フリードリッヒ・ノヴァコフスキー「正当化事由の 主観的行為面について」
著者 振津 隆行
雑誌名 金沢法学 = Kanazawa law review
巻 30
号 1
ページ 63‑77
発行年 1987‑12‑25
URL http://hdl.handle.net/2297/18211
従来から、オーストリアにおいては客観主義学派 (リットラー、グラスベルガー等)と主観主義学派(カ デチュヵ、ノヴァコフスキー等)とが和解しがたく対 立してきたが、にもかかわらず、ベーリング体系への 信奉という点では両学派は一致し、それが伝統的オー ストリア刑法ドグマーティクの共通的基盤を形成して 八紹介v
フリードリッヒ・ノヴァコフスキー 「正当化事由の主観的行為面について」
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はしがき きたものであるとされている(これらについては、拙 稿「オーストリア刑法学研究序説n口」商学討究第三 四巻第二号八五頁以下、第四号四三頁以下、および同 「オーストリアにおける現代的犯罪論の展開」金沢法 学第二八巻第一号一頁以下等参照)。 その際、ノヴァコフスキー等は、一方で主観主義的 犯罪観を主張しながら、他方で純客観的違法論を採る という一見逆説的にもみえる主張から生ずる理論的諸
困難を解消すべく「不法なき責任(の呂巨区・盲のどこ『の‐振津隆行
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、g」の理論(ないし「適法であるが有責な」可鯛的
態度の肯定)というきわめて特徴的な理論的展開をなすに至った(これについて、拙稿・前掲論文、さらに
は、同「不法における結果無価値と行為無価値H」関
法第二六巻第一号一六一一一頁以下等をも参照)。もっとも、その後、一九七二年にノヴァコフスキー
はこの理論を捨て、「ベーリングの体系は実際上維持さ
れるものではない。……却って、故意を終局的に不法
に位置づけるべく決定しなければならない。」(zC肴甲
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とで、現代西ドイツ等における人的不法論の国際的潮流に合流するに至り、従来オーストリア刑法学の伝統
的基盤を形成してきたくlリング流の客観的不法および主観的責任の命題を圧倒的に放棄してしまったので
ある(もっとも、なぜにノヴァコフスキーが従前の純 客観的不法論を放棄するに至らざるを得なかったかと いう点は、わが国の理論状況を鑑みる場合とくに興味
深いところであり、かような観点から最近ノヴァコフスキーの違法論を再検討したものとして、三島◎さ]Q四)zC三四六.言⑩冠⑪旧のロRのご○二・の『宛の、亘晩二一□『-,戸の一〔 I同旨国の一[『四m目『ロ○m目の。晩の“n三同亘のQの『の(『四〔『の、写 〔--,ヶのロロロ『の、三m一の言のl・【の一○F凹冨宛の『一の三[Z()・』|・
」拐回の・Sm{{・が参照されよう)。さて、本論文は前記一九七二年論文に続いて、一九
七七年ノヴァコフスキーが人的不法観に与した上で、
主観的正当化要素に焦点を当て、個々の論点とその諸
帰結を明らかにしたものである。もっとも、本論文は文献的にはさほど新しいものではなく、紹介者(振津)
自身も先頃別稿でこれにも若干触れたが、その際論述
が簡単であったため説明不足の憾をいただいていた。 そこで今回、ノヴァコフスキーの表題論文を紹介する
ことで、前稿を補完すべく企図した次第である(なお、一九七二年論文を含む本論文に関する私の総括的論評
につき、拙稿・前掲金沢法学二八巻一号二三頁以下参照。また、愚一・亘四・四・四・○・》⑫」」副{・)。
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(序)
正当化が行為者の心理的要素にどの程度依存するか に関する研究は、不法を根拠づける際の内心的な行為 面の意義という点から出発しなければならない。そこ で、オーストリアにおける「人的」不法論の展開に関
する一瞥をもって始められよう。〔本論文の構成は、簡単な序と総括の外に本文が八つ
の部分に分けられているが、紹介の便宜のためにそれぞれに一応の仮題を付しておいた。なお、本論文は、一九七七年二月二一日オッテンシュタインで開催されたオーストリア裁判官協会の刑法セミナーでの講演に加筆・修正を施したものであること、条文等につき特記のない場合は、(’九七四年)オーストリア刑法典を 指す旨の前注がある。また、以下で私とはノヴァコフ
スキー自身を指すことを予め注記しておく。〕オ1ストリアにおける「人的」不法論の
展開不法は外部的な行為面のメルクマールだけが重要だとするベーリングの理論は、周知のごとく、オ1ス
トリアにおいてはドイツにおいてとっくの昔に捨てら
れたあとでもなお支配的であった。私自身はその理論
の最後の旗手であった。しかし、マラーーウクは既に一九五三年にメッガーおよびへ1グラーの意味における
主観的違法要素の理論に賛同し、私自身も一九六五年の学会報告を最初として、’九六九年のオーストリア
刑法・刑事学学会では故意を行為無価値および責任要素と理解する見解に従ったが、これを活字に付さな
かった。しかし到々私は、一九七二年にある論文で、
私の師カデチュカとリットラーが信じて疑わなかった 理論を見捨てたのであり、今日オーストリアの刑法学
は両巨匠の立場を全く圧倒的に放棄してしまった。そうこうしているうちに、ブルクスタラーやキーナッペルによって正当化における主観的行為面の研究もなさ
れるようになり、この点についてなお詳述されること
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になろう。
さらに、歴史的な注をしておくと、当初、刑法委員 会は故意が責任にのみ属するというのは自明のことで あった。しかし、’九七一年の政府草案の説明書では、 故意を責任にのみ属させるか、あるいは不法にも配分 するかということとは独立して、草案の諸規定は主張 しうるものと述べたのである。また、その一四条一項 後段の規定などは故意を不法面で考えることを明示し て承認していたのであり、実際上、刑法典において故 意を不法に位置づけるときにのみ意味をもちうるよう な若干の規定が存在するのである。
ニノヴァコフスキーの不法論と主観的正 当化要素の内容 以下では、主観的違法要素に関する私自身の立場を 明らかにしたい。イェシェックに従って、私は刑法は 社会の保護のために人間を実質的に正しい意欲へと導 くべきであり、それ故、社会違反性の意味における法 の無価値陳述を、行為がそれに一致し、そして行為に
方向を与えるところの意思活動(三一一一の二恩寓)に関係づけることが首尾一貫しているというところから出発 する。だから、意思活動は既に「無価値に重要」なも のであり、「為きれるべきものではな」く、態度の基礎 となるものである。すなわち、決意は違法の観点では 態度とその結果の根源として評価され、それに対し責 任の観点では行為者の社会的拒絶の帰結として評価さ れるのである。それ故に、不法と責任は混同されない。 社会違反的な意思活動は、ヴェルッェルに負うている
用語に従えば、「行為無価値(シォヴ》aの「出色且一目頭,幼目三の『ご」を創り出すものである。当初から行為無価 値を背負った行為から、結果無価値が生ずるのである。 そして、この結果無価値は二つの段階に区別される。 行為は、犯罪類型の実現の法的に否認される危険(そ れとともに法益の侵害)を招来する。この社会不相当 性(ぬ()且四一旨且葺息目)は結果無価値の第一段階であ る。法益に対するその意義における構成要件の実現が、 結果無価値の第二段階である。その他に、狭義におけ る結果無価値が社会不相当な危険の実現において生じ
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この体系を、私はこれ以上展開しようとは思わない。
ただ何といっても、主観的な違法要素としての行為無 価値が結果無価値に先行するものだということを確定
すれば十分である。ここから、本テーマの入口が明らかとなる。すなわ
ち、不法は行為無価値と結果無価値とから成立すると すれば、両者が欠落するときにのみ不法が阻却される ということである。オーストリアにおいてベーリング 流の客観的違法論が支配していた間は、正当化の理論
において専ら結果無価値をもって考えねばならなかったが、今日最早それは不可能である。そこで、この論
段階。たものでなければならないという「違法性連関」また は「危険連関」といった段階も問題となる。
かようにして、違法の三つの平面が区別される。すなわちP⑪行為がそこから起因するところの価値違反 的意思決定I行為無価値、②法的に否認される危険の 招来I結果無価値の第一段階、③構成要件の(および それに一致する法益侵害の)実現Ⅱ結果無価値の第二
三一九七一年政府草案および新刑法典の 立場と主観的正当化要素 一九七一年政府草案における故意の定義によれば、 法定の所為像(『禺巨・)と一致し、かつ違法な事態を 実現することを欲した者は故意に行為するものであ る、とされていた。したがって、正当化する事態が存
在するということを行為者が知り、もしくはそれを信
頼したなら、彼は「故意に」行為したものではないで あろう。しかし、司法委員会では「かつ違法な古且
『の、亘切三一・『】ぬ〕輿)」という文言が削除されたのであるが、もっとも専らこれは、プラッッグンマ1によれば
争問題を論及しよう。さて、ブルクスタラ1は、イェシェックやその他の 者と一致して主観的正当化要素は正当化する事実の存 在についての知見でよいとし、それを超える動機や目 的といったものは不要だとする。動機や目的まで要求 する見解は、道徳的判断に対する法的判断の限界を混
同するものであろう。
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故意を違法要素と考えることに役立つということで推 奨されたことであった。したがって、「かつ違法な」と いう文言の削除は、理由書によれば、いずれにせよ故 意は単に所為像の実現のみならず、それに属する違法 性事態の実現をも包摂しなければならない、かくして 換言すれば、行為者が正当化する事態が存在するとい うことを認識したときには、可罰性にとって必要な「悪 しき故意」が存在しないということに反対するもので はない。それ故に、その規定は、とくにヴェルッェル 等によって主張されている厳格責任説を排除するため に採用されたものである。 目下のところは、刑法典の当該諸規定は、プルクス タラーによって提起され、ドイツにおいて支配的な学 説と十分一致するということが確定されるのである。
四主観的正当化要素の内容l正当化す る事態の存在の単なる知見で足るか、そ れ以上のものを要求しているか けれども、なお疑問が残っている。すなわち、法律 は主観的正当化の側面について、正当化する事態の存
在の単なる知見以上のものを要求しているとするなら、どうしてなのか。判例によれば、懲戒権の行使は教育目的でなされる ときにのみ正当化される。しかし、そこでは本来の意 味における主観的正当化要素が必然的に考えられてい るわけではない。すなわち、ここでは教育的効果が外 部的にみて疑わしくなるかどうかが問題となるので あって、教育目的は行為の外部的有効性のための前提
であるにすぎない。正当防衛にとっても防衛の動機は問題とはならない というのは、既に旧刑法下においても判例・学説とも に一致して認められてきたものであり、これは新刑法 三条によっても明らかとされている。私のみるかぎり、 オーストリア刑法典においては、主観的な正当化側面 にとって正当化する外部的事態の存在についての知見 以上のものを要求している規定は存しない。 しかし、それだけでは何ものも獲得されていない。 正当化事由は全法秩序において見出されるものであ
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ドイツ連邦共和国においては、判例および一部の学
説は、正当防衛、緊急避難等において防衛の目的、避難の目的等が要求されている。そこで、客観的な正当化の要件が存在し、かつ行為者が彼の行為の効果をも予見したが、内心的な行為面
で更なる要件(たとえば、防衛の目的)なしに行為した場合に、何が妥当しなければならないかが問題の核心となる。五、八条はこの問題に答えていない。なるほど、客観的な正当化事由がある場合結果無価 値が欠落し、ただ行為無価値が残存しているというこ とで未遂だとする解決も可能であろう。 しかし、その解決が立法者の意図に適うものかどう
かは疑問である。つまり、立法者は正当防衛や緊急避難に対し防衛の目的を要求しており、あるいは公務の
り、刑法の教科書で論ぜられているのはその多くのもののうちのわずかの部分にすぎない。主観的側面に関し、正当化する事態についての単なる知見以上のもの を前提とする正当化事由が存在するかどうかにつき、
だれが問題としてきたか。五ノヴァコフスキーの正当化の理論と補 足的主観的正当化要素11口実防衛は 未遂か既遂か
そこで、ここでは二つの関連が強く意識されねばならない。まず第一に、正当化される行為にあってはl道徳神学の用語を使用するなら11常に二重効果の行為(、8.目o--gの①【【の、白の)が問題となる。それは無価値を畏れさせ、価値を期待させる。それは許されない危
険を背負わされ、あるチャンスによって顕彰されるものである。すなわち、正当化される利益(幻月寡,{のa頭目ぬい、貝)にたいするチャンスが法益侵害というリスクと街量するところから、結果無価値の欠落が生 ずるものである。そして、正当化にとっては常に事前
執行にあたりその前提を注意深く検討したときにのみ、立法者は一定の官憲の行為を正当化されるものと考えようとしているとするなら、そうでない場合には正当化事由は支持しがたいものとなるであろう。
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判断が決定的である。法秩序は、その危険をそのチャ ンスのために我慢するのである、すなわち、法益の侵 害は、法秩序が正当化の利益のために支払う用意のあ る価格なのである。イェシェックは「法益衡量の思想」 からする正当化と「目的思想」からする正当化との間 を区別し、前者は事後判断、後者は事前判断を目指す ものだとしている。しかし、事後判断をもってするな ら、法秩序はその秩序機能(Ca二目甥.)と給付機能 (Pの寓目胸⑩【自尊。。)とを犠牲にすることになる。加え て、行為の決意は暗闇へと飛翔してしまうので、決意 が行為無価値を負っているかどうかは、既に決意の瞬 間において確定しなければならない。 さらに、行為無価値は単に結果無価値に時間的に先 行するというだけではない。却って、行為無価値はそ こから更なる不法の諸層が現実化の段階として発展す るところの不法の最初の層なのである。すなわち、帰 属の思想と関連していうなら、なんといっても結果に 対する行為の因果性が問題ではなく、結果の行為への 帰属{凶巨『の、盲目瞬旦の、ロ『{。}ぬ、2『西津且一目胸)が問題 なのである。行為無価値を負うている行為が許されな い危険を創り出し、そして.この危険が結果の中で実 現するのである。許されない危険の実現において生じ なかった結果は、行為に帰属されない。すなわち、死 の結果の危険を故意的にも、また命ぜられた注意義務 違反もなしに招来した者には、この危険ならびにそこ から生ずる結果は帰属されないのである。 そこで、多くの犯罪類型のうち目的(シ冨一、宮)を要 求する犯罪では’す戦わお補足的な主観的正当化 要素が讓求される場合I綣采鱸鰄臓は重要ではな く、単なる正当化事態の存在の知見では足らず、積極 的行為価値が必要とされ、それに対し、単なる故意だ けが要求される犯罪では正当化する事態の存在の単な
る意識で十分である。したがって、救助の目的、あるいは義務に適った注 意を払うことといった補足的主観的メルクマールが正 当化の前提とされているとするならば、たとえば、昔 の例を引き合いに出すなら、犬が子供を襲うというこ とで隣人の犬を射殺するが、これが子供を救助するた
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めではなく、うるさく吠える不愉快な犬を排除するた
めに射殺するとするなら、すなわち、正当防衛が防衛の目的を要求するなら、積極的行為価値は実現されて おらず、彼は緊急救助に基づくことができない。 それにもかかわらず、正当化事由の結果価値は実現 されているであろうが、しかし、積極的行為価値の欠
如は結果価値の行為への帰属を阻止する。そこで、前述との関連で二重効果の行為の観点から
みるなら二万の効果Iすなわち.正当化の結果緬
値は行為に帰属せず、他方の効果11すなわち、所為 像に該当する法益侵害という結果無価値は行為に帰属 されるのであるから、正当化は全く排除され、行為者
は既遂犯のかどで可罰的である。六正当化事由の錯誤の問題I誤想防衛 と偶然防衛の処理 つぎに、錯誤の問題を考えてみよう。その際、最初 に示された今日の通説を再び取り上げ、議論を進めて
いこ、7。 まず、正当化事由の誤認については、八条によれば
行為者は故意の既遂のかどで処罰されない。そこで、 たとえばブルクスタラーによれば、故意の行為無価値
鰹欠如するl行為看ば法秩序が否認する何ものをも実現しようとしていない’のだから、放意行為の不 法類型にはあてはまらず、過失犯のみが問題となると
する。しかし、さきほど私が展開した見解から出発するな
ら、事柄は異なっている。たとえば、行為者が正当化 する事態を誤認したが、しかし、正当化にとって必要 な内心的態度をもって行為しなかったような場合に は、その錯誤は(故意)行為無価値を排除するもので
はない。このような帰結は八条に矛盾するように思わ
れるが、次の二つの方法で解決することができる。 まず第一に、行為者が誤認しなければならない事態 の中に主観的な正当化の諸前提を組み入れるならば、 かかる主観的正当化要素が事実上欠けるときは、正当
化事態の誤認は欠落するであろうからである。つぎに、八条の創設の際、補足的な主観的正当化要
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素の事例は念頭に置かれていなかった。それ故、八条 はかような主観的正当化要素が問題とならないところ
で適用されるのであり、元々、八条は説明書によれば正当化する事態の誤認にもかかわらず、(故意の)既遂 を認めようとするヴェルッェル等の厳格責任説を排除 するために法律化されたものである。われわれの立場
はこのような厳格責任説とは出発点を異にしており、すなわち、誤認された外部的な正当化事態が事実上存 在しているが、主観的行為面はその意識にもかかわら
ず正当化されず犯罪は既遂として帰属されると考える見解であり、このような見解を立法者は考えもしな
かったので、われわれの立場は八条の成立史に矛盾せ ず法律の条文とも適合する。 逆の事例はより興味深い。すなわち、行為者は正当 化する外部的な事態が存在するということを誤認する といった場合(例・偶然防衛)、支配的な見解、たとえ ばプルクスタラーやイェシェックなどは、犯罪は既遂 だが未遂の規定を適用すべきだとするが、それは首尾 一貫しない。もし、構成要件に該当する行為はあった が結果無価値が何ら実現していないというところから
出発するなら、未遂としてよいだろう。もっとも、ブルクスタラーは以下のように述べる。「客観的に与えられている正当化する事情を知らないで行為した場合は
未遂ではないlまさに、霞讓の完全な蘂現が存在する。」と。したがって、既遂犯の結果無価値は実現されていないというところから出発し、しかし同時に未遂は存在しないと考えるなら、無罪とすべきであろう。にもかかわらず、未遂を認めるのは不利益な類推
解釈だともいいうる。もっとも、実際には未遂が直接的に与えられている。それに対して、われわれの立場では生じた結果価値(正当化利益)は行為に帰属されないとするところか
ら出発するので、既遂の無価値内容における犯罪を主
張しなければならない。つまり、行為者が彼の行為の
積極的な効果を意識したが、正当化にとって必要な内
心的態度において行為せず、あるいは補足的な主観的 正当化の前提なしに行為したときにも行為者に正当化 は役立たないのであるから、彼が正当化する事態の存
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在について凡そ何ら意識しなかったときにはなおさら のこと、既遂の責任を負わねばならない。
七偶然防衛1未遂論と一五条三項との関 係(不能犯の成否) だが、未遂を認める前者の見解に従うなら、オース トリア刑法典一五条三項により処飼されなくなるので
はないかという問題が生ずるであろう。リットラーが主張したような構成要件欠峡の理論に よれば不処罰となるであろうが、このような区別は今 日最早主張されていない。 したがって、直接的に一五条三項から出発するなら、 正当化する事態を行為の態様として捉え、かような正 当化事態が存在する場合所為像に該当する結果無価値 を実現することは、「いなかる事情の下においても」不 可能といいうるであろう。もっとも、一五条三項の公 式、すなわち、「いかなる事情の下においても不可能 (目【の【【の旨自己曰の威且の)」の確定のためにいかなる一 般化が妥当かが問題となる。空のズボンのポケットに 手を入れることはいかなる事情の下でも窃盗の既遂は 不可能であるが、あるズボンのポケットに手を入れる とするならそれは大いに可能である。結局、この確定 をめぐる問題は抽象的に決定するのではなく、最高裁 が展開してきた日協一四三に頼る他はない。 この点と関連して、プルクスタラーは一五条三項に ついて適性性(『餌長一一、富の己は事後的にではなく事 前的に判断すべきであり、しかも、行為時における行 為者の観点からの観察者の判断を目指すべきだとする のであるが、この解釈は法律に遺憾ながら合致しない。 「いかなる事情の下においても不可能」という条文は、 行為者に認識可能なものに確定するということに反対
するものである。だが、私は一つだけは確実なものと考える。すなわ ち、未遂の法律の規定を実質的・客観的未遂論 (曰呉の【】の二6豆の六号のぐの『の巨、冨一のす『の)の確証として解 釈してはならない。未遂刑の存在根拠は行為の客観的 危険性にあるのではなく、その行為無価値にあるのだ。 そこで、結局正当化事由の存在の不知において行為し
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終わりに、過失行為の正当化について一瞥しておこ う。過失行為にあっても主観的正当化要素が必要かど
うか、そして、もし必要とするならいかなる形態にお
いてそうかということについて見解は様々に分かれているが、ここではこの点に触れない。その代りに、プ
ルクスタラーの見解をみてみよう。彼自身は主観的正
当化要素は過失の場合でも必要だとし、過失犯の他の 形態に相応して、正当化事態は事前的に行為者の立場 から客観的に認識可能であるときには十分であるとす る。しかし、実際上ブルクスタラ1は、過失は結果無 価値が発生する場合にのみ可罰的だとすることで、こ の問題を本質的なものだと考えていない。 た者を未遂とする見解にとっても、一五条三項によっ て不処罰とされないとしてよいだろう。
ただし、行為者に既遂の責任を負わせる見解からすれば、当然ながらこのような問題は全く生じない。
八過失犯における正当化 しかし、認識されなかった正当化事態が存在したよ うな場合、すなわち、結果無価値の欠ける過失行為が 問題となるような場合、ブルクスタラーは故意行為の 場合にも問題となったように、それが元々未遂にすぎ ないということから出発するのか、既遂だが未遂の規 定を類推して不処罰とするのかが明らかではない。 もっとも、彼の立場ではいずれにしてもかような場合
実質上処罰されないのである。しかし、前述したようなわれわれの立場からは、行
為者が正当化事態を彼の意思形成の中に受け入れなかったとき結果価値は行為者に帰属されず、結果無価値のみが負わされるのであり、したがって、行為者は
故意の遂行の場合その犯罪の既遂の責任を負わねばな らないように、過失の遂行の場合も全く同様に妥当す
る。
過失犯における正当化の主観的側面にとっては故意
犯のそれと全く同じものが妥当し、客観的に正当化する事態の存否にかかわらず、この場合には刑飼威嚇の
法益に対する命ぜられた注意義務違反を含んでいるわ74
けであり、結局正当化は行為者がそれに相応する行為 価値{シ寓言の『()をもって行為したときにのみ許容き るべきものなのである。
(総括)
これで終わりとします。いままでの考察は、新しい 法律も学説・判例に委ねている自由余地がいかに広い かを一再ならず証明している。不法要素としての故意 の解釈の問題は、とりあえず決定されると考えられる。 上述のごとく、正当化の主観的行為面については非 常に対立する諸見解が主張されている。とくに、錯誤 の諸事例や過失的態度の正当化、行為者が正当化の客 観的諸前提の存在を知っているが補足的な内心的メル クマールを実現しないときなどに見解が分かれるが、 もし、かような諸事例において外部的行為面に基づい て正当化を許容しようとするなら、第一の構成になる だろうし、かような場合に正当化を許容しようとしな いなら、第二の構成となろう。だが、おそらく第二の 解決が立法者の意図および補足的主観的正当化要素の 機能によりよく合致すると考えられる。すなわち、法 律が正当防衛による正当化のために防衛の目的三m『‐ 【の己一頭旨、叩号、門冒)を、緊急避難による正当化のため に救助の目的〈宛の写目mmmワ⑩一、言}を、また一定の官憲 の行為による正当化のために第三者の権利領域への干 渉のための諸前提の注意深い検討を必要としていると するならば、その行為はそれが正当化に役立つときで もそれらの主観的要素がなければ正当化されないと理 解すべきであり、また、それが立法者の意図だとする なら第二の解決を採用しなければならないだろう。
あとがき 以上によって、本論文の概要はかなり詳細に提示さ れたものと思う。そこで、以下若干のコメントを付し
ておく。
|まず、一九七二年論文において故意を違法要素 としても承認するという改説後のノヴァコフスキーの 違法観が、本論文において正当化の側面をも含めてよ り明確に示めされており、とくに彼の現在の違法論は、
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最近ガラス等によって、二元的不法観のうち、行為無 価値を志向無価値にのみ汲み尽し、他方、すべての客 観的メルクマールを結果無価値に帰属させる論者に属
するものとされている(○四一一四⑪》」。“国・鳥の一日目ロー甸の⑫扇の胃一{戸]召Pの.】圏ショョ。、)。また、不法を、まず、行為無価値としての価値違反的意思決定、つぎに、 「結果無価値の第一段階」としての法的に否認される 危険の招来、最後に、「結果無価値の第二段階」として
の法益侵害の実現という三つの平面に区分する彼のいわゆる「多層的不法概念」は、内容的には若干異なる
もののヴォルターの「帰属論」等に反映しており(と
くに、ヴォルターのいわゆる「第一次的結果不法(-危険性不法)」および「第二次的結果不法」の区別〉、 かような構想に適切な概念表示を提供したものとされ (ぐ麺一・三。-戸の『・○ず)の再]ぐの巨己己の『“Cg-の臼巨『の、冒冒ぬ
ぐ。ごく①『g一房P。の{島同ロ且くの『|の白目媚冒のご§[ロロ言】○二画一の。の(日{国(望の戸の日.」@画].、’3句二・mP冒各・忠司二・sF砂言・)、しかも、かような不法の構 想が西ドイツ等では今後かなりの影騨力をもちうるよ うに思われる点で興味深い(この点につき、たとえば、 の日己(日、の。□の⑪目・』のョの。の〔『員『の、耳の望め〔の日、. ]・置所収のシューネマン、ルドルフィー、ヴォルター
の各論文等をも参照)。二つぎに、違法論で強調された行為無価値への重
点の変遷の結果、その裏面、すなわち、本論文のタイ トルである正当化の側面で、主観的(正当化)要素が かなり重要な地位を占めるに至り、改説前の見解との 著しい結論の相違が認められるという点が注目され
る。
すなわち、以前ノヴァコフスキーは、カデチュカと
ともに「適法であるが有責な可罰的態度」という独自の主観説から出発して、客観的正当化事態そのものを 不法阻却にとって十分だとしたが、行為者が不処罰に なるためには補足的に行為者がこの事態の存在の知見 を必要であるとして、このような主観的要素を欠けば、 行為者は正当化されるにもかかわらず可罰未遂となる
としていた。
しかし、本論文でノヴァコフスキーは正当化につい
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て二つの関連が必要であり、第一の関連として「二重 効果の行為」という観点から正当化される利益のチャ ンスと法益侵害のリスクとが衡避されるべきであり、 この点から事前判断の重要性を強調し、第二の関連と して行為無価値は結果無価値に時間的に先行するもの で、結果に対する行為の因果性ではなく、結果の行為 への帰属が重要であるとする。そこから、たとえば、 わが国でいわゆる「口実防衛」につき既遂論、誤想防 衛でも故意犯説、また、わが国でいわゆる「偶然防衛」 についても既遂論、さらに、過失犯に関する「偶然防 衛」につき過失既遂論(-有罪説)を採る等それぞれ 厳格な可罰性を肯定する見解へと至っており、この点 でブルクスタラー等の見解と比較しても、主観的要素 の優位という点が際立たされており、却って、主観的 犯罪観を一層強化するものと評することができるであ
ろう。
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