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正当化された真なる信念は、知識なのか?エドムント・

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Academic year: 2021

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(1)

第八回講義(

3. Dez. 2002)

§

3 主張を正当化するとはどういうことか

最初に述べたように、今期の講義では、知の窮極的な基礎付けは不可能であるとい うことを前提した上で、議論したい。知の基礎づけが不可能であるにもかかわらず、

我々は何らかの知を採用している。そのとき、「それらの採用をわれわれはどのよう にして正当化できるのか」あるいは「その正当化をする必要があるかどうか」が我々の 問題である。

それゆえに、我々が問題にする「正当化」とは「基礎付け」とは別のものである。

では、それはどのようなことだろうか。この

§

では、これを考えたいが、そのための 手がかりをゲティア問題に求めたい。

1、ゲティア問題

Edmund L. Gettier

の論文 ‘

Is Justified True Belief Knowledge?’in “Analysis” 23 ( 1963)pp. 121-123 は、 http://www.ditext.com/gettier/gettier.html

 に掲載されて いる。それを下に訳した。(講義では、全訳を配布しましたが、著作権があるので、こ こでは、部分訳にとどめます。)

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

正当化された真なる信念は、知識なのか?

エドムント・

L

・ゲティア著

 ひとがある与えれらた命題を知っているための必要十分条件を述べようとして、近年 さまざまな試みがなされてきた。それらの試みは、しばしば、次のものとよく似た形 式で述べられることができるようなものであった。

(1)

   a,

S

P

を知っているとは、次のときそのときに限る。

P

が、真である。

       

S

は、

P

を信じている。

       

S

は、

P

を信じることにおいて、正当化されている。

<このあと、チザムとエアの定義が紹介されますが、省略します>

私は、その中で述べられた諸条件が、

S

P

を知っているという命題の真理に関する 充分条件を構成していないという点において、(a)が間違いである、ということを論 じるだろう。「・・のための十全な証拠を持っている」や「・・・と確信する権利を持 っている」が、一貫して「・・・と信じることにおいて正当化されている」という表現 の代わりに用いられているのならば、同じ議論によって(b)と(c)が間違っている ことを示すことになるだろう。

私は、二つの点を注意することからから始めよう。第一に、<

S

P

を信じるこ

40

(2)

とにおいて正当化されているということが、

S

P

を知っていることの必要条件で ある>という意味での「正当化された」という意味において、<実際には偽である命題 を信じることに関して正当化されること>が、ある人物に関して可能である。第二に、

どのような命題

P

に関しても、もし

S

P

を信じることにおいて正当化されており、

P

Q

を含んでおり、

S

P

から

Q

を導出し、

Q

をこの演繹の結果として受け入 れるならば、その場合には、

S

Qを信じることにおいて正当化されている。

これらの二点を心に留めて、私はいまや<(a)の中で述べられた諸条件がある命 題に関して真であるが、しかし同時に、問題のその人物が、その命題を知っているとい うことが偽である>という二つのケースを提供しよう。

ケース1

スミスとジョーンズがある仕事に応募したと仮定せよ。そして、スミスは次の連言 命題に関する強い証拠をもっていると仮定せよ。

d、ジョーンズは、その仕事を手に入れる男であり、かつ、ジョーンズのポケ ットに10個のコインを持っている。

スミスの(d)に関する証拠とは、<その会社の社長が、ジョーンズは最後に選ばれる だろう、と彼に確信させ、そして彼、スミスは、

10

分前にジョーンズのポケットの 中のコインを数えていた>ということであるかもしれない。命題(d)は、次のこと を含んでいる。

e、仕事を手にする男は、彼のポケットに10個のコインをもっている。

スミスは、(d)から

(

)

の伴立(含み)を知っており、(e)を

(

)

を根拠 にして受け入れることを仮定しよう。それに関して、彼は強い証拠をもっている。こ のケースにおいて、スミスは、(e)が真であると信じることをにおいて明らかに正 当化されている。

しかし、スミスは知らなかったのだが、ジョーンズではなく、彼自身が仕事を手に 入れることになると想像せよ。そしてまたスミスは知らなかったのだが、彼自身がポ ケットに10個のコインを持っている。このとき、命題(e)は真である。しかし、命 題(d)は、スミスがそれから(e)を推論した命題(d)は、偽である。このとき 我々の事例では、次のすべてが真である。

(i)

(e)は真である。

(ii)

スミスは(e)が真であると信じている。

(ⅲ)スミスは、(e)が真であると信じることにおいて正当化されている。

しかし、スミスが(e)が真であることを知らないということは、同じように明らか である。というのは、(e)は、スミスのポケットの中のコインの数のために真なの である。他方スミスは、いくつのコインがスミスのポケットにあるのかしらない。そ して、(e)の中の彼の信念は、スミスが間違って、仕事を手に入れる男であると信じ ているジョーンズのポケットの中のコインを数えること基づいている。

41

(3)

 ケース2

 <残念ですが、このあと、最後まで省略します>

2、ゲティア論文の検討

 短くかつ明晰な論文なので解説は必要ないかもしれないかもしれないが、一応解説し てから、検討しよう。

(1)解説

古典的な知識の定義

(

上述の

a,b,c,)

は、知識であるための必要充分条件である と考えられてきたが、ゲティアは、それが充分条件とはいえないことを反証例によっ て示した。いわゆる「ゲティア問題」(だれがそう呼び出したのだろうか?)とは、

「ゲティアが示したような反証例を適切に排除できる<知識の必要充分条件>とは何 か」という問題である。

 では、この事例がどうして古典的定義にたいする反証例になっているのかを解説しよ う。

まず、ゲティアは、古典的定義における「・・・信じることにおいて正当化されてい る」という用語を、次のように定義する。

「第二に、どのような命題

P

に関しても、もし

S

P

を信じることにおいて正 当化されており、

P

Q

を含んでおり、

S

P

から

Q

を導出し、

Q

をこの 演繹の結果として受け入れるならば、その場合には、

S

Q

を信じることにお いて正当化されている。」

仮言命題の前件は後件の充分条件である。ゆえにこの文は、次のように言い換えること ができる。

  <

S

Qを信じることにおいて正当化されている>といえる充分条件は次の通り

である。

  

(1)S

P

を信じることにおいて正当化されている   

(2)P

Q

を含んでいる

  

(3)S

は、

P

から

Qを導出し、 Qをこの演繹の結果として受け入れる

ゲティアの挙げている反例は、これとどう関係するだろうか。

ケース1を考えよう。スミスは、社長から聞いたので信念dを正当化されていた。

d、ジョーンズは、その仕事を手に入れる男であり、ジョーンズのポケットに 10個のコインを持っている。

dからつぎのeが帰結する。

e、仕事を手にする男は、彼のポケットに10個のコインをもっている。

ゆえに、つぎの3つが成り立つ。

(1)

スミスはdを信じることにおいて正当化されている

(2)

dはeを含んでいる

42

(4)

(3)

スミスは、dからeを導出し、eをこの演繹の結果として受け入れる。

ゆえに、<スミスはeを信じることにおいて正当化されている>。

それゆえに、実際にはスミスが仕事を手に入れ、たまたま彼のポケットにも10個の コインがあったとき、スミスについて次のことが成り立つ(と、ゲティアは主張す る)。

(i)(e)

は真である。

(ii)

スミスは

(e)

が真であると信じている。

(ⅲ)スミスは、 (e)

が真であると信じることにおいて正当化されている。

知識の古典的定義によれば、この3つを満たしたならば、<スミスが

(e)

が真であるこ とを知っている>ことになる。しかし、我々はそう考えないだろう。したがって、知 識の古典的定義は知識の充分条件にはなっていない。

(2)検討(疑問点1)

<スミスが、社長からジョーンズが選ばれることを聞き、ジョーンズのポケットの 中のコインを数えていたとき、スミスにとって、信念dが正当化されていた>と考え ることを認めるとしよう。しかしこれを認めたとしても、スミスは知らないのだが、

スミスが選ばれることになり、またスミスのポケットの中にたまたま

10

個のコインが あったとしても、<スミスは、

(e)

が真であると信じることにおいて正当化されてい る>とはいえないのではないだろうか。

 なぜなら、

(iii)

が主張することは、<スミスは、

(e)

が真であると信じることにお いて正当化されていると思っている>ということではなくて、<スミスは、

(e)

が真 であると信じることにおいて実際に正当化されている>ということだからである。つ まり、スミスが選ばれるということが事実であるとき、スミスの

(e)

についての信念 は実際に正当化されているとはいえない。なぜなら、その信念

(e)

は信念

(d)

にもと づいているのだが、信念

(d)

はそのとき偽になるからである。

 つまり、この事例では、古典的な定義でいう条件3が満たされていないのではないだ ろうか。言い換えると、ゲティアの反証例は、反証例になっていないのではないだろ うか。

<<学生への質問>>

次のどちらかに答えてください。

1、私の上の疑問点に対する批判を述べて、ゲティアを擁護して下さい。

2、ゲティアの論文にある第一の注意点は、どのような意味であり、論文の文脈の中で どのように位置づけられるのだろうか?

43

参照

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