩が成立したことが如何なる意義を有しているのか次節で検討したい。
2 領有関係の変遷と福本藩領
兵農分離と石高制によって規定される近世封建制社会の成立は播磨国においては天正八年(一五八〇)の羽柴秀吉による播磨一国平定を経て文禄四年(一五九五)の太閤検地によって達成された。しかしそれとは別の観点から播磨国の近世社会の出発を慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦の直後に入部した池田輝政による播磨一国支配に置く場合が多い。現在、国宝に指定され世界文化遺産にも登録されている姫路城の存在感は大きく、その姫路城を建設した池田輝政の時代を播磨国の近世の出発点に置くという認識が一般的になされてもいる。 (
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池田輝政は織田信長、豊臣秀吉に仕えた歴戦の織豊系大名であるが、後室の督姫(良正院)が徳川家康の息女であったことから女婿として家康の信頼が篤く、大坂城に健在の豊臣秀頼や豊臣系大名の多い西国への抑えとして、未だ軍事的緊張が続くなか、徳川幕府の了解のもとに壮大な姫路城を築いたことは周知の事実である。すなわちこの段階では播磨国は大「大名」による領国支配のもとで領内一円の均質な支配が行われ、大名領国として近世化が推し進められたのであって、非領国地域ではなかったのである。ちなみに池田輝政時代の領国支配の実態は必ずしも十分に明らかにはされていない。姫路城建築という大土木工事のため領内からの年貢収奪や夫役の徴発の強化、二割打ち出しの慶長検地実施など大まかな指摘はされているが、領地支配の実態を示す史料が少ないこともあって、地域社会の状況までは分からない。この播磨一国の大名領国支配は慶長一八年(一六一三)、池田輝政の死によって終わりを告げる。その所領のうち宍粟・佐用・赤穂の三郡を除いた四二万石は嫡子の池田利隆が相続し、宍粟以下の三郡一〇万石は輝政未亡人の良正院(督姫)の化粧領として良正院の実子忠継の所領に加えられ、忠継は備前と併せて三八万石を領有することで、西播磨三郡は岡山藩領の一部となった。池田利隆は輝政の嫡子であったが母は輝政の最初の正室糸子(中川清秀の息女)であり、家康との間に血縁関係はなかった。母糸子は事情があって実家に戻って離別しており、輝政は豊臣秀吉の仲介で家康の息女督姫と再婚したのである。ちなみに督姫も北条氏直と離別しており二人とも再婚であった。輝政と督姫の間には忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興と五人の男子が生まれており、いずれも徳川家康の外孫として特別の待遇を受けた。忠継はわずか五歳で慶長八年(一六〇三)備前一国二八万石を与えられたが、幼少であるため実際の仕置は異母兄の利隆が岡山城に赴任しておこなった。輝政の死後、遺領の大部分を継いだ嫡男利隆は岡山城から姫路城に移り、替って忠継が母良正院とともに岡山城に入った。したがって播磨国のうち宍粟・佐用・赤穂の三郡は岡山藩池田忠継領となり、残る一三郡四二万石は姫路藩池田利隆領となった。これによって播磨国は二つに分割支配されることになったが、池田氏一族による領主支配ということでは一体性があり大大名領国であったといえる。
この段階でも後に福本藩領となる村々は姫路藩領に含まれており、領主支配のうえでは変化はない。ちなみに池田利隆の領国支配は基本的には輝政時代の方針を継承したであろうと推測できるが、一〇年間岡山城で備前一国二八万石の仕置を任されていたことを考えると、あるいは輝政の播磨支配とは若干は異なる備前の統治方式を導入した可能性は想定できる。利隆時代の領内支配に関しては、姫路藩相続当初の慶長一八年七月十三日、八月四日、八月九日と矢継ぎ早に領内統治の法令を発しており、たとえば八月四日の「覚」にある「村により百姓つかれ候在所は立毛見当より少用捨仕可申付事」という条文は、輝政時代の姫路築城で疲弊した村々への配慮とも思われ、領内への支配方式がより丁寧に行われた可能性がある。その分析は別稿に譲るとして、利隆時代になって、より近世的な支配秩序が確立していったと思われる。その池田利隆の治世も長くは続かなかった。元和二年(一六一六)六月に利隆が死去し、跡を継いだ長男の光政は幼少という理由で同三年三月に鳥取に移封され因幡・伯耆三二万石を領有する鳥取藩池田家が成立した。因みに元和元年に備前国と播磨の宍粟・佐用・赤穂三郡を領有していた池田忠継が死去しており、備前国は弟の忠雄が継ぎ、宍粟は輝澄、赤穂は政綱、佐用は輝興と、良正院の子(家康の孫)に相続されていた。問題の播磨国であるが池田光政の鳥取移封後、元和三年(一六一七)七月に姫路に入封したのは譜代大名の本多忠政である。これは播磨国にはじめて譜代大名が配置されたことを意味している。しかもその所領規模は一五万石で播磨全体の半分に満たないのである。それゆえ本多氏の入封が播磨国に非領国化の始まりと位置付けることができる。以後、播磨国の分割支配が進行し、また歴代の姫路藩主は譜代大名か親藩にかぎられるようになる。ただし本多氏の場合は忠政の嗣子忠刻に将軍徳川秀忠の息女千姫が再嫁したことで一〇万石の化粧料が与えられ、実質的には播磨半国二五万石を領有していた。残りの地域も忠政の甥、小笠原忠真が明石藩一〇万石、次男正朝が龍野藩五万石を与えられ、また林田藩一万石を与えられた建部政長は池田輝政の甥、新宮藩一万石は池田重利であり、宍粟、佐用、赤穂をそれぞれ領有している池田三兄弟を併せて、播磨は本多氏一族と池田氏の一族によって支配されていたことにな (
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る。この段階でも後に福本藩領となる村々はまだ姫路藩領に含まれている。ただし領主は池田氏から本多氏に替わっていて、領内統治の方式にも変化がみられるが、これも別稿に譲りたい。その後、寛永三年(一六二六)本多忠刻の死による遺領分割や相続に伴う所領縮小を経て、寛永一六年(一六三九)本多正勝の大和国郡山藩への転封によって播磨から本多氏一族の所領は無くなり、姫路藩には替って松平(奥平)忠明が入封した。その所領は一八万石であったが、その後一六万石に減知されたと推定されており、正保元年(一六四四)忠明の死後は松平忠弘が一五万石を相続し次男清道が一万石を相続している。以後、姫路藩主は頻繁に交代しているが、所領高は一五万石で定着した。姫路藩領以外の播磨国の領有関係も分割、小規模化がすすみ、一七世紀末には姫路藩一五万石が最大で、明石藩六万石、龍野藩五万石、赤穂藩三万五千石(のち二万石)の城持ち大名のほかは林田、山崎、小野、三日月、安志、三草、福本の、陣屋しか持たない一~一・五万石の小大名領と幕府の直轄領、旗本領、寺社領、大名飛び地領によって構成される非領国となり、享保七年(一七二二)以後は摂津・河内・和泉・播磨が大坂町奉行所の行政管轄下となったのである。それでは福本藩領を構成する村々はどうなっていたか。これまで確認してきたように本多氏の時代までは神東郡・神西郡は姫路藩領に含まれており、福本領村々が姫路藩領であったことは確かである。寛永三年から播磨の非領国化が進行する段階でも幕府直轄地となっているのは多可・加東・加西・美嚢・加古・印南の諸郡が中心であり神東・神西の幕領は一二〇〇石程にすぎず、その村々は福本領ではないと考えられる。寛永一六年に松平忠明が一八万石で姫路藩主となった時も福本領村々は姫路藩領であったと推定される。ところが先に述べたように忠明の死後、忠弘に相続されたとき一六万石に減少していることを八木哲浩氏が指摘している。しかしその時期や理由を直接に示す史料はいまのところ見つかっておらず謎のままである。その時期に福本藩領となる村々が姫路藩領から切り離されて鳥取藩池田光仲の飛び地領となっているのである。 ( 6)( 6)
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すなわち、寛永一七年(一六四〇)七月、播磨国宍粟郡・佐用郡六万八千石を領有していた宍粟藩(池田家)が家中不取り締まり(お家騒動)によって取り潰され、藩主池田輝澄は甥の池田光仲にお預けとなった。輝澄は鳥取藩領因幡国鹿野に隠棲し、堪忍料一万石は鳥取藩領因幡国三郡のうちから一万石が支給され、その替りに鳥取藩には播磨国神東郡・神西郡・印南郡のうち一万石が幕府から与えられた。この処置は輝澄が池田輝政と督姫の四男で徳川家康の外孫にあたるため、家としての存続を幕府が配慮したことによる。鳥取藩に与えられた播磨国内の飛び地領一万石は輝澄が寛文二年(一六六二)に鹿野で死去し、嫡男政直に家督相続が認められて後、幕府から改めて政直の所領として宛行われ、福本藩が成立するのである。したがって福本藩の成立は寛文三年であるが、藩領村々の地域的纏まりの出発点は寛永一七年の鳥取藩飛び地領の成立に遡ることができるのである。
4 福本藩領の独自性
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むすびにかえて―
福本藩領村々の領主支配の変遷を整理すると、慶長五年から寛永一六年までは姫路藩領に含まれていたことが明らかとなった。この近世初期の在地支配の実態や地域社会の状況については池田武蔵守利隆の「武州様法令」などによって検討する余地はあるが、それは別稿に譲るとして、ここでは福本藩領村々はそのほかの姫路藩領村々と同じ状況であって地域としての独自性は見いだせないことを指摘するにとどめたい。福本藩領三六か村が姫路藩領とは別の独自性が生じるのは寛永一六年に鳥取藩の飛び地領となってからである。初期の姫路藩主が池田輝政であったことから、その系譜をひく鳥取藩池田家や福本藩池田家の支配方式を連続的に受け止めがちであるが、実際は前項でみたように本多氏、松平氏と領主が交代しており支配方式は変更されていると考えなければならない。事実、鳥取藩は播磨国内の飛び地領に代官を派遣し、大庄屋三、四人を見立てて大庄屋給を支給すること、年貢米 (
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積み出し港として飛び地領の印南郡曽根村と姫路藩領の飾磨津に蔵奉行を置くこと、年貢収納に際して用いる升を播州で用いていたものから、因幡・伯耆の升に変更することを命じている。つまり鳥取藩は播磨国内の飛び地領に従来の姫路藩領とは異なる別の仕置を行っているのである。この経緯も伊藤康晴氏がすでに実証的に明らかにしているところであるが、ここでは必要な時には代官を派遣しているが、日常的には常駐せず、三~四人の大庄屋を任命して年貢収納をはじめとする在地支配を行っていたことに注目して置きたい。つまり大部分の幕府領と同様に武士が在地には居ない、百姓だけの世界であった可能性が高いということである。つぎに福本藩領三六か村がより一層、独自の領域となる契機は言うまでもなく寛文三年(一六六三)の池田政直による福本藩の立藩である。以後、福本藩領(交代寄合旗本池田家とその分家旗本領)三六か村の地域的纏まりが明治四年まで続くことは2項で述べた通りである。その内実の一端は本小特集の郡山論文と鎌谷論文に示されているが、多くは今後の研究の進展に委ねられている。そこで予想される論点を二、三指摘して置きたい。まず重要なことはそれまで武士の居ない百姓だけの世界であったこの地域に百数十名の武士の居住地が出現したことである。姫路藩領時代でも武士はこの地域からはるか離れた姫路城下にしかいなかった。ところが立藩により新殿村を福本村と改め、そこに藩主の居館を構えて陣屋とし、その周辺に家臣団の武家屋敷が建設され、街道に沿って商工業者の町屋が立ち並ぶという陣屋町が出現したのである。兵農分離による武士の城下町集住、武士の在地性喪失という近世封建制の原則は貫徹されているが、三六か村の限られた範囲に領主と家臣団が常駐している、という状況を想像すると領主と領民、武士と百姓の距離は摂河泉の非領国に比べてかなり近いものとなったといえる。言い換えれば幕府が個別領主に常に戒めている私的恣意的支配がなされる可能性が高くなった、ということである。つぎに堪忍料として鳥取藩領から一万石相当の年貢米(五〇〇〇石程か)を支給されるのと、独立した大名として一万石を領有するのでは領主池田家の財政負担の規模が全く異なる、と考えなければならない。まず参勤交代の経費、 (
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幕府に対する軍役のための家臣団の召抱え、領内の秩序維持や公共土木工事、勧農など、公権力としての機能を保持するための多大の出費が強いられる。それらの財政負担は距離が近い分だけ余計に領民への直接負担に跳ね返ることが想定されるのである。年貢増徴に反対する越訴を試みたとして大庄屋の上月平左衛門が惨殺されたという義民伝承が地域に残されているが、単なる伝承ではなく宝永五年(一七〇八)には大規模な年貢減免の騒動が起きた可能性は高い。大庄屋制そのものは姫路藩時代に始まっており、鳥取藩飛び地支配においても大庄屋が置かれていたが、大庄屋の在り方も福本藩成立後は変化があったと考えられる。また逆に小規模な藩領であるからこそきめ細やかな民政が行われていた可能性もある。藩の財政運営と密接に関わっていた大庄屋鵜野金兵衛家の金融活動が対象地域に限定されていたことが本小特集の鎌谷論文に紹介されているように、金融や商業の面でも小藩領としての独自性がうかがわれる。まだ研究は緒についたばかりであるが、幕府の広域支配や近隣の諸藩領との比較も含めて福本藩領の地域的特質に積極的な意義を見出しつつ、播磨国の近世社会像を描き出していきたい。
[注]
(1)非領国研究の成果は膨大であるが現状については、岩城卓二「畿内・近国支配構造研究の課題―非領国論・幕府領国論・支配国 論が提起したもの―」(『歴史科学』一七三号、二〇〇三年)が的確に整理している。
(2)長谷川義徹『福本藩史』(自費出版 一九九七年)、宮永肇「播磨に遺す輝政の系譜―福本藩の成立と展開」(播磨学研究所編『池
田家三代の遺産』神戸新聞出版センター二〇〇九年)
(3)『兵庫県史』第四巻(一九七九年)付図より部分転載
(4)『姫路市史』第二巻(一九九一年)など (
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(5)岡山大学所蔵「岡山藩池田家文書」の「武州様法令」
(6)『兵庫県史』第四巻第二章第三節(八木哲浩氏執筆)
(7)『姫路市史』第二巻第二章第一節(八木哲浩氏執筆)
(8)伊藤康晴「播磨国鳥取藩領及び福本藩に関する基礎的研究」(『鳥取地域史研究』一号、一九九二年二月)
(9)(8)に同じ。鳥取県立博物館所蔵の鳥取藩政史料でも確認できる。
(
0)高橋弘治『新野 上月氏の研究』(自費出版 一九八七年)、『高砂市史』第二巻第一章第三節4(中川すがね氏執筆)
(本稿は文部科学省科学研究費補助金(基盤研究C)「畿内近国小藩領における大庄屋機能の研究