長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第35巻 第1号 91‑102 (1994年7月)
「森の眺め」の意味
井上一郎
The Meaning of "A View of the Woods"
by Ichiro INOUE
オコーナーの主人公達は殆ど例外なく作品の終わりの部分でさまざまな悲惨な事 件に巻き込まれることになっているが、それらの事件は偶然襲いかかってくるよう な災厄ではない。それは一見、見知らぬ人間によって加えられる理由なき暴力のよ うに見えるが、実際は彼らの人生の中に作者オコーナーによって仕組まれたものに 他ならない。彼らは生命の危機に曝され、実際命を落とす場合もある。しかし、奇 妙なことに、彼らは今まで一度も会ったことのない人物と対噂した瞬間、 「どこか で一度会ったことがあるような気がする」1)といった印象を共通して持つのであ る。これが彼らにとってカタストロフィの始まりであり、実は救いに通じる道なの である。最後に彼らは、その「どこかで一度会ったことがあるような気がする」人 物が、実は自分の分身2)であること、言いかえると今まで気付かなかった自分の 姿を如実に映していることに思い至り樗然とするのだ。カタストロフィの意義はこ の決定的な瞬間を用意することにあったのだ。
Frederick Asalsは分身の物語をオコーナーにとって「オブセッションと呼んで いいくらいに頻出するパターン」3)であると述べており、ヨーロッパ、特にイギリ スのゴシック・ロマンスの中で育ったこの物語デヴァイスは、他のアメリカ文学に おいてもポーの"William Wilson'を嘱矢にいくつかの優れた作品を生み出す役割 を果してきた。しかし、ポーの"WilliamWilsonにしろ、ヘンリー・ジェイムズ の"Jolly Corner'にしろ、あるいはカポーティの"Miriam"にしろ、これらはリ アリスティックな描写を基本にしながらも、主人公が実際に自分の幻影を見るとい う極めて幻想的な雰囲気が全体を支配しており、いまだゴシック・ロマンスの要素 が非常に濃い作品である。
一方、オコーナーの「森の眺め」 (̀̀AViewoftheWoods )の中にもゴシック・
ロマンスの要素4)は確かにあるが、それは散見できる程度であり、特に分身の出
現にまつわる夢幻性というのは皆無といってよい。すなわち、この作品で用いられ ている分身は、ゴシック・ロマンス特有の効果、恐怖、サスペンションといったも のを高めるためのものではなく、オコーナー流の宗教的な回心の物語の中で機能を 果たすように考えられている。現代文学の中に応用された分身の意味を考えた場合、
この作品はもう少し注目されてよい。オコーナー批評においては、回心を中心にし た宗教的なテーマの存在は今や殆ど所与のものになった感があるが、5)本論ではオ コーナーが分身のテクニックを「森の眺め」の中でどのように使って、彼女本来の テーマを表現しようと試みたかを分析する。
I
妻にはすでに先立たれていたうえに、都会で暮らすために農場を出ていった娘に は期待と愛情を裏切られ、その結果一人取り残され、愛情を注ぐ相手を兄いだせな いまま完全に孤独な世界を築き上げていた。これがフォーチュン氏の十年前の姿で ある。ところが、今から十年前都会から帰って来た娘夫婦が一緒に住むようになっ た。相変わらずその立場は孤独で、自分の年齢のことを考えると不安が募るばかり であった。いったん出て行った娘は信用できず、他所者のPittsにいたってはなお のことである。むしろ娘夫婦が一緒に住むようになったがために、前より一層孤独 感は増し、老人の状況は完全に孤立、閉塞したものになった。
一万、日分の所有する土地は最近の都市化の流れの中でその価値を急上昇させ、
老人の自我、存在感は厭がうえにも膨らむ結果となった。孤独の中での存在感の高 まり、しかも愛情を注ぐ相手の不在、この二つの条件は老人をナルシシスティック な世界へと追いやるのに十分だった。彼はその世界の中でますます自分と、自分が 所有する「物」 (土地)だけに執着しようとしたのだ。
しかし彼は娘夫婦が帰郷してから十年かかって初めて、孫のメアリの中に自分の 愛情を注ぎ、自分の所有物を共有できる相手を発見する。その理由は彼女が老人の 肉体的特徴はもちろんのこと、それに加えて精神的特徴も受け継いでいるからであ る。メアリの体型は背が低く、ずんぐりしていて、目の色は非常に薄いブルーであ り、広く突き出た額をしていて、血色の良い顔で、砂色の髪の毛は多く、とても細 いし、銀縁の眼鏡をかけていて、相手をじっと刺し貫くような視線を投げかけ、歩
き方に至るまで、すべてが老人に瓜二つと言いたいところである。さらに、老人か ら見ればメアリは「自分から受け継いだ並々ならぬ知性と強い意志、それに押しの 強さを備えており、」 (336)したがって「年齢的に七十才の違いはあるが、精神的 にも何ら変わらない」 (336)としか思えない。少なくとも、老人にはそのように映
「森の眺め」の意味 93
ってしかたがない。
つまり、老人に言わすれば、メアリはもう一人の「自分」なのだ。だから、メア リに注ぐ彼の愛情というものは、 「他人」に向けられたものではなく、 「自分」に向 けられた自己愛で、歪んだグロテスクなものと言わざるをえない。その証拠にこの 関係はフォーチュン老人にとって孤独と人間不信によって構築されたナルシシズム の壁を打ち破る契機になるどころか、老人は財産の全てをメアリに譲れるように画 策し、メアリを厳しく朕ようとする父親のビッツに対して、その意趣返しとしてビ ッツを悲嘆させるべく畑を他の男に売り渡しては、家族の者達の聾感を買い、彼の 立場はますます孤立していったのだ。このように孤独な老人はメアリに対して愛情 を注げば注ぐ程、それに比例して老人は他人を顧みない自己中心主義者として自分 の世界を以前より一層自ら狭くしていかざるをえないからだ。つまり老人にとって メアリの存在と彼女にたいする関係がとりもなおさず彼のグロテスクなナルシシズ ムの世界を象徴しているのだ。
ナルシシストの老人にとってメアリはいわば鏡に映った「自分」の姿であり、フ ォーチュン氏の日常はメアリの存在技きには考えられない。このように老人の相似 物として影のように後ろから従うメアリは、当然のことながら氏の分身と考えられ てもおかしくない。しかし、従来おおざっぱに考えられていた分身の概念を本人
(first self)に対して精神的な同一性と肉体的な同一性の両方を兼ね備えた存在を もって本当の意味での分身(second self)と定義し直すKeppler6)に従えば、い かに体格、身のこなしがそっくりだとフォーチュン氏が主張しても、自分の孫娘に 当たるメアリは当然のことながら分身とは言い難い面が多いし、おまけに精神的に もメアリは老人に対して独立性を主張する機会を狙っている始末なのだ。ポーの主 人公ウイリアム・ウイルソンでさえ完全に自分と同じに見える分身の中に、声が自 分より小さいというたった一つの相違点を発見した。メアリを前にして自分に瓜二 つであると信じて疑わないフォーチュンもさすがに「この点だけが自分に似ていな い」という部分があることを認めざるをえない。それは不思議なことに普通なら主 観に左右されて発見を妨げられるはずの精神的なものである。メアリが父親のビッ ツが振り下ろす鞭と一緒にその体の中に受け入れているビッツの精神を指して、氏 はフォーチュンの精神の中に混じった異物と呼ぶのだ。したがって、フォーチュン 氏にとってのメアリとは、彼が主観的な相似の網目を一方的に被せようとすればす る程、客観的な事実を武器に相手はその網目をすり技けてしまうといった存在であ る。
また伝統的なゴシック・ロマンスにおいては本来、主人公が相手を分身として認 知すること自体、日常性の平穏を突き崩すような事件であり、分身はその出現、存
在の仕方にどこか謎と超自然性を備えていて恐怖感を惹起するのが普通であった が、フォーチュン氏とメアリの関係にはこれもない,Frederick Asalsもオコーナー が頻用する分身の形態が従来のものと違う事実を指摘したが、それが登場する際の 日常性の破壊について次のように述べている。
オコーナーの物語はある一つの家族を設定するところからスタートし、その家 族のメンバーは基本的な設定を揺るがすような二種類の運動によって今まで経験
したこともないような状況に投げ込まれる。一つは、見知らぬ土地へ向けて行う 旅であり、もう一つは見知らぬ人物が家族の中に侵入してくるのである。」7)
この「今まで経験したことのないような状況」こそが主人公が一様に投げ込まれ るカタストロフィの始まりであり、分身に遭遇するチャンスを殆ど例外なく提供し ていたのだ。 "A Goodman Is Hard To Findは前者の例であり、 "Good Country Peopleはまさに後者の例に他ならない。この作品について言えば、老人が所有 するこの農場に娘夫婦が帰郷したこともさることながら、彼らがそこで初めての児 を生んだ時点が老人にとって、まさに「見知らぬ人物の侵入」にあたる。正確には この時が分身の孫娘メアリとの出会いではないのだ。テキストでは娘夫婦の帰郷は
「十年前」であり、メアリは現在「九才」である。だから自分の農場で生まれたば かりの赤子メアリが老人の分身として突然出現し、認知されたわけでは当然ない。
もちろん「女の赤ん坊が生まれて一日も経たないのに、間違いなく自分に似ている」
(337)と老人は思い込みはした。しかしこの思い込みには多分に老人の打算が働 いているのだ。すなわち、孫は全部で七人だが、自分の農場で生まれた孫はメアリ を除いて他にいないのだ。従って、老人はメアリをこの農場の後継者に仕立て上げ ようとしたとしても不思議ではない。ある意味で分身メアリの存在は「見知らぬ人 物の侵入」ではなく、望まれ、期待された存在ということができよう。その出現に 当たって謎も超自然性も備わっていないメアリは、フォーチュンがナルシシズムの 殻を補強すべく、思い込みと打算に基づいて都合のいい「身代わり」のように見え ても仕方がない。
Ⅱ
ところがオコーナーがほとんどの作品で用いる分身達は、最初この世に存在する 悪の体現者として、したがって「自己満足」 (complacent)で「信心顔をした」
(sanctimonious)主人公にとっては、全くの他人、あるいは敵対者(antagonist)
「森の挑め」の意味 95
として現れるが、最終的にはお互いが鏡に映った像のように同じであることを教え、
主人公に対して自分の中にある負の面、あるいは無意識の領域に隠している部分の 認知を暴力を辞さずに迫るというのが一つのパターンであった。したがって、最初 からお互いが客観的に「似ている」 「同一である」という例はそもそもないのが特 徴だったのである。つまり、メアリがもしこの作品の中で老人の分身として置かれ ているとするなら、メアリの最終的な役割(part)は老人に対して、自分たちが精 神において潜在的には同一であることを認めさせること以外にない。これは老人は そもそも最初からメアリをもう一人の自分、つまり分身として見ているのであるか ら逆説的に聞こえるが、しかし、事実である。その最大のチャンスが老人が家の前 の畑を売却しようとする時訪れる。
「一つだけ性格的に欠点がある」 (343)けれども、体格、身のこなし、気性の点 で申し分ないくらい自分にそっくりに成長していくメアリを眺めては満足感に浸っ
ていたフォーチュン氏にしてみれば、今回の事件の場合、言ってみれば、ふだん見 なれた鏡の向こうから自分ではない顔、つまりビッツの顔が再びこちらを覗いてい
ることを知って驚くのだ。
̀̀We won't be able to see 'um," she said, "and that's the lawn and my daddy
grazes his calves on it.
At that the old man stood up. "You act more like a Pitts than a Fortune.
家の前の土地を売ることをメアリに初めて告げた時の彼女の顔のかたちはたしか に自分そっくりの顔には違いない。しかし、そこに浮かんでいる表情は、ビッツに 対して自分の支配力を思い知らせるための格好の計画を考え出したという満足感に 満ちた「今の自分の表情」 (342)ではなく、 「彼をして今後不愉快な気分にさせる であろうような暗い表情」 (342)なのだ。今後、発表した計画にたいして反対する
メアリを前にして、フォーチュン氏が彼女の中に全くの他人で敵のビッツを目撃す るのか、それとも隠されてはいるが自分のもうひとつの姿とみなすのか選択を迫ら れるとすれば、まさにこの点にオコーナーが創造した分身メアリの真の存在意義が あると言えるだろう。
メアリが家の前の牧草地(afieldofweeds)を他人に売ることに反対するのは、
もしそこに例えば老人の言うようにgas stationでもできれば、まず第一に、そこ で自分達が遊べなくなること、そして、森を眺められなくなること、そして最後に 父親のビッツがそこで牛達に草を食べさせられなくなることが確実に予測されるか らである、と言う。第一の理由はさて置くとして、第三の理由は老人にメアリがピ
ッツの人間でもあることを思い知らせるに十分であったOしかし、一番彼が理解で きないのは、第二の理由である。これは一見稚拙な説明ではあるが、いずれの側の 物的な利害を越えたものであって、むしろ、これから断行しようとしている行為が 老人に対して重大な影響を及ぼし、精神的な破滅へ通じていることを遥か彼方に見 通しているはずなのだ。しかし、これがはたしてメアリがビッツの利益を代弁して 喋っているのか、それとも「自分達の間に精神的には隔たりはない」と見なしてい たメアリがそう言っているのか、老人にとっては謎はさらに深まるばかりだった。
あくまでも老人に対して土地を売ることに非を唱えるが、 「景色が見えなくなる」
ことの意味を説明する言葉を一切持たないメアリは、老人には理解を越えた正体不 明の勢力としてしか映らないのだ。
大げさに言えば、 「生まれて一日も経たないうちに」フォーチュン老人のナルシ シズムの玩具にされてきたメアリは、計画に反対することによって初めて、本当の 意味で生き始めたのである。純粋な観念の産物であったメアリ・フォーチュンはこ こでビッツという「異物」を取り入れてメアリ・フォーチュン・ビッツ("I'm Mary‑ Fortune ‑‑ Pitts. )として老人に対して実在性を強くアピールしている
ことには間違いない。フォーチュンの娘を母に、ビッツを父に生まれたメアリにと っては本当の姿を取り戻したわけであるが、幻想から現実へと転落したメアリはも はや老人にとって魅力を失ってしまった。彼はメアリをあくまでも都合のいい「身 代わり」 (メアリ・フォーチュン)として存在させ続けるためには、ビッツがやっ たこととちょうど反対のことをせざるを得ないだろう。つまり、メアリ・フォーチ
ュン・ビッツの中から「ビッツ」の要素を暴力を使って叩き出すことである。
しかし、老人が暴力によって自分の存在意義を奪おうとする行為に対しては、
Josephine Hendinが言うように、 「長い眠りから醒めた良心のように」8)フォーチ ュンに殴りかかっていくこともするだろう。またメアリも相手を滅ぼそうとして襲 いかかっていくことも考えられる。まさに、 Asalsが言うような、 「私を認めよ、
さもなくばおまえを滅ぼしてやる」9)という悪魔的なエネルギーをもって彼女は自 分の存在を賭けた闘いを闘うであろう.この烈しさがオコーナー流の分身の実体な のである。 "A Good Man Is Hard To Findのミスフィット、 ̀̀Everything That Rises Must Converge"の黒人の大女、 "Revelationの眼鏡をかけた女子学生、彼 らはいずれも自分達の生存と主張を相手に暴力でもって認知させようとする烈しい 分身達なのである。
もちろんそこに至るまではPrestonM. Browning,Jr.も述べている通り、反対し 続けることによって文字どおり「森の眺め」に注意を喚起し、フォーチュン氏の中 に「認知されないで、閉じ込められている人間性」、すなわち、 「ありふれた松の森
「森の眺め」の意味 97
の中にも自然の栄光と驚異を認めることが出来るような想像力と感受性」、これら がまだ「無意識の深みにかすかながら生き残っていること」10)のシグナルを送り続 けなければならない。この作品では分身のメアリと同様森が重要な役割を果してい る。救いの根本である「自分を知る」ことは、まず自分が生きている世界を知るこ
とでもある。その意味で森はフォーチュンがその中で生きる自然、耕したり売却し たりして働きかける自然の「神格化」 (apotheosis)として、幼いメアリの言葉を 越えた言葉でフォーチュンに語りかけてくるであろう。
Ⅲ
オコーナーの描く自然は人間達にとって観照の場、休息の場であったりする場合 は殆どなく、むしろ判断力を備えた人格であるかのように振舞い人間たちが犯す悪 に対しては積極的に反応を示す場合が多い11) "AGood Man Is Hard To Findに 登場する森は自動車事故を起こして溝の中に転落した一家を取り囲み、監視し、そ
して家族のメンバーが殺されるたびに「満足そうに」 (129)呼吸し、最後には一家 の墓場になるという不気味な、悪意に満ちた森である。逆に、 ̀̀TheDisplacedPer‑
sonでは風景そのものが犯罪が行われる前にいち早く人間達と「手を切ってしま う」 (seemedtoberecedingfromthelittlecircle of noise) (233)こともある。さら に、 ̀̀Greenleafのメイ夫人を襲おうと機会を窺う太陽は何と「銀色のピストルの 弾」 (325)のように見えるのだ。またオコーナーが空を措く時は、そこは太陽も雲 も見あたらないただの虚空であり、人間達に対して全く「無表情」 (indifferent)
(321)を装う場合がほとんどと言ってよい。究極的には人間は"Displaced Per‑
sonのマッキンタイヤ‑夫人のように、まさにその犯す悪によって完全に神から 見捨てられ、まさに宇宙の孤児(a stranger) (235)としての地位に甘んじること を余儀なくされているのだ。
ところで、変転する主人公の境位に合わせて、あるいはそれを増幅しながら、ク ライマックスへとプロットを導き、一旦そこに達すると今までの能動性を棄てて、
静溢な背景へと逆戻りし、前景に展開される人間達の悲劇を逆照射して作品の効果 を高めるといったオコーナー独自の自然描写のパターンを発見したのはVirginia Pyronである12) Pyronによれば、冒頭森は老人とメアリを遠くから監視しながら、
一応「中立的な」 (neutral)な立場をとっているが、老人が土地を売る計画を持ち 出すや、森は「不機嫌」 (sullen)な表情を見せ、空はただの虚空(entirely blank) で、冷たい感じがする。二人がこの問題で対立を続けている間、やはり空模様はど こか「よそよそしい」 (indifferent)な態度を崩さず、太陽は姿を見せもしない。
それでも老人は計画を実行に移し、二人の関係に破局の到来が予測されるようにな ると、空は真っ黒になり、今にも嵐がやって来る前のように、空気はどんよりと動 かない。最後は老人がメアリを打郵しようと決めた場所を松の木々が取り囲むよう にして、 「これから起こることを決して見逃すまいとでも思っているかのようにそ こに集まって来た」 (354)のだ。結局、フォーチュンが孫娘のメアリを殺害したと ころを見届けた後、彼を救いの手の永遠に届かない絶望の底に放置して森はそこか ら去って行くのだ。
Pyronが指摘したのは人間(登場人物)から隔てられ隠された自然のダイナミズ ムであるが、本来人間と自然との関係はそういった関係にはなく、人類の文明史は 人間による自然界の征服の歴史のように見えて、実際はその底流には両者の豊かな 交流、交感の歴史があり、自然の側からの積極的な働きかけを受け入れるチャンネ ルが常に開かれていたことを証明している。ホーソンの森はいつまでも悪魔の住処 ではなく、人間の神性を感知することの出来るエマソン、ソローの森に変わり、文 明の発展のためにその領域が少なくなると、クーパー、そして時代が下ってフォー クナ一連にとって、そこは失われた高貴な人間精神を再度取り戻すための修練の場 へと変貌していったのである。アメリカ文明に並存してきた自然は常に開かれた精 神に対しては宇宙における人間の境位を教え、人間はそれによって神との関係を軌 道修正しながら生きてきたのである。
フォーチュン氏が見るかぎり自然はもはや文明によって開拓され、その証しとし て森は遠景に退いてしまっていて、その存在すら意識されることがない。自己満足 (complacent)で信心顔をした(sanctimonious)文明人としてオコーナーの主人 公達は共通して、はるか彼方に見える森に囲まれた自分の農場を生活の舞台として いるが、この典型的な風景こそが彼らの精神的境位を表すシンボルに他ならない。
しかしながら、既に述べたようにオコーナーの森は遠景に留まってはいず、人間の 悪が行われる時は近くに接近して来て監視し無言の圧力を加え意識の変革を迫るこ
とさえあるのだ。つまりこの森が示すanimisticな運動は、それが人間達が精神の 視野から完全に追放出来ないまま絶えず逆襲の機会を窺っている自然の「化身」
(incarnation)であることを示している。
人間が自然の表す意味にたいして盲目になったとすれば、その病根は文明という 名の人間中心主義、フォーチュン氏の場合は文明という名前をした歪んだ自己中心 主義以外に考えられない。畑を切り刻み、それを文明に売り渡し続けてきたフォー チュン13)が今、この森までも一挙に視野から抹殺するという最後の戦いを自然に 対して挑んだのに対して、メアリの執扮な反対が氏をして再度、冷静に正しいパー
スペクティヴのもとで神の相貌を見つめ直す機会を提供したことになろう。
「森の挑め」の意味 99
Ⅳ
ティルマンと土地の売買契約を取り交わしたことを知ったメアリが一人でさっさ と歩いて家に帰ってしまい、計画に対して断固として反対の意を表わした日の午後、
老人は家の窓から遠くの森を眺めてみる。しかし最初のうちはそこには「ただの森」
(348)しか見えない。メアリが固執するような価値のある景色など何もなくて、「土 地を売ることにした自分の賢さ」 (348)を再確認しただけであった。しかし、三度 目に森を見た時は様子が違う。時間も遅く、太陽が森の向こうに沈みかけていて、
今まで「松の木は松の木にすぎないじゃないか」 (348)と思っていたその松の木が 赤い夕日に染まって、彼は幻想の中で「まるで森の後ろで誰かが怪我をして、木々
が血に浸されているみたい」 (348)に見えたのだ。
上のフォーチュンの幻想は、彼が「しばし喧嘆に満ちた時間の流れの中から連れ 出されたように景色に見入っていた」 (348)結果抱いたもので、 Dorothy Walters が指摘するように、フォーチュンに初めて「宗教的な次元」14)の思考が許された場 面である。とすれば、水平に枝を張る松の木が十字架に似ていること、そしてその 十字架が「血の浸されている」ことを考えあわせると、フォーチュンがそこに、か って自らの血によって人間の罪を磨おうとしたキリストの腰罪のイメージ読み取っ ても不思議ではない。このキリストは今、人間のヒュブリスの象徴である文明の力 によってバラバラに切り刻まれて「処分」されようとしている自然(創造主)に代 わって血を流しているのである。かと言ってもフォーチュン氏にとって文明とは、
極めて狭い世界の歪曲された自己愛の隠れ箕にすぎなかったのだが。しかし、氏の 自己中心のナルシシズムの閉塞した世界のアンチテーゼとして、人間存在の根源に 横たわっているこのキリストの自己犠牲(selトsacrifice)を造物主が自然の背後か
ら提示していることには間違いない。
ゴシック・ロマンスの不気味な森は正しい視野から見れば、そこには頗罪のキリ ストが、そしてその背後から慈愛の造物主が顔を覗かせているのである。これこそ 老人が生まれて初めて眺めた故郷の本当の風景であり、老人にとって風景を知るこ とは自分を知ること、自分の本来の在り方というものを取り戻すことに他ならない。
「自分を取り巻く風景に対して注意を向けたこともない」 (287)し、たとえそのチ ャンスがあっても「何の印象も受けない」 (176)ような多くのオコーナーの人物達 の中にあって、今、森と太陽が織りなすサクラメンタルな光景を時間を忘れて見入 っている氏にはエビファニィの瞬間がそこまで迫っているといってさしつかえな い。
結局は上に述べたようなフォーチュン氏に訪れた幸福な瞬間は戸外でビッツのト
ラックが立てた耳障りなブレーキの音によって壊された。超越的な世界を離れたフ ォーチュン氏には今までと何ら変わりない、ビッツと一緒に生きていかなければな らない醜い現実の世界が横たわっているにすぎない。この現実の世界を変えるには、
文明の発展という名のもとに土地を次々に売り払い、ビッツの生存を不可能にして 自分だけの宇宙を築き上げるという仕事を以前にもまして遂行する以外ない。つま り、計画どうり問題の土地を売ることにし、それと同時に、自分自身の体からも「ビ ッツ」を追い出すことだ。すなわち、計画に反対することでメアリ・フォーチュン
・ビッツとして名乗りを挙げていた自分の分身のメアリの体から「ビッツ」を暴力 を使って叩きだし、再びメアリ・フォーチュンに仕立て上げることしかない。
何故フォーチュンはビッツに我慢がならないのか?何故フォーチュンはメアリに だけしか愛情を注げないのか?こうした伝統的なゴシック・ロマンス風の小説の中 に隠されて悲劇の真の原因になっているのは、現代人の心に共通して内在している 精神の病である。既に述べたように、われわれはそこに、狭い射程でしか愛情を注 ぐことのできないフォーチュン老人のナルシシスティックな閉ざされた世界を発見 する。カポーティにはじまり、マッカラーズ、サリンジャー、そしてオコーナーを 経て、 J.ホークス、 J.パーディに至る系譜を辿り、 「新しいゴシック・ロマンス の主要なテーマは、愛情の問題である」15)と規定したのは、 Irving Malinである。
彼はこれらの作家達が取り挙げたヒーロー達の愛は共通して自己愛の姿をしている と断定している。たとえそれが自分が築き上げた狭い安全な世界を犠牲にしてまで 試みられたものではあっても、本来自分の孤独と不安を解消せんがためのものであ
り、その目的は相手に映った自分の姿を見て安心感と充足感を得んがための自己中 心的なものである。したがって、そのような愛は当然のことながら主人公に深い挫 折感を味わせる結果になるというのだ。そして彼らは孤独な世界から自らを再度救 いだすために、不毛な努力を重ねるグロテスクな人物として生きるべく運命づけら れているのだ。
しかし、オコーナーは上に挙げた作家達と違って、同じ系譜に連なるフォーチュ ン氏に対して独特な方法で救いの可能性を与えようとしている。つまり、それはI.
Malmが言うように、オコーナーは多くの作家に共通の主題であるナルシシズムを
「宗教的な構造の中で」16)考えようとしたからできたのである。この「宗教的な構 造」というものは、オコーナーを小説作家たらしめているもので、改めて言及する までもないが、ゴシック・ロマンスで使用された場合、単に幻想性とサスペンショ ンを醸し出すためのものである分身のデヴァイス、またすでに検討したように、本 来なら不気味な恐怖感を盛り上げるのに欠かせない森、この二つをフォーチュン氏 が人間存在の神秘について開眼するという回心物語を組み立てる重要な柱にしたこ
「森の眺め」の意味
とは特筆すべきことである。
101
注
1. FlanneryO'Connor, The Complete Stories (Farrar, Straus andGireux, 1982), p. 126, 283, 415, 500.以後、
オコーナーの本書からの引用は数字のみを記す。
2.オコーナー本人がdoubleという語を使ったのは、 "EverythingThat Rises MustConverge (C. S., 419) においてである。
3. Frederick Asals, The Imagination of Extremity (The University of Georgia Press, 1982), p. 96.
4.物語デヴァイスの分身がその中で生まれ、発展してきたといわれるゴシック・ロマンスの要素は一見す る限りでは見当たらない。だが純粋な伝統的なゴシック・ロマンスの道具立てはさまざまな変化をこうむ りながら二十世紀の小説のなかにも確実に応用されている。たとえばラドクリフ夫人の小説に代表される ような廃虚と化した「城」は、カポーティ、マッカラーズの小説に頻出する孤立し周囲から閉ざされた「部 屋」に姿を変えて登場する。たしかに「森の眺め」には「部星」は出てこない。しかし、老人の家族の中 での立場はまさに孤立した一つの世界を形成していると言えるだろう。また本来彰蒼として不気味なもの
として描かれた森はオコーナーの作品では遠景に追いやられているように見えるが、主人公の心理、境位 に呼応して自由に移動しパースペグテイヴを変化させる存在として欠かせない。さらに、 ̀̀The Artificial Nigger'の都会の下水道はどの閉塞性、密室性はないが、 「地獄」の穴に匹敵する工事現場の穴があり、
その穴の中では「巨大な黄色い怪物」が不快な音を立てて、土を食ぼり食い、人間が転落するのを待って いる.またフォーチュン老人に近代化という大儀を轟いて牧歌的な環境の破壊を唆す男、テイルマンが「蛇」
に似せて措かれているところから、 John R. Mayのように、この作品をエデン神話に基づいた「現代のア ダムとイヴ」のFALLの物語と位置づけることも可能であろう。もちろんエデン神話に基づいた善と悪の 相克をアレゴリカルに描こうとするのはホーソンを始めとしてメルヴィル、ジェイムズに受け継がれたゴ シック・ロマンスの常套手段でもある。
5. Robert E. Golden and Mary C. Sullivan, Flannery O'Connor and Caroline Gordon: A Reference Guide (G.K.Hall & C0., 1977), p. 5.
6. C. F. Keppler, The Second Self (The University of Arizona Press, 1972), p. 10.
7. Frederick Asals, op. at, p. 116.
8. Josephine Hendin, The World ofFlannery O'Connor (Indiana University Press, 1970), p. 111.
9. Frederick Asals, op. at, p. 117.
10. Preston M. Browning, Jr., FlanneりO'Connor (Southern Illinois University Press, 1974) , p. 114.
ll. Carter Martin, ̀̀'The Meanest Of Them Sparkled': Beauty and Landscape in Flannery O'Connor's Fie‑
tion , Realist of Distances, eds. KarトHeinz Westarp and Jan Nordby Gretlund (Aarhus University Press, 1987), p. 158.
12. Virginia Pyfon, O'Connor's Short Stories , Mississippi Quarterly, Fall, 1983, p. 558.
13.このように自然の「化身」とおばしき森そのものの殺教までも企てた人間は、アメリカ文学の歴史の中
にフォーチュン氏の他に二人いて、それぞれが違った運命を辿っている。一人はメルヴィルが創り出した エイハブ船長で、もう一人はフォークナ‑の「熊」の主人公のアイザック・マッキャスリンである.
前者は不遜にも人間の運命を翻弄する神の恋意力のシンボルである(と考えた)白鯨にたいして、直接 攻撃を仕掛け、そのヒュブリスゆえに悲劇的な敗北を味わわされた。後者は機会文明の攻撃のため後退を 余儀なくされつつあった南部の森の「神格」である巨熊オールド・ベンを殺鼓する過程において人間が失 った高貴な精神を学び、人間的に成長していったが、支払った代償の大きさを後で知る運命にあった。 『自 鯨』全体を覆っている壮大な捕鯨のアクション、 「熊」を貫いている狩猟のドラマの中にあっても、荒野の
「化身」と向かい合った主人公達は必ず哲学者に変貌する瞬間を経験するのだ。同様に、フォーチュン氏 も自然をあらためて観照し、文明の発展が内包している破壊力と人間精神のナルシシズムを前にして自然 が浮かべている表情を識別できる哲学者になろうとした瞬間が上に検討した有名な箇所である。このよう にオコーナーの措く森は、メルヴィルのモウビイ・ディック、フォークナ‑のオールド・ベンと並んで、
創造主が自然を通して人間に示した姿としてアメリカ人の精神史に重要な役割を果たしたということがで きよう。
14. Dorothy Walters, Flannery O'Connor (Twayne Publishers, 1973) , p. 142.
15. Irving Malin, New American Gothic (Southern Illiois University Pres, 1962) , p. 5.
16. Ibid.,p. 33.
(1994年4月28日受理)