<反 語 >の モノカ文の表現機能
一動詞句 を中心に一
案 野 香 子
【 要 旨】
本稿では、疑問形式をとりながらも <疑 い >を 表わさず、結局は話 し手の主張を表わす という <反 語 >の 表現を取 り上げ、文末にモノを含む文 (<反 語 >の モノカ文 )と そうで ない文について、特に動詞と共起 した場合の構文的 0場面的特徴を考察 した。その結果、
次のことがわかった。 <反 語 >の モノカ文は、ある事態に対 して、話 し手自身の経験に裏 付けられた確信に基づいて反発する場合の表現だといえる。そこでは、話 し手の主張は時 間的継続性を持つものとして表わされる。同時にその事態は本来的にはあ りえないという 含みをもつことになる。一方、モノを含まない反語文の場合、個別具体的場面における話
し手の一時的反発や拒絶が表わされる。
【 キーワー ド】 反語、 本性、 経験、 一般化、 継続性
1日 はじめに
形式名詞モノにダが下接 したモノダを文末に用いた平叙文 (以 下モノダ文 )に 次のよう な例があることはよく知られている。
(1)美 人は顔のよさだけ頭のよさも男から無意識に要求されるものだ。 曖
)(2)子 供は 10時 に寝るものだ。
本稿では、 (1)の ように、ある一般的な概念について本来的性質を述べるモソダ文を
<本 性 >の モノダ文、 (2)の ように本来的性質を聞き手に向けて述べることによって行 動を間接的に強いる文を <当 為 >の モノダ文 と呼ぶ。
さて、このような平叙文のモノダ文においては、話 し手が何 らかの欠けている情報を聞 き手に尋ねた り、またその判断の成否を問うた りする文にできる場合 とできない場合があ ると言える。
(3)美 人は頭のよさも要求されるものですか ?
(4)?子 供は 10時 に寝るものですか ?
一方で、いわゆる平叙文「 Xハ Yモ ノダ」 との直接的対応関係になく、疑問形式「 Yモ ノカ」「 Yモ ノデスカ」としてのみ成立する場合もある。
(5)子 供にこんな難 しい問題ができるものか。
これは、疑問形式をとってはいるものの、「子供にこんな難 しい問題はできない」 という 話 し手の否定の主張を表わすもので、例えば、
(6)?子 供にこんな難 しい問題ができるものだ。
のような平叙文は成立 しないと思われる。
ここでは、モノを含む疑問形式の文をモノカ文 と呼び、更に (5)の ように、疑問形式 をとりながら話 し手の否定的主張を表わす文を <反 語 >の 文 とする。
-l_3 -
(7)子 供にこんな難 しい問題がで きるか。
の ように、モノを含 まない場合であつて も成立する し、 <反 語 >の 文 として表わす意味 も
(5)と (7)の 文ではそれほど違いは感 じられない。ただ、 (5)の ほうが (7)に 比 べれば解釈の揺れは少な く、より確実に <反 語 >と しての意味 を発揮 で きるとい うことは 言える。
しか し、
(8)び くび くなんか、 しているものか。 (人 間
)は、モノを省 くと
(9)?び くび くなんか、 しているか。
とな り、文 としてすわ りの悪い もの となって しまう。
また、上記のような <反 語 >の 文のモノを同 じく形式名詞のコ トに置 き換えると、
(10)??子 供にこんな難 しい問題がで きることか。
文 としてますます成立 しなくな り、また、ノカであっても、
(H)子 供にこんな難 しい問題がで きるのか。
とな り、 <反 語 >と しては解釈 されな くなる。
そ うすると単純 にモノは <反 語 >を 表わすためのマークであ り、その反語文の表わす意 味 はモノがあって もな くて も変わらない と言 つて もいいのか という疑間が湧いて くる。言 い換 えれば、話 し手はいわゆる形式名詞の中で も特 にモノを用いることによつてなんらか の態度 を聞 き手 に対 して示そ うとする、 とい うことが言えるのではないか と推測 されるの である。
そこでこの問題 を、本稿では次のように考えていきたい。
<反 語 >の モノカ文が <本 性 >の モノカ文の派生であるという可能性があることを踏 ま え、まず、先に示 したモノダの疑問文の性質を再考する。
次 に、 <反 語 >を 表わすモノカ文、そ してモノを含 まない力文の構文的特徴 を考察 し、
さらに各々が どのような文脈で用いられるかを考察する。
2.<本 性 >の モノダ文 と話 し手による一般化
2.1
モノダ文 と話 し手による一般化
まず、 <本 性 >の モノダ文によって話 し手の どのような態度が表 されるだろうか。
<本 性 >の モノダ文は一般的に「 Xハ Yモ ノダ」の構文であ り、ある一般的事物 0事柄
Xが Yと いう性質や傾向を本来的に持っていることを述べる。 しか し、
(1)美 人は顔のよさだけ頭のよさも男か ら無意識に要求 されるものだ。
曖
)か らわかるように、 Xが Yと いう性質を本来的に具有するか否かということは話 し手の主 観的な判断であ り、必ず しも客観的事実であるとは限らない。仮に、
県 鍵
itr:曇 1衝≒ ヨ
::鱗 :::i委:兼 よ 壺 :,亀
彗某諏と言
izえていることを表わす。従って、実際
(13)水 は 1気 圧では摂氏 99。 974度 で沸騰する。
―■
4‑
(14)5足 す 5は 10で ある。
と事典に載っていること、 或いは科学的に事実であることにそのままモノダを附与 しても、
(15)?水 は 1気 圧では摂氏 99.974度 で沸騰するものだ。
(16)?5足 す 5は 10に なるものだ。
とは言いにくいことからも明らかなように、科学的データに基づ くような客観的且つ具体 的事実は、たとえ本来的性質であったとしても、モノダは附与 しにくいと言える。
従つて、
(17)油 は水に浮 くものだ。
がモノダ文として成立するか否かの賛否が分かれそうなのは、「油が水に浮 く」ことが科 学的事実だと考えられる一方で、実際には具体的実証データが明示されていなかったり、
生活習慣的に知られている事柄でもあるため、話 し手が主観的に「水に浮 く」ことは「油」
の本来的性質であると見倣 したことによる発話だとも解釈できるからではないかと思われ る。
今述べたように、 <本 性 >の モノダ文は、ある一般的事物 0事柄 Xが Yと いう性質や傾 向を本来的に持つていることを、話 し手の主観的な判断によって述べるものである。そし て、この <本 性 >の モノダ文は文の類型では、仁田 (1992)に 従えば「述べ立て」の判断 文ということになるであろう。仁田によると、述べ立てとは「話 し手の捉えた世界や話 し 手の解説・判断を、取 り立てて聞き手への伝達を意図することなく描 き出し述べるといっ たもの」 (p.35)と されている。 <本 性 >の モノダ文は実際の用例を調べると、会話文だ けでなく地の文にも現れ、先の (2)と して例をあげた <当 為 >の 文において言われるよ うな聞き手に対する積極的な働 きかけ性はないと言える。
しか し、この <本 性 >の モノダ文が聞き手にやや押 し付けがましい印象を与えるのはな ぜであろうか。 <本 性 >の モノダ文「 Xハ Yモ ノダ」の Xは 一般的な概念であ り、 Yは 普 遍的反復可能な属性である。つまり、個別具体的な xが 個別具体的な yで あるという現象 が繰 り返 し生 じることが話 し手によって経験的そして帰納的に捉えられ、その結果、一般 的な概念 Xが Yと いう本来的性質を有する、という結論が導き出されるのだと考えられ る。
(図 1)
経験 xl― yl x2→ y2・ " X■ yn ⇒ Xハ Yモ ノダ
IXは xの 集合体
Yはyの 集合体
│したがつて、文その ものは「 Xは Yと いう本来的性質をもつ」 ことを述べ立ててはいる が、この表現 を支えるものが話 し手の経験 に基づ く独断的確信であることが、聞き手に対 する説得力につながるのだと考えられる。会話文に現れるときはもちろんのこと、地の文 に現れる場合 も、話 し手 (筆 者 )か ら聞 き手 (読 者 )へ の強い訴えの力をもつ表現 として 理解 されるの も、上のような理由によるもの と考えられる。
よつて、話 し手の経験以前に成立 している客観的事実の言表である (13)(14)は つ まり、
―■ 5‑
「知識」 として把握 された事柄の言表である。このような場合にはモノダの共起はできな いものと考えられる。
2.2 <本 性 >の モノカ文と話 し手の一般化
前節の内容を踏まえ、 <本 性 >の モノダ文が疑間表現 として発せ られた時にどのような 話 し手の態度が表現されるかを考える。
(1)美 人は顔のよさだけ頭のよさも無意識に要求されるものだ。
まず、最も単純なものが次の文である。
(18)美 人は顔のよさだけ頭のよさも無意識に要求されるものですか。
(18)は 、「 Xハ Yモ ノダ」構文において、 Xと いう一般概念が Yと いう本来的・普遍的 性質を持つか否かを話 し手が提示 し、その真偽を聞き手に問うという形の文である。ここ でも当然Xと Yの 結びつきは話 し手の主観的な捉え方によるものであると言える。
ただ、この文はある文脈のもとにおいて発せられるものと思われる。例えば、相手 (こ
の場合 (18)の 発話の聞き手 )ま たは第三者より、「きれいな人が頭がよくないと周囲は失 望する」 といった類の情報を受けて、話 し手が帰納的に「美人」は「顔のよさだけ頭のよ
さも要求される」 という本来的な一般的性質をもっているという結論を導き出し、その判 断が正 しいかどうかを聞き手に問う、という文脈である。或いは、話 し手自らの「美人」
に関する実体験から、同様の一般化を行 うことが正 しいかどうかを聞き手に問う場合であ る。「ということは」「やっばり」を共起させると自然であることからもわかる。
(19)│と いうことは /や っばり 1美 人は顔のよさだけ頭のよさも無意識に要求され
るものですか。
先に述べたように、 <本 性 >の 「 Xハ Yモ ノダ」文は、客観的な事柄に対する話 し手自 身の主観的な捉え方を表 してお り、話 し手にとっては比較的自信のある発話内容である。
従つて、 <本 性 >の 疑間表現は実際には次のような否定疑間文の例カリト 常に多いことも納 得できる。
(20)第 一問。一一君は結婚 ということをどう考えているのか。君は伊吹君に対 して、
軽い意味の、自由な結婚をするのだといったようであるが、結婚とは、元来、
或る程度の不自由を望み、東縛 を要求するものではないか。 僕たち
)問いかけの形式をとっているが、実は既に話 し手の中でその答えは用意されているのであ る。いわゆる安達 (1999)の 言う「傾 きの疑問文」である。次の例は独 り言あるいは心内 発話であり、話 し手の中で既に答えがでていると言ってもいいであろう。
(21)「 少女に恋すると、頭の形まで少年風にしたくなるものかな」 (砂 の上
)一方、相手 (聞 き手 )の 発話内容や眼前の事実から、ある対象がその一般的性質をもつ ことを話 し手が初めて知ったような場合は、ノダの疑間の形になるようである。
(22)赤 ん坊つて 3時 間おきに泣 くものなんですか。
<本 性 >の モノカ文「 Xハ Yモ ノカ」については、平叙文としてのモノダ文の疑間の形 式と考えてよく、話 し手が Xと いう対象は Yと いう本来的性質を具有すると主観的に捉え た、その認識の真偽を確かめる表現だと言つてもよいかと思われる。 Xが Yと いう本来的 性質を持つという事実が正 しいか否かを問う場合、問いかけてはいるものの自分の中で X
…
16‑
はYと いう普遍的な性質を持つということが納得済みである場合、そして Xが Yと いう本 来的性質を具有することをはじめて知った場合など、そのときの話 し手の認識のしかたに よって疑間の形式は異なるが、一貫 して言えるのは、Xと 、そしてYと いう本来的普遍的 性質相互を結びつけるのは話 し手の主観的な捉え方によるものであるということであ り、
「 Xハ Yモ ノカ」は話 し手による経験の一般化が成立するか否かを問う文であるというこ
とである。
3.<反 語 >と <傾 き
>本稿で扱おうとする課題は、先に挙げた例
(5)子 供にこんな難 しい問題ができるものか。
のように疑問形式をとりながら、話 し手の主張を述べる、言い換えれば、話 し手に欠けて いる情報を相手 (聞 き手 )に 求めるのではなく、むしろ逆に情報を与える文についてであ る。従つて、疑問文の成立の条件を
(a)話 し手には命題内容の真偽判断、あるいはその命題を構成する情報の一部が欠 けている。
(b)話 し手はそれを聞き手に問いかけることによって充足することを意図する。
(安 達 1999 p.12) とすると、 (5)は 情報が欠けているとも言えず、また聞き手に問いかける働 きもないた め、いわゆる典型的な疑問文に該当するとは言えない。
また、話 し手が聞き手に情報を与える疑問文 として、安達 (1999)は
(23.1)原 田「
/Jヽさいころえんえんと続 くリンゴ畑の中で 1日 中リンゴの甘い香 りを かいで遊んだ・…"時 々酔っばらって寝た夜なんかに……そのかお りを 思い出すことがある……朝が来れば忘れるけどね」
(23.2)夏子「帰 りたいって思いませんか ?」
(23.3)原 田「思わんね」 (安 達 1999 p.24よ り
)といった否定疑間文 を挙げている。安達は疑問化 されている事態の肯否についての見込み を「傾 き (bias)」 と呼んでいるのだが、 (23)の 例については、「対話の相手 (原 田
)が少年時代の思い出を語るのを聞いて、話 し手 (夏 子 )は 『 (故 郷に )帰 りたいと思つて いる』という見込みを持ち、これを相手に問いかけている。そのような見込みの存在が、
話 し手に否定疑間文を選択させているのだと考えられる」 (p.24)と する。
つまり、安達のいう「傾き」 とは、聞き手に質問をなげかけていながら、既に話し手の 中での肯否の判断についての見込みができている場合をいう。対話の現場で観察される相 手の様子やそれまでの状況など (23.1)か ら、相手の肯否の答えを期待 し予測 している場合
に使われるのである。 (23.2)で は話 し手は「思う」 という答えを期待 し、実際
(23.3)ではその期待は裏切られるのだが、いずれにせよその肯否は別として (23.2)は
(23.3)の答えを要求 していると言える。
一方、 (5)や
(Z.1)こ のコカコーラの自動販売機だつて、わたしが持ってきたんですがね」
(24.2)「 おいおい、与太をとばすのはやめろ !そ んなことができるものか J
―■
7‑
(24.3)「 できたらどうしますか ?」 (ブ ンとフン
)のモノカ文は、疑問形式をとってはいるが、 (23)と 比べると、聞き手に Yes― Noの 回 答の期待 もその予測も特にしていないのではないだろうか。つまり、 (γ .2)は 疑間形式
をとっているが、実は (Z。 1)に 対する応答であつて、相手 (聞 き手 )の (24.3)で 「で きる」か「できない」かの答えを期待するものではない。モノを含まない場合も同様であ る。
(25。
1)「 上条さん、なんでお父さんのこと、撲ったんでしょうねえ」
(25.2)「 オレに 聞いたつて判るユ」 」
(25.3)「上条さん、本当に静江のこと、好 きなんですよ。それと。 … "お 父さんのこ とも、好きなのよ」 (寺 内貫力紛
(25.2)は 疑間の形式ではあるが、やはり実は
(25。1)の 問いかけに対する答えであり、
(25.3)に おける「半 Jる 」か「半 Jら ない」かの答えを期待 しているわけではないし、実際 に (25.3)も 直接の回答は出していない。
従って、本稿で扱う文も「情報を与える疑問形式の文」ではあるが、一応厳密な意味で は安達のいう <傾 き>と は性質を異にするということは述べておきたいと思う。つまり、
問いかけ性を有 し、「聞き手の肯否の答えを期待 している」のが <傾 き >の 文である。そ して、相手 (聞 き手 )が 実際に相槌を打つたり意見を言うなどして反応 しているか否かは 別として、発話時において話 し手が「聞き手の肯否の答えを期待 していない」場合の文が
<反 語 >の 文である。本稿で扱うのは後者である。 <反 語>と いうと修辞的な用法が連想 されるかもしれないが、やはりここでは一般的な慣習に従い <反 語 >と 呼ぶこととする。
4.考 察
4。 1 モノカとの共起関係
「 Xガ Yモ ノカ」の Yの 部分に現れる形式をあげてみると、次のように、動詞句、形容 詞句に広 く下接する。また慣用句に接続 したり心内発話を表す埋め込み文に多 く現れるの
も、 <反 語 >の モノカの特徴であると思われる。
(26)そ んなところに行 くものか。 ・・ 000
(27)び くびくなんか、しているものか。 ・・
(28)そ んなことができるものか。 ・
0・・・
(29)な にが、いいカロ 減なものか。00・ ・・
。〔 一般動詞 +モ ノカ〕
・ 00・ 〔 補助動詞 +モ ノカ〕
。〔 可能動詞 +モ ノカ〕
・〔 形容動詞 +モ ノカ〕
(30)そ んな手にのるものか。 ・・ 000・ 〔 慣用句 +モ ノカ〕
(31)何 がどうなろうと知るものかとわたしは思った。 ・ 00・ ・ 0〔 心内発話部分〕
次節以降、上記の形式との共起関係からどのようなことが見出されるか、モノを含まな い反語文との比較を通 して、考察 していきたいと思う。
ただし、本稿では紙幅の都合により、このうち動詞との共起関係を中心に考察 し、その ほか形容詞・形容動詞、慣用句、心内発話との関係は次稿に詳しく述べることとする。
―■
8‑
4.2
動詞句 とモノ
4口
2.1形態的特徴
まず、接続する動詞を大 きく分類すると、一般動詞、可能動詞、補助動詞になるが、そ のうち、一般動詞、可能動詞についてはモノがあってもな くても文成立は可能である。
(32)そ んなところに行 くか。
(33)そ んなところに行 くものか。
(34)そ んなちゃちな装置で水が流れるか。
(35)そ んなちゃちな装置で水が流れるものか。
(36)洋 服着て相撲が取れるか。 (寺 内貫想 D (37)洋 服着て相撲が取れるものか。
例 (32)(33)の 動詞「行 く」は話 し手が自分の意志で成否を決定できる動作 を表わす動
言 可 (controllable)、 (34)(35)「 流れる」は話 し手の意志で決められない客観的事態の
成否を表す動詞 (uncOntrOnabb)で ある。 また、 (36)(37)「 取れる」は可能動詞であ り、これ ら三つのタイプの動詞を観察すると、 ともにモノカ文であってもそうでな くても 使用可能であると言える。
一方、補助動詞については、モノが必要とされるようである。
(38)び くび くなんか、 しているものか。 (人 間
)(39)??び くび くなんか、 しているか。
(40)ゴ マせんべいも返 してやるものか。 (ブ ンとフン
)(41)?ゴ マせんべいも返 してやるか。
つまり、テ形接続の補助動詞 (38)の アスペク ト、 (ω )の 授受表現の場合 ともにモノカ の文は成立可能であるが、力のみでは座 りの悪い文 となる。
上の補助動詞の場合、実質動詞であればモノがあってもな くても普通に反語文 として成 立することから、
(42)幽 霊なんかいるものか。
(43)幽 霊なんかいるか。
( )お 前になんかやるものか。
(45)お 前になんかやるか。
やは り上の (39)(41)力 減 :と して不 自然なのは、力の承接 している語句が補助動詞であ るからということになるのではないだろうか。
このことか ら、反語文を構成するモノカは実質概念の希薄化 した抽象的な動詞に接続す ることによつて、そこにモノが具有する実在的概念 を添えると考えることができる。 しか し、実際にはこのような動詞 とモノの形態 レベルの接続だけで、反語文を構成するモノカ、
力の用法が説明 しきれるものではない。そこで、次にこのような <反 語 >の 文が実際の文 脈 においてどのような用いられ方をするのかを考察 したい。
4.2口
2場面的な特徴
例えば、次のように文脈 も含めて考えると、同 じ <反 語 >で あつてもモノを有する文 と そうでない文の違いが明らかになって くる。
-L9 -
(46)貫 太郎である。昼す ぎか ら、行先 も告げず出かけていたのだが、石油 カンを なわで ぐる ぐる巻 きに した もの を片手 に下げ、縁側 に仁王立 ちで どなってい る。
「なんだこのざまは。ギャアギャアふざけている病人があるか !」
台所から里子が飛んできて取 りなした。
「少し熱が下つたんですよ。起き上がってみんなと一緒に食べたほうが食欲 が出ると思って」
「 食 っ た ら早 く寝 ろ !」 (寺 内貫想 D
(46)の 下線部の例は、「ギャアギャアふざけている病人はない」 ということを目の前 の相手 (聞 き手 )に 向かつて強 く述べることによって、病人は静かにするよう訴える <反
語 >の 文である。 この文において、文末をモノカに交代 させることは文法的にはなんら問
題がない と思われる。
(47)ギ ヤアギャアふざけている病人があるものか。
ところが、 (47)を そのまま (46)の 文脈に組み入れると不 自然になって しまう。話 し手 である貫太郎が眼前の聞き手 (病 人 )を お とな しくさせるという機能はな くなると解釈 さ れるのである。
つ まり、 (46)で 表 される発話内容は、話 し手の突然の、そ して眼前の特定の対象に向 けられた個別具体的なものである。一方 (47)の 場合、世間一般的にそういった
(「ギャ アギャアふざけている」 )属 性 を持つ「病人」はない、 という意味に解釈で き、発話内容 として も眼前の対象のみに関する個別的具
ftJ性は希薄になる。 どちらか というと「ギャア ギャアふざけている病人はないものだ」 という <本 性 >の 否定的モノダ文力澪舌し手の意識 の根底 にあ り、それが肯否を逆にした疑間表現の形をとって発話されたものではないかと 考えることがで きる。
次の例はこの逆である。
(48)ど んな方法にせ よ、他人から教育のために金を出 して貰 うことはいい。 しか し教育はタダという思想は、学問をダメにする。 日本の教育がおか しくなっ たのは、「教育は権利だ !」 と言い出 した時からである。権利だなどと思っ ている奴に、学問などで きるものか、と太郎は闘争的な気分になる。 (想 F物 語
)この場合、モノカ文からモノを省 き、
(49)権 利だなどと思っている奴に、学問などで きるか。
という反語文を成立 させることは文法的には可能である。 しか し、やは り (48)と (49)
では、述べ られる場面が異なるのではないだろうか。 (48)は 「教育が権利だなどと思っ ている奴」一般 について述べてお り、そういう人々には学問はできないということを恒常 的な事柄 として述べているのである。一方、 (49)の 場合は、当該場面における特定の人 物 (聞 き手であるとは限らない )で 、「教育が権利だなどと思つている側 に対 して、学 問する資格などないと叱責 しているというように、むしろ一時的なこととして解釈 したほ うが 自然である。 したがって、「太郎」が一般論 を述べ ようとしているというのが (48)
の文脈 なのだから、 (り )の 文はそこにはふ さわ しくないのである。
モノカ、力の区別は単純に眼前の対象に向かうか向かわないかということではない。次
‑20‑
の「泣 く」の例を見てみよう。やはり「誰力ヽ立くか」「誰力゛ ,立 くものか」では使われる文 脈が異なるように思われる。
(50)(目 が充血 している相手を見て
)A:あ れ ?泣 いてるの ?
B:誰 力ヽ立くか。
(51)(憎 い相手に )お 前が死んでも、誰力ヽ立くものか。
(50)の ようなその 場限りの事柄については、「誰力ヽ立くものか」よりかは「誰が泣 く力」
のほうがふさわしいようである。一方 (51)は 、「お前が死んでも泣かない」ことが将来 的にも成立するということが、 話 し手が自らの経験によって確信できるという主張であ り、
つまりは時間的な広が り或いは継続性を持たせる場合である。ここではむしろ「誰力ヽ立く ものか」のようにモノを用いたほうが場面により適 しているように思われる。
前節での可能動詞によるモノカ文についても、場面の相違を考え合わせると上と同様の ことが言えそうである。
(52)こ のコカコーラの自動販売機だつて、わたしが持つてきたんですがね」
「おいおい、与太をとばすのはやめろ !そ んなことができるものか」
「できたらどうしますか ?」 (ブ ンとフン
)(52)で は、「自動販売機を自分が持つてきた」 と自慢げに言う相手に対 し、「そんなに 重い物を運ぶなど能力を超えたことはそもそもできるわけがない」という、現在 も含め「後
にも先にも」できないという話 し手の意図がそこにはある。一方、
(53) 翌朝、タメは仕事場に出てこなかった。風邪を引いて熱がある。今日一日、
アパー トで休ませて くれ、とイワさんは言う。
「ほうらごらんなさいよ、お父さん。裸でお相撲なんか取るからですよ」
アパー トヘ持つてゆく見舞いの品を揃えながら里子は文句をいった。貫太郎 は、たばこをすいながら、
「洋服着て相撲が取れるか !あ の くらいで風邪ひくようなやわな体でどうする んだ !」
と強が りを言つている。 (寺 内貫力紛
(53)の 下線部は、里子の「裸で相撲を取るから風邪を引いたのだ」 という文句に対する 反論であ り、その場限 りの拒絶である。
次に、前節において取 り上げた補助動詞について、同様の説明がなりたつかどうか考察 したい。例えば、
(54.1)「 それなら 、先生、いったい何をためらっていらつしゃるんです。同じ地球 人の女なら、何 もびくびくすることなんか、ないんじゃありませんか。それ
とも、よほど手痛い経験でもお持ちなのかな・…
0・」 (54.2)「 びくびくなんか、 しているものか 」
(54.3)「 では、さっさと、出 掛けるとしましょうよ」 (人 間
)(54.2)は (54.1)の 侮辱的あるいは挑発的な発話に対する反論である。ここでは、「び くびくしている」 というある程度の時間的継続隆のある状態について、そうではないと述 べる話 し手の主張であるため、モノが附与することの説明にはなるだろう。これは、同じ
‑2■ ―
く「動詞テイル」で、
(55)な に腰抜か してんだ ?人 なんか死んでいるものか。よく見ろよ。
(56)(部 屋に閉 じこもっている弟について )あ いつが本 なんか読んでいるものか。
せいぜい読んで も漫画 ぐらいだろう。
のような結果の状態あるいは動作の進行 を表す場合など、ある程度継続的な事態 を表す表 現形式 とはモノは共起することがで きる。 また、「そもそ も人なんか死んでいない」「そ もそもあいつが本なんか読んでいるはずがない」といった話 し手の強い確信 も伺い知れる。
慟 詞テイル」以外の「動詞テオク」「動詞テアル」 も継続的な様相をもつため、
(57)お 前 をこのままにしてお くものか。
(58)(新 学期 2ケ 月前に )新 入生の名簿なんか作 ってあるものか。
のようにやは リモノの共起は必要であるが、
(59)?宿 題 なんか今晩中にやって しまうものか。
と、継続性 をもたない完了のアスペク トに関 してはモノカが共起で きないだけでな く、そ もそも <反 語 >の 文にはならないようである。 (59)の ような完了のアスペク トは「 ?今 晩中にやって しまわない」 という対立する事態の想定がで きないか らであると思われる。
しか し (59)は 、
(60)あ んなに大量の宿題、今晩中にやつて しまえるものか。
(61)あ んなに大量の宿題、今晩中にやつて しまえるか。
のように「シマウ」 を可能動詞に変えると、可能か不可能かの対立する事態の想定が可能 にな り、 <反 語 >の 文 として成立することがで きる。そ して、 (60)大 量の宿題 を一晩で 処理するなどそ もそ も本来的に無理であ り、そのことは話 し手の経験上確かであるという ことを述べる、或いは (61)「 大量の宿題 を今晩中にやって しまうことができる」 という 可能性のその場限 りの強い否定を表わす文 となる。
以上をまとめると、次のようなことが言えるであろう。
反語文の中において、 同 じ動詞の形態でモノカも力も共に接続可能 という場合があるが、
現時点に限らず本来的あるいは一般的な肯否を述べるというような、ある程度時間的な広 が りをもたせる主張であればモノカ文のほうがふさわ しい。 しか し、その特定の具体的場 面に即 した一時的な事態や話 し手の意志 を強 く述べるのであれば、モノを含 まない反語文 となる。反語文「 Yモ ノカ」「 Y力 」の時間の幅を図に示 したものが、 (図 2)で ある。
(図 2)
Yモ ノカ
1111
「
│:「il:「 「
………■■■
】‖二二
=縦 11豊 11111
│―
ところで、上の「 Y力 」の反語文についての、その場の一時的事態 ということと、発話時 点 とは区別 されなければならない。
例えば、
(61)??洋 服 を着て相撲が取れるかだった。
が文 として成立 しないことか ら、「 Y力 」 という反語文において「〜 Y」 という判断を話
‑22‑
し手が下すのは発話時点であるが、「〜 Y」 (「 洋服 を着て相撲は取れない」 )と いう事 態はタメと貫太郎が「相撲 を取る」 という、過去のその場面においてである。例えば、
(62)そ んなこと知るか。
のように、発話時点 と「〜 Y」 が成 り立つ時点が一致すると思われることも多々あるが、
やは り厳密 には両時点は区別 してお くべ きことと思われる。
5。 まとめ
以上、 <反 語 >の 文について、モノの接続する動詞句の形態、そ してその当該文の用い られる場面の両側面からモノカ文の表現機能を考察 してきた。簡単 にまとめると次のよう になる。
I モノは実質概念の希薄化 した抽象概念に実在的意味 を添える。
Ⅱ <反 語 >の モノカ文は本来的一般的な事態の成立の肯否 を強 く主張する。 より 時間的な継続性が もたらされ、根本的にあ りえないという反発が表現 される。
Ⅲ
モノがない場合、個別具体的場面における一時的な事柄の主張が表わされる。
つまり、 <本 性 >の 疑間文「 Xハ Yモ ノカ」は、話 し手の経験から「 Xは Yと いう性質 をもつ」 という一般化が成 り立つか否かの判断を聞 き手に委ねる。一方、 <反 語 >の 「 Y
モノカ」の場合、話 し手は相手 (聞 き手 )の 直前の発話や話 し手の直面 している客体的状 況に対 して、意外感や感情的不安 を抱 きなが ら、結局は Yを <本 性 >と して受け入れない、
という姿勢がある。
そもそも <反 語 >は 文脈依存の強い表現である。反論、反感、戸惑いなど話 し手力ちい情 の吐露に至るまで、話 し手が持 つている価値観、考え方に対立する客観的状況力淋目手 (聞 き手)や 第三者によつて作 られ、それに対する反発が <反 語 >の 文 として表れるのである。
そ してここで反発することによつて話 し手の本来的な価値観を述べるのが、モノカ文で あ り、具体的場面における一時的反発や拒絶が力文によって表わされると考えられる。
更に <反 語 >に おいて、いわゆる形式名詞の中で も特にモノが用いられるのは、結局信 念や確信があるから話 し手の反発があるのであ り、換言すれば、ある状況に対 して話 し手 の主観的つまり経験的確信に基づ く反発 を表わす表現が、モノカ文によつて表わされる
<反語 >の 表現なのだと考えられる。
我々は特に主張 したいことがあるときに、平叙文 よりむ しろ疑間文を用いることはよく ある。肯否裏返 しに問いかけ、話 し手の思考 を活性化するのである。 <問 いかける>と い う働 きかけが相手の回答を引 き出すのである。話 し手にとつて答えがわかっている場合で も問いかけることによつて相手の思考活動 を促 し、狙い通 りの回答 を引 き出すことによつ てその情報 をより強 く相手に認識 させることがある。
<傾 き >の 疑間文から <問 いかけ >性 が希薄になったものが <反 語 >だ と思われるが、
疑間の形は残つているため、 <働 きかけ>と いう態度の表出だけがそこに表 されるのでは ないだろうか。
以上、本稿では動詞旬 による反語の文 について考察 を行 つた。 ここでの結論が他の形容 詞・形容動詞句や慣用句 などの反語文 にも適用 されるのか、次の機会に更に詳 しく考察 し たい。
…
23‑
参考文献
安達太郎 (1999)『 日本語疑問文における判断の諸相』 くろしお出版
案野香子 (2002)「 疑間文におけるモノダの機能」『静岡大学留学生センター紀要』1号 寺村秀夫 (1981)「 『モノ』 と『コ ト』」『馬淵和夫博士退官記念国語学論集』大修館書
店所収
仁田義雄 (1992)『 日本語のモダリテイと人称』ひつじ書房
初版 3刷 野田春美 (1997)『 「の (だ
)」の機能』くろしお出版
用例出典
愛 :遠 藤周作『愛と人生をめぐる断想』光文社文庫 砂の上
:吉行淳之介『砂の上の植物群』新潮文庫 寺内貫太郎 :向 田邦子『寺内貫太郎一家』新潮文庫 人間 :安 倍公房『人間そつくり』新潮文庫
ブンとフン :井上ひさし『ブンとフン』新潮文庫
(『新潮文庫の 100冊 』 CD― ROM版
)僕たち :石 川達三『僕たちの失敗』新潮文庫
The Expressive Function of "Assertive" MONOKA-sentences
Kyoko Anno
In this papel I examined the syntactic and situational characteristics of the Japanese
MONOKA phrase when it is collocated with a verb phrase. The focus is on so+alled "assertive"
MONOKA sentences which arc a derivation of MONOKA sentences in general. An intenogative sentence'.X HAY MONOKA" is usually used as a sentence which expresses judgment whether the generalization of an attribute performed when a speaker experienced each phenomenon is apparent to a hearer. On the other hand, it can be said that an assertive MONOKA sentence is an expression in the case a speaker opposes a certain objective situation based on the conviction supported by the speaker's own experience. Here, the judgment of the speaker is described as a thing wittr continuity through time. That is, the matter is essentially asserted with the implication ttrat it cannot be. In the case of an ironic sentence which does not contain a MONO, temporary rebounding and refusal in a concrete scene are expressed.